清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

筒井清忠「近衛文麿」 教養主義的ポピュリストの悲劇(岩波現代文庫)他への覚書 【前編】

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再投稿にあたって

 

 このコロナ禍による自粛生活もあるのでしょうか、ここのところ過去の投稿を見直し、時には補足し、再投稿しております。今回は補筆をしておりませんが、下記投稿もそのひとつです。残念ながら、今となってはその東京オリンピックの中止の決断も、最早時期を逸し、今後はその中止如何に関わらず、更なる混乱を生ずる怖れが強いと思います。

 

 そして、このコロナ禍の現実に思うことは、我国がコロナ禍のみならず、如何にも我々一人一人が平和ボケに深く犯されているということです。平和、平和を唱えていれば平和が訪れるかの如き錯覚。従い、現実、いくら政府が緊急事態宣言を発出しようが、それをあたかも他人事のように思う感覚ではないでしょうか。

 

 こうした現象はいつ頃から生じてきたのでしょう。一億総懺悔ではありませんが、マスメディアに作られた「世論」と称するものに大きく左右される政権・政党。加えて、それを利用する思想・政策も、政権を担う力もない野党。更に重大な事象は考えることを辞めた我々一人一人の現実。こうした現象はいつ頃から生じたことなのでしょうか。

 中国共産党独裁政権の急激な進展を含め、地政学的にも大きく変動した中、今回のコロナ禍後の日本は経済的打撃だけでなく、我国は救いないようない窮地に陥いる可能性を孕んでいる、と私は考えております。そんな思いもあり、ここのところ、戦前・戦中・終戦当時の現状はどうであったか、そんなことに触れた過去の投稿を見直している次第です。

 

 方や、佐伯啓思氏の「厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさをもった日本国憲法の平和主義は、自らによって国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。」(同氏著【脱】戦後のすすめ 221頁)、との指摘を私は彷彿してくるのです。

 

 そんな思いの中、1945年終戦前後の我国の断面を描いた、掲題の2015年10月5日の投稿を改めて読み直しをしたところです。前編、後編となりますが、改めて一覧頂ければ幸いです。ご参考になるかどうかわかりませんが、敢えて再投稿しました。

 

 2021年5月4日

                                   淸宮昌章

 

はじめに

 

 ここ数ヶ月に亘り安全保障関連法案の国会審議等、今日的問題について私の日頃の想いなどを吉野源三郎「君たちはどう生きるか」にも触れながら報告してきました。加えて、服部龍二氏の「広田弘毅・・悲劇の宰相の実像」、山本七平「裕仁天皇の昭和史」等々も取り上げ、戦中・戦後の人々が何を感じたのか、如何に生きたのか。そして現在、我々は何を問うべきなのか、私なりの雑感を載せてきました。

 

 そして今回、今まで直接・間接的にも取り上げてきた人物のうちで、毀誉褒貶のはなはだしい近衛文麿をもう少し知りたいと思い、6年前になりますが掲題に挙げた雑感を改めて検討した次第です。未だ読んでいるわけではありませんが近衛文麿の伝記としては、矢部貞治「三代宰相列伝・・近衛文麿」もあります。ただ、掲題の本書の副題として挙げられている「教養主義的ポピュリストの悲劇」に惹かれ、彼の「悲劇」と「運命」が何処にあったのか、改めて考えたわけです。そして時に感じたことなども織り交ぜながら、ここに紹介してみようと思います。

 

加藤周一「私にとっての20世紀」、「日本人とは何か」

 

 私の心の整理と言うか、どう考えるべきなのか、迷う日常にあって、数年前になりますが、加藤周一著「日本人とは何か」を読み、その一部を引用しご紹介いたしました。同氏は2008年12月に89歳の生涯を閉じましたが、2009年2月に上梓された最後の遺稿とも言うべき「私にとっての20世紀」を、筒井忠清氏の「近衛文麿」と同時並行的に読み進めたわけです。

 

