清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

再投稿にあたって

 

 二年前の2017年6月12日に投稿したのですが、ここに来て何故か拙稿66編の注目記事の5番目に上がって来ました。その理由は何かあるのでしょうが、阿賀佐圭子氏が作家のみならず歴史に造詣が深く、白蓮の生きた時代背景を巧みに本書に描いていること。加えて、心優しい人柄が本著に表われているためかもしれません。氏とはフェイスブックでの友人でもありますが、私としても嬉しい限りです。今回、改めてご紹介したくなりました。

 

 2019年11月4日

 

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阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

はじめに

 

 「東京や横浜や神戸等の開港地から始った文明開花の波は、東京の日比谷の一角にも確実に押し寄せていた。」(6頁) と印象深い冒頭から本書が始ります。

 

 安政5年(1858)、江戸幕府が締結した日米修好通商条約の改正に「明治政府は一筋の希望の光も見いだせないまま、極端な欧化政策の象徴であった鹿鳴館外交を批判する声が高まり風当たりも強くなり、明治20年(1887)9月、井上馨外務大臣を辞し、約4年間続いた鹿鳴館時代も終焉を迎える。」(8頁) その2年前、明治18年、燁子は伯爵柳原前光の子として誕生します、と続きます。そして柳原燁子の生母について次のように記します。

 

 生母りょうの父で外国奉行新見豊守正興は万延元年(1860)一月に日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節正使として、副使村垣淡路守範正と監察小栗上野介忠順以下従臣七十余名を従え、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って日本人として初めてアメリカに派遣された。国賓「サムライ」としてアメリカでは大歓迎を受けている。その護衛名目で木村喜毅を副使として幕府軍艦咸臨丸も派遣された。その艦長格として勝海舟、木村の従者として福澤諭吉、他にジョン万次郎ら九十余名を乗せて、ポーハタン号出発の三日前にアメリカに向け浦賀を出港し随伴している。(9、10頁)

 

 著者は明治、大正、昭和の激動の時代を当時の時代背景を史実に、さらに政治状況をも随所に挿入し、歌人柳原燁子(白蓮)の波乱に満ちた一生を、その時々に関連の短歌を添え、色鮮やかな人々の出会いをも含め綴っていきます。加えて、柳原白蓮に関連した柳原家、北小路、伊藤家、宮崎家の家系図を資料として巻末に示しております。

 阿賀佐氏の長年に亘る研究と、地道な、丹念な資料をもとに生み出された、その成果が本書「柳原燁子 白蓮の生涯」だと、僭越至極ながら思います。文芸評論家の志村有弘氏が本書の帯び書に「美貌の歌人柳原白蓮伝記の決定版」と記しております。巻末には志村有弘氏が本書の解説を詳しく述べられております。文芸等については門外漢の私ですが、昭和史を自分なりに再検討し、今を観ようとしている中、本書は極めて貴重な資料として私の本棚に並んでおります。

 

 何時ものことですが、今回も本書の全体を紹介するのではなく、著者の思いとはだいぶ離れると思いますが、私の中に鮮明に、且つ感銘を受けたこと等を記して参ります。因みに本書は第一章・明治時代、第二章・明治時代(後期)、第三章・大正時代、第四章・昭和時代、そしてエッセイという構成です。

 

その1 明治時代

 

 明治18年(1885)に華族の家に生まれた燁子はその後、子爵の北小路家の養子となり14歳で、同じく養子の北小路資武と結婚。15歳で男子功光が誕生、そして困惑と悩みの末、19歳で離婚。「出戻り娘」の身分として、柳原家での苦労が始るわけです。尚、著者は華族制度につき、次のように記しております。長くなりますが父柳原前光にも関連するので、以下紹介します。

 

 華族制度は、明治二年(1869)の版籍奉還で領主権を接収された大名と王政復古でこれまでの特権を失った公卿の優遇措置として始った。これだけでは不十分で、皇室を囲む新しい貴族制度が必要になり、伊藤博文を中心に明治十七年(1884)七月七日に制定された「華族令」により、維新の功臣を加えた公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の爵本位の華族制度が定められた。身分よりも天皇に対する個人の功労を表彰の基準とする「華族令」によって皇室の藩屏として華族制度が法制化された。これは明治十七年(1884)五月七日に、賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美の提出された「爵制備考」が元になっていた。華族の最大の義務は、皇室や国家への忠誠を誓うことで、皇位継承者は皇族の男系男子だけであるという原則に合わせて、華族の相続者も男子に限定された。(中略)・・華族は男系社会でそれを維持するための閨閥は網の目のように張り巡らされ華族の子女は大切な持ち駒として結婚と品行が管理されていた。華族の子女には学問や結婚や生き方の自由はなかった。昭和二十二年(1947)日本国憲法の施行により、貴族制度の廃止と法の下の平等から、公卿・華族は廃止されることになるが、それまでは、華族令や柳原家範によって燁子の自由は制約されていた。(25,26頁) 

