清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再び・日韓、日中の関係(相互の嫌悪感)・・・地政学的な危機(その2)

f:id:kiyomiya-masaaki:20151214182301j:plain(注)2018年1月22日の続編です

 

今、思うこと

 

 昨今の週刊誌、テレビ、新聞等のマスメデイアによる報道振りを見るにつけ、その真意、あるいはその信憑性は別として、私は戦前の新聞報道による劇場型政治へ意図的展開の状況を思い起こします。1925年の「朴烈怪写事件」、1926年の大阪の松島遊郭移転にからむ「松島遊郭事件」、1934年の「帝人事件」、いずれも時の政権を倒すべく、でっち上げ事件と後で結論付けされたのですが、私はそれらの事件を思い起こすのです。それは私の杞憂にすぎませんが。

 

 本投稿は3年前に投稿し、今年1月22日に加筆修正を加えたものの続編です。現下の状況下、敢えて再投稿致します。ご興味とお時間がある上でのことですが、下記の加筆投稿を含め、開いて頂ければ幸いです。

 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2015/04/13/113408

 

 2018年4月20日

                             淸宮昌章

 

三谷太一郎著「人は時代といかに向き合うか」に立ち返って

 

 日本の現状及びその先行きに、言い知れぬ不安を感じているなか、三谷太一郎著「人は時代といかに向き合うか」に巡りあいました。著者は1936年生まれの政治史学者であり、近代史家の重鎮です。今まで一度も同氏に関心を持っていなかったのですが、「みすず書房の本棚 2014夏」の案内を見、その題名に惹かれ、本書を取り寄せ読み始めました。

 

 本書は2014年6月19日初版となっていますが、1988(昭和63)年に刊行され、絶版となっている旧著「二つの戦後 権力と知識人」に新に12編を加えて新著として蘇らせたものです。初めは私にとって難解であり、2013年に著した同氏著「学問は現実にいかに関わるか」(東京大学出版)も取り寄せ、あわせ読み進めた次第です。そして読み進めるうちに、本書「人は時代にいかに向き合うか」は30年前の古さも全く感じず、時代を見、現実を考えるうえで私には極めて貴重な書籍となりました。

 

 本書は2011年3月11日の東日本大地震原発事故をも踏まえて著されました。そしてこの東日本大震災原発事故はエネルギー資源の供給の危機を顕在化させる、と同時にこのエネルギー危機は日本にのみ限定されず世界的なものであって、エネルギー資源をめぐる国際的対立を激化させている。東日本大震災は大正の関東大震災とは次元が異なり、先の大戦の敗戦と同じく第二の日本の敗戦である。方や福沢諭吉ほかによって鼓吹されてきた「文明開化」、「富国強兵」といった幕末の「近代化路線」を踏襲した明治政府の日清、日露、そして昭和の太平洋戦争とその路線を連綿として継承してきた。

 しかし日本のこの一国近代化路線は、先の大戦の敗戦に続き、この東日本大震災及び原発事故を契機に根本的に見直さなければならない。今後必要なことは、かって日本の近代化を支えた社会基盤をさまざまな国際共同体の組織化を通して、グローバルな規模で再構築することではないか、と述べられています。

 

 私は共感を覚えます。ただ、私が不安感を感じる現実に際し、ではその再構築は如何にすればよいのか、といった具体的な処方策は私には明確にはならず、その不安感は解消されないまま、曖昧模糊とした状態が依然として残っています。今回は本書の全体を紹介するのではなく、私が認識を新にしたところを中心にして、記していきたいと思います。

 

1.二つの吉田茂

 

 第1章;日本の近代とさまざまの戦後のなかで、ジョン・ダワー「吉田茂とその時代」・猪木政道「評伝吉田茂」を取り上げています。ジョン・ダワーについては私も度々感想・雑感を記してはきましたが、改めて三谷氏の吉田茂への観点ないしは視点に感銘を覚えたところです。

 

「歴史叙述としての伝記の価値は、単にそれが対象とする人物をいかに精細にえがいたかにあるよりも、その人物の生涯を追跡することを通して、その同時代を広くまた深く照明をあてることができたかにあるといえよう。・・(中略)これら二つの伝記は、それぞれ吉田茂を対象としてとり上げた動機や目的、さらに吉田に対する理解や評価において相異なるものであるが、ともに吉田個人の行跡を及びうる限りの広い歴史的文脈の中に位置づけようとしたものであり、吉田茂の伝記をそれ自体首尾一貫した政治史叙述たらしめることを試みたものである。」(同書 61頁)、と著者が述べております。

