清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うこと

加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うこと

 

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再投稿

 

 今から20年前の9月11日、4機の旅客機がハイジャックされ、二機はニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに突っ込み爆破。一機は国防省本庁舎の西側正面に突入、残りの一機は乗客と乗員が他の航空機の突入を知り、ハイジャック犯に立ち向かい、ペンシルバニアの草原に墜落。

 そして、現在、米国はアフガンから撤退。大きな歴史の転換点なのでしょうか。

 尚、私は、あの爆破されたワンワールド・トレードセンターの20階のオフィスに、1,978年から1,984年の6年間、ほぼ毎日通っていました。24人の亡くなられた日本人の中には元富士銀行の知人もおります。尚、同ビルでお世話になった徳丸医師は、事件の時間には、偶々、ミッドタウンにおり、無事との報道に接しました。

 

 今でも、ここ練馬の居間の壁に飾られたエッジングは、クウィーンズから見たブルックリン・ブリッジを描いたものです。その背景にはマンハッタン島のツインタワーが見えます。私はそのエッジングを大切にしております。そんなことも想い起こしますが、下記投稿がここに来て再び96の投稿の中、何故か、再び注目記事の1位に復活してきました。今の日本の憂うべき現状の為なのでしょうか。

 2021年10月25日

                       淸宮昌章

 

再投稿にあたって(202144日)

 

 本原稿は昨年3月に投稿したものですが、このコロナ禍の自粛生活にあって、改めて読み返しました。日本のみならず世界に蔓延したコロナ禍は、今となっては、今年7月の東京オリンピックまでに収束するとは到底考えられません。むしろ拡大の可能性が強いのはないでしょうか。当初、東北大震災の復興を掲げた東京オリンピックの開催は、現在ではだいぶ様相が変わったのではないでしょうか。残念ですが、開催は中止し、これ以上のコロナ禍の蔓延を防止し、経済復興に全勢力を注ぐべきと考えます。オリンピック開催の中止は経済的損失も大ですが、その決断は現在では日本政府の政治判断しかない、との思いです。現実に起きたことは、想定外の菅総理の交代。世論という形成が如何に危ういかを私は改めて感じたところです。

 尚、私は今回のウィールスの発祥要因は人為的な可能性が高いと思っています。先月に投稿した「淸宮書房を顧みて」でも付言しましたが、「多くの国は、WHOの方針を参考に対策を行う。WHOのパンデミック宣言他の遅れは、各国の対策の遅れに繋がった。例外は台湾である。中国の圧力でWHOに参加できない故に、台湾はWHOも中国も信用せず、SARSの経験もあるが、独自の判断で驚くほどのスピードで対応し、感染拡大を防いだ。」(黒木登志夫著「新型コロナの科学」(中公新書)から引用。

 

 先ずもって肝要なことは価値観の大きく異なる、共産党独裁政権中国のコロナ禍においても異常な進出です。東アジアの日本の置かれた現実、現状を識り、この日本の平和ボケから脱出することが先決と考えます。経済的な甚大な影響はあるとしても、価値観を共有する諸国との連携を強めることです。1989年の天安門事件に際し、欧米諸国に先駆け、中国との窓口を再開した、日本のあの二の舞は決してしてはならない、と考えます。

 

 尚、佐伯啓思氏は日本国憲法に付き、次のように述べています。

 

 他国の憲法は近代憲法として不完全であるものの、その不完全性のゆえんは、国家の存立を前提とし、国家の存立を憲法の前提条件としているからだ。・・ただひとり日本国憲法だけが、近代憲法の原則を律儀に表現したために、国家の存立を前提としない、ということになった。平和主義の絶対性とはそういう意味である。

 厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさを持った日本国憲法の平和主義は、自らの国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。(佐伯啓思著『「脱」戦後のすすめ』(中公新書ラクレ 221頁)

  私はその通りと思いますが、如何思われますか。御一読をお勧めします。

 

 一時話題の人物になってしまった加藤陽子氏著「天皇と軍隊の近代史」をコロナ自粛生活の中で、改めて読み返しました。本書の冒頭で、

 

 過去の痛苦を「忘れないこと」や、戦争の前兆に「気づくこと」だけが、戦争を考えるときにそれほど万能な処方箋なのか。・・過去を忘れないことや前兆に気づくことだけでは、戦争の本質を摑まえることは難しい。と記されております。加え、その著書の最後に、映画監督・伊丹万作が死の半年ほど前に書いたエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、以下のことが紹介されております。

 

 重病に冒され、死を前にした伊丹は、「だまされていた」という人々を見ると暗澹たる気持ちになるという。なぜなら、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(本書355頁)

 

 改めて歴史とは何かを問う素晴らしい著作です。.蛇足ですが、私の東京大空襲経験も触れております。弊ブログを、改めて一覧頂ければ幸いです。

 

                             淸宮昌章

 


はじめに 

 

 人生の大半を生きた昭和の時代を自分なりに再検討し、僭越ながら今を観ようとしている私にとり、本書はとても参考になりました。加藤氏の著書に今までも数冊、目を通して参りましたが、疑問に思っていた宣戦布告無き日中戦争、敗戦時の日本軍武装解除等についても、今回の本書を読むことにより改めて明らかにして頂きました。

 

 著者は数々の印象に残る文章を本書の随所に記しています。歴史への研究視点・観点については次のように述べられております。

 

 東大経済学部の小野塚智二教授の教養課程の学生に向けた文章として、「経済学の目的を市場の諸現象と、それに関連する人の行動や意図とを合理的に証明すること。人間にとっての幸福は人によりさまざまですが、幸福を実現する条件には多くの人に共通する部分があるため、その条件を科学的に解明することこそがアダム・スミス以来の経済学の究極の目的だというのです。」

 

 方や、歴史学については1940年、羽仁五郎が多くの若者が出征してゆく戦時にあって、特権的な徴集猶予の特典を享受していた大学生が何故学問に励まなければならないかを説く「歴史及び歴史科学」という文章で、以下のように紹介しております。

 

 わが国現在のいわゆる官公私立の各大学の在学生約五万は、全人口約一億について、約二千人中の一人であり、全国二十歳前後の青年約一千万について、実に二百人中の一人である。・・(中略)徴集を猶予されている大学生こそ学問に励まなければならないと述べた羽仁は、政治権力や道徳の制約、宗教的権力の制約の中で著わされてきた過去の歴史学上の業績を挙げつつ、「歴史とは、根本において批判である」と喝破しています。(本書62頁)

 

 なお、私の読書方は「はしがき」から始まり、続いて「あとがき」を読むという、加藤陽子氏が指摘される、いわゆる「あとがき愛読党」です。氏のその指摘に私は思わず苦笑致しました。本書はそうした読者をも踏まえた構成になっております。加えて、各章の扉に置いたリード文にそれぞれの「問い」を明らかにしており読み進め易くしております。逆に言えば本書はそれだけ高度な、難易度が高い諸論文の証拠なのでしょうか。本書を読み進めるには、それ相応な基礎知識が必要と、私は感じました。

 

 本書は「はしがき」から始まりますが、続いて、総論・・天皇と軍隊から考える近代史、において本書の概要を示した後、第1章・戦争の記憶と国家の位置づけ、から第8章・「戦場」と「焼け跡」のあいだ、そして、「あとがき」、という400頁に及ぶ、いわば論文集です。

 今回も本書の全体を紹介するのではありませんが、私が改めて教えられたこと、あるいは特に印象深く感じ入った「第4章・1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか」、及び、「第7章・日本軍の武装解除についての一考察」を中心に紹介していきたいと思っています。

 

 本書の「はしがき」において、1930年代を次のように記しております。

 

 イギリスからアメリカに国際秩序形成のヘゲモニーが移ってゆくこの時期、安全保障という点では、アメリカ中立法という外枠が設定され、経済発展という点では、やはりアメリカの互恵通商法という「坂の上の雲」が日本の目の前に現れる。このような時代にあって、安全と経済という二つの領域で政治的発言力を強めていった軍部、特に陸軍を分析対象として選んだ。・・(中略)だが、その裏面の、著者の研究を支えていた問題意識は別のところにあった。過去の痛苦を「忘れないこと」や、戦争の前兆に「気づくこと」だけが、戦争を考えるときにそれほど万能な処方箋なのか、との淡い疑念が著者には早くからあった。過去を忘れないことや前兆に気づくことによってだけでは、戦争の本質を摑まえるは難しいのではないかとの思いがかねてからあったのだ。(本書ⅰ~ⅲ頁)

 

天皇制と徴兵制の発端

 

 続いて、著者は天皇制、並びに公民からなる徴兵制軍隊を天皇に直隷させる経緯を次のように述べています。

 

 今回、過去の幾つかの論文をまとめつつ、天皇と軍隊という、強力な磁場を持つ二つの言葉をタイトルに含む日本近代史の本を刊行するにあたって、長い序章にあたる総論を書いたのには理由がある。・・(中略)譲位による天皇の代替わりが、近代にあって初めてとなった事象が今年の春起きたことを目にし、近代の天皇の特徴とはなんだろうと改めて考えをめぐらせるようになったからである。

 

 それは端的にいえば、軍隊の天皇親卒との理念を根幹とするものだった。・・(中略)天皇と軍隊の特別な関係が創出されていった背景には、明治ゼロ年代における士族反乱状況に対処するため、幾つかの政治主体間に争われた軍事力再編構想の競合があった。1873年の征韓論争の肝は、朝鮮側の非を問う動きとは別に、裏面で鹿児島の西郷隆盛、高知の板垣退助、佐賀の江藤新平による鹿児島、佐賀、高知の三県の士族中心の兵制樹立構想が進められていた点にある。同時挙兵すれば、天下土崩の危機があった。士族の私党的結びつきによる挙兵を国家が抑止出来なかった最大の事例が77(明治10年)、征韓論で下野するまでは参議(最高レベルの政治指導者)にして近衛都督(最高レベルの軍事指導者)であった西郷が旧鹿児島藩士族に頭首と仰がれ挙兵した西南戦争に他ならなかった。

 

 私兵的結合を廃し、国内政治勢力に惑わされない中立不偏の軍事力の樹立が、西郷隆盛による内乱を経験した社会には不可欠だった。

 

 木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通亡き後、山県有朋が採った道は、公民からなる徴兵制軍隊を天皇に直隷させ、政治と軍事、二つの領域をカバーしたカリスマ的な指導者であった西郷に対抗しうる明治天皇像を確立することだった。軍事指導者としての資質が明治初年にはゼロだった明治天皇の権威を人為的に、促成的に創出し、徴兵制軍隊と特別な親密さをつなぐのである。79年10月10日の陸軍職制第一条では「帝国日本の陸軍は一に天皇陛下に直隷す」とした。

 

 (中略)いっぽう、軍人は軍人で、軍人勅諭中の徳目の第一条「忠節」の「世論に惑わず政治に拘わらず、只々一途に己が本分の忠節を守り」の一節につき、軍人は政治に関与してはならないとの当初の解釈を、次第に自己の都合のよいように改変していく。(本書ⅲ~ⅳ頁、及び12から13頁の省略)

 

 以下、私が興味深く感じたこと、並びに極めて参考になった諸点を私なりに紹介して参ります。

 

1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか

 

 著者は次のように述べています。

 

 憲法とは社会的秩序の表現、国民社会の実存そのものである。即ち、国家を成立させている基本的枠組みである。第二次世界大戦という、長く激しい戦いの果てに勝利した英米仏ソなどの連合国が、敗北したドイツや日本の「憲法」を如何に書き換えるかが問われておりました。

 

 尚、ニュルンベルク裁判に先立ち、米英仏ソ四ヶ国の代表を集めて開催されたロンドン会議において決定された第六条の内容は1・侵略戦争を起こすことは犯罪であり(戦争違法観)、2・戦争指導者は刑事責任を問われる(指導者責任観)でした。この二つの概念は従来の歴史上にはない、いわば革命的法解釈であり、2の指導者責任観は極東国際軍事裁判、所謂東京裁判でも検察側、弁護側共に事後法であり、国際法上の概念として新しいものだとの認識を持っていました。尚、それまでの旧来の国際法の了解では、戦争責任は国家=国民全体の負うべきもので、事態的には敗戦国が相手国への領土の割譲や賠償金の支払いで、実態的には敗戦国民が全体で背負うものと考えられていたわけです。

