清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

松永美穂著「誤解でございます」(清流出版)を読んで  

松永美穂著「誤解でございます」(清流出版)を読んで

 

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はじめに

 

 宇宙物理学者であり、寺田寅彦の研究者でもある池内了氏の「ふだん着の寺田寅彦」他を読み始めています。「天災は忘れたころにやってくる」との名言は寺田寅彦の著作のどこにも書かれていないそうですが、昨今各地で頻繁に起こる地震の中、私は想像もできなかった文理融合の先進的な、別の寺田寅彦。加えて、朝鮮半島国家と中国への極めて興味深い思い記述も描かれております。読み込んでから、私なりの感想などを記そうと思っております。

 

 そのような現状でしたが、私の自宅から歩いて数分にある練馬区高松「光ガ丘テニスクラブ」の仲間で、友人の斎藤昌義氏より、私が難しい本ばかり読んでいると思われた為でしょうか、掲題の松永美穂著「誤解でございます」を読んでみたら、と紹介されました。新刊書ではなく2010年7月26日出版、初エッセイとのことですが、まずその題名「誤解でございます」に惹かれ、読み進めました。尚、松永氏も「光ガ丘テニスクラブ」のメンバーで、私は一、二度、氏とテニスのお手合わせを頂いたことがあります。氏が早稲田大学文学学術院教授で、専攻はドイツ語圏の現代文学とのことは存じ上げておりましたが、私は文学の素養がなく、ドイツ文学についても全く知らないのが現実で、一度も氏の著作を読んだことはありませんでした。

 

 尚、「誤解でございます」の題名は、氏の研究室が東京都文京区の、遠くに後楽園の大観覧車が見える地上9階にあったとのこと。そのビルのエレベーターが五階に止まる度に、「五階でございます」と女性のアナウンスがある。松永氏は「お客様。それは誤解ございます」とエレベーターが必死で言い訳しているような気がし、同僚にその「誤解」の話をしたところ。その同僚は「心配そうにわたしの顔を見つめ、それは病気です。翻訳者がかかる病気です。」との話。実にウイットに富んだ心温まる題名で、本書はエッセイというより松永教授の半世紀に亘る日々のできごと、心温まる方々との出会い、思いで等が綴られており、思わず笑みが浮かんで参ります。これこそ、ドイツ圏諸国の近代文学の専門家の、「普段着の教授・松永美穂」を映し出しているのではないでしょうか。

 

 本書の構成は「十年パスポート」、「元気な修道女」等を記した・さんぽみち、「無計画な大学院生」「子連れ・おばあちゃん連れ留学」他のⅡ・日々のこと、「愛しい人」他を語る・ほんだな、そしてあとがき からなっています。

 

 オリンピック組織委員会・前森会長の発言を巡り、我国は女性蔑視のものすごい気風が定着しているかの如き、執ようなメデイアの森氏への個人攻撃報道に、私は異常さ、と同時に自己規制のなくなったメデイア。それに翻弄される国民と政権。更には民主主義制度と言われる、その在り方にも危険性を感じています。戦前、戦中、戦後と何ら反省のない、変わらないメデイアの現実を私は今までも何度と苦言というか、その危険性を記して参りました。そんな実に不愉快な私の心境ですが、私は本書を読み進め、何かほっと心安まる、暖まる心境になります。一読されることお勧め致します。きっと幸せになります。

 

 以下は著者の意図からは外れますが、私にも少し関係があるような、且つ印象深く、また愉快に私が感じた、いくつか点を以下に記して参ります。

 

その1 テニスのこと

 

 氏がテニスを語る「師匠は大学生」の項目には思わずなるほどと感心しました。氏は大学時代、突然、体育会系の6人制の女子バレ-ボール部に入部。人数合わせという重要な使命もあり、4年生の秋のリーグ戦まで大会にフル出場。良かったことは広島から東京に一人で上京した中、バレー部は貴重な居場所で、良き友人とので会い。多少の体力と根性もついたことが記されております。加えて幸運なこととして、後の配偶者となる監督(?)との遭遇です。

 

 中年と呼ばれる年代に医師から定期的な運動を勧められ、これも突然テニスを始め、師匠はドイツ語を選択する男子学生(N君)で、今でも時々指導してもらっているとのこと。尚、バレーもテニスもネットを挟んで相手と対戦する競技だが、バレーのネットは身長で不利。バレーの現役時代ではブロックで得点を挙げたのは生涯一度きり。テニスはネットが低いのが嬉しい。加えて、バレーボールは六人で役割分担ができており、セッターでエースアタッカーでもない場合はボールに触る機会が比較的少ない。方や、テニスは広いコートを一人もしくは二人で守ること。加えて一回で返球する。従い自分の一打が防御でもあり攻撃でもある。またテニスの方が自分の参加度が高く、イニシアティブが発揮できる。それにテニスは性格がもろにプレーに反映する。加えて、テニスの良いところは年齢や性別の差を超えていろいろな人と一緒にできること。生涯スポーツとして、諦めずがんばりたい、等々実に面白い愉快な見解等が記されております。N君との出会いも松永氏が優れた教師の証左でもあるのでしょう。

