清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再・昭和天皇について思う

 再・昭和天皇について思う【前編】

 はじめに

  高齢になられた現天皇陛下並びに皇后陛下の御活動に国民が感謝し、そしてその賛意の空気なかで、生前退位がされる運びのようです。方や、私は今後の象徴としての天皇家のご活動はどのような状況になられるのか、一抹の不安を覚えています。現天皇並びに皇后陛下は皇太子時代から昭和天皇の、正に贖罪の道を歩んでこられたとの心象を私は思っておりますので、後を引き継がれる新天皇陛下並びに新皇后陛下はどのようなお姿になるのでしょうか、との想いです。もっとも天皇皇后陛下が国民の前に御一緒にお出になられたのは、この戦後70年間しかなく、むしろこの70年間が例外であって、私のそのような想いは杞憂なのかもしれません。  

 

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 弊著「書棚から顧みる昭和」の中でも、「昭和天皇について思う」の一章を設け、私なりの感想を記してきました。又、私の書棚にも昭和天皇との表題がある本は文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」、保坂正康著「昭和天皇、敗戦からの戦い」、古川隆久著「昭和天皇」、青木冨美子著「昭和天皇とワシントンを結んだ男」、加藤陽子著「昭和天皇と戦争の世紀」、伊藤之雄著「昭和天皇伝」等々あり、それなりに目を通して参りました。加えて、昨年9月9日に「昭和天皇実録」が公開され、更に昭和天皇に関する数多くの著作等が現われ、従来にまして昭和天皇に関する研究が深まるものと思われます。尚、最近発刊された原武史著「昭和天皇実録を読む」のなかでは、「木戸幸一日記」等の一次資料と今回の「昭和天皇実録」との違いを示しております。昭和天皇の退位問題、更にはカトリックへの接近等を含め、興味深い指摘があり、私には新たな思いが加わったところです。

 

 そんな状況に引きずられたのかもしれませんが、改めて私なりに昭和天皇への思いも記しておこう、と思ったわけです。加えて、この半年間にブログ「清宮書房」でも広田弘毅近衛文麿を取り上げてきたことも関連しますが、天皇制もしくは昭和天皇の戦争責任等々を私なりにもう少し考えておきたい、私なりに心の整理もしたいと考えました。そして今年の8月15日、戦没者慰霊の際の天皇のお言葉が出る一日前の14日、安倍首相が戦後70年談話を発表したのは、そうせざるを得ない状況、いわば官邸側の政治的配慮が必要であったのでしょう。天皇は象徴のみならず、原武史氏も付言しているように、今以て日本の政治に大きな影響を及ぼしている現実があるわけです。尚、本題との関係からは蛇足の感は否めませんが、保坂正康氏の新刊書「昭和史のかたち」は氏独特の幾何学的発想をもって昭和の姿を示そうとしております。新たな観点であり、なるほどと思ったところです。

  ただ、本書の中では、言論人,マスメデイアの過去、現在のあり方には全くといっていいほど言及されていないことにある種の奇異を感じます。加えて、安倍首相を歴史修正主義者と断定されること。さらには「戦後70年目の節目に無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている。それほどこの70年は脆くはないぞとの思いや、そう簡単に崩してはならないとの動きも徐々に顕在化してきて、やがてうねりを生むような感もする。この時代のその精神を大切にしたい。」(本書186頁)、と本書を閉じています。真に僭越になりますが、私はそうした指摘には強い違和感を持っています。

                   

 今から5年ほど前になりますが、昭和天皇に関し私なりの駄文を某読書会に発表いたしました。対象は1921年生まれの山本七平、1935年の中村政則、1954年の吉田祐氏です。それぞれの思考或いは思想と言えるかもしれませんが、相反するよにも思われる三氏の著書について、私なりに感想を交え紹介したものです。改めてその駄文を見直し、この5年間で何が起こり変わったのか、あるいは変わらないのか、時の推移の中、若干の修正を加えてみました。

 

1 章 中村正則「戦後史」と吉田祐「昭和天皇終戦史」

 

その1

  中村政則は今年8月5日に逝去されましたが、日本近現代史を専攻する学者です。その「戦後史」のなかで、占領と新憲法、その過程での東京裁判等々を含め、戦後の流れの60年間を淡々と述べ、60年間とは何だったのかを問います。分岐点のひとつ目は1950年代前半の講和論争とサンフランシスコ講和条約日米安保条約の締結。二つ目は高度成長とベトナム戦争の時代。三つ目はオイルショック沖縄返還ニクソン・ドクトリン、日中国交回復、第一回・主要先進国首脳会談の参加といった1960年代。そして四つ目は1989年11月のベルリンの壁の崩壊、それに続く91年のソ連邦の消滅を上げています。

 私にとって、改めて戦後60年間の流れを整理する上で、その「戦後史」は大いに参考になった著書でした。そして今年、戦後70年が種々論議を呼んでいるわけですが、ではこの10年間はいったい何だったのであろうかを考える上で、読み直しの必要性を感じたわけです。

 

 尚、本書の中で戦後が未だ終わらないとする中村政則の考え方の背景には、「マッカーサー天皇の政治共生が始まった。しかし昭和天皇が退位もせず、また自らの戦争責任について何も語らずに終わったことは戦後日本史、特に日本人の精神史にはかりしれないマイナスの影響を与えたと私は考える。なかでも日本人の戦争責任意識を希薄化させただけでなく、指導者の政治責任、道義的責任の取り方にけじめがなくなった。」(同書31頁)、という氏の思いがあります。そうした考え方の根底には昭和天皇のアジア軽視と共に天皇の贖罪意識の欠如に、氏のひとつの思いが在るように私は感じています。では昭和天皇自身はどういう存在であったのか。果たして戦争責任を取れる政治状況であったのか。或いは取れる環境、いや可能性があったのか。更には天皇自身の自己規定はどうであったのか等々、については本書では述べられてはいません。むしろ敢えて述べずにしたのかもしれません。

 

その2

  一方、吉田裕氏は本書「昭和天皇終戦史」の中で、敗戦の年から10年近く後に生まれ、天皇の存在そのものをほとんど意識することなしに、幼年期、青年期を過ごしてきた。従い、その後に生まれた若者とも異なり、いわば天皇の存在と最も遠いところで自己形成をとげた世代であると述べています。その意味で本書は、いわば純粋戦後派世代が書いた昭和天皇論なのでしょう。

 

 では何故に吉田氏がこの書を著すことになったのかについては、日本の占領期の日米関係を研究している過程で、東京裁判を従来の東京裁判論とは別の観点から見る必要を感じていたこと。その途上で、1990年11月7日、8日の「昭和天皇独白録」に遭遇し、改めて天皇にまつわる戦後史を調べることに繋がっていったように思います。

 

 その「独白録」は敗戦直後の1946年3月から4月に亘ります。宮内大臣・松平康民、宗秩寮総裁・松平康昌、宮内省御用掛・寺崎英成、内記部長・稲田周一、侍従長・木下道雄という5人の側近達の前で昭和天皇が戦争の時代を回顧し語った内容です。その信憑性も問題としなければなりませんが、その全文を発表した文藝春秋の編集者が下記の一節をもぐりこませているとのことです。

 