 尚、加藤周一の著書はあまり読んだわけではありません。ただ、その論理には頷けるものの、何故か私は心情的にしっくりこないのですが、「戦後知識人」と自らを規定し、知識人のあり方を最後まで模索し、場を求め、思いを発表していた知識人であった、と私は考えています。加藤周一は本書の中で知的好奇心について、次のように述べています。

 

 しかし、戦争の経験だけではなくて、環境を知りたいというのは一種の知的好奇心のあらわれです。私は知的好奇心が強くて、自分の身の周りで起こっていること、それからそれを超えて,歴史の中で社会的、政治的な現象を理解したいという欲求をたえずもっています。この知的好奇心は必ずしも楽しみの追求ではないかも知れません。しかし義務感だけではない。(中略)・・少なくとも私の場合は、かなり根源的な動機だと思う。ほかに目的があるのではなくて、知ること自体が目的だということがある。(76頁)

(中略)、知識人の一般的な特徴というのは、知識があることと、それから現実を知らないと言うことです。たくさんの本を知っていて、現実を知らない。あのときは戦争中ですから、程度問題だと思うのですが、少なくとも新しい本はなくても、古い本なら読めた。本が読めて、現実について何も情報が入ってこない。「近代の超克」で議論している人たちはヨーロッパが行き詰まったといっていたけれど、行き詰まったそのヨーロッパと米国で暮らした人はほとんどいなかった。(107頁)

 

 と、経験を得た上での知ることの重要性を述べ、「科学からの倫理」でなく「倫理からの科学」を主張しています。

 

 その中には当然のことながら戦中・戦後における白樺派他の文化人・知識人への強い批判があるわけです。本書の中では近衛文麿に言及する箇所は「近衛文麿がいつ頃からこの戦争の先行きはないと考え出したか私は知りませんけれども、『早く降伏したほうはがよろしい』という考えで行動を起こしたのは45年1月です」(97頁)という一文があります。

 

 加藤周一によれば、本書「私にとって20世紀」の主旨は時間、空間、および知識の領域に関して、限られた一市民の私にとっての20世紀の回想であって、そのあとがきに「今読み返してみて、私はこの本のなかに私自身を発見する。そして私自身を決定した20世紀という時代の文化が、どういうものであったのかを、問い続ける」(257頁)と述べています。私にとって印象に残る「あとがき」でした。

 

 以前にも触れましたが、「昭和天皇の終戦史」で吉田裕氏が近衛文麿を当時の保守勢力のなかで、最もリアルな政治感覚をもった人物と評価しています。しかし一般的には近衛文麿は勇気、決断、責任感に欠如が見られる。広田弘毅他と比べても一段低い人物と見られているように思います。近衛が華族であることもあるのでしょうか。接点が多かったと思われる西園寺公望は近衛をどのように見ていたのかとの視点で、岩井忠熊「西園寺公望」にも目を通して見ました。

 

岩井忠熊「西園寺公望」

 

 岩井忠熊によれば西園寺公望は近衛が陸軍皇道派と親しいこと、或いは右翼に妥協的という点に強い不安を覚えていたと記しています。現在では人によれば東条英機、広田弘毅よりも近衛文麿を今次大戦の「戦争責任者」として強く断罪しているようにも思えますが如何でしょうか。私も近衛文麿をそのような人物かなと見てきましたが筒井清忠氏は近衛文麿の生い立ちから振り返ることにより、改めてその人物像を描がこうとしています。どちらが本物かを問うのではなく、その時代、時々の環境・情勢がある人物像を如何ようにも変えてしまうというのが現実なのでしょう。ただ、私にとって本書「西園寺公望」は近衛文麿を別の角度から改めて見ることになりました。と共に、マスメディアと大衆の怖さ、その危うさを改めて知ることにもなりました。そのことは過去のことだけではなく今現在においても言えることと考えています。

 

 西園寺公望は生涯に総理大臣を二度もつとめ、最後に元老として生を終え、本人自身は望んではいなかった国葬が執行されたわけですが、岩井忠熊は西園寺を失敗した政治家と見ています。そして、次のように記しています。

 