 

 加えて、1930年代での大きな変化はアメリカの中立法の変化です。その法は18世紀以来の歴史を持っておりますが、日中国間の紛争に際して大きな影響を与えたのが1937年5月に制定されたアメリカ中立法でした。その内容としては、1・武器・弾薬・軍用機材の禁輸、2・戦争状態の認定について大統領の裁量権を認める、3・交戦国の公債・有価証券の取扱いの禁止、交戦国への資金・信用供与の禁止、4・物資・原材料の輸出制限(現金・自国船主義による)など包括的なものでした。(179~180頁)

 

 そして、著者は日本側を苦しめたのは上記の2と3であったと記しています。中国に対して日本が宣戦布告を行うどうか、その可否につき、外務・陸軍・海軍三省が費やした議論の大部分が、アメリカ中立法発動の可能性の有無に向けられていた。方や、宣戦布告を行う利点は、1・戦時国際法の認める軍事占領・軍政施行など、戦時国際法で定められた交戦権の行使、2・中立国船舶への臨検・戦時禁制品輸送防遏・戦時海上封鎖、3・賠償金を正当に請求できる、などが挙げられていました。その中で、日本は宣戦布告をしないことを選んだわけです。日中戦争を表現する際の日本側の語彙が変化していくことを、次のように記しています。

 

 第一次近衛文麿内閣において、首相のブレインであった知識人グループ、昭和研究会作成と推定される「現下時局の基本的認識と其対策」(38年6月7日付)には、次のような、日中戦争の性格づけがみられます。「戦闘の性質 領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日支国交を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪戦なり」。目の前の戦争を日本側は匪賊を討伐するという意味で、討匪戦と呼んでいました。

 

・・(中略)32年の論考「現代帝国主義の国際法的諸形態」でシュミットが述べていた「真の権力者とは自ら概念や用語を定める者」を想起する時、昭和研究会はさすがに当時の第一級の知識人を網羅していただけあって、「自らの概念や用語を定める者」であるアメリカに似せて、自らの新しい戦争の「かたち」に名前を与えていたのではないか、との見方を示したかっただけです。30年代の世界と日本の歴史を眺めていますと、将来的に東アジアあるいは環太平洋地域の「真の権力者」となるはずのアメリカが創出しつつあった新しい国際規範を横目で確認しつつ、自ら遂行する戦争の「かたち」だけを、アメリカ型の新しい規範に沿うように必死に造形していた日本の姿がどうしても目に浮かぶのです。(181~182頁)

 

 如何でしょうか、私は改めて知るところです。私は当時の第一級の知識人である三木清、蝋山政道、大河内一男、笠信太郎、東畑精一、三枝博音、東畑精一清水幾太郎、中島健造蔵、高橋亀吉等々、錚錚たるメンバーによる研究内容の一端を本書で知ったわけです。著者は本章の最後に次のように記します。

 

 戦争一色の時代に見える30年代ですが、シュミットが「激しい対立はその決定的瞬間において言葉の争いになる」と述べているように、この時代の歴史は、むしろ語彙と概念めぐる闘争の時代であったといえるでしょう。

 

 軍事力ではなく、経済力でもなく、言葉の力で21世紀を生きていかなければならないはずの若い世代の方々には、是非ともこの時代の歴史に親しんで頂きたいと願うのです。また、自らが生を受けた時代であったが故に距離感をもってこの時代を眺めることができなかった世代の方々には、中立法を経済制裁の手段として使おうとするアメリカ流の法概念の面白さなどから入ることで、いわば時代を鳥瞰図として眺める姿勢を身につけていただければ、書き手としてこれ以上の喜びはありません。(183~184頁)

 

日本軍の武装解除についての一考察 

 

その1 国体護持一条件のみの受諾

 

 著者は「総論 天皇と軍隊から考える近代史」の中で、次のように印象深い文章を記しています。

 

 宮内庁御用掛の岡野弘彦は「身いかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」の一首を最終的な終戦時の御製として選んだ。岡野はこの歌こそ天皇の事実上の辞世ではではなかったかと考えたという。明治維新で創設された近代国家において、軍事指導者としての天皇は、復古・革命政権に他ならなかった明治政府が中核においたシンボルだった。明治、大正、昭和と大日本帝国憲法とともに生きた近代の三人の天皇の中で、その最後に位置する昭和天皇の辞世の核となる言葉が、「いくさ(戦)と(止)めり」「いくさ(戦)(とどめ(止め)けり)であったことの意味は小さくないと思われる。

 

 終戦に向けた天皇の動きは、実のところ危うい綱渡り上に結実した史実ではなかったか。・・(中略)陸軍を中心とする徹底抗戦は、武装解除を行ったが最後、天皇制の維持、すなわち国体護持が保障されないとして、東郷茂徳外相や米内光政海相ら国体護持一条件降伏派に脅しをかけた。・・(中略)軍隊と天皇、兵備と国体の不可分論は東條並びに当時の徹底抗戦派の持論であったのだろう。(6~7頁)

 

 即ち、国体護持の一条件でのポツダム宣言受諾という東郷茂徳外相と国体護持・自主的武装解除・自主的戦犯処罰・保障占領拒否の4条件を主張する軍部側が激しく対立し、昭和天皇の、いわゆる「聖断」によって、国体護持一条件での受諾が決定されたわけです。

 

 そして、あれほど自主的武装解除を主張していた陸軍が、ポツダム宣言受諾の御前会議決定を連合国に通告した1945(昭和20)年8月14日と戦争終結の詔書が放送された15日を境として、武装解除拒否、あるいは自主的武装解除をめぐる軍の態度が、米軍による武装解除・復員へと急変しえた背景を、著者は考察していきます。私は本章にて、その状況、現実を改めて知らされます。

 

 武装解除に限定してポツダム宣言を読み直すと、(ⅰ)今後、連合軍による日本本土の攻撃へのすさまじさを予告し、政府と国民を脅かし、(ⅱ)政府と国民が、戦争責任者や「軍国主義的助言者」と決別するように最後の選択を迫ったうえで、(ⅲ)俘虜虐待を犯した者は罰せられるが、普通の軍人は故郷に帰る保障をし、(ⅳ)日本国軍隊の無条件降伏とのこと。尚、1943年12月のカイロ宣言では「日本国の無条件降伏」で、無条件降伏の主体が「日本国」から「日本国軍隊」に限定されている、と著者は当時の外務省解釈を本章で記しています。

 

その2 昭和天皇と遼東半島還付の詔勅

 

 ポツダム宣言受諾についての変化は、まず昭和天皇において生じた、と次のように記して行きます。

 

 変化はまず、天皇において生じた。1945年5月5日、木戸幸一内大臣と面会した近衛文麿は高木惣吉に対し、次のように、天皇の心境の変化についての情報をもたらしている。木戸いわく、これまでの天皇の考えは「全面的武装解除ト責任者ノ処罰ハ絶対ニ譲レヌ、夫レヲヤル様ナラ最後マデ戦フ」というものであり、武装解除を行えば、ソ連の参戦を避けられない、との見方であったという。

 

 しかし、同年5月2日、3日あたりに、心境に変化を生じたとの見立です。その時期は、4月30日のヒトラーの自殺、ベルリンの陥落が日本の新聞・ラジオで報じられた頃である。「当時の侍従であった徳川嘉寛の5月3日の日記にはロイター通信社が伝えるドイツ放送局の発表としてのヒトラーの死と、最高司令官の後任となったデーニッツ提督の談話『第一の任務はボシェヴィズムによる破壊からドイツ国民を救うこと』」が記載されている。(311~312頁の省略)

 

 そして、著者は8月10、14日の聖断に関し、以下のように記しています。

 

 自らの判断に変化はないこと、決断は周到に行ったこと、連合国は国体を認めている、保障占領は心配だが、ここで将来に力を残すため終戦をしなければ、国がなくなる。また武装解除は三国干渉時の心時持ちでやり、陸海軍には勅書を、国民にはラジオ放送で説明してもよい.・・(中略)武装解除の部分については「武装解除ハ堪へ得ナイガ、国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉ニ対スルト同様ノ気持ヲヤラネバナラヌ。ドウカ賛成シテ呉レ」(316頁)

 

 方や、戦争の最終磐において、アメリカからさまざまなシグナルを受け止めていたグループの一つに東大法学部の南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木武雄、の七教授が内大臣の木戸幸一と終戦工作をしていた。注目すべきは、南原が天皇の位置づけを高く保つ必要性を説いていたことで、アメリカにとって天皇の価値と日本国民にとっての天皇の価値と、いわば、外と内から両面の天皇の価値を高く保っておく必要があるとしたことである。そして高木惣吉のメモを次のように紹介しております。

 

 皇室ヲ利用シ得ル限リ利用スル。米の出血ヲ多量ニセザル範囲ニテ利用スル。一億玉砕ニ迄持ッテ行ツテ、皇室ガ米英ノ眼ヨリ見テ役ニ立ナカッタト言ウコトニナレバ、之ヲ存続スル意味ハナクナル。国民ヨリ見テモ、声ナキ声ヲ聞クベキデアル。天聴ハドウナサッテイルカトイウコトニナッテクル。一億玉砕ニ行ッテハ、天聴二対スル怨みミハ噴出スル。・・(中略)「朕ノ心ニ非ズ、世界人類ノ為二、内二向カッテ国民ヲトタン(途端)ノ苦シミヨリ救フ」(327頁)、との詔書案のキーワ-ドに繋がって行った。(327頁)

 

 これは国民と皇室のまさにこのような関係は、アメリカのソフト・ピース派が勘案してきたものであった、と著者は記しています。私にはそうした7教授による行動が、あの敗戦間際の瀬戸際にある「聖断」に繋がって行ったことを改めて知ったわけです

 

その3 終戦犯罪

 

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 私は、当時の右翼であった児玉誉士夫、政商・小佐野賢治等を想起するのですが、次のように記しています。

 

 敗戦後、アメリカ軍が進駐してくる間隙を狙い、兵器を破壊し、石油や自動車などの軍用資材を民間に横流しして、糧食や被服を復員者ヘ分配した軍の行為は1945年末に開かれた第89回帝国会議において、無所属倶楽部の福家俊一議員により「終戦のあのどさくさに紛れて行われた公用金の着服、軍用物資の横領並びに民間と結託して転売又は隠匿したる等の、不当なる行為に出た所の所謂終戦犯罪に関する件」との追求に至るわけです。

 

 アメリカ側は無条件降伏方式という点で譲歩を行わなかったが、連合軍の唱える武装解除の実態について、ポツダム宣言、バーンズ回答、空襲の前後に投下するビラ、短波放送や新聞雑誌を用いた情報戦などさまざまな機会を用いて、赤裸々に日本側に説明を繰り返した。

 方や、天皇は武装解除、及び戦犯引き渡しを断念しても、国体護持は確保し得ると判断し、軍説得のために、三国干渉時の明治天皇の詔勅を用いることにした。そして、本第7章を次のように述べて閉じています。

 

 国民と天皇に背を向けられた軍は、1945年8月14日、鈴木内閣の最後の閣議決定として、国内にあった兵備や軍備のうち、国民生活に活用しえるもの中心に民間・文官機構への転移を決定した。武を文へと融解させることで軍は自ら幕を引き、歴史の舞台から退場していったのである。(339頁)

 

おわりにあたり

 

 私ごとで恐縮しますが、私が5歳になる5ヶ月前、3月10日の東京大空襲を東京本所小梅で経験しました。自宅の床下に作られた防空壕から抜けだし、隅田川の支流、横川橋の袂に家族6人で逃れました。二歳上の姉と、何故か、お鍋の中にミカンを入れて懸命に走ったこと、横川橋が燃えていくこと、消防自動車が燃えていくこと、川に飛び込む多数の人。幸運にも我々を含め数家族は生き延びました。その翌朝、向島の父の姉の所に逃れていく際に、馬が4本の足を空に突き上げ死んでいたこと。そんなことを今でも鮮明に覚えています。

 

