清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うこと

加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うこと

 

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再投稿

 

 今から20年前の9月11日、4機の旅客機がハイジャックされ、二機はニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに突っ込み爆破。一機は国防省本庁舎の西側正面に突入、残りの一機は乗客と乗員が他の航空機の突入を知り、ハイジャック犯に立ち向かい、ペンシルバニアの草原に墜落。

 そして、現在、米国はアフガンから撤退。大きな歴史の転換点なのでしょうか。

 尚、私は、あの爆破されたワンワールド・トレードセンターの20階のオフィスに、1,978年から1,984年の6年間、ほぼ毎日通っていました。24人の亡くなられた日本人の中には元富士銀行の知人もおります。尚、同ビルでお世話になった徳丸医師は、事件の時間には、偶々、ミッドタウンにおり、無事との報道に接しました。

 

 今でも、ここ練馬の居間の壁に飾られたエッジングは、クウィーンズから見たブルックリン・ブリッジを描いたものです。その背景にはマンハッタン島のツインタワーが見えます。私はそのエッジングを大切にしております。そんなことも想い起こしますが、下記投稿がここに来て再び96の投稿の中、何故か、再び注目記事の1位に復活してきました。今の日本の憂うべき現状の為なのでしょうか。

 2021年10月25日

                       淸宮昌章

 

再投稿にあたって(202144日)

 

 本原稿は昨年3月に投稿したものですが、このコロナ禍の自粛生活にあって、改めて読み返しました。日本のみならず世界に蔓延したコロナ禍は、今となっては、今年7月の東京オリンピックまでに収束するとは到底考えられません。むしろ拡大の可能性が強いのはないでしょうか。当初、東北大震災の復興を掲げた東京オリンピックの開催は、現在ではだいぶ様相が変わったのではないでしょうか。残念ですが、開催は中止し、これ以上のコロナ禍の蔓延を防止し、経済復興に全勢力を注ぐべきと考えます。オリンピック開催の中止は経済的損失も大ですが、その決断は現在では日本政府の政治判断しかない、との思いです。現実に起きたことは、想定外の菅総理の交代。世論という形成が如何に危ういかを私は改めて感じたところです。

 尚、私は今回のウィールスの発祥要因は人為的な可能性が高いと思っています。先月に投稿した「淸宮書房を顧みて」でも付言しましたが、「多くの国は、WHOの方針を参考に対策を行う。WHOのパンデミック宣言他の遅れは、各国の対策の遅れに繋がった。例外は台湾である。中国の圧力でWHOに参加できない故に、台湾はWHOも中国も信用せず、SARSの経験もあるが、独自の判断で驚くほどのスピードで対応し、感染拡大を防いだ。」(黒木登志夫著「新型コロナの科学」(中公新書)から引用。

 

 先ずもって肝要なことは価値観の大きく異なる、共産党独裁政権中国のコロナ禍においても異常な進出です。東アジアの日本の置かれた現実、現状を識り、この日本の平和ボケから脱出することが先決と考えます。経済的な甚大な影響はあるとしても、価値観を共有する諸国との連携を強めることです。1989年の天安門事件に際し、欧米諸国に先駆け、中国との窓口を再開した、日本のあの二の舞は決してしてはならない、と考えます。

 

 尚、佐伯啓思氏は日本国憲法に付き、次のように述べています。

 

 他国の憲法は近代憲法として不完全であるものの、その不完全性のゆえんは、国家の存立を前提とし、国家の存立を憲法の前提条件としているからだ。・・ただひとり日本国憲法だけが、近代憲法の原則を律儀に表現したために、国家の存立を前提としない、ということになった。平和主義の絶対性とはそういう意味である。

 厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさを持った日本国憲法の平和主義は、自らの国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。(佐伯啓思著『「脱」戦後のすすめ』(中公新書ラクレ 221頁)

  私はその通りと思いますが、如何思われますか。御一読をお勧めします。

 

 一時話題の人物になってしまった加藤陽子氏著「天皇と軍隊の近代史」をコロナ自粛生活の中で、改めて読み返しました。本書の冒頭で、

 

