清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

池内了著「ふだん着の寺田寅彦」を読んで

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池内了著「ふだん着の寺田寅彦」を読んで

 

はじめに

 宇宙物理学者であり、また寺田寅彦の研究家でもある池内了氏が、改めて寺田寅彦を極めて興味深く、思わず笑ってしまうように巧みに筆を進めながら、本書(2020年5月20日発刊)を展開していきます。ご存知のように、寺田寅彦は物理学者で東京帝国大学教授、帝国学士院恩賜賞の受賞者であると共に、吉村冬彦としての随筆家でもあります。加えて、寺田寅彦は夏目漱石が熊本第五高等学校に赴任した時の最初の生徒で、その才能を見込まれ俳句についても指導を受け、漱石の門下生の中でも漱石の自宅に自由に出入りできるようになる俳人でもあります。そうした文理融合の先駆者・寺田寅彦が今まであまり紹介されなかった実像(?)を紹介していきます。正に「ふだん着の寺田寅彦」が本書で展開されております。

 

 尚、寺田寅彦が1878年生まれ、1935年没。に対し夏目漱石は1867年生まれ、1916年に没です。両者ともに育った時代は男性優位社会の家長制にどっぷり浸かっていた。「そのような時代においては、男は強くあらねばならず、腕力を使ってでも自分の思い通りする(させる)ことが普通であった。(本書70頁) 

 

 寅彦の師匠であった夏目漱石が鏡子夫人他家族に度々暴力を振るったように、寅彦も同様で、家族はびくびくしていたようです。尚、寅彦は軍人の父のもと、三人続けて女の子の後、生まれた待望の男の子で,いわゆる「箱入り息子」として大事にされたことは、漱石と大きく異なることでもあります。

 

 また,その後の寅彦の家族構成は、寅彦の母亀、寅彦夫婦(三番目の妻紳子)、最初の病死した夏子の娘の長女貞子、二番目の病死した妻寛子との間に設けた長男東一,次男正二,二女弥生、三女雪子、そしてお手伝いの女性が複数という大家族でした。それも漱石とは大きく異なることです。関東大震災時のことですが、麹町の家が無事であったことに加え、次のように記し、その家庭が裕福であったことが伺えます。

 

 棟梁が車一杯の米・さつま芋・大根・醤油・砂糖などを運び込んで込んでくれた。「台所に一車もの食料品を持ち込むのは不愉快な気持ちがする。」と寅彦がなんだか申しわけない気分を著者が記しています。そのような背景を踏まえて本書を読み進めることも必要かもしれません。

 

本書の構成

 

 著者は本書の「あとがき」において、1936年と1950年に発売された寅彦全集の『月報』を一冊に集めた本を入手して、寅彦に関するさまざまな人の思い出話を読む機会があった。生前の寅彦と深い付き合いがあった人たちの筆だから、どの逸話も秘話あり、独断あり、細かい観察ありで生き生きとして面白く、それこそ「ふだん着の寅彦」の姿が浮かぶような文章ばかりである。(280頁)、と記しております。本書の構成は、はじめに、そして第一章から、第八章、あとがですが、私が特に興味深く思った箇所、あるいは印象に残った箇所のみを以下記して参ります。本書の全体を紹介するものではありません。

 

第一章「甘い物とコーヒー好きの寅彦」

 

 終生、甘い物から逃れることができず、次男正二の友人・長谷川千秋氏による「先生が餅菓子を食べるところは、なかなか奇妙で、せわしく動く先生の口元を眺めていて、よく頓珍漢の返事をした。つい口の動きに見とれて、滑稽に見えたのだろう。これはきっと総入れ歯の具合が悪かったのだろう。」等々記しています。その徹底した甘党、加えてコーヒー中毒の症状でないかと自ら自己診断するほどのコーヒー好きには少々驚かされます。

 

第二章「タバコを止めない寅彦」

 

 父が愛煙家であったこともあるが、十二歳からタバコを吸い始め、病死する三日前まで病床でタバコを吸っていたこと。加え、革製のタバコ入れ、真鍮のキセル、桐の木をくりぬいた印籠形にした胴乱を両親から買ってもらい、いつも携行して喫煙していたこと。成人してからは、あらゆるタイプのライターを沢山集め、場面、場面に応じ、そのライターを使いわけしていたこと。寅彦は甘い物やタバコのように自分の好むものに対してはこらえ性がなく、欲望に突き動かされる傾向があるのだ、と記しています。