 西園寺が軍部の政治的台頭、大陸への冒険的侵略、対英米戦への動向のすべてに反対し、それを阻止しようとしたことは争えない事実である。しかも西園寺は天皇から特別の勅語を受けた元老の地位にあって、国事上の最高顧問の役割を引き受けていた。その西園寺がなぜ1930年代の政治情況で次第に敗北者の地位に追いこまれ、その行動は失敗に終わったのか。いわゆる15年戦争に関心をもつ者にとって看過できない問題である。現に未解決の戦争の遺産はなお私たちの前にある。靖国神社、無差別爆撃、虐殺、強制連行、従軍慰安婦、原爆等、なにひとつ解決したとはいえない。われわれの未来はそのような問題にひとつひとつ誠実に向き合うことを回避しては、真に拓かれたことにはならないだろう。そう思えば、歴史学はやはり西園寺の失敗に学ぶ必要があるのではないか(211、212頁)

 

 自死した近衛と国葬で送られた西園寺と何故にこのように差が出てきてしまったのでしょうか。岩井忠熊は次のように述べています。「成功した歴史に学ぶ者は、往々にしてその達成の陥穽におちいる。失敗の歴史に学ぶ者は、盲点の存在に目ざめさせられる。歴史を読む者の心すべき教訓であろう。」(220頁) 正に心すべきことではないでしょうか。

 

以下、後編 筒井清忠「近衛文麿」に続く(2015年10月13日)

 

 

 2015年10月5日

                             清宮昌章

 参考図書

 

筒井清忠「近衛文麿」(岩波現代文庫)

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

加藤周一「私にとっての20世紀」(岩波現代文庫)

 同  「日本人とは何か」(講談社が学術文庫)

岩井忠熊「西園寺公望」(岩波新書)

吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)

 他

改めて・ズビグニュー・ブレジンスキー著「ブッシュが壊したアメリカ」を思い起こして・・【後編】

 

 再投稿、その上に長い駄文で恐縮しますが、今日性の課題も含んでいると、思います。改めて一覧頂ければ幸いです。

   2021年9月22日

 

  第三章・「先代ブッシュの負の遺産」(湾岸戦争の勝利の立役者が残した禍根)では、先代ブッシュの任期はユーラシア大陸の激動期にぴったりと重なっていること。有能な外交官でもあり、又勇敢な戦士でもあったが、先見のないリーダーであったと分析しています。即ちソ連の崩壊には冷静に対処し、またサダム・フセインのクウェート侵略にも見事に対処したという、ふたつの「勝利」を得ながらも、戦略面からはアメリカが持つ政治の影響力と道徳の正当性はロシアの改革にも中東平和にも生かされなかった。必要なことは優先事項を明示し、今日や明日ではないもっと先の未来に視線を据え、はっきりとした方向性を打ち出した後に、方向性に沿った行動をとることだった。パレスチナ問題と湾岸戦争を中途半端に終わらせたツケは先代の後継者達に取り付いてはなれず、アラブの人々はアメリカの役割を、革新を促す力の供給源ではなく、殖民地時代という忌まわしき過去の再生装置と見做すようになったこと。1992年当時、ばら色の「新世界秩序」から手垢のついた帝国主義秩序へと変わってしまっていた、と述べています。

 

 第四章・「グローバリゼーションを妄信したクリントン」では前任者と異なり、クリントンは世界に対するビジョンを持っていた。即ち能天気とも言うべきグローバリゼーションに内在する「歴史決定論」は、アメリカが自らを必要欠くべからざる国と呼ぶために、自らを内側から再生していかなければならないという彼の深い信念と合致し、外交は内政の延長であったと述べています。

 

 一方、彼の外交の政策決定プロセスを複雑化させた原因を次のように述べています。

 

 一元的且つ楽観的な世界観を唱えたこともあり、議会やマスコミ、ロービー団体が定期的なプロパガンダ活動を通じ「アメリカの今年の敵」と呼ぶべきものをつくりあげた。即ちリビア、イラク、イラン、中国などを槍玉に挙げ、各国からもたらされるであろう危機を強調した。客観的安全をめざす強大なアメリカというパラドックスと、現実となった冷戦の勝利と主観的危機を正当化するための大悪党捜しは、恐怖がすくすくと育つ肥沃な土壌をととのえ、最終的に9・11後の状況をつくりだした。(108頁)

