清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再び ・植民地時代から今日まで エドウィン・S・ガウスタッド著 大西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【前編】

再投稿に際して

 

 本投稿は丁度二年前のもので、前編と後編(1月21日)からなっております。大きく変貌していくアメリカ。それはトランプ大統領が出現したことにより大きく変貌したのではなく、アメリカが唱えてきたグローバルリズムの、更には少数を大事にしなければならない、という民主主義が持つ一つの欠陥の結果なのかもしれません。

  方や、一帯一路を掲げ、中華大国への復活を進める共産党一党独裁、権力闘争が常に起こり、そして目的の達成のためには極端な報道規制言論の自由も人権も軽視される等々、その思想・価値観も大きく異なる大中国の出現です。日本には歴史問題を提起し、中国流のナショナリズムを巻き起こす、そうしたことは、今後も事ある毎に生起され、変わることはないでしょう。

  加えて、日本に対しては伝統的な、あるいは文化的な「恨み」の想からくるのでしょうか、大きな「怒り」を持つ国民を背景に登場した、筋金入の反日思想が強いと思われる文在寅大統領の韓国。並びに核・武力の誇示をせざる得ない北朝鮮という同民族の朝鮮半島。そしてユーラシア大陸のロシア。日本はそうした地政学がぶつかり合う北東アジアに位置しているわけです。方や、国内では沖縄問題に直面するという極めて厳しい、由々しき状況に日本は立たされた時代に入っていると、私は考えています。

  斯様な状況のなかで、本書は植民地時代からのアメリカを語るものです。謂わば古き良き時代のアメリカで、再投稿の意味合いはないのですが、今後の日米関係の在り方を改めて考える上でひとつの参考になるかもしれない、と勝手に思った次第です。改めて、本投稿及び後編を一覧頂ければ幸いです。

  一方、国際政治学者の篠田英郎著「集団的自衛権の思想史」、そして自らの体験を通じて書かれたジャーナリストの杉田弘穀著「ポスト・グローバル時代の地政学」を読み終わったところです。篠田英郎氏による、日本の憲法9条と日米安保の歴史的解説。更には内閣法制局、いわゆる憲法学者とは何か等々につき、私には新鮮な論述でした。方や、杉田弘穀氏により、改めて地政学とは何か、そして今後の動向、日本の在り方等々に極めて深い示唆を与えて頂きました。

 

 尚、右足を少し痛め、ここ数ヶ月はテニスを休みます。その間、読書に集中しようと思っております。わが国の平和ボケの現状に、私なりに危機をつのらせているなか、上記の両書、並びに引き続いて佐伯啓思氏の一連の著作、加えて北岡伸一著「外交と権力・日本政治史」、21世紀構想懇談会編「戦後70年談話の論点」他を読み進め、私なりの感想など改めて記してみたいと思っています。

 

 2018年1月12日

                       淸宮昌章

 

はじめに

 

 昨年9月、中国に関するある意味では衝撃的な二つの著書が発刊されました。ひとつは習近平の生い立ちと、凄まじい共産党内部の権力闘争の報告書でもある中澤克二著「習近平の権力闘争」です。もうひとつは中国の国家戦略の根底にある意図を見抜くことが出来ず、だまされ続けられてきた、とする中国専門家の、しかも歴代のアメリカ政府の対中政策に深くかかわってきたマイケル・ピルズベリー博士著「China2049」です。お読みになった方も多いと思います。中国が大国への復権・復活をどのような戦略のもとに行動しているのかを知る上で、両書の信憑性は問われるかもしれませんが時宜を得た出版と思います。

 政治体制のみならず、その歴史観も価値観も大きく異にする中国がその経済力と軍事力を背景に数世紀前の大国の復活を図る現実に鑑み、わが国は価値観を共有する諸国と更なる連携を計り、わが国のあり方・立ち位置を正に真摯に考え、行動に移していくべき時代に入ったと思っています。第二次大戦後、良しにつけ悪しきにつけ、唯一と言っても過言でなく、世界を牽引してきたアメリカが今後どのような立ち位置になるのか、あるいは立ち位置をとるのかも極めて重要な現実です。各国の個人のみならず、その国家間に事体において経済格差が拡大している現状にあって、21世紀世界はまさに混乱・混迷の時代に入ったと考えます。

 

 今年2月にアメリカ大統領予備選が行われますが、共和党候補者のひとりで、不動産王でもあるドナルド・トランプ氏がイスラム教徒のアメリカ入国を禁ずる、との発言が論議を呼んでいるようです。その現象は彼の政策よりもむしろその性格の正直さが中間層の人気を呼んでいるようにも思えます。その中間層の苛立ちもアメリカ社会の混迷の現実なのでしょう。そうした現実・現実に鑑み、2007年に日本で翻訳出版された掲題の著書「アメリカの政教分離」を今回、改めて書棚から取り出し、再読した次第です。全章に亘る解説ではありません。各章ごとに私が強く印象を受けた箇所を、またまた長く恐縮ですが御紹介いたしますので、ご容赦願います。

 

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アメリカの政教分離

 

 現在においてもアメリカの硬貨には「IN GOD WE TRUST」と刻印されているわけですが、宗教が日常の生活にも色濃く反映しているアメリカの生い立ち・成り立ち、更には今後を考える上で本書は大いに参考になると思います。本書の原題はPROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LANDで、自由とは何を意味するかを考えさせるものです。日本版「アメリカの政教分離」のタイトルはあくまで訳者が日本人向けに、本書の中身を表す為に表題としたものです。本書はアメリカの植民地時代から今日に至る憲法の修正第一条[信教の自由条項]および[公定条項]に関わる最高裁の判決文の歴史、その推移が描かれております。「訳者あとがき」を含めても150頁ですが、その内容はきわめて充実しており、改めてアメリカの生い立ちと現在を知る上で、私は参考になりました。

 

 著者エドウィン・S・ガウスタッド氏はカリフォルニア大学の歴史学・宗教学を専門とする碩学と言われている方です。尚、訳者の大西直樹氏は国際基督教大学でアメリカ文化を専門とする教授で、「訳者あとがき」のなかで、以下の通り記しています。

 

 ところで、日本語での政教分離という言葉と、その英語表記Separation of  Church and Stateという言葉の意味するところのギャップはきわめて大きい。日本語がもっている意味合い、そして大多数の日本人がこの言葉で思い描いているのは、政治と宗教が混交してはならないという理解である。つまり、それを逆に英語で表記すると、Separation of Religion and Politicsとなるだろう。ところが、アメリカにおけるこの英語のもともとの意味合いは、連邦国家と教会の分離であり、政治と宗教の混交が直接問題とされているのではない。(中略)・・州ごとに信教の自由を認め、州によって公定宗教をもつことをも認められた。又公定宗教をもたない州もありえた。このように、二重構造をもつ国家であるという特色のうえに、政教分離という概念ができあがったことを理解しておくことがまず肝要であろう。(148頁) 

 

更に「訳者あとがき」の冒頭では次のように記しています。

 

 合衆国憲法1787年に制定された、現行の成文憲法としては世界最古の憲法であり、修正条項を加えたり廃止したりしながらも、この国家の骨格を220年にわたってつくってきたのである。これほど長い生命を保ってきた理由は、最高裁判事憲法解釈が、社会的変動にある種の柔軟性をもって対応してきたためである。当然ながら、アメリカ合衆国も世界も刻々と激動しているのであるから、最高裁の判断は時代を追って揺れうごく。九人が一致した判断をくだす場合も、五対四、というきわどい僅差での分裂を含む判断もある。その判断のあり方に、この国の憲法の柔軟性と、国家そのものの変容が見てとれる。ことに、政教分離にかかわる問題にどのように答えてきたのかの判断にそれが如実に現れている。よくいわれるように、アメリカが信教の自由のために形成されたとするなら、この自由の追求と政教分離の関係はつねに緊張関係のなかで推移し、最高裁判事もこの関係のありかたに英知をかたむけてきた。(147頁)

 

 わが国を取り巻く世界の現実を無視したかのような、わが国のマスメデイアが喧伝する昨今の硬直化した憲法問題論議をあわせ考えると、彼我の違いを私は感じています。

 

 尚、本書は第1章「植民地 アメリカのなかのヨーロッパ」から始まり、第8章「エピローグ 最高裁とこれからの道」という構成です。アメリカの最高裁の位置づけについて、あまり詳しく知らない我々には第8章から読んだ方が、本書を理解できるように思います。

