清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

改めて、自らの後半の半世紀を顧みて  

 


再投稿にあたって

 

 本投稿は4年程前の投稿を、今年7月に補足をしたものです。コロナ禍の影響とは直接関係ないと思うのですが、4年ほど前に始めた弊ブログへのアクセスがここ数年に急増し、62,000台となりました。加えて、本投稿は半世紀に亘る個人的な仕事人生の記録ですが、「はてなブログ」によれば、100件ほどの弊投稿の中、上位注目記事の一番になっております。再々の投稿で恐縮します。

 

   2022年10月20日

改めて、自らの後半の半世紀を顧みて

 

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200525153813j:plain

 はじめに

 その1 

 私の後半人生(仕事人生)において大きな影響を与えた吉田満に関して、平成27年(2015年)以降、5回に亘りますが弊ブログ「淸宮書房」中で、吉田満著「戦艦大和」を巡り、私とその著書との偶然の出会いと共に、吉田満に関連した方々との遭遇の中で、私なりの自己紹介もして参りました。そうした経緯もあるのですが、今回のコロナ禍の影響でしょうか、改めて22歳以降の自らの半世紀を顧み、己の鮮明な記憶を記録として改めて残して置くことにも、意義があるかもしれない、と思い、綴ってみました。

 加えて、一昨年の11月中旬の想わぬ[心カテーテル]の手術。お陰様で数日の入院で済み、12月からは普段どおり、今までの午前中はテニス、午後は読書中心の日常を送っています。この8月で82歳になる現在、人生の最終章にいることを改て自覚しております。これからは新規を求めるのではなく、しっかりと自分を見つめ、毎日をしっかりと歩まければとの思いです。度々の引用ですが、しかも遠藤周作の真意とは異なるかもしれません。遠藤周作が病魔に脅かされながら呟いた次の言葉が浮かんで来ます。  

 六十になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ今のぼくにとって何ひとつ無駄なものはなかったような気がする、とそっと一人で呟くことができる気持ちになった。(心の夜想曲)

 そんなわけで一昨年6月に投稿した「自らの後半の半世紀を顧みて」を再度、見直し、若干の補筆を致しました。ある面では相当変化のあった仕事人生のようにも思います。意義ある人生であったかは分りません。長く、自慢めいた駄文になりますので、御興味とお時間があればの上ですが、改めて一読頂ければ幸いです。

 

 その2

  昭和39年(1964年)、横浜市立大学商学部卒、佐藤豊三郎ゼミで、佐藤先生と出会い、教えを頂いたことが私のその後の人生に大きな財産となっています。佐藤先生はノーベル経済学賞のJ.R.ヒックスに造詣の深い、近代経済理論学者です。J.M.ケインズの「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を訳された名古屋大学・塩野谷九十九教授との交換教授で、横浜市大に見えた教授です。従い、佐藤ゼミの先輩には一橋大学長の宮沢健一教授、一杉哲也横浜市大教授他、学者になられた方々が多いように思います。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200605162448j:plain 
(私の本棚にある卒論)


 尚、私の卒論は「J・ロビンソンの利潤率低下の法則批判に対する一試論」で、J・ロビンソンの「マルクス主義経済学の検討」を中心に、私なりに多くの文献を参考に論じたものです。その卒論ですが、先生が退官される前でしたが、各ゼミ生の卒論をお返し頂きました。驚いたことは、我々ゼミ生が提出した原稿用紙が素晴らしい表紙で製本されておりました。その中身までもが立派なものと勘違いするものでした。私は今でもその卒論を、私の書棚に、私の自費出版「書棚から顧みる昭和」の横に並べております。

 

 そして、同年、ゼミの推薦で岡谷鋼機(株)に入社。丁度、東京オリンピックの開催の年でした。配属は新丸ビル二階の東京支店・経理部財務課で、その前年に米国岡谷鋼機が発足し、それに合わせて新設された部署でした。その部署の上司は代々、米国岡谷鋼機のトレジャラー(財務担当役員)となって米国に赴任して行きました。

 

 尚、岡谷鋼機は鉄鋼会社ではなく鉄鋼一次問屋の総合商社です。現在では日本で最古の商社かもしれません。2020年10月、創業350周年記念(全国笹友懇親会)が名古屋ニューキャッスル・ホテルで行われました。社長以下全役員と全国の元気な卒業生(男女)の275名、関係者を入れると三百数十名。例年は東京、名古屋、大阪の各地でそれぞれ別途開催されます。今回は合同笹友会ですが例年通り、当該年に亡くなられた卒業生への3分間の黙祷の後、盛大な懇親会となりました。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200605175029j:plain

(令和元年度の笹友会)

 

  私の入社二年目の昭和40年代は、中国文化革命、中国の初の水爆実験、東大安田講堂封鎖、全米に亘るベトナム反戦運動、「よど号」事件、三島由紀夫割腹自殺、浅間山荘事件、ドルショック、沖縄県本土復帰、田中首相訪中による日中国交正常化、第一次オイルショック等々、記憶に残る事象・事件があった時代のように思います。

 

1.組合の執行委員時代

 

 そうした中、大学の全共闘騒動の残滓、あるいはその流れでしょうか、商社業界でも次々と労働組合運動が盛んとなる時でもありました。昭和45年でしたか、岡谷鋼機労働組合が発足、同時に全国商社労働組合連合会に加入。方や、数年後、あれよ、あれよという間に私は岡谷鋼機労働組合・本部副書記長に選出。数年下の後輩が組合専従・書記長となりました。私の部門の上司は私が本部執行委員になるのは困った、と思います。その後は、商社業界始まって以来となりますが、労組として23波のストライキを打たざるをえ得なかった、極めて厳しい数年の本部執行委員の時代を私も経験したわけです。僭越な表現となりますが労使とも厳しい時代であったかもしれません。

 

 方や、全商社労働組合として支援していた大手商社・安宅産業が破産した時代でもありました。従業員の親睦団体から、労組になった初代労働組合委員長の中村氏が苦悩していた姿を今でも思い起こします。

 

 その後、私は組合本部執行委員内部での大きな意見の相違も生じ、私は本部執行委員を降りました。その執行委員であった仲間の中には、80数歳になる現在でも「憲法九条を守る会」で熱心な運動を続けられております。二年前の年(2020年)の年賀状では「安倍政治には未来は託せない。・・この一事を訴え続けて参ります。」とのこと。私とは思想というか、考え方は大きく異なりますが、それはそれで、立派なひとつの別な生き方ではないでしょうか。