 

 本件とは全く事を逸しますが、天皇陛下の退位が特例法で成立した現在、女性宮家創設論議を考える上で、華族制度の経過、推移も考えるヒントのひとつとして、私には浮かびました。

 

 元に戻りますが、その後、竹早の師範付属小学校、華族女学校中退等々の経緯を経て、明治41年(1908)、22歳のときミッション系の東洋英和女学校編入し、二年間の寄宿生活に入ります。その部屋は徳富蘆花の愛子夫人が、夫の外遊中の二年間を過ごした部屋とのことです。そして、「赤毛のアン」の翻訳者安中はな、8歳下の村岡花子と運命的な出会いになります。燁子の悩み多い中、宣教師の女性校長ミス・ブラックモアからは「今までの試練は神が与えたものです。それは神の愛なのです。神に全てを任せなさい」との言葉を受けます。二年間の寄宿舎生活で24歳になった燁子は教養豊かな女性となります。尚、安中はな達が日曜学校の教師をしていた頃いた少女、佐野きみが野口雨情の「赤い靴」の女の子がそのモデル、と著者は記しています。

 

 そして、25歳上の衆議院議員を二期務めた九州福岡の名士、「炭鉱王」の伊藤伝右衛門の後妻へと、燁子の運命は再び大きく変わっていきます。伊藤伝右衛門は、燁子の生母りょうの父新見豊前守正興がアメリカへ使節正使として出発した万延元年(1860)、並びに「桜田門外の変」が起きた年に生まれたと、その時代背景を記しています。伝右衛門は明治10年(1877)1月に始った西南戦争の、田原坂での官軍における「弾丸運び」の仕事、船頭暮らし、その後の石炭採掘仕事他に従事したこと。続いて明治27年(1894)に治外法権の撤廃に成功し日英新通商航海条約。更に時の政府は日清戦争後の三国干渉等々から軍備力の必要性を痛感。そして日本の軍備増強に伴う鉄の精錬に必要な炭鉱業の隆盛等々、当時の状況をついて詳しく記していきます。

 

 伝右衛門と燁子の結婚式は東京日比谷大神宮で盛大に行われます。媒酌人は樺山資紀西南戦争において西郷軍の猛攻に堪えて熊本城を死守した熊本鎮台参謀長です。その盟友が伯爵川村純義(死後に海軍大将)、その長女常子が樺山資紀の長男樺山愛輔に嫁ぎ、その二女が柳原前光の長男義光に嫁いだ花子。樺山愛輔・常子夫婦の二女正子は白洲次郎と結婚する白洲正子。このように婚姻を通じ華族は固い結束で繫がっていた。さらに白洲次郎の紹介で麻生太賀吉吉田茂の三女和子と結婚し、長男麻生太郎が誕生等々、記しています。

 

その2 大正時代

 

 子供のできない伝右衛門との伊藤家の中で、燁子は家族関係を含め「砂漠のような泥沼のような生活」という中で、読書と和歌を詠むことに生きがいを見つけます。そして佐々木信綱主催の歌誌「心の花」に短歌を投稿。歌人白蓮が誕生します。その時の燁子の心境を次のように紹介しております。

 

 天上の花の姿と思ひしはかりねのやどのまぼろしの華  白蓮

 

 この間の物語は是非、本書をお読み下さい。大正3年(1914)、第一次大戦の好景気の中、汚職が蔓延り、大正6年筑豊疑獄事件」が起き、百四人が起訴、五人の自殺者も出ます。大阪毎日新聞で「筑豊の女王燁子」として十回の連載記事が書かれ、伝右衛門のみならず、燁子も巻き込まれます。続いて大正7年、いわゆる富山県で発生した米騒動は、筑豊炭鉱にも及びます。そして伝右衛門所有の中嶋炭鉱でガス爆発が起き、それを契機に大規模のストライキが発生。約三百人の炭鉱員が一斉に検挙、数十人が禁固刑。方や、大牟田の三井三池万田抗では大暴動が起き、軍隊が出動、鎮圧という状況等々を、克明に記しています。

