清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

十川信介著「夏目漱石他他を読んでみて

十川信介著「夏目漱石」他を読んでみて

 再再再投稿にあたって

  佐伯啓思著「西田幾多郎・・無私の精神と日本人」並びに小林敏明「夏目漱石と西田幾多郞・・共鳴する明治の精神」を読んでみて、と題した3年前の投稿に、現コロナ禍にあって私の心境をも加え、2020年12月5日に再投稿しました。

 続いて、2021年3月14日、夏目漱石の門下生でもある、文理双方に卓越した寺田寅彦の晩年をも記した、池内了著「ふだん着の寺田寅彦を読んでみて」を投稿しました。

 方や、友人、知人がそれ相応に歳を重ねて来たのか、今年は逝去はがきが例年になく多く、加えて昨年、2020年11月に私自身が思わぬ入院(心カテーテルの手術で3日間)の経験をしました。現在も午前中はテニス、午後は読書等中心の日々で、健康だけが自慢ですが、7ヶ月後には82歳になります。謂わば人生の最終期にあるのだな、と改めて気づかされたところです。

 今回の下記の再投稿も、80歳を迎えた近現代の日本政治学の泰斗である三谷太一郞著「日本の近代とは何であったか」、並びに同年(1936年)生まれの近代日本文学を専攻される十川信介著「夏目漱石」について、私なりに共感したことなどを綴ったものです。

  前回の投稿が漱石と西田幾多郞の共通項を記したに対し、今回は人生の最終期における、三谷太一郎氏を含めたそれぞれの方々の心境などを記されたものになっております。漱石と正岡子規との交流、加えて、晩年における漱石の家族への思い等々を振返り、改めて今回の再投稿となりました。

  尚、十川信介氏は本書の「あとがき」で、本書が『漱石没後百年記念』の一遇に何とか滑り込めたのは新書編集部の皆さん、校正者の方々に感謝されております。

 

  2022年1月30日

                         清宮昌章

 

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はじめに

 

  私の書棚に「三木清全集19巻」、並びに「夏目漱石全集17巻」及び「月報が」鎮座しております。夏目漱石全集の第一巻・我が輩は猫である、は昭和40年12月9日発刊、そして19巻・索引 は昭和51年4月9日の発刊です。毎年の発刊を楽しみにしておりました。そして歳をとったら全巻を一気に読もうとしていたのですが、いまだに取り組めないまま今日に至っております。そこに昨年11月、「漱石没後百年記念」の一環として、近代日本文学を専攻される十川氏による掲題の本書が出版されました。私にとって、何か幸運が訪れたような気持ちになったわけです。加えて、三谷太一郎著「日本の近代はなんであったのか」が2017 年3月に出版されました。

 

序章 三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」

 

 三谷太一郞氏についは「清宮書房」でも一昨年に、「学問は現実にいかに関わるか」、「人は時代にいかに向き合うか」を取り上げました。続いて昨年暮れには、「戦後民主主義をどう生きるか」を「高坂正尭と戦後日本」の対比で、私なりに述べてきました。三谷太一郎氏はご承知のように日本政治史における泰斗です。奇しくも十川信介氏と同年の1936年生まれです。 

 

   三谷氏は上記の本書「あとがき」に、次のように記されております。

 

 昨年人生80年を超えた私にとって、その50年を超える部分は、学問人生であります。必ずしも短いとはいえない学問人生をふりかえって、その間に達成した私の事業はあまりにも貧しく、誇るに足るようなものではありません。むしろ私にとっては、私の人生80年の方が、たとえ凡庸な人生であったにせよ、私が達成した最大事業であったという思いが強いのです。・・(中略)私は学問の発展のためには、学際的なコミュニケーションの他に、プロとアマのとの交流がきわめて重要だと思います。そのためにも、「総論」(general theory)が不可欠であり、それへの貢献が「老年期の学問」の目的の一つではないかと思います。(267~269頁)

 

 そして、英国近代について、まさに総論的考察を試みたウオルター・バジョットの「自然学と政治学」を本書の導入部に参考にしたと、記しております。加えて、三谷氏ご自身の大病後の回復期に、夏目漱石が1910年、修善寺で大患からの回復期について書いた「思い出す事など」を読んだなかで、感銘というか感慨を吐露されております。更に加え、当時の漱石が衰弱しているなか、仰向けに寝て、両方の肘を布団に支えながら、ウイリアム・ジェームスの最後の大著「多元的宇宙」を読み通して、次のように記しています。