 私が組合執行委員の身分上の異動協議対象から外れた、丁度一年後の翌日の1978(昭和53)年11月1日、米国岡谷鋼機出向の発令。組合としては左遷との異議を出しようもなく、組合も盛大な送別会をしてくれた場面が鮮明な思い出となっています。又、その年の3月、成田空港反対同盟を支援する極左暴力集団による成田空港管制塔占拠事件が起こり、空港は3月から5月への開港になりました。そうした影響もあり、空港は11月でも厳戒態勢が引かれており、私の家族も見送りは出来ず、私一人で成田空港を発ちました。空港及びまわりの異様な物々しい光景をも思い出します。

 

 私は例外的扱いだったようで、赴任地のニューヨーク本社に直行ではなく、ロス、シカゴ、ヒューストンの各支店を経由し、11月30日雪の降る、独特の臭いの漂うニューヨークにある、本社に赴任致しました。特別扱いの為か、何か微妙な雰囲気を私は抱きました。一年後には家族帯同となりますが38歳の時でした。

  現地の邦銀取引銀行であった協和銀行にも着任の挨拶に伺ったのですが、財務課時代にお世話になった協和銀行の課長が支店長として先に赴任されており、「岡谷さんは古い会社なのですが、大胆なこともするのですね、淸宮さんは赤旗を振っていたのに。」との笑い話でした。

 

2.米国岡谷駐在時代

 

  本社オフィスは例の爆破されたツインタワーの20階でした。私は数年後に5代目のトレジャラーという重責の役職につきましたが、英語もからしきだめ。当然のことですが書類が全て英語、ニューヨークタイムズも相当分厚く、どこを読めばいいのか戸惑いの続く日々をも思い出します。悪戦苦闘の日々の6年間でした。

 尚、先に帰国されましたが、既に本社には岡谷篤一取締相談役が社員として駐在されておりました。米国の大学をも卒業され、英語も堪能で公私に亘り支援・援助を頂いたこと、今でも当時の状況が鮮明に思い出され、恥ずかしい思いと同時に、感謝の気持ちで一杯です。

  又、当時のアメリカでは人種差別(黒人、ユダヤ人、ヒスパニック、オリエント等々)が色濃く残っており、私たち日本人駐在員の住まいの選択、ゴルフ場における経験でも身近にそれを感じたところです。従い、後年になりますがオバマ大統領の誕生は、私の想像の出来ないことでした。そうした人種差別的感情は今後も世紀を超える大きな課題なのかもしれません。現在、アメリカを始めとして人種差別問題が大きな話題というか、騒動になっておりますが、共産主義か、民主民主義か、という主義・制度の問題とは全く別次元の、異なる、大きな難題と考えています。アメリカのみならず人種差別問題は解決の難しい極めて重い課題です。

 

  本論に戻りますが、業務遂行と同時に、種々の場面で感じ取ったことは、アメリカ人スタッフは日本の多くの会社に観らるれ会社に全依存とは異なり、全面的には会社には依存しない、己を持っていること、本物の親切心、勿論、全てのスタッフではありませんが親身になって私に接してくれた経験。加えて、アメリカ人のおおらかさ、柔軟性を体験したことです。

 その一例ですが、本社金庫の中の現金が盗まれました。警察官及び刑事による捜査が始まりました。関わりたくない日本人スタッフとは異なり、アメリカ人スタッフが親身になって私を支えてくれたこと。方や、当時の米国では被保険者と保険会社と直に保険契約を結ぶのではなく、その間にブローカーという存在があります。当時では何故か、現金盗難には保険を掛けていなかったのです。当然のこと、保険金は全くでません。社長より「私が責任を取れ、弁償せよ。」とのこと。窮地に陥った私は、ブローカーの責任者に「仮の話ですが、以前に保険を掛けていた、としたらどうでしょうか。」と持ち掛けました。驚くことに「Good  Idea 」 という回答。契約日を遡った保険契約となり、盗まれた、当方の口頭での申告通りの現金全額が保険会社より出たことです。

  尚、本業のトレジャラーの重要な業務のひとつは与信業務。ダンレポート並びに客先のバランスシートを徹底的に読み込み、与信を決定すること。そうした日本とは異なる諸々の経験が、帰国後の私の業務遂行の上で大きな力をもたらした、と思います。帰国後になりますが、会計処理の不正の解明、それに伴う当該者の処分等、つらい数件の事案・事件にも遭遇しました。そうした諸々の経験が私の60歳代後半になって、企業の再生、再建を懇請された数社の会社経営の上でも、大きな力、というか役立った、と思います。

  加えて、取引先の邦人銀行の支店長の方々、大手会計事務所の会計士の知遇を得たことが、帰国後の仕事遂行上、大きな力になっていきました。又、親しくお付き会いを頂いた各銀行の支店長の皆さんは、帰国後は副頭取、副社長等々になられ、その後も皆さんとお付き合いを頂いたこと。更には新たな数社での仕事になりますが、引き続きお付き合いを頂いたことが大きな力となりました。

 

 余談の自慢めいた話になりますが、当時のアメリカでは約束手形ではなく、小切手が決済の主流でした。日本では手形交換所は一日で決済されますが、アメリカでは東西の時差があるため、手形等決済は2日間を要します。私はそこに眼を付けたわけです。1980年初頭でしたが、ニューヨーク東銀信託の発案ですが、米国岡谷の各地の支店で回収した小切手は各地の取引銀行に預けます。支店は同時に本社の私の部署に通信、同時に本社取引銀行にその旨通信。同銀行はフェデラルバンクのグリーンチェックを当社の本社口座に同日入金、という新たな方式です。

 企業化第一号でした。預金の集中システムで、資金のより有効な活用化、いわゆる「ゼロバランス・システム」と称するものです。尚、これは私の造った造語で、本来の英語では「BALANCE of ZERO」かもしれません。これが全米に流布していきました。その結果、ダンレポートを見れば分かりますが、企業各社の本社に預金が集中し、支社の預金残高は限りなくゼロになっていきました。ある著名な学者はコロンブスの卵だと評しておりました。

 

 駐在6年の1984年(昭和59)春、先々代・岡谷社長が視察を兼ね、米国岡谷に見えられました。そして、内々辞の話として人事総務本部への異動を告げられました。私は驚きと共にある種の不安を覚えました。私の赴任当時は管理職ではなく組合員のため、組合との協議上、出国前の部署に戻るとの決まりがあるわけです。数ヶ月後の発令は経理本部。ロスオリンピックの最中でしたが、日本へ帰国となりました。赴任時と大きく異なり、箱崎ターミナルで会社の皆さんが大勢で出迎えてくれたことに、吃驚すると同時に、時の流れを感じたところです。