 「『独白論』は『天皇無罪論』を補強するため天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられる。あるいは逆に、昭和天皇みずからが昭和を回想し後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される。他から強いられたとは思えない率直なお話しぶりから、そのお気持ちが伺える。・・(中略)いずれにもせよ、この『独白録』がいかなる目的のもとに作成されたものであるかは、昭和史研究家の分析を待たなければなるまい。」(同書5頁)、とその時代の背景を改めて吉田氏は言及しているわけです。この「独白論」は宮中グループが天皇の戦争責任を如何にして回避させるべきか他、寺崎英成を含め興味深い事象をも記されております。そのことは原武史著「昭和天皇実録を読む」と符合し、改めて印象に残りました。

 

 尚、吉田氏による近衛文麿の人物像は服部龍二山本七平他の諸氏から見た人物像とは異なり、当時の保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚を持っていた人物として評価していること。更には、戦後の展開、皇室と天皇個人のあり方をも視野に入れる優れた人物として見ていることはに私に意外感を持ちました。尚、その近衛文麿にしても戦争責任については太平洋戦争のみで、アジアに対する戦争責任の問題については無自覚であった事実が、戦犯として逮捕され、挫折の自殺に繋がったとも氏は指摘しています。

 又、寺崎英成についても、アメリカ人の妻を持ち日米の平和の架け橋になろうとした知米派の外交官であり、且つ気骨のある自由主義者として柳田邦男が描いた人物とは別の、闇に包まれた、ある意味ではスパイとして活躍した人物として描いています。更には頭山満の団体・玄洋社の影響を受けた国粋主義者の一面をも本書では記されています。如何に寺崎英成をも描いた「マリコ」といった小説が、城山三郎の「落日燃ゆ」と同じように、私自身の、ものの見方に影響を与えていたことに改めて気づかされたところです。本当のこと、真実は未だ不明といったところなのでしょう。本書では天皇立憲君主の自己規定とは全く矛盾する要素を含む、さまざまな天皇の言動が記載され、しかも天皇自身が相当な情報通であることも述べております。本書の結の章で、

 

 さらに、天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任論の展開を極めて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定者の当事者であった権力者の責任を追及するという次元だけにとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。其れは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害実行の責任を問い直すものだし、侵略戦争天皇制に一貫して反対したという点からいえば戦争責任とは最も遠い位置にあるコミュニストとその党=日本共産党に対しても、なぜ、より有効な反戦闘争を組織することができなかったのかという点で、戦時下における自己の思想と運動に関する真摯な自己点検を強いられるものである。また、右翼に関しても、それが戦後、思想運動として生き残ろうとするかぎり、敗戦の原因や天皇制のあり方についての本質的な議論が必要だったはずだ。(同書239頁)、と断じています。真に私達は安易に戦後を生きてきたと言えるのかもしれません。

 

以下、本論である山本七平裕仁天皇の昭和史」【後編】に続きます。

 

 2015年11月16日

                          清宮昌章

 以上は二年前の投稿ですが今回の再投稿に際し、時の経過もあり、若干の加筆と修正をしております。本論は何らの変更もしておりません。

 2017年11月1日

                         淸宮昌章

 

参考図書

 中村政則「戦後史」(岩波新書)、吉田祐「昭和天皇終戦史」(岩波新書

原武史昭和天皇実録を読む」(岩波新書)、保坂正康「昭和史のかたち」(岩波新書)、文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」 (文春新書)、古川隆久「昭和天皇」 (中公新書)、保坂正康「昭和天皇 敗戦からの戦い」 (毎日新聞)、伊藤之雄昭和天皇伝」(文藝春秋)、青木冨美子「昭和天皇とワシントンを結んだ男」 (新潮社)、木佐芳男「戦争責任とは何か」 (中公新書)、加藤陽子昭和天皇と戦争の世紀」 (講談社)、豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見」 (岩波現代文庫)、保坂正康「東條英機天皇の時代」(ちくま文庫)、他

 

 

筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」他への覚書 【後編】

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(注)2021年5月4日再投稿の後編です

 

 著者の筒井清忠氏は1948年生まれ、京大文学部卒後、京大教授を経て現在は帝京大学教授で、日本近現代史・歴史社会学・日本文化論を専門とする学者です。

 

 本書は、「近衛文麿の悲劇とは何か」から始まり、「誕生と学習院」、「一高と教養主義」、「英米本位の平和主義を排す」、「パリ講和会議随員」、「貴族院議員としての活動」、「貴族院副議長・議長」、「訪米と近衛ファミリー」、「2・26事件前後」、「第一次近衛内閣と近衛型ポピュリズム現象」、「第二次・三次近衛内閣」、「太平洋戦争下の近衛」、「戦後の近衛」他の18章からなっています。丹念に資料を掘り起こし近衛文麿という人物を新たな視点で描いているとの印象を持ちます。

 

 近衛家は藤原鎌足を祖とし、後陽成天皇の血筋をも持ち、貴族院議長・公爵近衛篤麿が父という、近衛文麿は正に華冑界の逸材として当時のマスメディア、大衆にもてはやされていたわけです。

 

 後年になりますが、ご承知のように文麿の二女温子の子供(文麿の孫)である旧日本新党の元首相・細川護煕を当時の朝日新聞を始めとしたマスメディアと大衆が持ち上げ、そしていとも簡単に切り捨て忘れ去るという歴史です。加えて、今の天皇、皇太子他の現皇族に対するマスメディアによる報道の仕方。それに対する大衆の対応・反応も同じようなことで、我国における大衆の危うさは変わりないと思っています。それなりの経緯はあったにもせよ細川護煕が首相辞任後、政界を一切離れ、陶芸等の日常に人生を切り替えたのは祖父近衛文麿の前輪の轍を踏まないとの思いから来たのかもしれません。しかし最近の都知事選に見られる同氏の言動は何を物語っているのか、私には全く理解できません。人間の性というのは変わらないのでしょうか。

 

 本題に戻りますが、「誕生と学習院」の章で著者は近衛のふたつのトラウマとして、父篤麿の死後の周囲の人々の変貌と中学時代に実母の死の真相を知るという事実を上げます。それが近衛の終生の「孤独感」、「憂鬱感」の要因になったと記しています。別の角度からいえば人を信じること、確信が持てないという近衛のひとつの性格を現しているのかもしれません。人の性格はその人の経験、他人にはさほど重大には見えないような事態にも人は大きく影響を受けること、そうした具体的な事象を私も身近に遭遇いたしました。

   

 一方、近衛が学習院を経、一高における新渡戸稲造の教養主義という考え方の薫陶を受けたことはその後の人生を大きく変えたこと。又或る面ではふたつのトラウマと相俟って「人生の寂しさ」を覚える、見方を変えれば近衛という人間にひとつの彩を与えたのかもしれません。東大に入学の後、河上肇、米田庄太郎に憧れて京大に編入し、社会主義、共産主義思想に触れた事実も華冑界の逸材だからこそ、そうした行動がとれ、許されたのだろうと、著者は述べています。ただ、東大ではなく、京大で木戸幸一、原田熊雄といった「白川パーティ」に参画したことは、新渡戸稲造の教養主義と並んで近衛の後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。

 