 

 文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的な事実を土台として、類推で哲学の領域に切り込んで行く所を面白く読み了つた。・・・自分の平生文学上に抱いてゐる意見と、教授の哲学に就いて主張する所の考えとが親しい気脈を通じて彼此相寄る様な心持ちがしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がす様な勢いで駆け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのかは此時である。(270,271頁)

 

 全くの門外漢の私で、誠に僭越になるのですが、三谷太一郞氏の表現された「凡庸の人生・・・」、そして氏が夏目漱石の上記引用をされたことに私は感銘を受けた次第です。私が、この2017年8月で喜寿を迎えたことも感銘・共感を覚える要因のひとつかもしれません。

 

本題 十川信介「夏目漱石」

 

 著者はその「あとがき」で、以下のように述べています。

 

 漱石・夏目金之助の生涯は、大部分が明治時代に属するが、その始まりは慶応、終わりは大正である。とくに出生期が短期間とはいえ、江戸時代だったことは、小谷野敦が言うように、考慮する価値があろう。明治も十年代までは。「文学」も漢詩文・和歌俳句が優勢だったからでる。彼は少年期には漢詩文を好み、晩年に至るまでそれを捨てなかった。いわば彼の精神には、文明開化による西洋的論理性の下に、すでに「江戸的」な感性が宿っていたことになる。・・(中略)青年期の初めには、「個人」思想が輸入され、拡がった。養家と実家の間で宙ぶらりんだった塩原金之助は、帰属すべき場所を持たない「一人」と成り、「個人」として生きざるを得なかった。だがその意識が強すぎた彼は、結婚後、自分の家族もまた、それぞれ「個人」だという意識を持つには時間を要した。(299頁)

 

 更に、著者は漱石を厳密に言えば、江戸っ子というより出生地は牛込の馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)であり、生後すぐに江戸は東京になるのだから「東京人」と考えるのがふさわしい、としています。いずれにもせよ谷崎潤一郎がのちに述べるように、漱石は江戸っ子人の類型をもっていたのでしょう。世渡りが拙いことは別として、正直、潔癖、お世辞嫌い。しかし学校では秀才、大学教師としても小説家としても成功し、知人からは頼まれたことは可能なかぎり引き受け、感謝された。もちろん彼はそんな評判を無視し、いつも与えられた現在の職務に忠実であった。だが彼はそれに満足できず、突然の様に変心し、職を変えることがあった。彼の心の中には、つねに現状に満足できない強い欲求が潜んでいたようだ。そんな夏目漱石の生涯と生活ぶりを著者は辿り、漱石の作品と現実の人物との関連を見事に織り込みながら記述されていきます。

 

 方や、私は十川信介氏の著書を借りながら、漱石の作品に漱石の育った環境、並びに出会った友人達との遭遇がどのような影響を及ぼしたのか。加えて漱石の一連の作品を私なりに時系列的に整理、そして、ひとつの私の記憶として残しておこうと思ったわけです。著者の本書の意図もしくは内容とはだいぶ離れたものです。毎回のことですが著者の文章を引用させて頂きながら、私なりに記しております。従い本書を知るためには、その帯書に「漱石の生涯を描く決定版評伝」と、書かれておりますが、私もなるほどと僭越ながら思ったところです。本書をお読みになることをお薦め致します。

 

 尚、本書は第一章「不安な育ち」、そして最終章の第十五章「晩年の漱石とその周辺」から成り立っております。以下、私なりに綴って参ります。

 

1.出生と、めまぐるしい教育過程

 

 金之助が生まれたのは、牛込馬場下近辺十一ヶ町の町方名主の父が50歳の時で、病死した先妻の間に姉二人が既におり、実母の間には6人の子供が生まれており、金之助は末っ子の五男であった。実母の乳の出が悪く、早々に里子に出された。姉が里子先の古道具屋の店先に、籠に入れられている彼を見て、可哀想だと引き取った話はよく知られている、とのことです。そして夏目家と親しかった塩原昌之助、やす夫婦の養子にだされます。後に塩原は別な女性の所に行き、やすと金之助の二人の生活が続き、結果的には塩原夫婦は離婚をします。そして金之助22歳の第一高等本科の時、前年に長兄、次兄が結核で相次いで亡くなったこともあり夏目籍に戻ります。養父、実父との間に夏目籍に戻る際、金銭的な問題も生じた、とのことです。

