清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

細谷雄一著「自主独立とは何か 冷戦開始から講和条約」他を読んで

改めて、再投稿

細谷雄一著「自主独立とは何か 冷戦開始から講和条約」他を読んで

 

 昨年の6月に投稿した吉田茂「回想十年」に続くような今回のブログ投稿です。又々、長いので恐縮します。本登録も何日、注目記事の上位に返り咲いています。お陰様で総数は65,00台になります。

 

 戦後から講和条約、日米安全保障の経緯を記述する細谷雄一氏による貴重な作品です。上掲の著書は2022年2月、ソ連のウクライナ侵攻以前に発刊されたものですが、我国の戦前・戦後の歴史と日本の現状を改めて考えてみようと、再読した次第です。本書は細谷氏の「歴史認識とは何か」に続くものですが、むしろ上掲の著書が本来の氏の目的であったようにも思います。

 尚、緊迫した国際情勢のなかにありながら、今回の参議院議員選挙に際しても、多くの訳の分らない政党が乱立する現状は、平和ボケのひとつの現象と考えます。改めて国会議員の資質、並びに政党とはなにか等々、我々自らを含め、根本的に考える必要があるのではないか、と思うのです。

 

 細谷氏の上記著作に加え、数冊の関連の著作につき私なりの感想というか、私が記憶に強く残った箇所も記しています。著者の考え・思いとは異なる所、あるいは誤解もあるかもしれませんが、ご容赦願います。

 

その1 細谷雄一著「歴史認識とは何か 日露戦争からアジア太平洋戦争まで」

 

 両書には副題として、「戦後史の開放」と記されております。現代史がわれわれ現代の政治にとって大きな位置を占めながらも、それを深く学ぶ機会が限られていることと並び、もう一つの大きな問題はわれわれの外交の経験、そして外交の理解が圧倒的に国際社会のそれからずれていることが、しばしばあることである。次のように述べています。

 

 国際政治を正しく理解するのは難しい。だが、その潮流が変化していることを適切に認識して、その変化の方向を理解することはもっと難しい。国際政治は常に動いている。それがどのような方向に向かっているのか、そしてどのような性質が変化しているかを的確に理解し、はじめて、日本が進むべき進路が見つかるはずである。その進路を見誤り、漂流して、孤立したことが、戦前の悲劇的な戦争を開始し、悲惨な敗戦を経験することになった大きな理由であった。(本書7頁)

 

 本書の序章(束縛された戦後史)において、戦後50周年を迎えた1995年8月15日の村山首相の、いわゆる村山談話に言及しています。

 

 私なりに要約しますと、その村山首相の言葉の中には「植民地支配と侵略」によって多くの悲劇をもたらしたことへの「痛切な反省」と「心からのお詫び」という言葉は含まれている。戦後日本の首相による談話で、ここまで踏み込んで「反省」と「お詫び」の念を表明したことはなかった。1924年に生まれ、戦時中は学徒出陣で陸軍に入隊し、陸軍軍曹として戦争を終えた村山にとっては、アジア侵略の歴史は自らの人生とも深い接点をもつものであった。村山首相は「独善的なナショナリズム」が日本で台頭することを懸念していた。ただ自民党、社会党、新党さきがけの連立政権での国会決議は賛成した230名に対し、与党と野党を併せ欠席者は賛成者を上回る241名。このことは日本国内で統一的な歴史認識を創り出すことの如何に難しいかを端的に示している。

 と同時に玉虫色の決議文が中国や韓国から批判される結果となった。それから20年が経過した2015年、再び歴史認識問題を巡って日本国内で激しい議論が沸き起こり歴史認識の政治問題化が進み、いかなる内閣といえどもこの問題を避けて通ることが出来なくなった。

 

 「それだけでなく、結果として村山政権を通じて、歴史認識問題が日中間および日韓間での深刻な外交問題に発展してしまった。それにより、それまでは経済的な相互利益や、共通の戦略利益に基づいて発展してきた日中、日韓関係において、国民世論を巻き込んだ摩擦を生んでしまった。