 

アメリカの最高裁判所

 

8章の冒頭で次のように述べています。

 

 一般に最高裁判所はかなり安定した機関だと受止められてきた。つまり、二年ごと、あるいは四年ごとに大量の新顔をうみだす選挙はない。ホワイトハウスあるいは議会の政治的統制が変化したとき、総辞職が要求されるわけではない。最高裁の判事はそれぞれ生涯の任命(深刻な不正行為を除いて)を受け、ほとんどの判事が65歳とか70歳の定年の目安をこえて奉職する。さらに、つねに成功しているわけではないが、最高裁は政府の立法府や行政府によくみられるような熱っぽい党派的行動を避けるように努めている。たとえば、合衆国大統領の年頭教書が読まれるとき、最高裁判事は正式な法衣を身につけ、特別な位置の席につく。議員たちが大統領の演説に拍手し声援をおくって中断させるのとはちがい、判事たちは大統領の演説のあいだじゅう冷静な態度を保つ。ところが、彼らの前に差し出された訴訟の審議となると、判事たちは冷静でも、まとまってもいない。彼らは対立する側の弁護士にむかって、時には鋭い質問を投げかけ、それぞれの気質のままにしばしば相手の発言を妨げる。一般人はこの部分の成りゆきをみることが許されている。ところがこの「公開法廷」が終わると、判事のあいだでの討論と調整は閉じられたドアの後ろで成され、報道人も一般大衆も出席できない。こうしてたいていは数ヶ月のちになって、意見が提出され、反対意見が記され、判決が宣言されるまで、最高裁の行動を一般大衆が目にする機会はやってこない。全国に向けて(ニューヨーク・タイムズのような)新聞がその結果を報告し、ある新聞はかなり詳細に報告をおこなう。数週間内には、図書館、ロースクール、政府文書保管庫に新刊の「合衆国最高裁判決判例集が」配布される。(139頁) 

 

 方や、奴隷解放運動の象徴的存在でもあるフィラデルフィアの[自由の鐘]は旧約聖書レビ記の聖句、[すべての国と、そのすべての住民に自由を述べ伝えよ]から来たものである。おびただしい数のアメリカ人が信教の自由こそすべての自由の基本、完全で豊かな自由のための根本的要素とみなし、この自由の保護と保全こそ 最高裁判所の特殊な責任であったこと。加えて、「黒衣の裁判官と大理石の法廷とが日常の生活からかけ離れていると感じるかもしれないが、実際はそれほど遠いところにあるのではないことを心していただきたい。われわれとしては宗教的・法的制度をよく知る必要があり、その力と同時に限界について敏感でなければならない。こと宗教となると熱心になる人びとは多い。また政治がからむと情熱的になる人も多い。民主主義とは、それを支える市民が如何に情報を分け合い、重要問題について如何に分別を持って討論し、将来のわれわれすべてのための枠組をどのように形成しるていけるかという能力にかかっている。」(4頁)と、信教の自由と民主主義の本質について極めて重要な指摘を著者が本書の序章で記しています。

 

 引き続き、本書について私なりに思うこと、感じたことなども触れながら紹介して参ります。

 

第一章 植民地 アメリカのなかのヨーロッパ

 

 アメリカの実験の真髄

 

 アメリカの宗教史を専門とする成城大の平井慶太氏によればアメリカ入植の意図は必ずしもピュウリタンが宗教的自由のみを求めていったものではなく、スパイス、金、銀更にはインドへの道を求めるといった経済的繁栄を目指したものであるとの見解をされています。

 

 本書ではピュウリタンを含めイギリス国教会、バプチスト、メゾジスト、クエカー、モルモン教、はては数々の新興宗教が信教の自由を求め13州で、あるいは各地でそれぞれの想いで立ち上げ宣教をしていったとしています。いずれにもせよ、北アメリカでヨーロッパによる植民地建設が始まったのは17世紀で、その頃のヨーロッパではプロテスタント宗教改革がいまだ100年を経過しておらず、渡来したばかりの入植者には、宗教的混乱の生々しい、痛々しい記憶が鮮明に残っていたわけです。

 

 従い、多くの入植者の親の世代はプロテスタント宗教改革に積極的に関わるか、あるいはその反対勢力のカトリックの改革運動に加わってヨーロッパをカトリックのもとにとどめ、捉えておこうと努め、互いに宗教観が精鋭化して、そこに更に忠誠心も加わり、血なぐまさい迫害や残酷な戦争を経験し、植民地であるアメリカでも魔女裁判、絞首刑等々といった迫害の経験を持ちながら、イギリス型の信教の自由がヨーロッパ型の単一国家教会形態にとって代わっていったわけです。そしてこの章の最後で次のように記します。

 

 18世紀の最後の四半世紀にはアメリカ革命のよって、こうした個々の植民地の暫定的な動きすべてが、模範とすべきモデルと目されるようになった。革命そのものが、明確に市民と信教の自由の達成に懸けていた。そして、植民地の多くの人々の目には、すべての中でもっとも切実な自由である魂の自由が保障されなければ、政治的自由といっても意味のないことがみえていた。しかも政治的暴君が王座にある限り、信教の自由は安定しない。あるいは、ジェイムス・マディソンが言うように、「旧世界では、宗教的対立を消すために世俗の武器による空しい努力によって、激流となるほど血が流された。・・・時がついにその本当の治療法を明らかにした。」のである。その治療法とは、新しき独立した国家における完全な信教の自由である。これこそが、「アメリカの実験」の心髄であったし、現在においてもそうありつづけているのである。(18頁)

 

 

第二章   新しき国家 アメリカの実験

 

 アメリカの独立とは何を意味したのか

 

 アメリカ革命から二世紀以上が経過してみると、この独立戦争が政治的自由だけでなく、信教の自由のためにも戦われたのだと信ずるのはむずかしい。植民地の住民は大英帝国の政治的専制君主に対する対抗を宣言したが、しかしその意味でどんな勝利があっても、もしアメリカ人が良心の自由を完全に享受できなければ、勝利はむなしかったことだろう。イギリスは歴史的に見ると、本国においても海外においても、その政治的意図と宗教的意図を並行してすべての臣民に押し付けていたが、1760年代と70年代、アメリカ人の多くは本国からの独立が達成されたならば、決してそうはさせない、と決心していた。(21頁)

 

 そしてこのアメリカ側の決意が最初に現れているのは、イギリス国教会の主教が植民地内に定住することへの拒絶であり、主教と彼らの宮廷を支えるために(イギリスでのように)税金を徴収されることの拒否に表われている、と述べています。我々にはなじみある印紙税法反対に端を発したボストンの紅茶事件もそのひとつ実例でありましょう。強力な海軍と陸軍を持った当時の世界の大国であるイギリスに、常設の陸軍も海軍も持たないアメリカが1776年の独立戦争に向かわせたのは市民的・宗教的自由を求める情熱的な献身がすべてであった分けです。 

 

 こうした背景の中で「1787年、合衆国憲法が13州のうち9州が批准に十分な賛成票を得て成立した。・・ただし宗教的少数者の多くは強力な中央政府が彼らの自由にとって何を意味するのか、あからさまに心配していた。」(33頁)    

 その憲法において宗教に言及しているのは第6条のたった一語、合衆国のどの役職、あるいは公職につくときも、資格として宗教審査を課さない、という否定的文脈においてのみで、他の基本的自由と並んで宗教には完全な自由を与えておらず、その後、諸州で論議がされ1791年に連邦議会は宗教の公定化、あるいは宗教活動の自由を禁ずる、いかなる法律も制定してはならないという修正条項を加え、この修正条項がその後200年以上にわたって最高裁やその他の法廷を支配することになった。その意味合いを理解しておくことが肝要であると、著者は指摘しています。

 

 すなわち議会は宗教を公定化する、いかなる法律も制定してはならないという公定条項と国家政府に、ひとの宗教的献身あるいは信仰を、妨害したり抑圧することは何も出来ない自由行使条項という、信教の自由には二重の保障を与えているわけです。そして今日に至るまで「法廷と教会、一般市民がこのふたつの条項と何度も格闘し、全員の一致あるいは議論の余地なしのひとつの解釈に至ること(すくなくとも最近何十年のあいだは)きわめてまれなのである。」(35頁)と、この章を纏めています。

 

以下【後編】に続く

 

