清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再び・日米安全保障条約と戦後政治外交

 

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原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【前編】

 

再投稿にあたって

 

 本投稿は2年前のものですが、現国会審議の現状を考える上で何か参考になるのでは、と勝手に思っています。ご存知のように著者である原彬久氏は戦後日本の政治外交史の泰斗ですが、オーラルヒストリーを描く著作は文学作品とも思えるような心打つ文章家でもあります。

 方や、服部龍二氏も日本外交史・東アジア政治史を専攻とする重鎮の学者です。「日中歴史認識」「日中国交正常化」等々の名著を著わす一方、「広田弘毅」著わし、城山三郎の小説「落日燃ゆ」の広田弘毅とは少々異なる実像を、文学者ともいうべき印象に残る文章で綴ります。昨年12月、氏は「佐藤栄作」を著わしました。本書については後日、筒井清忠「戦前日本のポピュリズム・・日米戦争への道」とともに、改めて私なりの感想など記してみたいと思っております。

 

 本投稿は長々と、然も前編と後編に分かれており誠に恐縮しますが、改めて一覧頂ければ幸いです。

 

 2018年3月5日

                          淸宮昌章

 

はじめに  

 民主党と維新の党が自公政権の交代を図るべく双方解党し、新しい政党を作るとのこと。その意図は分かるとしても果してどんな成果を望むのでしょうか。更には共産党との選挙協力も分からないわけではありません。しかし消滅した社会党左派への先祖帰りを図る民社党、更には党の理念の分からない、政党交付金を得ることが最優先としか思えない生活の党とも連携を図るような新政党が果して国民政党として成立するとは、私はとても考えられません。  

 民主党に必要なことは労働貴族とも称すべき連合、更には特異な思想を抱き、現実から大きく乖離したような日教組から少し軸足を移し、広く国民政党として再出発することこそが必要に思います。そのためには日本だけしか通用しない視点・観点ではなく、より広い見識を持った有識者を加えたシンクタンクを作り、そこで先ず理念・思想を練りあげ、党としての在るべき政策・指針を構築することが先ずもって重要である。急ごしらえの政党は意味がないと私は勝手に考えております。官僚を軽視し、ただ思いつきの正義感ではとても政権は取れません。民主党は前回の失敗はどこにあったのか。その失敗から何を学ぶべきかが問われている、と思います。マスメディアと一部の知識人に踊らされ、官僚を余りにも軽視し、結果的には情報も知識も乏しくなり、実務が回らなくなったのが民主党政権の現実ではなかったでしょうか。自公政権とて、いつでも交代できる政党の出現を望んでいるやもしれません。

 一方、国会中継を観るにつけ、本題の法案等にはほとんど触れず関連事項の質疑に終始する国会の現状にあっては、わが国が議会制民主主義にたどり着くまでに、気が遠くなる長い長い期間が必要に思います。いかがでしょうか。  

 そんな日頃の思いの中、表題の両氏の著作を改めて読んだわけです。ご存知のように原彬久氏は戦後日本の政治外交史を専門とする方です。今までも同氏の「岸信介」、「吉田茂」、「岸信介証言録」等々紹介して参りました。心に残る文章で日本政治外交史を語る学者です。

  方や服部龍二氏も日本外交史・東アジア国際政治史の専門家です。同氏についても「日中国交正常化」、「広田弘毅」などの著作を紹介して参りました。今回は原彬久著「戦後政治の証言者たち」を中心に話を進めたいと思います。

  いつものことですが、今回も本書全体ではなく、私が感銘あるいは共感したところのみ、紹介して参ります。

 

原彬久著「戦後政治の証言者たち オーラル・ヒストリーを往く」

 

 第一章 オーラル・ヒストリー  

 著者はオーラル・ヒストリーの効用を次のように記しています。  

第一 話し手の「心の事実」も含めて「新しい事実」を発掘することができること。  第二 歴史を立体的に再構築する手段としての有用性をもっていること。

第三 私たちに「歴史の鼓動」を伝えることができること。いい換えれば、「歴史の臨 場感」ともいうべきものを生み出す有用な手段として、活用できること。  

  尚、本書は第一章;オーラル・ヒストリーの旅、第二章;岸信介とその証言、第三章;保守政治家たちとその証言、第四章;社会主義者たちとその証言、から成り立っています。第一章で著者は本書の目的を次のように述べております。本書の骨格を示すもので、以下紹介いたします。

 戦後日本の骨格そのものとなった日米安全体制をめぐって、日米関係と日本の国内政治がいかなるダイナミズムをみせたかを自分なりに明らかにしよう、というわけです。そのための具体的な研究ターゲットとしては、それまで誰も足を踏み入れたことのない、岸政権による安保改定の政策過程(ここでは、最高意思決定者およびその周辺の比較的狭い範囲における政策作成集団内での相互作用をいう)、および同過程を含むより包括的な政治過程(政策決定過程だけでなく、そこに影響力を行使する、より広範囲な政治過程をいう。野党政治家、各種利益集団の他に多くのアクターがここに参入する)をとり上げようと思っていました。  

 というのは、戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程には、ほかならぬこの戦後日本のあらゆる特質が詰め込まれているようにみえたからです。つまり、安保改定の政治過程に政治学的解明のメスを加えれば、戦後日本における政治外交の構造的特質がある程度浮かびあがるにちがいない、ということです。そして、幸運にもいまこのオーラル・ヒストリーを目の前にしますと、これこそ安保改定にかかわる資料獲得の方法としてある一定の効用をもつのではないか、と確信するようになったのです。(本書7、8頁)  

 さて、吉田とダレスの間でつくられた旧安保条約が戦後日本の根幹をなした、という事実は誰も否定できません。したがって米ソ冷戦のなか、岸信介が同条約の改定に手をかけたとき、それが国内外を大きく揺るがしたのは、ある意味では当然でした。  

 しかも最高意思決定者岸信介が先の戦争に関連して、戦後A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されていたということもあって(不起訴処分)、この安保改定は激しいイデオロギー対立と権力闘争の渦に巻き込まれてしまいます。つまり、安保改定によって条約の日米不平等性を改善して、より強固な日米関係を築こうとした保守の自民党と、岸信介が安保改定をするというなら、むしろこの際条約そのものを廃棄して戦後の日米体制を清算すべきと主張する左派中心の日本社会党との間で、戦後最大の政治抗争を惹起いていくのです。(15頁)  

 尚、共産党がこの政治的騒乱をどう位置づけていたのかを、院外大衆闘争の司令塔である安保改定阻止国民会議にオブザーバーとして参画していた、日本共産党中央委員会幹部会員である鈴木市蔵の証言として以下のとおりです。  

 第一にいわゆる安保闘争は戦後日本の政治闘争においては唯一の統一戦線であったこと、すなわち社会党共産党労働組合三者が戦後日本の政治史において「一番画期的な役割をもった統一戦線」を形成したとうことです。つまり、「典型的な階級的政治戦線の統一」だったのです。ですから、岸退陣後「これ(安保闘争の勢い)を潰すということは、共産党としてできるわけがない」というのです。  

 第二にこの統一戦線を、すぐさま革命へともっていかなくとも、「日本の変革の道標」にしようとしたことです。すなわちあの政治的騒乱を「革命」とは捉えないまでも、「そういう位置づけをしてもおかしくない状況にあった」というのです。だからこそ共産党は、この闘争の「体制」を「発展させていきたい」と考えていたのですが、統一戦線のパートナーである社会党労働組合(総評)はこれに消極的であった、というわけです。(17頁)  

 そして、岸内閣退陣後の総選挙(1960年11月)は池田政権与党の自民党が勝ち、勝つべき条件をもっていた社会党が負け、新党の期待を背負った民社党が惨敗したという点からすれば、戦後日本70年の歴史における一つの分岐を画する重大な選挙であったと著者は記しております。それではあの安保改定の政治騒乱はその後の日本の政治・外交に何を残したのでしょうか。

 

第二章 岸信介その証言

 岸信介については原彬久著「岸信介証言録」(中公文庫)および「岸信介」(岩波新書)他の研究書で詳しく述べられております。従い本書で私が新に参考になった点のみ紹介いたします。岸信介A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンで3年有余の獄中生活を送ったわけですが(不起訴処分)、吉田茂と共に岸信介は戦後の日本政治を形成した、歴史に残るべき政治家と私は考えております。

