清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

ここ一ヶ月を省みて

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 ここ数ヶ月、右手のしびれの為、パソコンが打てず、ブログの更新が滞っております。ただ、お陰さまでアクセスは32,000に近づいております。

 方や、拙稿の注目記事と称される、一番から五番の順位が最近、大きく変わってきております。私としても不思議に思うと共に何か嬉しさも感じております。だいぶ苦戦した投稿でもあったわけです。宣伝となり恐縮しますが、以下の通りです。

尚、上記掲載の本については、後日感想など記したいと思っています。

 


牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/01/07

牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで はじめに かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった…

再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んでhttp://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2016/09/29

再度・堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで はじめに テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す…


佐伯啓思著「『アメリカ二ズム』の終焉』の投稿を省みて
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/05/02

佐伯啓思著「『アメリカニズム』の終焉」の投稿を省みて 再々の拙稿にあたって 佐伯氏の著作については、今から4年ほど前になりますが、私がニューヨーク駐在時代(1978年~1984年)にお世話になった信託銀行の支店長(帰国後は副社長)に「日本の愛国心」を紹介され、深い共感を覚えました。そして、2016年7月に「日本の愛国心」の投稿となりました。その後も、「日本という価値」、「日本の宿命」、「正義の偽装」、「さらば資本主義」、「さらば民主主義」、「反・民主主議論」、「経済成長主義への決別」「従属国家論」等々と、次々と氏の著書を読み進めました。 2017年3月に「反民主主義論」、同年5月に「アメリカニ

筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/03/11

筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで 投稿にあたって 昨今の国会審議を見ていて、やりきれないと思うのは私だけでしょうか。本来,審議・討議すべき法案は何ら触れず、関連事項と称するものに莫大な時間を労し、時には審議も欠席放棄、そして時間だけ進んでいくこの現状は一体、いつから始ったのでしょうか。籠池夫婦の逮捕拘留にも繫がった森友学園問題、更には天下り斡旋問題で引責辞任し、不可解の言動を繰り返す文部科学省前川喜平前次官が述べる加計学園の忖度問題等々、マスメデイア報道は実に嘆かわしいことではないでしょうか。奇しくも今回、私が掲題の筒井清忠氏が本書で取り上げておりますが、戦前の若…


阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで
http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/03/16

阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで はじめに 2019年3月2日の日経新聞の「米、WTO改革で提案」に記事によれば、スイスのジュネーで2月28日に開かれた世界貿易機構(WTO)の一般理事会で米国が中国などを念頭に、経済発展を遂げた国は「発展途上国」としての恩恵を受けられなくする規定の導入を提案したとのこと。仮に中国が途上国でなくなれば通商交渉での立ち位置は大きく変わり、中国は反対しているようです。「月の裏側にロケットを飛ばした国を誰が途上国とみなすだろうか」と米国代表は中国を皮肉ったようです。方や、中国の習近平国家主席は2018年11月、パプアニューギニアで開かれた太平洋経済…

 

 2019年3月30日

                    淸宮昌章

 

 

 

 

近況のこと

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近況のこと

 

 ここのところ、体調が今ひとつで、読まなければならない本が溜まる一方です。取り寄せた楊継縄著「文化大革命五十年」、並びにフランク・デイケーター著「毛沢東の大飢饉」も大著で読み応えはあるものの、まだ読み終わっておりません。尚、「文化大革命五十年」はその細部に亘る詳述に私としては、かえってその事実の信憑性に疑問をもいだきます。がいずれにもせよ近いうちに、他の溜まり続けた本をも読み込み、私なりの感想など合わせ記したいと思っております。

 

 また、今年一月に取り上げ、投稿した牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」が数日前の報道では、第20回読売・吉野作造賞に決まったとのことです。さもありなんと思います。

 

 淸宮書房を始めて4年3ヶ月になります。そのブログは申しわけありませんが、超長い駄文で、お読み頂けないだろうと考えておりましたが、お陰様で、最近はアクセスも増え、30,000台になりました。加えて、60数編の投稿の内、注目記事として一位から五位に上げられた投稿に取り上げた本は私にとっては難解であり、理解不足の感も否めませんが、極めて興味深く、感銘を受け、自分なりの感想なども織り込むことができた投稿かなと思っております。度重なる宣伝で恐縮しますが、改めて下記の通りご紹介致します。

 

1.

佐伯啓思著「『アメリカ二ズム』の終焉』の投稿を省みて

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/05/02

 再々の拙稿にあたって 佐伯氏の著作については、今から4年ほど前になりますが、私がニューヨーク駐在時代(1978年~1984年)にお世話になった信託銀行の支店長(帰国後は副社長)に「日本の愛国心」を紹介され、深い共感を覚えました。そして、2016年7月に「日本の愛国心」の投稿となりました。その後も、「日本という価値」、「日本の宿命」、「正義の偽装」、「さらば資本主義」、「さらば民主主義」、「反・民主主議論」、「経済成長主義への決別」「従属国家論」等々と、次々と氏の著書を読み進めました。 2017年3月に「反民主主義論」、同年5月に「アメリカニ

2.
佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/05/14/165753

 ここのところ、個人的事象につき、数本の投稿をしてきました。今回は本来の軌道に戻り、読書後の私の感想など記して参ります。 佐伯啓思氏の著作については、今まで「淸宮書房」で「日本の愛国心」、「反民主議論」、「アメリカ二ズムの終焉」、「現代民主主義の病理」、「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を取り上げてきました。掲題の「保守のゆくえ」は氏の『「脱」戦後のすすめ』に続く後編ともいうべき著作です。今年1月21日に自裁された氏の永年の友人である西部邁の「保守の精神」をできるだけ継承したいとの思いで書かれたとのことです。私としては、佐伯氏に僭越ながら…

3.
故・西部邁氏の自裁に思うこと

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/04/17

  この4月8日に投稿した「三年前を振り省みて」の中で、何故か急ぎ、西部邁氏の自裁直前の二作である「保守の遺言」、「保守の真髄」と「虚無の構造」を読み進め、近いうちに私なりの感想など纏めたい、と記しました。加えて、4月13日に、二年前の投稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」の冒頭に、「再投稿にあたって」を加え、氏の視点の一端を紹介したわけです。故・西部邁氏に関心もあるのでしょうか、皆さんから、それなりの反応を頂いております。 因みに、最後の著作「保守の真髄」のその「あとがき」の日付は2018年1月15日、著書の発刊は2月27日。そして、自裁は1月21…

4.