 過去の痛苦を「忘れないこと」や、戦争の前兆に「気づくこと」だけが、戦争を考えるときにそれほど万能な処方箋なのか。・・過去を忘れないことや前兆に気づくことだけでは、戦争の本質を摑まえることは難しい。と記されております。加え、その著書の最後に、映画監督・伊丹万作が死の半年ほど前に書いたエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、以下のことが紹介されております。

 

 重病に冒され、死を前にした伊丹は、「だまされていた」という人々を見ると暗澹たる気持ちになるという。なぜなら、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(本書355頁)

 

 改めて歴史とは何かを問う素晴らしい著作です。.蛇足ですが、私の東京大空襲経験も触れております。弊ブログを、改めて一覧頂ければ幸いです。

 

                             淸宮昌章

 


はじめに 

 

 人生の大半を生きた昭和の時代を自分なりに再検討し、僭越ながら今を観ようとしている私にとり、本書はとても参考になりました。加藤氏の著書に今までも数冊、目を通して参りましたが、疑問に思っていた宣戦布告無き日中戦争、敗戦時の日本軍武装解除等についても、今回の本書を読むことにより改めて明らかにして頂きました。

 

 著者は数々の印象に残る文章を本書の随所に記しています。歴史への研究視点・観点については次のように述べられております。

 

 東大経済学部の小野塚智二教授の教養課程の学生に向けた文章として、「経済学の目的を市場の諸現象と、それに関連する人の行動や意図とを合理的に証明すること。人間にとっての幸福は人によりさまざまですが、幸福を実現する条件には多くの人に共通する部分があるため、その条件を科学的に解明することこそがアダム・スミス以来の経済学の究極の目的だというのです。」

 

 方や、歴史学については1940年、羽仁五郎が多くの若者が出征してゆく戦時にあって、特権的な徴集猶予の特典を享受していた大学生が何故学問に励まなければならないかを説く「歴史及び歴史科学」という文章で、以下のように紹介しております。

 

 わが国現在のいわゆる官公私立の各大学の在学生約五万は、全人口約一億について、約二千人中の一人であり、全国二十歳前後の青年約一千万について、実に二百人中の一人である。・・(中略)徴集を猶予されている大学生こそ学問に励まなければならないと述べた羽仁は、政治権力や道徳の制約、宗教的権力の制約の中で著わされてきた過去の歴史学上の業績を挙げつつ、「歴史とは、根本において批判である」と喝破しています。(本書62頁)

 

 なお、私の読書方は「はしがき」から始まり、続いて「あとがき」を読むという、加藤陽子氏が指摘される、いわゆる「あとがき愛読党」です。氏のその指摘に私は思わず苦笑致しました。本書はそうした読者をも踏まえた構成になっております。加えて、各章の扉に置いたリード文にそれぞれの「問い」を明らかにしており読み進め易くしております。逆に言えば本書はそれだけ高度な、難易度が高い諸論文の証拠なのでしょうか。本書を読み進めるには、それ相応な基礎知識が必要と、私は感じました。

 

 本書は「はしがき」から始まりますが、続いて、総論・・天皇と軍隊から考える近代史、において本書の概要を示した後、第1章・戦争の記憶と国家の位置づけ、から第8章・「戦場」と「焼け跡」のあいだ、そして、「あとがき」、という400頁に及ぶ、いわば論文集です。

 今回も本書の全体を紹介するのではありませんが、私が改めて教えられたこと、あるいは特に印象深く感じ入った「第4章・1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか」、及び、「第7章・日本軍の武装解除についての一考察」を中心に紹介していきたいと思っています。

 

 本書の「はしがき」において、1930年代を次のように記しております。

 

 イギリスからアメリカに国際秩序形成のヘゲモニーが移ってゆくこの時期、安全保障という点では、アメリカ中立法という外枠が設定され、経済発展という点では、やはりアメリカの互恵通商法という「坂の上の雲」が日本の目の前に現れる。このような時代にあって、安全と経済という二つの領域で政治的発言力を強めていった軍部、特に陸軍を分析対象として選んだ。・・(中略)だが、その裏面の、著者の研究を支えていた問題意識は別のところにあった。過去の痛苦を「忘れないこと」や、戦争の前兆に「気づくこと」だけが、戦争を考えるときにそれほど万能な処方箋なのか、との淡い疑念が著者には早くからあった。過去を忘れないことや前兆に気づくことによってだけでは、戦争の本質を摑まえるは難しいのではないかとの思いがかねてからあったのだ。(本書ⅰ~ⅲ頁)

