清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで

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牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで

 

再投稿に際して

 

 元投稿は2019年1月に投稿したものです。その前年の11月、私より数歳上の畏友・堀口正夫氏より、掲題の本書を紹介頂きました。と共に、氏が慶大の3年次の時、本書に登場する竹村忠雄と出会い、その印象・想い出などを記したメールを頂き、私なりの感想なども加え投稿したものです。

 

 尚、その堀口氏も昨年、鬼籍には入られました。本投稿は堀口氏との最後の通信となってしまいました。本投稿はそんな意味でも、何か私の心に残る投稿となっております。現在のコロナパンデミックに遭って、改めて、平和ボケにある我々は歴史から何を読み取るものがあるのか、否か。思うところです。

 

 2021年6月1日

                         淸宮昌章

 

はじめに

 

 かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。

 

 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。

 

 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があったので友人と聴講した。竹村氏は当時50歳位であったと思われるが、話しぶりは大学の教師らしくなかったが経歴は判らなかった。講義のなかで「日本はアメリカと戦争しても二年しかもたないことは判っていた」と言う驚きの発言があった。小生の思ったことは、こういう調査を行ったのに何故アメリカと開戦したのかと疑問を感じ、大学卒業後60年間気になっていた。

 

 最近表題の本が出版されたので、書店で目次を見てみると「竹村機関」という活字を目にし、早速読んでみた。(以下略)

 

 なお、私もこの本書を題名に惹かれ既に買い求めてはおりましたが、このように畏友の薦めもあり、私も本書を読み込んだ次第です。なお、本書の著者は1977年生まれ、近代経済思想史を専攻とされる若き経済学博士です。本書の「はじめに」、以下のような印象深い冒頭文章を以て始まります。

 

 昭和16(1941年)、日本はなぜ勝ち目のないアメリカとの戦争を始めたのだろうか。戦後の視点からすれば「対米開戦」、正確には「イギリス、アメリカへの宣戦布告」という選択肢は非合理の極地としかみえない。当時のエリートである日本の指導者たち、(特に軍人)が特別に「愚か」「非合理」であったわけではない。(本書3頁)

 

 その要因を、ある面では闇に包まれていた陸軍省戦争経済研究班(通称秋丸機関)を調べ上げ、探求することにより、その謎の一部を描き出そうとする試みです。私の知らなかった数々の事実を調べ尽す、極めて高度な、興味深い歴史書となっております。今回は本書の全体を紹介するのではなく、私が興味深く感じた諸点を、私自身の参考書、謂わば、ひとつの「覚え書」として残そうと考えた次第です。結果的には普段以上に長い駄文になっており、恐縮しております。

 

満州事変から太平洋戦争へ

 

 日本の戦前の歴史の流れを見ると、太平洋戦争は日中戦争が原因で起き、日中戦争は満州事変に起因していることがわかる。そして、満州国の建国が太平洋戦争の遠因ということがある程度理解した上で、初めて「秋丸機関」の性格がわかってくると、著者は記しております。

 

 では、その満州事変にいたる日本の状況はどうであったのでしょうか。古川隆久氏の「昭和史」を参考にしながら、以下記してみます。

 

 日本史上初めて選挙結果をもとに、1924年成立した加藤高明率いる護憲三派内閣のもとで男子普通選挙制度ができます。政治の民主化が進んだとされ、世論からもそれなりに期待された政党内閣でしたが、同時に共産主義運動を取り締まる治安維持法も成立します。そうした中、護憲三派の足並みは乱れ、衆議院の過半数をもたない与党憲政会の加藤高明内閣は1926年初頭の議会を乗り切ろうとします。ところが加藤首相が突然病死。首相の病死という政治問題ではない原因で政権交代は好ましくないとする、元老西園寺公望の判断で、加藤内国の内相若槻礼次郎が政権を継ぎます。それからは与野党双方が、からんだ汚職事件が摘発される一方、与党憲政会が野党政友会の田中総裁の陸軍大臣時代の機密費横領疑惑問題が噴出します。そして、新聞や雑誌に政党内閣を批判する記事や論文が目立ってきます。