再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2016/09/29

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す…

5.
阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/03/16

  2019年3月2日の日経新聞の「米、WTO改革で提案」に記事によれば、スイスのジュネーで2月28日に開かれた世界貿易機構(WTO)の一般理事会で米国が中国などを念頭に、経済発展を遂げた国は「発展途上国」としての恩恵を受けられなくする規定の導入を提案したとのこと。仮に中国が途上国でなくなれば通商交渉での立ち位置は大きく変わり、中国は反対しているようです。「月の裏側にロケットを飛ばした国を誰が途上国とみなすだろうか」と米国代表は中国を皮肉ったようです。方や、中国の習近平国家主席は2018年11月、パプアニューギニアで開かれた太平洋経済…

 

 2019年6月10日

                        淸宮昌章



 

佐伯啓思著「『アメリカ二ズム』の終焉』の投稿を省みて

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佐伯啓思著「『アメリカニズム』の終焉」の投稿を省みて

 

再々の拙稿にあたって

 

 佐伯氏の著作については、今から4年ほど前になりますが、私がニューヨーク駐在時代(1978年~1984年)にお世話になった信託銀行の支店長(帰国後は副社長)に「日本の愛国心」を紹介され、深い共感を覚えました。そして、2016年7月に「日本の愛国心」の投稿となりました。その後も、「日本という価値」、「日本の宿命」、「正義の偽装」、「さらば資本主義」、「さらば民主主義」、「反・民主主議論」、「経済成長主義への決別」「従属国家論」等々と、次々と氏の著書を読み進めました。

 

 2017年3月に「反民主主義論」、同年5月に「アメリカニズムの終焉」、11月に「現代民主主義の病理」、12月に「西田幾多郞 無私の思想と日本人」、つづいて、2018年5月に「『保守』のゆくえ」を取り上げ、私なりの感想などを交えた投稿を致しました。氏は次々と著書を発刊されておりますが、本書「アメリカニズムの終焉」は現代文明の本質を見据えた論及であり、諸著作の原点とも言うべきものかなと、私は考えております。掲題の本書の初版は1992年で私の本棚に長い間、眠っていたのは1998年版です。尚、今回取り上げた本書「アメリカニズムの終焉」は2014年版の中公文庫によるものです。いずれにもせよ、20数年前の著作とは、とても思えず、現代そのものへの鋭い洞察がされております。今日、そして今後の日本を改めて考える上で極めて貴重な著作と私は考えております。

 

 尚、この4年間で投稿は61件になりますが、佐伯氏については今回で9回目になります。次に多いのは戦艦大和吉田満に関する7回の投稿です。方や、山本七平も幾度となく取り上げていますが、私が佐伯氏をどれだけ理解できたかは問われるものの、佐伯氏に強く影響を受けている証左でしょうか。

 

 本投稿は昨年5月に再投稿した原稿に、今日の日本の現象等々も新たに付言し、若干の修正をしましたが、本論には何ら変更はありません。

 

はじめに

 

 揺れ動くヨーロッパ諸国、英国のEU離脱の如何、宗教・民族対立、各国各地で頻発に起こるテロ、アメリカ第一主義を唱えるトランプ大統領の出現とその動向。方や、かっては想定さえしていなかった中華大国の復権を図るべく、止めどもなく進める軍拡、加えて世界第二位のGDP経済大国を誇る中国共産党独裁政権の現実。そして軍事大国のロシア。更には、非核化で統一ができるとは考えられない、反日思想がより強まる朝鮮半島の国家の現状は、日本に新たな問題と課題を突きつけてくるでしょう。そうした戦後の、又地政学的にも大きく変貌した状況に日本が置かれているなかで、われわれは何が必要なのか、何が欠けているのか、何を考え、そして行動に移していかなければならないかが、正に問われていると、私は考えております。

 

 佐伯氏はその基になるのが思想であると指摘しております。残念ながら、現代ほど「思想」が力を失っている時代もない。その思想とは、とりたてて人々をかりたてるイデオロギーと解することでも、また人間存在の深遠まで達する世界観とみなす必要もない。それはもっとゆるやかな形で世界を解釈するヴィジョンであり、そこからわれわれの行動の指標をつむぎだせる、ある程度の整合性をもった知識の体系である、と本書で記しています。片や、氏は近著「『保守』のゆくえ」のなかで、今や知識人は何をすればよいのか、誰も確信を持って述べることはできない。代わって登場した専門家と称する人々には近代を生み出した「個人の内面」への追求をするというものはない、と指摘しています。果たして日本には思想という視点・観点がなくなってしまったのでしょうか。

 

 我国の現実はどうでしょうか。テレビ等のマスメデイアに現れるのは、少し前迄は森友学園の国有土地払い下げの問題、加計学園獣医学部新設に関する忖度問題、つづく19日間に亘る野党の国会出席拒否。最近では識見と緊張感は欠いたと言わざるを得ませんが、民主党政権時代の復興大臣・松本某氏の災害地の知事の方々への卑劣極まる対応とは大きく異なる、オリンピック担当大臣の辞任、国会論議の有り様、その報道。緊迫した国際情勢を全く無視した、謂わば平和ボケの最たる状況と言わざるを得ません。

 

 1920年代の大阪の松島遊郭の移転に関して、土地会社と政治家の間に不正な利益があったとした「松島遊郭事件」、更には1930年代後半の「帝人事件」を想起するのです。いずれも無罪となる、全くのでっち上げの事件ですが、「帝人事件」では内閣が倒れます。今回の忖度問題等々に関しても検察も動いていない状況下の中、野党、マスメデイアが独りよがりの正義を振りかざし、唯々、現政権を倒す為だけに暴れ回っている異常の現状としか、私には思えないのです。私は改めて、マスメデイアに作り出された世論と称するものに、時の政権が翻弄され、そして開戦・敗戦につながっていった戦前・戦中の、謂わば「空気」を想起するわけです。

 

 果たして日本は楽園にいるのでしょうか。日本の防衛と軍事力がアメリカに委ねられていること。北朝鮮の国家権力により、この日本国土から拉致された日本人家族を救う為に、アメリカに頼まざるをえない現状等々は果たして日本は主権国家と呼べるのか。国を守る、国民を守るとは何なのか、少なくともそのような視点・観点の論議はあってしかるべし、と私は思っているのです。成文憲法の形態をとる国にあって、戦後70数年に亘り、その憲法を一字一句も修正しない国はあるのでしょうか。同じ敗戦国のドイツでも、世界の現状に鑑み何度も見直し、修正をしているのです。現憲法を不磨大典の如く扱う、この現状は、私にはむしろ異常と映るのです。戦中、天皇ハアシズムを生み出したのは天皇ではなく、当時に漂う「空気」によるものだった、とのこと。令和元年の初頭に当り、改めて平和を願うことは必要です、何ら問題はありません。ただ、願うだけでは平和にはならないと考えます。

 

その1.本書の序論

 