 

天皇制と徴兵制の発端

 

 続いて、著者は天皇制、並びに公民からなる徴兵制軍隊を天皇に直隷させる経緯を次のように述べています。

 

 今回、過去の幾つかの論文をまとめつつ、天皇と軍隊という、強力な磁場を持つ二つの言葉をタイトルに含む日本近代史の本を刊行するにあたって、長い序章にあたる総論を書いたのには理由がある。・・(中略)譲位による天皇の代替わりが、近代にあって初めてとなった事象が今年の春起きたことを目にし、近代の天皇の特徴とはなんだろうと改めて考えをめぐらせるようになったからである。

 

 それは端的にいえば、軍隊の天皇親卒との理念を根幹とするものだった。・・(中略)天皇と軍隊の特別な関係が創出されていった背景には、明治ゼロ年代における士族反乱状況に対処するため、幾つかの政治主体間に争われた軍事力再編構想の競合があった。1873年の征韓論争の肝は、朝鮮側の非を問う動きとは別に、裏面で鹿児島の西郷隆盛、高知の板垣退助、佐賀の江藤新平による鹿児島、佐賀、高知の三県の士族中心の兵制樹立構想が進められていた点にある。同時挙兵すれば、天下土崩の危機があった。士族の私党的結びつきによる挙兵を国家が抑止出来なかった最大の事例が77(明治10年)、征韓論で下野するまでは参議(最高レベルの政治指導者)にして近衛都督(最高レベルの軍事指導者)であった西郷が旧鹿児島藩士族に頭首と仰がれ挙兵した西南戦争に他ならなかった。

 

 私兵的結合を廃し、国内政治勢力に惑わされない中立不偏の軍事力の樹立が、西郷隆盛による内乱を経験した社会には不可欠だった。

 

 木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通亡き後、山県有朋が採った道は、公民からなる徴兵制軍隊を天皇に直隷させ、政治と軍事、二つの領域をカバーしたカリスマ的な指導者であった西郷に対抗しうる明治天皇像を確立することだった。軍事指導者としての資質が明治初年にはゼロだった明治天皇の権威を人為的に、促成的に創出し、徴兵制軍隊と特別な親密さをつなぐのである。79年10月10日の陸軍職制第一条では「帝国日本の陸軍は一に天皇陛下に直隷す」とした。

 

 (中略)いっぽう、軍人は軍人で、軍人勅諭中の徳目の第一条「忠節」の「世論に惑わず政治に拘わらず、只々一途に己が本分の忠節を守り」の一節につき、軍人は政治に関与してはならないとの当初の解釈を、次第に自己の都合のよいように改変していく。(本書ⅲ~ⅳ頁、及び12から13頁の省略)

 

 以下、私が興味深く感じたこと、並びに極めて参考になった諸点を私なりに紹介して参ります。

 

1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか

 

 著者は次のように述べています。

 

 憲法とは社会的秩序の表現、国民社会の実存そのものである。即ち、国家を成立させている基本的枠組みである。第二次世界大戦という、長く激しい戦いの果てに勝利した英米仏ソなどの連合国が、敗北したドイツや日本の「憲法」を如何に書き換えるかが問われておりました。

 

 尚、ニュルンベルク裁判に先立ち、米英仏ソ四ヶ国の代表を集めて開催されたロンドン会議において決定された第六条の内容は1・侵略戦争を起こすことは犯罪であり(戦争違法観)、2・戦争指導者は刑事責任を問われる(指導者責任観)でした。この二つの概念は従来の歴史上にはない、いわば革命的法解釈であり、2の指導者責任観は極東国際軍事裁判、所謂東京裁判でも検察側、弁護側共に事後法であり、国際法上の概念として新しいものだとの認識を持っていました。尚、それまでの旧来の国際法の了解では、戦争責任は国家=国民全体の負うべきもので、事態的には敗戦国が相手国への領土の割譲や賠償金の支払いで、実態的には敗戦国民が全体で背負うものと考えられていたわけです。

 