 

 私の人事移動の真意は分からず、経理本部では私を、どう扱っていいのか困ったようで、仕事らしい仕事は、ほとんどありませんでした。偶々、決算監査を手伝っている時、伝票上、クレーム処理と記された何か不自然な、少額でしたが経費出金伝票が目に付きました。当時の上司からは、そんな少額の数字に拘るな、米国と違って日本本社の規模は大きいとの上司のお言葉でしたが、私は伝票起票者を呼び質問すると、弁舌爽やかに答えが来るのです。何故、このような少額の経費につき説明が出来るのか、ますます、不思議さを感じるなか、更にC社とY社の振りかえ伝票ミスという言い訳が出てきました。米国から帰国した間もない私は、帳簿の配列はアルファベット順思考の頭が残っており、C行とY行では距離があり、極めて不自然な現象と感じたわけです。調べを続けると膨大な振替伝票(振替え伝票には部長印が不要)等々。私は起票者の上司の課長に彼は「残業を多くしていませんか。」との問いに、「本当に良く残業もしてくれ、頑張っている。」とのこと。やはり、と私が合点しました。このようなことは課員が多くいる昼間では絶対できない事務作業なのです。

 

 私はその調査途中でしたが、帰国半年後に人事総務本部発令となりました。その後、本人は懲戒解雇、当該部署の部課長の降格を含めた人事異動、担当役員の配置換え、という結末となりました。

 

3.人事総務本部時代

 

 そして1985年、プラザ合意、並び男女雇用機会均等法が制定された、ひとつの新たな時代の始まりの年でもあります。均等法の施行に合わせ講習会にも参加し、組合側で団体交渉にいた私が、会社側の団体交渉メンバーに入って行く時代の始まりです。はじめの段階では、私は大きな違和感というか困惑感を否めず、と同時に組合側も怒ったというか、困ったでしょうか。その中で私なりに全力を傾け、当時大きな課題であった労使正常化への7年間を過ごすわけです。当時は商社業界でも、それこそ全共闘時代の残滓でしょうか、激しい団体交渉が行われておりました。人事総務担当役員は激務のためか、何代に亘り身体を壊し、当時の役員も任期途中で病死されました。そして、担当役員の交代、会社としては三度目の取り組みになります。新たな人材を各部署から選出し、人事総務部の陣容を一新。会社組織も事業本部体制から、名古屋本社、東京本社、大阪支店、等々、新たな本・支店制の体制作りを進捗させて行きました。

 

 その本・支店制は定着し、今日に至っております。一方、最大の課題である労使正常化を果たしたわけです。私自身の力不足感は否めませんが、苦闘の貴重な七年間でした。加えて、その時代の上司の力量と胆力、後輩を育成する努力、そうした環境下に居たことが、その後の私の会社人生の上で大きな力と成っていきました。そうしたことも岡谷鋼機が三百五十年も続く、要素のひとつかもしれません。

  尚、会社側も同業商社の人事総務部門との連携を図るべく、大倉商事、東食、湯浅、東京貿易他、9社の会合、「九社会」という部長会を形成しており、私が新たに交代し参画したわけです。尚、「九社会」の仲間であった大倉商事、東食は数年の後、その名を消していきました。そういう1980年代後半の時代でした。

 

 日常の仕事からは少し離れた話になりますが、その時代に私の中の鮮明に残る映像として、親友である住友石炭鉱業の南雲定孝・労務部長の仲立ちで、総評専務理事・松橋茂氏との三人の懇親会が持たれました。その契機から岡谷鋼機の団体交渉の会社側代表の常務、並びに本部長の取締役、及び副本部長と私四人と松橋茂氏の会合が行われ、意見交換の上、労働界の状況、団体交渉の在り方等々、教授頂いたことです。その親友は、双方育ちが東京葛飾区立石で、両者の会社の上司の方々には、財務課時代にも双方、親しくして頂きました。

  懐かしい思い出は、私が経理部財務課時代、私の上司の部長と南雲氏三人と東京駅近辺で飲み明かし、私は結婚し練馬区に住んでおりましたが、南雲氏の葛飾立石の実家に泊まり込んだことです。翌朝、「変な叔父さん」が恐縮しながら二階から降りてきたのに、南雲氏の母上がびっくりしたこと。南雲家の朝食を頂いた後、三人は柴又帝釈天をお参り。丁度、「寅さん」の撮影が行われており、参道は人で一杯。例の「寅や」のお店に入りました。はじめは気が付かなかったのですが、横のテーブルには監督の山田洋二監督他三人の方が雑談されておりました。撮影が始まると同時に、撮影前には気持ちを集中させる為でしょうか、別部屋から寅さんが突如、現れたこと。同時に八千草薫さんの美しさに驚いたこと等々、鮮やかな思い出です。

 

 尚、後段で紹介しますが、平成26年(2014年)3月、親友は私の自費出版「書棚から顧みる昭和」に際し、「出版に添えて」として、心のこもった素晴らしい文章を書いてくれました。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200605174742j:plain

(南雲氏と元仕入先社長・田口氏 於てシーボニアメンズクラブ)

 

4.初代の海外事業部時代

 

 そして、1992年(平成4年)、海外事業部での中国を除く(中国部が別組織としありました)、全ての海外子会社、支店・事務所の統括責任者としての6年間の、これまた貴重な体験が始まるわけです。

 

 鮮明な記憶としては、新たにミャンマー海外駐在事務所の開設となり、私は現地に飛びました。状況調査、営業拠点探し、そして駐在候補者を現地に呼び、スコールの激しい音のホテルで、駐在の重要性を説いたこと。かのスーチー女史は自宅に軟禁中で、その評価は日本とは異なり、現地でのスーチー氏の評価は半々という感じでした。加えて、氏の住宅は近隣の住居とは異なり、広大な敷地の立派な建物です。スーチー氏が軟禁された邸宅の屏の上で演説を始める度に集まる群衆の様子が日本のテレビでも報道され、日本から私達の安否を問い合わせる電信がホテルに入ります。そして、入る度にコピー代用紙費が請求されるのです。当時では紙は貴重品そのものでした。ホテルに隣接されたレストランの各テーブルにテイッシ・ボックスが置かれ、私達にしきりに使えとウィトレスに勧められます。テイッシュ・ボックスがあることはそのお店が高級の証なのでした。加えて、日本の街頭で宣伝用に配られる無料のテイッシュそのものが、現地のお店で積み重ねられ、商品として売られていた情景を思い起こします。又、偶然にも当地で、二ューヨーク駐在にお世話になった協和銀行の副支店長と出会ったこと。協和銀行も支店の開設を目指していたのでした。