 社会が、その根底に変化しがたいものをもっているのは当然のことである。日本社会が、とりあえず「日本的」としか言いようのない、この国の社会や文化、歴史の文脈の中で作られてきたものを保持しつづけているのは、善し悪しは別にしても当然のことであろう。問題は、その「日本的なもの」が何であり、どのような意味を持っているのか、それを解釈する術を戦後の日本が失ってしまったということであろう。・・(中略)戦後日本は、アメリカ的なもの、あるいはアメリカ的文明を常に参照枠とし、思考の基軸に据えてきたということだからである。このアメリカ的なものが、われわれの生活のどこまで浸透したかという判断はまた別のことなのであり、われわれがここでいう「アメリカ二ズム」に常にモデルを求めてきたことは事実なのである。これはしばしば、ほとんどそうとは気づかない無意識のレベルにおいてそうであった。そして今日、グローバルの名のもとに、市場経済の世界的、普遍的な展開が唱えられるが、このグローバルこそまさにアメリカ二ズムの帰結にほかならない。・・(中略)「『アメリカ二ズム』の終焉」という本書の題名は、アメリカの覇権の後退といったようなことを意味しているわけではない。私はアメリカ型の文明(そしてそれは必ずしもアメリカ社会そのものと同じでない)がもたらす危険性について述べたかったのであり、アメリカ的なものに示される「超近代主義」が亀裂をあらわにし、もはやうまく立ち行かなくなるだろう、と述べたのである。そしてその見解は、アメリカの経済的覇権が再び確立されたかに見える今日でも変わらない。それどころか、本書でいうアメリカニズムは、ますます世界的な規模で不安定性を高めていくのではないか、と思われるのである。(文庫版本書19,20頁)

 

 如何でしょうか。トランプ大統領を生み出した現在のアメリカ社会、英国のEU離脱問題、揺れ動くEU諸国等々の現状を考えるにつき、私は氏の洞察力に感動さえ覚えるところです。今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が共感を覚え、私なりに理解し共感を覚えたこと、特に第四章・「『アメリカ二ズム』の終焉」の章を中心に振りかえ、考えたいと思います。

 

その2.19世紀のヨーロッパ時代

 

 20世紀にアメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって多国を牽制し、それなりの国際秩序を作り出したといわれるが、その前に19世紀のヨーロッパを見ておくことが必要としています。即ち、「パックス・ブルタニカ」からアメリカに覇権が移った時、それは軍事力と経済力だけの問題だったのではない。即ち、力の相対関係だけの問題ではなく、それは「近代」の質的変化であり、「近代文明」というものの断層があった。そして、そのことは「パックス・アメリカーナ」への移行に際しても言えることなのだ。

 

 ヨーロッパの歴史を貫くものは、異質な民族、生活、言語、文化、宗教の対立と依存が、いかにヨーロッパの地理的、自然条件と深く重なっているか。そして、地理学的な条件の中で多様性を生み出し、それがヨーロッパの経済活動を生み出しただけでなく「政治」をも生み出した。ヨーロッパにおける政治の概念は、地理的なものと結びついた多様性と不可分なのであり、そして「地勢学」が「地政学」に転化するのである。そこには、神聖ローマ帝国が象徴したような、キリスト教という超越的な普遍性でヨーロッパを統一する、という中世の原理がほぼ崩れ去り、それにかわって主権国家間の国家間関係が登場するのである。

 

 加えて、フランス革命において合い言葉となった自由、平等、博愛、そしてイギリスからヨーロッパ各国に伝搬していったインダストリアリズム(産業主義)がもうひとつの価値になった。即ち、リベラリズム、デモクラシー、インダストリアリズムが近代社会を代表する価値である。加えて西欧の近代社会の形成を支えるもうひとつの重要な要素は「国民国家」の形成なのである。そして19世紀のヨーロッパを考えるとき、決定的な重要性を持っているのがリベラリズ(自由主義)の概念である。

 

 「リベラリズムという言葉が自覚的な意味を持って使われだすのは19世紀のヨーロッパである。この場合の自由の観念は、主として、個人的な意思決定、行動に対して他からの拘束が働かないぐらいの意味で、それゆえ、こうした個人的な自由を拘束する権力に抵抗することがリベラリズムの中核になる。ドイツやイタリアといった19世紀ヨーロッパの後進国にとっては、この権力はオーストリア帝国のような帝国の絶対的君主であった。それゆえ、リベラリズムの運動は同時に国家形成、独立の運動となったのである。しかし、個人的な意志や行動を拘束する権力は必ずしも絶対君主制の中から発生するとはかぎらない。リベラリズムは権力があるひとつのところに集中することを絶えず警戒する。しかしこの権力の集中ということはなにも絶対主義という形で起こるとはかぎらないのである。」(同83頁)

 

 方や、「デモクラシーのひとつの柱は人民主権であり、人民という抽象的存在が、文字通りの無制限の権力を握った時には、人民の名においていかなる専政が行われてもそれを防ぐことはできないのである。ジャコバン党の恐怖政治はまさにそのことを物語っているし、のちにはスターリニズムがその問題を再び提起したのであった。この時、リベラリズムはデモクラシーと対立する。・・(中略)そして19世紀を通じてヨーロッパのリベラリズムはデモクラシーに対する警戒心を緩めることはなかった。すくなくとも急進的なデモクラシーのもつ専制政治への傾きに対してである。」(同84頁)

 

 19世紀のヨーロッパにおいては、リベラリズムは決してナショナリズムとは対立せず、共鳴しあいヨーロッパ社会を支えたのだ。19世紀の相対的に安定していた時期、諸国間の利害を調整していたのはバランス・オブ・パワーという考え方と自由貿易の理念であった。そしてその自由貿易を支えたのは、イギリスの効率的な海軍と経済力であり、それに加え現実的で自国の利益を見失うことのない外交能力であった。そしてそのリベラリズムは極めて現実的な国際感覚と極端な変化に対する警戒心、歴史の連続性や常識に対する信頼といったものに支えられていた。そうした「現実主義」の上に、「パックス・ブルタニカ」は成り立っていた、と記しています。

 

その3.20世紀のアメリ

 

 第二次大戦後、世界の総生産量の半分を生産した圧倒的な経済力と軍事力が、アメリカの覇権のベースとなったことは事実だが、アメリカの戦後外交の基本は、19世紀のイギリスと同様、国際的なバランス・オブ・パワーを確保することであった。加えて20世紀と19世紀を分かつ重要なことは、そのリーダーシップにはひとつは国際社会における道義的責務という観念と、「モノによるデモクラシー」というやり方である、と述べています。

 

 20世紀は理念とイデオロギーの時代であり、「力」だけがすべてではなかった。社会主義国共産主義やマルクシズムの優位を主張した。ナチズムの汎ヨーロッパ主義、日本の大東亜共演圏もそのイデオロギーを主張した。