 

 方や、私は62歳で週一のテニス・スクールには入り、テニスを始めました。勿論、運動部に所属したこともありません。そして72歳で一線を全て退いた時点で、32歳から始めたゴルフも完全に止め、テニスに転向。その時点ではオフシャルハンデイは7でした。地元の「光ガ丘テニスクラブ」に入り本格的にテニスを始めて10年になります。午前中はテニス、午後は読書等の日々という気まま生活を送っております。未だ現役の友人もおり、何か申しわけない気持ちもあります。あと数ヶ月で81歳。テニスも進歩はしていませんが、松永氏のお考えに何か勇気を頂き、改めてテニスも頑張っていこうと気持ちを新たにしました。

 

その2 子連れ・おばあちゃん連れ留学

 

 横浜のフエリス女学院に務めた二年後の1990年、ドイツ留学の機会、(31歳までがドイツ学術交流会の奨学生募集)を目にしに、お子さん(小学校3,1年生の姉妹)、そして松永氏のお母さんと4人で日本人学校があるドイツ・ハンブルグに留学となったとのこと。尚、ご本人とお子さんはビザが取れたものの、お母さんは氏の留学中、ベビーシッターとの身分・資格としては滞在ビザが取れず、観光ビザで過ごしたとのこと。それら事態も面白いことですが、住まいは大家さんが、たまたま一年間、イタリアに行くとのことで、留学中の住居は庭のある一戸建て。一階が松永さん家族、二階には独身男性、三階のロフトには留学先のゼミ生と独身男性、地下には洗濯室と物置。その物置の一部には近所の男性の仕事部屋。加えて、その家の家具や台所の食器、本棚には大家さんの本、今では珍しいLPレコード、ステレオも自由に使って良いとのこと。その一戸建での皆さんとの共同生活。私が不思議に思うほど松永氏のおおらかさと運にも巡られているようです。方や、1989年にベルリンの壁が崩壊、謂わば東欧の崩壊後の時期に重なり、極めて興味深い時期であったはずです。貴重なご経験ではないでしょうか。

 

 尚、お子さんは大きくなり、アジア、アフリカに出かけるようにもなり、ボランテイアのワークキャンプに参加し、現地の人が持ってきたヤギの死体をさばいて食べたりする、おおらかな成人になられたようです。

 

その3 周辺にたたずむ人々 他

 

 氏は「ほんだな」の最後の方で、カフカについて以下のように記しています。何か私には印象深く、ご紹介します。

 

 人間には、自分のいるところが世界の中心だと思える人と、自分は世界の周辺にいて、決して中心にはたどり着けないと思う人がいるかもしれない。カフカは明らかに周辺に固執した人物だった。中村文則の主人公たちも、周辺にたたずむ人々である。彼らは周辺から光を放つ。それを一度目にしたら、容易に忘れることのできない、静かで鋭い光である。(201頁)

 

 加えて、「エリザベート 美しき后妃の肖像画」に関して、塚本哲也の名前が出て参ります。本題とは関係ありませんが、塚本哲也氏が病身の身で、片手で打ち上げた「我が家の昭和平成史・・がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏」を5年ほど前に自費出版されました。東欧の崩壊という時代の大きなうねりをも記したその著書に感動し、弊ブログに、塚本哲也著「我が家の昭和平成史」を

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/08/26/113329投稿し、紹介しました。何かの縁を感じたところです。

 

蛇足

 

 本書の内容とは関係はないのですが、松永氏は1985年に施行された男女雇用機会均等法に二度、本書で触れられております。私はその前年の1984年にニューヨーク駐在から帰国し、今までの職歴からは大きく異なる人事総務本部の企画担当に移動した年が1985年でした。その時代に均等法が施行され、企業として、どう対応すべきか、ということが課題となり、私なりに苦慮したことです。

 

 その当時は商社では男性の総合職と女性の事務職の二種類で、採用、給与制度といった人事制度をどう変革していくかが一つの課題でした。只、当時は鉄鋼をはじめとした産業資材の商社では女性の商社マンではお客さんが受け入れてくれず、総合職の女性の出現は極めて難しい課題でした。同時に組合との団体交渉を含め労務問題に取り組んだ極めて貴重な7年間の人事総務本部での貴重な体験と人脈は、その後、私がいくつかの企業等の再生・再建といった新たな仕事に取り組んだ際、大きな礎となりました。そのことは弊ブログに5年ほど前に投稿した「再び、自らの半世紀を顧みて」

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2020/06/15/170317に記しています。

 

 加えて、その男女雇用機会均等法で想い起こすのは、男性社員の配偶者に支給していた家族手当を、共産党の弁護士の支援を受けた女性社員が、他社の社員の配偶者・世帯主から当該女性社員を世帯主に変更し、次々と家族手当を獲得していったことです。

 

  2021年2月22日

                          淸宮昌章