 

第三章「癇癪持ちの寅彦」

 

 漱石の門弟で、友人の小宮豊隆が「寺田さんは、この負けじ魂と癇癪とを、自分の学問の中に導入して、専ら学者としての自分の生活に、驚くべき緊張を与えていたようである。」と引用し、寅彦の学問研究の原動力は負けじ魂と癇癪であったのではないか、と著者は記しております。

 

 

第四章「心配性の寅彦」、第五章「厄年の寅彦」、第六章「医者嫌いの寅彦、業病の由来」

 

 寅彦の家族への異常とも言える心配性と愛情が描かれ、その間の学問への情熱と吉村冬彦としての随筆活動他、人の追随を許さぬ活躍が記述されていきます。

 

 本投稿の冒頭に寅彦家族の構成に触れました。付け加えますと、1897年、寅彦20歳の時、1989年に最初の妻15歳の夏子と結婚。1902年に夏子病死。1905年に二番目の妻寛子と結婚、1917年、妻寛子病死。翌年8月に三番目の妻紳子と結婚するまで寅彦自身も病気を抱え、家族たちも病気がちの中、5人子供たちを育てているわけです。是非各章をお読み下さい。僭越至極で恐縮しますが、寅彦の実像が浮かび上がる著者の筆の運びです。

 

第七章「日記に見る戦争と関東大震災」

 

 寅彦が生きた時代は日清戦争(1984年)、日露戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914年)が勃発し、満州事変(1931年)に始まるアジア・太平洋戦争が幕開けし、日本の軍国主義が着々と進められた時代です。寅彦は軍拡競争に巻き込まれて、次々と軍備を拡張していくことの愚を説いていますが、軍備を整えることを全く意味がないと、明確には言っているわけではありません。「心配性は国の事や社会の事にも及んでいたでしょうが、政治家が煽り、世論が沸騰しても、それらには流されず、家では冷静に社会や戦争の事を話していたのである。

 

 方や、寅彦の生き方に対して甚大な影響を与え、自然災害にどう立ち向かうかを真剣に考える契機となった関東大震災については次のよう記されております。

 

 大震災の起きた翌日、1923年の9月二日には、大学の惨状を見てから神田・お茶の水・竹橋。小石川などの惨状を観察し、途中で巡査が来て、朝鮮人の放火者が徘徊するから用心しろと言って注意して廻る。井戸に毒を投入するとか、爆弾を投げるとか、さまざまな浮説がはやっていて人心が落ち着かない。(中略)・・ここに「浮説」と書いているように、寅彦は最初から朝鮮人が犯罪を企てているとの根拠のない流言・風説を信じていなかったのである。

 

 続いて9月17日に今村教授らと焼け跡の視察に出かけ、次のように記しております。

 

 「吉原に入り、池中惨死の跡を実見す。泥土中の衣服に交じりて頭髪の束に残れるもの最も酸鼻の感あり。焼却せる遺骨を木箱数個に満たせるものを仮の祠にいれ蝋燭や香水を供えたり」と。吉原の捨て置かれた死者(多分女郎たちだろう)を弔ったことを記し、

 

 「秋空に秋の雲浮かび、夕陽雲間より白光を放射せり、美しき空の下に焦土茫漠として連なる、遙かにオ-シスの如き観音の森を望む」。文学味溢れる言葉で死者の魂が安らかになることを祈っております。(237頁)僭越至極ですが著者による見事な寅彦の紹介です。

 

第八章「書簡に読む社会批判」

 

 寅彦にとっては手紙を書くことには何の気後れもなく、すらすらと思う社会批判も筆に載せていたとのことです。改めて関東大震災のこと、加えて蔑視的観点もありますが中国・朝鮮問題を紹介します。友人の小宮豊隆宛てのなかで、関東大震災のことを下記紹介します。

 