 

 そして「戦後、最も普遍化する力をもったものがリベラル・デモクラシーであった。19世紀にはむしろ対立しあう価値であったリベラリズムとデモクラシーを今世紀は結びつけた。この結びつきを普遍的な人類の価値として世界化しようとしたのがアメリカであった。とりわけ、19世紀のヨーロッパでは、新興勢力に支えられているとはいえ、まだ危険思想であったデモクラシーを、社会の普遍的な原理まで祭り上げたのはアメリカであった。」(同124頁) 

 

 しかもその使命を「経済」を通じて実行しようとしたところにアメリカの文明史的な役割がある。そして大量生産と大量消費で大衆(消費者)を生み出したのである。アメリカは商品を通して「自由」や「平等」の観念を宣伝できた唯一の国であった。ともかくも消費財をひとつの文化のように見せかけ、ひとつの国のシンボルにまでしまった国家はほかにない。続いて、デモクラシーについては以下のように述べています。

 

 デモクラシーは19世紀を通じて、主として政治的な価値であり、理想であった。それは国政に対する人々の平等な参与を求める運動であり、その背後には、人民主権という政治理念があった。それは意志決定のやり方であると同時に、主権と統治の正当性に関することがらなのである。しかるに、アメリカニズムのなかで、デモクラシーは生活の均質化、所得配分の平等化を意味するようになってくる。ここでも「政治的平等」から「経済的平等」への転換がおこるのだ。それとともに、国家は、政治の正当性によって基礎づけられるのではなく、それが国民に対して何を提供するかによって意味づけられるようになる。国家はサーヴィス・ステイトとなり、機能的な存在と見なされる。国家とデモクラシーの関係は、人民を媒介にした統治の正当性に関わるのではなく、経済政策を媒介にした機能の遂行に関わるのだ。これが、アメリカ二ズムがスポンサーとなった今世紀のデモクラシーなのである。(同140頁)

 

 正に正鵠を得た指摘ではないでしょうか。私は僭越ながら深い共感を覚えます。いわゆるこの知識革命というべきものの遂行こそが今世紀のアメリカの役割であったわけです。そして次のように展開していきます。

 

 この「革命」がまぎれもなくフランス革命の継続であるのは、それが文化の大衆化という広範な平準化の運動だったからである。デモクラシーのもとでは「普遍化」とは「大衆化」にほかならないのである。ここに今世紀のアメリカの覇権を、かってのイギリスのそれから区別する決定的な点がある。パックス・ブリタニカのもとではイギリスの文化は高い尊敬の念を払われたが、それは結局イギリス帝国領土内の支配階級にしか広まらなかったのに対し、パックス・アメリカーナのもとではアメリカ文化はいささかばかにされながらも、世界の大衆に広まっていったのである。(同150頁)

 

 いわゆる大衆の出現です。では、何故、それがアメリカニズムの終焉につながっていくのか。

 

その4.アメリカニズムの終焉

 

 戦後の冷戦体制のもと、圧倒的な経済と戦力でアメリカが自由世界の守護者になった。もうひとつは大量生産と大量消費という「モノのデモクラシー」をいち早く実現し、モノ(商品)の持つ普遍的な力によって「リベラル・デモクラシー」を普遍化しようとする遠心力が、戦後の自由世界を覆っていた。従って、アメリカによるこの「リベラル・デモクラシー」という理念を打ち出した覇権が後退するということは、この理念の旗のもとに結集した西側世界全体の問題となる。即ち、今日のもっとも正統的な価値がもはや自明なことではなくなりつつある、との佐伯氏の指摘です。

 

 アメリカ社会の没落がはじってまっているというのは別に最近になって言われ始めたのではない。60年代のヴェトナム戦争を目の当たりにして、そのような感慨を抱いていたし、並行的に起こった学生運動や、ヒッピーの中にその兆候は見られる。また、アメリカの宿命とも言うべき人種問題が新たな局面を迎えたのも60年半ばであった。では今日の現状と何が違うのか。

 

「ジエフア―ソニアン・デモクラシーの伝統を想起するまでもなく、とりわけアメリカは政治参加に強い関心と意欲を示す国であり、キリスト教の伝統を想起するまでもなく地域活動や社会奉仕に意欲を持った国なのである。その国においてなぜ今、政治問題はほとんど経済一色に塗りつぶされ、社会生活も金銭的関心に塗りつぶされようとしているのであろうか。世界秩序を維持し自由主義を保守するというアメリカ政治の最も高貴な目標はいったいどうなったのか。

 

 ・・(中略)真の問題は、戦後アメリカの覇権を支えてきた『普遍的』なはずの理念がもはや『普遍的』ではなくなった。あるいは十分の説得力を持ち得なくなったということである。問題はアメリカの経済的利害にあるというより、今世紀のアメリカをアメリカたらしめてきたリベラル・デモクラシーの理念の崩壊にある。経済によって支えられてきたリベラリズムとデモクラシーの結合がうまくいかなくなったということなのである。さらにいえば、リベラリズム、デモクラシー、ビジネス(キャピタリズム)の三位一体という今世紀の産業社会の思想的枠組みがうまくいかなくなったということであろう。」(170頁) ではその要因は何であろうか。

 

 グローバル化

 

 70年初めにブレトン・ウッズ体制が破棄され、世界経済は変動相場制に移行し、為替レートは貿易つまりモノの移動で決まらず、急速にふくれあがった資本移動に大きく左右されることに連なっていった。そして、次のように述べています。

 

 今、自由貿易自由主義の枠の中で修正をせまられているのである。現実問題としていえば、それはすくなくとも多角的で無制限な自由貿易から、ある程度の二国間調整を含んだ「管理された自由貿易」へ修正せざるを得ないであろう。そのことは必ずしも保護主義への転換を意味するわけではないし、また自由貿易の放棄を意味するわけでもない。しかしそれより重要なことは、こうした自由貿易の修正は経済の「グローバル化」の結果だということである。資本、技術、それに労働の国境をこえた移動が激しくなればなるほど、各国の経済基盤、生産技術は似通ってきて、その結果、自由貿易の理論的根拠は失われていく。また金融のグローバル化がすすめばすすむほど「シンボル経済」はふくらんでゆき、自由貿易はむつかしくなるのである。(179頁)

 

 ・・(中略)「国家の壁」の内と外があって初めて自由貿易という議論も経済的自由主義も成り立つ。即ち自然資源、労働力の質、文化の構造、技術の性格といった広い意味での生産要素の質の国ごとの違いがあって初めて自由貿易の議論は成り立つ。だから、この近年のボーダレス化、グローバル化、市場の自由化といった最近の論調は、ある意味で自由貿易主義とは矛盾することを知らなければならない。・・(中略)「ヨーロッパの思想史の伝統の中にあるリベラリズムをもっぱら経済的自由主義とりわけ自由貿易主義に解消してしまったのは、今世紀の「アメリカ二ズム」であった。すなわち、自由貿易によって富の増大をはかり、その富をめぐって誰もが金持ちになる機会を与えられるのが今世紀の「アメリカ二ズム」なのである。(180、181頁)

