清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

ノートルダム寺院に思うこと、他

ノートルダム寺院に思うこと、他

 

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ノートルダム寺院の火災

 

 日本時間の4月16日未明、ノートルダム大聖堂の火災について、日経新聞のコラム「春秋」に、1950年7月の京都の金閣寺が放火で焼け落ちたことに触れながら、私には印象深い、以下の文章が載っておりました。

 

 火が出たのは夕暮れを待つひとときだったらしい。日本人観光客も目立つ大聖堂の周辺はセーヌ川の風光はすばらしく、カフェには客がさんざめき、パリの雰囲気を満喫できるところである。そこから見上げる寺院が炎に包まれ、尖塔が崩落していった。市民は賛美歌を歌ってただ鎮火を祈ったそうだ。無念、いかばかりか。

 パリの街は、ノートルダムの鐘楼からの眺望がいちばんくっきりしている、と鹿島茂さんの「文学的パリガイド」にある。都市がここから広がったことを示す眺めだという。火炎の悲しみは大きいが、寺院の骨格が残ったのは救いだ。金閣寺は再建され、室町の記憶をいまに伝える。大聖堂もかくあれと願うのみである。

 

 今から半世紀ほど前になりますが、森有正の「遙かなノートル・ダム」に感動し、ノートルダム寺院への強い思いが残りました。そして、16年ほど前、ある機会に恵まれ、家内と大聖堂を訪れました。寺院が醸し出す静寂と、独特な荘厳さを強く感じた、あの大聖堂が火炎に包まれながら、尖塔が崩れ落ちるテレビの映像を、私は呆然自失という状態で見入っておりました。

 

 森有正は1911年に生まれ、1976年に死去されております。哲学者、あるいは思想家とも言うべき方でしょうか、パリ大学東洋学部教授として日本文学等を講義された方です。幼児洗礼を受けたクリスチャンでもあり、明治の初代文部大臣・森有礼の孫にあたります。昭和42年(1967年)の夏でしたが、私は上記「遙かなノートル・ダム」に出会い、その文章の緻密さとも言うのでしょうか、何か感動し、氏の著作である「遠ざかるノートル・ダム」、「バビロンの流れのほとりにて」、「砂漠に向かって」、「フィレンツェだより」、「旅の空の下で」、「パリだより」等々を次々と読み進めました。どこまで理解できたかは問題ですが、私には物事の考え方につき大きな影響を及ぼしたと思っています。

 

 続いて、昭和46年(1971年)でしたが、辻邦生「嵯峨野明月記」に出会い、その文章の淸麗さ、登場人物の心情を表わす見事な描写にうたれ、「天草の雅歌」、「背教者ユリアヌス」、「時の扉」、「神々の愛でし海」、「永遠の書架にたちて」、「西行花伝」等々を読み進めました。特に「背教者ユリアネス」は強く印象に残る作品でした。最後の作品である「のちの思いに」を残され、1999年に死去されております。なお、辻邦生はフランス留学時代に森有正に師事されていたとのことを、後で知りました。私としては何か共通項があるように思います。 

 

 今回のノートルダム大聖堂の悲劇に際し、誠に僭越ですが、私のものを考える上で大きな影響を与えた、お二方を今回、思い起こした次第です。

 

近況のこと

 

 5年ほど前にゴルフからテニスに転向しましたが、右膝を痛め、過去一年ほどテニスを少し控えておりました。お陰様で、ほぼ完治し、テニス漬けの日々に復帰しております。ただ、現役のテニス・サークルの皆さんとのテニス及び合宿はきつく、現在は、ほんの歩いて数分のテニスクラブでの仲間同士とのダブルス・テニスとなっております。やはり歳なのかもしれません。後数ヶ月で79歳になりますが、皆さんからは60歳前半に見られているようです。

 

 この3月16日に投稿した中国関連の続きになるような感じですが、フランク・デイケータ著「毛沢東の大飢饉」(草思社文庫)、楊継縄著「文化大革命」(岩波書店)、江崎通朗著『日本占領と「敗戦革命」の危機』。加え、東谷暁著「山本七平の思想・日本教天皇制の70年」を手元に置きました。山本七平も私に大きな影響を与えた方です。なお、中国に関する上記二書は大作で、時間が掛かりそうです。後日になりますが、私なりに感想など記したいと思っております。

 

  2019年4月19日

                      淸宮昌章