 焼け出された我々家族の間借り生活。加えて父親は、その親戚先で二度目の招集。兄二人は学童疎開。玉音放送はその避難先の二階で意味は分かりませんが、親戚家族と母、姉とかしこまって聞きました。只、そのときの驚きはB29の編隊がものすごい轟音をあげながら低空で飛び過ぎていったことです。尚、無事に生きて戻った父親は戦争のこと、兵隊生活のことは一切口にすることはありませんでした。私が中学1年になるまで住居は6回も転々としており、本所に生活をしていた両親にとっては、6回目の落ち着き先は荒川の先、川向こうの葛飾立石であったのです。其の父も、9歳上の長兄も、7歳上の次兄も、ともに75歳で亡くなりました。私はそれより5年も長く生きており、時として、何か微妙な複雑な思いが交錯します。尚、家内の父親は沖縄戦で戦死、私の義理の叔父は南方で戦死でした。間借り生活と食糧難のなか、我々は生き延びてきたわけです。尚、母親が東條英機の刑死の報をラジオで聞いた際、「東條さんだけが悪いのではないのに」と、そっと呟いていたことを鮮明に覚えています。

 

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 ちょっと脱線しますが、東京裁判で犯罪行為とされた、クラス分けにすぎないA,B,C戦犯がいつ頃からなのでしょうか、A級戦犯を最も重い戦犯としています。そのA級戦犯東條英機他6名、BC級戦犯27名の刑執行直前まで立ち会った、巣鴨拘置所における只一人の教誨師・花山信勝著「平和の発見」(方丈堂出版)の一読をお勧めします。それぞれの戦犯となった方々の最後の有り様を記録したものです。私は時には涙を浮かべながら読み通しました。

 

 著者は本書の最後の章・「『戦場』と」『焼け跡』のあいだ」で、花森安治がその東京大空襲の死傷者数に拘って、「3月10日午前零時8分から2時37分まで、149分間に死者8万8千7百93名、負傷者11万3千62名。この数字は、広島、長崎を上まわる」(348頁)と、記しています。

 

 加えて、私の忘れがたい記憶は中学3年の時のことです。社会科の先生が、戦中を語る際、指導者は「馬鹿だ、馬鹿だ」と何度となく繰り返すことに、私は妙に反発し、その私の態度が自然と出ていたのでしょうか、問題児扱いをされたこと。加えて、英語の担当先生が私の自宅まで上がり、「赤旗」をとるよう母親に勧めていたことなども、何故か鮮明に覚えております。その後、石川達三の「人間の壁」が出て、映画化もされましたが、何か現実との違和感を持っていたことです。

 

 私は、今まで幾度となく、戦前・戦中・戦後と変わらない、反省のない、否むしろ独りよがりの正義をかざすようなメデイア(新聞、ラジオ他)の在り方に疑問と危機感を抱いていると記して来ました。表現の自由、報道の自由、とともに報道しない自由もあるわけです。マスメデイア(現在では新聞、テレビ、週刊誌他)は誰も制御できない大きな権力を持ってしまったのではないでしょうか。民主主義の持つひとつの欠陥でしょうか。

 

 尚、著者は別の視点からですが、次のように記し、本書を閉じています。皆さんは如何に思われるでしょうか。

 

 映画監督の伊丹万作が死の半年ほど前に書いたエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、多くの人々が今度の戦争で軍や官にだまされていたと嘆いてみせるが、それはありえないと書き出す。「いくらなんでも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるもわけはない」と。そして、普通の人々が日々の暮らしのなかで発揮した「凶暴性」鋭く告発している。

 

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、誰の記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や配給機関などの小役人や雇員の労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営む上においていやでも接しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。

 

 重病に冒され、死を前にした伊丹は、「だまされていた」という人々を見ると暗澹たる気持ちになるという。なぜなら「だませれていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(355頁)

 

2020年3月4日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 加藤陽子「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)

 同   「満州事変から日中戦争」(岩波新書)

 同   「戦争の日本近現代史」(講談社現代新書)

 同   「昭和天皇と戦争の世紀」(講談社)

 五百旗頭真/中西寛編「高坂正尭と戦後日本」(中央公論社)

 吉田茂「回想十年」(毎日ワンズ)

 高坂正尭「宰相 吉田茂」(中公クラシックス)

 池田信夫「丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

 花山信勝「平和の発見/巣鴨の生と死の記録」(方丈堂出版)

 牛村圭「文明の裁きをこえて」(中公叢書)

 重光葵「昭和の動乱」(中公文庫)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

 清瀬一郎「秘録 東京裁判」(中公文庫)

 他

再び・佐伯啓思「西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて  

再び・佐伯啓思西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

 

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再々の投稿にあたり

 

 夏目漱石に関わる投稿は2017年12月8日元投稿を含め、5本ほどになります。佐伯啓思氏の諸著作、また吉田満に関する作品に関わる投稿に続く本数となっております。

 

 以下に、取り上げた社会思想史等を専攻される佐伯啓思氏著「西田幾太郎」、並びに哲学者の小林敏明氏著「夏目漱石及び西田幾多郞」の著作は、私にはとても参考になりました。

「漱石、西田が同じ時代を共有し、しかも両者の家族関係も含め、似たような体験を持ったことは、両者の思想内容にも相通じるものがあった。」と記されております。加えて、私が吉祥寺の古本家で偶然見つけた漫画家・評論家の夏目漱石の孫である、夏目房之助著「漱石の孫」はロンドンにおける漱石の一面をも描いており、参考になりました。

 


再々に亘る急遽入院と手術に際して

 

 ここのところ体調も良く、2020年11月4日に「コロナ禍にあって思うこと」を投稿しました。ただ、一昨年10月末の定期健康診断の結果、心電図に変化があり、綜合病院を紹介され、24日、再検査の結果、狭心症の疑いとのことで、翌月の11月25日、思いも掛けぬ初入院。そして心・カテーテルの手術、27日には無事退院したことは既にお知らせしております。その際、病院に上掲の本を持ち込み読もうとしたのですが、右手は固定、左手も点滴の為、自由がきかず、持ち込んだ本は一冊も読めませんでした。加えて、病院はコロナ予防対策で、大変な状況でした。諸先生、看護士、スタッフの方々のご苦労は大変なもので、本を読むといった贅沢は全くできませんでした。後日、上掲の本などにつき、改めて、感想など記したいと思っています。

 

 持ち込んだスマホより3年ほど前に投稿した佐伯啓思『西田幾多郞・・無私の精神と日本人』、小林敏明『夏目漱石と西田幾太郎・・共鳴する明示の精神』を自分なりに、ちらちらと再読しました。漱石と西田の共通項を改めて考え、私なりには意義ある時間であったと思うところです。

  

 尚、私自身は綜合病院での心カテーテルの手術、入院後、3日目には無事退院。お陰様で現在はテニスを含め、以前と全く変わらぬ日常を送っております。ただ、綜合病院はコロナ禍の中、大変な対応をされており、病院の医師・看護師並びに職員方々の、これ以上の負担は無理と痛感したところです。加えて、今年、2022年11月に閉塞性黄疸は膵臓癌によるものとものと診断され、所謂ステント手術。来年1月5日に右胸に点滴用の器具をつける手術となりました。医師団の先生方に全てを委ねることにしました。私自身が人生の最終章にあること改めて感じました。

 

 私自身、最後のオリンピックをテレビ観戦で、大変楽しみました。コロナ収束と東北大震災等の復興・経済の再生に日本は梶を切り替えることです。日本は東アジアにあって、中国の異常な進展、並びに共産党独裁の習近平政権の今後。更には朝鮮半島の、世紀を超えても日本に対する怨念は解消しないと思われる二つの国家の現実。加えて、ロシアのウクライナ侵攻等々、謂わば「非常事態」に直面している、と最近の数本の弊投稿でも、私は記してきております。

 

 尚、佐伯啓氏は日本国憲法に付き、次のように述べています。改めて、以下ご紹介いたします。

 

 他国の憲法は近代憲法として不完全であるものの、その不完全性のゆえんは、国家の存立を前提とし、国家の存立を憲法の前提条件としているからだ。・・ただひとり日本国憲法だけが、近代憲法の原則を律儀に表現したために、国家の存立を前提としない、ということになった。平和主義の絶対性とはそういう意味である。 厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさを持った日本国憲法の平和主義は、自らの国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。(佐伯啓思著『「脱」戦後のすすめ』(中公新書ラクレ 221頁)

 

 私はその通りと思いますが、如何思われますか。上記の著書を合わせ、御一読をお勧めします。尚、本投稿は「日本の思惟」とは何か等々、西田幾太郎と夏目漱石との類似性を含め記されたものです。私は極めて印象深い著作でした。

 

 2022年12月28

                          淸宮昌章

 

 

再投稿にあたって

 

 加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読み進めましたが、その著作の中で、当然のことながら「昭和研究会」も出て参ります。その「昭和研究会」を立ち上げた近衛文麿の師でもある西田幾太郎と、加えて夏目漱石との関わりについて、二年ほど前になりますが長たらしい投稿をしました。日経新聞の朝刊に伊集院静氏による夏目漱石と子規の物語「ミチクサ先生」が連載されており、改めて二年前の拙稿を省み、今回、補筆をも加え、再投稿した次第です。

 

はじめに

 

 7年前(2015年)になりますが、毎年開かれる同期のゼミナリステンの一泊泊まりの集いが、晩秋の京都で行われました。夕暮れ時でしたが、西田幾多郎の「哲学の道」を三々五々、散策致しました。佐伯氏はその「哲学の道」を掲題の本書の中で次にように述べております。

 

 人のいなくなった夕暮れ時などに来るとこのゆったりとした味わいは格別のものです。哲学の道から疎水を越えて奥へ入ると法然院のあたりにでますが、このあたりのほの暗い静寂は、一瞬、時間が脱落した異次元に引き込まれてしまったような心持ちになります。(8頁)

 

 そんな高尚な心持ちとは、ほど遠いのですが、前回取り上げた佐伯氏の「現代民主主義の病理」の中で触れた、佐伯啓思氏著「西田幾多郎」及び小林敏明氏著「夏目漱石西田幾多郎」について、僭越ながら私なりに興味・共感を覚えた諸点を記して参ります。

 

 尚、ご存知のとおり、佐伯氏は1949年生まれ、東京大学で理論経済を専攻され、その後、社会思想史にも進まれた京大名誉教授です。方や、小林氏は1948年生まれ、名古屋大学文学部哲学科卒、現在はライプツイヒ大学東アジア研究所の日本学科教授です。

 

 佐伯氏は「日本という『価値』」の著書の中で、西田幾多郎について以下のように述べています。

 

西田幾多郎を中心とするいわゆる)京都学派と戦争の関係については戦後様々なことが言われた。戦中にはむしろ自由主義的とされて右翼や陸軍からは批判され、戦後には戦争協力としてタブー視されることになった京都学派の試みについては、ここで詳論する余裕はない。また別の機会に譲りたいが、京都学派の試みとその挫折の意義を改めて検討する価値は十分にあるのではないだろうか。実際、私は、京都学派の「世界史の哲学」の試みは挫折したし、結局、失敗したものだと考える。しかし、では何が挫折したのか、どうして失敗だったのかは改めて論じる必要のあることがらなのではなかろうか。(本書300頁)

 

 一方、小林敏明氏は同じような観点から、掲題の本書の中で、西田幾多郞といえば、必ず禅が連想され、主著「善の研究」を「禅の研究」だと思っている人も少なくないようだ、としながらも次のように記しています。

 

 にもかかわらず、こういう「不可解」な西田の文章が今日依然として読まれ続けるのはなぜだろうか。私は、そこに既成の思索を破ったり、超えたりするような新たな思考の可能性があるかもしれないという予兆めいた期待が、読者の側にはたらくからだと考える。再び物理学に例を取っていうなら、日常の意識では歴然と区別される時間と空間も、時空連続体を考える物理学者にとってはそうでない。それはたんなる時間でも、空間でもないと同時に、その両方でもあるといわざるをえないXである。西田の思索が狙っているのは、何かそのような次元のものである。(211頁)

 