 加えて、1930年代での大きな変化はアメリカの中立法の変化です。その法は18世紀以来の歴史を持っておりますが、日中国間の紛争に際して大きな影響を与えたのが1937年5月に制定されたアメリカ中立法でした。その内容としては、1・武器・弾薬・軍用機材の禁輸、2・戦争状態の認定について大統領の裁量権を認める、3・交戦国の公債・有価証券の取扱いの禁止、交戦国への資金・信用供与の禁止、4・物資・原材料の輸出制限(現金・自国船主義による)など包括的なものでした。(179~180頁)

 

 そして、著者は日本側を苦しめたのは上記の2と3であったと記しています。中国に対して日本が宣戦布告を行うどうか、その可否につき、外務・陸軍・海軍三省が費やした議論の大部分が、アメリカ中立法発動の可能性の有無に向けられていた。方や、宣戦布告を行う利点は、1・戦時国際法の認める軍事占領・軍政施行など、戦時国際法で定められた交戦権の行使、2・中立国船舶への臨検・戦時禁制品輸送防遏・戦時海上封鎖、3・賠償金を正当に請求できる、などが挙げられていました。その中で、日本は宣戦布告をしないことを選んだわけです。日中戦争を表現する際の日本側の語彙が変化していくことを、次のように記しています。

 

 第一次近衛文麿内閣において、首相のブレインであった知識人グループ、昭和研究会作成と推定される「現下時局の基本的認識と其対策」(38年6月7日付)には、次のような、日中戦争の性格づけがみられます。「戦闘の性質 領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日支国交を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪戦なり」。目の前の戦争を日本側は匪賊を討伐するという意味で、討匪戦と呼んでいました。

 

・・(中略)32年の論考「現代帝国主義の国際法的諸形態」でシュミットが述べていた「真の権力者とは自ら概念や用語を定める者」を想起する時、昭和研究会はさすがに当時の第一級の知識人を網羅していただけあって、「自らの概念や用語を定める者」であるアメリカに似せて、自らの新しい戦争の「かたち」に名前を与えていたのではないか、との見方を示したかっただけです。30年代の世界と日本の歴史を眺めていますと、将来的に東アジアあるいは環太平洋地域の「真の権力者」となるはずのアメリカが創出しつつあった新しい国際規範を横目で確認しつつ、自ら遂行する戦争の「かたち」だけを、アメリカ型の新しい規範に沿うように必死に造形していた日本の姿がどうしても目に浮かぶのです。(181~182頁)

 

 如何でしょうか、私は改めて知るところです。私は当時の第一級の知識人である三木清、蝋山政道、大河内一男、笠信太郎、東畑精一、三枝博音、東畑精一清水幾太郎、中島健造蔵、高橋亀吉等々、錚錚たるメンバーによる研究内容の一端を本書で知ったわけです。著者は本章の最後に次のように記します。

 

 戦争一色の時代に見える30年代ですが、シュミットが「激しい対立はその決定的瞬間において言葉の争いになる」と述べているように、この時代の歴史は、むしろ語彙と概念めぐる闘争の時代であったといえるでしょう。

 

 軍事力ではなく、経済力でもなく、言葉の力で21世紀を生きていかなければならないはずの若い世代の方々には、是非ともこの時代の歴史に親しんで頂きたいと願うのです。また、自らが生を受けた時代であったが故に距離感をもってこの時代を眺めることができなかった世代の方々には、中立法を経済制裁の手段として使おうとするアメリカ流の法概念の面白さなどから入ることで、いわば時代を鳥瞰図として眺める姿勢を身につけていただければ、書き手としてこれ以上の喜びはありません。(183~184頁)

 

日本軍の武装解除についての一考察 

 

その1 国体護持一条件のみの受諾

 

 著者は「総論 天皇と軍隊から考える近代史」の中で、次のように印象深い文章を記しています。

 

 宮内庁御用掛の岡野弘彦は「身いかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」の一首を最終的な終戦時の御製として選んだ。岡野はこの歌こそ天皇の事実上の辞世ではではなかったかと考えたという。明治維新で創設された近代国家において、軍事指導者としての天皇は、復古・革命政権に他ならなかった明治政府が中核においたシンボルだった。明治、大正、昭和と大日本帝国憲法とともに生きた近代の三人の天皇の中で、その最後に位置する昭和天皇の辞世の核となる言葉が、「いくさ(戦)と(止)めり」「いくさ(戦)(とどめ(止め)けり)であったことの意味は小さくないと思われる。