 

 塩原養家の時代、夏目家から、明治7年の暮れから9年5月までに下等小学校四級を終え、市ヶ谷学校三級に転校、10年12月には下等小学校一級を卒業。続いて11年4月に8級を卒業。そして同年10月には神田の錦華学校小学校尋常科第二級を卒業します。明治のこの時代は学制がめまぐるしく変わり、小学校は上等、下等に分れ半年が一期でそれぞれ8級から1級まであった。飛び級があったとはいえ、家族的愛情を受けなかった金之助が優秀な頭脳を持ち、如何に勉強に打ち込んだ証左でもあります。そうした家庭環境も漱石の作品に表われていきます。小学校を卒業した後、東京府第一中学の正則科乙に入学。そして2年あまりで突然退学し、二松学舎に転校し漢学を学ぶこととなります。そして中学卒業の資格のない彼は神田駿河台の私立成立学舎に入り、首尾よく大学予備門(第一高等中学)に合格します。成立学舎以来の生涯の親友、後の満鉄総裁中村是公、並びに23歳の時、高等中学本科にて、正岡子規と出会うことになります。「漱石」の雅号も子規の多数持っていた「雅号」をもらい受けたわけです。

 

2. 子規との交友

 

 金之助は自分の内心まで報ずるほど、子規を信頼していたからなのですが、著者は二人の間に三つの対立点を挙げます。一つは文章の本質、第二は森鴎外の初期作品についての評価、第三は「明治豪傑ものがたり」に関する季節論。文章の本質について私は興味深く思い、以下ご紹介致します。

 

 漱石が「文章の妙は胸中の思想を飾り気なく」直述する点にあり、思想もなく「只文字のみを弄する輩」はもちろん、「思想あるも徒に章句の末に拘泥して」いては、読者を感動させることはできない。「文字の美章句の法」は末の末であり、ideaを中心にしなければならない、と説き、「御前」のように書きまくっていてはイデアを養おう暇もないだろう、少しは「手習い」を休んで読書に励んではどうか、と忠告したのに始まる。子規はRhetoricの語によってこれを攻撃したらしい。彼はそのレトリックによってアイデアが現れると考えたのであろう。(21,22頁)

 

 そうした交友の中、24歳の漱石は帝国大学文科大学英文科、子規は国文科に入学します。その後、漱石は文部省貸費生となりますが、できるだけ実家に依存せず早稲田に出講し、自活の道を選びます。尚、大学二年の時、突如、分家して北海道平民となります。軍隊嫌いのこともあるようですが、彼が永眠する大正三年まで北海道を本籍とします。身内と反りが合わず、孤独な彼は戸籍の上だけでも「個人」として生きたかったのではなかろうか。そうしたことは作品「道草」の中でも見られると、著者は記しています。

 

 27歳の大学院卒業後、東京高等師範学校(高師)を勤めますが、それを辞任する前年に初期結核になり、病気を気に病む28歳の漱石は夏休みに鎌倉の円覚寺・帰源院での座禅することになります。管長の釈宗演から与えられた公案は「父母の未生以前本来の面目」でした。その公案は後々まで漱石の心に根付き、晩年の「則天去私」に繫がっていきます。尚、釈宗演とは漱石の葬儀に導師となる巡り会わせです。

 

 そして、29歳漱石は子規の故郷、愛媛松山中学の英語教師として赴任。そこで日清戦争従軍記者として従軍していた子規が帰国し、漱石はその療養中の子規を迎え、同居。漱石の下宿先の一階が子規の俳句のたまり場となり、漱石も句会に参加するわけです。その後、病み上がりの子規は帰郷しますが、その当時の子規の句が周知の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」です。続いて、30歳の漱石は熊本第五高等学校赴任。そして中根重一の長女鏡子と結婚。そのときの子規の結婚祝いの句が「秦々たる桃の若葉や君娶る」。尚、五高で教えた最初の学生は寺田寅彦です。そこに五高に奉職中、文部省より英国の留学指令を受け、34歳の漱石はロンドンに旅立ます。その時の子規の送別の句です。

 

 萩`すゝき来年あはむさりながら 

 