  当社は日本で16番目の事務所を開設でした。その5,6年後でしたか、いろいろと、現地でお世話になったテインテイン・ウイン女史のご主人が、軍事政権下で殺された、との悲しいし知らせが入りました。

 加え、アメリカから生じた移転価格税制が各国に広がり、その対応のため、デュッセル現法に飛び、現地税務当局と税額を決定し、フランフルトからニューヨーク、ソウルへ直行。各現地法人を訪れ帰国したこと等々も、懐かしい思い出のひとつです。

 

  また、ひょんな事ですが、その時代に私は在外企業協会に参画しておりました。そのひとつの部門の座長となり、協会主催の講演会が東京護国寺のホテルで開催され、「駐在員としての要件」といった私なりの講演をしました。その後のお開きの会で、立命館大学の方との名刺交換となり、大変好評を頂きました。お世辞と思っておりましたが、後日、その方が会社に現れ、「実は立命館大学が九州に大学を新設するので、来て頂けないか」とのこと。驚きましたが、現在、仕事に力を注いでいるので、と丁重にお断りを致しました。

  一方、私が組合の執行委員時代、大変お世話になったニチメン、トーメン等の名前が消えていく商社再編成時代でもありました

 

5.子会社の時代

 

 続いて、平成9年(1997年)、57歳の時点で、種々の問題を孕んだ国内最大の子会社で、管工機材の一次卸問屋への転出。創業70年を超える創業者一族の経営でしたが傾き、大手仕入れ先の岡谷、積水化学、TOTOが支援に入り、岡谷からは社長及び監査役、他の二社は監査役という陣容でした。子会社の常務としての発令でした。尚、人事総務本部時代に岡谷は他商社に先駆け、55歳及び58歳の早期割増し退職金制度を設けましたが、私は覚悟して岡谷鋼機からの離籍を選び赴任しました。

 

 赴任して驚いたのはその会社の労組の書記長が20数年前と同じだったことです。当該子会社の組合は同盟系ですが関東化学印刷一般の支部で、書記長も驚きました。私は全国商社労働組合連合の組合側来賓として、その組合結成10周年に出席していたのです。当然のこと、書記長は私の着任の意図を感じ取ったはずです。

  加えて、子会社の顧問弁護士は私が組合員の時代、岡谷鋼機の法廷弁護士の宇田川昌敏氏でした。双方、その奇遇に驚くと共に、子会社の合理化推進の時代もその後も大変お世話になりました。氏は高名な和田良一弁護士事務所に所属し、その後、新たに弁護士事務所を開いていたのです。

  和田良一氏は本投稿の冒頭にあげた戦艦大和を著わした吉田満の親友です。既に、ブログ「淸宮書房」で取り上げて来ましたが、その後、故人となられた宇田川弁護士の「お別れの会」で和田弁護士事務所の代表として、ご長男の和田一郎弁護士が挨拶をされました。そして、一郎氏とお話ができ、良一氏と吉田満との、とても微笑ましい新たなこともお聞きできました。

 

  元に戻ります。 先行きの組合との団体交渉等々考え、単身赴任を決めました。私は練馬区在住ですが、葛飾区の立石の隣、奥戸が本社でした。加えて、その立石は私が小学四年生から結婚するまで育った場所で、親友の南雲氏も現在でも住居を構えている、いわば、かって知った私の本拠地であったわけです。岡谷篤一前社長は親友のことは別として、私が葛飾育ちはご存知でした。この立石で、中学1年生の時、生涯の親友の親友・南雲定孝氏と遭遇するわけです。

 

 前岡谷社長より依頼された最初の仕事は長年に亘る不可解な会計処理の解明です。赴任

半年後、岡谷常務会で経緯経過、及びその解明を発表。歴代の関係者の処分に至りました。そして、一年後に専務就任、二年後には前例のないことですが、その子会社の株を

もって欲しい、と前岡谷社長の依頼で、ほんの一部ですが子会社の株を持ち、岡谷出身としての6代目の社長に就任。本社には帰らない本物の社長が来たと、社員をはじめ業界でも評価されていきました。

  遊休土地の売却、三件の大口不良債権の処理、一店舗及び併設倉庫の閉鎖、二店舗の新規開設、そして、最大の課題である3割の人員削減等々、いわゆる合理化の推進と労使安定への取り組みを本格的に開始したわけです。団体交渉も私社長自ら行いました。団体交渉に社長自ら行うことも初めてとのことでした。財務課時代、組合執行委員、そして、海外でのトレジャラーの経験、会社側の団体交渉メンバーにも加わった人事総務本部、等々の経験が大きかったと思います。

  そして、61歳の時点で、岡谷本社との微妙な差を感じ、私は辞任の意向も出しておりました。そのことも少しは関係するでしょうが、翌年の平成13年(2001年)、株主総会当日、任期満了の退任となりました。突然の社長交代人事で、その株主総会は異様なものになりましたが、私としてはホッとした安堵の気持ちでした。その後、管材業界からも多くのお声掛けがありましたが、合理化推進で去らざるを得なかった社員の皆さんのこと、加えて自由になりたいとの私の気持ちが強く、辞退させて頂きました。私の退任後、2年ほど後でしょうか、労組の委員長、書記長も会社を辞め、新天地で活躍されております。ひとつの重責の長に立った方は何処でも通用するのだなと思っております。その後もお二人とは一献を傾け、後に述べる私の出版記念会には。委員長、書記長にも出席頂きました。