 私は両氏の一面相通ずる観点に惹かれ、とりとめのないものになりますが、両氏の著書を読み比べ、私なりに共感した、あるいは新たな認識を持ったことを、記してみようとおもいます。従い、今回も両氏の掲題の著書全体を紹介するものではありません。

 

1.小林敏明「夏目漱石西田幾多郎

 

 夏目漱石、西田幾多郞は同じ時代を共有しながら、互いによく似た体験をしている事実がある。漱石は世界第一次大戦後の1916年に死去。方や西田は1945年、第二次大戦終結直前の数ヶ月前に死去。ほぼ30年の開きがありますが、漱石は1867年、西田は1870年生まれの誕生で、ほぼそのまま明治日本の誕生と重なり、時代を共有し、しかも両者の家族関係も含め、似たような体験を持ったということは、彼らの思想内容にも相通じるものをもたらした、と氏は述べています。

 

家族関係と教育過程他

 

 夏目漱石については今年(2017年)8月に投稿した、十川信介著「夏目漱石」の「出生と、めまぐるしい教育過程」の項で、その生い立ちを私なりに紹介していますが、江戸牛込馬場下横町(現喜久井長)の町方名主の父のもとに五男として生まれます。父の先妻には二人の姉がおり、夏目漱石は8人目の子供で、漱石は養子に出されたり、戻されたり決して安定というか、安住した生活を送ってはいません

 

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 尚、本題とは離れますが、先月(2017年)11月の初め、吉祥寺の古本屋で、偶々、漱石の孫である漫画家且つ漫画評論家の夏目房之助著「漱石の孫」を見つけました。漱石が悩んだロンドンの下宿先を尋ねながら漱石を語るものですが、漱石の婦人鏡子並びにその長男純一、そしてその子供房之助の姿が写り出されております。夏目漱石家三代の歴史の一面を語るもので、夏目家のその後を知ることにもなり興味深く読んだ次第です。ご参考までにご一読をお薦め致します。

 

 本題に戻ります。方や、西田は現石川県かほく市森で、西田得登の長男として生まれます。西田家は代々十村と呼ばれる富農で、身分的には夏目家の名主に似ているが庄屋などより身分が高い名家ということです。そして「この西田家の没落についても、われわれは新時代に順応できずに挫折していった旧家の姿を見て取ることができるが、夏目家の没落同様、やはりここでも投機とか投資といった新たな経済原理の犠牲者を確認することができるだろう。・・(中略)それにしても、なぜ総じて父親が超自我の起源になるのかといえば、おそらくそれは長期にわたる家父長制度の歴史が関係している。この制度の下では、全ての権威権限を体現した家長の行動や判断は、家族成員にとってはそのまま従うべき『模範』として機能してきた。当人たちの意志を無視して勝手に息子夫婦の離縁を決めた西田の父親、子供を物品のようにして里子や養子に出し入れした漱石の父親、これらの理不尽な行為がそのまま容認されたのも、彼らが家長だったからにほかならない。・・(中略)父親の欠落によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけに自己制御が弱くなると述べたが、これは必ずしもマイナスの結果ばかりとはいえない。弱い自己抑制は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な『父親殺し』が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。」(20、28,30頁)、続いて、こうした観点から見ると、西田も漱石も若いときから人並み以上の反骨精神や独立心をもっていた人物であることがわかる、と氏は指摘しています。私としては何か分ったような気がしたところです。

 

 両者は、ほぼ同時期に東京帝国大学で学びますが、漱石は英文学本科卒、方や西田は文学哲学科専科卒です。専科はいわば聴講生というような扱いで、その身分差は大変なものだったとのことです。従い、両者は大学時代も直接的な交友はなかったようです。ただ、両者に共通することは「むしろ自由独立を求める反骨精神である。面白いのは、こうした漱石や西田に宿った新しい近代啓蒙の考え方が、消失していく江戸気質や武士道精神の言葉で表現されたという、歴史の皮肉というか妙である。」(42頁) 

 

 更に「漱石のイギリス文学や西田のドイツ哲学というように、彼らが知的方面において一級の西洋通であったことはよく知られているが、同時に彼らは身体的にも(ボート、テニス等の)西洋スポーツの最初の享受者であったということである。言いかえれば、それだけ心身両面において初めて西洋を身につけた世代だということである。そして、だからこそ抱えざるをえなかった彼らの固有の問題が生じた。それが西洋か東洋かという選択の問題にほかならない。今日の目からすれば、このような両極端化は余計なイデオロギーを生み出すだけで生産的ではないということができるかもしれない。だが、彼らの世代はそれは深刻な問題であった。」(108、109頁)

 

 この氏の生産的ではなかったとの指摘には異論があるかもしれません。

 

 加えて、漱石、西田の共通項を見ると、既に記したようにその没年は漱石第一次大戦中の1916年。西田は1945年の第二次大戦終結直前で、二人の生涯は戦争に始り、戦争に終わった。そして、二人にとって最初の切実な戦争といえば日露戦争であったが、この戦争に対する二人の態度には大きな温度差、切実度の違いがあった。西田は二人の近親者を失っている。専門石川県専門学校の学友と旅順で戦死した西田の愛する弟憑次郎である。従い夏目、漱石共に我が子を失ったときの感情においては共鳴しあったが、日露戦争とりわけ戦死に関しては二人の大きな温度差があった、と指摘しています。

 

 両者の門下生

 

 更に、門弟との関係においても両者にはひとつの共通項があります。漱石に近づいてきた青年たち、小宮豊隆鈴木三重吉森田草平、野上豊一郎、安陪能成、久米正雄芥川龍之介等々の漱石山房の集まりです。その関係は「父」を中心に形成された、いわば疑似家族共同体であり、小宮などは自分の家のように漱石家に出入りしております。門下生の一人である松岡譲は漱石の長女筆子と結婚という具体的な形で表われています。

 

 方や、西田においても、その門弟ともいうべき京都学派の哲学者たちの三木清高坂正顕高山岩男、上田操、金子武蔵等々において疑似家族共同体の様相を示しております。漱石同様、上田は西田の長女彌生、金子は六女梅子と結婚しております。

 

2.大東亜戦争と西田哲学

 

 その1.

 

 本投稿の「はじめ」にも触れましたが、佐伯氏はその著「西田幾多郞」の中でも、次のように述べております。長くなりますが重要と考えますので、以下紹介したします。

例の大東亜戦争イデオロギーと名指しされた「民族国家の世界史的使命」、という京都学派の思想が、いかに西田幾多郞の歴史哲学をよりどころとしているかはあきらかでしょう。ここで、「個性的な自己」といっているものを、歴史的世界における民族や国家に置き換えれば同じ論理がでてくるからです。民族はひとつの国家として独自の個性をもつには、歴史的使命をもつしかない。ここに「国体」というものの自覚がでてくるのです。それは、自己の底に世界を映し出し、世界において自己を生かすことで、その意味では、決して自民族中心主義でもなければ独善的ナショナリズムでもありません。歴史的使命をもつとは、世界の創造的要素となる、ということです。「民族がかく個性的となると云うことは、それが歴史的形成的であり、歴史的使命を担うと云うことでなければならない。国体とはかかる国家の「個性」であるということになるのです。

 

 しかしながら、こうした西田の歴史哲学は、あの苛烈で混沌とした力と力の対決の時代にはほとんど現実性をもちませんでした。あるいはその表層の言葉だけをすくいあげられて、日本の「世界的使命」だとか「歴史の創造的主体」だといった観念だけが独り歩きしました。その意味では、京都学派の試みは、明らかに失敗したのです。戦争イデオロギーとして失敗したのではありません。帝国主義的な力の対決という歴史的現実を変えることに失敗したのです。状況を変えることができなかったのです。

 

 西田がやろうとしたことは「日本的な思想」を内蔵した「日本」という個性をもって、世界の創造的力点としようということでした。しかしそれはまた、当時の歴史的状況のなかで歴史に動かされながら作用する外ないものでした。すでに、戦争へ向けて駆動する歴史の威力に抗いすることはできなかったのです。何よりも、日本人自身が西田の意図をほぼ理解できなかったといわねばなりません。とはいえ、彼が「思想」というもろくもあやうい営みだけを頼りに悲惨な戦いを挑んだということだけは記憶されるべきでしょう。(198,199頁 上記西田幾多郞)

 

その2

 

 小林氏は掲題の本書の序章で次のように記しています。長くなりますが紹介します。

 

 漱石は、西洋においては開化が「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいる」とすれば、日本の開化はあくまで「外発的」で、「新しい波が寄せる度に自分が某中で居候をして気兼ねをしている様な」ものだというが、この指摘は、こと「思想」と呼ばれるものに関するかぎり、明治維新の30年後だけでなく、150年たった今日の日本にも依然として当てはまる。たとえば、第二次大戦以後今日までの「思想」の変遷を振り返ってみるだけでも、マルクス主義実存主義現象学構造主義ポスト構造主義分析哲学等々といった流行の波が押し寄せ、人々はそのつど狼狽しながら流行の輸入作業に余年がなかったものの、そのほとんどが実をむすぶこともなく、いたずらに瓦礫の山を築いただけであった。その結果今日の思想や政治意識の空洞化である。・・(中略)漱石も西田も早くから日本におけるこうした思想の危機を予想し、危惧していた。危惧の対象は主として消化されない思想や理念とその結末であるが、彼らの危惧はそういう日本側の表面的な受容だけに向けられてはいなかった。受容される当の西洋近代自体が抱える問題をもいち早く見抜いていたからである。まさに思想における内憂外患が彼らの置かれた立場であった.(10、11頁)

 

 その上で、西田は漱石のように距離を取って外からの戦争批判をおこなってすます、というわけにはいかなかった。西田及び京都学派の戦争問題とその経緯を以下のように述べていきます。

 

 1930年代に入って、軍部とりわけ関東軍や陸軍の独走に歯止めがかかわらず、満州から中国本土への侵略、加えて五・一五事件、二・二六事件等々が起こります。そして、1937年、反軍部の期待を背負った第一次近衛文麿内閣が成立します。近衛はご存知のように、河上肇に憧れ、一高から京大に移り、そして西田の教え子となり、そこに学習院時代の仲間も加わるわけです。従い、軍部とは直接関係をもたない近衛への期待、最後の望みも西田には大きかったのです。一方、陸軍の突出に平行するように、民間でも蓑田胸喜のような狂信的なイデオローグ(デマゴーグ)が三井甲之の主催する「原理日本」などが盛んに知識人狩りの論説を書き、その矛先は左翼のみならず美濃部達吉、滝川行辰、大内兵衛津田左右吉、京都学派にも及びます。西田には右翼テロの噂も流されておりました。

 

 更に、門下生である最愛の三木清が近衛のブレーンともなるべく、1933年に発足した「昭和研究会」に近衛内閣発足と同時に加わります。そして、例の「国民政府を対手とせず」と宣言した近衛の「東亜協同体論」の構想造りに参加していきます。結果は「この最後の希望」だった近衛も結局は陸軍のマリオネットにされ、その昭和研究会は1940年には大政翼賛会へと解消され、実質的に総力戦下で軍政府の協力団体になっていったわけです。尚、三木清はその運動を利用して最後まで何とか別の道を画策しようとしたのですが、特高に捉えられ、敗戦の翌月、出獄を前にした1945年9月26日、48歳で獄死します。尚、すでに記したように、西田は終戦の1945年、75歳で死去します。尿毒症とのことです。

 

 西田のほうは早々に近衛を見限っていましたが、陸軍、海軍とも西田の名声及び京都学派を利用していきます。文芸誌「文学界」が「知的協力会議」と銘打って主宰した「近代の超克」の座談会や「中央公論」が企画した一連の座談会に京都学派が参加します。この一連の座談会は、当時の有名な文学者、学者、芸術家たちが一堂に会してアジア太平洋戦争を思想的に意味づけようと試みた集まりとして、戦後厳しい批判にさらされてきたわけです。

 