2016年1月12日

                                                                                            清宮昌章 

  参考文献

 エドウィン・S・ガウスタッド「アメリカの政教分離」(大西直樹訳 みすず書房

マイケル・ピルズベリー「China 2049」(野中香方子訳 日経BP社)

中澤克二「習近平の権力闘争」(日本経済新聞出版社

平井慶太「アメリカの歴史と社会」(武蔵大ゼミ講義録)

工藤庸子「宗教VS・国家」(講談社現代文庫)

中村雄二郎「宗教とは何か」(岩波現代文庫

末松文美士「日本宗教史」(岩波新書

サミュエル・ハンチントン分断されるアメリカ」(集英社)他

 

 

「アメリカは忘れない・・記憶のなかのパールハーバー 」(法政大学出版局)       エミリー・S.ローゼンバーグ 訳飯倉章を再読して

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再投稿に当たって

 

 今日は12月8日、いわゆる太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の日に当たるます。アメリカでは、どのように「パールハーバー」を捉えたでしょうか。

2001年9月11日のWTCビル倒壊等のアメリカ同時多発テロが起こり、「リメンバー パールハーバー」が改めてアメリカで復活したのです。

 

 全くの個人的な思いですが、40数年前のニューヨーク駐在時代、アメリカ現地法人本社事務所はあの倒壊したワンワールドの20階で、6年間、ほぼ毎日、通いました。ツインタワーが倒壊していくテレビ映像他を観ているなかで、ワンワールドのオフィスでお世話になった日本人医師の安否を心配しておりましたが、その時間帯には倒壊したビルにはいなく、偶々、ミッドタウンにおり無事との報道に接しました。方や、亡くなられた日本人24人の中には知人もおりました。尚、私の居間には、今でも、クウィーンズ側から描いたブルックリン・ブリッジのウェッジング画が飾られており、その背景には倒壊前のツインタワーが描かれております。

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 本投稿は6年ほど前、2015年12月21日に投稿したものです。私としてもアメリカではパールハーバーは何を意味したのか、本書を改めて読み直しています。

 21年12月8日

 

 はじめに

 

 今年の10月、加藤典洋著「戦後入門」が発刊されました。新書版としては635頁に亘る異例の分厚いものです。中身の濃い、いわば研究書・論文の発表といったものです。何故に広島、長崎への原爆投下であったのか、更には現日本国憲法への視点・観点に興味深いものを感じました。ただ僭越になりますが私にはいささか承服しがたい箇所が数多く、後味の悪い著書でした。加藤氏の観点に思想の違いといったものを感じたのかもしれません。

 

 そうした中、今から8年前に取り上げた掲題の「アメリカは忘れない」の再読もそれなりの意味があるかもしれないと思った次第です。本書は2003年にCopyright、2007年2月28日に翻訳出版されました。原題はA Date Which Will Live:Pearl Harbor in American Memoryとなっています。訳者の飯倉氏が記すように、直訳すれば「いつまでも記憶されるであろう日付」という意味です。原題はアメリカ人にローズヴェルトの演説を連想させ、まさに記憶を喚起するものですが、日本人にはなじみが薄く、そこで「アメリカは忘れない」との題名にしたとのことです。尚、著者は本書で再三指摘しておりますが、アメリカが日本の「恥知らずな蛮行」を忘れないことを強調するものではなく、パールハーバーは今では、日本との関係よりも、アメリカの国内問題を強く反映するようになっていると記しております。

 

 著者はカリファオルニア大学の歴史学科の教授で、アメリカの社会史、文化史、対外関係史を専門とする女性歴史学者です。氏によればPearl Harborはアメリカ社会では西部開拓史上のカスター中佐の第七奇兵連隊がシッティング・ブル率いるインディアン軍に破れる最後の戦い(1876年)、更にはテキサスの独立に際しての、1836年の全滅したアラモの守備隊の抵抗と同じように歴史的記憶、聖像(アイコン)として生き続けてきた、と述べております。従い正義とか道徳を象徴するといった面ではパールハーバーは我国の仮名手本忠臣蔵的な要素を持っているのかも知れません。

 

 本書に接し、私としては「Remember Pearl Harbor」がアメリカ内で何を意味するのかを改めて認識したところです。本書は第一部「パールハーバーの意味づけ」(攻撃後50年間)、及び第二部「1991年以降のパールハーバーの復活」から構成されております。

 

第一部 パールハーバーの意味づけ

 

「はじめ」の章で著者は、次にように記しています。

 

 本書は何か衝撃的な真実を暴露すると主張するものでもなければ、そういうことを目的としているものでもない。むしろ本書では、パールハーバーという聖像を中心として、過去に関するさまざまなストーリーが、アメリカ文化のなかで、かたちづくられてきた過程に注意を払いたい。文化史の研究として、本書では、専門家による歴史と通俗的な歴史、記念物、公式声明、インターネット、映画、新聞雑誌、その他のメディアを通しての、多様な意味の流布について分析を行う。本書では、歴史と他の形態の公的記憶、本物の過去の解釈を発見するための方法ではなくて、絶えず変化しつづけ、必然的にメディアを介して操作された、過去の表象を構成する方法をめぐる論争の場であると理解する。(6頁)

 

 そして第一部・第一章「恥知らずな蛮行」の冒のローズヴェルト大統領が日本帝国に対する戦争に共に参戦すべく行われた演説に関し、

 

 恥知らずな蛮行という言葉が、その演説のテーマーとなったローズヴェベルトは、国益を守るためとか、日本の帝国主義的な野望を阻止するためとか、中国における日本の残虐行為の敵討ちをするためとか、独裁者の三国同盟による侵略に対して断固として立ち上がるためといった理由で、アメリカ国民に開戦を求めはしなかった。彼はアメリカ国民に、民主主義や文明を救うよう求めはしなかった。・・(中略)1930年代、アメリカには、強力な反戦的、孤立主義的、反ウィルソン主義的な感情が満ちており、このようなテーマーは政治的にも不都合なものとなったローズヴェルトは、議会に対するこの最初の演説で、ウィルソンの参戦教書の模倣を避け、その代わりに、恥知らずな蛮行という単独な準拠枠を採用した。それは、アメリカ人のフロンティアでの戦いという文化的遺産に密接に関係している、レトリックの伝承であった。(中略)所謂アメリカでもっとも褒め称えられてきた西部開拓史時代の伝説を思い起こさせるように物語を構成した。(18、19頁)

 

 と分析しております。そして引き続き、第二章「裏口参戦の策謀」、第三章「人種表象と日米関係」、第四章「犠牲の記念」の中でパールハーバーがアメリカ社会の中でどのように位置づけられ語られてきたのかを詳細に記しています。

 

 パールハーバーは多くの文化的なコンテクストにおいて、利用可能な聖像およびレトリックの供給源として役立った。パールハーバーは、戦争に対する軍事上の備えに関する議論、行政府の権力と党派的な政治についての討論、日本との二国関係、およびさまざまに解釈される記念の行為におい異彩を放った。パールハーバーという用語は、いろいろなアメリカ人のグループが選択に基づいて呼び起こしたり戦ったりした、多様な物語と教訓の省略表現として、レトリック上、役に立った。それにもかかわらず、12月7日の出来事に対する世間一般の注目は、年月を経るについて徐々に失せていったようだった。パールハーバーの記念日は、小規模な出来事に過ぎず、全国的なメディアではかろうじて言及されるに過ぎなかった。(119頁)

 

 そうした経緯があるのにかかわらず、1990年代にさまざまな国際的、文化的、政治的な事情から再びパールハーバーが表舞台に表われ、第二部に続いて行きます。

 

第二部 1991年以降のパールハーバーの復活

 

 第五章「二国間関係(パールハーバー半世紀記念日と謝罪論争)」、第六章「回想ブームともっとも偉大な世代」、第七章「キンメルの名誉回復運動、歴史戦争、そして共和党の復活」と続き、第八章「日系アメリカ人」と詳細な幅広い歴史状況に言及していきます。そして第九章「スペクタルな歴史」の中で、

 

 『パールハーバーの記憶は、2001年夏までにはアメリカ文化においてとても目立ち、いたるところに見られるようになっていたので、この地球に異星人が来たなら、パールハーバーが爆撃された直後であると思い込んだかもしれない。映画「パールハーバー」の初上映から四ヶ月以内のうちには、これらの新鮮になった記憶が、事実上、合衆国のニュースの見出しのすべてに戻ってきたのだった。』(247頁)と述べ、第十章「恥知らずな蛮行の日(2001年9月11日)」へと敷衍していきます。