 

 一方、第一次大戦時の好景気の反動としての戦後不況や、関東大震災がきっかけで生じた大量の不良債権が中小銀行を襲います。1927年(昭和2年)3月14日、衆議院予算委員会で、片岡直温蔵相の、まだ倒産していなかった東京渡辺銀行が倒産したとした為、全国的に信用不安が発生し、中小銀行の休業という、いわゆる昭和恐慌の発生です。方や、日本人居留民の保護とのことで、山東出兵が行われます。続いて、1928年(昭和3年)に、三・一五事件による共産党関係者の大量検挙、治安維持法の改正、更に関東軍参謀河本大作による奉天郊外の線路上の張作霖爆破事件等々が続きます。それに追い打ちを掛けるように1929年(昭和4年)の世界恐慌の発生の中、翌年の昭和5年に旧平価での金輸出解禁実施が行われます。そして、1931年(昭和6年)に満州事変が起き、翌年に満州国が建国されます。

 

 なお、著書の視点として、昭和5年から続く昭和恐慌の最中に満州事変が起きたこともあり、「過った経済政策による昭和恐慌が国民の不満を高め、満州事変支持につながり、それがその後の戦争へつながった」とみなされることが多い。が、実際には金解禁論争以前から中国における国権回復運動と、それに対する日本の世論の反発などを通じて、日中関係はかなり悪化し武力衝突も頻発していた。満州事変を起こした関東軍参謀石原莞爾に関連して、次のように述べています。

 

 満州事変をこの時期に起こした石原莞爾は、1929年のニューヨーク株式市場における大暴落を契機とした世界恐慌の広がりの中で、アメリカなど各国は恐慌への対応に追われて動けないと判断していたと考えられる。昭和恐慌とは無関係に満州事変が起き、国民の支持を得た可能性も大きい。ただ、満州事変の結果誕生した満州国への投資が金輸出再禁止後の日本の景気回復に貢献したのは事実である。日本は高橋是清蔵相による財政拡張政策、通称「高橋財政」下で通貨が膨張する中、満州事変で成立した満州国に投資を拡大することで日本と満州との経済的結びつきを強化していく。(15、16頁)

 

秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の創設

 

 秋丸次郎中佐は1939年(昭和14年)9月、陸軍省軍務局事務課長の岩畔豪雄大佐より上記研究班の創設を命じられることになります。その趣旨は以下のとおりです。

 

 わが陸軍は、先のノモハンの敗戦に鑑み、対ソ作戦準備に全力を傾けつつあるが、世界の情勢は対ソだけでなく、既に欧州では、英・仏の対独戦争が勃発している。ドイツと近い関係にあるわが国は、一歩を過まれば英米を向こうに廻して大戦に突入する危惧が大である。大戦となれば、国家総力戦となることは必至である。しかるに、わが国の総力戦争準備の現状は、第一次世界大戦を経験した列強のそれに比し寒心に堪えい。・・(中略)そこで陸軍としては、独自の立場で秘密戦の防諜、諜報活動をはじめ、思想戦、攻略戦の方策を進めている。しかし肝心の経済戦については何の施策もない。貴公がこの度本省に呼ばれたのは、実は経理局を中心として経済戦の調査研究に着手したいからである。(18頁)

 