・・(中略)歴史認識がそれぞれの国のアイデンティティと深く結びついている以上、そもそも国境を超えた歴史認識の共有がいかに難しいのかという意識が、おそらく村山首相には欠けていたのだろう。国家間の問題についても、十分な誠意を示せば決着がつくと感じていたのかもしれない。ところが歴史認識という「パンドラの箱」を開けた結果、むしろ中国でも韓国でも歴史問題を封印して、凍結しておくことはもはや不可能になってしまったのだ。その意味では、村山談話は誠実な態度で歴史に向かおうとしながらも、結果としては困難な問題の解決を図ろうとして、外交問題化させてしまったというべきであろう。

 

・・(中略) 村山談話にみられるような歴史認識も、そこに描かれているのは客観的な歴史事実というよりも、それを作成したもの達の歴史認識が色濃く反映されたものとみるべきである。もちろん中国政府や韓国政府の批判も、歴史的事実を純粋に議論することよりも、それを通じて国民の支持を固め、自らの政権基盤を確立することに目的があるとしても、けっして不思議なことではない。」(27~37頁)

 さらに「1980年代におけるフェミニズムとポストモダニズムという新しい二つの思想的潮流が、歴史認識に息吹を与えて、日韓関係に巨大な暗い影を落とす。  

 このように、従来の伝統的な、歴史事実に基づく歴史学ではなく、自らの運動を実践するための手段として『歴史』が用いられるようになっていく。正確な史実に基づく歴史を明らかにするよりも、過去の『事実』をシンボルとして操作的に利用することで、自らの望む方向へ現実を動かそうと運動するのである。だとすれば、韓国側が現代の日本政府の歴史認識に関する姿勢を批判するのに対して、日本側がその歴史事実の不正確さを批判したとしても、うまく『対話』がかみ合うはずはない。」(46頁)と記しています。

 

 加えて、それはまた、日本でも同様であった。左派、右派ともに、歴史が政治運動とあまりにも深く結びついてしまった。かっては、マルクス主義的な歴史学が、共産主義社会を実現するための道具として歴史学を利用してきた。歴史家どうしが、異なる歴史理論に基づいて激しい対立を繰り広げ、異なる歴史を描いてきた。とすれば、日本の国民や政治家のあいだでも歴史認識を共有することは難しい。いわば、歴史認識をめぐる「内戦」であった。日本の歴史認識問題を理解するためには、これまで日本人がどのように近現代史を論じ、総括してきたのかについて理解することが重要だ、と指摘しております。

 更に、われわれの思考を拘束しているのは、イデオロギー的な束縛、反米史観や陰謀史観による束縛のみではなく、「時間的な束縛」、即ちあらゆる歴史の歯車が「1945年8月15日」から動き始め、それ以前の歴史と戦後史が完全に断絶しているという歴史観である。と続け、以下のように著者は記しています。

 

日本国憲法の第九条

 

 「たとえば、日本国憲法が掲げる平和主義の理念、戦争放棄の理念を理解するためには、1928年27日にパリで署名された不戦条約や、1945年6月26日にサンフランシスコで調印された国連憲章二条四項を理解しなければならない。『戦後』のみを観ていたのでは、戦後史を深く理解することが難しいのだ。1946年11月三日に公布された日本国憲法の第九条だけを観ていて、これにより世界ではじめて戦争放棄と平和主義の理念が実現したと観るのは、正しい歴史理解とはいえない。より広い時間的な視野の中から、戦後史をとらえ直す必要がある。それによってはじめて、戦後日本が掲げた平和国家としての理念を深く理解できるはずだ。」(本書57頁)

 

 そして、本書で戦前の日本が陥った本質的な問題がイデオロギー、時間、空間という三つの束縛からくる国際主義の欠如と、孤立主義への誘惑であったと、論じていきます。すなわち、国際社会の動向を理解せずに、自らの権益拡張や正義の主張を絶対的なものと観なしたことが、日本を破滅の道へと導いていった。だとすれば、国際主義を回復することが戦後の日本の大きな目的でなければならない。そこで気になるのは、今の日本である。戦前の日本が、軍国主義という名前の孤立主義に陥ったとすれば、戦後の日本はむしろ平和主義という名前の孤立主義に陥っているというべきではないか。たとえば、平和主義と戦争放棄の理念を、1928年の不戦条約や、1945年の国連憲章二条四項を参照することなく、あたかも憲法九条のみに存在する尊い日本固有の精神であるかのように錯覚し、ノーベル平和賞を要求することは、本書で見てきたような日本の歴史に少しでも思いいたすならば、美しいふるまいとは言えないであろう、と終章で述べています。