 

 本書は20数年前に書かれたにもかかわらず、まさしくトランプ大統領アメリカの現状ではないでしょうか。

 

 世論とは何か、世論の登場

 

 一方、アメリカニズムは大量生産と大量消費を生み出し、新たな概念ともいうべき大衆(世論)を重視せざるを得ない状況をも作り出した。その世論というものは、何か対象が見つかれば、常に感情的高揚と主観的偏りをそれに対して向ける。とすれば国際関係とデモクラシーとの関係をもう一度考え直して見る必要があるのだ。そして、以下の150年前のトクヴィルの言葉を紹介します。

 

 民主政治にしばしば欠けているものは、知識経験に基づいた先見の明である。人民は理性にたよるよりも感情にたよっている。将来のことを予見して現在の欲望を抑制したりすることのむつかしさを過小評価する。そして危機のときにおけるアメリカの民主的共和国のこの相対的な弱点はおそらく最大の障害であろう。そしてこの障害は、ヨーロッパで同様な共和国がもっている障害とは全く対照的にことなっている。この障害が一番顕著に表われるのが外交においてであろう。外交政策には民主政治に固有なほとんどすべての美点の使用は必要ではない。即ち外交政策がデモクラシーの弱点に巻き込まれることを避けよ、ということである。

 

 この指摘はアメリカのみならず日本そのものに当てはまるのではないでしょうか。そして、次のように記していきます。

 

 今世紀の社会の主役は「消費者」と「世論」ということになった。それは、19世紀なワークマンシップやリーダーシップというものとは正面から対立するものであった。「消費者」や「世論」を構成するのは「普通の人々」なのである。だから「普通の人々」が主役になった社会、それが現代というものである。だが現代はそれ以上のものを「普通の人々」に与えた。それは事実の問題として「普通の人々」を主役にしただけでなく、価値の問題としても、「普通の人々」こそが価値の基準だとしたのである。「普通の人々」の答えが社会とって正解なのである。しかし、まさにそこに現代文明の解きがたい困難がある。(279頁)

 

 日本の世論の現状

 

 むろんこうしたことは、アメリカだけの現象ではない。日本においても事情は同じだ。「世論」は国際社会の相互依存などおかまいなしに「一国平和主義」を主張する。経済的にも安全保障上も複雑に絡み合ってしまった今日の世界においては、よかれあしかれ、日本一国の安全といえども、「世界」と結びつきあっていることは明らかなのに、である。湾岸戦争以降高まった反米的でナショナリステイックな気分は、それが「世論」と見なされたとたんに危険なものとなろう。この「世論」は、日本の安全保障を確保する何らの現実的な外交手段も提示しないまま、いたずらに「大国」アメリカを批判するだけなのだ。(190、191頁)

 

 たしかに「一国平和的日本主義」の方はひとつの理念をもっているともいえる。しかし、この理念があまりにも空想的で現実離れしてことを別としても、コスモポリタンな絶対的平和主義というような理念が、たとえばヨーロッパの政治思想史のなかに流れているとは私には思えない。唯一それを思想の課題にしたのはガンジーの無抵抗主義ぐらいであろう。しかし、それも、きわめて実践的性格をもったものだった。端的にいえば、それもまた抵抗の戦略として選び取られたものであった。もしわれわれ「自由」を真に重要なものだと考えるならば、われわれはいま改めて自由の意味について考え直さなければならない。消費者主権に基づく経済的自由主義も、絶対的平和による自由の観念も、ともに強い力はもたない。アメリカニズムのもとでのリベラル・デモクラシーは明らかに限界にあると思われる。(312、313頁)

 

 如何でしょうか。佐伯氏のこの指摘は20年前のものなのですが、私は深い共感を覚えるのです。今日のアメリカの最大の問題は無責任な個人的自由の観念が中間層から上の、どちらかといえば知的な階層に急速に広まりつつあるように思われる。即ち、知的エリートの無責任な状況を氏は指摘しているわけです。

 

 では日本の現実はどうでしょうか。日本の無責任な世論と称されるものが時の政権に大きな影響を与えてきたのは、戦前、戦中は新聞、ラジオ。戦後はテレビ、新聞、週刊誌等々のマスメディア等、特にテレビのそれはもはや制御できないものになっていると、私は考えています。昨今のテレビキャスター、ジャーナリスト、学者、謂わば「専門家」称される人々のテレビで流される言動、いわば独りよがりの正義の無責任な言動が、世論形成に大きな影響を与えている。しかし、そこに潜むものは正義、いわんや言論ではなく、単なる商業主義に毒された、金をもらえれば良い、謂わばテレビ局、更にはスポンサーのいいなりになる、猿回しの猿の言動にすぎないと。言い過ぎですが、私には、そう思えるのです。思想の消滅といった現象そのものではないでしょうか。

 

 尚、佐伯氏は言論について次のように述べています。

 

 政治の空間は多かれ少なかれ、言葉や表現によって組み立てられている。だから政治の空間での自由は言論や表現の自由と不可分だ。しかしもそれはただ、言論が制限されたり検閲されたりということだけでなく、表現者としての真の内的な自由、つまり、真実を語ること、説得すること、言葉に対して責任をもつことなどを含んでいるはずだ。(139頁)

 

 冷戦以降の日本の位相

 

 実は日本社会こそが本書でいう「アメリカニズム」の典型的な担い手となったのである。そう考えなければ、昨今の日本における「消費者」という概念と「世論」という概念に与えられた特権的な位置を理解することはできない。日本の経済が本当に「消費者」によって動かされ、日本の政治が本当に「世論」によって動かされているのかどうかについては、簡単に判断できないだろう。だが少なくとも言えることは、経済が「消費者」のためにあり、政治が「世論」によって

方向づけられるのが正当だという強固な信念は広がっている。(309頁)

 

 佐伯氏はこの第4章・「『アメリカニズム』の終焉」を、次のような印象深い文章で閉じます。

 