 著者は本章の中で、岸信介の長男信和氏の妻であリ、政治家岸信介・人間岸信介を最も身近にみていた一人である岸仲子氏がいう、岸信介が「妖怪」であるかどうかはともかくとして、ある種の「政治的多面体」であることは確かなようです。国粋主義者でありながら自由主義者であり、自由主義者でありながら社会主義者でもあり、そして部下に「勝手気ままに」を許しながら、権力闘争には非情なまでに自我を押し通す、これが岸信介と言わしめています。加えて、以下のように記しています。

  それにしても岸さんは、人間にとってそして社会にとって自由がいかに大切であるかを、三年有余の獄中生活を通じて痛切に感じ取ったようです。「天皇を絶対と思いますか」という私の質問に、「それはありません」と彼は断言するのです。つまり、「天皇より自由が大事」というわけです。吉田茂ならば、「天皇は絶対である」というかもしれません。戦前軍部と結んで統制経済を主導したあの岸信介から、天皇よりも「自由」に価値を置くという言葉を聞くとは、意想外でした。政治家岸信介は、やはり難解です。政治家岸信介は、天性の「政治的人間」です。岸信介は、権力の論理と生理を完璧なまでに呑み込んだうえで、その権力を並外れた行動力で追いかける。「権力の非情と矛盾」を従容として受け入れる。岸信介は権力のニヒリストでもあります。(45、46頁)

 1955年に保守合同にいたるわけですが、岸信介がその保守合同に向った主たる理由は米ソ冷戦のなか、内外共産勢力に対抗できる「強力な保守」をつくって「独立の完成」を実現しようというわけです。この「独立の完成」とは、象徴的にいえば、占領下に作られた日本国憲法の改正で、日本が陸海空の「戦力」をもち、なおかつ集団的自衛権を行使可能にすることなどを含む、と著者は記しています。

 方や、天皇制を尊崇する吉田茂は戦前、戦後を通じ親英米にあるに対し、岸信介は「日米開戦」を支持し、対米戦争そのものを指導し、そしてその責任に容疑を掛けられ獄中の三年有余を送りました。獄中で彼は米人看守からさまざまな虐待を受けており、「反米」感情が根付いたのも現実です。それでも彼は「米ソ冷戦」に導かれるかのようにして、戦後政治の荒野に放たれ、そして「保守合同」を主導し、アメリカの期待に応えていったわけです。しかし、それをテコにしてアメリカ側に一方的に有利であった吉田茂の安保条約を改定にもっていくことは並み大抵でないことも重々承知しております。鳩山一郎内閣の時代の1955年の8月、岸信介鳩山内閣日本民主党幹事長として重光葵外相の訪米に同行し、ダレス国務長官との会談に参加します。その席上で何の相談もない中、重光外相が安保条約は非常に不平等であること、日本側としては条約を対等なものに直したいとダレスに発言します。しかしダレスの反応は「アメリカとの間に対等な安保条約を結ぶなど、日本にそんな力はない」と、木で鼻をくくるような無愛想な態度でその提案を一蹴された現実があるのです。

 保守合同が出来たとはいえ野党社会党に対峙するだけでなく、自由民主党の中にも凄まじい派閥間の権力闘争があり、安保改定のときも三木武夫松村謙三とは政策決定過程の各局面でことあるごとに岸と対立しました。政治家は相手に権力闘争を挑むとき、必ず「政策」あるいは「方策」の違いを理由にその権力闘争を正当化します。政策と権力が渾然一体となっているために、権力闘争の帰趨が政策の命運を、したがって歴史を左右することにもなるのです、と著者は記しています。

 戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程も1960年6月10日のハガチー事件、続き同年6月15日の東大生樺美智子の圧死により、アイゼンハワー大統領の訪日延期となります。そして岸政権は幕を下ろし、安保改定が成立します。

  しかし、「アメリカが憲法改正に期待し『強い日本』を望んだその本心は、日本ができるだけ自力で『対ソ防壁』を築いて、その分アメリカの負担をへらしつつアメリカへの依存を続けることにあったのです。つまりこの程度の『強い日本』が望ましいのです。日本の自衛力がある一定レベルを超えて『強すぎる日本』になれば、この対米依存は弱まり、したがって、少なくともアメリカの『国益』に従属する日本ではなくなります、これこそ、アメリカの悪夢だった、いやいまでも悪夢である、といえましょう。」(70頁)  

 共産党独裁政権の中国が急速に大国化を目指し、軍事力等々を強めるという大きな地政学的変化に直面している日本にとって、このアメリカの国益という問題は日本の国益と繋がるか、否かの問題でもあり、今以て極めて難しい課題でもあるわけです。

著者はこの章をつぎのような印象深い文章で閉じています。

 巣鴨プリズンにあって「反米」を募らされた岸信介は、米ソ冷戦の出現とともにアメリカに接近して「親米」化していきます。一方、戦後いち早く日米戦争の敵方岸信介を戦犯容疑者として収監したアメリカは、これまた米ソ冷戦の進捗とともに岸を抱き込んで利用していきます。

 日本が戦後数十年間、米ソ冷戦の時代文脈から脱しえなかったように、「戦後政治家」岸信介もまた、冷戦の時代文脈を抜きにして語ることはできません。岸がこの世を去ったのは、1987年8月でした、時すでに、米ソ冷戦崩壊の胎動が始まっていました。ソ連民主化」の指導者M・ゴルバチョフ共産党書記長)がワシントンを訪問してアメリカ国民から熱い歓迎を受けたのは、岸信介死去の四ヶ月後、すなわち87年12月です。

 それから二年後、地中海に浮かぶマルタ島でG・H・W・ブッシュ(米国大統領)とゴルバチョフソ連最高会議幹部会議長)は「冷戦終結」を高らかに宣言するのです。「戦後政治家」岸信介は冷戦から生まれ、そして冷戦とともに死す、ということでしょうか。(70、71頁)

 

第三章 保守政治家たちとその 証言、社会主義者達とその証言 他 【後編】に続く

    (2016.3.15)

 

 2016年3月5日                            

                                清宮昌章      

植民地時代から今日まで  エドウィン・S・ガウスタッド・・後編

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「アメリカの政教分離」エドウィン・S・ガウスタッド 西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【後編】

 

第三章19世紀 静かなる法廷

 

 信教の自由を与えられた宗教団体はこの世紀に劇的な繁栄を迎えます。例えばメゾジスとバプティストの教会数は会衆派と監督教会派を加えた総数の7倍にも達すると共に、教会の「新たな姿」をあらわすキーワードのボランタリズムの発生があり、アメリカ聖書協会、アメリカ日曜学校連合、アメリカ文書協会等々の活躍につながっていったわけです。

 

 一方、19世紀全般にわたっては、合衆国最高裁はこの世紀後半、モルモン教が一夫多妻制を明確に廃止するに至り、ユタが始めて合衆国への参入が許されるに至る1890年の判決は別として、宗教問題については沈黙を守っていました。所謂表題の静かなる法廷です。しかし宗教のほうが黙っておらず、州レベルや地方レベルの裁判所では数々の論議・判決がでており、たとえば大統領選についても「神と宗教的大統領」に忠誠を誓うか、否かの論議などが発生します。ジェハァソンが例の修正条項から適切な言葉を引用して「こうして政府と宗教のあいだには分離の壁を立てるのである」と連邦憲法には何処にも見当たらないこの[分離の壁]が憲法の言葉以上に合衆国市民に親しまれた、とのその言葉の由来を示します。

 

 又、この世紀半ばの1840年から50年時代には、もっとも情熱をもって戦われた論争は奴隷制度であります。この苦渋に満ちた問題は家族や教会、そしてすべての教派(バプティスト、メゾジスと、長老派)、更には国家そのものをも分裂させる南北戦争に至たります。

 その結果、1868年に修正条項第14条が制定されましたが、それは教会と国家に関する、南北戦争とその直後の重要な意味合いをもっており、

 どの州も、合衆国市民の特権あるいは安寧を妨げる法をつくり、かつまた強制してはならない。またどの州の何人も生命、自由、財産を、正当な法的手続きなしで奪われることはない。また、法的領土内において何人も法の下での平等な保護を拒否されることはない。この修正条項は、おもにかって奴隷であった人々の市民的権利保護のために作成されたものだが、究極的にはその領域を超える意味合いを持つにいたった。修正第一条は合衆国議会がなしうること、なしえないことの領域自体を制限していることを思い起こすべきである。今回は、修正第14条が州のなしてよいこと、よくないことを示している。これらの言葉がこの後の時代の、信教の自由と政府のあたえる信教の恩恵について大きな影響力を持つことになる。(47頁)、と指摘しています。