 

 終戦に向けた天皇の動きは、実のところ危うい綱渡り上に結実した史実ではなかったか。・・(中略)陸軍を中心とする徹底抗戦は、武装解除を行ったが最後、天皇制の維持、すなわち国体護持が保障されないとして、東郷茂徳外相や米内光政海相ら国体護持一条件降伏派に脅しをかけた。・・(中略)軍隊と天皇、兵備と国体の不可分論は東條並びに当時の徹底抗戦派の持論であったのだろう。(6~7頁)

 

 即ち、国体護持の一条件でのポツダム宣言受諾という東郷茂徳外相と国体護持・自主的武装解除・自主的戦犯処罰・保障占領拒否の4条件を主張する軍部側が激しく対立し、昭和天皇の、いわゆる「聖断」によって、国体護持一条件での受諾が決定されたわけです。

 

 そして、あれほど自主的武装解除を主張していた陸軍が、ポツダム宣言受諾の御前会議決定を連合国に通告した1945(昭和20)年8月14日と戦争終結の詔書が放送された15日を境として、武装解除拒否、あるいは自主的武装解除をめぐる軍の態度が、米軍による武装解除・復員へと急変しえた背景を、著者は考察していきます。私は本章にて、その状況、現実を改めて知らされます。

 

 武装解除に限定してポツダム宣言を読み直すと、(ⅰ)今後、連合軍による日本本土の攻撃へのすさまじさを予告し、政府と国民を脅かし、(ⅱ)政府と国民が、戦争責任者や「軍国主義的助言者」と決別するように最後の選択を迫ったうえで、(ⅲ)俘虜虐待を犯した者は罰せられるが、普通の軍人は故郷に帰る保障をし、(ⅳ)日本国軍隊の無条件降伏とのこと。尚、1943年12月のカイロ宣言では「日本国の無条件降伏」で、無条件降伏の主体が「日本国」から「日本国軍隊」に限定されている、と著者は当時の外務省解釈を本章で記しています。

 

その2 昭和天皇と遼東半島還付の詔勅

 

 ポツダム宣言受諾についての変化は、まず昭和天皇において生じた、と次のように記して行きます。

 

 変化はまず、天皇において生じた。1945年5月5日、木戸幸一内大臣と面会した近衛文麿は高木惣吉に対し、次のように、天皇の心境の変化についての情報をもたらしている。木戸いわく、これまでの天皇の考えは「全面的武装解除ト責任者ノ処罰ハ絶対ニ譲レヌ、夫レヲヤル様ナラ最後マデ戦フ」というものであり、武装解除を行えば、ソ連の参戦を避けられない、との見方であったという。

 

 しかし、同年5月2日、3日あたりに、心境に変化を生じたとの見立です。その時期は、4月30日のヒトラーの自殺、ベルリンの陥落が日本の新聞・ラジオで報じられた頃である。「当時の侍従であった徳川嘉寛の5月3日の日記にはロイター通信社が伝えるドイツ放送局の発表としてのヒトラーの死と、最高司令官の後任となったデーニッツ提督の談話『第一の任務はボシェヴィズムによる破壊からドイツ国民を救うこと』」が記載されている。(311~312頁の省略)

 

 そして、著者は8月10、14日の聖断に関し、以下のように記しています。

 

 自らの判断に変化はないこと、決断は周到に行ったこと、連合国は国体を認めている、保障占領は心配だが、ここで将来に力を残すため終戦をしなければ、国がなくなる。また武装解除は三国干渉時の心時持ちでやり、陸海軍には勅書を、国民にはラジオ放送で説明してもよい.・・(中略)武装解除の部分については「武装解除ハ堪へ得ナイガ、国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉ニ対スルト同様ノ気持ヲヤラネバナラヌ。ドウカ賛成シテ呉レ」(316頁)

 