 

 結果的には核問題で北朝鮮に振り回され、核拡散も阻止できず、地球温暖化問題を放置、ルワンダの悲劇を傍観しながら、親イスラエルに傾いた外交が中東におけるアメリカ観を大転換させ、アメリカに対する政治的宗教的敵意を高めてしまったとの指摘です。

 

 端的に言うと、第二代グローバル・リーダーは、歴史に偉大な足跡を残しそこねた。独りよがりの決定論と、人格上の欠点と,強まり続ける国内政治の縛りは、彼の善意だけでは克服できなかったのだ。未完かつ脆弱なクリントンの遺産は、2001年、正反対の教義を信じる後任者に受け継がれたのである。(157頁)

 

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 続く第五章・「現ブッシュの破滅的なリーダーシップ」のなかで、ブッシュ大統領は前任者二人とは大きく異なり、半世紀近く育んできた大西洋共同体の絆を手放してしまい、ほどなく国際世論から袋だたきにあったと痛烈な批判です。ブッシュは自らを「断固とたる決意と、明快のビジョンと深い信仰」の持ち主と見做し、新たなる善と悪との戦い・・彼は孤独な十字軍の闘いと呼ぶかもしれない・・に挑もうとしていた。9・11後、ブッシュの戦略、換言すれば「テロとの戦争」の戦略とは、ペルシャ湾石油権益を確保続けたい昔ながらの帝国主義的願望と、イラク抹殺によってイスラエルの安全を確保したい、というネオコン主義的願望の結晶であると言い切っております。

 

 イラク戦争の最も重大な影響は、アメリカのグローバル・リーダーシップが信用を失ったこと。第二はテロへの脅威へ向けられるべき資源と関心をすべてイラク戦争に注ぎ込み、地政学的悪影響を振りまいてしまったこと。第三はこの戦争がアメリカに対するテロへの脅威を増大させてきたこと。更に反イスラムのにおいのするテロとの戦争はイスラム世界の言論を反米で一致させ、次々とテロリスト達を生み出すものにしてしまった、と指摘しています。ネオコンの信条を以下のように述べ、第五章を閉じています。

 

1.中東を発生源とするテロ活動はアメリカに対する根深い怒りが虚無主義となって現れたものであり、特定の政治紛争や歴史とは関係ないこと。

 

2.中東の政治文化、とりわけアラブの政治文化は、何よりも力に敬意をはらう傾向があるため、地域問題を解決するには、アメリカの軍事力を直接投入しなければならないこと。

 

3.選挙に基づく民主主義は外部から強制した場合でも機能しうる。

 

 この信条をブッシュは信じ、第三代グローバル・リーダーとしてのブッシュは歴史的瞬間を誤って解釈し、わずか五年のあいだに、地政学上のアメリカの地位を危険水域まで低下させ、アメリカ合衆国を危機に陥れた。

 そして冒頭にも紹介した最終章、第六章「アメリカの次期大統領と最後のチャンス」に至るわけです。其の中でグローバル・リーダーとして有効な活動を行なうための条件を次のように記しています。

 

1.今の時代をどうとらえるかという歴史感覚が、アメリカの国民と合致し  

ていること。

2.地球規模の脅威をどう定義するかという価値観が、世界における政治・社会的変化の気質及び特質と合致していること、を挙げています。

 

 更にアメリカは歴史上重大なふたつの失敗をおかした。即ち1.冷戦後に一人勝ちの状況が続く中で、共通の世界戦略に集中して取り組む大西洋共同体を確立できなかったこと。2.イスラエル・パレスチナ問題に対して必要な行動をとらなかったことです。もしアメリカが決然たる態度を示し、アメリカとEUが共同でかつ公平な妥協案を示していたら、イスラエルもパレスチナも和平を受け入れていただろうとしています。アメリカが金儲けに左右されない外交政策をとり、アメリカ型社会の欠陥、即ち物質主義に裏付けられた自己中心性、国民全体が共有する世界に関する無知ぶりを反省することが、何としても必要としています。アメリカはヨーロッパと生きていかなければならないし、ヨーロッパもアメリカを必要とする。そうした中、アジアで孤立を深める非西欧の民主主義国の日本をできれば韓国も米欧間の主要な協議に組み込んでいくことが必要と記しています。