 こうして近年のアメリカの衰退が意味するものは、必ずしも、経済的、軍事的のものではなく、むしろ「現代」文明が掲げ、担おうとした価値、すなわち、リベラリズムキャピタリズム、デモクラシーといった価値の衰退、あるいはこの三者の優雅な結合の崩壊である、というのが私の考えなのである。あるいはビジネスがもはや、リベラリズムとデモクラシーを結びつける役割を果たさなくなったということだ。・・(中略)ここで確実に言えることは、これはただアメリカだけの問題ではないことだ。「アメリカニズム」は繰り返していうが、アメリカ一国の話でもないし,アメリカが世界に押しつけたものでもない。ビジネスあるいは経済という絵筆によって世界の地図に自由と平等の色を塗り込んでゆくこと、これが「アメリカニズム」の本質なのである。この「アメリカニズム」が20世紀を特徴づける基本的な柱だったとするなら、その崩壊は「現代」そのものの崩壊だし、それを「危機」というなら、それは「現代」そのものの危機なのである。(209,210頁)

 

その5.「グローバリズム」という虚構

 

 1993年に本書の初版が出され、1998年にはグローバリズムに関しての増補を加えております。アメリカニズムについても極めて重要なので、私なりの理解ですが以下、紹介します。

 

 個人的な自由主義、民主主義、そして市場経済の理念の結合を普遍的なものと見なすアメリカニズムの土台は、絶えざる技術展開とその成果の大衆化可能とする大量生産方式であり、それを受け取る大衆社会(世論)の形成であった。しかしながらその理念が基本的なところで亀裂が生じ、衰弱が起きている。そうした流れの中で、グローバリズムが進展している。その中心をなすのは企業活動そして資本の動き、即ち経済の領域におけるボーダレスな活動が今日の大きな焦点なのだ。その国際資本移動は文字通りの意味で国境がなくなった世界を駆け回っているわけでではなく、むしろ国家が厳然として存在するゆえに、その国境を利用したゲームなのだ。

 

 その結果、「国の政策の妥当性の判断が、政策当局や国民ではなく、国際的な投資家たちが構成する市場にゆだねられているということである。政策当局は、その政策を市場がどのように評価するかという観点から行動をせざるをえないのである。こうして市場の動向が政策の基本方針を動かしてしまう。少なくとも、政策の独立性は市場の圧力にさらされ、自立性や裁量は失われつつある。つまり、市場から独立した政策というこれまでの前提はもはや成り立たない。」(331頁) 

 

 このグローバル市場の進展は、人々を律し、また結び付ける社会的エートスを限りなく希薄化させる。市場は、利潤機会に敏感で、価格にすばやく反応する人々の群れを生み出す。決して倫理的な人間など必要としないのだ。ではそれへの対処はあるのか、ないのか。

 

 それは「主権国家という、これまでわれわれの依拠してきた発明物を,グローバルな時代に適応させて活用するというやり方である。近代主義の矛盾とグローバリズムという超アメリカニズムのもたらす不安を牽制し、調整する実際的なやり方は、コスモポリタ二ズムとファンダメンタルズの間で『ナショナルなもの』に依拠する以外に考えられない。」(383頁) それを氏は「シヴィックナショナリズム」と呼んでいます。

 

おわりにあたり

 

 佐伯氏の一連の著作を読み終わった感想は、今の時代に必要なことは、まさしく歴史への深い洞察と、思想の重要さ、ということでした。では必要な思想とは何か。それは単なる知識の集積ではなく、物事を判断する力、ことの本質を追い求める、「個人の内面への希求」ということなのでしょう。

 

 揺れ動くヨーロッパ諸国、民族と宗教との対立、各国各地でのテロの続発、そしてアメリカ第一主義を掲げるトランプ大統領の出現。その現状等々を、あたかも著者は20数年前に既に見通していたかのように感じます。

 

 方や、価値観が大きく異なる、中国共産党独裁政権による想定外の「中華大国への復活」と、その行く末はどうか。そして、その中国を背景に、世紀を超えても消えることない強固な反日朝鮮半島統一国家への実現如何。加えて軍事大国のロシア。世界が大きく変動している中にありながら、日本の政治の現状はどうか。言論に責任を持つ報道機関がない日本。加えて、昨今の国会討議の有り様、頻繁に起こす野党の審議拒否、採決欠席の現実は目を覆うばかりです。私には、言葉の意味においても理解できない「リベラル」を掲げる立憲民主党を初めとした野党の在り様は、ただ安倍政権を倒せばいいとしか思えないのです。また、共産党も名称を変えて日本共産党として存続してはきたものの、その綱領等はどうなっているのでしょうか。他の国との友好関係はあるのでしょうか。あるとすればどこの国なのでしょうか。日本共産党は異質の存在で、現在以上の進展はないと考えます。いずれにもせよ私は、政権交代の意志も、思想も、政策も、人材もない、弱小の野党群を目の当たりし、政党政治の末期的現象のみならず、このままでは日本は衰退の方向に向かっている兆候が色濃く表われていると考えています。

 

2019年5月2日

                         淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思「『アメリカニズム』の終焉」(TBSブリタニカ)

 同 上「『アメリカニズム』の終焉」(中公文庫)

 同 上「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義上」(中公文庫)

 同 上「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義下」(同上)

 同 上「20世紀とは何だったのか 西欧近代の帰結」(PHP新書

 同 上「日本の愛国心 序説的考察」(中公文庫)

 同 上「大転換 脱成長社会へ」(同上)

 同 上「正義の偽装」(新潮新書)

 同 上「現代民主主義の病理」(NHKブックス

 同 上「反・幸福論」(同上)

 同 上「日本の宿命」(同上)

 同 上「反・民主主義論」(同上)

 同 上「さらば、資本主義」(同上) 

 同 上「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書) 

 同 上「倫理としてのナショナリズム」(中公文庫)

 同 上「『保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ

 同 上「『脱』戦後のすすめ」(同上)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 同 上「保守の真髄」(講談社現代新書

 ケント・ギルバート「リベラルの毒に侵された日米の憂鬱」(PHP 新書)

 東谷曉「山本七平の思想」(講談社現代新書

 阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(新潮選書)

 他

 

 

 

                                                                                     





 

ノートルダム寺院に思うこと、他

ノートルダム寺院に思うこと、他

 

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ノートルダム寺院の火災

 

 日本時間の4月16日未明、ノートルダム大聖堂の火災について、日経新聞のコラム「春秋」に、1950年7月の京都の金閣寺が放火で焼け落ちたことに触れながら、私には印象深い、以下の文章が載っておりました。

 

 火が出たのは夕暮れを待つひとときだったらしい。日本人観光客も目立つ大聖堂の周辺はセーヌ川の風光はすばらしく、カフェには客がさんざめき、パリの雰囲気を満喫できるところである。そこから見上げる寺院が炎に包まれ、尖塔が崩落していった。市民は賛美歌を歌ってただ鎮火を祈ったそうだ。無念、いかばかりか。

 パリの街は、ノートルダムの鐘楼からの眺望がいちばんくっきりしている、と鹿島茂さんの「文学的パリガイド」にある。都市がここから広がったことを示す眺めだという。火炎の悲しみは大きいが、寺院の骨格が残ったのは救いだ。金閣寺は再建され、室町の記憶をいまに伝える。大聖堂もかくあれと願うのみである。