 

第四章 20世紀とそれから 多忙な法廷

 

 そして、19世紀の静かなる法廷から20世紀には劇的な変化が起こり、多忙な法廷となります。その要因の第一は最高裁が1940年代に修正第一条の宗教条項を州に適用する手段として、前章に述べた修正第14条を使い始めるに至ったことです。

 

 第二は、アメリカ自由人権協会、アメリカ・ユダヤ人会議、アメリカ政教分離連合他多くの新しい組織が伝統的な宗教的慣習に公的な場で挑戦し、最高裁に法的手続きをとるようになったこと。

 

 第三は第一次大戦終焉までにアイルランドからのローマ・カトリック教徒や、東ヨーロッパからのユダヤ人、更にはイスラム教徒、仏教徒等の多くのプロテスタント以外の移民により、アメリカが従来のプロテスタントの宗教的単一色の国家から多元主義の国家に変遷したこと。

 

 第四は連邦政府の規模が拡大して産児制限等個人の領域まで介入せざるを得ない状況に変わったこと。

 

 第五にはアメリカは世界でもっとも訴訟好きな国家になったこと。

 

 そうして最高裁は連邦憲法の[信教の自由]と[自由の行使]と州法の狭間で悩みます。全員一致の判決はまれとなり、むしろ際どい賛否でそれぞれの訴訟に対処してきておりり、其の判決には必ずしも首尾一貫性があるとは言えず、むしろ其の時代の大衆の思いが反映していきます。

 

 たとえばベトナム戦争時の良心的兵役拒否の訴訟が良心の問題なのか否か。それともそれは宗教的・政治的背景のものであるのか否かの問題なのか。更には最も微妙な宗教的背景をも持つ産児制限と中絶の訴訟、国家と教会のかかわりとなるクリスマスの公的な場でのキリストの生誕の展示の訴訟、教会財産課税免除等々の訴訟と極めて多忙な法廷となるわけです。そして一般大衆が懸念を持っている教育の分野が大きな課題となったと本章を纏めています。

 

第五章、第六章 公定条項

 

 宗教と教育

 

 このふたつの章では、修正第一条の政府(連邦)が宗教を支援しても擁護してもならないという点で、最も悩ましい教育面での最高裁の判決をめぐる諸問題を取り上げています。

 

 西洋文明においては宗教と教育の関係は極めて密で、近代になってもヨーロッパのほとんどの国で、国家による教育と、制度としての組織化された宗教とのつながりは密であったわけです。アメリカでの公立教育の統括は連邦(国家)によるものではなく、地域の州でなされており、更に公立学校ではプロテスタント的要素が多く、そこに他宗派から訴訟が起こされる要因があります。  

 ただ、このすべての学校で、憲法から見て正しい仕方で宗教をどう扱うか(あるいは無視するか)は学校に関するすべての人にとって大きな問題となりえますが、アメリカの教育界の実験が西洋の激しい歴史的潮流に逆らっていることを考えれば、驚くことではない、とも記しています。

 

学校における問題

 

公立学校をめぐる訴訟実態は、以下の通りです。

 

1.なんらかのかたちでの宗教教育を行なうにあたって、それが学校敷地内(自由時間)あるいは敷地外(時間外)で行なわれる場合、教区学校と共同で行なわれる場合(共有時間)。

2.公立学校における実際の宗教的行為(祈り、聖書朗読、礼拝そのもの)。

3.本質的に学術的というより宗教的と考えられる科目を教えることに関する問題。

4.学校の建物や敷地内で、生徒が宗教的活動を実践する権利に関するものであり、最高裁判決はそれらの問題に全員一致の判決はほとんどなく、今もって揺れ動いている。

 

  一方、私立学校における訴訟は財政をめぐる法的問題が主であり、1.教科書と教材、2.給料、3.授業料免除、バウチャー制度、税額控除、4.教会に関した大学への補助に分類されるとしています。これまた最高裁判決は複雑さを深めており、「合衆国社会がその政治的・教育的・道徳的ジレンマの多くを解決するときには最高裁を超えたところを見据えなければならないことを示す、もうひとつの例にすぎないのかもしれないと」と第6章を結んでいます。

 

 ただ、いずれにもせよ、外から自由を与えられたかの我国の現状と、自由を求め大陸に移住したといわれるアメリカの生い立ち。今日においても自由とは何か。信教(宗教)の自由とは何かを追い続け、公的場での祈りや聖書の朗読、ダーウィンの進化論の教材、宗教系の私学への教材の補助等に関するアメリカの各州の訴訟。連邦裁判所においてもそうした訴訟受けざるを得ない彼我の状況の違いを改めて知らされます。

 

第七章 自由行使条項 信教の自由

 

 少数派の宗教

 

  信教の自由行使条項は政府が宗教を不利に陥れたり、抑制してはならないことを言明してますが、この条項から最も阻害される人々は少数の宗教グループであった、としています。

 19世紀後半に起きたモルモン教そのひとつですが、20世紀にはエホバの証人・ものみの搭(現在では信者は世界で400万人以上)による文書販売・寄付金の収集。国旗への忠誠問題、そのほか正統派ユダヤ教の日曜日に関する法律問題、アーミッシュの公立学校の通学問題、敬虔主義ユダヤ教への学習援助問題、サンテリアの動物犠牲の儀式の是非。アメリカインデアンの伝統的儀礼による礼拝の制限等々最高裁の判決は時には表現の自由等と信教の自由との狭間で否決・賛成と揺れ動いており、そこで何が問われてきたのか示しております。

  

 最近はイスラム教徒も増加し、しかも各国で起こる激しさを一段と増すテロ事件の中で、アメリカ国家はますます宗教・人種が複雑さを加えている中で、最高裁は今後もまちがいなく、信教の自由行使を定義し保護する線引きを求められることだろうと、この章を終えています。

 

 以上、本書を通じて言えることは、あまり宗教に関わりのない、あるいは関わらなくても過ごし過ごしてきた、わが国の現実と異なることです。国家と州と教会の相克が政治文化の中に深く根を下ろしているアメリカの生い立ち、ある面では現在においても宗教国家とも言うべきアメリカの一面を理解する上で参考になるのではと思い、今回本書を取り上げた次第です。

 経済格差の拡大、その結果もあるのでしょうか宗教間争い・国際テロ、加えて領土問題等々、大きく変動する21世紀世界にあって、平和を唱えるだけでは平和にはならない現実を真摯に受け止め、わが国の地政学的現状をも踏まえ、その在り方はどうあるべきなのか、個人としても自らの問題として考えることが極めて重要な時代に入ったと思っています。

 

 2016年1月21 日

 

                            清宮昌章

再び ・植民地時代から今日まで エドウィン・S・ガウスタッド著 大西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【前編】

再投稿に際して

 

 本投稿は丁度二年前のもので、前編と後編(1月21日)からなっております。大きく変貌していくアメリカ。それはトランプ大統領が出現したことにより大きく変貌したのではなく、アメリカが唱えてきたグローバルリズムの、更には少数を大事にしなければならない、という民主主義が持つ一つの欠陥の結果なのかもしれません。

  方や、一帯一路を掲げ、中華大国への復活を進める共産党一党独裁、権力闘争が常に起こり、そして目的の達成のためには極端な報道規制言論の自由も人権も軽視される等々、その思想・価値観も大きく異なる大中国の出現です。日本には歴史問題を提起し、中国流のナショナリズムを巻き起こす、そうしたことは、今後も事ある毎に生起され、変わることはないでしょう。

  加えて、日本に対しては伝統的な、あるいは文化的な「恨み」の想からくるのでしょうか、大きな「怒り」を持つ国民を背景に登場した、筋金入の反日思想が強いと思われる文在寅大統領の韓国。並びに核・武力の誇示をせざる得ない北朝鮮という同民族の朝鮮半島。そしてユーラシア大陸のロシア。日本はそうした地政学がぶつかり合う北東アジアに位置しているわけです。方や、国内では沖縄問題に直面するという極めて厳しい、由々しき状況に日本は立たされた時代に入っていると、私は考えています。