 漱石の二年間のロンドン留学中、子規が死去します。そしてロンドンでシェイクスピア学者で変人でもあるクレイグの個人指導を1年近く受けながら、下宿を度々変えます。漱石の孤独の生活が始まるわけです。著者はそのときの漱石の心境を次のように記しております。

 

 クレイグは学殖豊かな一流の学者である。だが彼は、日本人がどのように英文学に向かうべきかを教えてくれなかった。漱石の悩みは、細かな字句の使用法よりも、日本人の自分が異国の文字とどう対するべきかにあった。この年の十月、彼は金銭的事情もあったが、正面からこの難問に対するべく、クレイグの教えを断ることに決めた。(72頁)

 

 このロンドン留学中、味の素を発明した池田菊苗、さらには土井晩翠とも数ヶ月ですが同じ下宿先での交流があったのです。この頃に文部省から、かの有名な電報「夏目、精神に異常あり、藤代同道帰国せしむべし」は誰によるものか、その原因かは不明のようですが、夏目がそれに近い状態の神経衰弱であったことは事実です。

 

3. 帰国後の漱石、そして東京帝大での授業

 

 英国から帰国した37歳の漱石は一高及び東京帝大文科大学に就任します。大学で週六時間、一高で三十時間を担当。尚、大学での講義は小泉八雲(ラフカデイオ。ハーン)の後任の形で、後の二人は7歳下の上田敏とイギリス人宣教師アーサー・ロイドです。尚、一高の学生の中に最年少の学生で、華厳の滝に投身自殺をした藤村操がいます。予習をしてこない藤村を漱石は叱ります。その後、遺書の「巌頭の感 万有の真相は唯一言にて悉す。曰く不可解・・大いなる悲観は大なる楽観に一致する」を知ります。漱石の考えと一致しており、自分の叱責が原因ではないと、漱石は安堵を覚えたようだ、と著者は記しています。後に、漱石は新体詩「水底の感」を藤村操女子の名で作ります。

 

 尚、鏡子婦人との間に長女筆子、次女恒子、三女栄子、四女愛子、五女雛子(幼児で急死)長男純一、次男伸六が生まれますが、その結婚生活は鏡子の自殺未遂、別居、義父宛てに離縁状の差し出し等々、波乱に富んだものでした。漱石の精神状態は最悪の時もあり、彼の心は幻覚・幻聴に支配され、その全ての原因は鏡子にあるように思われていたらしい。その「狂態」は鏡子の回想に詳しい、とのことです。その中で「我が輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」等々を発表しながら、文学志望の弟子達の集まりである木曜会を始めます。その木曜会には寺田寅彦、野村伝四、森田草平等々が集い、気の置けない連中との息抜きの時間でもあった。そして晩年になるほど彼は癇癪を起こさなくなり、和辻哲朗他も入門、特に芥川龍之介、久米正雄らには優しかった、とのことです。

 

 漱石は41歳で帝大を辞し、朝日新聞の小説記者と転身して、「虞美人草」、続いて「抗夫」、「三四郎」、「それから」への連載が続きます。加えて、朝日文芸欄を創設します。主な執筆者は漱石、安倍能成、森田草平、阿部次郎、小宮豊隆の他知人、教え子で漱石45歳でまで続きますが廃止となります。

 

 方や、連載は44歳の「門」、そして胃潰瘍を煩い退院後、療養先の修善寺菊屋旅館で一時危篤状態に陥ります。そのときの状況等を記した連載が三谷太一郎氏の挙げた「思い出す事など」です。その後「彼岸過迄」、「行人」、「心 先生の遺書」そして「硝子窓の中」と続き、「明暗」になります。「明暗」の連載は1884回を以て、50歳の漱石の死去で中絶します。尚、45歳の時、文学博士号辞退の事件が起こります。そのときの正面切っての辞退の漱石の言葉が以下の文面です。

 

 小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りました。是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのです。

 

4. 死の床の漱石ほか

 

 大正5年、漱石最後の年、新年の迎えた感想を「点頭禄」を表わします。著者は次のように記しています。

 