 京大卒業後は西園寺公望との関係もあり内務省に入省。27歳で1.社会政策論の影響下にある国民生存権論、2.アジア主義的心情に立つ人種平等論、3.理想主義的正義人道論を要素とする「英米本位の平和主義を排す」の論文を発表します。現代とは異なるとはいえ、当時、北一輝が36歳で「国家改造案原理大綱」を発表するに対し、27歳でそれを発表するのはやはり秀才であったことに間違いはありません。そして西園寺公望の随行員としてパリ講和会議に参加したことは、更に近衛の新たな思想というか観点に展開を与えたのかもしれません。

 

 著者は明治以降日本のエリート社会では戦後に至るまで、長期に亘ってヨーロッパ崇拝が強かったことを考えると、アメリカへの好意的感覚を持っていることが近衛の特徴のひとつとしています。マスメディアもこの近衛の講和会議参加に続き、アメリカへの洋行問題を異常に思われるほど好意的に大きく取り上げ、結果的には彼自身ではなく長男文隆のアメリカ留学に繋がるわけです。その長男も近衛と同じようにマスメディにもてはやされ、そのことが後年、陸軍中尉昇進後、ソ連軍の捕虜となりスパイを強要され、そして長年の留置となり1956年イワノヴォ収容所における「悲劇の死」につながっていった、と記しています。

 

 近衛はその後もマスメディアによる大衆操作によって、もてはやされながら貴族院議員、貴族院副議長、議長をつとめます。2.26事件のとき拝辞し、そして1年3ヶ月後、西園寺の意向を受けた白川パーティの木戸、原田が近衛を説き伏せ、1937年6月1日、ついに大衆待望の第一次近衛内閣が誕生するわけです。「京大白川パーティはついに頂点に登りつめた」と記しています。

 

 その時に昭和研究会の野人・風見章を内閣書記官長に抜擢したこと。更に日本最初の本格的知識人ブレーンの昭和研究会を活用したこと。事実はさほどではなかったのかもしれませんが、それらが相俟って空前の人気の内閣を呼んだ要因と見ています。

 

 その昭和研究会は蠟山政道が中心となり三木清、東畑精一、笠信太郎、高橋亀吉、中山伊知郎、杉本栄一、大河内一男、矢部貞治、ゾルゲ事件の尾崎秀実、清水幾太郎、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作、三枝博音他錚々たる知識人が参画しておりました。又、風見章を内閣書記官にしたのは近衛独得の「サプライズ人事」で、大衆受けを狙う近衛の一面の軟さを見ると指摘しています。もてはやされる者が得てして陥り易い事象であり、如何にそうしたサプライズ人事が後で大きな悪影響を及ぼすかは、次元は大きく異なりますが私の現実の生活のなかでも数多く経験をしてきたところです。

 

 では、近衛人気がどのように形成されたのか、著者は以下のように興味深い分析をしています。

1.イメージの形成

 華冑界の新人という言葉が象徴するように昭和初期の大衆が好んだ「モダン性」と「復古性」を持っていたこと。モダン性は近衛の長身、ゴルフの腕前、社会主義的要     

素即ち思想を持った総理大臣であり、復古性は高貴な家柄・血筋、古美術を愛し、更にナショナリズム・アジア主義的な日本的・東洋的なものを持っている、と喧伝され農村部を中心とする保守層にも伝わったこと。

 

2.媒体

 ラジオ放送・レコードの活用、情報機関即ち始めて本格的な内閣情報部官制が敷かれ、内閣情報局のもと情報管理化を推進したこと。

 

3.受容層

 女性層に対し近衛家のモダン性がヴィジュアル化されたこと。文学に造詣が深く、河合栄治朗により復権した教養主義と相俟って菊池寛、坪内逍遥等々という当時のインテリ層から支持されたこと。さらに近衛の相撲好きに加え「キング」、「日の出」といった大衆雑誌に近衛が原稿を載せそれが大衆層に受け入れられたこと。

 

 こうして、最新のメディアを駆使しながら「モダン性」と「復古調」という相矛盾する時代の要請を統合的に活かし、女性,知識人、大衆とあらゆる層から受容されながら近衛文麿の人気が形成されて行った、と述べています。

 

 しかし結果的には国民大衆が待望した第一次近衛内閣成立の一ヶ月後に盧溝橋事件、大本営設置、「爾後国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明。続き、日中全面戦争、三国同盟、太平洋戦争という戦争の時代のなか、大衆に翻弄されるポピュリズム政治からの脱皮ということは近衛文麿には不可能な選択であること。その後の敗戦に続き戦犯逮捕指令。その出頭期限の朝に自死という悲劇の、正に戦争の時代とマスメディア・大衆に翻弄された54年間の一生であった、と記しております。

 

 続いて、華冑界の逸材であったからこそ元老・西園寺公望、原田熊雄、木戸幸一他華族達との強い繋がりがあるとされたこと。又、新渡戸稲造による教養主義者の「辞書」の中には「戦争」に対峙する発想はなく、その要因を著者は以下のように指摘しています。

 

 教養主義は既存の文化遺産の中から良質なものを取り出し、それを吸収することによって自分を高めていこうとするものであるから、よいものならどのようなものでもあっても取り入れていくというのがその本質なのである。それはマルクス主義であったり、国家主義であったりするであろう。教養主義は原理主義を拒むものであって、その本質から必然的に既存の文化遺産を折衷的に取り入れていくことになるのである。(300頁)

 

 その上で教養主義は折衷主義的な弱者の論理に陥り易く、時には「毒をもって毒を制する」という近衛流の発想をもたらし、軍部との対応のあり方、松岡洋右、東条英機他の登用に続き、彼らとの確執へと連なっていったと見ています。従って近衛には思想の転向、所謂マルクス主義者等の変節・転向といったものではなく、別の視点から見るべきであろうとの指摘です。加え、文化人であるが為の昭和研究会他当時の知識人との絆等々は従来の日本の政治家には全く見られない事象で、逆に言えばそうしたことが結果的に近衛には災いとなり「優柔不断」、「責任感の欠如」等々の後の批判に繋がる要因になったのかもしれません。

 

 一方、戦犯逮捕指令は総司令部・対敵情報部(CIC)調査分析課長E・H・ノーマンが近衛の性格を含め徹底的に弾劾した「覚書」によるものであること。その骨格を成すものは1945年2月14日の「近衛上奏文」、及び同年9月13日のマッカーサー会見に共通する近衛の「共産主義革命脅威論」にあったと筒井氏は指摘しています。近衛上奏文以来、彼は当時の保守派の中でも最大の「反共論者」となり、コミュニズムに近いノーマンが敵視し攻撃したのは近衛に対する「正解な理解」としています。

 

 尚、ノーマンはハーバード大学で都留重人と親友であること。都留は木戸幸一の実弟・和田小六の娘正子と結婚しており、同じ重臣の木戸に対するノーマンの「覚書」は近衛と異なり好意的表現に満ちており、その覚書は都留とノーマンの「合作」とも思われることを著者は否定していません。なおその後、ノーマンは1950年に召還され、カナダ国家警察の半年に亘る反共攻撃の審問を受け、更に1957年アメリカ上院小委員会でそれを蒸し返され自殺しております。政治的に人を裁くことの恐ろしさを指摘しているわけです。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。そのような状況下、12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかって、あれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降最近までの公の行蔵は、世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアーサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(295頁)