  斯様な状況のなかで、本書は植民地時代からのアメリカを語るものです。謂わば古き良き時代のアメリカで、再投稿の意味合いはないのですが、今後の日米関係の在り方を改めて考える上でひとつの参考になるかもしれない、と勝手に思った次第です。改めて、本投稿及び後編を一覧頂ければ幸いです。

  一方、国際政治学者の篠田英郎著「集団的自衛権の思想史」、そして自らの体験を通じて書かれたジャーナリストの杉田弘穀著「ポスト・グローバル時代の地政学」を読み終わったところです。篠田英郎氏による、日本の憲法9条と日米安保の歴史的解説。更には内閣法制局、いわゆる憲法学者とは何か等々につき、私には新鮮な論述でした。方や、杉田弘穀氏により、改めて地政学とは何か、そして今後の動向、日本の在り方等々に極めて深い示唆を与えて頂きました。

 

 尚、右足を少し痛め、ここ数ヶ月はテニスを休みます。その間、読書に集中しようと思っております。わが国の平和ボケの現状に、私なりに危機をつのらせているなか、上記の両書、並びに引き続いて佐伯啓思氏の一連の著作、加えて北岡伸一著「外交と権力・日本政治史」、21世紀構想懇談会編「戦後70年談話の論点」他を読み進め、私なりの感想など改めて記してみたいと思っています。

 

 2018年1月12日

                       淸宮昌章

 

はじめに

 

 昨年9月、中国に関するある意味では衝撃的な二つの著書が発刊されました。ひとつは習近平の生い立ちと、凄まじい共産党内部の権力闘争の報告書でもある中澤克二著「習近平の権力闘争」です。もうひとつは中国の国家戦略の根底にある意図を見抜くことが出来ず、だまされ続けられてきた、とする中国専門家の、しかも歴代のアメリカ政府の対中政策に深くかかわってきたマイケル・ピルズベリー博士著「China2049」です。お読みになった方も多いと思います。中国が大国への復権・復活をどのような戦略のもとに行動しているのかを知る上で、両書の信憑性は問われるかもしれませんが時宜を得た出版と思います。

 政治体制のみならず、その歴史観も価値観も大きく異にする中国がその経済力と軍事力を背景に数世紀前の大国の復活を図る現実に鑑み、わが国は価値観を共有する諸国と更なる連携を計り、わが国のあり方・立ち位置を正に真摯に考え、行動に移していくべき時代に入ったと思っています。第二次大戦後、良しにつけ悪しきにつけ、唯一と言っても過言でなく、世界を牽引してきたアメリカが今後どのような立ち位置になるのか、あるいは立ち位置をとるのかも極めて重要な現実です。各国の個人のみならず、その国家間に事体において経済格差が拡大している現状にあって、21世紀世界はまさに混乱・混迷の時代に入ったと考えます。

 

 今年2月にアメリカ大統領予備選が行われますが、共和党候補者のひとりで、不動産王でもあるドナルド・トランプ氏がイスラム教徒のアメリカ入国を禁ずる、との発言が論議を呼んでいるようです。その現象は彼の政策よりもむしろその性格の正直さが中間層の人気を呼んでいるようにも思えます。その中間層の苛立ちもアメリカ社会の混迷の現実なのでしょう。そうした現実・現実に鑑み、2007年に日本で翻訳出版された掲題の著書「アメリカの政教分離」を今回、改めて書棚から取り出し、再読した次第です。全章に亘る解説ではありません。各章ごとに私が強く印象を受けた箇所を、またまた長く恐縮ですが御紹介いたしますので、ご容赦願います。

 

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アメリカの政教分離

 

 現在においてもアメリカの硬貨には「IN GOD WE TRUST」と刻印されているわけですが、宗教が日常の生活にも色濃く反映しているアメリカの生い立ち・成り立ち、更には今後を考える上で本書は大いに参考になると思います。本書の原題はPROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LANDで、自由とは何を意味するかを考えさせるものです。日本版「アメリカの政教分離」のタイトルはあくまで訳者が日本人向けに、本書の中身を表す為に表題としたものです。本書はアメリカの植民地時代から今日に至る憲法の修正第一条[信教の自由条項]および[公定条項]に関わる最高裁の判決文の歴史、その推移が描かれております。「訳者あとがき」を含めても150頁ですが、その内容はきわめて充実しており、改めてアメリカの生い立ちと現在を知る上で、私は参考になりました。

 

 著者エドウィン・S・ガウスタッド氏はカリフォルニア大学の歴史学・宗教学を専門とする碩学と言われている方です。尚、訳者の大西直樹氏は国際基督教大学でアメリカ文化を専門とする教授で、「訳者あとがき」のなかで、以下の通り記しています。

 

 ところで、日本語での政教分離という言葉と、その英語表記Separation of  Church and Stateという言葉の意味するところのギャップはきわめて大きい。日本語がもっている意味合い、そして大多数の日本人がこの言葉で思い描いているのは、政治と宗教が混交してはならないという理解である。つまり、それを逆に英語で表記すると、Separation of Religion and Politicsとなるだろう。ところが、アメリカにおけるこの英語のもともとの意味合いは、連邦国家と教会の分離であり、政治と宗教の混交が直接問題とされているのではない。(中略)・・州ごとに信教の自由を認め、州によって公定宗教をもつことをも認められた。又公定宗教をもたない州もありえた。このように、二重構造をもつ国家であるという特色のうえに、政教分離という概念ができあがったことを理解しておくことがまず肝要であろう。(148頁) 

 

更に「訳者あとがき」の冒頭では次のように記しています。

 

 合衆国憲法1787年に制定された、現行の成文憲法としては世界最古の憲法であり、修正条項を加えたり廃止したりしながらも、この国家の骨格を220年にわたってつくってきたのである。これほど長い生命を保ってきた理由は、最高裁判事憲法解釈が、社会的変動にある種の柔軟性をもって対応してきたためである。当然ながら、アメリカ合衆国も世界も刻々と激動しているのであるから、最高裁の判断は時代を追って揺れうごく。九人が一致した判断をくだす場合も、五対四、というきわどい僅差での分裂を含む判断もある。その判断のあり方に、この国の憲法の柔軟性と、国家そのものの変容が見てとれる。ことに、政教分離にかかわる問題にどのように答えてきたのかの判断にそれが如実に現れている。よくいわれるように、アメリカが信教の自由のために形成されたとするなら、この自由の追求と政教分離の関係はつねに緊張関係のなかで推移し、最高裁判事もこの関係のありかたに英知をかたむけてきた。(147頁)

 

 わが国を取り巻く世界の現実を無視したかのような、わが国のマスメデイアが喧伝する昨今の硬直化した憲法問題論議をあわせ考えると、彼我の違いを私は感じています。

 

 尚、本書は第1章「植民地 アメリカのなかのヨーロッパ」から始まり、第8章「エピローグ 最高裁とこれからの道」という構成です。アメリカの最高裁の位置づけについて、あまり詳しく知らない我々には第8章から読んだ方が、本書を理解できるように思います。

 

アメリカの最高裁判所

 

8章の冒頭で次のように述べています。

 

 一般に最高裁判所はかなり安定した機関だと受止められてきた。つまり、二年ごと、あるいは四年ごとに大量の新顔をうみだす選挙はない。ホワイトハウスあるいは議会の政治的統制が変化したとき、総辞職が要求されるわけではない。最高裁の判事はそれぞれ生涯の任命(深刻な不正行為を除いて)を受け、ほとんどの判事が65歳とか70歳の定年の目安をこえて奉職する。さらに、つねに成功しているわけではないが、最高裁は政府の立法府や行政府によくみられるような熱っぽい党派的行動を避けるように努めている。たとえば、合衆国大統領の年頭教書が読まれるとき、最高裁判事は正式な法衣を身につけ、特別な位置の席につく。議員たちが大統領の演説に拍手し声援をおくって中断させるのとはちがい、判事たちは大統領の演説のあいだじゅう冷静な態度を保つ。ところが、彼らの前に差し出された訴訟の審議となると、判事たちは冷静でも、まとまってもいない。彼らは対立する側の弁護士にむかって、時には鋭い質問を投げかけ、それぞれの気質のままにしばしば相手の発言を妨げる。一般人はこの部分の成りゆきをみることが許されている。ところがこの「公開法廷」が終わると、判事のあいだでの討論と調整は閉じられたドアの後ろで成され、報道人も一般大衆も出席できない。こうしてたいていは数ヶ月のちになって、意見が提出され、反対意見が記され、判決が宣言されるまで、最高裁の行動を一般大衆が目にする機会はやってこない。全国に向けて(ニューヨーク・タイムズのような)新聞がその結果を報告し、ある新聞はかなり詳細に報告をおこなう。数週間内には、図書館、ロースクール、政府文書保管庫に新刊の「合衆国最高裁判決判例集が」配布される。(139頁) 