 尚、二度と経験の出来ない、楽しい思い出はシドニーオリンピックへ行ったことです。仕入れ先の積水化学が所属のマラソン選手・高橋尚子さんの我々卸業による応援団を結成したのです。私も招待され参加させて頂きました。あの素晴らしいオリンピック・スタジアムの前の方の席に陣取り、Qちゃん帽子を被り、我々同業者仲間が応援したのです。あの優勝ゴールは歓喜、歓喜の瞬間でした。その前日には例のウイニングランをした日の丸国旗に私もサインしておりました。加えて、帰りの空港では田村亮子さんに出会い、私のパスポートにイラスト顔の入ったサインを頂きました。今でもそのパスポートは大事に保管しております。また、帰りの飛行機は柔道選手の皆さんと同じ。体の大きい方はビジネスクラス、田村さん他軽い方はエコノミークラス、私の斜め前は篠原信一選手、前には井上康生選手他の皆さんでした。機内放送で「選手の皆さんが乗られておりますが、皆さんお声等はご遠慮下さい。」とのことでした。現地では柔道は余り放送されておらず、従い選手皆さんの勝敗も分からず、飛行機を降りる際に、ただ「ご苦労様でした」と皆さんにお伝えしたのでした。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200605162603j:plain

(写真 オリンピック 高橋尚子さんQちゃん帽子、 柔らちゃん)

 

6.自由な時代

 

 そして、退任した平成13(2001年)の秋には家内と九州旅行し、改めて自由の我が身を感じました。

 

  その後ですが、拓殖大学海外事業研究所の渡辺利夫教授(後の大学総長)が主催するアジア塾、更には、東欧の専門家・佐瀬昌盛教授で、かって氏の著作「摩擦と革命」に感銘を受けた私は氏が主宰する国際塾入いりました。その数年後、国際塾は大学院となり、残念ながら私は大学院は断念しました。アジア塾は平成18年(2006年)まで、通いました。

 と同時に平成14年(2002年)には練馬区の生涯学習団体の「すばる」に入り、その後、事務局長兼副会長として楽しんでいたわけです。そうした活動から練馬区が授業料の半分を負担してくれる平成18年(2006年)から1年間、武蔵大学特別聴講生となり、講師として来られた、成城大学平井慶太教授(アメリカ宗教史の専門家)の講座「アメリカの歴史と社会」を受講致しました。その中身はアメリカ宗教の歴史で、極めて高度な内容でした。当初は30名近くの受講者は、僭越至極な表現ですが、宗教には関心がないのか、あるいは理解できなくなったのか、次第に消え、最後は私だけとなり、私は恐縮し辞退を申し上げたら、「それは困る。講座がなくなるから。」とのことで、最後までご教授頂きました。 私には極めて興味深い講義でした。修了に際し、種々の参照図書が示され、小論文の提出となりました。先生が上げられた数多くの参考図書を挙げられた中、私はビートたけし「教祖誕生」(新潮文庫)、及び神保タミ子「脱会」(駿河台出版社)をも取り上げ、小論文「現代の日本を省みて・・問われるべきものは何か」を提出。教授より成城大学での受講に来ないかとのお誘いを受けたのですが、頼まれ事が多くなり、残念ながらお断りした次第です。修了後、練馬区教育委員長並びに、武蔵大学学長の連名の、実に立派な装幀をされた修了証書を頂いた次第です。

 

  尚、平成14年(2002年)には東京東京都高齢者研究・福祉興財団のナレッジバンクより声が掛かり協力員として活動には入りました。ナレッジバンクとは、福祉分野の非営利団体を支援する目的で、企業OBや、税理士、会計士などの専門職が「協力員」として登録され、団体に派遣する事業です。私は数社の団体を訪問し、支援する一方、その協力員を募る小さな講演をする事などしておりました。そうした私の活動が平成17年(2005年)10月21日、朝日新聞朝刊の東京版に「団塊はいま」とのタイトルで半面を使い、写真入で紹介されました。掲載は承諾していたものの、驚きと共に、何か恥ずかしい思いをしました。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200605162333j:plain

(写真 朝日新聞)

 

 その中、記憶残る請負契約途中解除事件

 

 そうした自由を楽しんでいた時、私なりに相当な覚悟というか身体を張った事件につき、以下綴ります。 

 

 世間は姉歯秀次一級建築士による耐震強度偽装事件、堀江貴文のライブドア粉飾決算事件、村上フアンド事件等、何か世間が浮ついていた平成17、8年頃の(2005、6年)時代です。神戸の姉より義兄が経営する建設会社が裁判に掛けているので見て欲しいとのこと。神戸の会社に赴き、事件の経緯・内容、加えて、神戸地裁の近くの、当方の弁護士が神戸地裁に提出した訴状等を精査、その施主とも一度面談。そうした一連の中、私は何か腑に落ちないものを感じたのです。弁護士事務所にも何回か伺う中、裁判で訴える相手(施主)がそもそも違う、そして弁護士を変えることを私は決断しました。そして、後日、本件は和解に応じる旨、当該弁護士に伝えました。弁護士は驚きましたが、その後、当方が申し出た金額どおりの和解金9百万円を受けることで和解が成立したのです。

 

 そして、訴える相手は、本件の請負委託契約に介入していた、何やら得体の分からない保険代理店の代表と私は判断しました。彼からは企画料と称して、5000万円を持って行かれている現実です。

 

 新たに弁護士探しを始めようとしていた時、正しく幸運は高校の同級生・黒木茂夫氏が三の宮に本社がある神栄の非常勤監査役として、東京からの出張中での遭遇です。彼は神戸銀行の元秘書役で、その後も、いろいろと要職を経ております。偶々、私がニューヨーク赴任に際しては、先にニューヨークから帰国した彼の三井太陽神戸銀行本店に伺い、現地の体験など話してもらう仲でした。お互いその奇遇に吃驚しました。その後、事件の概要を伝え、神戸で有力な弁護士事務所の土井・北山法律事務所を紹介してもらい、新たな裁判に持ち込んだわけです。

  その代理店代表は慌て、当然のことながら、いろいろ画策を図ってきました。最後は、義兄の事務所にて、当該人と地元三宮のホテル他の経営者で、地元の顔役と評される、ホテル等の経営者(何か山口組の企業舎弟の感じ)との会談持つに至りました。私の経歴、加えて、親友の住友不動産関連会社役員の南雲氏、並びに日経の元論説委員・内田茂男氏(現在は千葉学園理事長、千葉商科大学名誉教授)の名前をも出し、当方は一歩も譲らない、と伝えました。私の迫力に負けたのか、数ヶ月の後、当方の弁護士より企画料の全額返金との、知らせを受けました。全面勝訴です。あの顔役と体を張った会談の、あの緊張感を今でも思い起こします。

 

7.某中堅専門商社の再建・再生

 