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(296頁) 今日でも依然として通用すると思われる新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しているわけです。

 

 近衛の死後、机の上にオスカー・ワイルドの「深き淵の底より」(英文)が置かれえおり、その中でアンダーラインが引かれていた。「人々は常に私のことを、あまりにも個人的過ぎると言った。・・私の破滅は、人生についてあまりにも個人主義的であったからではなくて、あまりにも個人主義的でなさすぎたことから起こったのだ。私は自分で身を滅ぼしたのだ(中略)世間が私に対してしたことは、恐ろしいことだったけれども、私が自分に対してしたことは、もっと恐ろしいことだった」(297頁)と紹介し、著者は次のように印象深い文章で本書を閉じています。

 

 近衛は「華冑界の新人」などといわれ個性的に見られたのだが、教養主義的政治家として多くのものを受け入れることに努め結局自分独自のものをほとんど出すことができず、「世間」に依拠するポピュリスト政治家となりそれにふさわしい仕打ちを受けたのである。しかし、「人格の修養」を第一義とする教養主義者らしく自分自身の問題としてそれを受け止め、死んでいったのだからである。・・(中略)教養主義とポピュリズムという問題が現代社会におけるリーダーの問題を考えるにあたって避けて通れない未決の問題としてわれわれの前になお立ちふさがっていることを、近代日本の生んだ有数の知識人政治家・近衛の華やかで淋しい生涯は告げているのである。(305頁)

 

2015年10月13日

                               清宮昌章

 

 

参考文書 

筒井清忠「近衛文麿」(岩波現代文庫)                

松本重治「近衛時代・・ジャーナリストの回想」(中公新書)

細谷雄一「歴史認識とは何か」(新潮選書)

大沼保昭「歴史認識とは何か」(聞き手江川紹子 中公新書)

池田信夫「戦後リベラルの終焉」(  PHP新書)

井上寿一「終戦後史 1945-1955」(講談社選書メチエ)

筒井清忠「近衛文麿」 教養主義的ポピュリストの悲劇(岩波現代文庫)他への覚書 【前編】

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再投稿にあたって

 

 このコロナ禍による自粛生活もあるのでしょうか、ここのところ過去の投稿を見直し、時には補足し、再投稿しております。今回は補筆をしておりませんが、下記投稿もそのひとつです。残念ながら、今となってはその東京オリンピックの中止の決断も、最早時期を逸し、今後はその中止如何に関わらず、更なる混乱を生ずる怖れが強いと思います。

 

 そして、このコロナ禍の現実に思うことは、我国がコロナ禍のみならず、如何にも我々一人一人が平和ボケに深く犯されているということです。平和、平和を唱えていれば平和が訪れるかの如き錯覚。従い、現実、いくら政府が緊急事態宣言を発出しようが、それをあたかも他人事のように思う感覚ではないでしょうか。

 

 こうした現象はいつ頃から生じてきたのでしょう。一億総懺悔ではありませんが、マスメディアに作られた「世論」と称するものに大きく左右される政権・政党。加えて、それを利用する思想・政策も、政権を担う力もない野党。更に重大な事象は考えることを辞めた我々一人一人の現実。こうした現象はいつ頃から生じたことなのでしょうか。

 中国共産党独裁政権の急激な進展を含め、地政学的にも大きく変動した中、今回のコロナ禍後の日本は経済的打撃だけでなく、我国は救いないようない窮地に陥いる可能性を孕んでいる、と私は考えております。そんな思いもあり、ここのところ、戦前・戦中・終戦当時の現状はどうであったか、そんなことに触れた過去の投稿を見直している次第です。

 

 方や、佐伯啓思氏の「厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさをもった日本国憲法の平和主義は、自らによって国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。」(同氏著【脱】戦後のすすめ 221頁)、との指摘を私は彷彿してくるのです。

 

 そんな思いの中、1945年終戦前後の我国の断面を描いた、掲題の2015年10月5日の投稿を改めて読み直しをしたところです。前編、後編となりますが、改めて一覧頂ければ幸いです。ご参考になるかどうかわかりませんが、敢えて再投稿しました。

 

 2021年5月4日

                                   淸宮昌章

 

はじめに

 

 ここ数ヶ月に亘り安全保障関連法案の国会審議等、今日的問題について私の日頃の想いなどを吉野源三郎「君たちはどう生きるか」にも触れながら報告してきました。加えて、服部龍二氏の「広田弘毅・・悲劇の宰相の実像」、山本七平「裕仁天皇の昭和史」等々も取り上げ、戦中・戦後の人々が何を感じたのか、如何に生きたのか。そして現在、我々は何を問うべきなのか、私なりの雑感を載せてきました。

 

 そして今回、今まで直接・間接的にも取り上げてきた人物のうちで、毀誉褒貶のはなはだしい近衛文麿をもう少し知りたいと思い、6年前になりますが掲題に挙げた雑感を改めて検討した次第です。未だ読んでいるわけではありませんが近衛文麿の伝記としては、矢部貞治「三代宰相列伝・・近衛文麿」もあります。ただ、掲題の本書の副題として挙げられている「教養主義的ポピュリストの悲劇」に惹かれ、彼の「悲劇」と「運命」が何処にあったのか、改めて考えたわけです。そして時に感じたことなども織り交ぜながら、ここに紹介してみようと思います。

 

加藤周一「私にとっての20世紀」、「日本人とは何か」

 

 私の心の整理と言うか、どう考えるべきなのか、迷う日常にあって、数年前になりますが、加藤周一著「日本人とは何か」を読み、その一部を引用しご紹介いたしました。同氏は2008年12月に89歳の生涯を閉じましたが、2009年2月に上梓された最後の遺稿とも言うべき「私にとっての20世紀」を、筒井忠清氏の「近衛文麿」と同時並行的に読み進めたわけです。

 

 尚、加藤周一の著書はあまり読んだわけではありません。ただ、その論理には頷けるものの、何故か私は心情的にしっくりこないのですが、「戦後知識人」と自らを規定し、知識人のあり方を最後まで模索し、場を求め、思いを発表していた知識人であった、と私は考えています。加藤周一は本書の中で知的好奇心について、次のように述べています。

 

 しかし、戦争の経験だけではなくて、環境を知りたいというのは一種の知的好奇心のあらわれです。私は知的好奇心が強くて、自分の身の周りで起こっていること、それからそれを超えて,歴史の中で社会的、政治的な現象を理解したいという欲求をたえずもっています。この知的好奇心は必ずしも楽しみの追求ではないかも知れません。しかし義務感だけではない。(中略)・・少なくとも私の場合は、かなり根源的な動機だと思う。ほかに目的があるのではなくて、知ること自体が目的だということがある。(76頁)

(中略)、知識人の一般的な特徴というのは、知識があることと、それから現実を知らないと言うことです。たくさんの本を知っていて、現実を知らない。あのときは戦争中ですから、程度問題だと思うのですが、少なくとも新しい本はなくても、古い本なら読めた。本が読めて、現実について何も情報が入ってこない。「近代の超克」で議論している人たちはヨーロッパが行き詰まったといっていたけれど、行き詰まったそのヨーロッパと米国で暮らした人はほとんどいなかった。(107頁)