 

その2 細谷雄一著「自主独立とは何か 冷戦開始から講和条約まで」

 

 本書は、「歴史認識とは何か」に続くものですが、むしろ本書の発刊が著者の、そもそもの目的であったように思います。尚、本書は4章・分断される世界、第5章・国際国家日本の誕生、そして終章・サンフランシスコからの旅立ち、 で構成されております。

 

 その第4章の冒頭で、日本国内に大日本帝国憲法の改正へ向けた動きが始まる1945年秋から1946年春にかけての半年は、国際政治が大きく変転し、戦時中の連合国間の協力が対立へと、移行・推移していく時期と重なっていた。いわゆる冷戦の起源とみなされる時期で、アメリカの国務省や軍関係者のなでは対ソ関係の悪化を主な理由として、長期的な戦略を転換していく必要制が認識されていた。

 

 とりわけ厄介な問題は戦勝国ソ連です。いわゆる英国首相・チャーチルの「鉄のカーテン」演説と並び、その後のアメリカ政府の政策に大きく影響したアメリカの外交官・ケナンの長文電報が、当時の状況並びに世界に大きな影響を与えていきます。

 

 ソビエト連邦はいぜん敵対的な「資本主義の包囲網」の中に有り、長い目で見れば資本主義との恒久的平和共存はありえない。「なぜソ連は、西側諸国との協議を継続することを求めないのか。何が問題なのか。国際問題に関するクレムリンの神経過敏症的な見解の底には、ロシアの伝統的、本能的な不安感がある。元来これは、勇猛な遊牧民と隣り合わせに、広大なむき出しの平原に住もうとした、平和な農耕民族の不安であった。ロシアが経済的に進んだ西方と接触するようになったとき、その地域のより有能で、より強力で、より高度に組織された社会に対する恐怖がその上に加わった。」(本書62頁)と述べています。

 

 何か、現在のソ連のウクライナ侵攻にも関連するかのようで、私は興味深く感じた視点です。

 

 続いて、スターリンの専制政治に対する国内国民への不満へのスターリンの恐怖。加えて、ドイツと日本が復興して、再びソ連にとっての脅威となることです。ソ連は日本が戦後に平和国家になることなど簡単には信用できなかったこと。更にアメリカの広島、長崎への原爆投下は、米国とのバランスが崩壊したことです。核開発のために東欧諸国をソ連が支配し、ウラン鉱石を確保するためにウラン鉱石が埋蔵されている東欧諸国をソ連が管理することが不可欠との認識等が、ソ連が西側諸国との連携を求め得ない大きな要因との指摘です。

 

 そして、英国首相・チャーチルの「鉄のカーテン」演説に並び、その後のアメリカ政府の政策に大きく影響したアメリカの外交官・ケナンの長文電報です。加えて、1947年にケナンが「フォーリン・アフェア-ズ」に寄稿した論文「ソ連の対外行動の原理」が世界中で多くの読者に読まれ、国際世論と主要国の政策を大きく動かすモーターとなった。そして、世界は、戦後初期の米ソ協調を基調とした時代から、米ソ対立を基調とする冷戦の時代へと、音を立てて回転し始めていたのです。

 

 方や、日本国民の多くは平和で安全な世界がこれからは続くものと、楽観していたのではないか。外交権を失い、国際政治の舞台で活動する機会を喪失した日本人は、いわば壁に覆われた閉鎖的な空間の中で、平和を夢見、自らの安全を望んでいた。

 日本国憲法が起草された1946年と1949年の西ドイツのドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)には大きな違いがある。前者が理想的な国際環境を前提にして日本の戦力不保持を規定いるのに対し、後者はむしろ冷戦下の峻厳な現実を前提にした西ドイツの防衛力保持を視野に入れている等々、記しております。

 

天皇制の維持

 