 方や、戦争の最終磐において、アメリカからさまざまなシグナルを受け止めていたグループの一つに東大法学部の南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木武雄、の七教授が内大臣の木戸幸一と終戦工作をしていた。注目すべきは、南原が天皇の位置づけを高く保つ必要性を説いていたことで、アメリカにとって天皇の価値と日本国民にとっての天皇の価値と、いわば、外と内から両面の天皇の価値を高く保っておく必要があるとしたことである。そして高木惣吉のメモを次のように紹介しております。

 

 皇室ヲ利用シ得ル限リ利用スル。米の出血ヲ多量ニセザル範囲ニテ利用スル。一億玉砕ニ迄持ッテ行ツテ、皇室ガ米英ノ眼ヨリ見テ役ニ立ナカッタト言ウコトニナレバ、之ヲ存続スル意味ハナクナル。国民ヨリ見テモ、声ナキ声ヲ聞クベキデアル。天聴ハドウナサッテイルカトイウコトニナッテクル。一億玉砕ニ行ッテハ、天聴二対スル怨みミハ噴出スル。・・(中略)「朕ノ心ニ非ズ、世界人類ノ為二、内二向カッテ国民ヲトタン(途端)ノ苦シミヨリ救フ」(327頁)、との詔書案のキーワ-ドに繋がって行った。(327頁)

 

 これは国民と皇室のまさにこのような関係は、アメリカのソフト・ピース派が勘案してきたものであった、と著者は記しています。私にはそうした7教授による行動が、あの敗戦間際の瀬戸際にある「聖断」に繋がって行ったことを改めて知ったわけです

 

その3 終戦犯罪

 

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 私は、当時の右翼であった児玉誉士夫、政商・小佐野賢治等を想起するのですが、次のように記しています。

 

 敗戦後、アメリカ軍が進駐してくる間隙を狙い、兵器を破壊し、石油や自動車などの軍用資材を民間に横流しして、糧食や被服を復員者ヘ分配した軍の行為は1945年末に開かれた第89回帝国会議において、無所属倶楽部の福家俊一議員により「終戦のあのどさくさに紛れて行われた公用金の着服、軍用物資の横領並びに民間と結託して転売又は隠匿したる等の、不当なる行為に出た所の所謂終戦犯罪に関する件」との追求に至るわけです。

 

 アメリカ側は無条件降伏方式という点で譲歩を行わなかったが、連合軍の唱える武装解除の実態について、ポツダム宣言、バーンズ回答、空襲の前後に投下するビラ、短波放送や新聞雑誌を用いた情報戦などさまざまな機会を用いて、赤裸々に日本側に説明を繰り返した。

 方や、天皇は武装解除、及び戦犯引き渡しを断念しても、国体護持は確保し得ると判断し、軍説得のために、三国干渉時の明治天皇の詔勅を用いることにした。そして、本第7章を次のように述べて閉じています。

 

 国民と天皇に背を向けられた軍は、1945年8月14日、鈴木内閣の最後の閣議決定として、国内にあった兵備や軍備のうち、国民生活に活用しえるもの中心に民間・文官機構への転移を決定した。武を文へと融解させることで軍は自ら幕を引き、歴史の舞台から退場していったのである。(339頁)

 

おわりにあたり

 

 私ごとで恐縮しますが、私が5歳になる5ヶ月前、3月10日の東京大空襲を東京本所小梅で経験しました。自宅の床下に作られた防空壕から抜けだし、隅田川の支流、横川橋の袂に家族6人で逃れました。二歳上の姉と、何故か、お鍋の中にミカンを入れて懸命に走ったこと、横川橋が燃えていくこと、消防自動車が燃えていくこと、川に飛び込む多数の人。幸運にも我々を含め数家族は生き延びました。その翌朝、向島の父の姉の所に逃れていく際に、馬が4本の足を空に突き上げ死んでいたこと。そんなことを今でも鮮明に覚えています。

 