 そのような中、私の大きな仕事が始まりました。平成18年(2006年)12月、66歳の時、業歴60年の機械・非鉄を扱う中堅専門商社の再建・再生業務に顧問として入ることになりました。二代目オーナーである友人が公園のベンチで急死した、との知らせです。その友人とは親友・南雲氏が住友石炭の北海道赤平鉱業所での結婚式に際し、若くして亡くなった百貨店の松屋の常務・関口康史氏と三人で赤平にお祝いに駆けつけた仲でもありました。結婚式の前夜は4人枕を並べ、語り合ったことも鮮明に思い出します。と同時に南雲氏の結婚披露宴です。炭鉱住宅に住まわれる炭鉱夫さんの皆さんも多数出席され、ものすごい人数で、皆さんが大変喜ばれていたことも思い出します。南雲氏の人徳でしょう。尚、彼の結婚前、私は札幌に飛び、札幌のグランドホテルで、彼の上司と結婚を決めるか迷う、現奥さんにお会いし、上司と私は彼の奥さんとして了解。そして改めて彼女とパレスホテルで話し合いの中で、彼を褒めすぎたきらいがあること、そして結婚を薦めた経緯もあり、彼の奥さんには一端の責任が私にもあります。お陰様で私達二家族の夫婦は、その後も共に穏やかな日常を過ごしております。

 

 元に戻します。慶応出身の南雲氏他学友達の緊急会合となり、「この会社を任せるのは淸宮しかいない、然も彼は今遊んでいる。」との結論に達しとのことです。私は彼らに呼び出され、否応なしに、その経営を承諾させられた次第です。

  同年、12月15日、帝国ホテルタワーにある本社事務所を訪れ、専業主婦で、形式上は監査役でしたが、急遽、社長になった新社長が、東京在住の専務以下役員を招集し、皆さんと第一回の会合となった次第です。尚、新社長は元女優で、私がニューヨーク駐在時代に、新婚旅行の途上、お二人とプラザホテルで会い、ミュージカル、コーラスラインを案内したこともありました。

 

 約1週間、当該会社の内容、陣容、そして金庫に保管されていた過去5カ年の決算書、並びに税務申告書の決算数値の把握等々に入りました。その内容は仮勘定の「預かり金」他の不思議な推移、そして、貸借対照表・損益計算書並びに税務申告書の添付の別表の中での不可解な動き。これは素人では出来ない極めて巧妙な操作と断定しました。顧問税理士を呼び、実に不安な様相でしたが、その実態というか現実を話し始めたのです。私は愕然とするとともに、これは刑事事件にも繋がるとの一種の恐れでした。私の息子達家族のことも考えましたが、引き受けた以上やるしかないと決めました。私の判断ではその是正には、少なくとも四年を要する由々しい粉飾決算の連続で、加えて実態は大きな債務超過等々でした。よくぞ、取引銀行、データーバンク等々を騙し続けてきた税理士の力量をも逆に知ったのです。悲しいことは、友人は税理士を巻き込んだものの、誰にも、友人にも相談できず苦闘、苦悶の中、散歩中の公園のベンチで倒れたのでしょう。

  そうした現実を踏まえ、私は取り急ぎ、取引銀行全てに挨拶に伺いました。その中には、私の前歴をご存知の銀行もあり、「前社長の後任が経営未経験者の奥さんということで、取引を続けるか、否か迷っていたが、安心しました。」とのお言葉を頂きました。

  方や、私は会社を引き受けた段階で、練馬区の学習団体「すばる」、人材開発機構の協力員、義兄の会社の非常勤顧問等々、全てを辞任した次第です。大学の夜の講座通いも中止し、全力を傾けることにしました。尚、「すばる」の事務局長・副会長の辞任は、詳しいことは説明出来ず、残念ながら批判を受け、円満辞任とはなりませんでした。

  そして、翌年1月19日の役員会議で自己紹介に続き、次のことを皆さんにお伝えした次第です。

 

 主要取引銀行には昨年面談し、安心してもらったこと。(そして、計数については役員の皆さんは疎く、伝えることはせず、方や、)仕入・売先のお客さんの対応は従来通り全て皆さんにお任せする。今、最も肝要なことは役員諸氏が心をひとつにすること、事務・実務に支障をきたさないこと。とりわけ「支払い事務・業務」には絶対に遅れを出さないことに注力すること。北京オリンピック後は政治・経済も大きく変貌することが予想される。当社は前社長に一局集中体制であったが、新たな体制作りが必要なこと。私の役割は社長と役員諸氏の間にあって、皆さんを全力でサポートすること。その為には皆さんから信頼され、受け入れられることが大前提であり、私の言動そのものが問われていること。

 

 こうして私の企業再建・再生の業務が始まったわけです。そのひと月後であったでしょうか、社長を伴い、福岡、山口、広島、大阪の各支店をも訪れ、全社員の皆さんにお会いし、現状をお聞きしたこと。人材の発掘、登用等を始めていく準備に入ったわけです。と同時に、労働基準局からも指摘されていた懸案事項の就業規則の改訂。続いて社長以下、役員、社員の不明確な給与、賞与の是正、登用等人事の刷新を進めていきました。そして、役員並びに社員の懸命な努力と賛同を頂き、再建・再生業務は私も驚くほど順調に進んで行きました。

 

 そうして、最大の難関と考える4年振りの、平成20年(2008年)9月の税務調査を迎えました。

  事前に、例の三人の友人(南雲定孝、内田茂男、並びに太陽ASG有限責任監査法人・公認会計士の本田親彦氏)との会合を持ち、今までの私の取り組みと共に、当社の粉飾決算の内容を説明しました。極めて深刻な状況についての共通認識を持ってもらいました。

 

 特別国税調査官、国際税務専門官他、五名の調査官が入りました。まさに国税本局調査の陣容でした。一週間の調査とのことです。4日目には入り、特別調査官を含め3人と会社の顧問税理士、役員、部長との対応の状況を私は隣の部屋で聞いておりました。最後の段階が来たと判断し、非常勤監査役の立場ではありますが全権委任をとり、調査官皆さんと、私一人で直接交渉に入りました。

 

 特別調査官の第一声は「前年度における売上げの二重計上」の指摘。続いて本題の「税理士の資格剥奪、8億円の損金処理は認められない。」という極めて厳しいものでした。

  私は即座に、「売上の二重計上については、私を含め、社長、専務、当該部長、及び当該人の懲戒処分。当該人は一ヶ月、その他は給与3ヶ月間、一割の減額をする。」と言明。そして本題については以下の通りです。