 秋丸次郎は宮崎県飯の村(現・えびの市)生まれ、陸軍経理学校を経て主計将校に、卒業後は陸軍省委託学生として、東京帝大経済学部に入学。河合栄治郎門下の山田文雄のもと、工業政策を学び、帝大卒業後は関東軍参謀となり、「関東軍参謀部に秋丸参謀あり」と称される。満州国の経済と深く関わり、「革新官僚」と称される岸信介、椎名悦三郎等との人脈も持っております。そして、秋丸機関は「陸軍版満鉄調査部」として昭和15年1月発足します。その陣容は戦後石炭と鉄鋼の増産を交互に繰り返す「傾斜生産方式」を進めた有沢広巳を主査に、その陣容を整えて行きます。なお、戦前の有沢は1938年(昭和13年)第二次人民戦線事件で、大内兵衛、美濃部亮吉、脇村義太郎ら他の労農派マルクス経済学者と共に治安維持法違反で検挙されますが、14年には保釈されており、当時の日本における戦時経済研究の第一人者でした。

 

 有沢広巳を中心とする英米班、日本班には中山伊知郎、河上肇の門下生である宮川実をソ連班、ドイツ班には慶応義塾の竹村忠雄主計中尉(尚、後には秋丸を引き継ぎ竹村機関となります)、更には行政学者の蝋山政道の国際政治班、高橋亀吉が主宰する高橋研究所員、東洋経済新聞社の村山公三、加えて近衛文麿のブレーンある昭和研究会といった当時の錚錚たる学者達、大川一司、塩谷九十九の面々がこの秋丸機関に参画していきます。

 

新体制運動の波紋

 

 この研究班の体制が整い、活動が緒についた頃、一般政財界において、満州国における関東軍の様に、内地でも陸軍が日本の経済界を牛耳り、統制経済に移行するのではとの疑念が生じます。即ち、治安維持法で検挙された有沢を起用する秋丸機関が経済新体制を推進する司令塔と見なされ、政財界、検察、右翼から攻撃が行われ、謂わば逆風的な中で研究班は発足したわけです。著者は次のように述べています。

 

 政治面での新体制が求められた背景として、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全が深刻化してきたことが挙げられる。大日本帝国憲法下では特定の組織や人物への権力分立体制が採られており、例えば内閣総理大臣も国務大臣の首班ではあるものの他の大臣と対等な地位とされていた。こうした権力分立体制を補い政治を安定させていたのが元老制度であったが、元老が死去していき、既存政党は相次ぐ汚職や内紛によって国民の信頼を失い、他方で「高度国防国家」建設のためにより一層の統制を求める軍とそれに反発する政党・財界とが対立する中、権力の空白が続いたことも一因となり日中戦争は泥沼化した。・・(中略)公益優先の原則の下で「資本と経営の分離」を実行して私益を追求する資本家から企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営する「経済新体制」の実現が目指されるようになったといえる。(40~42頁)

 

 方や、「資本と経営の分離」論を「利潤本位から生産本位」へと表現した昭和研究会で活躍した朝日新聞の笠信太郎著「日本経済の再編成」は、実質は秋丸の執筆であり、経済新体制の運動の重用人物は秋丸機関とされます。そうした中、新体制運動の中心であったはずの近衛文麿は政財界、観念右翼等々の批判に動揺し、政治や経済の革新に著しく消極的となり、昭和15年に発足した「大制翼賛会」もその政治性はなくなり、単なる政府の外郭団体に過ぎないものになります。著者は次のように記しております。

 

 新体制運動に対する批判が繰り広げられ、それによって政治新体制も経済新体制も事実上骨抜きにされたことは大日本帝国憲法と、資本主義経済の原則といった明治以来の体制が守られたことを意味する。しかしその一方で、特に政治新体制が解決を目指していた「権力分立的な大日本帝国憲法の制度下では意思決定が効率的に行われない」という問題は全く解決されずに残ってしまったことになる。そして昭和16年になると国際情勢はますます大きく変化していく。その中で日本が明確な意思決定を十分に行われない権力分立的な状態にあったことが、逆説的ではあるが「対英米開戦」という重大な意思決定を行う結果となってしまったとも言えるのである。(52,53頁)

 

 皆さん、如何でしょうか。私は僭越ながら賛同するところです。

 

秋丸機関の報告書

 

 上記のような経緯がある中で、ではその秋丸機関の報告は何を語り、それは、陸軍上層部等に、どのように報告され受け止められたのでしょうか。

 