 

 そのような中で、大正9年、燁子が34歳のとき、伊藤家の別府の別邸で、27歳の宮崎龍介との運命的に出会います。その後の大きな事件、いわゆる白蓮事件に発展しますが、彼と燁子にとっては三度目の結婚に至ります。龍介は宮崎滔天の長男です。かの有名な社会運動家で、中国の革命家孫文を支援した宮崎滔天です。その孫文は滔天の紹介で政治団体玄洋社の東山満他から支援を受けるわけです。そんな経緯もあり、平成18年の孫文生誕百四十年には、燁子・龍介の長女蕗苳、孫黄石、ひ孫が国賓として中国に招待され、アメリカ在住の孫文の孫たちとも、現在においても親しく交流を続けている、と記しています。

 

 方や、今の日本と中国との関係はどうでしょうか。両国には共通の価値観があるでしょうか。共産党独裁政権言論の自由は如何、極端な報道規制、そして中国から海外へと増え続ける人材流出等々。加えて、中華大国への復活を目指す現中国と日本の関係は今後も極めて難しい、厳しい時代が続くと、私は考えております。

 

 本題に戻りますが、宮崎龍介は東大の吉野作造が顧問である弁論部に属し、その後、その弁論部を母体に生まれた「新人会」への活動に繫がっていきます。そして、大正8年11月24日に平塚らいてう市川房枝他による新婦人協会が設立。それに呼応するように同年12月「新人会」の実践活動を理論的に支える「黎明会」が吉野作造を中心とする学者の中から生まれます。その黎明会の機関誌として雑誌「解放」が誕生。その文芸欄は島崎藤村が顧問、永井荷風谷崎潤一郎芥川龍之介他の人気作家を擁していた。その編集人が龍介であった等々、著者は記しています。

 

 加えて同年の大正9年3月、福岡婦人会会長・村上茂登子を中心に福岡女子専門学校設立資金集めが行われ、燁子も白蓮として活動し、大正12年(1923)に日本初の公立女子専門学校、福岡県立女子専門学校が開校します。本件については阿賀佐圭子氏が責任編集である「福岡女子大学物語」を合わせお読み下さい。阿賀佐氏の母校です。

 

 いまだ姦通罪が存在していた時代に、如何にして結婚にこぎ着けるか。白蓮として、また炭鉱王の伊藤伝右衛門の妻として世論を身方にすべく、どうするか。新人会の仲間である赤松克麿(与謝野鉄幹の実兄が父)他の論客の支援の下、伊藤伝右衛門への絶縁状の公開(大阪朝日新聞夕刊 10月22日)にいたります。いわゆる白蓮事件です。尚、その関連した新聞連載は4回で中止。伝右衛門の「手出しは許さん。末代まで一言の弁明も無用」としたことによる、と記しています。

 

 余談になりますがNHKの朝ドラ「花子とアン」の中で伊藤伝右衛門を演じた役者・吉田鋼太郎氏は著者が描いた人物かのように好演していた映像が、私の鮮明な記憶として残っています。

 

 本題に帰ります。その時の白蓮の心境を著者は次のように紹介しております。

 

「別府にて」

 まゆに似て細き月なり星おちぬかかる夕べは死もやすらむ 燁子

 

 そして大正11年(1922)1月27日、離婚が成立。その後も紆余曲折がありますが、同年5月14日、長男香織が誕生、同年6月婚姻届が成立。方や、兄柳原義光は頭山満玄洋社から発した右翼団体黒龍会」の要請で貴族院議員を引責辞任。加えて、大正12年11月26日、燁子は華族除籍となります。その後、紆余曲折を経て、燁子親子は東京に移り、関東大震災で被災、そして龍介と所帯を持ちます。

 

その3 昭和時代

 

 著者は激動の昭和に歩を進めます。

 

 結核を患っていた龍介の病気の間、燁子は歌人として生活を支えておりましたが、龍介は昭和6年には完治し、健康を取り戻します。そして燁子は滔天の血を受け継いだ龍介の社会運動への献身的な支援。加えて、貧しい華族の子女達、華族女優の久我美子の従兄弟、さらには外国人をも含んだ学生達への援助をする中、親友の九条武子の交流を記しています。昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入。「第一次近衛内閣の首相近衛文麿と中国の政治家の宋子文を通じて和平工作を行い近衛と蒋介石の間で合意が成立した。中国の国民党政府側から特使を南京に派遣して欲しいという電報が届き、近衛は孫文、滔天の盟友の一人である秋山定輔を介して龍介を特使として上海に派遣することを決定した。」(161頁) しかし、神戸から上海に出港する長崎丸に乗船する直前、龍介は憲兵隊に捕まります。