 「分断される世界」の章で、天皇制とその維持に付き、極めて貴重な記述を展開していきます。日本が極度に弱体化すれば、必然的にソ連が勢力圏を拡大し、最悪の事態は戦後に日本が共産主義化し、ソ連の友好国になることである。そうならないためにも、日本において天皇制を維持し、日本を平和的な日本を再建するための「礎石」とすべき、とのアメリカの国務次官の知日派外交官のジョセフ・グルーの主張が通ったこと。

 

 尚、中国やオーストラリアは、日本の軍国主義の源泉と考える天皇制を廃止するとの主張。加えて、「アメリカの1945年6月29日付けの『ワシントン・ポスト』紙一面に報じられたギャラップ社の世論調査によれば、戦後の天皇存置について、33%が天皇の処刑を支持、37%が天皇を裁判にかけるか、あるいは終身禁固または流罪にすべきと考えており、天皇制を存続させて利用することを支持する声は7%に過ぎなかった。日本人、そしてとりわけ天皇に対する憎悪や敵意に満ちたアメリカ世論に対して、どのように天皇制存続の必要性を説くかは、難しい課題であった。」(本書24~25頁)

 

 再び世界戦争が勃発することを回避して、安定的な平和を確立するためには、国際連合を設立するだけでは十分でなかった。ソ連の膨張主義的な対外姿勢に対応するために、アメリカ政府は新しい長期的な国家戦略が求められていた。

 

 著者は占領下の日本で、首相として長く指導的な立場にたった吉田茂の「回想録」を引用しながら、連合国の占領の占領統治が三つの段階を経ていることを記しています。

 即ち、第一段階は日本の非軍事化と民主化とが徹底的に推し進められた時期で、1946年4月の戦後最初の総選挙の下、主権在民と戦争放棄を建前とする1946年の新憲法の発布。

 第二段階は日本経済に重点が置かれ、日本経済を復興強化させ、共産主義勢力の浸透を防ぐ方針に転化したこと。

 第三段階は朝鮮戦争の勃発から1951年サンフランシスコ平和条約成立と、同日の日米安全保障条約の調印です。

 

 第5章・国際国家日本国の誕生、終章・サンフランシスコからの旅立ち、では極めて興味深い記述が展開されていきます。現ロシアのウクライナ侵攻を巡る現在の国際状況そして日本の現状・在り方を改めて考える上でも、とても参考になるのではないでしょうか。

 

その1 開化した民主主義

 

 1046年4月10日、戦後初の総選挙が行われ、改正選挙法の下で女性の参政権が認められ、選挙権者の年齢は25歳から20歳となります。中道保守の自由党が140議席、中道の進歩党が94議席を得たものの。自由党の党首鳩山一郎は公職追放となり、第一次吉田茂内閣となるわけです。

 

 尚、マッカーサー率いるGHQは世界政治が大きく変わる中にあって、社会党を中心とした中道左派政権誕生と共に反共主義的な保守政治家に警戒感を強めていた民政局(GS)と、むしろ共産主義勢力の拡大に対して強い懸念を持つ参謀第二部(G2)との間の、亀裂と対立が激しくなり始めていた。鳩山一郎の追放は民政局によるものであった。

 

その2 平和という蜃気楼

 

 その後、1949年のソ連の原爆実験が成功してアメリカの核独占が終焉。毛沢東率いる共産党が蒋介石率いる国民党に勝利し、中華人民共和国の設立。朝鮮戦争の勃発、共産主義が世界中のあらゆるところで拡大。斯様に1948年から1950年にかけて東アジアの国際情勢も急速に変転します。

 

 一方、GHQの下で言論に規制がかかっており、日本国内にいて世界の潮流を適切に理解することは容易ではなかった。他方で、戦争中に困難に直面していた多くの自由主義者たちは、戦争に動員されて、悲惨な戦争経験をしたことは軍事組織に対する嫌悪感に帰結したことも、戦後民主主義の中で活発な言論を展開し、日本独特の平和主義の思想が醸成されていった。

 平和問題討議会から発展した「平和問題談話会」は講和条約をめぐり政治的な旗幟を鮮明に、活発な活動を展開していく。吉田保守政権が反共主義的な政策をいくのに対し、より親共的な立場からの政策、戦後日本の非武装中立論や、反戦運動、全面講和、日米同盟批判へと繋がっていった。