 世間で寅彦が言ったとされる「天災は忘れたころにやってくる」と言う名言は、実は寅彦の著作のどこにも書かれていないとのことですが、「地震の災害も一年とたたないうちに、大抵の人間はもう忘れてしまって、この高価なレッスンは 何もならない事になる事は殆ど見えすいて居ると僕は考えて居ます。・・(略)今後何十年か何百年の後に、すっかりもう人が忘れた頃に大地震が来て、又同じような事を繰り返すに違いないと思っています」と、人間の忘れやすさ、その結果同じ失敗を繰り返す愚かさ縷々語っている。続き、「今度の地震の原因についていろいろと考え調べて居ると、実に関東地方は恐ろしい処だという事がリアライズされてくる。僕にいわせると、コンナ処に帝都をおくのが根本的に間違っているとも云われる」と記しています。「コンナ処」とわざわざとカタカナで書いて、首都として不適切な場所であることを強調しており、焦りにも近い寅彦の気持ちが察せられると、著者は記しています。

 

 そして、現在の朝鮮半島国家、並びに、現在の中華大国の復権と称し、一体一路をという世界制覇を図る共産党独裁政権の現在の中国を想定していたとは思えないのですが、中国・朝鮮問題について当時日本が植民地化した京城帝国大学教授で、漱石門下生の安倍能成宛ての書簡に次のような事が記されております。長くなりますが、以下紹介致します

 

 その手紙では、まず。H・G・ウェルスの「世界戦争」において、火星から地球に攻め込んで来た怪物たちが地球を征服していくうちに、怪物たちが地球上の色々な黴菌に対する免疫性を欠いていたために、やがて皆死んでしまうという内容を紹介します。そして、「実際、志那人はどこか黴菌のような処がある。・・(中略)そして日本は朝鮮を手に入れると同時に朝鮮菌を背負込んで苦しんで居るのだから、万々一日本が支那のポピュレーションの多数を隷属させたが最後、日本は滅亡する事、請合いだという気がする。」つまり、黴菌に対する免疫がないために中国の植民地化には成功しないのではないかと心配する。中国を植民地化して多数の人間を抱え込んでは「日本は滅亡する事、請合いだという気がするのである。」(271頁)、と言うのは蓋し慧眼であろう。日本の中国侵略の危うさを予見している。当時中国や朝鮮への蔑視が背景にあることは確かだが、他国を自由にすることはそもそも無理だと思っていたのではないか、と著者は記しています。

 

おわりにあたり

 

 今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が特に興味深く思った箇所のみの感想などです。謹厳実直で文理融合の偉大な先駆者の寅彦がその当時、何を思い、感じていたのか、その多様性を識る上でも、是非、お読み頂けければと思っています。

 

 ひるがえって、現在の朝鮮半島国家の日本への強烈な反日・怨念の感情。日韓関係の改善は世紀を超えても難しい問題で、安易な妥協はしてはならない、と私は考えております。

 

 並びに、歴史的事実かどうか私は疑問を持って居ますが、中華大国への復権を掲げ「一帯一路」を突き進む中国共産党独裁、否、習近平独裁政権は日本にとっても、世界中の国民にとっても極めて危険な世界制覇であり、そのことは決して世界の人々に幸いをもたらすなどはあり得ない、と私は考えております。それは現在の中国一部の特権階級の人々は別として、一般の中国国民にも言えるのではないでしょうか。むしろ、その政策が進展すればするほど、中国の一部の恵まれた人々はその資産を外国に移し、更には他国への移住。恵まれない人々は他国への脱出が増えていくと考えます。加えて、中国以外に現在住んでいる中国の人々が中国への帰国等が始まることは極めて少ないのではないでしょうか。

 

 そのような状況の中、現在のコロナウィールスが発生、私は人為的要因ではと思っておりますが、コロナ・ウィールスによるパンデミックが発生したのです。中国共産党独裁政権は東京オリンピックに向けて、IOC等に対しても活発なコロナワクチン等の活動も活発に始めましたが、私は強い違和感と危険性を抱いております。共産党・習近平独裁政権の極めて危険な兆候のひとつの具体的な事例ではないでしょうか。

 

 東京オリンピック開催も復興のひとつでしたが、状況が急変しました。日本の、日本経済の再建に梶を切り替えるべきと考えます。と共にアメリカ、豪州、インドに加え、英国、カナダ、ニュージランド他、価値観を共にする各国との連帯を更に強めることが必至と考えます。如何でしょうか。

 

 2021年3月13日

                           淸宮昌章

参考図書

 

 池内了「ふだん着の寺田寅彦」(平凡社)

 十川信介「夏目漱石」(岩波新書)

 他