 

 と、経験を得た上での知ることの重要性を述べ、「科学からの倫理」でなく「倫理からの科学」を主張しています。

 

 その中には当然のことながら戦中・戦後における白樺派他の文化人・知識人への強い批判があるわけです。本書の中では近衛文麿に言及する箇所は「近衛文麿がいつ頃からこの戦争の先行きはないと考え出したか私は知りませんけれども、『早く降伏したほうはがよろしい』という考えで行動を起こしたのは45年1月です」(97頁)という一文があります。

 

 加藤周一によれば、本書「私にとって20世紀」の主旨は時間、空間、および知識の領域に関して、限られた一市民の私にとっての20世紀の回想であって、そのあとがきに「今読み返してみて、私はこの本のなかに私自身を発見する。そして私自身を決定した20世紀という時代の文化が、どういうものであったのかを、問い続ける」(257頁)と述べています。私にとって印象に残る「あとがき」でした。

 

 以前にも触れましたが、「昭和天皇の終戦史」で吉田裕氏が近衛文麿を当時の保守勢力のなかで、最もリアルな政治感覚をもった人物と評価しています。しかし一般的には近衛文麿は勇気、決断、責任感に欠如が見られる。広田弘毅他と比べても一段低い人物と見られているように思います。近衛が華族であることもあるのでしょうか。接点が多かったと思われる西園寺公望は近衛をどのように見ていたのかとの視点で、岩井忠熊「西園寺公望」にも目を通して見ました。

 

岩井忠熊「西園寺公望」

 

 岩井忠熊によれば西園寺公望は近衛が陸軍皇道派と親しいこと、或いは右翼に妥協的という点に強い不安を覚えていたと記しています。現在では人によれば東条英機、広田弘毅よりも近衛文麿を今次大戦の「戦争責任者」として強く断罪しているようにも思えますが如何でしょうか。私も近衛文麿をそのような人物かなと見てきましたが筒井清忠氏は近衛文麿の生い立ちから振り返ることにより、改めてその人物像を描がこうとしています。どちらが本物かを問うのではなく、その時代、時々の環境・情勢がある人物像を如何ようにも変えてしまうというのが現実なのでしょう。ただ、私にとって本書「西園寺公望」は近衛文麿を別の角度から改めて見ることになりました。と共に、マスメディアと大衆の怖さ、その危うさを改めて知ることにもなりました。そのことは過去のことだけではなく今現在においても言えることと考えています。

 

 西園寺公望は生涯に総理大臣を二度もつとめ、最後に元老として生を終え、本人自身は望んではいなかった国葬が執行されたわけですが、岩井忠熊は西園寺を失敗した政治家と見ています。そして、次のように記しています。

 

 西園寺が軍部の政治的台頭、大陸への冒険的侵略、対英米戦への動向のすべてに反対し、それを阻止しようとしたことは争えない事実である。しかも西園寺は天皇から特別の勅語を受けた元老の地位にあって、国事上の最高顧問の役割を引き受けていた。その西園寺がなぜ1930年代の政治情況で次第に敗北者の地位に追いこまれ、その行動は失敗に終わったのか。いわゆる15年戦争に関心をもつ者にとって看過できない問題である。現に未解決の戦争の遺産はなお私たちの前にある。靖国神社、無差別爆撃、虐殺、強制連行、従軍慰安婦、原爆等、なにひとつ解決したとはいえない。われわれの未来はそのような問題にひとつひとつ誠実に向き合うことを回避しては、真に拓かれたことにはならないだろう。そう思えば、歴史学はやはり西園寺の失敗に学ぶ必要があるのではないか(211、212頁)

 

 自死した近衛と国葬で送られた西園寺と何故にこのように差が出てきてしまったのでしょうか。岩井忠熊は次のように述べています。「成功した歴史に学ぶ者は、往々にしてその達成の陥穽におちいる。失敗の歴史に学ぶ者は、盲点の存在に目ざめさせられる。歴史を読む者の心すべき教訓であろう。」(220頁) 正に心すべきことではないでしょうか。

 

以下、後編 筒井清忠「近衛文麿」に続く(2015年10月13日)

 

 

 2015年10月5日

                             清宮昌章

 参考図書

 

筒井清忠「近衛文麿」(岩波現代文庫)

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

加藤周一「私にとっての20世紀」(岩波現代文庫)

 同  「日本人とは何か」(講談社が学術文庫)

岩井忠熊「西園寺公望」(岩波新書)

吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)

 他

改めて・ズビグニュー・ブレジンスキー著「ブッシュが壊したアメリカ」を思い起こして・・【後編】

 

 再投稿、その上に長い駄文で恐縮しますが、今日性の課題も含んでいると、思います。改めて一覧頂ければ幸いです。

   2021年9月22日

 

  第三章・「先代ブッシュの負の遺産」(湾岸戦争の勝利の立役者が残した禍根)では、先代ブッシュの任期はユーラシア大陸の激動期にぴったりと重なっていること。有能な外交官でもあり、又勇敢な戦士でもあったが、先見のないリーダーであったと分析しています。即ちソ連の崩壊には冷静に対処し、またサダム・フセインのクウェート侵略にも見事に対処したという、ふたつの「勝利」を得ながらも、戦略面からはアメリカが持つ政治の影響力と道徳の正当性はロシアの改革にも中東平和にも生かされなかった。必要なことは優先事項を明示し、今日や明日ではないもっと先の未来に視線を据え、はっきりとした方向性を打ち出した後に、方向性に沿った行動をとることだった。パレスチナ問題と湾岸戦争を中途半端に終わらせたツケは先代の後継者達に取り付いてはなれず、アラブの人々はアメリカの役割を、革新を促す力の供給源ではなく、殖民地時代という忌まわしき過去の再生装置と見做すようになったこと。1992年当時、ばら色の「新世界秩序」から手垢のついた帝国主義秩序へと変わってしまっていた、と述べています。

 

 第四章・「グローバリゼーションを妄信したクリントン」では前任者と異なり、クリントンは世界に対するビジョンを持っていた。即ち能天気とも言うべきグローバリゼーションに内在する「歴史決定論」は、アメリカが自らを必要欠くべからざる国と呼ぶために、自らを内側から再生していかなければならないという彼の深い信念と合致し、外交は内政の延長であったと述べています。

 

 一方、彼の外交の政策決定プロセスを複雑化させた原因を次のように述べています。

 

 一元的且つ楽観的な世界観を唱えたこともあり、議会やマスコミ、ロービー団体が定期的なプロパガンダ活動を通じ「アメリカの今年の敵」と呼ぶべきものをつくりあげた。即ちリビア、イラク、イラン、中国などを槍玉に挙げ、各国からもたらされるであろう危機を強調した。客観的安全をめざす強大なアメリカというパラドックスと、現実となった冷戦の勝利と主観的危機を正当化するための大悪党捜しは、恐怖がすくすくと育つ肥沃な土壌をととのえ、最終的に9・11後の状況をつくりだした。(108頁)

 