  私はそれでは会社は即、破綻する。従業員家族を含め百何十名の生活も破綻する。平成16年度から会社は本業に徹し、世の中の経済環境もあるが大きく業績を好転させており、再建途上にあること。そしてその債務超過の解消も視野の中に入ってきたこと。ここで会社を潰せば税務署の算定する税金も徴収できない。なんとか会社を存続させるべく、8億円の損金処理を認めてほしいと強く訴えると共に、私が当社に来てから、役員並びに全社員に訴えた40数頁に亘る諸文書を見せました。そして、突如その書類を持ち帰るとのことで、調査は中断しました。非常に長く感じられましたが、後日、驚くべき調査結果を頂きました。

 

 「再建・再生の可能性を理解し、本調査においては平成20年度だけを調査対象期間とする。平成17,18,19年度は見なかったことにする。ただ、覆ることはないとしても完全な結論ではない。」という極めて政治的な判断でした。加えて、私に「頑張ってほしい」との個人的見解まで頂きました。

  当社の再建・再生への私の行動・気力を評価したとしか思えません。誰も傷つけず、最大の難問を乗り越えたのです。今でも特別調査官の「頑張って欲しい」との時の情景を鮮明に覚えております。

 

  その後、全役員には会社の真実の姿を説明しました。残念ながら、社長以下、役員の皆さんには理解は難しかったとの印象でしたが、その後の役員以下全社員の涙ぐましい努力があり、業績は好調を続けました。方や、専業主婦からの社長では商社の経営は限界であると判断し、支えてくれる友人達三人にも相談の上、社長を会長に、営業を実質的に統括していた生え抜きの専務を社長に、新たな役員の登用、加えて、内部から空席の監査役の選出し、新体制を作り上げました。

 

  尚、其の後の小さな出来事ですが、人権派と称するのでしょうか、著名な弁護士から、「弁護士の事務所に来て欲しい。」との電話が入りました。私は「要件があるなら当方の会社でお会いする。」と応じました。会社にお見えになった要件は、「当社の会長から頼まれているのですが、当社の顧問弁護士になりたい、顧問料は現金で。」とのこと。私は即座にお断りをしたところ、「ではコンサルタン会社を作り、そこへコンサルタント料はどうか。」とのこと。それも当社は必要ない旨、強く答えました。要は弁護士の小遣い稼ぎです。某著名弁護士の普段見せる面とは全く異なる一面をみたのです。方や、その背景には私が会社を乗っ取るのではとの、会長の危惧があったのでしょう。

  そんな事象もあり、私がいなくなった後のことを考え、再び、友人達に相談し、友人の内田茂男氏の親しい大手の卓照綜合法律事務所代表、三光汽船の管財人としても有名ですが、赤井文彌弁護士と新たに顧問契約を結んだ次第です。

  「人は様々、弁護士も様々」、との強烈な印象が残っております。

  そして、会社の再建・再生が達成できるとの私の確信の下、平成23年(2011年)11月を以て、その時点では非常勤顧問になっておりましたが、その職を辞しました。会社は現在も立派に存在しております。その後も会長から頼まれ会社に来てくれとのことで、時折は訪れましたが、72歳の時点で完全に退き、その会社との関与を断ちました。その後も、いろいろと内部では内争いがあったようですが、会社は存続しております。

 

  この企業の再建・再生業務は、私の異なった場所・立場での諸々の経験、いわば仕事の集大成であった、とも考えております。と同時に親友の南雲定孝氏並びに友人達、加えて私のまわりには常に優秀なスタッフが女性を含め、常に支えてくれたことです。更には環境も大きく異なるアメリカを含め各地・各部署でお世話になった皆さんに心より感謝申し上げます。今回、こうした記述をしながら皆さんの姿、情景等が改めて彷彿して参ります。

  そして、10数年と関わったNPO法人「むすび」の監事も辞任し、仕事的なことからは完全に離れ、自由の身となり、新たな自分探しに入った次第です。

 

 尚、余談になりますが、2011年3月11日の東北大震災の時は帝国ホテルタワーにおりました。大きな揺れの中、外のビルの硝子窓が大きく、ゆっくり飛び出したり、引っ込んだりしていたこと、建築中のビルの最上階でクレーンが崩れ落ちることなく、揺れを吸収しながら大きく動いていたこと。加えて、地震になれていない外国客を優先したのでしょう、ホテル館内放送は極めて落ち着いた英語で、次に日本語によるものでした。さすが帝国ホテルと感じ入りました。私はその日は帰れず、翌日の6時頃に帰宅しました。乗った大江戸線・地下鉄の、満員の乗客の、あの異様な沈黙、そんなことも妙に思い出します。

 

8.自由な身の現在

 

 72歳で仕事一線を、ある意味では強引でしたが全て退き、この8月で82歳になります。32歳で始めたゴルフのオフィシャル・ハンデイは7でしたが、時間が掛かる為、72歳で完全に止め、テニスに転向しました。ゴルフバック、フルセット他全てをテニスの若い友人に譲りました。ゴルフ場会員権も処分しました。現在の私は、午前中は自宅から歩いて数分の光ガ丘テニスクラブでのテニス、午後は読書等中心の日々です。毎日が日曜日の、自由気ままな生活を過ごして居ります。

 

その1.自費出版「書棚から顧みる昭和」

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20190829121952j:plain

 10数年前になるでしょうか、大学のゼミの仲間、唐木紀介氏が東京・国立で読書会「書語の会」を立ち上げ、私は後からですが参加し、40数十本を投稿しておりました。そして今から6年ほど前、テニスクラブとは別の場所ですが、テニスの休憩中のベンチで、テニス仲間とその「書語の会」の話となり、私の原稿を見たいとのことで、後日、その原稿の一部をお見せしたのです。もっと見たいとのことで40数篇をお見せしたところ、本にしませんかとのこと。その方は日経BP社の元編集者・井関淸経氏でした。そうした偶然が重なり、氏は「言の栞舎」を立ち上げ、平成24年(2012年)4月、「書棚から顧みる昭和」の自費出版となった次第です。表紙のデザインは奥さんの典子氏で、私がキリスト教徒であることを暗示した十字架をも意味しております。

 

 編集者の言を借りますと、「学者、歴史家、思想家、知識人などの書物を通じて切り取った戦前・戦中・戦後を中心とした『昭和』という時代を、『東京裁判』を基軸として、明治から平成まで連綿と続く一連の史実の流れの中のひとつの『時』として捉えた、著者独自の視点でまとめ上げられています。」とのことです。15章の構成で217頁になります。