 

20019月11日(アメリカ同時多発テロ・WTCビル倒壊)

 

 この章の始めで、著者は「まったく予想だにしなかったことの渦中にあっては、何かおなじみのパターンを識別したり、記憶のなかで共有され再編成された過去の慣れ親しんだものを呼び起こし、現在の落ち着かない状態をなじみやすいものにすると、安心することができるのかも知れない。パールハーバーのストーリーじたいが、以前の開拓時代における挑戦と勝利の伝説という伝統的手法の中から、かたちづくられたものだった。最後の抵抗やアラモがパールハーバーに対応したように、今ではパールハーバーが9・11に対応しているのである。広く認識された聖像となるような脅威と危害の話は、愛国心を奮い立たせ、男性的な道徳的美点を並び立て、不安に満ちた国民に最終的な正義の勝利を約束する作用を果たした。しかし、パールハーバーのストーリーは又、もっと複雑な問題を提起するか可能性があった。それは、謀報活動の失敗の責任をどこに負わせるかという問題と、移民社会と国家との関係についての問題であった。」(250頁)、と指摘しています。そして、

 

 『(前略)9・11後にパールハーバーを引き合いに出すことは、幅広く人気を博して広まり、そのことは第二次世界大戦との類似をあまりにも徹底的に促進したので、ヴェトナム戦争で使われた「泥沼」とか「しっぺ返し」といった言葉は、あたかも魔法のように当初は消え失せた。(中略)2001年9月に、記憶と意味は、突如として新鮮で悲劇的なコンテクストを帯びた。パールハーバーは9・11の諸々の解釈と共にテキストの相互関連の中で、「生きつづける日付」となったのである。』(269頁)と記し、最終章を次のように閉じています。

 

 結局のところ、将来の教訓的な指針としての歴史の強調や、最終的な「真実」の暴露を約束するという点で、パールハーバーのスト-リーは、自然と社会の知識のあらゆる分野における幅広い知的な思潮に反対することに、しばしば力を尽くしている。そのような思潮の大部分は、関係性があり、立場により変わる、不安定な意味を強調している。まさに安定化された歴史/記憶と言う仮定は、歴史もしくは記憶と言う概念そのものに反している。(中略)本書は、アメリカのメディア文化に巻き込まれ、そのなかでとどまることなく再三流布されてきた、ある聖像(アイコン)に焦点を当てた。本書では、過去の現実を暴き歴史的な意味を安定化させようと一般的に努める、暴露的な事件中心の伝承に反対することに力を尽くそうと試みた。60年を超える、多様なメディアにおいてさまざまなパールハーバーの意味を吟味することによって、本書は暗黙のうちに、(中略)思い出としてではなく、現在のなかにある全般的な「そして変わりつづける」過去の構成として、記憶に関心を寄せる歴史、すなわち第二段階の歴史である。(271頁)

 

 以上、本書の構成と、私なりに興味深く感じたことを著者の文章を多用しながら長々と紹介して参りました。興味・関心事は人により異なり、あるいは何を感じるかは別になるのかもしれません。私にとっては、本書はアメリカ社会、文化の中で「Remember Pearl Harbor」が何を意味するのか、大いに参考になったところです。一読をお薦めいたします。

 

 2015年12月21日

                             清宮昌章

 参考図書

 加藤典洋「戦後入門」(ちくま新書)

 他

 

 

 

再・昭和天皇について思う

再・昭和天皇について思う【後編】

 

2 章 山本七平裕仁天皇の昭和史」

 

 山本七平は三代目キリスト教徒でもあり、幸徳秋水大逆事件に関わった姻戚を持つ人でもあります。「山本学」とも評される独自の世界を築いてきた方ですが、一時は保守反動の元凶ともいわれておりました。現在でもそうした評価かもしれません。ご承知のように同氏は「現人神」という状況の中、砲兵少尉としてフィリピンで生死をさまよいながら転戦し、マニラの捕虜収容所を経て帰国し、一時は身を隠していたとのことです。むのたけじが敗戦後、朝日新聞社を辞め、秋田県横手で家族4人でタブロイド判「たいまつ」を立ち上げたことを、私はふと思い起こすのです。山本七平もその後、「山本書店」を独りで立ち上げ、「日本人とユダヤ人」、「私の中の日本軍」並びに「一下級将校の見た帝国陸軍」他三部作、更には「静かなる細き声」等々を著していきます。

 本書「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)は昭和天皇崩御される数年前から執筆を開始し、前編に言及した「天皇独白論」が公開される前年の昭和64年1月7日に完成されていました。そして、その2年後の平成3年に同氏は亡くなられましたが、本書のまえがきで、「本書が『昭和』を考え、『昭和天皇』を考える場合の、何らかの参考になってくれれば幸いである。」(同書5頁)と述べています。以下、本書の概略と言うよりは、私が本書の中で興味深く感じた、いくつかの点を以下、挙げて参ります。

 

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その 1 天皇の自己規定

 

 本書は第1章・天皇の自己規定から、戦争責任をどう考えるかを問う第14章・天皇の功罪、そして終章・平成への遺訓から成り立っています。その1章で、なぜ、天皇は開戦を阻止できなかったのか。終戦の聖断をなぜ遅らせたのか等々の天皇の戦争責任論に対し、そうした論議の前に「天皇の自己規定」の研究が当然ながら必要ではないのか,と鋭く指摘します。と共に日本の報道機関、マスコミに対し次のように指摘しております。

 

 ファシズムへの憧れがいつ頃から生じたか。大体、昭和6年ごろからで、これが昭和11年のベルリン・オリンピックのころ最高潮となる。この年こそ2・26事件の年、そして日独防共協定締結の年である。どうしてこのような状況になったのか。当時のマスコミのファシズム賛美を、後のソ連賛美、中国大躍進賛美、文化革命賛美、更にベトナム賛美、北朝鮮賛美などと比べ、いま振り返って見れば、真に「例によって例の如し」と言う感じがする。(同書155頁)、と今もって変わらないマスコミのあり方・その現状を批判しているわけです。

 

 昭和天皇について、そのまえがきで「考えて見れば全く稀有の存在である。人類史上おそらく前例がなく、今後も再びこのような生涯を送る人物は現れまい、と思われるのが昭和天皇である。」(同書3頁)、と述べています。山本七平はその天皇の自己規定について憲法絶対の立憲君主であろうとした姿を描いています。その自己規定は明治大帝が定めたことであり、その制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされたこと。その制限を越えてしまったのは、2・26事件の時にルールを飛び越え、臨時首相代理を任命し、直ちに暴徒の鎮圧を命じたこと。及び終戦時のいわゆる聖断を立憲君主としての道を踏み違えた、そのふたつを天皇は悔やんでいた、と述べています。この指摘は多く諸氏の見方とは大きく異なるものになるのではないでしょうか。

 

 山本七平によれば、昭和天皇憲法意識にはその前提である「五箇条の御誓文」を根本理念としており、その第一条・広く会議を興し万機公論に決すべしであり、万機天皇之を決すべしではない、との強いこだわりを終生もっていたこと。その現れの一つとして終戦後の「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」の冒頭に五箇条の御誓文をあげている、との指摘です。では、その自己規定は何処で育まれたのかについて第二章以下、天皇の教師たちの像へと敷衍していきます。

 

その2 天皇の教師

 

 昭和天皇は小学校を学習院で学ばれ、その後は宮中の御学問所で6人の学友と7年間、当時の7年制高校と同じ期間でありますが、そこで教育を受け、その教師陣がその後の天皇の自己規定を育んでいった。そのひとりは博物を担当した服部広太郎博士で、崩御される直前まで天皇が生物学への関心は失わなかったことも、その自己形成の重要な要素に挙げています。更に歴史は日本における歴史学の祖である白鳥庫吉博士で、その白鳥博士の学問を継承したのは津田左右吉博士であること。そして最も影響を与えたのは倫理担当の杉浦重剛である、と述べています。

 