 

 詳細は本書を読んでいただくことが一番でありますが、ただ今回、私が改めて認識したことは、近衛文麿とは立つ位置も観点も異なると私は思いますが、吉田茂軍国主義の中に共産主義の影を読み取ろうとする特異な政治感覚は、おそらく独ソ不可侵条約以後、一層鋭敏さを増したことであろう、との三谷氏の指摘です。

 

 更には「もし吉田が日英同盟の戦後版として日米関係の理想型を考えていたとしたら、吉田はむしろ再軍備を急速かつ大規模に推進する路線を選んだであろう。なぜならば日英同盟は、極東における英国の海軍力を日本が肩代わりする対等性を持った軍事同盟であったからである。しかし吉田は、米国に対して明らかに軍事同盟を拒否した。むしろ日英同盟とおなじ形の日米軍事同盟を求めたのは、保守勢力内の反吉田派である。吉田はたしかに安保条約を締結したが、安保条約は軍事同盟的側面をもちながら、同時にそれを拒否する側面をももっていた。したがって、それが将来どちらの側面を強めていくかは、将来の当局者および国民世論に委ねられていたのである。だからこそ昭和35年に安保条約は日米軍事同盟論者の岸信介首相によって改定され、またそれに対する反対運動が起こったのである。」(同書 95頁)、と述べています。

 

 尚、著者は「冷戦後の日本の政治」の安保改定による経済連携強化の項で、1960年の安保改定において一番重要であることは、第一次安保条約には全くなかった経済連携強化の条文が入れられたこと。日米安保のいわば経済同盟的側面が強化された、との観点です。その経済連携強化の条文は安保の軍事同盟化は憲法9条の否定に繋がるとの日本における反対世論が非常に強かったことで、安保改定を推進する政府与党は経済連携条文が必要であったこと。と共に米国でも冷戦下、日本との経済連携が不可欠であったという、日米双方に経済同盟を結ぶ必要性があったこと。日米との正式の国際関係が始まって以来、米国が日本専門家の駐日大使を任命したということは、安保改定後のライシャワー人事以外、今もってないとの指摘です。そのような推移の中、果して現在の日米関係はいかにあるべきでしょうか。日本の世論も大勢は日米関係強化を求めているようですが、果してアメリカ世論はどうでしょうか。むしろ日本にはさしたる関心もないのが現実ではないでしょうか。

 

2.丸山眞男「戦中と戦後の間」他

 

 著者は「二つの日本近代批判」の中で丸山眞男の「文明論之概略」と共に、「戦中と戦後の間」をとり上げております。私も何回となく私なりに同書に取り組んでいますが、改めて三谷氏により丸山眞男への認識を新にしたところです。

 

心理的価値と文学的価値

 

 著者によれば丸山眞男著「戦中と戦後の間 1936-1957」は、

 

「とくに1960年代後半以降に青春を迎えた世代にとっては、同時代的意味をもたないであろう。・・(中略)しかしそれにもかかわらず、本書はそうした後続の世代によっても、読み続けられるであろう。すなわち生々しい同時代的意味を持つ青春の書としてではなく、既に歴史的地位を確立し終えた古典として。」(同書 204頁)。そして「時代を代表する古典に共通するものは、その時代のもつ情報的価値がそこに集約され、綜合されていることである。そして、次の時代が継承し発展させるべき、豊かな知的可能性がそこに凝縮されていることである。」(同書 206頁)。

 

 丸山眞男の「戦中と戦後の間」の価値は、情報的価値を越えた真理的価値にあるのみならず、それが同時に美的価値あるいは芸術的価値としても評価されうるところである、と三谷氏は記しています。同氏が学生時代、丸山眞男の最後の講義において、ロマン・ローランによるベートーヴェンの生涯のドイツ語原文を「・・力の限り善き事を為せ。何にもまして自由を愛せよ。たとえ王座のきざはしにあるとも、絶えて真理を忘れるな。」、と約され、三谷氏はその後、その言葉に忠実に生きよう、と決意したとのことです。私には本書を読み込む力に欠けますが共感を覚えるところです。

 

 

 

少数者は民主主義の本質的要素

 