 なお、秋丸機関が発足する昭和15年には日独伊三国軍事同盟、日本軍の北部仏印進駐により日本は英米の関係は悪化し、アメリカの鉄屑輸入禁止等重要資源の入手が困難な状況に追い込まれておりました。そのような状況下で秋丸機関の報告がされます。

 

(A)日本班の研究では日中戦争の二倍の戦争は日本の国力では無理であることを指摘し、さらに「英米合作経済抗戦力調査」、「独逸経済戦力調査」を合わせれば英米の弱点といえる船舶輸送力を攻撃するドイツの経済力には限界があるのでアメリカは当然のこととしてイギリスを屈服させることは困難であり、時間が経てば経つほどアメリカの軍事力は強大になっていく。つまり日本は非常に高い確率で致命的敗北を喫する。

 

(B)一方で独ソ戦が短期間で独逸の勝利に終わり、ドイツがソ連の資源と労働力を手に入れさらに南アフリカに進出して自給力を高め軍事力を強化し、イギリスを早期に屈服させられれば、アメリカは交戦意欲を無くして、日本が南方の資源を入手した状態で講和が出来るかもしれない。つまり日本は非常に低い確率で有利な講和をできる可能性がある。(136、137頁)

 

 即ち、秋丸機関は「全く日本の勝利の可能性は無い」という主張はせず、わずかでも敗北を回避できる可能性がることを指摘することになった。加え、参謀本部の「北進」論に対し、陸軍省軍務局「南進」を支持するレトリックとして受け止められたのです。秋丸次郎自身は回想でその報告について、「消極的平和論には耳をかす様子も無く、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知る者にとっては、薄氷を踏む思いであった」と書いている、と著者は記しています。

 

何故開戦の決定か

 

 昭和16年7月の南部仏印進駐によって、対日石油輸出禁止のアメリカの強力な経済制裁が行われ、陸軍等の宣伝にも乗った報道機関により、世論も対米開戦の機運がさらに高まります。秋丸機関だけでなく陸軍省戦備課を含め各種の研究所での演習にしろ、対英米戦争をすれば短期的には何とかなっても長期戦になれば日本は困難な情勢に陥ることは、当時の日本の指導者は皆知っていた。では何故開戦に至ったのか。当時の指導者の「非合理的な意思決定」「精神主義」が原因なのか。著者は行動経済学のプロスペクト理論により次の様に展開していきます。経済学では「人間は合理的に意思決定をする」と考えられてきたが、実際には人間は非合理的に見える行動を取ることがよくある。

 

(A)確実に3000円支払わなければならない。

(B)8割の確立で4000円支払わなければならないが、2割の確率で一円も支払わなくてもよい。

 

 人間は現在所有している財が一単位増加する場合とでは、減少する場合の価値を高く評価する。そのため、人間は損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすることを望む。従い、「一円でも支払わなくてもよい」という確率が主観的に過大に評価されBを選択する。

 

 方や、既に記してきたように、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全状態を打破するための取り組みであった昭和15年の政治新体制運動は挫折し、「船頭多くして船山に登る」状態であった。そうした「集団意思決定」の状態では集団成員の平均より極端な方向に意見が偏る集団極化、即ちリスキーシフトが起こることが社会心理学的な研究でも知られている。謂わば、個人の状態でもプロスペクト理論によってリスクの高い選択が行われやすい状態の中で、そうした人々が集団で意思決定をすればリスキーシフトが起き、極めて低い確率の可能性に賭けて開戦という選択肢が選ばれてしまう。著者は以下、記しております。

 

 昭和15年の新体制運動は「国体」を守ろうとする観念右翼、「議会制民主主義」を守ろうとする政党政治家、「私有財産制」を守ろうとする経済自由主義者の反対により挫折した。それは明治維新の結果である大日本帝国憲法とそれに体現される政治経済システムを守ったことになるが、皮肉なことにそのために「船頭多くして船山に登る」状態を変えることができず、日本が一層重大な決断を迫られた翌年の対英米開戦という極めてリスクの高い選択になってしまったともいえるのである。(161頁)