 陸軍、海軍からも西田の名声を利用しようという状況が生まれます。加えて、軍部とは違う民間で独自の政策構想を図る「国策研究会」に請われ、「世界新秩序の原理」を発表するに至ります。「西田としては健全な『科学、技術、経済の発達』であり、偏狭な国粋主義にとらわれず『自己に即しながら而も自己を越え』るような普遍的見地に立った世界政治であった。しかし、この『世界史的使命』は、東条はもちろん、アジアにおける日本の覇権をもくろむ軍部にはまったく理解されることがなかった。かくて西田もまた漱石と同じように、戦争の中で失意のまま死んでいかざるをえなかったのである。」(182頁)、と小林氏は記しています。

 

 今日なら「グローバル世界」と呼ばれる事態を西田は「世界史的世界」と呼んだ。そしてそのことは日本は明治という新時代の始まりと同時に自覚されていた。京都学派の「近代の超克」論議はこうした近代世界システムへの批判の試みではあったが、いかんせんその哲学者の空論気味の言説は、無力にも、戦争というシビアな現実に飲み込まれてしまった。第一次大戦の中で死んでいった漱石は、彼ら以上に、言説を無意味化してしまう戦争の非常な性格を感じ取っていたのかもしれない。(192頁)

 

 経済学者であると共に思想家、方や哲学者である両氏の指摘、観点を私がどれほど理解できたか、否か、は問われますがこのまま進めます。

 

3.「永遠の今」と無始無終の時間

 

 佐伯氏は本書「西田幾多郞」の中で、極めて分りやすく西田幾多郞の哲学を解説しております。氏が持ち続ける思想の展開でもあり、私にとっては共感すると共に極めて重要な指摘と思います。長くなりますが、以下、ご紹介し、本投稿を閉じたいと思います。

 

 「進歩」という観念の背後には、過去、現在、未来へと突き進む直線的な時間の意識がなければなりませんが、西洋で、この直線的な時間の観念を明瞭に生み出したものは、ユダヤキリスト教だといってよいでしょう。・・(中略)だからユダヤキリスト教の西洋では、人は、最後の審判に向けて、正しく生き、勤勉に生をまっとうするほかありません。禁欲が日常生活のなかにまで入り込ます。ところが,近代も進んでくれば、もはや誰も簡単には神など信じなくなりました。こうなると深い信仰心に代わって、軽い利己心が支配し、禁欲は強欲へと変わってゆく。しかし、ユダヤキリスト教が生み出した直線的な時間意識だけは残ってしまうのです。・・(中略)かくて無限の経済成長、自由の拡張、富と幸福の追求、世界のグローバル化といった今日の神話は、時間と世界を作った絶対神を前提とするユダヤキリスト教的な思考の世俗化といってよいでしょう。近代にはいって「神」は抜き取られ、この構造だけが残ってしまった。そして近代化とともに、われわれすべてがこの不気味な構造に投げ込まれたのです。(223から226頁)

 

 日本の思惟とは

 

 日本の思惟、とりわけ仏教的な思想にはこの世の創造も終末もないのです。われわれはどこからかやってきて、いずこかへ去って行く。そのことの繰り返しなのです。かくて西洋と同じ意味での歴史という観念もありません。日本では、歴史とは、そこに壮大な意味が埋め込まれた巨大な舞台というより、ゆく川の流れの如くに次々と時が去ってはまた来る、といった趣のものなのです。・・(中略)この無始無終の時間を表象するのに、われわれは、無限に延びる一直線ではなく、むしろひとつの瞬間を取り出しました。なぜなら、もしも、時間に始まりも終わりもなく、したがって、時間の流れの全体(それが歴史です)には特別な意味がないのだとすれば、大事なのは、今ここでの瞬間だけだからです。・・(中略)人はただ日々違った身体を持ってその都度生きるだけわけではなく、同じ身体を持って同じ脳を使って生きているのです。身体のなかに、記憶や習慣として過去が蓄積されています。こうして「今」のなかにすべての「過去」が入り込んでいるのです。又、同じように、人は常に未来を気にし、未来を予測しながらいきているものだとすれば「今」のなかに「未来も入っているのです。・・(中略)西田にとっては過去へ向かう記憶も、そして未来へ向かう意志とともに、まさに今ここでの「純粋経験」にほかならないのです。世界や時間の外にあって、万物の創造者としての「神」を持たない日本人にとっては、時間は「ただ今」の延々たる移行というほかはありません。人は、そのようなものとして「時」を感じるはずです。・・(中略)わが国の文化の特徴として「情的」なところがある。それは「知的」のものへと傾く西洋とも、また「行的」なものへと傾く中国とも違っている。老荘思想にも見られるが、「時」は無より来たりて無へ帰る、時は「絶対の自己限定「である。そこでは。常に、「無」が根底にあるので、「形」を持って今ここにあるものも、その背後に「無」が透かし見られる。・・(中略)「有の思想」である西洋に対して、日本の根底にあるのは「無の思想」だというのである。もしも、われわれの生活のなかにある一瞬一瞬を「永遠の無」に触れる「今」と感じることが日本人の時間的感覚に埋め込まれているとすれば、われわれは、もう少し「今」を大切にするのではないでしょうか。(中略)西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えました。そして「特殊性を失うということは文化というものが無くなるということである」といいます。文化がなくなることはその國の国民性がなくなることです。端的に言えば「日本」がなくなる、ということなのです。西田のこの言葉は無条件にグローバルで普遍的な価値や理念を追い求め、それをよしとする今日のわれわれの「脱日本化」にとってはあまりにも耳の痛いことではないでしょうか。(227から236頁)

 

 本題と外れますが、昨今の目に余る節操を欠くマスメデイア。テレビに頻繁に出てくるジャーナリストと称される人たちの厚顔と私には思われる、その有り様。また、些末なことですがNHKによる内閣支持率の毎回の世論調査の中で、支持しない理由に「人柄が信用できない」との項目を入れるなどは無用の情報操作のひとつ、と私は考えます。勿論、そうした意見を持つ人はいるでしょうが、予めその項目を用意しておくことに違和感を持たないのか。果たして公共報道機関のNHKとしての矜持はないのか、あるのか。外国の例は知りませんが、人格を無視するが如き項目として極めて異常と、私は思うのですが、如何でしょうか。

脱線しました。元に戻しますが、佐伯氏が指摘する、過度なグローバリズムや経済競争や成長至上主義やモノの浪費という現状にあって、佐伯氏の指摘に私は深い共感を覚えるのです。

 

終わりに

 

 今回も単に著者の文章を私なりに勝手に解釈・引用し、本来の著者のお考え、あるいは訴えたいこととは離れているでしょう。でも読者とはそんなことなのかもしれない、とこれまた私は勝手に解釈しております。私にとっては、読み比べの上でも、とても参考になる著作でした。

 

 本来であれば悲哀の哲学、すなわち「哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」という西田哲学の一端でも紹介できればいいのですが、いまだ私にはその力がなく、このような長々しいものになりました。いずれ近いうちに、その哲学を少しでも知りたいとは思っております。残念ながら、今回もとりとめのない投稿になってしましました

 

 尚、次回の東京オリンピックには80歳になりますが、そこまでは元気でいようと思っております。全く個人的なことですが、仕事上の関係で前回の東京およびシドニーのオリンピック・スタジアム会場で観戦しておりましたので、次の東京オリンピックまでは元気でいようと思っているわけです。

 

2017年12月8日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 小林敏明「夏目漱石と西田幾多郞 共鳴する明治の精神」(岩波新書

 佐伯啓思「西田幾多郞 無私の思想と日本人」(新潮新書)

 同   「日本という『価値』」(NTT出版

 同   「反・民主主義論」(新潮新書)

 夏目房之助漱石の孫」(実業の日本社)

 十川信介夏目漱石」(岩波新書)

 他

 以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新年に際し

新年に際し

 

 

 

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 昨年は傷めた右脚も完治し、テニス漬けの日々に戻りました。ストロークのスピードは以前より一段と速くなった、との仲間の評でもあります。一方、右手の痺れがでましたが、フェイスブックの友人の薦め、更には紹介された整体師に通い、だいぶ改善しております。この右手の痺れにより、本書房への昨年の投稿回数は、ここ数年に比し少なく10件でした。今年はその痺れもほぼ治り、もう少し頑張ってみようと思っております。今年で80歳になりますが、気を新たにし、テニスと読書漬けの日々をもう少し送っていこうと楽観的に考えております。

 

 上に示した加藤陽子氏著「天皇と軍隊の近代史」は昨年10月に発刊されました。氏はご存知のように日本近代史を専攻とされる著名な学者ですが、私は今まで氏による「昭和天皇と戦争の世紀」、「満州事変から日中戦争」、半藤一利氏との共著「昭和史」等々、読み通してきました。氏の綿密な調査及び膨大な資料から導き出される著作に、私は僭越至極ですが学者の在り方に感銘を受けて来ました。今回の著作も400頁近くの大作で、時間がかかると思いますが読み通し、私なりの感想など後日になりますが記したいと、思っております。

 

 下記は蛇足というか、宣伝です。昨年末における拙稿、補筆等を加えますと70件以上になりますが上位5番迄の注目記事と言うことです。私にはその順位に世情をも影響するのでしょうか、興味深いものを感じたところです。

 

 一位から五位は以下のとおりです。

再び、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/03/11 

 再び、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで 再投稿にあたって 首相主宰の「桜を見る会」を巡って、またも愚劣な政治ショウが始まった、私の印象です。何時もながら国会審議と称する議会で、あたかも正義の仮面を被ったかの如き主張、質問を浴びせる野党議員御自身、更にはその議員が所属する野党はそれほど清廉潔白なのでしょうか。離散・集合を繰り返す野党の政党交付金残高の推移ひとつを見ても、野党各党は果たして清廉潔白と言えるでしょうか。強いては、頻繁な離散・集合現象は自らが選ばれた選挙そのものへの問題をも含むのではないでしょうか。 野党各党はそれぞれが数%の支持率しかないのは何故なのか。何

再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/09/29/175204 

 再度・堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで はじめに テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す

 

 

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇してhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/07/11/123752 

 小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して 再投稿 一年ほど前に投稿したもので、私のかすかな思い出も入れながら記したものです。何故か、この11月に入り、66編の投稿の中で注目記事の5番目になっております。その理由は分かりませんが、今までの投稿の中では少し趣が異なっております。何か嬉しくなり、改めて、以下ご紹介する次第です。 2019年11月21日 淸宮昌章 はじめに 東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺譚…


牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2019/01/07/100818 

 牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで はじめに かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった…

十川信介著「夏目漱石」を読んでみてhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2017/08/19/113339 

 十川信介著「夏目漱石」を読んでみて 再投稿 加筆を加えますと、この4年強の間に70編を超える駄文を投稿しております。私としては僭越至極ながら、人生の大半を過ごした昭和の時代を再検討し、今を考えようとの思いで綴って参りました。そうした一連の流れの中、ちょっと異なる感想を綴った拙稿です。繰り返しで恐縮しますが、改めて一覧頂ければ幸いです。 2019年12月23日 淸宮昌章 はじめに 私の書棚に「三木清全集19巻」、並びに「夏目漱石全集17巻」及び「月報が」鎮座しております。夏目漱石全集の第一巻・我が輩は猫である、は昭和40年12月9日発刊、そして19巻・索引 は昭和51年4月9日の発刊です。毎年の…

 

 2020年1月5日

                                   淸宮昌章

 

松富かおり著「エルドアンのトルコ」(中央公論社)を読んでみて

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 松富かおり著「エルドアンのトルコ」(中央公論社)を読んで

 

はじめに

 

 本書が発刊された2019年7月25日の三日後、偶々、日経新聞がトルコによるロシア製の地対空ミサイルシステム「S400」の搬入に対し、米、トルコは亀裂を広げるな、との社説を載せました。トルコはNATOの加盟国であり、人口は8400万人、中東最大の経済規模を持ち、2018年にトルコが米国人牧師を拘束した際に米国が発動した制裁は通貨リラの急落を招き、その余波はアルゼンチンやインドなど他の新興国に及んだと、しています。