 杉浦重剛は私にはなじみのない人ですが、イギリス留学の科学者で儒者の家の出身であります。近江藩の藩校の他で漢学と洋学を学んだ後、後の東大となる江戸の番所調所で、オランダ語、英語、フランス語、さらにはドイツ語等まで学び、イギリスのマンチェスターのオーエンス・カレッジに留学します。科学を専攻し、猛勉強を続け、イギリス人も当然いる中で首席になったと紹介しております。帰国後、東大で一時は教鞭をとるものの、その科学で身を立てるのではなく、政界に身を置くことはあってもすぐ退き、私立英語学校を設立し、その後も中学校の校長として教育と言論の世界に身をおきました。もはや世間からは忘れられた存在であったようです。その後、東宮大夫になった元東大総長の浜尾新に推挙され、御学問所の倫理の教師となりました。

 その杉浦の思想は日本で発達した日本固有の儒学と、ヴィクトリア朝的なイギリス思想の集合であり、「力とは道徳・仁である、それが国家の興廃を決める。」この道徳・仁こそ最大多数の最大幸福とするベンサム流の杉浦の思想に天皇は影響を強く受け、三代目の守成の名君として教育されます。一方、ロンドン留学で培った杉浦の影響か、天皇は独伊ではなく英米に親近感を持っていたとしています。従い、ナチスばりの大政翼賛会の総裁になるような点においても、近衛文麿に信頼感をもてなかったようだった、と記しています。

 

 尚、「三種の神器」については天皇終戦時もこだわっていた、と吉田裕氏他は述べています。方や、山本七平は杉浦が倫理御進講草案に「三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以って至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知・仁・勇の三徳を示されたるものなり」(同書67頁)と、三種の神器非神格化を記しています。果たして天皇自身の認識はどうであったのでしょうか。そのことも改めて今後も研究すべき事柄なのかもしれません。

 

その3 戦争責任

 

 本書は上記の各章に続き、捕虜の長としての天皇昭和維新、2・26事件の首謀者・磯部浅一天皇への呪詛、北一輝の妄信の悲劇、人間・象徴としての天皇等々、と論を進めていきます。そして第14章・天皇の功罪・そして戦争責任をどう考えるか、に至るわけです。

 

 先ず、山本七平は歴史上の功罪を論ずることの難しさをあげ、江戸時代が評価されるようになったのも最近のことであると指摘しています。時代時代が相当に恣意的な評価を下すことは山本七平自身が経験している、と述べています。その上で、天皇は戦争を止められるのに、なぜ止めなかった等々の戦争責任論に対し、天皇は憲政の伝道師という認識はなかったものの、憲法の遵守を明治天皇の遺勅どおり、それこそ一点一画をおろそかにしない生真面目さで生き抜かれた人類史上、初めて行なった人だったのではないか、と見ております。

 

 加えて、「元来『憲法』とは君主の権力を制限し、実質的には無権力の存在にしてしまうのだからである。したがって国王と憲法の衝突、換言すれば議会との衝突は憲政が定着するまでいずれの国でも起こっており『立憲君主国の模範』のように言われているイギリスでも例外ではない。」(同書330頁)、と指摘しているわけです。

 

 では、その戦争責任とは何を言わんとしているのか、言葉をより明確に言うならば戦争責任ではなく敗戦責任を問うているのであろう。また天皇憲法上の責任を問うているのでもなかろう。なぜならば明治憲法第5条は現代語訳にすれば、「天皇帝国議会の可決した法律に対して拒否権を有せず」、同じく55条は「天皇は閣議の決定に対して拒否権を有せず。また閣議に出席し発言することを得ず。すべて法律・勅令・その他国務に関する詔勅は、国務大臣の副署なきものは無効なり」と規定されており、むしろ「憲法上の責任を問うことはできない」ことをはっきりしておくことが先ず以って重要である。従い敗戦責任論の意味合いは、戦争は「天皇の御ために」と実践し、天皇もそれを知っているはず、だから天皇はその責任を自覚してほしい、ということであろうと分析・解説しています。

 

 昭和50年10月31日の天皇訪米後の記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から、「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいたします。」(同書345頁)、との事前に提出のない質問に対し、天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えが出来かねます。」(同書346頁)と応えているとのことです。その上で、山本七平は最終章で次のように述べます。

 

(前略)・・「言葉のアヤ」とは、相手の質問について言っているように思われる。天皇は意味不明瞭で相手をごまかすことはされたことがない。それを考えると、これは問答で、相手は「・・・どのように考えておられるかお伺いします」と聞いているのだから「お答えしたいが、それを答え得るそういう言葉のアヤについては・・・」の意味であろう。これならば天皇が何を言おうとしたかはわかる。天皇政治責任がなく、また一切の責任もないなら、極端な言い方をすれば、「胸が痛むのを覚える」はずがない。さらに8月15日の戦没者慰霊祭に、痛々しい病後のお姿で出席される必要はもとよりない。しかし、「民族統合の象徴」なら、国民の感情と共鳴する感情を持って慰霊祭に臨まれるのが責任であろう。戦争責任が一切ないならば、その必要はないはずである。ただこれは、津田左右吉博士の言葉を借りれば、戦前・戦後を通じての民族の「象徴」の責任であって憲法上の責任ではない。そのことを充分に自覚されていても「文学方面はあまり研究していないので、そういう(ことを的確に表現する)言葉のアヤについては、よくわかりませんから、お答えが出来かねます」と読めば、天皇の言われたことの意味はよく分かる。注意すべきは「お答え致しかねます」ではなく「お答え出来かねます」である点で、天皇は何とかお答えたかったであろう。ここでもう一度、福沢諭吉の言葉を思い起こそう。「いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事」・・長崎市長の発言(昭和史によれば天皇が重臣の上奏を退けたために終戦が遅れた、天皇の責任は自明の理。決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった)を政争に利用するなどとは、もってのほかという以外にない。尾崎行雄は「まだそんなことをやっているのか」と地下であきれているであろう。それがまだ憲法が定着していないことの証拠なら、その行為は、天皇の終生の努力を無駄にし、多大の犠牲をはらったその「功」を、失わせることになるであろう。(同書348頁)

 

むすびにかえて

 

 以上、世代の異なる、また思いも異なる三氏の著を通して天皇の戦争責任を私なりに見てきたわけです。山本七平天皇の戦争・敗戦責任を先ず以って天皇の自己規定に立ち返り見て、その上でその責任論を問うています。氏が述べるように天皇の歴史的功罪を論ずるのは難しく、否、或いはいまだ早いのかもしれません。僭越な物言いですが、物事をとらえる氏の観察眼の鋭さの知性と共に、ある種のさびしさ、孤独感を私は感じます。そして、その度に私はいつも襟を正させられます。冒頭にも紹介したように本書「裕仁天皇の昭和史」は平成元年1月に著されたものですが、山本七平の一連の著作は今以て輝き続けている、と私は考えています。

 

 2015年11月23日

                            清宮昌章

 

 以上は二年前の投稿です。本論は変わりませんが、時間の経過もあり、加筆及び若干の修正をしました。近々、生前退位が行われようとしている現在、改めて本書「裕仁天皇の昭和史」を一読されることをお薦め致します。尚、山本七平の著作は私なりに読み通しておりますが、2017年7月に東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」が発刊されました。山本七平をより識る上でも、又、上記の長々と取り上げたことにも関連致しますので、以下、本書にも触れて参ります。

 

補論・東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」

 

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  著者は本書のプロローグで次のように述べています。

 本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。(13頁)

 

 尚、今回、私が取り上げた山本七平の「裕仁天皇の昭和史」(初版は昭和天皇の研究)を東谷氏は第七章「戦後社会と昭和天皇の研究」で取り上げています。少し長くなりますが、以下ご紹介致します。

 

 山本七平の『昭和天皇の研究』(祥伝社 1989年)を初めて読んだとき、かなり強い違和感をおぼえた。その前に前章で取り上げた『現人神の創作者たち』を読んでいたので、当然、展開されるであろうと思っていた天皇制への批判や憎悪が、ほとんどなかったことが何より大きかった。・・(中略)ところが『昭和天皇の研究』は、あっさりと昭和天皇立憲主義的な性格を受け入れてしまい、「現人神」の教義ゆえに生じた犠牲への責任は、示唆こそ合っても、まったくといってよいほど論じられていないのである。(212,213頁)

 

 続いて、著者は「昭和天皇の『二つの例外』を通じてあきらかなるのは、一度も正式に表明されたことのない『現人神』が政治の中心に押し上げられることで、政治制度がいつのまにか政策決定者たちが決断のできない欠陥制度に頽落していたことである。そして七平は明示こそしないが、昭和天皇の『自己規定』を称えながら、その半面である重臣たちの『政治責任の放棄』を示唆しているともいえるのである。」(234頁)、と記しています。そして7章を次のように記し終えています。