 

 一般国民はマスメデイアによる軍部の宣伝、更には文化人というか、当時の東方会の中野正剛達による対米デモンストレーションの中、対米戦争も敢えて辞せずという冒険的気分に侵されていた。即ち、日本全体が集団極化してリスキーシフトにより「冒険的気分」が広がり、対米強硬論が世論となっていたのです。

 

 残念なことなのかもしれませんが、先の見通しが立たなかったからこそ始まった戦争、「つまり、アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と、開戦三年目からの見通しつかない戦争は、どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく、ともにどうなるかわからないからこそ、指導者たちが合意することができたのである。結局11月26日にハルノートが提示され、日米交渉は頓挫し、残された唯一の選択肢である開戦が選ばれたことになる。」(169頁)

 

 著者のこの視点は興味深い、一つの新たな研究成果ではないでしょうか。加えて、著者は川西晃祐氏の印象深い言葉を引用され、次のように記していす。

 

 もし現在のわれわれが太平洋戦争開戦に至る歴史から学びえるとすれば、それは、日本の国力を過信した訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかったアクターよって戦争が選択された事実である。正しい情報と判断力があれば戦争が回避ができるわけではない怖さを、この時のアクターらの行動は示していると言えよう。(170頁)

 

正しい戦略とは

 

 著者は次のように記しております。

 

 日本の経済学者が「日英米開戦」の回避に貢献できただろう方策は、日米の経済格差という「ネガティブな現実」を指摘することではなく、むしろ、「ポジテイブなプラン」を経済学を用いて効果的に説明することであったろう。この「ポジテなプラン」はあくまでも開戦論を抑えて時間を稼ぐためのレトリックなので、必ずしもエビデンスに基づく必要はない。ドイツの国力は現在が限界なので数年でソ連と英米に挟撃されて敗北する。その後は英米とソ連の対立が起きるのでそれを利用する。そうした「臥薪嘗胆論」が説得力を増し、日英米開戦は回避された可能性がある。勿論、硬化した世論をどう説得する大きな問題はのこるが、秋丸機関は、こうしたことが可能だったかもしれない数少ない組織だった。有沢広巳、中山伊知郎をはじめ多くの優秀な経済学者、国際政治の蝋山政道、ドイツ経済を含め戦略的思考をもできる竹村忠雄等々を巻き込んだ秋丸機関であった。その上、中山、竹村、蝋山は当時の論壇でも活躍しており、メデイアを通じて世論を変えさせることも可能だったかもしれない。結果は、悲劇ですが秋丸機関の報告は「日英米開戦」の材料にされてしまった。陸軍そして日本は、敗北するとが確実な「日英米開戦」に踏み切ってしまったのです。

 

 極めて厳しい著者の指摘ですが、秋丸機関による開戦回避への可能性はあったのでしょうか。上にも記した中野正剛、更には「国民新聞」の徳富蘇峰といったジャーナリスト、文化人がメデイアにより更に煽られ、そして作り出される当時の世論を変えることは至難の業であった、そうした現象は今でも大きな問題だと、私は考えております。民主主義に伴う一つの大きな問題だと考えております。

 

戦中から戦後の秋丸次郎、有沢広巳、竹村忠雄

 

 秋丸機関の報告書は内容自体当時の「常識」に沿ったもので、国策に反したものではなかったはずだが、その報告書が見つからなかったこともあり、戦後は開戦を決定していた陸軍の意に反するものとして焼却された、との定説が流れた。

 

 しかし、事実は昭和16年10月、尾崎秀実・ゾルゲ事件が起こり、陸軍から大量の情報がソ連に流れてもいたとことが、秋丸機関の中心とも言うべき、左翼的思想の持ち主と見られた有沢広巳他がその機関より追放されます。