 

 戦時体制への昭和13年(1938)4月1日の国家総動員法がその近衛内閣によって施行され、そして日本は転げ落ちるように太平洋戦争に入って行ったわけです。尚、龍介と燁子の長男香織は早稲田大学政治経済の学生で学徒出陣、そして終戦の4日前、8月11日、鹿児島県串木野の基地で米軍機の爆撃で戦死します。

 

 一方、「大正鉱業社長伊藤伝右衛門が高齢で風邪をこじらせ、昭和二十二年十二月十五日に幸袋の自宅で亡くなった。享年八十七歳、戦時下の乱堀や災害で荒廃した筑豊炭鉱が、戦後復興の役割を担って再び動き始めたときである。明治・大正・昭和を生きた筑豊最後の炭鉱王であった。葬儀は大正鉱業と労働組合が合同で営む盛大なもので炭鉱王の最期を労使のべつなく惜しんだ。」(178頁)と、著者は記しています。

 燁子は出奔後初めて、32年ぶりの昭和二十八年十月十九日に福岡市の土を踏みます。大勢の人々が温かく迎え、「ここはあなたの故郷と思ってください。この土地の我々は、我らの福岡、博多の出身者だとあなたを思っているのです」(189頁) その心境を燁子は以下の短歌で表わします。

 

 うきものと思ひしは昨日の夢なりき海は大きく天につらなる

 捨ててきて三十余年筑紫路の町のあかりはものいふごとし

 旅にきて秋のそよ風身には沁むちくしは我に悲しきところ

 泣きに来し浜辺よ丘よ年月はあやしきものよ今は恋しき

 

 そして、「宮崎燁子は、龍介や長女蕗苳夫婦に見送られながら、昭和四十二年(1967)二月二十二日の夜、東京都西池袋(旧目白町で昭和四十一年一月一日改正)の自宅で苦しみもなく安らかに亡くなった。享年八十一歳であった。奇しくもその日は、かって柳原燁子が伊藤伝右衛門と結婚したのと同じ日であった。」(197頁)

 

 長男香織と燁子と夫龍介は神奈川県相模湖畔の静かな石老山顕鏡寺(神奈川県相模原市緑区)で永遠の眠りについています。その盛大な葬儀で宮崎龍介が大学卒業後に属した中央法律相談所で薫陶を受けた弁護士である、元総理片山哲が葬儀委員長を務め、夫の龍介は以下のように御礼の言葉を残した、とのことです

 

 白蓮、宮崎燁子は皆さんに愛されて幸せな女でした。今頃は香織のところへゆっくりと歩いて行っていることでしょう。ときどき皆様の方を振り返り、振り返りしながら(199頁)

 

 そして著者は次のように記し、本書を閉じます。

 

 贅沢をして人に美しく見られたいとは考えなかったが、着物は「福田屋」と決めて、柳原家の紋である「値引きの松」へのこだわりがあった。そして燁子は絹のショールをいつも首に巻いていた。

 

 花とはうすむらさきと紅とうなづきあふは何のこころぞ 白蓮

 

おわりにあたり

 

 短歌等について門外漢の私が本書の感想など、僭越至極、場違いでもありましょう。加えて、私の感想等は著者の本意とは大きく異なっているかもしれません。ただ、本書を改めて読み直してみて感じたことは、阿賀佐圭子氏が作家であるのみならず、素晴らしい歴史家でもあると思ったことです。著者は母校福岡女子大学では理系の勉強をされ、次第に文学・歴史の世界に関心を抱いていったと、志村氏は記されています。著者の綿密な調査・研究、加えて驚くほどの記憶力により明治、大正、そして昭和の時代の流れ・政治状況を巧みに紹介し、柳原白蓮と人々との物語を記述していることは、その証左でありましょう。まさしく本書は柳原白蓮伝の決定版であると考えます。多くの方が本書を取り上げること、望んでおります。

 

 2017年6月12日

                          淸宮昌章

 参考文献

 

  阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」(九州文学社)

  責任編集 西岡成子「福岡女子大学物語」(パワプラ出版)

  長谷川時雨「柳原燁子(白蓮)」(青空文庫

  他