 

 問題はこうした立憲君主制天皇との関係が、戦後はどうなったということだろう。天皇は象徴とされ、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によるものになったことはたしかである。しかし、かっての「御内意」「御希望」「内奏」はなくなったのだろうか。

 そうではない。それはいまも宮内庁内にあり、しかも、それらが高度に発達した大衆社会に直接に公表されるという事態が生じている。いま国民が直面している課題は、この新しい事態が象徴天皇制に何を生み出すかを予測し、そしてその事態にどう対応していくかということに他ならない。

 いまの宮内庁は、かってなら庁内にとどめおかれた「御内意」「御希望」「内奏」に相当するものを、安易にマスコミを通じて「外」にさらす傾向が強まっているとの印象を持たざるを得ない。それは戦後の象徴天皇制の「変質」を招く危険性があるもので、実は宮内庁の職員が判断すべきものではないはずなのである。(238、239 頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私は考えさせられました。そして東谷暁氏は次のように本書を閉じています。

 

「人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、既に別の位置へと一歩進んでいるのである。人が『空気』を本当に把握し得たとき,その人は空気の拘束から脱却している。」これからの日本の運命は、この七平の言葉を、どこまで深く理解するかにかかっているのではないだろうか。(282頁)

 

 2017年11月1日

                            淸宮昌章

参考文献

 山本七平裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)

 山本七平「戦争責任とは何処に,誰にあるのか」(さくら舎)

 東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」(講談社現代新書

 他

 

再・昭和天皇について思う

 再・昭和天皇について思う【前編】

 はじめに

  高齢になられた現天皇陛下並びに皇后陛下の御活動に国民が感謝し、そしてその賛意の空気なかで、生前退位がされる運びのようです。方や、私は今後の象徴としての天皇家のご活動はどのような状況になられるのか、一抹の不安を覚えています。現天皇並びに皇后陛下は皇太子時代から昭和天皇の、正に贖罪の道を歩んでこられたとの心象を私は思っておりますので、後を引き継がれる新天皇陛下並びに新皇后陛下はどのようなお姿になるのでしょうか、との想いです。もっとも天皇皇后陛下が国民の前に御一緒にお出になられたのは、この戦後70年間しかなく、むしろこの70年間が例外であって、私のそのような想いは杞憂なのかもしれません。  

 

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 弊著「書棚から顧みる昭和」の中でも、「昭和天皇について思う」の一章を設け、私なりの感想を記してきました。又、私の書棚にも昭和天皇との表題がある本は文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」、保坂正康著「昭和天皇、敗戦からの戦い」、古川隆久著「昭和天皇」、青木冨美子著「昭和天皇とワシントンを結んだ男」、加藤陽子著「昭和天皇と戦争の世紀」、伊藤之雄著「昭和天皇伝」等々あり、それなりに目を通して参りました。加えて、昨年9月9日に「昭和天皇実録」が公開され、更に昭和天皇に関する数多くの著作等が現われ、従来にまして昭和天皇に関する研究が深まるものと思われます。尚、最近発刊された原武史著「昭和天皇実録を読む」のなかでは、「木戸幸一日記」等の一次資料と今回の「昭和天皇実録」との違いを示しております。昭和天皇の退位問題、更にはカトリックへの接近等を含め、興味深い指摘があり、私には新たな思いが加わったところです。

 

 そんな状況に引きずられたのかもしれませんが、改めて私なりに昭和天皇への思いも記しておこう、と思ったわけです。加えて、この半年間にブログ「清宮書房」でも広田弘毅近衛文麿を取り上げてきたことも関連しますが、天皇制もしくは昭和天皇の戦争責任等々を私なりにもう少し考えておきたい、私なりに心の整理もしたいと考えました。そして今年の8月15日、戦没者慰霊の際の天皇のお言葉が出る一日前の14日、安倍首相が戦後70年談話を発表したのは、そうせざるを得ない状況、いわば官邸側の政治的配慮が必要であったのでしょう。天皇は象徴のみならず、原武史氏も付言しているように、今以て日本の政治に大きな影響を及ぼしている現実があるわけです。尚、本題との関係からは蛇足の感は否めませんが、保坂正康氏の新刊書「昭和史のかたち」は氏独特の幾何学的発想をもって昭和の姿を示そうとしております。新たな観点であり、なるほどと思ったところです。

  ただ、本書の中では、言論人,マスメデイアの過去、現在のあり方には全くといっていいほど言及されていないことにある種の奇異を感じます。加えて、安倍首相を歴史修正主義者と断定されること。さらには「戦後70年目の節目に無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている。それほどこの70年は脆くはないぞとの思いや、そう簡単に崩してはならないとの動きも徐々に顕在化してきて、やがてうねりを生むような感もする。この時代のその精神を大切にしたい。」(本書186頁)、と本書を閉じています。真に僭越になりますが、私はそうした指摘には強い違和感を持っています。

                   

 今から5年ほど前になりますが、昭和天皇に関し私なりの駄文を某読書会に発表いたしました。対象は1921年生まれの山本七平、1935年の中村政則、1954年の吉田祐氏です。それぞれの思考或いは思想と言えるかもしれませんが、相反するよにも思われる三氏の著書について、私なりに感想を交え紹介したものです。改めてその駄文を見直し、この5年間で何が起こり変わったのか、あるいは変わらないのか、時の推移の中、若干の修正を加えてみました。

 

1 章 中村正則「戦後史」と吉田祐「昭和天皇終戦史」

 

その1

  中村政則は今年8月5日に逝去されましたが、日本近現代史を専攻する学者です。その「戦後史」のなかで、占領と新憲法、その過程での東京裁判等々を含め、戦後の流れの60年間を淡々と述べ、60年間とは何だったのかを問います。分岐点のひとつ目は1950年代前半の講和論争とサンフランシスコ講和条約日米安保条約の締結。二つ目は高度成長とベトナム戦争の時代。三つ目はオイルショック沖縄返還ニクソン・ドクトリン、日中国交回復、第一回・主要先進国首脳会談の参加といった1960年代。そして四つ目は1989年11月のベルリンの壁の崩壊、それに続く91年のソ連邦の消滅を上げています。

 私にとって、改めて戦後60年間の流れを整理する上で、その「戦後史」は大いに参考になった著書でした。そして今年、戦後70年が種々論議を呼んでいるわけですが、ではこの10年間はいったい何だったのであろうかを考える上で、読み直しの必要性を感じたわけです。

 

 尚、本書の中で戦後が未だ終わらないとする中村政則の考え方の背景には、「マッカーサー天皇の政治共生が始まった。しかし昭和天皇が退位もせず、また自らの戦争責任について何も語らずに終わったことは戦後日本史、特に日本人の精神史にはかりしれないマイナスの影響を与えたと私は考える。なかでも日本人の戦争責任意識を希薄化させただけでなく、指導者の政治責任、道義的責任の取り方にけじめがなくなった。」(同書31頁)、という氏の思いがあります。そうした考え方の根底には昭和天皇のアジア軽視と共に天皇の贖罪意識の欠如に、氏のひとつの思いが在るように私は感じています。では昭和天皇自身はどういう存在であったのか。果たして戦争責任を取れる政治状況であったのか。或いは取れる環境、いや可能性があったのか。更には天皇自身の自己規定はどうであったのか等々、については本書では述べられてはいません。むしろ敢えて述べずにしたのかもしれません。

 

その2

  一方、吉田裕氏は本書「昭和天皇終戦史」の中で、敗戦の年から10年近く後に生まれ、天皇の存在そのものをほとんど意識することなしに、幼年期、青年期を過ごしてきた。従い、その後に生まれた若者とも異なり、いわば天皇の存在と最も遠いところで自己形成をとげた世代であると述べています。その意味で本書は、いわば純粋戦後派世代が書いた昭和天皇論なのでしょう。

 

 では何故に吉田氏がこの書を著すことになったのかについては、日本の占領期の日米関係を研究している過程で、東京裁判を従来の東京裁判論とは別の観点から見る必要を感じていたこと。その途上で、1990年11月7日、8日の「昭和天皇独白録」に遭遇し、改めて天皇にまつわる戦後史を調べることに繋がっていったように思います。

 