 焼け出された我々家族の間借り生活。加えて父親は、その親戚先で二度目の招集。兄二人は学童疎開。玉音放送はその避難先の二階で意味は分かりませんが、親戚家族と母、姉とかしこまって聞きました。只、そのときの驚きはB29の編隊がものすごい轟音をあげながら低空で飛び過ぎていったことです。尚、無事に生きて戻った父親は戦争のこと、兵隊生活のことは一切口にすることはありませんでした。私が中学1年になるまで住居は6回も転々としており、本所に生活をしていた両親にとっては、6回目の落ち着き先は荒川の先、川向こうの葛飾立石であったのです。其の父も、9歳上の長兄も、7歳上の次兄も、ともに75歳で亡くなりました。私はそれより5年も長く生きており、時として、何か微妙な複雑な思いが交錯します。尚、家内の父親は沖縄戦で戦死、私の義理の叔父は南方で戦死でした。間借り生活と食糧難のなか、我々は生き延びてきたわけです。尚、母親が東條英機の刑死の報をラジオで聞いた際、「東條さんだけが悪いのではないのに」と、そっと呟いていたことを鮮明に覚えています。

 

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 ちょっと脱線しますが、東京裁判で犯罪行為とされた、クラス分けにすぎないA,B,C戦犯がいつ頃からなのでしょうか、A級戦犯を最も重い戦犯としています。そのA級戦犯東條英機他6名、BC級戦犯27名の刑執行直前まで立ち会った、巣鴨拘置所における只一人の教誨師・花山信勝著「平和の発見」(方丈堂出版)の一読をお勧めします。それぞれの戦犯となった方々の最後の有り様を記録したものです。私は時には涙を浮かべながら読み通しました。

 

 著者は本書の最後の章・「『戦場』と」『焼け跡』のあいだ」で、花森安治がその東京大空襲の死傷者数に拘って、「3月10日午前零時8分から2時37分まで、149分間に死者8万8千7百93名、負傷者11万3千62名。この数字は、広島、長崎を上まわる」(348頁)と、記しています。

 

 加えて、私の忘れがたい記憶は中学3年の時のことです。社会科の先生が、戦中を語る際、指導者は「馬鹿だ、馬鹿だ」と何度となく繰り返すことに、私は妙に反発し、その私の態度が自然と出ていたのでしょうか、問題児扱いをされたこと。加えて、英語の担当先生が私の自宅まで上がり、「赤旗」をとるよう母親に勧めていたことなども、何故か鮮明に覚えております。その後、石川達三の「人間の壁」が出て、映画化もされましたが、何か現実との違和感を持っていたことです。

 

 私は、今まで幾度となく、戦前・戦中・戦後と変わらない、反省のない、否むしろ独りよがりの正義をかざすようなメデイア(新聞、ラジオ他)の在り方に疑問と危機感を抱いていると記して来ました。表現の自由、報道の自由、とともに報道しない自由もあるわけです。マスメデイア(現在では新聞、テレビ、週刊誌他)は誰も制御できない大きな権力を持ってしまったのではないでしょうか。民主主義の持つひとつの欠陥でしょうか。

 

 尚、著者は別の視点からですが、次のように記し、本書を閉じています。皆さんは如何に思われるでしょうか。

 

 映画監督の伊丹万作が死の半年ほど前に書いたエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、多くの人々が今度の戦争で軍や官にだまされていたと嘆いてみせるが、それはありえないと書き出す。「いくらなんでも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるもわけはない」と。そして、普通の人々が日々の暮らしのなかで発揮した「凶暴性」鋭く告発している。

 

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、誰の記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や配給機関などの小役人や雇員の労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営む上においていやでも接しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。

 

 重病に冒され、死を前にした伊丹は、「だまされていた」という人々を見ると暗澹たる気持ちになるという。なぜなら「だませれていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(355頁)

 

2020年3月4日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 加藤陽子「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)

 同   「満州事変から日中戦争」(岩波新書)

 同   「戦争の日本近現代史」(講談社現代新書)

 同   「昭和天皇と戦争の世紀」(講談社)

 五百旗頭真/中西寛編「高坂正尭と戦後日本」(中央公論社)

 吉田茂「回想十年」(毎日ワンズ)

 高坂正尭「宰相 吉田茂」(中公クラシックス)

 池田信夫「丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

 花山信勝「平和の発見/巣鴨の生と死の記録」(方丈堂出版)

 牛村圭「文明の裁きをこえて」(中公叢書)

 重光葵「昭和の動乱」(中公文庫)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

 清瀬一郎「秘録 東京裁判」(中公文庫)

 他