清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

新年に際して

新年に際して

 

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 コロナ禍の影響か、あるいは私自身が人生の最終章にあることを自覚してきたことなのか、上記画像の著書を改めて読み始めるところです。親友・南雲定孝氏が「ひと(他人)の幸福より、他人の不幸に敏感であれ」との素晴らしい言葉を、述べていました。何故か、最近この言葉が私の胸に響きます。

 

 半世紀に亘る、ほぼ5年ごとに業務内容も場所も変わってきた、自らの半世紀に亘る仕事人生を、ふと顧みることが多くなったように思います。友人達、その時々に遭遇した上司、先輩、私を支えてくれた海外を含めたスタッフの皆さん。加えて、同業者、銀行の方々、弁護士の皆さんより頂いた暖かい支援、本当に感謝しております。一方、業務遂行のためとは言え、私の言動が多くの人々を傷つけて来たこともあり、時にはふと、夢の中で思いだし、寂しい、悲しい気持ちになります。年を取った証拠でしょうか。そんなこともあり、上記著書を改めて読もうと思ったのでしょう。

 

 森有正は初代文部大臣・森有礼の孫で、牧師の家庭に生まれ、幼いころから旧約・新約聖書を読み込んでいたとのこと。1950年に戦後初のフランス政府給費生として留学し、人生の大半をフランスで過ごします。パリ大学日本館の館長をも務め、パリ大学・国際基督教大学教授でもありました。1976年パリで客死されます。日本の思想界でも極めてユニークな、また哲学者でもありました。

 

 なお、作家の辻邦生もパリ大学で森有正の教えを受けました。その影響でしょうか、辻邦生の「嵯峨野明月記」、「天草の雅歌」の文章(表現)に残映が現れているように、私は思っています。辻邦生の「嵯峨野明月記」に感動し、「天草の雅歌」、「背教者ユリアヌス」、「西行花伝」他、多くの作品を私なりに読み進めて来ました。

 

 方や、遠藤周作も叔母、及び母親の影響で、カトリックの洗礼を受け、少年時代からキリスト教育の中で育ち、1950年、フランスに留学。その作品群にはキリスト教に関わる多くの名作を著わしました。

 

 そのような諸氏の事実と全く関係はありませんが私の母方は代々、カトリックの一族で、私も幼児洗礼を受け、高校一年まで教会・公教要理に通っておりました。その後、ちょっとした経緯があり教会から離れて、現在に到っております。ただ、幼い時からキリスト教に関わっていたことが上記諸氏の作品を読んでいくことには繋がったように思います。

 

 そんなこともあるのでしょうか、森有正、遠藤周作、辻邦生の著作はそれなりにというか、いや、大きな影響を受け、読み通しておりました。未だ冷房があまりなかった時代でしたが、真夏の中、汗を浮かべ、森有正の「遙かなるノートル・ダム」、「バビロンの流れのほとりにて」等々、読んでいたことなど懐かしく思い出します。

 

 上記画像の森有正「生きることと考えること」は1970年に発刊。遠藤周作の「心の夜想曲」はベルリンの壁の崩壊、いわば東欧の崩壊が始まる1989年の発刊です。何故か、急に思いだし、私の本棚から両書を取り出し、改めて読もうと思ったわけです。

 

 加えて、「遠藤周作短編名作選」、「私にとって神とは」は、ここ数年前に再発刊されました。遠藤周作の長編である「沈黙」、「死海のほとり」、「鉄の首枷」、「キリストの誕生」、「イエスの生涯」、「深い河」等の源泉となる短編集とのことですが、興味を覚え、改めて取り寄せました。

 

 過ぎ去っていった当時の私を思い出しながら、私なりの感想など、後日、記したいと思っております。今回は単なる著書の紹介です。

 

 お陰様で弊ブログ「淸宮書房」へのアクセスも昨年は13000ほど頂き、総数は55000半ばになろうとしております。年々、アクセスが増えて行くようで、それなりの意義もあるかなと感じ、もう少し続けようと思っております。

 

  2022年1月9日 

                            淸宮昌章

 

(追補) 

 この原稿を書いている中、昨日、1月8日の夜22時58分、フェイスブックの友人で佐賀県在住の野田良弘氏の、横浜にお住まいのお嬢さんから、野田氏が昨年12月20日に亡くなられ、「生前は大変お世話になったことと思います。ありがとうございます。」とのメッセ-ジが入りました。私は「ただただ驚いております。ここのところ連絡がないので気にはしておりました。私より4歳ほど若い78歳で、これからもお互い元気に、と思っておりました。昨年は野田さん手作りの『佐賀の鼓の胴の松飾り』を贈って頂き、本当に残念です。」と返信しました。折り返し、お嬢さんから「今年の正月用のお飾りをお届け出来なかったことは、心残りだったと思います。」との返信と共にお花に囲まれた素敵な遺影が送られて来ました。

 

 彼との交信は昨年10月25日の22時24分「おやみなさい」とのメッセ-ジが最後でした。また、帝国ホテルでお会いする予定でしたが、このコロナ禍で伸びておりました。残念です。彼は奥様が亡くなられた後は、大学等での講義、家庭菜園を趣味に、有機飼料、無農薬の野菜栽培、旅行他、お一人の悠々自適の日常でした。貴重な友人が先に逝き残念ですが、野田良弘氏は見事な人生を送られたと思っています。

 

 なお、下記画像は一作年に贈られてきた、氏の手作りの見事な松飾りです。松飾りに添えて、『佐賀藩の鼓の松飾』の来歴を詳しく記した、一頁に亘る氏の文面があります。以下、要略しますと、

 

 寛永11年(1638年)の島原の一揆に、隣接した佐賀藩が3万の大群を参加させ、島原の乱の鎮圧に大きな力を与えたものの、軍規違反のかどで藩主鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、佐賀藩の江戸藩邸では正月の飾りも控えめにしていたが、12月の29日、突然その謹慎処分が解かれ、かねてより出入りの荒物屋彦惣に飾り付け用の松等の材料を集めさせるともに、納屋にあった米俵等の藁で、急仕込みの松飾りを飾らせた。以降、これを吉例として佐賀藩江戸屋敷に『鼓の胴の松飾り』が飾られるようになった。明治以降は県庁や市役所に正月は飾るようになり、今日に到っている。なお、江戸時代の佐賀藩の米俵は鼓型であったようです、と記されております。

 

 この『鼓の胴の松飾』及び文面も氏の貴重な形見となりました。

 

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