 その「独白録」は敗戦直後の1946年3月から4月に亘ります。宮内大臣・松平康民、宗秩寮総裁・松平康昌、宮内省御用掛・寺崎英成、内記部長・稲田周一、侍従長・木下道雄という5人の側近達の前で昭和天皇が戦争の時代を回顧し語った内容です。その信憑性も問題としなければなりませんが、その全文を発表した文藝春秋の編集者が下記の一節をもぐりこませているとのことです。

 

 「『独白論』は『天皇無罪論』を補強するため天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられる。あるいは逆に、昭和天皇みずからが昭和を回想し後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される。他から強いられたとは思えない率直なお話しぶりから、そのお気持ちが伺える。・・(中略)いずれにもせよ、この『独白録』がいかなる目的のもとに作成されたものであるかは、昭和史研究家の分析を待たなければなるまい。」(同書5頁)、とその時代の背景を改めて吉田氏は言及しているわけです。この「独白論」は宮中グループが天皇の戦争責任を如何にして回避させるべきか他、寺崎英成を含め興味深い事象をも記されております。そのことは原武史著「昭和天皇実録を読む」と符合し、改めて印象に残りました。

 

 尚、吉田氏による近衛文麿の人物像は服部龍二山本七平他の諸氏から見た人物像とは異なり、当時の保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚を持っていた人物として評価していること。更には、戦後の展開、皇室と天皇個人のあり方をも視野に入れる優れた人物として見ていることはに私に意外感を持ちました。尚、その近衛文麿にしても戦争責任については太平洋戦争のみで、アジアに対する戦争責任の問題については無自覚であった事実が、戦犯として逮捕され、挫折の自殺に繋がったとも氏は指摘しています。

 又、寺崎英成についても、アメリカ人の妻を持ち日米の平和の架け橋になろうとした知米派の外交官であり、且つ気骨のある自由主義者として柳田邦男が描いた人物とは別の、闇に包まれた、ある意味ではスパイとして活躍した人物として描いています。更には頭山満の団体・玄洋社の影響を受けた国粋主義者の一面をも本書では記されています。如何に寺崎英成をも描いた「マリコ」といった小説が、城山三郎の「落日燃ゆ」と同じように、私自身の、ものの見方に影響を与えていたことに改めて気づかされたところです。本当のこと、真実は未だ不明といったところなのでしょう。本書では天皇立憲君主の自己規定とは全く矛盾する要素を含む、さまざまな天皇の言動が記載され、しかも天皇自身が相当な情報通であることも述べております。本書の結の章で、

 

 さらに、天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任論の展開を極めて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定者の当事者であった権力者の責任を追及するという次元だけにとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。其れは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害実行の責任を問い直すものだし、侵略戦争天皇制に一貫して反対したという点からいえば戦争責任とは最も遠い位置にあるコミュニストとその党=日本共産党に対しても、なぜ、より有効な反戦闘争を組織することができなかったのかという点で、戦時下における自己の思想と運動に関する真摯な自己点検を強いられるものである。また、右翼に関しても、それが戦後、思想運動として生き残ろうとするかぎり、敗戦の原因や天皇制のあり方についての本質的な議論が必要だったはずだ。(同書239頁)、と断じています。真に私達は安易に戦後を生きてきたと言えるのかもしれません。

 

以下、本論である山本七平裕仁天皇の昭和史」【後編】に続きます。

 

 2015年11月16日

                          清宮昌章

 以上は二年前の投稿ですが今回の再投稿に際し、時の経過もあり、若干の加筆と修正をしております。本論は何らの変更もしておりません。

 2017年11月1日

                         淸宮昌章

 

参考図書

 中村政則「戦後史」(岩波新書)、吉田祐「昭和天皇終戦史」(岩波新書

原武史昭和天皇実録を読む」(岩波新書)、保坂正康「昭和史のかたち」(岩波新書)、文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」 (文春新書)、古川隆久「昭和天皇」 (中公新書)、保坂正康「昭和天皇 敗戦からの戦い」 (毎日新聞)、伊藤之雄昭和天皇伝」(文藝春秋)、青木冨美子「昭和天皇とワシントンを結んだ男」 (新潮社)、木佐芳男「戦争責任とは何か」 (中公新書)、加藤陽子昭和天皇と戦争の世紀」 (講談社)、豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見」 (岩波現代文庫)、保坂正康「東條英機天皇の時代」(ちくま文庫)、他

 

 

筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」他への覚書 【後編】

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(注)2021年5月4日再投稿の後編です

 

 著者の筒井清忠氏は1948年生まれ、京大文学部卒後、京大教授を経て現在は帝京大学教授で、日本近現代史・歴史社会学・日本文化論を専門とする学者です。

 

 本書は、「近衛文麿の悲劇とは何か」から始まり、「誕生と学習院」、「一高と教養主義」、「英米本位の平和主義を排す」、「パリ講和会議随員」、「貴族院議員としての活動」、「貴族院副議長・議長」、「訪米と近衛ファミリー」、「2・26事件前後」、「第一次近衛内閣と近衛型ポピュリズム現象」、「第二次・三次近衛内閣」、「太平洋戦争下の近衛」、「戦後の近衛」他の18章からなっています。丹念に資料を掘り起こし近衛文麿という人物を新たな視点で描いているとの印象を持ちます。

 

 近衛家は藤原鎌足を祖とし、後陽成天皇の血筋をも持ち、貴族院議長・公爵近衛篤麿が父という、近衛文麿は正に華冑界の逸材として当時のマスメディア、大衆にもてはやされていたわけです。

 

 後年になりますが、ご承知のように文麿の二女温子の子供(文麿の孫)である旧日本新党の元首相・細川護煕を当時の朝日新聞を始めとしたマスメディアと大衆が持ち上げ、そしていとも簡単に切り捨て忘れ去るという歴史です。加えて、今の天皇、皇太子他の現皇族に対するマスメディアによる報道の仕方。それに対する大衆の対応・反応も同じようなことで、我国における大衆の危うさは変わりないと思っています。それなりの経緯はあったにもせよ細川護煕が首相辞任後、政界を一切離れ、陶芸等の日常に人生を切り替えたのは祖父近衛文麿の前輪の轍を踏まないとの思いから来たのかもしれません。しかし最近の都知事選に見られる同氏の言動は何を物語っているのか、私には全く理解できません。人間の性というのは変わらないのでしょうか。

 

 本題に戻りますが、「誕生と学習院」の章で著者は近衛のふたつのトラウマとして、父篤麿の死後の周囲の人々の変貌と中学時代に実母の死の真相を知るという事実を上げます。それが近衛の終生の「孤独感」、「憂鬱感」の要因になったと記しています。別の角度からいえば人を信じること、確信が持てないという近衛のひとつの性格を現しているのかもしれません。人の性格はその人の経験、他人にはさほど重大には見えないような事態にも人は大きく影響を受けること、そうした具体的な事象を私も身近に遭遇いたしました。

   

 一方、近衛が学習院を経、一高における新渡戸稲造の教養主義という考え方の薫陶を受けたことはその後の人生を大きく変えたこと。又或る面ではふたつのトラウマと相俟って「人生の寂しさ」を覚える、見方を変えれば近衛という人間にひとつの彩を与えたのかもしれません。東大に入学の後、河上肇、米田庄太郎に憧れて京大に編入し、社会主義、共産主義思想に触れた事実も華冑界の逸材だからこそ、そうした行動がとれ、許されたのだろうと、著者は述べています。ただ、東大ではなく、京大で木戸幸一、原田熊雄といった「白川パーティ」に参画したことは、新渡戸稲造の教養主義と並んで近衛の後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。

 

 京大卒業後は西園寺公望との関係もあり内務省に入省。27歳で1.社会政策論の影響下にある国民生存権論、2.アジア主義的心情に立つ人種平等論、3.理想主義的正義人道論を要素とする「英米本位の平和主義を排す」の論文を発表します。現代とは異なるとはいえ、当時、北一輝が36歳で「国家改造案原理大綱」を発表するに対し、27歳でそれを発表するのはやはり秀才であったことに間違いはありません。そして西園寺公望の随行員としてパリ講和会議に参加したことは、更に近衛の新たな思想というか観点に展開を与えたのかもしれません。

 