 

 現在、東京大学経済学部資料室に所蔵されている有沢資料の中には、有沢が執筆したと推察される「英米合作経済抗戦力調査」他が整理・保管されているとのことです。従って、著者は「戦後に秋丸機関についての語り口が固定される中でゾルゲ事件に触れられることも無くなって、秋丸機関の報告書は国策に反するものだったので回収され焼却された、ということになったのではないか」と記しています。

 

 方や、開戦とともに秋丸は大本営での仕事が中心となり、竹村忠雄がそれを継ぐ形で「竹村機関」となります。そうした中、秋丸機関創設時に大きな役割を果たした小泉吉雄らが、ゾルゲ事件に関与したとのことで検挙される、所謂、満州調査部事件が起き、秋丸次郎他関東軍第四課出身の軍人が問題視される一方、公的な経済調査機関が整備され、秋丸機関は昭和17年末に解散となります。

 

 その1 秋丸次郎

 

 戦後の秋丸は地元の飯野町の町長を二期務め、その後は社会福祉協議会を設立し会長を長く勤め、平成4年8月23日、93歳で死去。「敗軍の将は兵を語らず」とのことで戦後は自らの体験を語ることはなかったが、昭和58年の陸軍経理学校の同窓会、若松会の機関誌には次のように記しているとのことです。

 

 経済戦研究班ばかりでなく、遅れて発足した総力戦研究所にしても、第二次大戦の遂行に対しては、ほとんど寄与することなきままに悲劇的な結末に終わった。その因果を省みると、昭和14,5年に陸軍の南進策が決まり。英・米を向こうに回して未曾有の大戦に突入することを予想する時になって、急いで経済戦や総力戦の研究調査機関の設置に着手した“泥縄式”の措置であったことに基因するのである。国防とか戦争とかを考える上で、たとえ専守防衛であっても、常時、科学的・原理的な準備のため機関を常設することの重要性を痛感する次第である。(218頁)

 

 共感を覚えるところです。秋丸は平成4(1992)年8月23日、93歳で死去します。

 

 その2 竹村忠雄

 

 竹村忠雄は終戦直後には慶應義塾大学を追放され、日本共産党系学術団体からは戦争責任者の一人としてされますが、自分の戦中の行動については弁解は一切しなかったとのことです。なお、竹村は戦中では、秋丸機関が解散後も警視庁特高課からはマルキスト、内閣情報局からは英米派と警戒されながらも引き続き多方面で活躍します。実際の終戦は直接的には原爆投下と、ソ連の対日参戦によるものでしたが、鈴木貫太郎首相による政府が公的に戦争終結の活動を始めるレトリックを作り出すことに貢献した、と著者は記しております。加えて、極東国際軍事裁判では戦犯問題に協力を求められ、「経済学的見地に立ちて大東亜戦争の必然性を論評す」を提出。以下のように主張し日本の行動を弁護しております。

 

 日本は過剰人口に悩み市場を海外に求めざるを得なかったにもかかわらず、日本製品がイギリスなどから閉め出されさらに南部仏印進駐後に石油の禁輸を受けたことで、「茲に於いて我国は三度買い得ざる者は遂に盗むの罪を犯さざる窮地に追い込まれ、太平洋戦争が勃発したのである。」「太平洋戦争の経済的遠因並に近因を検討するならば、それは我国の人口問題の解決を戦争による領土の拡大以外に他に道を与えられなかった独占的国際経済秩序が生んだ罪である」と主張して日本の行動を弁護している。(223頁)

 

 如何でしょうか。一つの視点・観点でと見るべきものでしょう。竹村は昭和62(1987)年12月14日、82歳の生涯を閉じます。

 

 その3 有沢広巳

 