 続いて、日経新聞によれば今月の10月10日、11日との米国が支援していたシリア北部のクルド人勢力のシリア民主軍にトルコ軍が空爆を始めた、との報道がされました。アメリカ軍が当該地区から撤退したことも、ひとつの発端とは思います。米国は関与しない方針とのことでしたが、このままではこの戦闘は収まることはないでしょう。一方、EUはトルコ軍作戦の一方的中止を求める声明を出すものの、エルドアン大統領の強硬姿勢は何ら変わらず、クルド人のみならずトルコ国民、及び周辺諸国の国民は日を追って極めて深刻な状態に陥っております。「他国においてアメリカ人の血を流さない」との考え方は、特別異常な考え方とは、私は思ってはいません。むしろ、こうした考え方はアメリカでも広がっていくのではないでしょうか。

 尚、クルド人は3000万人の人口を持ちますが、自国を持たない世界で最大の民族とのことです。ロシア、中国への傾斜を強めるトルコの現状により、中東諸国のみならず、世界は極めて不穏な状況下となりました。

 私がトルコに関心を強く持ち始めた、ひとつのきっかけは本書「エルドンのトルコ」目にしたことにあります。トルコがオスマン帝国に起源を持ちながらも、帝国内の混乱等により力を失い、加え、第一次大戦ではドイツ側に立った為もあり、帝国は崩壊。その後、ケマル・パシャが独立軍を指揮し、類い希な軍事的才能で勝利。1923年に共和国を打立て、その後はNTOに参加し、中東の大国として共産国への防波堤としても、その役割を果たしてきました。私はトルコが親日的な国との印象は持つものの、何か遠い国との印象は拭えず、大きな関心も抱いてこなかったのが実情でした。

 そのような中、この7月、松富かおり氏が本書を発刊したわけです。前ポーランド大使夫人、前イスラエル大使夫人、加えて、ポーランドのSHOM(大使の夫人会)の会長等々としても活躍。2018年帰国後はジャーナリストとして本格的に活躍を始められました。氏は国際情勢をフェイスブックにも情熱を込められた投稿を続けられております。氏の正義感あふれる投稿に私は強い共感を覚え、毎回拝読しております。氏は現地にも度々訪れ、長年に亘る調査・研究のひとつの成果として本書が発刊されたのでしょう。私がフェイスブック上での友達という縁も重なり、今回、本書を取り上げた次第です。

 

その1.本書の構成

 

 本書はその「まえがき」で、三つの歴史的必然性を挙げます。第一章・クーデター未遂事件、第二章・二つのトルコ、第三章・さらに進むエルドアンの強権政治、第四章・トルコの外交、第五章・米中覇権戦争の中のトルコ、第六章・米中覇権戦争が熾烈さをます中、トルコで起こっていたこと、第七章・今後の世界、と続き、そして、あとがき、いう構成です。

 今回も本書の全体を紹介するのではなく、私なりに理解したこと、更には強く共感を覚えた箇所、更には私なりの思い、感想等を交え、記して行きたいと思います。

 著者はその「まえがき」で本書の意図・目的並びに視点・観点を次のように記しております。

 今私達は三つの大きな歴史的必然性の時代を生きている。

 第二次世界大戦後の世界をリードしてきたのは「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」の思想であり、それを支える「法の支配」、「基本的人権」、「言論、思想、報道の自由」、という価値観だった。冷戦の終結によりこれらの価値観を基にした「秩序」が安定するかに見えた。しかし、この秩序は現在、大きな挑戦を受けている。それが最も明確に現れているのがロシアと西側の「第二の冷戦」であり、今世紀の覇権を賭けた「米中覇権戦争」だ。この二つが我々が住む世界を「ニュー・ノーマル(新しい常態)」に変えつつある。(中略)

 第二の「歴史的必然性」は、強権主義とポピュリズムの台頭だ。・・(中略)市場経済を国の柱に据え、急激な経済的発展を遂げ、グローバリゼーションが進んだ社会では、必ず「グローバリゼーションから取り残された人々」が生まれ、社会の格差が広がる。グローバリゼーションから取り残された人々の不安な心に、神の前で全ての人間は平等であると説く宗教や、補償的なアイデンティティーを与えてくれる民族的な「ナショナリズム」が入り込み、多くの人の心を支える柱になっていくのもまた、様々な国で見られる傾向の一つといえる。・・(中略)今、世界中で広がる「強権政治の台頭」も、ヨーロッパ諸国で見られる「ポピュリズムの台頭」も、市場経済が広がる社会で、中間層に余裕がなくなり没落しようとする中で起こった現象なのではないか。・・(中略)民主主義の揺らぎに追い打ちをかけたのが、共産党独裁の中国による国家資本主義の経済的成功だった。この「成功例」が他の途上国にも「これで良いのではないか」という疑念を抱かせた。・・(中略)

 第三の必然は、イスラム世界のイスラム回帰だ。・・(中略)ケマル・アタチュルクの「世俗主義」から、近代化に成功し、市場経済の導入により中進国へとめざましい発展を遂げたトルコもまた、今まさに「イスラム的価値観を中心に据えた国」へと回帰しつつある。・・(中略)トルコという一つの国の変化がどのように起こってきたのかをつぶさに見ていくことが、今の世界を理解することに繫がると筆者は考えている。・・(中略)トルコがどのようなプロセスを経て変容したかをつぶさに見ていくことは、世界中で起こっている「強権政治の台頭」やムスリムの人々の「イスラム回帰」を読み解く鍵にもなる。(本書7~11頁)

 私は、まず、この「まえがき」に強い印象を覚えると共に、少し観点が異なりますが1998年に発刊された、佐伯啓思著「アメリカニズムの終焉」を改めて思い起こしもしました。

 そして、著者は、トルコが大きく変貌するきっかけとなった2016年のクーデター未遂事件、その後へと本書を展開していきます。

 

その2.クーデター未遂事件

 

 尚、私は現エルドアン大統領が国賓としても日本を訪れており、何か親しみを覚えていたのですが、本書を読み進めていく中で、その印象は大きく変わってきております。著者はトルコ政府と近い関係にあるというカタールアルジャジーラの衛星放送テレビの動画を克明な時間の推移で記述し、紹介していきます。その中で、著者の長年に亘るテレビ上で培われた経験をもとに、そのテレビアングルの不自然さをも指摘し、あたかもドキュメンタリー映像を観るように、1999年にアメリカに亡命したイスラム穏健派のフェットフッラー・ギュレン師が首謀者とされるクーデター未遂事件(2016年7月15日から16日)を記述していきます。

 エルドアン大統領は即座にギュレン師の陰謀と断定し、その事件後の数ヶ月後の国会演説で、「トルコ共和国にとって、7月15日のクーデーター未遂鎮圧は『第二の独立戦争』であったと発言している。『正に新しいトルコ共和国の建国神話』作りだ。第一ボスポラス大橋として知られた吊り橋は、クーデター未遂事件以降『七月十五日殉教者の橋』と名を変えた。封鎖した反乱軍兵士に抵抗し命を落とした市民を『殉教者』として社会の記憶に植え付けるためだった。」(65頁)と記しています。

 加えて、果たして250名の市民の殉教者は正しく必要であったのでしょうか、とも記しています。

 尚、著者はこの未遂事件をトルコ情勢に長けているという、ドイツの二つの雑誌、「シュピーゲル」及び「ツアイト」の記事への言及。更には著者自身がトルコを訪れ、調査・研究した上で、そのクーデター事件の不自然さを指摘していきます。

 その事件後に発生したその現状は報道への弾圧、密告社会の出現であり、強権・圧政政治、所謂「政府、議会、司法の三権を握る大統領」の出現である、と記しています。加えて、国民の半数からは「個人の自由を奪い、国の道を誤らせた」として蛇蝎のごとく憎まれている一方、別の半数の国民からは「新しい国の父」として熱狂的に慕われている、とも著者は記しています。この章は詳細なトルコの現状報告でもあり、私が知らないことばかりで、極めて興味深い章となっております。皆さんが直に読まれることを薦めます。

 尚、この章で私が気にかかるのが、ギュレン師です。1941年生まれのイスラム教穏健派とのことですが、何故に、1999年、自らの意志でアメリカに移住し、アメリカのペンシルヴェニアで10万ヘクタールの土地に護衛を付けながら住み続けられるのでしょうか。同氏とアメリカとの関係は、何かあったのでしょうか。莫大な思われる資金、その出所は何であったのでしょうか。あるいはその背景は何だったのでしょうか。

 そのギュレン師は2002年のトルコAKP(公正発展等)の躍進にアメリカに住みながら、エルドアン(当時は首相)に手を貸し、2011年までは盟友として、トルコ国内の権力を事実上分け合っていたとのことです。そのような二人の関係が何故に急速に、あるいは徐々にかもしれませんが壊れてしまったのでしょうか。私は不思議と思う共に、ギュレン師が短期間に急速に力を得ていたと思われる、その背景も知りたいところです。

 

その3.ふたつのトルコ

 

 私自身の記憶に残すためにもトルコの歴史に付き、著者の記述を以下、紹介して参ります。

 3000年にわたりヨーロッパとアジアを結ぶ架け橋となった国、それがトルコだった。紀元前1000年ほどからヒッタイト帝国、古代ギリシャローマ帝国ビザンチン帝国、オスマン帝国などが興亡した。まさに「東西文明の十字路」に位置する国。16~17世紀の最盛期にはウイーンを包囲し、ヨーロッパ諸国を脅かしたオスマン帝国だが、軍の秩序が保てなくなると各地で反乱が起き、農村は重税で荒廃し始めた。中央政府では腐敗が始まった。その頃ヨーロッパでは海への道を切り開き、オスマン帝国の「絹の道」に頼る必要がなくなった。・・(中略)第一次世界大戦でドイツと組んだオスマン帝国は敗戦した。戦勝国によって刻々と自分たちの国が列強に分割されようとする様子を見ながら、1919年5月に、ケマルらが率いる「国民会議」がトルコ独立戦争を始める。ロシア、英国、フランス、イタリア連合国は勝利の暁にはアスマン帝国の領土を完全に分割する秘密協定を結ぶ。・・(中略)この列強の要求に完全とNOを唱えたのが、ケマル率いる独立軍だった。軍事的には圧倒的に不利な戦いだった。しかし、ケマルは「独立か、しからずんば死か」と独立軍を指揮。ユーロッパ列強と旧オスマン帝国軍、その双方と激しい戦いを繰り広げ、類い希な軍事的才能でついに勝利。(72~73頁) 

 こうして、1923年、悲願の「トルコ共和国」が成立。ケマルはまさに「建国のヒーロー」になったわけです。

 そしてケマルはイスラム教を国教から外し、政教を分離する「世俗主義」をとった。と同時にアラビヤ文字からアルファベット文字に変える「文字革命」を断行した。著者は以下のように記しています。

 彼が共和国建設の柱に据えたのは「トルコ民族主義」であり、政治と宗教を切り離す「世俗主義」だった。トルコ共和国の誕生は、イスラム教発祥の地、中東・イスラム世界で初の「世俗民主主義国家」を建設することを意味していた。トルコはイスラム社会で唯一NATOに加盟している。西洋と東洋、キリスト教世界とイスラム教世界の「架け橋」になるだろうと思われた国だった。(76頁)

 しかしながら、1938年、建国の父、ケマルの死去後、トルコは大きく変貌していきます。トルコは軍部の力は強く、またその政治は長期的に安定しません。NTOに加盟し、外国で訓練を受けた若手将校は西側諸国との格差を目の当たりにする一方、国内の貧富の格差等々からクーデターも度々起こる状況となります。そうした経緯の中で、エルドアンは1954年、イスタンブールの「中央」や「エリート」や「富裕層」とは大きく異なる下町で誕生します。そしてエルドアンイスラム教穏健派のギュレン師の影響と支援をも得ながら、イスタンブールの市長、そして大統領に登りつめていきます。エルドアンは民主主義のひとつのツールである選挙制度国民投票、更にはメデイアを巧妙に駆使し、政界、経済界、司法界等々をもその配下に置くことに成功します。