 

 方や、奴隷解放運動の象徴的存在でもあるフィラデルフィアの[自由の鐘]は旧約聖書レビ記の聖句、[すべての国と、そのすべての住民に自由を述べ伝えよ]から来たものである。おびただしい数のアメリカ人が信教の自由こそすべての自由の基本、完全で豊かな自由のための根本的要素とみなし、この自由の保護と保全こそ 最高裁判所の特殊な責任であったこと。加えて、「黒衣の裁判官と大理石の法廷とが日常の生活からかけ離れていると感じるかもしれないが、実際はそれほど遠いところにあるのではないことを心していただきたい。われわれとしては宗教的・法的制度をよく知る必要があり、その力と同時に限界について敏感でなければならない。こと宗教となると熱心になる人びとは多い。また政治がからむと情熱的になる人も多い。民主主義とは、それを支える市民が如何に情報を分け合い、重要問題について如何に分別を持って討論し、将来のわれわれすべてのための枠組をどのように形成しるていけるかという能力にかかっている。」(4頁)と、信教の自由と民主主義の本質について極めて重要な指摘を著者が本書の序章で記しています。

 

 引き続き、本書について私なりに思うこと、感じたことなども触れながら紹介して参ります。

 

第一章 植民地 アメリカのなかのヨーロッパ

 

 アメリカの実験の真髄

 

 アメリカの宗教史を専門とする成城大の平井慶太氏によればアメリカ入植の意図は必ずしもピュウリタンが宗教的自由のみを求めていったものではなく、スパイス、金、銀更にはインドへの道を求めるといった経済的繁栄を目指したものであるとの見解をされています。

 

 本書ではピュウリタンを含めイギリス国教会、バプチスト、メゾジスト、クエカー、モルモン教、はては数々の新興宗教が信教の自由を求め13州で、あるいは各地でそれぞれの想いで立ち上げ宣教をしていったとしています。いずれにもせよ、北アメリカでヨーロッパによる植民地建設が始まったのは17世紀で、その頃のヨーロッパではプロテスタント宗教改革がいまだ100年を経過しておらず、渡来したばかりの入植者には、宗教的混乱の生々しい、痛々しい記憶が鮮明に残っていたわけです。

 

 従い、多くの入植者の親の世代はプロテスタント宗教改革に積極的に関わるか、あるいはその反対勢力のカトリックの改革運動に加わってヨーロッパをカトリックのもとにとどめ、捉えておこうと努め、互いに宗教観が精鋭化して、そこに更に忠誠心も加わり、血なぐまさい迫害や残酷な戦争を経験し、植民地であるアメリカでも魔女裁判、絞首刑等々といった迫害の経験を持ちながら、イギリス型の信教の自由がヨーロッパ型の単一国家教会形態にとって代わっていったわけです。そしてこの章の最後で次のように記します。

 

 18世紀の最後の四半世紀にはアメリカ革命のよって、こうした個々の植民地の暫定的な動きすべてが、模範とすべきモデルと目されるようになった。革命そのものが、明確に市民と信教の自由の達成に懸けていた。そして、植民地の多くの人々の目には、すべての中でもっとも切実な自由である魂の自由が保障されなければ、政治的自由といっても意味のないことがみえていた。しかも政治的暴君が王座にある限り、信教の自由は安定しない。あるいは、ジェイムス・マディソンが言うように、「旧世界では、宗教的対立を消すために世俗の武器による空しい努力によって、激流となるほど血が流された。・・・時がついにその本当の治療法を明らかにした。」のである。その治療法とは、新しき独立した国家における完全な信教の自由である。これこそが、「アメリカの実験」の心髄であったし、現在においてもそうありつづけているのである。(18頁)

 

 

第二章   新しき国家 アメリカの実験

 

 アメリカの独立とは何を意味したのか

 

 アメリカ革命から二世紀以上が経過してみると、この独立戦争が政治的自由だけでなく、信教の自由のためにも戦われたのだと信ずるのはむずかしい。植民地の住民は大英帝国の政治的専制君主に対する対抗を宣言したが、しかしその意味でどんな勝利があっても、もしアメリカ人が良心の自由を完全に享受できなければ、勝利はむなしかったことだろう。イギリスは歴史的に見ると、本国においても海外においても、その政治的意図と宗教的意図を並行してすべての臣民に押し付けていたが、1760年代と70年代、アメリカ人の多くは本国からの独立が達成されたならば、決してそうはさせない、と決心していた。(21頁)

 

 そしてこのアメリカ側の決意が最初に現れているのは、イギリス国教会の主教が植民地内に定住することへの拒絶であり、主教と彼らの宮廷を支えるために(イギリスでのように)税金を徴収されることの拒否に表われている、と述べています。我々にはなじみある印紙税法反対に端を発したボストンの紅茶事件もそのひとつ実例でありましょう。強力な海軍と陸軍を持った当時の世界の大国であるイギリスに、常設の陸軍も海軍も持たないアメリカが1776年の独立戦争に向かわせたのは市民的・宗教的自由を求める情熱的な献身がすべてであった分けです。 

 

 こうした背景の中で「1787年、合衆国憲法が13州のうち9州が批准に十分な賛成票を得て成立した。・・ただし宗教的少数者の多くは強力な中央政府が彼らの自由にとって何を意味するのか、あからさまに心配していた。」(33頁)    

 その憲法において宗教に言及しているのは第6条のたった一語、合衆国のどの役職、あるいは公職につくときも、資格として宗教審査を課さない、という否定的文脈においてのみで、他の基本的自由と並んで宗教には完全な自由を与えておらず、その後、諸州で論議がされ1791年に連邦議会は宗教の公定化、あるいは宗教活動の自由を禁ずる、いかなる法律も制定してはならないという修正条項を加え、この修正条項がその後200年以上にわたって最高裁やその他の法廷を支配することになった。その意味合いを理解しておくことが肝要であると、著者は指摘しています。

 

 すなわち議会は宗教を公定化する、いかなる法律も制定してはならないという公定条項と国家政府に、ひとの宗教的献身あるいは信仰を、妨害したり抑圧することは何も出来ない自由行使条項という、信教の自由には二重の保障を与えているわけです。そして今日に至るまで「法廷と教会、一般市民がこのふたつの条項と何度も格闘し、全員の一致あるいは議論の余地なしのひとつの解釈に至ること(すくなくとも最近何十年のあいだは)きわめてまれなのである。」(35頁)と、この章を纏めています。

 

以下【後編】に続く

 

2016年1月12日

                                                                                            清宮昌章 

  参考文献

 エドウィン・S・ガウスタッド「アメリカの政教分離」(大西直樹訳 みすず書房

マイケル・ピルズベリー「China 2049」(野中香方子訳 日経BP社)

中澤克二「習近平の権力闘争」(日本経済新聞出版社

平井慶太「アメリカの歴史と社会」(武蔵大ゼミ講義録)

工藤庸子「宗教VS・国家」(講談社現代文庫)

中村雄二郎「宗教とは何か」(岩波現代文庫

末松文美士「日本宗教史」(岩波新書

サミュエル・ハンチントン分断されるアメリカ」(集英社)他

 

 

「アメリカは忘れない・・記憶のなかのパールハーバー 」(法政大学出版局)       エミリー・S.ローゼンバーグ 訳飯倉章を再読して

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再投稿に当たって

 

 今日は12月8日、いわゆる太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の日に当たるます。アメリカでは、どのように「パールハーバー」を捉えたでしょうか。

2001年9月11日のWTCビル倒壊等のアメリカ同時多発テロが起こり、「リメンバー パールハーバー」が改めてアメリカで復活したのです。

 

 全くの個人的な思いですが、40数年前のニューヨーク駐在時代、アメリカ現地法人本社事務所はあの倒壊したワンワールドの20階で、6年間、ほぼ毎日、通いました。ツインタワーが倒壊していくテレビ映像他を観ているなかで、ワンワールドのオフィスでお世話になった日本人医師の安否を心配しておりましたが、その時間帯には倒壊したビルにはいなく、偶々、ミッドタウンにおり無事との報道に接しました。方や、亡くなられた日本人24人の中には知人もおりました。尚、私の居間には、今でも、クウィーンズ側から描いたブルックリン・ブリッジのウェッジング画が飾られており、その背景には倒壊前のツインタワーが描かれております。