 結果的には核問題で北朝鮮に振り回され、核拡散も阻止できず、地球温暖化問題を放置、ルワンダの悲劇を傍観しながら、親イスラエルに傾いた外交が中東におけるアメリカ観を大転換させ、アメリカに対する政治的宗教的敵意を高めてしまったとの指摘です。

 

 端的に言うと、第二代グローバル・リーダーは、歴史に偉大な足跡を残しそこねた。独りよがりの決定論と、人格上の欠点と,強まり続ける国内政治の縛りは、彼の善意だけでは克服できなかったのだ。未完かつ脆弱なクリントンの遺産は、2001年、正反対の教義を信じる後任者に受け継がれたのである。(157頁)

 

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 続く第五章・「現ブッシュの破滅的なリーダーシップ」のなかで、ブッシュ大統領は前任者二人とは大きく異なり、半世紀近く育んできた大西洋共同体の絆を手放してしまい、ほどなく国際世論から袋だたきにあったと痛烈な批判です。ブッシュは自らを「断固とたる決意と、明快のビジョンと深い信仰」の持ち主と見做し、新たなる善と悪との戦い・・彼は孤独な十字軍の闘いと呼ぶかもしれない・・に挑もうとしていた。9・11後、ブッシュの戦略、換言すれば「テロとの戦争」の戦略とは、ペルシャ湾石油権益を確保続けたい昔ながらの帝国主義的願望と、イラク抹殺によってイスラエルの安全を確保したい、というネオコン主義的願望の結晶であると言い切っております。

 

 イラク戦争の最も重大な影響は、アメリカのグローバル・リーダーシップが信用を失ったこと。第二はテロへの脅威へ向けられるべき資源と関心をすべてイラク戦争に注ぎ込み、地政学的悪影響を振りまいてしまったこと。第三はこの戦争がアメリカに対するテロへの脅威を増大させてきたこと。更に反イスラムのにおいのするテロとの戦争はイスラム世界の言論を反米で一致させ、次々とテロリスト達を生み出すものにしてしまった、と指摘しています。ネオコンの信条を以下のように述べ、第五章を閉じています。

 

1.中東を発生源とするテロ活動はアメリカに対する根深い怒りが虚無主義となって現れたものであり、特定の政治紛争や歴史とは関係ないこと。

 

2.中東の政治文化、とりわけアラブの政治文化は、何よりも力に敬意をはらう傾向があるため、地域問題を解決するには、アメリカの軍事力を直接投入しなければならないこと。

 

3.選挙に基づく民主主義は外部から強制した場合でも機能しうる。

 

 この信条をブッシュは信じ、第三代グローバル・リーダーとしてのブッシュは歴史的瞬間を誤って解釈し、わずか五年のあいだに、地政学上のアメリカの地位を危険水域まで低下させ、アメリカ合衆国を危機に陥れた。

 そして冒頭にも紹介した最終章、第六章「アメリカの次期大統領と最後のチャンス」に至るわけです。其の中でグローバル・リーダーとして有効な活動を行なうための条件を次のように記しています。

 

1.今の時代をどうとらえるかという歴史感覚が、アメリカの国民と合致し  

ていること。

2.地球規模の脅威をどう定義するかという価値観が、世界における政治・社会的変化の気質及び特質と合致していること、を挙げています。

 

 更にアメリカは歴史上重大なふたつの失敗をおかした。即ち1.冷戦後に一人勝ちの状況が続く中で、共通の世界戦略に集中して取り組む大西洋共同体を確立できなかったこと。2.イスラエル・パレスチナ問題に対して必要な行動をとらなかったことです。もしアメリカが決然たる態度を示し、アメリカとEUが共同でかつ公平な妥協案を示していたら、イスラエルもパレスチナも和平を受け入れていただろうとしています。アメリカが金儲けに左右されない外交政策をとり、アメリカ型社会の欠陥、即ち物質主義に裏付けられた自己中心性、国民全体が共有する世界に関する無知ぶりを反省することが、何としても必要としています。アメリカはヨーロッパと生きていかなければならないし、ヨーロッパもアメリカを必要とする。そうした中、アジアで孤立を深める非西欧の民主主義国の日本をできれば韓国も米欧間の主要な協議に組み込んでいくことが必要と記しています。

 

 其の背景にはロシア、中国、インドが結びつくことで、もっと明らかな反米同盟が出現する可能性を見てとるからです。日本がNATOと連携するほうが極東におけるアメリカの軍事プレゼンスが日本を通じて高まる場合よりも、あるいは日本自身が単独で軍備の増強を進めていく場合よりも、中国が抱く警戒感は少ないとの見方です。

 

 こうした見解には多くの異論もあるでしょう。しかし、地政学の権威で、アメリカでも影響力のある著者の見解は心に留めて置くべきと私は考えていました。

 

 世界の「政治意識のめざめ」は歴史的に反帝国主義であり、政治的に反西欧であり、感情的には反米である。政治意識のめざめの標的にされる危険を回避したいなら、人間の尊厳を世界中に広められるのはアメリカだけ、という認識を確立しなければならない。(勿論、政治と社会と宗教の多様性に対する敬意をもつことが前提となる。)人間の尊厳はさまざまなものをもたらす。自由と民主主義のみならず、社会正義も、男女平等も、文化と宗教が複雑に入り組んだ世界の現状に対する敬意も、(中略)だからこそ、外部から押し付けられた性急な民主化は、ことごとく失敗に終わるのである。自由と民主主義を根付かせるには、きちんと段階を踏み、内部から育てあげるしか方法はないのだ。(236頁)と訴えています。そしてG8はもはや時代遅れで、アメリカと日本と拡大大西洋共同体は、中国の我慢強さと用心深さ、いわばその余裕の時間を利用して中国を世界システムの中に取り込み、グローバル・リーダーシップの一翼をになわせなければならない、と最終章に述べています。

 

おわりに

 

 何故、本書を今になって取り上げ読み返したのか。疑問というか時代錯誤と思われるかもしれません。中国が大国への復活を進めるなど、地政学的にも大きく変動した現実に、日本は一国平和主義に安住しているとしか思えません。本来的覚悟を持たぬ、あるいは持てぬ者のひとりとして、著者の見解、指摘に私は改めて考えさせられたところです。

 

 方や巷では、外交でことを進めるべきとの、声もあります。今から5年前になりますが、元駐フランス大使の矢田部厚彦氏が「外交力と軍事力」の中で、外交とは何かを述べています。即ち外交力とは政治指導者の先見性と権威、外交官集団の優秀性と忠誠心、そして総合的・長期的な国益がどこにあるかに対する世論。公衆の理解力と判断力の三要素に集約される。この三本柱のどれが弱くても、十分な外交力を発揮することはできない。だが、もっとも重要なこととして強調しなければならいのは、この三要素を支えるものが、その国の社会の近代性と基礎的文化水準に他ならない。外交とは、文化である。つまるところ、外交とは国民精神の対外的な文化表現なのである、と喝破しています。

 

 現国会で論議が全く噛み合わない、意味のない安全保障関連法案審議をみていると政党とは何か、議員とは何かを考えさせられます。時には野党議員に見られる品格を欠いた質疑に、もとよりそれを求めることが無理なのでしょうが嫌悪感を覚えます。そしてマスメデイアによる誘導された世論と称するものに右往左往する現状に、過去を想起し、暗澹たる気持ちになります。