 

 今から半世紀ほど前になりますが、森有正の「遙かなノートル・ダム」に感動し、ノートルダム寺院への強い思いが残りました。そして、16年ほど前、ある機会に恵まれ、家内と大聖堂を訪れました。寺院が醸し出す静寂と、独特な荘厳さを強く感じた、あの大聖堂が火炎に包まれながら、尖塔が崩れ落ちるテレビの映像を、私は呆然自失という状態で見入っておりました。

 

 森有正は1911年に生まれ、1976年に死去されております。哲学者、あるいは思想家とも言うべき方でしょうか、パリ大学東洋学部教授として日本文学等を講義された方です。幼児洗礼を受けたクリスチャンでもあり、明治の初代文部大臣・森有礼の孫にあたります。昭和42年(1967年)の夏でしたが、私は上記「遙かなノートル・ダム」に出会い、その文章の緻密さとも言うのでしょうか、何か感動し、氏の著作である「遠ざかるノートル・ダム」、「バビロンの流れのほとりにて」、「砂漠に向かって」、「フィレンツェだより」、「旅の空の下で」、「パリだより」等々を次々と読み進めました。どこまで理解できたかは問題ですが、私には物事の考え方につき大きな影響を及ぼしたと思っています。

 

 続いて、昭和46年(1971年)でしたが、辻邦生「嵯峨野明月記」に出会い、その文章の淸麗さ、登場人物の心情を表わす見事な描写にうたれ、「天草の雅歌」、「背教者ユリアヌス」、「時の扉」、「神々の愛でし海」、「永遠の書架にたちて」、「西行花伝」等々を読み進めました。特に「背教者ユリアネス」は強く印象に残る作品でした。最後の作品である「のちの思いに」を残され、1999年に死去されております。なお、辻邦生はフランス留学時代に森有正に師事されていたとのことを、後で知りました。私としては何か共通項があるように思います。 

 

 今回のノートルダム大聖堂の悲劇に際し、誠に僭越ですが、私のものを考える上で大きな影響を与えた、お二方を今回、思い起こした次第です。

 

近況のこと

 

 5年ほど前にゴルフからテニスに転向しましたが、右膝を痛め、過去一年ほどテニスを少し控えておりました。お陰様で、ほぼ完治し、テニス漬けの日々に復帰しております。ただ、現役のテニス・サークルの皆さんとのテニス及び合宿はきつく、現在は、ほんの歩いて数分のテニスクラブでの仲間同士とのダブルス・テニスとなっております。やはり歳なのかもしれません。後数ヶ月で79歳になりますが、皆さんからは60歳前半に見られているようです。

 

 この3月16日に投稿した中国関連の続きになるような感じですが、フランク・デイケータ著「毛沢東の大飢饉」(草思社文庫)、楊継縄著「文化大革命」(岩波書店)、江崎通朗著『日本占領と「敗戦革命」の危機』。加え、東谷暁著「山本七平の思想・日本教天皇制の70年」を手元に置きました。山本七平も私に大きな影響を与えた方です。なお、中国に関する上記二書は大作で、時間が掛かりそうです。後日になりますが、私なりに感想など記したいと思っております。

 

  2019年4月19日

                      淸宮昌章

 

 

 

三ヶ月が経って

三ヶ月が経って

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はじめに

 

 ここのところ投稿のペースが落ち、月一回になっております。その落ちた要因は体調の為か、読書量が落ちたこと。加えて、取り上げた著書の内容が濃く、関連著書、更には、かって読み込んだ著書にも立ち返る必要があったこと、にもよると思っています。

 

 この3月19日に投稿した阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を広げるのか」の中で、氏は「日中関係をどのように捉えるかという問題は、個々人の情報量、情報の入手経路、情報を整理・解釈する際の鋳型となる価値観などによって大きく左右される」と述べられております。そのことは日中関係のみならず、多くの事象に当てはまることではないでしょうか。自戒をも込めて感じたところです。

 

 上に写した著書は日本政治史の泰斗である井上寿一氏、ハーバード他で学ばれたアメリカ研究、文化政策論を専門とする渡辺靖氏、加えて、気鋭の民俗学・近現代東アジアの思想を専門とする室井康成氏によるものです。この三冊は相互に関係があるわけではありませんが、手元に置きました。又、海外事情(2019.3・4)は習近平の国家戦略の特集で、極めて興味深い論考集です。近いうちに感想など記して見たいと思っております。

 

 ここ半年ばかりは、日韓、日中、及び日米開戦・戦後との視点から投稿して参りました。そこに私なりに加えてきたことは、メデイアの有り様、かっての知識人から専門家と称される人々のメデイアにおける、その現状。そして、それに大きく影響を受けると思われる世論と称するものについての感想です。私は言論の自由報道の自由は勿論、極めて重要なものと考えております。只、報道しない自由を含め、歯止めのなくなってしまった報道の自由言論の自由とは何をもたらすのか。メデイアを掣肘するものが無くなってしまったように私には映るのです。むしろ最大の権力を握ってしまったのがマスメデイアなのではないでしょうか。そこには正義とは何か、民主主義、更には民主主義のはらむ問題とは何か、そうした観点が抜け去り、何か商業的観点のみが目立つように私には映るのです。それはポピュリズムとは少々異なる、日本独特の現象なのではないでしょうか。

 

 何故なのでしょうか。他国にあって日本にはないもの、それは日本語が全て通じることに加え、宗教という問題なのかもしれません。宗教を弾圧する中国共産党独裁政権がある一方、日本には弾圧の対象たる宗教、人の心を規制する宗教心が、そもそもなくなっているのではないでしょうか。良いかどうかは又別の問題となりますが、欧米を含め、絶対神と言う概念がある一方で、人の心を規制する神という概念が乏しい、否、無神論がごく当然の如くの日本は、特異な国なのかもしれないと思うのです。

 

 全く個人的な体験ですが、母方がカトリック教徒の一族で、私も幼い時から教会へ通っておりました。公教要理の仲間の一人は神父の道に進みました。私も神父様からも期待されていたようですが、高校時代に亀井勝一郎の「生けるユダ(シエストフ論)」に接し、それがひとつの要因でしょうか、教会から離れていきました。その後、私が普通の神前結婚式を挙げることとなりました。その前に、私としては母親を安心させる為か、教会でも式を挙げるべく、式の一週間前に家内と本所カトリック教会の司祭館を訪れ、神父様に式のお願いを致しました。司祭館の屋根を雨が強く打つ10月の土曜日の昼でしたが、神父様より「昌章、帰ってきたか」とのお言葉を頂きました。そして、一週間後の土曜日、私と家内、母、及び代理父母のもとで結婚式をおこなって頂きました。その式の直前に神父様より式前に「告解」をと言われ、告解部屋に入りました。そのとき何を告解すべきか分からない、罪の意識が私の内部から消えている自分を見たのです。しどろもどろ告解が始まり、神父様より最後には「ご安心なさい」とのお言葉を頂き、告解部屋を出て、キリストの十字架に向かい跪き、言われたお祈りを唱えました。そのときの安堵した私と、そうした一連の情景を今でも思い起こします。只、その後、50数年になりますが教会には行かず、否行けず、今日に至っております。