  既に記して来た友人達三人が発起人のなり、彼らの会合場所としている、東京内幸町の会員制クラブの「シーボニア メンズクラブ」で出版記念の会を開いてくれました。蛇足ですが、後日、私もシーボニアの会員となりました。

 

 尚、今から10数年前になりますが、既に記して来た中堅商社の再建・再生業務時代、山口から出張の帰りでしたが、岡谷鋼機創業340周年記念の全店記念の宴が名古屋で行われ、岡谷鋼機社長とは10数年振りにお会いしました。それ以降、私は毎年開かれる会社主催のOB会である「笹友会」に出席しております。方や、4年ほど前、そうした折に社長からの依頼もあり、加えて、岡谷鋼機への恩義、愛着、そして自らの資産保全との観点から岡谷鋼機の株を家内名義で、新たに購入しました。その翌年の決算書を見ますと、桁違いの株主の岡谷社長(現在は取締役・相談役)、ご長男の岡谷専務(現在は社長)は別として、勿論、私の個人名表示はありませんが、現役の副社長他役員の皆さんより、私達の株数が多いことを知り、少し驚きました。

 



 本題に戻ります。出版記念には岡谷鋼機社長からは盛大なお花が届くと共に、社長の代理を兼ねて私をよく知る東京在住の常務の出席。親友南雲氏の司会で始まり、来賓のご挨拶は赤井文彌弁護士から始められ、子会社時代の大手仕入先社長の方々、岡谷の常務及び先輩、大学のゼミ・高校時代の友人、私が関わった数社の役員の方々、労働組合の委員長、書記長、私が携わったNPO法人理事長、そしてテニスの仲間他の皆様から祝辞を頂き、恥ずかしくも、嬉しい鮮明な記憶に残る出版記念となりました。皆様に本当に感謝しております。文字どおり、今までの私の人生で巡り会った、かけがえのない大切な方々のお言葉であったのです。

 

 尚、自費出版書は国会図書館に登録するとともに、横浜市立大学図書館、お世話になった拓殖大学海外事情研究所、月刊誌「選択」、加えて、練馬区図書館にお贈りしました。それぞれから丁重な御礼のお手紙、メールを頂きました。200部の印刷でしたが、一瞬でなくなり、今は私の記念として手元に残したい三冊のみです。増刷を考えたのですが、用紙等にお金を掛けすぎたのか一冊5000円かかる、とのこと。そのような事情に疎く1800円の値段をつけてしまったので、増刷は断念しました。当時、アマゾン等では1万数千円の値がついていた時もありました。余談になりますが、今まで度々、本ブログに銀座の隠れ名店「寿司淸」を紹介しましたが、ご主人夫妻の寄る年波で数年前にそのお店は閉店しましたが、閉店の日まで弊著を飾って頂いておりました。今でも感謝しております。

 

その2.ブログ「淸宮書房」の立ち上げ

 

 そのような経緯があり、今から5年ほど前に、ブログ「淸宮書房」を立ち上げました。「本屋」と思われるか方も見えますが、単なるブログです。自分なりに何か残して置くことも意義があるかもしれない、との勝手な想いを綴ったものです。

 「書棚から顧みる昭和」の続きのようなもので、人生の大半を過ごした昭和の時代を、僭越ながら自分なりに再検討し、今を観てみようという試みです。取り寄せた本を通じて私なりの感想に加え、私なりの想いを記しています。退屈な、ブログとしては長い駄文ですが、100件程の投稿になりました

  尚、フェイスブックによれば注目記事の順位がここに来て、私自身も旧投稿を見直し、若干の修正を加え再投稿しておりますが、以下の通りだいぶ変化しております。コロナ禍の影響もあるのでしょうか、お陰様で、ここに来てアクセスが急速に増えて、61,000件台(2022年7月25日時点)になっております。加えて、投稿の度ごとに、意義深いコメントを下さる方、心暖まるメール、励ましのお手紙、お言葉を送って下さる方々に私は勇気付けられております。そのようなこともあり、今後ももう少し続けていこうと思っております。

 昨年12月のことですが、弊ブログ「自らの後半人生を顧みて」を目にされた文芸社より、「これから職業を歩み出そうとする若者に是非とも読んでもらいたいと願う」との有り難い連絡が入りました。続いて、同社より100件ほどの投稿の中から、「戦後日本の在り方・メデイア」に関するものを抽出して出版されたら」とのお話を頂きました。

 そうした経緯の中、文芸社の編集者・今泉ちえ女史により見事に第1章から第7章に纏め上げられたものが、下記の弊著「メデイアの正義とは何か 報道の自由と責任」です。今年の4月に同社より営業出版となりました。加え、この7月に文芸社提携書店への二回目の配送となりました。お陰様で同書は好評のようで、ほっとしております。私としては思いもかけない出来事で、感謝、感謝です。

 

(蛇足) 現在の注目記事の第一位は2016年9月29日の、再度・堀田江理「1941年 決意なき開戦」、第四位は2022年7月5日の、細谷雄一「自主独立とは何か、冷戦開始から講和条約」となっております。

 

 その3。メデイアに翻弄

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20200525153924j:plain

 

 最近、改めて朝日新聞中国総局「紅の党 完全版」を再読している中、その広告のなかに載っていた、朝日新聞出版の「新聞と『昭和』」及び「新聞と戦争」に眼を通しております。朝日新聞がいつからその論調が変わって行ったのか、あるいは全く変わらないのか、その変遷に強い関心もあり、私なりに知りたく思っております。改めて私の感想などを、2020年7月11日「自らの半世紀を顧みて、その後」にて記しました。

 むのたけじ氏が戦後すぐ、朝日新聞を辞め、秋田の横手で家族と共にタブロイド判「たいまつ」を発行し続けたことを私は想い起こすのです。私の学生時代、「たいまつ十六年」に感動し、氏の「雪と足と」、「踏まれ石の返事」など読み進めたのでした。その後も次々と氏の著作を読んで行きました。吉田満、山本七平と並び、むのたけじ は私の後半人生の上で大きな影響を与えた方です。

 

さいごに

  又々、非常に長い駄文を連ねて参り申しわけありません。何の足しにもならない他人の自分史など意味がないことは重々承知の上なのですが、我慢してお読みになられた方々には本当に申し訳ない気持ちです。と同時に改めて厚く感謝申し上げます。

 加えて、お時間とご興味があればの上ですが、ブログ、「淸宮書房」も覗いて頂ければ幸いです。

   https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/

 

 2022月7月25日

 

                             淸宮昌章