 

 2015年9月14日

                             清宮昌章

追補

 

 アメリカはその後、前オバマ大統領、そして現トランプ大統領と代わる中、欧州も大きく変貌しております。変わらないのは、今や世界第二位のGDPを誇り、中華大国への復活を目指す共産党独裁国家、しかもその価値観も国民への関与の在り方も大きく異なると思える中国です。ブレジンスキーが本書で、「中国を世界システムの中に取り込み、グローバル・リーダーシップの一翼を担わせることだ」と指摘しておりましたが、その可能性は如何でしょうか。

 

 アメリカではなく、日本にとって北朝鮮の喫緊の現状もさることながら、ユーラシア大陸を制するロシアより、中国の動向こそが今後の日本にとって大きな脅威というか、課題と私は考えております。歴史事実とは異なる概念の、中国による「歴史認識」を日本が持つことを執拗に迫り、日本を利用しながら日本外しを計る中国。更には沖縄には同情と微笑を続けながら、尖閣諸島と同じように、近い近未来に沖縄を核心的利益と唱える可能性も充分ありましょう。

 加えて、韓国においては、反日教育というより「侮日教育」を一貫として受けてきた世代が国民の多数を占めるに至っております。従い、韓国並びに韓国人としても日本、更には日本人への対応も、今後も変わることはないでしょう。

 

 残念ながら中国及び朝鮮半島の南北二国との友好関係を日本が構築することは極めて難しく、数世紀を要する解けない課題なのです。中国、ロシアをバックに朝鮮半島を中心とした新たな経済圏を模索している、との文韓国新大統領の発想も私は頷けます。日本の現状は地政学的面においても極めて不安的な位置にあります。従い、ブレジンスキーの観点・指摘とは異なりますが、氏が本書で述べている「日本は新たな道を求めることが必要である」、との見解に私は別な意味で共感を覚えた分けです。

 

 方や、現在のマスメディアに見られる、ただただ現安倍自公政権を倒せば良いかの如き、一国平和主義的思考に私は極めて大きな危機感を持っております。毎回の投稿でも付言しておりますが、戦前、戦中、戦後において依然として報道は自らの責任を問わない、負わない、そのマスメディアの在り方。そして、そのマスメディアにより、大きく影響を受ける世論と称するものに、時の政権が大きく左右されてきたことも昭和の歴史です。言論の自由を挙げ、時の権力・政権を掣肘するとは主張するものの、それは独りよがりの正義感で、その実体は単なる商業主義に毒されたものに過ぎないと考えます。ただ、ここに来て、マスメディアによる報道、あるいはその取り上げ方に、不信感を持ち、信頼を置かない人々、層が増えてきているのも、新たな現象といえるでしょう。

 

 このブログを開いて頂ければわかりますが、本稿に続き、筒井清忠「近衛文麿」他、一連の昭和史に関わる投稿をしております。意義があるかどうかは分りませんが、日本の現状、さらには今後の日本を観る上では、少なくとも昭和の歴史を自ら再検討する必要がある、と私なりに思っています。

 

 2017年9月28日

                     淸宮昌章

参考文献

  峰岸博「韓国の憂鬱」(日経プレミアシリーズ)

  櫻井よしこ・呉善花「赤い韓国」(産経セレクト)

  呉善花「侮日論」(文集新書)

  中澤克二「周近平の権力闘争」(日本経済新聞出版社)

  海外事情 2017・9

  他

ズビグニュー・ブレジンスキー著「ブッシュが壊したアメリカ」を思い起こして・・【前編】

再投稿

 

 コロナ禍の緊急事態宣言下、9月29日の自民党総裁選挙。そして衆議院議員選挙と続く中、私は改めて5年前の2015年8月の投稿を読み返しました。手前味噌ですが、古さを感じなく、改めて再投稿する意味もあるかなと思った次第です。後編は同年9月14日です。極めて長い駄文ですが、改めて一読頂ければ幸いです。

 

 2021年9月21日 

 

はじめに

 

 日本政治が右傾化し、自由と民主主義が壊れていくかのような巷の声もあり、中野晃一著「右傾化する日本政治」(岩波新書)を一読しました。著者は1970年生まれの比較政治学、日本政治、政治思想を専門とする学者との紹介ですが、私は初めて氏の著書に触れます。本書の中で長谷川三千子氏を歴史修正主義と断定するわけですから、中野氏はその対局に立つのでしょう。

 

 中野氏の見解によれば日本政治は何も現安倍自公政権から大きく右傾化したわけではなく、過去30年ほどの長いタイムスパンで現出してきた、との見解です。残念ながら、私は本書を通じて氏の主張・観点には極めて違和感を持ちます。   

安倍首相に関して「本質的に中国や韓国でも変わりなく、新自由主義改革によって格差社会が広がった一方で、政治権力はますます世襲的政治家や財閥・閨閥に集中し、そこで夫々に国家主義を煽って人心掌握を図り、又ジャーナリズムや言論の自由のみならず、市民社会全体のさまざまな自由を厳しく弾圧する傾向が共通して見られる。安倍、習近平、朴槿惠ら北東アジアの世襲『ナショナリスト』たちが自国内で権力を集中し続けるために、敵愾心を向け合う相手を相互に必要としているといえる」(本書177頁) 加えて終章の最後に「道は険しく、時間は限られているが、負けられない闘いはすでに始まっている」と述べられております。とても私はついてはいけません。

   

  誠に僭越ですが、何故そのような、私には凝り固まったとも言える観点に立つのか、氏の背景、生活・環境がそのひとつの要因なのか、不安を覚えるところです。品格を欠いた他者批判、出版物も、又私のような門外漢も自由に発言、発表できるのが戦後の日本ではないでしょうか。日本の昭和の時代、平成の時代を日本の長い歴史から、何か切り離された特殊な危殆の時代と見ているように私は感じます。よいか悪いかは別ですが、時代は連綿と続き現代に至っているとの私の観点とは大きく異なっています。

 

 そんな感慨を一方に持ち、8年前に掲題の著書について記した駄文を改めて取り出しました。精彩を欠き、もはや影響力もないような現オバマ大統領を見ると、本書の指摘は今さらながら正鵠を得たものであったと私は思います。

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その1

 

 本書の原題はSECOND CHANCE:Three Presidents and the Crisis of American Superpower で、日本版の表題はすこし刺激的で、むしろ本書の内容を言い表してはいないように私は思います。本書の主題は言わば「自己戴冠」が行なわれた超大国アメリカの15年間に亘る三人の大統領、即ちジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンに関わる思考・施政への再検討であり、提言でした。

 

 政治意識のめざめの現象が地球上に広がり、更に其の勢いが増している現在、超大国になってしまったアメリカがこの15年間の中で、何を反省し、何を目指し、そして今後どう在るべきなのか。アメリカ大統領によるアメリカの責任とは何か。アメリカが世界に影響を与えると共にアメリカも世界から影響を受けるという、今までになかった観念をどのように国民に植え付けるか。自由と民主主義の実現に導くだけでなく、文化の多様性に対する敬意はどうか。不公正な格差を是正しなければならないという認識をどう持たせるか。そうしたことが正に問われているのだ、と著者は指摘しています。方や、その視点、指摘自体に人によりアメリカの独善として違和感を持つかも知れません。