 尚、「ギュレン師は政治とは距離を置いてきたが、親アメリカ・親ヨーロッパという点でエルドアンとは価値観の違が鮮明になっていった。」(114頁)と記しています。

 そして、2016年のクーデター未遂事件が起こり、以降、エルドアン憲法改正を含め、完全にトルコを「現代のスルタン」の如く、実権型大統領への移行を加速しています。因みに2014年、エルドアンはトルコ史上初めて国民の直接投票で選ばれた大統領となりますが、クーデター未遂事件以降は徐々に言論や報道に自由が奪われ、基本的人権の抑圧を強めていく。加え、トルコ政府はアメリカ、ドイツ、カナダ、英国等海外に住むトルコ人数百名をギュレン師に関わる者として逮捕。2018年3月までには、同様にその指導者の立場にあるとした海外居住者4600名を特定し、逮捕状を出したと、記しています。

 イスラム教回帰と民族主義を強く打ち出し、中東の大国を目指す中、2015年頃からトルコの外交は政権維持のために内政が外交を規定する、内政の外交へのエロ-ジョンが顕著となり、外部に敵を創り出す政策を敷いていくわけです。このオスマン帝国の復活を目指すかのような「新オスマン主義」は、結果的に中東諸国、及びアメリカを含めたNTO 諸国、EU諸国からの距離感が醸成され、トルコは歴史的には決して友国でないロシア、加えて価値観の大きく異なる共産党独裁政権の中国に近づくことになるのでしょうか。尚、著者は本書の「あとがき」で次のように印象深い記述をしております。

 一度外の世界を見、民主主義を経験し、自由や「主権は国民にある」という権利意識を持って生きてきた8000万を超える人々を、長期にわたって力で押さえつけることはできない。一度自由な生活を味わった人間は決してそれを諦めることはないからだ。(268頁)

 方や、中国国民はどうでしょうか。一度も民主主義という制度、あるいは自由という経験したことがないのです。言論・思想を統制し、宗教も禁止し、民族も文化も異なるウイーグル、チベット等々少数民族を教化・同化と称し、人民解放軍等をもって弾圧。然もその人民解放軍という軍隊は中国共産党の軍隊と言う特殊性です。更には最近見られることは言論統制を海外まで加えている、という現実です。「香港抗議デモ・騒動」を、何か他人事のように報じている日本の現状も、そのひとつの表れなのでしょうか。あるいはメデイアを含め平和ボケという日本の深刻な現実によるのでしょうか。

こうしたトルコの現状の中、世界はどのように変化、動いているのでしょうか。

 

その4.現状の世界と日本の選択

 

 著者は最終章の第7章で、トルコをケーススタディーとして研究してきた中、現状の世界を記して行きます。

 現在世界はロシアの拡張主義と欧州の対立を軸とする「第二の冷戦」と、共産党独裁政権の中華大国の復権、私にはその歴史的背景には疑義を持っていますが、その復権を賭け、一帯一路の構想を掲げる中国とアメリカの覇権戦争を軸とする「ニューノーマル」に時代に入ったのです。尚、天安門事件以降の中国のこれほど急速な経済的台頭、並びに軍事的台頭は想定外のことであったのではないでしょうか。その中国に日本はODAの対象国として昨年までは支援金を拠出していたのです。2015年、習近平国家主席の中国の経済覇権を目指す「中国製造2025」計画が発表され、更には地、空、海、宇宙、更にはサイバー攻撃への急速な軍拡が大きな危機感をアメリカを始めとして世界に持たせるに至るわけです。

 著者は本章で、アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、イラン、中東、そしてアジアと日本の現状を述べていきます。その上で、日本のあるべき姿・日本の選択を正義感と情熱を持って記述しております。私として強く共感と賛同を覚えるところです。以下、時には省略、時には私なりの解釈を加え、少し長くなりますが紹介して参ります。

 このように変化のうねりが激しくなりつつある国際情勢の中で、日本は今どう対処していくべきなのか。トルコの現状を注視することで何を得ることができるのか。「ニューノーマル」の時代に於いて、アメリカの最大の仮想敵国は中国だが、欧州にとってはロシアだ。この認識の違いをどうすり合わされるかが、今後の米・欧の協調関係を大きく左右するだろ。残念なことに、日本にとっては両国ともに隣国である。・・(中略)どれほど日本人が「平和を愛する民族」でありたいと希求しても、現代の世界情勢は日本を巻き込まずにはおかない。警戒を怠らず十分な備えをし、領海・領空の侵入には断固として対処するなど、外交を含めて、各国へのメッセージを「正しく」送り続けることが日本の安全を守ることに繫がる。・・(中略)現在日本は「北方領土問題がある」という特殊性を主張し、ロシアとの経済協力を進めようとしている。北方四島における共同経済開発だけでなく北極圏にあるロシアのヤマル半島の液化ガス案件も進む。日本政府がどのような事態に対し、どう対処するかを見ているのは、アメリカやヨーロッパだけではない。ロシアも中国も中東の国々も、アジアの国々も、観察し、記憶している。信頼して良いのか、というクエスチョンが突きつけられているのはトルコだけではないのだ。(244~247頁)

 

 その上で、著者は次のような注目すべき見解を述べます。

 ただし、著者は米中覇権戦争が長期化する中で、中国とロシアとの連携にくさびを打つことを視野に入れるべきと考えている。欧州やアメリカ議会はロシアへのアレルギーが強い。しかし、どこかの時点で、日本とロシアとの比較的良好な関係を、この大きな構図の中で役立てる機会があるのではないか。それならば、日本は慎重に、しかし、得るべきところからはしっかりと理解を得る努力をしながら、したたかに振る舞うべきだと考える。「顔が見えにくい日本」、「何を考えているかわからない日本」のままではいけない。(248頁)

 如何でしょうか。私は深く賛同するところです。そして本書を次のような印象深い記述で本書を閉じています。長い引用になりますが、以下、ご紹介致します。

 トルコの現代政治を追いながら見えてきたことは、「選挙」と「国民投票」という、まさに民主主義の根幹であるはずの制度が、使われ方によっては、最も深く民主主義を傷つけかねないということだった。・・(中略)このような中国式監視社会を現代の世界のスタンダードにしてはならない。国民の大半を貧困の中に置き去りにして、国家だけが強力になり、国内の政府に反対する人々やマイノリティ-(少数派)だけでなく、他の国をも圧迫するシステムをこれ以上世界に広げてはならない。その「価値観」を守ることが、戦後七五年、民主主義と平和を享受してきた日本の努めなのではないだろうか。

 経済も安全保障も緊密に連携し、複雑に各国の思惑が絡み合ってグローバルな波が押し寄せようとしている「現代」を生きている私達にとって、今や距離的に近いアジアだけを見て日本という国の行く末を論じるという怠惰はもう許されない。広い視野と長期的な展望を持って、国民一人一人が国の行く末を考えることが日本の将来を決めるという覚悟が必要だ。・・(中略)理想は必要であるが、理想だけで国際平和がもたらせるとは筆者は思わない。政治も経済も軍事も外交も文化の力も全ては結びついて有機的に機能するのだ。

・・(中略)トルコをケーススダデイとして研究し言えることは、宗教が異なる国でも共に繁栄し、共存することができる、ということだ。1923年から約100年近く欧米キリスト教社会とトルコのイスラム教社会は、平和に協調してきたのだから。

 それを可能にしたのは「法による支配」だった。今私たちが試みなければならないのは、異なる体制、異なる宗教、異なる文化の間でも「共有できるルール」を模索することだ。その基礎になるべき理念は「国家は個人をより安全に幸福にするために存在する」ということ。また、国家間で全面的戦争状態に至らないためには、各国がルールを守る必要があり「国家が互いに決めた国際法を遵守する義務を負う」という二つの原則ではないだろうか。それを守る国際機関の強化も必要だ。(257~259頁)

 

おわりにあたり

 

 僭越至極ながら私なりの理解で、本書を紹介して参りました。本投稿の「はじめに」でも触れていますが、著者はその「まえがき」で三つの歴史的必然をあげ、正義感と溢れる情熱を込めてトルコ並びに世界の現状、加えて日本の在り方を述べています。私は多くの方々に読んでもらいたいとの思いです。

 また、著者は中国についても多くの記述と日本の中国に対する大胆な提言もしております。その中国の経済的、軍事的台頭は果たして歴史の必然性であったのでしょうか。異論を持たれる方もあるでしょう。

 方や、経済的豊かさが始まれば中国は民主化に進む、あるいは旧ソ連と同じように情報の共有化が進めば共産党独裁政権は近いうちに崩壊する。そうした大きな見誤りが先進諸国、とりわけ日本の、中国大好きな人々、更には日本の識者といわれる人々の中国への視点・観点に大きな問題があったのではないでしょうか。中国共産党ソ連の崩壊の過程をじっと観て、研究し、その轍を踏まないことを決意したのです。国民が幸福になるか否かは別の問題なのです。共産党そして人民解放軍を構成する幹部が豊かになることが先決との判断ではないでしょうか。共産党及び人民解放軍の幹部が例外なく莫大な財産を構築し、海外に持ち出す現状は、我々の価値観とは大きく異なるものです。如何でしょうか。

 翻って戦後の日本と中国の関係を観ると、私には何か異様というか、異質なものを感じます。中国は旧ソ連と一時は戦闘状態になった中、アメリカによるニクソンショックはありますが、1972年に日中国交正常化がおこなわれます。その後は手のひらを返すような中国の日本への対応。加えて、天安門事件後では日本は欧米に先駆けて中国に手をさしのべたのです。その後の国賓として来日した江沢民時代からは日本のメデイアの誤報もありますが、日本の教科書問題等から発生した日本の歴史認識問題を取り上げ、日中関係は悪化。さらに胡錦濤時代は当時の民主党政権の権力者・小沢一郎が率いる民主党国会議員団(100名近いのでは)を大挙して中国を訪れさせ、壇上で胡錦濤主席と全員が握手させるという実に異様な光景を想起致します。私には極めて卑屈な日本外交を感じました。更には、尖閣問題についても、その場しのぎ腰の定まらぬ対応にも問題がありますが、中国との関係は急速に悪化していきました。それが共産党独裁政権の特性であり、大きく価値観が異なることの一つの証ではないでしょうか。

 日本は共産党独裁政権中国を短期的な見地で考えてはならないのです。現在は「米中覇権を巡る争い」という面だけで捉えてはならないのです。中国との友好関係を作ることは勿論、異論はありません。ただし価値観が大きく異なる中国には、長期的展望を持って対処していく必要を強く思います。極めて厳しい世界情勢の中にあって、来年には習近平国家主席国賓として迎えるようですが、日本は戦後の中国を巡る過去の過ちを決して犯してはならない、と考えます。私は習近平主席を国賓として迎えることに、世界はどう見るか一抹の不安を抱いているのです。

 尚、著者は本書の中で、中立・公正な報道がいかに難しいも述べています。果たして、日本の報道機関はどうでしょうか。そもそも日本には報道機関というものが存在するのでしょうか、と今までも幾度となく私は述べてきました。戦前、戦中、戦後とメデイアの在り方を僭越至極ですが私なりに見て参りましたが、戦後に最も反省をすべき権力者は日本のメデイアではなでしょうか。独りよがりの正義を振りかざし、世論と称するものを造出し、時の権力を掣肘すると称しながら、時の政府政権、政治を右往左往させてきたのは、正しくメデイアです。むしろ最大の権力を持ったのはメデイアそのものではないでしょうか。そのメデイアを規制するものがないのです。幼児を別として1億数千万の人口を持つ日本は日本語が通じ、聞くこと、読むことができること。このことは以外とメデイアには大きな力を与えているようにも思います。

 因みに日本の新聞購読者がここに来て大きく減少しているようですが、読売新聞の発行部数は800万、朝日は600万、毎日及び日経は220万、産経は180万を発行しているとのこと。一方、アメリカのウオ―ル・ストーリートは211万、ニューヨークタイムズは91万、ワシントンポストは55万、イギリスのタイムズは44万、フランスのルモンドは29万、とのことです。この彼我の違いは何に依るのでしょうか。加えて、日本人には宗教心が希薄なこともあり、それに対応するものがなくなって来ており、己を規制することが難しいのかもしれません。メデイア自身、自らを規制、律するものが少なくなっているのでしょう。また、日本の「恥の文化」も消えつつあるように思います。