 著者(丸山眞男)によれば「近代国家の基本前提が個人の自由にあることの結果として、著者が構想する近代国家の政治秩序=民主主義は当然に自由を目的とし、かつ手段とするものでなければならない。したがって著者は、民主主義の問題を考える場合に『多数者の支配』の要請から出発するのではなく、『少数者の権利』の要請から出発する。『少数者の権利』からの発想、それが著者の政治理論の特色である。・・(中略)『少数者』(複数の)は民主主義の本質的要素であり、『多数者の支配』は必ずそれからのみ導き出されるのである。」(同書  216頁)と述べています。極めて僭越になりますが私は違和感を覚えるところです。

 

 丸山眞男の政治理論においては「(また歴史学においても)、当然に『少数者』に大きな比重が与えられる。『少数者』こそ、真の責任の主体でなければならない。『戦争責任論の盲点』として、あえて日本共産党の『戦争責任』が問われているのも、このことと無関係ではないであろう。著者にとって、歴史を形成する者は常に『少数者』なのである。」(同書 217頁)、にも繫がるわけです。

 

3. 本書への想い、共感

 

 尚、本書の知識人の同時代観の章においてとり上げている、日清戦争を維新後の西南戦争とともに、二大失策のひとつと観た勝海舟。方や、日清戦争を文野の戦争なりと肯定した福沢諭吉、並びに正義として観た宗教家でもある内村鑑三。更には民本主義吉野作造他に関する記述は私にとって新たな発見でした。また、二つの日本近代批判の章において田中耕太郎を法律家のみならず思想家としてきわめて高く評価されていることも新たなことでした。

 加え、時代の転換にいかに向き合うかの章でとり上げる、森鴎外歴史認識、更には森鴎外に深く傾倒する永井荷風への著者の想いにはひとつの感動を与えます。著者三谷氏は「歴史家の史観とか史眼といわれるものは、結局『座右の史料』として何をもつか、そしてそれをいかに読むかによってつくられる。政治史家としての私にとっては、荷風日記は『座右の史料』の一つである。」(同書 304頁)、と言わしめております。歴史研究者がこれはと思う史料に恵まれる時、それは「出会い」というにふさわしいと述べています。又、優れた歴史叙述の真理的価値は、同時に芸術的価値であるとも指摘しています。著者の視点とは異なることは十分承知しておりますが、牛村圭氏の「文明の裁きを超えて」の練られた文章に、私が、かって文学作品と評したのも、我田引水を免れませんが、それに近い視点というか観点を私が感じたのかもしれません。

 

 三谷氏はあとがきで、「歴史主義」は歴史家の職業病であるが、それは一般人にも転移しやすく、しかもそれが高ずると歴史化されないもの、流動化されないもの、あえて言えば「永遠なるもの」を見失う恐れがある。さらにいえば、逆に歴史そのものを見失う恐れがある。「人」と「時代」は本来別のものである。「人」は歴史を書くことによって、あるいは歴史を読むことによって、すなわち「時代」を認識することによって、はじめて「時代」を超えるものである、と指摘しております。ここ数ヶ月の読書に掲げた著書の中には真逆なものもあり、三谷氏のそうした指摘に改めて感動を覚えたところです。

 

 本書の中で言及されている田中美知太郎「時代と私」に加え、同氏著「自分のこと世界のこと」を私の書棚から探し、改めて再読いたしました。両書は私が入社間もない昭和40年代に、労働組合の執行委員として悩んでいた時代に手にしたものです。今回再読し、その時代に私は何に悩んでいたのか思い起こすと共に、歴史を読むことにより今の時代との関わり、何を重視して考えていかなければならないか、反省というか再検討をしているところです。

 

 加え、新聞のバック・ボーンは無責任の在野精神などであってはならないとする田中美知太郎の指摘に、当該本人のみに、その責任があるわけではありませが、世論と称するものを形成する上に大きな影響力を及ぼす昨今のテレビキャスター等の報道のあり方。更には遅きに失する朝日新聞誤報報道等の根源的問題はどこにあるのか。報道とは何か、どうあるべきか考えるところです。

 

 ジャーナリズムの使命に真実の報道と正義の観点が極めて重要ですが、それを生み出す人格がまずもって備わっていることが、その前提になければならない、と僭越ながら自戒を込め、私は思っています。

 

2015年4月20日

                         清宮昌章

 参考図書

 

 三谷太一郎「学問は現実にいかに関わるか」(東京大学出版)

 田中美知太郎「自分のこと世界のこと」(文藝春秋

      同「時代と私」(同上)

 牛村圭「文明の裁きを超えて」(中公叢書)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書

 他

                               以上