 有沢は戦後、昭和21年、第一次吉田内閣の私的ブレーンとして石炭と鉄鋼の増産を繰り返す、所謂「傾斜生産方式」を提唱します。その真意は有沢自身がGHQの輸入許可を求める品目のうち「とくに鉄鋼と重油を重視していた」。有沢らが日本経済の復興に於いて最も重視していたのは実は石炭の生産ではなく重油の輸入であった。つまり傾斜生産方式というのは「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建をする」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックで、自助努力のプログラムを示し、アメリカからの重油の援助に成功した。著者は次のように記しています。

 

 竹村忠雄がその経験を基に戦争を終わらせるレトリックを作るのに貢献したのと同様に、有沢広巳はその経験を基に戦後に傾斜生産方式というGHQを説得するレトリックを生みだすとともに、「何か新しいことをやるように」ということで国民を勇気づけて労働意欲を引き出し、それが戦後復興に役立ったのである。有沢はその後も多くの産業政策や石炭・原子力などのエネルギー政策に関わり、昭和63(1988)年3月7日、92歳で死去した。(235頁)

 

おわりにあたり

 

 今回、本書を取り上げたのは、「はじめ」にも記したように某読書会の畏友より薦められ読み進めました。「昭和研究会」に関しては私なりに、多少なりとも聞き及んではいましたが秋丸機関については全く知りませんでした。本書を読み進めていく中、歴史研究を進める上での綿密な調査と地道な研究が基で、その成果が見事に現れた著作と思うと共に、学者研究者の凄さを感じ入ったところです。なお、新体制運動及び革新官僚とは何か、その挫折をも改めて認識した次第です。著者は本書の「おわりに」以下のように記しております。

 

 歴史を学ぶ意味は、そこから現代への教訓を読み取ることである。読者の方々にとって本書が歴史の本というだけでなく、現代の社会において「エビデンスとヴィジョン、そしてレトリックを使って、より良い選択をするためにはどうすればよいか」を考える機会となれば幸いである。(240頁)

 

 毎回の言い分で恐縮しますが、欧州の混乱、大きく変貌するアメリカ、そして価値観を大きく異にする共産党独裁政権の中国の急激な台頭等々、世界情勢はは大きく変貌しております。中国に加え、世紀を超えても変わらない反日国家・朝鮮半島を隣国とする日本は更に厳しい状況下に置かれていくと考えます。そうした現状下にありながら日本の政治の現状はどうでしょうか。只、安倍政権を倒せばこと済むような、国会論議を含め、それを喧伝する、決して責任を取ることない最大の権力者になったマスメデイア。それによって作り出された世論と称するものに政治は翻弄され、現実を見失う、否見ない、日本は正しく平和ボケにあるといっても過言ではないでしょう。われわれは改めて歴史を顧み、現状・現実を考える必要があるのではないでしょうか。僭越至極ですが、そうした意味でも私は大いに参考になる本書に出会いました。

 

 なお、「はじめに」も記したように、私の興味に従って長々と述べてきました。ご参考までに本書の構成は記しておきます。

 

  はじめに、第一章・満州国と秋丸機関、第二章・新体制運動の波紋、第三章・秋丸機関の活動、第四章・報告書は何を語り、どう受け止められたのか、第五章・なぜ開戦の決定が行われたのか、第六章・「正しい戦略」とは何だったのか、第七章・戦中から戦後へ、おわりに、から成り立っております。

 

2019年1月7日

                       淸宮昌章

参考図書

 

 牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)

 古川隆久「昭和史」(ちくま新書)

 筒井清忠「昭和史講義 最新研究で見る戦争への道」(ちくま新書) 

 同   「近衛文麿」(岩波現代文庫)

 堀田江理「決意なき開戦」(人文書院)

 牛村圭「戦争責任論の真実」(PHP研究所)

 半藤一利「昭和史 1926から1945」(平凡社)

 清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

 堀口正夫「書籍紹介 経済学者たちの日米開戦」

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(NHKブックス)

 カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル著「ポピュリズム」    

                   (永井大輔、高山祐二訳 白水社)

 選択(11、12,1月)

 他