 方や、テレビ離れが加速しているとしていますが、現在の各局の、特に報道番組と称する、下劣極まる実態は何なのでしょうか。視聴率を上げればいい、テレビも新聞も売上を上げなければ経営が成り立たない、謂わば商業主義に毒されたものに過ぎない存在になってしまった、と私には思えます。テレビに登場する識者と称される人々、加えて何の芸があるのか分かりませんが、何故に芸能人がそうした報道と称する番組に常時、登場しているのでしょうか。私を含めてですが、多くの老人は少なからずの影響を受け、世論と称するものを形成する要因となり、時の政府政権は大きく影響受け、その対応に右往左往しているのが現実ではないでしょうか。加え、国会論議とは一体、何なのでしょうか。そうしたマスメデイアに乗っかり、実に下らない国会討論と称することに終始しているのが現状ではないでしょうか。私はすぐテレビを切ります。

 一方、極めて由々しい現実ですが、我国の若い人々の政治への関心は薄いようで、国政選挙にのみならず、実に多くの若い人々がその投票権を放棄していることです。本当に必要なことは私を含めて老い先短い老人ではなく、これからの時代を背負う若い人々の権利の行使なのです。自らの命をも賭けて投票をする海外諸国の人々との、この差は、一体どこから来るのでしょうか。選挙制度はある面では、民主主義の持つ大きな欠陥のひとつですが、平和ボケとは言え、日本国民が本当に真剣に考えなければならない重大な問題になっている、と私は考えています。

 さらに言えば、他国の、アメリカの若者が命を賭けて日本を、日本人を守るなどということは、本来あり得ないことなのです。自国を、日本人を守るのは日本人自らでなければならないのです。本論からは外れましたが、本書はそのような意味においても、若い人々が読まれるように願っております。

 最後に、私には本書を読み進める中で、意味がわからない箇所もありますが、それはひとえに私の不勉強、理解不足のためです。著者の研究、情熱と正義感に深い共感を覚えました。これからの国際ジャーナリストとしての御活躍を心より期待しております。

 

 2019年10月20日

                       淸宮昌章

参考文献

 

 海外事情(2018 11・12)(拓殖大学海外事情研究所)イスラーム圏の地政学

 池内恵「アラブ政治の今を読む」(中央公論社)

 マイケル・ピルズベリー「china2049」(野中香方子訳 日経BP)

 阿南友亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

 中澤克二「習金平帝国の暗号 2035」(日経新聞社)

 同「習近平の権力闘争」(同)

 安田峰俊「八九六四」(角川書店)

 デヴィッド・アイマー「辺境中国」(白水社

 フランク・デイケーター「毛沢東の大飢饉」(中川治子訳 草思社文庫)

 清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

 佐伯啓思アメリカニズムの終焉」(TBSブリタニカ

 同「日本の愛国心」(中公文庫)

 筒井清忠「戦前のポピュリズム」(中公新書)

 水島治郎「ポピュリズムとは何か」(同)

 カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル「ポピュリズム」(長井大輔、高  山 祐二訳 白水社)

 その他

 

 

 

 



 

ブログ『淸宮書房」について

ブログ「淸宮書房」について

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その1 淸宮書房の発端と今

 

 今から4年ほど前になりますが、数ヶ月後に75歳になる2015年3月15日にブログ「淸宮書房」を立ち上げました。その意図は、2014年に拙著「書棚から顧みる昭和」を出版した後も、引き続き読み込んだ著書について、自分なりの感想、あるいは想いを記録として残して置くことは意味があるかもしれない、と勝手に考えたわけです。

 そして遅々とはしておりますが、64編の極めて長い駄文である現在の投稿となっております。ブログとしてはあまりにも長く、目を通して頂ける方は極めて少ないと思っておりましたが、お陰様で、現在のアクセス数は32000台となっております。海外在住の若い方も読んで頂いているようです。私としては驚きながらも、全ての皆様に感謝申し上げると共に本ブログを続ける上で、私への大きな励みにもなっております。

 

 この数ヶ月は右手のしびれのため、残念ながらパソコンも打てず、投稿も滞っております。方や、8月という敗戦記念日(?)の為、あるいは現下の大きく変化する世界情勢の為でしょうか、敗戦に関わる数年前に投稿した駄文が注目記事の上位5番内に入ってきております。

 

 また、現下の日韓問題については、文大統領は一つの思想というか、想いにこり固まった人物と思っており、その登場時点から日韓関係は極めて危険な状態になると記して参りました。尚、現在の日韓関係を述べたものではありませんが、日韓歴史認識問題についての投稿は、当ブログの最初の投稿でした。本投稿の「補足」にて、改めてご紹介致します。お時間とご興味があればの上ですが、ご一覧頂ければ幸いです。

 

 一方、吉田茂没後50年ということで、改めて発刊された吉田茂「日本を決定した百年 附・思い出す侭」(中公文庫)、同「大磯随想・世界と日本」(中公文庫)、並びに高坂正尭「宰相・吉田茂」(中公クラシックス)は明晰な文章で吉田茂を語っており、感銘を受けました。加えて、松富かおり氏著「エルドアンのトルコ」は三つの世界の歴史的必然という観点に立ち、記されたものです。現エルドアン大統領によるイスラム教回帰とロシア並びに価値観が大きく異なる共産党独裁政権の中国に近づく現在のトルコの現状。加えて、激しく変動する世界、そして日本の在り方、及び我々自身の在り方をも情熱を持って語られております。体調が戻り次第、先ずもって「エルドアンのトルコ」について、僭越至極になりますが、私なりの感想など、記したいと思っております。尚、読みたいリャオ・イーウ-「銃弾とアヘン 『六四天安門』生と死の記録」(白水社)が今日、届きました。

 

 この8月に大きく変わった順位ですが、以下ご紹介致します。

 

1.再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2016/09/29 

再度・堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで はじめに テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す…

 

2.牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/1 

牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで はじめに かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった…

 

3.筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/03/11 

筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで 投稿にあたって 昨今の国会審議を見ていて、やりきれないと思うのは私だけでしょうか。本来,審議・討議すべき法案は何ら触れず、関連事項と称するものに莫大な時間を労し、時には審議も欠席放棄、そして時間だけ進んでいくこの現状は一体、いつから始ったのでしょうか。籠池夫婦の逮捕拘留にも繫がった森友学園問題、更には天下り斡旋問題で引責辞任し、不可解の言動を繰り返す文部科学省前川喜平前次官が述べる加計学園の忖度問題等々、マスメデイア報道は実に嘆かわしいことではないでしょうか。奇しくも今回、私が掲題の筒井清忠氏が本書で取り上げておりますが、戦前の若…

 

4.阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/03/16 

阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで はじめに 2019年3月2日の日経新聞の「米、WTO改革で提案」に記事によれば、スイスのジュネーで2月28日に開かれた世界貿易機構(WTO)の一般理事会で米国が中国などを念頭に、経済発展を遂げた国は「発展途上国」としての恩恵を受けられなくする規定の導入を提案したとのこと。仮に中国が途上国でなくなれば通商交渉での立ち位置は大きく変わり、中国は反対しているようです。「月の裏側にロケットを飛ばした国を誰が途上国とみなすだろうか」と米国代表は中国を皮肉ったようです。方や、中国の習近平国家主席は2018年11月、パプアニューギニアで開かれた太平洋経済…


5.佐伯啓思著「『アメリカ二ズム』の終焉』の投稿を省みて
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/05/02 

佐伯啓思著「『アメリカニズム』の終焉」の投稿を省みて 再々の拙稿にあたって 佐伯氏の著作については、今から4年ほど前になりますが、私がニューヨーク駐在時代(1978年~1984年)にお世話になった信託銀行の支店長(帰国後は副社長)に「日本の愛国心」を紹介され、深い共感を覚えました。そして、2016年7月に「日本の愛国心」の投稿となりました。その後も、「日本という価値」、「日本の宿命」、「正義の偽装」、「さらば資本主義」、「さらば民主主義」、「反・民主主議論」、「経済成長主義への決別」「従属国家論」等々と、次々と氏の著書を読み進めました。 2017年3月に「反民主主義論」、同年5月に「アメリカニ

 

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その2.淸宮昌章「書棚から顧みる昭和」(言の栞舎)

 

 本書は私が73歳で一線をある面では強引でしたが全て退き、自由の身になった2013年の秋、テニス仲間でもある日経BP社の元編集者・井関清経氏が、東京国立で開かれている読書会に提出していた私の数十本の原稿を読み、本にしませんか、とのことで自費出版の運びとなりました。尚、そうした原稿は昭和の時代の大半を過ごした私が、僭越ですが自分なりに昭和の時代を再検討したく書き連ねたものでした。そして井関氏は同時に「言の栞舎」を立ち上げ、本書が第一号の出版になった次第です。尚、本書の装幀デザインは氏の奥さんである かわさきのりこ さんです。そのデザインは私がクリスチャンであることもあり、十字架の意も込められております、とのことです。

 

 私としては予想外の進展となりましたが、親友を含め友人三人が発起人となり、東京内幸町のシーボニアメンズクラブで出版記念会が開かれました。私が長年お世話になった岡谷鋼機(株)の岡谷社長からも盛大のお花を頂くと共に、常務及び先輩・後輩も出席頂きました。大学ゼミ仲間、高校時代の友人、又、私が岡谷鋼機を卒業後、次々と企業の再生・再建を懇請されることになり、その時代にお世話になった大手弁護事務所代表の先生、その時々の会社の役員、幹部社員、労働組合の委員長、書記長、色々と助言を頂いた仕入れ先の社長の皆さん、更には携わってきたNPO法人の理事長並びに事務局長、そして現在のテニス仲間の皆様が出席され、それぞれの方々から身に余るお言葉を頂きました。改めてその時代のそれぞれのことが思い起こされ、感慨深い貴重な時を過ごさせて頂きました。蛇足になりますが、その後、私もシーボニアメンズクラブの会員になりました。

 

 そして、一瞬のうちに私にとっても記念本である200冊は私の書棚の二冊を残すのみとなりました。尚、国会図書館、地元練馬区の図書館に送るとともに、資料として種々参考にさせて頂いた拓殖大学海外事情研究所、月刊誌「選択」にもお送りし、教授、編集者より丁重なメール、お手紙を頂いた次第です。

 

 私は出版については全く知識がなく、本書の値段も1,800円としました。少し凝りすぎた為でしょうか、増刷には一冊5,000円程かかるとのことで増刷は断念致しました。因みに、5年前のことですがアマゾンでは一時、一冊1万数千円との値がついておりました。

 

 補足

 

 下記は本ブログ「淸宮書房」の立ち上げた際の二つの投稿です。


再・木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か・・歴史教科書・『慰安婦』、ポピュリズム]
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2015/03/18 

再投稿にあたって・・追記 韓国内外に亘って、日を追う毎に高まる韓国の官民挙げての反日行動・発言は止まることはなく、むしろ強まっていると思います。この2月10日、韓国国会議長の、その位置づけ、その立場に関しては、私はよく分かりませんが、慰安婦問題に関して「天皇陛下が謝罪すべき」との報道が日経新聞等でされました。その後の韓国政府の動向に鑑みても、韓国の反日・敵視感情はここまで来たか、との思いは不快を通り越し、強い嫌悪感を持つに至りました。 戦後74年の日本の歩みとは一体何だったのか。新憲法の下、大きく変わった象徴天皇。特に現天皇皇后陛下は皇太子・皇太子妃時代からの火焔瓶を投げられた沖縄慰霊のご訪…

再び・澤田克己著「韓国『反日』の真相」(文春新書)を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2015/03/17 

再投稿にあたって 約二年前の投稿ですが、木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か」に加筆し、再投稿しました。日韓合意の問題が生じたこともあるのでしょうか、お陰様で多くのアクセスを頂き、私の50編近くに及ぶ拙稿の中、注目記事の一位に取って代わりました。その木村幹氏が直近の文藝春秋平成27年三月特別号で、「慰安婦合意反故『韓国という病』」との表題の下、韓国について極めて注目すべき見解を発表されております。韓国、朝鮮半島の研究者の第一人者である木村氏の見解です。「日本は民主主義や法と正義について正反対の考えを持つ韓国とどのように付き合っていけばいいのか」等々です。僭越ながら共感を覚え、省略になりますが、以…

 

      2019年8月30日

 

                            淸宮昌章