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 本投稿は6年ほど前、2015年12月21日に投稿したものです。私としてもアメリカではパールハーバーは何を意味したのか、本書を改めて読み直しています。

 21年12月8日

 

 はじめに

 

 今年の10月、加藤典洋著「戦後入門」が発刊されました。新書版としては635頁に亘る異例の分厚いものです。中身の濃い、いわば研究書・論文の発表といったものです。何故に広島、長崎への原爆投下であったのか、更には現日本国憲法への視点・観点に興味深いものを感じました。ただ僭越になりますが私にはいささか承服しがたい箇所が数多く、後味の悪い著書でした。加藤氏の観点に思想の違いといったものを感じたのかもしれません。

 

 そうした中、今から8年前に取り上げた掲題の「アメリカは忘れない」の再読もそれなりの意味があるかもしれないと思った次第です。本書は2003年にCopyright、2007年2月28日に翻訳出版されました。原題はA Date Which Will Live:Pearl Harbor in American Memoryとなっています。訳者の飯倉氏が記すように、直訳すれば「いつまでも記憶されるであろう日付」という意味です。原題はアメリカ人にローズヴェルトの演説を連想させ、まさに記憶を喚起するものですが、日本人にはなじみが薄く、そこで「アメリカは忘れない」との題名にしたとのことです。尚、著者は本書で再三指摘しておりますが、アメリカが日本の「恥知らずな蛮行」を忘れないことを強調するものではなく、パールハーバーは今では、日本との関係よりも、アメリカの国内問題を強く反映するようになっていると記しております。

 

 著者はカリファオルニア大学の歴史学科の教授で、アメリカの社会史、文化史、対外関係史を専門とする女性歴史学者です。氏によればPearl Harborはアメリカ社会では西部開拓史上のカスター中佐の第七奇兵連隊がシッティング・ブル率いるインディアン軍に破れる最後の戦い(1876年)、更にはテキサスの独立に際しての、1836年の全滅したアラモの守備隊の抵抗と同じように歴史的記憶、聖像(アイコン)として生き続けてきた、と述べております。従い正義とか道徳を象徴するといった面ではパールハーバーは我国の仮名手本忠臣蔵的な要素を持っているのかも知れません。

 

 本書に接し、私としては「Remember Pearl Harbor」がアメリカ内で何を意味するのかを改めて認識したところです。本書は第一部「パールハーバーの意味づけ」(攻撃後50年間)、及び第二部「1991年以降のパールハーバーの復活」から構成されております。

 

第一部 パールハーバーの意味づけ

 

「はじめ」の章で著者は、次にように記しています。

 

 本書は何か衝撃的な真実を暴露すると主張するものでもなければ、そういうことを目的としているものでもない。むしろ本書では、パールハーバーという聖像を中心として、過去に関するさまざまなストーリーが、アメリカ文化のなかで、かたちづくられてきた過程に注意を払いたい。文化史の研究として、本書では、専門家による歴史と通俗的な歴史、記念物、公式声明、インターネット、映画、新聞雑誌、その他のメディアを通しての、多様な意味の流布について分析を行う。本書では、歴史と他の形態の公的記憶、本物の過去の解釈を発見するための方法ではなくて、絶えず変化しつづけ、必然的にメディアを介して操作された、過去の表象を構成する方法をめぐる論争の場であると理解する。(6頁)

 

 そして第一部・第一章「恥知らずな蛮行」の冒のローズヴェルト大統領が日本帝国に対する戦争に共に参戦すべく行われた演説に関し、

 

 恥知らずな蛮行という言葉が、その演説のテーマーとなったローズヴェベルトは、国益を守るためとか、日本の帝国主義的な野望を阻止するためとか、中国における日本の残虐行為の敵討ちをするためとか、独裁者の三国同盟による侵略に対して断固として立ち上がるためといった理由で、アメリカ国民に開戦を求めはしなかった。彼はアメリカ国民に、民主主義や文明を救うよう求めはしなかった。・・(中略)1930年代、アメリカには、強力な反戦的、孤立主義的、反ウィルソン主義的な感情が満ちており、このようなテーマーは政治的にも不都合なものとなったローズヴェルトは、議会に対するこの最初の演説で、ウィルソンの参戦教書の模倣を避け、その代わりに、恥知らずな蛮行という単独な準拠枠を採用した。それは、アメリカ人のフロンティアでの戦いという文化的遺産に密接に関係している、レトリックの伝承であった。(中略)所謂アメリカでもっとも褒め称えられてきた西部開拓史時代の伝説を思い起こさせるように物語を構成した。(18、19頁)

 

 と分析しております。そして引き続き、第二章「裏口参戦の策謀」、第三章「人種表象と日米関係」、第四章「犠牲の記念」の中でパールハーバーがアメリカ社会の中でどのように位置づけられ語られてきたのかを詳細に記しています。

 

 パールハーバーは多くの文化的なコンテクストにおいて、利用可能な聖像およびレトリックの供給源として役立った。パールハーバーは、戦争に対する軍事上の備えに関する議論、行政府の権力と党派的な政治についての討論、日本との二国関係、およびさまざまに解釈される記念の行為におい異彩を放った。パールハーバーという用語は、いろいろなアメリカ人のグループが選択に基づいて呼び起こしたり戦ったりした、多様な物語と教訓の省略表現として、レトリック上、役に立った。それにもかかわらず、12月7日の出来事に対する世間一般の注目は、年月を経るについて徐々に失せていったようだった。パールハーバーの記念日は、小規模な出来事に過ぎず、全国的なメディアではかろうじて言及されるに過ぎなかった。(119頁)

 

 そうした経緯があるのにかかわらず、1990年代にさまざまな国際的、文化的、政治的な事情から再びパールハーバーが表舞台に表われ、第二部に続いて行きます。

 

第二部 1991年以降のパールハーバーの復活

 

 第五章「二国間関係(パールハーバー半世紀記念日と謝罪論争)」、第六章「回想ブームともっとも偉大な世代」、第七章「キンメルの名誉回復運動、歴史戦争、そして共和党の復活」と続き、第八章「日系アメリカ人」と詳細な幅広い歴史状況に言及していきます。そして第九章「スペクタルな歴史」の中で、

 

 『パールハーバーの記憶は、2001年夏までにはアメリカ文化においてとても目立ち、いたるところに見られるようになっていたので、この地球に異星人が来たなら、パールハーバーが爆撃された直後であると思い込んだかもしれない。映画「パールハーバー」の初上映から四ヶ月以内のうちには、これらの新鮮になった記憶が、事実上、合衆国のニュースの見出しのすべてに戻ってきたのだった。』(247頁)と述べ、第十章「恥知らずな蛮行の日(2001年9月11日)」へと敷衍していきます。

 

20019月11日(アメリカ同時多発テロ・WTCビル倒壊)

 

 この章の始めで、著者は「まったく予想だにしなかったことの渦中にあっては、何かおなじみのパターンを識別したり、記憶のなかで共有され再編成された過去の慣れ親しんだものを呼び起こし、現在の落ち着かない状態をなじみやすいものにすると、安心することができるのかも知れない。パールハーバーのストーリーじたいが、以前の開拓時代における挑戦と勝利の伝説という伝統的手法の中から、かたちづくられたものだった。最後の抵抗やアラモがパールハーバーに対応したように、今ではパールハーバーが9・11に対応しているのである。広く認識された聖像となるような脅威と危害の話は、愛国心を奮い立たせ、男性的な道徳的美点を並び立て、不安に満ちた国民に最終的な正義の勝利を約束する作用を果たした。しかし、パールハーバーのストーリーは又、もっと複雑な問題を提起するか可能性があった。それは、謀報活動の失敗の責任をどこに負わせるかという問題と、移民社会と国家との関係についての問題であった。」(250頁)、と指摘しています。そして、

 

 『(前略)9・11後にパールハーバーを引き合いに出すことは、幅広く人気を博して広まり、そのことは第二次世界大戦との類似をあまりにも徹底的に促進したので、ヴェトナム戦争で使われた「泥沼」とか「しっぺ返し」といった言葉は、あたかも魔法のように当初は消え失せた。(中略)2001年9月に、記憶と意味は、突如として新鮮で悲劇的なコンテクストを帯びた。パールハーバーは9・11の諸々の解釈と共にテキストの相互関連の中で、「生きつづける日付」となったのである。』(269頁)と記し、最終章を次のように閉じています。