 

 そんな個人的なこともあるのでしょうか、カトリック遠藤周作、最後はカトリックからプロテスタントに改宗した、「戦艦大和の最後」等を出された日銀の吉田満。加えて、山本学とも称される、山本七平の作品を身近に置いているのかもしれません。

 

 以下は宣伝となり恐縮しますが、現在の弊ブログ「淸宮書房」の順位をご紹介いたします。それぞれが長く、恐縮したしますが、ご一覧頂ければ幸いです。

 

注目記事の紹介

 

 僭越至極というか何か複雑な想いを持ちながら、投稿を続けております。お陰様で、弊ブログ「淸宮書房」へのアクセスは29,000に近づいておりますが、ここ数ヶ月で、その注目記事と称される順位が大きく変動しております。

 

 その中で、2015年18日に投稿した2014年10月に発刊の木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か・・歴史教科書『慰安婦』、ポピュリズム」が第二位に復活してきております。私としては、2018年1月18日に続き、2019年2月18日に加筆をしております。なお、本書は日韓歴史共同研究に関与された木村幹氏による、日韓の歴史認識問題を根本から問い直す研究成果です。戦後70年の日韓双方の現代史を敷衍しながら、両国の政治過程並びに世論の推移を分析していく、見事な論理構成。加えて、マスメデイアに対してはやや論調を抑えながらも、人を引き込む緊張感を持った文章で歴史認識の本質を解き明かし、その解決をも示唆したものです。

 

 そして、第三位に挙げられたのは、2018年5月14日に投稿した佐伯啓思著「『保守』のゆくえ」を読んで思うこと」です。「保守」とは何かを問うものです。元来、保守主義はイギリスに誕生したもので、自由の実現を無条件に肯定し、化学や技術革新を盲進し、その力によって社会を急激に変革することを求める「進歩主義」に対抗する思想であった、とのことです。そして、八つの保守思想の基本的論点を挙げ、

 

 現実は大方の政治家も知識人も「暗黙の植民地化」を歓迎した。保守派の政治家はどこか躊躇しつつも、日米同盟こそが日本の国益だと自らを納得させた。一方、進歩的知識人は、日本がアメリカの準植民地であることなど全くふれもせずに平和と民主の戦後日本を賞賛して、フエイク・ニュースの方棒を担いだ。その知識人も今や、何をすればよいのか、誰も確信をもって述べることはできない。その知識人に代わって、各種の「専門家」と称する人々が登場し、政治の場面(マスメデイアを含め)で「専門知識」を披瀝する現状である。そこには、近代を生み出した「個人の内面」への希求はもはやない。われわれは、改めて、日本のたどった「近代のデイレンマ」へと目を凝らし、近代化やグローバル化のなかにおける「日本人であること」の意味と葛藤を問い直すほかないだろう、と述べています。

 

 なお、1位はこの三月に投稿したものですが、2位以下とも重複しますので省略します。4位は今年の3月、5位は今年1月に投稿したものです。

1.ここ数ヶ月を省みて(2019.2.3)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/02/03

ここ数ヶ月を省みて はじめに 「反日・反米・親北」で名前を売った盧武鉉元大統領の側近であった、現文在寅大統領の登場で、日韓の関係は最悪の状況になりました。私は予想はしていたとは言え、日本は極めて難しい状況に置かれている、考えております。韓国の現政権にどういう破局が訪れるかはわかりませんが、日本との接点をほとんど持たない文在寅大統領が続く限り、日韓関係の改善はないでしょう。それを前提にして、日本は今後を考えていくこと、ひとつの重大な岐路にあるということではないでしょうか。方や、日本には半島出身の方々が、日本の国会議員等を含め政治的権力をも持っている現状です。その上、そうした方々の人口は減ることは・・・

 

2.再・木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か・・歴史教科書・『慰安婦』、ポピュリズム](2015.3.18)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2015/03/18/140619

再投稿にあたって・・追記 韓国内外に亘って、日を追う毎に高まる韓国の官民挙げての反日行動・発言は止まることはなく、むしろ強まっていると思います。この2月10日、韓国国会議長の、その位置づけ、その立場に関しては、私はよく分かりませんが、慰安婦問題に関して「天皇陛下が謝罪すべき」との報道が日経新聞等でされました。その後の韓国政府の動向に鑑みても、韓国の反日・敵視感情はここまで来たか、との思いは不快を通り越し、強い嫌悪感を持つに至りました。 戦後74年の日本の歩みとは一体何だったのか。新憲法の下、大きく変わった象徴天皇。特に現天皇皇后陛下は皇太子・皇太子妃時代からの火焔瓶を投げられた沖縄慰霊の・・・


3.佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと
(2018.5.14)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/05/14

佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと まえがき ここのところ、個人的事象につき、数本の投稿をしてきました。今回は本来の軌道に戻り、読書後の私の感想など記して参ります。 佐伯啓思氏の著作については、今まで「淸宮書房」で「日本の愛国心」、「反民主議論」、「アメリカ二ズムの終焉」、「現代民主主義の病理」、「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を取り上げてきました。掲題の「保守のゆくえ」は氏の『「脱」戦後のすすめ』に続く後編ともいうべき著作です。今年1月21日に自裁された氏の永年の友人である西部邁の「保守の精神」をできるだけ継承したいとの思いで書かれたとのことです。私としては、佐伯氏に僭越・・・

 

4.阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで(2019.3.16)

    http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/03/16

阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで はじめに 2019年3月2日の日経新聞の「米、WTO改革で提案」に記事によれば、スイスのジュネーで2月28日に開かれた世界貿易機構(WTO)の一般理事会で米国が中国などを念頭に、経済発展を遂げた国は「発展途上国」としての恩恵を受けられなくする規定の導入を提案したとのこと。仮に中国が途上国でなくなれば通商交渉での立ち位置は大きく変わり、中国は反対しているようです。「月の裏側にロケットを飛ばした国を誰が途上国とみなすだろうか」と米国代表は中国を皮肉ったようです。方や、中国の習近平国家主席は2018年11月、パプアニューギニアで開かれた太平洋経済・・・


5.牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで
(2019.1.7)

   http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/01/07

牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで はじめに かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった・・・

 

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                             淸宮昌章