 「振り返ると過去が丸で夢のやうに見える」。彼は数え五十歳になった。人生わずか五十年と考えられた時代である。過去は「一つの仮象にすぎない」とも思われるし、現在のさまざまな思いは、「刹那の現在からすぐ過去に流れ込む」のだから、同様に現在は瞬間に未来を生み出すものでもある。しかし、それを認識するのは「我」であり、「我」がすべての現象を「認識しつつ絶えず過去へ繰り越してゐる」と思えば「過去は夢所ではない」。明らかに一刻一刻の「我を照らしつつある探照燈のやうなものである」と彼は考える。生きることに対するこの「二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して」、この「一体二様の見解を抱いて」、自分の全生活を「大正五年の潮流に任せる覚悟」で、眼前に展開する月日に対して「自己の天分の有り丈を尽くそうと思ふ」。これが念頭に当たっての彼の所感である。彼はこれまでも全力で生きてきたが、この表明には、どこか最後の灯を掻き立てるような決意が表われている。(264頁)

 

 そして、その年の11月22日、胃潰瘍が再発し、漱石の希望で松山中学時代の教え子の真鍋嘉一郎が主治医となり、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆らが交代で夜番、修善寺で頼んだ老練な看護婦も介護に着ます。12月9日、そして中村是公、高浜虚子他友人、妻子、門人に見守られ、漱石は「有難う」の言葉を残し旅立ちます。「彼の強情だが真実を貫く気持ちが周囲に理解されていたからだろう。」と著者が記しています。葬儀は12日、青山斎場で行われ、導師は例の円覚寺の管長・釈宗演です。戒名は文献院古道漱石居士、墓は雑司ヶ谷の墓地。著者は本書の最後に以下のように記しております。

 

 「生死を透脱する」ことが彼の願いであり、「死が僕の勝利だ・・・死は僕にとりて一番目出度い、生の時に起こった、あらゆる幸福な事件よりも目出度い」と大正三年秋ごろから、彼は弟子たちに語ったとう。生は苦痛に満ちているのに死の世界にはそれがないからである。死は万人に訪れるものであって、それを回避することはできない。だがその関を超えれば、肉体は消滅してもその意志は残り、万人に働きかける。それが漱石の到達した最後の結論だった。

 

 臨終間際に娘たちが涙を流したとき、父漱石はやさしく、もう泣いてもいいんだよと言ったそうだ。彼はしばしば子供たちにも怒りをぶつけ、泣くなと怒る人物だった。筆子は父の不合理な怒りに泣くと、そのことでまた泣くなと叱られていた。死に際しては彼は本来の持ち前を表に出し、優しい本性を示すことができたのである。(294頁)

 

 2017年8月19日

                           清宮昌章

 

参考文献

 

  十川信介「夏目漱石」(岩波新書)

  三谷太一郎「日本の近代とは何であったか」(岩波新書)

  池内了「ふだん着の寺田寅彦」(平凡社)

    小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎」(岩波新書)

  夏目房之介「漱石の孫」(実業之日本社)「

  佐伯啓思「西田幾多郞」(新潮新書)

  他

   

追補

 

 本投稿の再投稿にあたって、にも記しました清宮書房には三回に亘り夏目漱石を取り上げてきました。私の年齢からもくるのでしょうか、十川信介著「夏目漱石」は、改めて漱石を識る上で、とても参考になりました。私にとっては文学は何か縁遠い、という感じですが漱石を読み始めの経緯は、親友の南雲定孝氏が漱石に造詣が深く、その影響が極めて大きいと、考えております。

 

 方や、彼によれば、私の精神構造の上で、私の幼少期からのキリスト教の影響が大きいと言っております。代々のカトリック教徒の家に育ち、高校二年までは、神父様も私がその道に進と思っていたようです。何故か急にその道に進むことを辞めた想いを、時に私も思い出します。本所カトリック教会が主催する共同墓地参りに、結婚前でしたが、母親と家内と三人で参加し、その途上、神学校に寄ることになりました。その神学校で、神父さんの卵である案内人は、かっての教会の公教要理を学んだ仲間でした。私は最後まで顔を上げられず、そっと神学校を後にしました。私が「幸せを求めた」ことに何か心痛さを覚えたのです。そんなことなども、思い出します。やはりこうした現象も人生の最終章に着た、ためでしょうか。

 

 その南雲氏から人生最後は哲学に戻るのだろうと、哲学者の井筒俊彦著「意識と本質・・東洋哲学の共時的構造化のために」を紹介され、買い求めました。時間を掛け読んでみるつもりです。

    2021年4月14日

                        清宮昌章