 著者は明治以降日本のエリート社会では戦後に至るまで、長期に亘ってヨーロッパ崇拝が強かったことを考えると、アメリカへの好意的感覚を持っていることが近衛の特徴のひとつとしています。マスメディアもこの近衛の講和会議参加に続き、アメリカへの洋行問題を異常に思われるほど好意的に大きく取り上げ、結果的には彼自身ではなく長男文隆のアメリカ留学に繋がるわけです。その長男も近衛と同じようにマスメディにもてはやされ、そのことが後年、陸軍中尉昇進後、ソ連軍の捕虜となりスパイを強要され、そして長年の留置となり1956年イワノヴォ収容所における「悲劇の死」につながっていった、と記しています。

 

 近衛はその後もマスメディアによる大衆操作によって、もてはやされながら貴族院議員、貴族院副議長、議長をつとめます。2.26事件のとき拝辞し、そして1年3ヶ月後、西園寺の意向を受けた白川パーティの木戸、原田が近衛を説き伏せ、1937年6月1日、ついに大衆待望の第一次近衛内閣が誕生するわけです。「京大白川パーティはついに頂点に登りつめた」と記しています。

 

 その時に昭和研究会の野人・風見章を内閣書記官長に抜擢したこと。更に日本最初の本格的知識人ブレーンの昭和研究会を活用したこと。事実はさほどではなかったのかもしれませんが、それらが相俟って空前の人気の内閣を呼んだ要因と見ています。

 

 その昭和研究会は蠟山政道が中心となり三木清、東畑精一、笠信太郎、高橋亀吉、中山伊知郎、杉本栄一、大河内一男、矢部貞治、ゾルゲ事件の尾崎秀実、清水幾太郎、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作、三枝博音他錚々たる知識人が参画しておりました。又、風見章を内閣書記官にしたのは近衛独得の「サプライズ人事」で、大衆受けを狙う近衛の一面の軟さを見ると指摘しています。もてはやされる者が得てして陥り易い事象であり、如何にそうしたサプライズ人事が後で大きな悪影響を及ぼすかは、次元は大きく異なりますが私の現実の生活のなかでも数多く経験をしてきたところです。

 

 では、近衛人気がどのように形成されたのか、著者は以下のように興味深い分析をしています。

1.イメージの形成

 華冑界の新人という言葉が象徴するように昭和初期の大衆が好んだ「モダン性」と「復古性」を持っていたこと。モダン性は近衛の長身、ゴルフの腕前、社会主義的要     

素即ち思想を持った総理大臣であり、復古性は高貴な家柄・血筋、古美術を愛し、更にナショナリズム・アジア主義的な日本的・東洋的なものを持っている、と喧伝され農村部を中心とする保守層にも伝わったこと。

 

2.媒体

 ラジオ放送・レコードの活用、情報機関即ち始めて本格的な内閣情報部官制が敷かれ、内閣情報局のもと情報管理化を推進したこと。

 

3.受容層

 女性層に対し近衛家のモダン性がヴィジュアル化されたこと。文学に造詣が深く、河合栄治朗により復権した教養主義と相俟って菊池寛、坪内逍遥等々という当時のインテリ層から支持されたこと。さらに近衛の相撲好きに加え「キング」、「日の出」といった大衆雑誌に近衛が原稿を載せそれが大衆層に受け入れられたこと。

 

 こうして、最新のメディアを駆使しながら「モダン性」と「復古調」という相矛盾する時代の要請を統合的に活かし、女性,知識人、大衆とあらゆる層から受容されながら近衛文麿の人気が形成されて行った、と述べています。

 

 しかし結果的には国民大衆が待望した第一次近衛内閣成立の一ヶ月後に盧溝橋事件、大本営設置、「爾後国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明。続き、日中全面戦争、三国同盟、太平洋戦争という戦争の時代のなか、大衆に翻弄されるポピュリズム政治からの脱皮ということは近衛文麿には不可能な選択であること。その後の敗戦に続き戦犯逮捕指令。その出頭期限の朝に自死という悲劇の、正に戦争の時代とマスメディア・大衆に翻弄された54年間の一生であった、と記しております。

 

 続いて、華冑界の逸材であったからこそ元老・西園寺公望、原田熊雄、木戸幸一他華族達との強い繋がりがあるとされたこと。又、新渡戸稲造による教養主義者の「辞書」の中には「戦争」に対峙する発想はなく、その要因を著者は以下のように指摘しています。

 

 教養主義は既存の文化遺産の中から良質なものを取り出し、それを吸収することによって自分を高めていこうとするものであるから、よいものならどのようなものでもあっても取り入れていくというのがその本質なのである。それはマルクス主義であったり、国家主義であったりするであろう。教養主義は原理主義を拒むものであって、その本質から必然的に既存の文化遺産を折衷的に取り入れていくことになるのである。(300頁)

 

 その上で教養主義は折衷主義的な弱者の論理に陥り易く、時には「毒をもって毒を制する」という近衛流の発想をもたらし、軍部との対応のあり方、松岡洋右、東条英機他の登用に続き、彼らとの確執へと連なっていったと見ています。従って近衛には思想の転向、所謂マルクス主義者等の変節・転向といったものではなく、別の視点から見るべきであろうとの指摘です。加え、文化人であるが為の昭和研究会他当時の知識人との絆等々は従来の日本の政治家には全く見られない事象で、逆に言えばそうしたことが結果的に近衛には災いとなり「優柔不断」、「責任感の欠如」等々の後の批判に繋がる要因になったのかもしれません。

 

 一方、戦犯逮捕指令は総司令部・対敵情報部(CIC)調査分析課長E・H・ノーマンが近衛の性格を含め徹底的に弾劾した「覚書」によるものであること。その骨格を成すものは1945年2月14日の「近衛上奏文」、及び同年9月13日のマッカーサー会見に共通する近衛の「共産主義革命脅威論」にあったと筒井氏は指摘しています。近衛上奏文以来、彼は当時の保守派の中でも最大の「反共論者」となり、コミュニズムに近いノーマンが敵視し攻撃したのは近衛に対する「正解な理解」としています。

 

 尚、ノーマンはハーバード大学で都留重人と親友であること。都留は木戸幸一の実弟・和田小六の娘正子と結婚しており、同じ重臣の木戸に対するノーマンの「覚書」は近衛と異なり好意的表現に満ちており、その覚書は都留とノーマンの「合作」とも思われることを著者は否定していません。なおその後、ノーマンは1950年に召還され、カナダ国家警察の半年に亘る反共攻撃の審問を受け、更に1957年アメリカ上院小委員会でそれを蒸し返され自殺しております。政治的に人を裁くことの恐ろしさを指摘しているわけです。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。そのような状況下、12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかって、あれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降最近までの公の行蔵は、世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアーサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(295頁)

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(296頁) 今日でも依然として通用すると思われる新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しているわけです。

 

 近衛の死後、机の上にオスカー・ワイルドの「深き淵の底より」(英文)が置かれえおり、その中でアンダーラインが引かれていた。「人々は常に私のことを、あまりにも個人的過ぎると言った。・・私の破滅は、人生についてあまりにも個人主義的であったからではなくて、あまりにも個人主義的でなさすぎたことから起こったのだ。私は自分で身を滅ぼしたのだ(中略)世間が私に対してしたことは、恐ろしいことだったけれども、私が自分に対してしたことは、もっと恐ろしいことだった」(297頁)と紹介し、著者は次のように印象深い文章で本書を閉じています。

 

 近衛は「華冑界の新人」などといわれ個性的に見られたのだが、教養主義的政治家として多くのものを受け入れることに努め結局自分独自のものをほとんど出すことができず、「世間」に依拠するポピュリスト政治家となりそれにふさわしい仕打ちを受けたのである。しかし、「人格の修養」を第一義とする教養主義者らしく自分自身の問題としてそれを受け止め、死んでいったのだからである。・・(中略)教養主義とポピュリズムという問題が現代社会におけるリーダーの問題を考えるにあたって避けて通れない未決の問題としてわれわれの前になお立ちふさがっていることを、近代日本の生んだ有数の知識人政治家・近衛の華やかで淋しい生涯は告げているのである。(305頁)

 

2015年10月13日

                               清宮昌章

 

 

参考文書 

筒井清忠「近衛文麿」(岩波現代文庫)                

松本重治「近衛時代・・ジャーナリストの回想」(中公新書)

細谷雄一「歴史認識とは何か」(新潮選書)

大沼保昭「歴史認識とは何か」(聞き手江川紹子 中公新書)

池田信夫「戦後リベラルの終焉」(  PHP新書)

井上寿一「終戦後史 1945-1955」(講談社選書メチエ)