 

 結局のところ、将来の教訓的な指針としての歴史の強調や、最終的な「真実」の暴露を約束するという点で、パールハーバーのスト-リーは、自然と社会の知識のあらゆる分野における幅広い知的な思潮に反対することに、しばしば力を尽くしている。そのような思潮の大部分は、関係性があり、立場により変わる、不安定な意味を強調している。まさに安定化された歴史/記憶と言う仮定は、歴史もしくは記憶と言う概念そのものに反している。(中略)本書は、アメリカのメディア文化に巻き込まれ、そのなかでとどまることなく再三流布されてきた、ある聖像(アイコン)に焦点を当てた。本書では、過去の現実を暴き歴史的な意味を安定化させようと一般的に努める、暴露的な事件中心の伝承に反対することに力を尽くそうと試みた。60年を超える、多様なメディアにおいてさまざまなパールハーバーの意味を吟味することによって、本書は暗黙のうちに、(中略)思い出としてではなく、現在のなかにある全般的な「そして変わりつづける」過去の構成として、記憶に関心を寄せる歴史、すなわち第二段階の歴史である。(271頁)

 

 以上、本書の構成と、私なりに興味深く感じたことを著者の文章を多用しながら長々と紹介して参りました。興味・関心事は人により異なり、あるいは何を感じるかは別になるのかもしれません。私にとっては、本書はアメリカ社会、文化の中で「Remember Pearl Harbor」が何を意味するのか、大いに参考になったところです。一読をお薦めいたします。

 

 2015年12月21日

                             清宮昌章

 参考図書

 加藤典洋「戦後入門」(ちくま新書)

 他

 

 

 

再・昭和天皇について思う

再・昭和天皇について思う【後編】

 

2 章 山本七平裕仁天皇の昭和史」

 

 山本七平は三代目キリスト教徒でもあり、幸徳秋水大逆事件に関わった姻戚を持つ人でもあります。「山本学」とも評される独自の世界を築いてきた方ですが、一時は保守反動の元凶ともいわれておりました。現在でもそうした評価かもしれません。ご承知のように同氏は「現人神」という状況の中、砲兵少尉としてフィリピンで生死をさまよいながら転戦し、マニラの捕虜収容所を経て帰国し、一時は身を隠していたとのことです。むのたけじが敗戦後、朝日新聞社を辞め、秋田県横手で家族4人でタブロイド判「たいまつ」を立ち上げたことを、私はふと思い起こすのです。山本七平もその後、「山本書店」を独りで立ち上げ、「日本人とユダヤ人」、「私の中の日本軍」並びに「一下級将校の見た帝国陸軍」他三部作、更には「静かなる細き声」等々を著していきます。

 本書「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)は昭和天皇崩御される数年前から執筆を開始し、前編に言及した「天皇独白論」が公開される前年の昭和64年1月7日に完成されていました。そして、その2年後の平成3年に同氏は亡くなられましたが、本書のまえがきで、「本書が『昭和』を考え、『昭和天皇』を考える場合の、何らかの参考になってくれれば幸いである。」(同書5頁)と述べています。以下、本書の概略と言うよりは、私が本書の中で興味深く感じた、いくつかの点を以下、挙げて参ります。

 

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その 1 天皇の自己規定

 

 本書は第1章・天皇の自己規定から、戦争責任をどう考えるかを問う第14章・天皇の功罪、そして終章・平成への遺訓から成り立っています。その1章で、なぜ、天皇は開戦を阻止できなかったのか。終戦の聖断をなぜ遅らせたのか等々の天皇の戦争責任論に対し、そうした論議の前に「天皇の自己規定」の研究が当然ながら必要ではないのか,と鋭く指摘します。と共に日本の報道機関、マスコミに対し次のように指摘しております。

 

 ファシズムへの憧れがいつ頃から生じたか。大体、昭和6年ごろからで、これが昭和11年のベルリン・オリンピックのころ最高潮となる。この年こそ2・26事件の年、そして日独防共協定締結の年である。どうしてこのような状況になったのか。当時のマスコミのファシズム賛美を、後のソ連賛美、中国大躍進賛美、文化革命賛美、更にベトナム賛美、北朝鮮賛美などと比べ、いま振り返って見れば、真に「例によって例の如し」と言う感じがする。(同書155頁)、と今もって変わらないマスコミのあり方・その現状を批判しているわけです。

 

 昭和天皇について、そのまえがきで「考えて見れば全く稀有の存在である。人類史上おそらく前例がなく、今後も再びこのような生涯を送る人物は現れまい、と思われるのが昭和天皇である。」(同書3頁)、と述べています。山本七平はその天皇の自己規定について憲法絶対の立憲君主であろうとした姿を描いています。その自己規定は明治大帝が定めたことであり、その制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされたこと。その制限を越えてしまったのは、2・26事件の時にルールを飛び越え、臨時首相代理を任命し、直ちに暴徒の鎮圧を命じたこと。及び終戦時のいわゆる聖断を立憲君主としての道を踏み違えた、そのふたつを天皇は悔やんでいた、と述べています。この指摘は多く諸氏の見方とは大きく異なるものになるのではないでしょうか。

 

 山本七平によれば、昭和天皇憲法意識にはその前提である「五箇条の御誓文」を根本理念としており、その第一条・広く会議を興し万機公論に決すべしであり、万機天皇之を決すべしではない、との強いこだわりを終生もっていたこと。その現れの一つとして終戦後の「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」の冒頭に五箇条の御誓文をあげている、との指摘です。では、その自己規定は何処で育まれたのかについて第二章以下、天皇の教師たちの像へと敷衍していきます。

 

その2 天皇の教師

 

 昭和天皇は小学校を学習院で学ばれ、その後は宮中の御学問所で6人の学友と7年間、当時の7年制高校と同じ期間でありますが、そこで教育を受け、その教師陣がその後の天皇の自己規定を育んでいった。そのひとりは博物を担当した服部広太郎博士で、崩御される直前まで天皇が生物学への関心は失わなかったことも、その自己形成の重要な要素に挙げています。更に歴史は日本における歴史学の祖である白鳥庫吉博士で、その白鳥博士の学問を継承したのは津田左右吉博士であること。そして最も影響を与えたのは倫理担当の杉浦重剛である、と述べています。

 

 杉浦重剛は私にはなじみのない人ですが、イギリス留学の科学者で儒者の家の出身であります。近江藩の藩校の他で漢学と洋学を学んだ後、後の東大となる江戸の番所調所で、オランダ語、英語、フランス語、さらにはドイツ語等まで学び、イギリスのマンチェスターのオーエンス・カレッジに留学します。科学を専攻し、猛勉強を続け、イギリス人も当然いる中で首席になったと紹介しております。帰国後、東大で一時は教鞭をとるものの、その科学で身を立てるのではなく、政界に身を置くことはあってもすぐ退き、私立英語学校を設立し、その後も中学校の校長として教育と言論の世界に身をおきました。もはや世間からは忘れられた存在であったようです。その後、東宮大夫になった元東大総長の浜尾新に推挙され、御学問所の倫理の教師となりました。

 その杉浦の思想は日本で発達した日本固有の儒学と、ヴィクトリア朝的なイギリス思想の集合であり、「力とは道徳・仁である、それが国家の興廃を決める。」この道徳・仁こそ最大多数の最大幸福とするベンサム流の杉浦の思想に天皇は影響を強く受け、三代目の守成の名君として教育されます。一方、ロンドン留学で培った杉浦の影響か、天皇は独伊ではなく英米に親近感を持っていたとしています。従い、ナチスばりの大政翼賛会の総裁になるような点においても、近衛文麿に信頼感をもてなかったようだった、と記しています。

 

 尚、「三種の神器」については天皇終戦時もこだわっていた、と吉田裕氏他は述べています。方や、山本七平は杉浦が倫理御進講草案に「三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以って至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知・仁・勇の三徳を示されたるものなり」(同書67頁)と、三種の神器非神格化を記しています。果たして天皇自身の認識はどうであったのでしょうか。そのことも改めて今後も研究すべき事柄なのかもしれません。

 

その3 戦争責任

 