 

 そうした思いは残るものの、著者は歴史的意義の高い課題に取り組んだ過去として、一度目は1776年に「自由の意味を定義し、自由の模索を始めたばかりの世界に提示した」こと。二度目は「20世紀の民主主義の守護者として全体主義と戦って見せた」ことを挙げています。

 

 冷戦の終焉後に第一回のチャンスを逃した中、2008年以降に訪れる第二のチャンスを逃してはならない。なぜなら第三のチャンスは永久に巡ってこない。次期アメリカ大統領が「理想に仕えるのをやめた大国は、其の力を失う」ということを理解すること。政治意識にめざめた人類の渇望と、アメリカ合衆国の力との一体感をつくりだすことができれば、まだアメリカにも可能性はのこっている。そして最終章・第六章「アメリカの次期大統領と最後のチャンス」と繋げていくわけです。

 

 著者はご存知のようにアメリカを代表する地政学の権威であり、カーター政権では国家安全保障問題担当補佐官を務め、影響力を持った学者でもあります。1989年に著した「大いなる失敗」のなかで20世紀における共産主義の誕生と其の終焉を従来の通説とは異なり、以下のようにソ連の崩壊を事前にとらえておりました。

 

 共産主義の下で起こった事象は、歴史の悲劇以外の何物でもなかった。それは現状の不正を正そうとする性急な理想主義に端を発し、よりよい人間的な社会をめざしたのだが、結果的には大量の抑圧を生みだすものになった。共産主義は理性の力を信じ、完全な社会を建設しようとした。高いモラルによって動かされる社会をつくるために、人間へのもっとも大きな愛と、抑制への怒りを結集したのである。それによって最高の頭脳、最良の理想主義的精神を持った人々の心をとらえた。にもかかわらず共産主義は、今世紀はもちろん他の世紀にも類を見ないほどの、大きな害悪を生んだのである。其の上、共産主義の誤りは社会問題を完全に理詰めで解決しようとしたことだった。(中略)人間の理性を信じすぎたこと、激しい権力争いのために時の権力者が自らの一時的判断を絶対視してしまう傾向があったこと、不道徳への怒りがしばしば政敵への独善的な憎悪に変わってしまったこと、とくにレーニン主義がマルクス主義の中に、ロシアの後進的な専制主義を持ち込んだこと。(大いなる失敗 306頁)

 

 その後、1993年に「アウト・オブ・コントロール」を著しました。今の世界の混乱をも既に見通していたかのように思います。私とってはそれらの著作を通し、大きな影響というか、考えさせられた学者であり政治家でもあります。尚、本書は私にとっては同氏の三つ目の著書です。

 

その2

 

 本書も一貫した冷徹な地政学的見地から書かれております。各章のあらましをご紹介したく、長くなり恐縮ですがご容赦願います。

 

 第一章・「超大国アメリカを率いた三人の大統領」で、ソ連が崩壊し、冷戦が終焉したため、国際的承認をいっさい受けていないにもかかわらず、グローバル・リーダー、即ち世界の指導者としてアメリカが振舞い始めたこと。即ち、この「自己戴冠」というこの現象は1876年に、ヴィクトリア女王が英国議会から「インド大帝」の称号を与えられた史実。更には、ナポレオンの自己戴冠の史実を彷彿させる、と述べています。

 一方、世界最強国の座に就いた後、アメリカ外交は自国領土の安全確保に加え、三つの使命を背負ったと述べています。

 

1・世界の勢力関係を構築、管理運用し、より強調的なグローバル・システムができる                
下地を造ること。

2・紛争の封じ込め、沈静化、テロ行為と大量破壊兵器拡散の阻止。

3・格差社会の急速な広がりに対し、より効果的な取り組みを行なうこと。

 

 そして第二章・「アメリカを誤らせたグローバリゼーションとネオコン主義」と続き、先代ブッシュ、クリントン、ブッシュの施政への各章に進んでいきます。冷戦後の短期間、アメリカ政府は「新世界秩序」なるスローガンを掲げ、世界情勢と新たなチャンスについて語ったのですが、其の概念も曖昧のまま、それを浸透させる前に大統領選に負け、互いに相容れない歴史観と未来像を持つ、ふたつの概念、即ちグローバリゼーションと新保守主義(ネオコン)が出てきた。このグローバリゼーションは最終的に安定均衡を生み出すため、多数に対する利益の再配分を通じて、少数の受けた不利益は相殺される、という能天気なまでに楽観的ものだと指摘しております。

 

 一方、ネオコン主義は馬鹿正直なまでの一途さ、悲観的な見方、善悪二元論的な雰囲気を特徴とするもので、ブッシュ大統領の時代に大きく花咲いたこと。又、このネオコン主義に図らずも社会における高い位置を与えたのは、各々の著者の意図とは大きく異なっていますが、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1992年)、及びハンチントンの「文明の衝突」(1996年)であったとの指摘です。結果的にはイスラム原理主義との全面衝突の果てに、民主主義が広まって「歴史の終わり」を告げるという認識はネオコン派からしてみると、ポスト冷戦時代の靄をすっきりと射し貫く一条の光となってしまった。著者は以下のように述べています。

 

 共産主義が打倒されたあと、西側先進国の市民たちは新しい目標をいったい何処においたのだろうか、(中略)西側先進国を席巻する「快楽追及の相対主義」。方や、突如として貧困へ突き落とされた旧ソ連圏と政治的にめざめた発展途上国の「食うや食わずの絶対主義」。このふたつの対立がいつまでも続けば、世界の分断が深刻化するのは明らかだった。このような事態を食い止め、適切に対処するためには、世界におけるアメリカの役割を定義する際、もっと高いレベルの道徳観を導入する必要があった。道徳が低いままでは、いくらアメリカが世界のリーダーを主張しようとも、その正当性が認められる見込みなどなかった。道徳を政治に持ち込み、政策の指針として利用したいなら、人道主義の観点から行動を起こさなければならない。人権問題を世界の最優先事項に引き上げ、政治意識にめざめた大衆の切望に応えなければならない。また、道徳的信条に基づく賢明な政治は、リーダーシップを発揮する際、善悪二分論を強調するのではなく、コンセンサスの形成を重視しなければならない。逆にいうと、道徳的信条に基づかない政治は、民衆扇動家の暗躍を許し、突然の危機や新たな脅威を引き起こすのだ。(52頁)

 

 以下【後編】に続く

 

  2015年8月31日

                              清宮昌章

 

参考文献

 

ブレジンスキー「大いなる失敗」(伊藤憲一訳 飛鳥新社)

同      「アウト・オブ・コントロール」(鈴木主税訳 草思社)

サミュエル・ハンチントン「文明の衝突」(鈴木主税 集英社)

フランシス・フクヤマ「歴史の終わり 上下」(渡部昇一訳 三笠書房)

中野晃一「右傾化する日本政治」(岩波新書)

田中均「日本外交の挑戦」(角川新書)

井上卓弥「満州難民」(幻冬舎)

「文藝春秋」で読む戦後70年 第一巻

海外事情7、8 海外事情研究所創立60周年

選択8月