 

 「しかし、日本に与えられていた選択肢は、単独講和か全面講和かではなかった。実質的にアメリカの占領下にあり、主権を失っていた日本には、そのような贅沢は不可能だったのだ。日本に与えられていた選択肢は、アメリカ政府の許容可能な講和か、あるいは占領の継続か、あるいはドイツや朝鮮半島のような、米ソ両国による日本の国土の分断であった。・・(中略)そのような中で吉田茂首相は、占領が半永久的に継続することよりも、あるいは国家が分断されることよりも、アメリカを中心とした西側諸国との講和条約を早期に締結して、主権を回復することが、現実に可能なもっとも望ましい選択肢と考えたのである。」(本書172頁)

 

その3 拘束と選択の中での自主独立

 

 私なりの要約ですが、敗戦後の日本も、そして戦勝国のアメリカもまた、一定の拘束の中で外交を行わなければならない。いかなる国も、真空のなかにあるのではない。歴史的運命、すなわち無数の拘束と限られた選択肢のなかで、困難な船の舵取りをせねばならない。日清戦争後の屈辱的な三国干渉に臥薪嘗胆の譲歩しかり、日露戦争後の日本が戦勝国としての講和会議しかり。それは憲法制定や、ワシントン講和条約締結、日米安保条約署名の日本の決断しかり。

 

 そして吉田茂首相の外交上の選択について、終章・サンフランシスコからの旅立ち、において、北岡伸一氏の言を借りながら次のように述べています。

 

 吉田によれば、日本は明治以来、英米との関係を中心に発展してきた。ところが、軍部の暴走によって、誤った道を歩むようになってしまった。こうした軍部を除去し、英米との深い関係を結び、経済中心に発展することは、吉田にとって日本の正しい道に復帰することであったのである。要するに吉田は、共産主義は国民の自由と繁栄の観点からして誤った思想であると断じ、日本の発展は西側の一員としてやっていく方向しかなく、冷戦のなかで、日本は西側の一員として役割を果たさなければならないと論じたのである。(239頁)

 

 くわえて、著者はこの終章で次のように述べています。

 

 「かって吉田が『世の共産主義者並びにその亜流が、米国の帝国主義下に日本が隷属しているかの如く誣いるのが常である』と論じた状況は、現在でも変わっていない。相も変わらず、『共産主義者並びにその亜流』が、『対米従属』を批判し、アメリカとの友情や信頼関係を嫌い、それを破壊しようと叫び続けている。日米同盟を破壊することは、中国や北朝鮮のような共産主義勢力が最も好むものであって、自由主義と民主主義に価値を置く立場からは、為にする批判と受け取られるものであろう。」(240頁)

 

 いかがでしょうか。私は賛同するところです。著者は本書を書き上げた後、大磯の旧吉田邸、そして吉田茂政権で重要な任務を担った白洲次郎が居住した鶴川にある武相荘、そして荻窪の旧近衛文麿邸である荻外荘を訪れ、主人亡き後のこの三つの邸宅を巡ります。この三人の「生態を理解する」上で大いに示唆を得られた気がする、と記しています。私にも印象の深く残る、本書の「おわり」でした。

 一方、現在のソ連によるウクライナ侵攻の深刻な脅威の中、現在の中国の異様な行動・活動は、今後も益々強まることはあっても、弱まることはないでしょう。 ソ連に加え、我国は中国、北朝鮮に囲まれています。そうした脅威は強まることはあっても弱まることはないでしょう。

 

 中国政治並びに東アジア国際関係を専門家である天児慧氏の「中国のロジックと欧米思考」を改めて読み進めています。中国式民主主義とは何なのか、中華大国の復権とは何か、その思想の原点は何なのか、等々極めて興味深い論述です。今回の投稿が長くなってしまい、改めて、私なりの本書への読書感等を記してみたいと思っております。

 

2022年7月5日

                        清宮昌章

参考図書

 

  細谷雄一「自主独立とは何か」(新潮選書)

  同 上 「歴史認識とは何か」(同 上)

  同 上 「国際秩序」(中公新書)

  同 上 「安保論争」(ちくま新書)

  吉田茂 「回想十年」(毎日ワンズ)

  他