 本書は上記の各章に続き、捕虜の長としての天皇昭和維新、2・26事件の首謀者・磯部浅一天皇への呪詛、北一輝の妄信の悲劇、人間・象徴としての天皇等々、と論を進めていきます。そして第14章・天皇の功罪・そして戦争責任をどう考えるか、に至るわけです。

 

 先ず、山本七平は歴史上の功罪を論ずることの難しさをあげ、江戸時代が評価されるようになったのも最近のことであると指摘しています。時代時代が相当に恣意的な評価を下すことは山本七平自身が経験している、と述べています。その上で、天皇は戦争を止められるのに、なぜ止めなかった等々の戦争責任論に対し、天皇は憲政の伝道師という認識はなかったものの、憲法の遵守を明治天皇の遺勅どおり、それこそ一点一画をおろそかにしない生真面目さで生き抜かれた人類史上、初めて行なった人だったのではないか、と見ております。

 

 加えて、「元来『憲法』とは君主の権力を制限し、実質的には無権力の存在にしてしまうのだからである。したがって国王と憲法の衝突、換言すれば議会との衝突は憲政が定着するまでいずれの国でも起こっており『立憲君主国の模範』のように言われているイギリスでも例外ではない。」(同書330頁)、と指摘しているわけです。

 

 では、その戦争責任とは何を言わんとしているのか、言葉をより明確に言うならば戦争責任ではなく敗戦責任を問うているのであろう。また天皇憲法上の責任を問うているのでもなかろう。なぜならば明治憲法第5条は現代語訳にすれば、「天皇帝国議会の可決した法律に対して拒否権を有せず」、同じく55条は「天皇は閣議の決定に対して拒否権を有せず。また閣議に出席し発言することを得ず。すべて法律・勅令・その他国務に関する詔勅は、国務大臣の副署なきものは無効なり」と規定されており、むしろ「憲法上の責任を問うことはできない」ことをはっきりしておくことが先ず以って重要である。従い敗戦責任論の意味合いは、戦争は「天皇の御ために」と実践し、天皇もそれを知っているはず、だから天皇はその責任を自覚してほしい、ということであろうと分析・解説しています。

 

 昭和50年10月31日の天皇訪米後の記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から、「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいたします。」(同書345頁)、との事前に提出のない質問に対し、天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えが出来かねます。」(同書346頁)と応えているとのことです。その上で、山本七平は最終章で次のように述べます。

 

(前略)・・「言葉のアヤ」とは、相手の質問について言っているように思われる。天皇は意味不明瞭で相手をごまかすことはされたことがない。それを考えると、これは問答で、相手は「・・・どのように考えておられるかお伺いします」と聞いているのだから「お答えしたいが、それを答え得るそういう言葉のアヤについては・・・」の意味であろう。これならば天皇が何を言おうとしたかはわかる。天皇政治責任がなく、また一切の責任もないなら、極端な言い方をすれば、「胸が痛むのを覚える」はずがない。さらに8月15日の戦没者慰霊祭に、痛々しい病後のお姿で出席される必要はもとよりない。しかし、「民族統合の象徴」なら、国民の感情と共鳴する感情を持って慰霊祭に臨まれるのが責任であろう。戦争責任が一切ないならば、その必要はないはずである。ただこれは、津田左右吉博士の言葉を借りれば、戦前・戦後を通じての民族の「象徴」の責任であって憲法上の責任ではない。そのことを充分に自覚されていても「文学方面はあまり研究していないので、そういう(ことを的確に表現する)言葉のアヤについては、よくわかりませんから、お答えが出来かねます」と読めば、天皇の言われたことの意味はよく分かる。注意すべきは「お答え致しかねます」ではなく「お答え出来かねます」である点で、天皇は何とかお答えたかったであろう。ここでもう一度、福沢諭吉の言葉を思い起こそう。「いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事」・・長崎市長の発言(昭和史によれば天皇が重臣の上奏を退けたために終戦が遅れた、天皇の責任は自明の理。決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった)を政争に利用するなどとは、もってのほかという以外にない。尾崎行雄は「まだそんなことをやっているのか」と地下であきれているであろう。それがまだ憲法が定着していないことの証拠なら、その行為は、天皇の終生の努力を無駄にし、多大の犠牲をはらったその「功」を、失わせることになるであろう。(同書348頁)

 

むすびにかえて

 

 以上、世代の異なる、また思いも異なる三氏の著を通して天皇の戦争責任を私なりに見てきたわけです。山本七平天皇の戦争・敗戦責任を先ず以って天皇の自己規定に立ち返り見て、その上でその責任論を問うています。氏が述べるように天皇の歴史的功罪を論ずるのは難しく、否、或いはいまだ早いのかもしれません。僭越な物言いですが、物事をとらえる氏の観察眼の鋭さの知性と共に、ある種のさびしさ、孤独感を私は感じます。そして、その度に私はいつも襟を正させられます。冒頭にも紹介したように本書「裕仁天皇の昭和史」は平成元年1月に著されたものですが、山本七平の一連の著作は今以て輝き続けている、と私は考えています。

 

 2015年11月23日

                            清宮昌章

 

 以上は二年前の投稿です。本論は変わりませんが、時間の経過もあり、加筆及び若干の修正をしました。近々、生前退位が行われようとしている現在、改めて本書「裕仁天皇の昭和史」を一読されることをお薦め致します。尚、山本七平の著作は私なりに読み通しておりますが、2017年7月に東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」が発刊されました。山本七平をより識る上でも、又、上記の長々と取り上げたことにも関連致しますので、以下、本書にも触れて参ります。

 

補論・東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」

 

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  著者は本書のプロローグで次のように述べています。

 本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。(13頁)

 

 尚、今回、私が取り上げた山本七平の「裕仁天皇の昭和史」(初版は昭和天皇の研究)を東谷氏は第七章「戦後社会と昭和天皇の研究」で取り上げています。少し長くなりますが、以下ご紹介致します。

 

 山本七平の『昭和天皇の研究』(祥伝社 1989年)を初めて読んだとき、かなり強い違和感をおぼえた。その前に前章で取り上げた『現人神の創作者たち』を読んでいたので、当然、展開されるであろうと思っていた天皇制への批判や憎悪が、ほとんどなかったことが何より大きかった。・・(中略)ところが『昭和天皇の研究』は、あっさりと昭和天皇立憲主義的な性格を受け入れてしまい、「現人神」の教義ゆえに生じた犠牲への責任は、示唆こそ合っても、まったくといってよいほど論じられていないのである。(212,213頁)

 

 続いて、著者は「昭和天皇の『二つの例外』を通じてあきらかなるのは、一度も正式に表明されたことのない『現人神』が政治の中心に押し上げられることで、政治制度がいつのまにか政策決定者たちが決断のできない欠陥制度に頽落していたことである。そして七平は明示こそしないが、昭和天皇の『自己規定』を称えながら、その半面である重臣たちの『政治責任の放棄』を示唆しているともいえるのである。」(234頁)、と記しています。そして7章を次のように記し終えています。

 

 問題はこうした立憲君主制天皇との関係が、戦後はどうなったということだろう。天皇は象徴とされ、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によるものになったことはたしかである。しかし、かっての「御内意」「御希望」「内奏」はなくなったのだろうか。

 そうではない。それはいまも宮内庁内にあり、しかも、それらが高度に発達した大衆社会に直接に公表されるという事態が生じている。いま国民が直面している課題は、この新しい事態が象徴天皇制に何を生み出すかを予測し、そしてその事態にどう対応していくかということに他ならない。

 いまの宮内庁は、かってなら庁内にとどめおかれた「御内意」「御希望」「内奏」に相当するものを、安易にマスコミを通じて「外」にさらす傾向が強まっているとの印象を持たざるを得ない。それは戦後の象徴天皇制の「変質」を招く危険性があるもので、実は宮内庁の職員が判断すべきものではないはずなのである。(238、239 頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私は考えさせられました。そして東谷暁氏は次のように本書を閉じています。

 

「人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、既に別の位置へと一歩進んでいるのである。人が『空気』を本当に把握し得たとき,その人は空気の拘束から脱却している。」これからの日本の運命は、この七平の言葉を、どこまで深く理解するかにかかっているのではないだろうか。(282頁)

 

 2017年11月1日

                            淸宮昌章

参考文献

 山本七平裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)

 山本七平「戦争責任とは何処に,誰にあるのか」(さくら舎)

 東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」(講談社現代新書

 他