 

 其の背景にはロシア、中国、インドが結びつくことで、もっと明らかな反米同盟が出現する可能性を見てとるからです。日本がNATOと連携するほうが極東におけるアメリカの軍事プレゼンスが日本を通じて高まる場合よりも、あるいは日本自身が単独で軍備の増強を進めていく場合よりも、中国が抱く警戒感は少ないとの見方です。

 

 こうした見解には多くの異論もあるでしょう。しかし、地政学の権威で、アメリカでも影響力のある著者の見解は心に留めて置くべきと私は考えていました。

 

 世界の「政治意識のめざめ」は歴史的に反帝国主義であり、政治的に反西欧であり、感情的には反米である。政治意識のめざめの標的にされる危険を回避したいなら、人間の尊厳を世界中に広められるのはアメリカだけ、という認識を確立しなければならない。(勿論、政治と社会と宗教の多様性に対する敬意をもつことが前提となる。)人間の尊厳はさまざまなものをもたらす。自由と民主主義のみならず、社会正義も、男女平等も、文化と宗教が複雑に入り組んだ世界の現状に対する敬意も、(中略)だからこそ、外部から押し付けられた性急な民主化は、ことごとく失敗に終わるのである。自由と民主主義を根付かせるには、きちんと段階を踏み、内部から育てあげるしか方法はないのだ。(236頁)と訴えています。そしてG8はもはや時代遅れで、アメリカと日本と拡大大西洋共同体は、中国の我慢強さと用心深さ、いわばその余裕の時間を利用して中国を世界システムの中に取り込み、グローバル・リーダーシップの一翼をになわせなければならない、と最終章に述べています。

 

おわりに

 

 何故、本書を今になって取り上げ読み返したのか。疑問というか時代錯誤と思われるかもしれません。中国が大国への復活を進めるなど、地政学的にも大きく変動した現実に、日本は一国平和主義に安住しているとしか思えません。本来的覚悟を持たぬ、あるいは持てぬ者のひとりとして、著者の見解、指摘に私は改めて考えさせられたところです。

 

 方や巷では、外交でことを進めるべきとの、声もあります。今から5年前になりますが、元駐フランス大使の矢田部厚彦氏が「外交力と軍事力」の中で、外交とは何かを述べています。即ち外交力とは政治指導者の先見性と権威、外交官集団の優秀性と忠誠心、そして総合的・長期的な国益がどこにあるかに対する世論。公衆の理解力と判断力の三要素に集約される。この三本柱のどれが弱くても、十分な外交力を発揮することはできない。だが、もっとも重要なこととして強調しなければならいのは、この三要素を支えるものが、その国の社会の近代性と基礎的文化水準に他ならない。外交とは、文化である。つまるところ、外交とは国民精神の対外的な文化表現なのである、と喝破しています。

 

 現国会で論議が全く噛み合わない、意味のない安全保障関連法案審議をみていると政党とは何か、議員とは何かを考えさせられます。時には野党議員に見られる品格を欠いた質疑に、もとよりそれを求めることが無理なのでしょうが嫌悪感を覚えます。そしてマスメデイアによる誘導された世論と称するものに右往左往する現状に、過去を想起し、暗澹たる気持ちになります。

 

 2015年9月14日

                             清宮昌章

追補

 

 アメリカはその後、前オバマ大統領、そして現トランプ大統領と代わる中、欧州も大きく変貌しております。変わらないのは、今や世界第二位のGDPを誇り、中華大国への復活を目指す共産党独裁国家、しかもその価値観も国民への関与の在り方も大きく異なると思える中国です。ブレジンスキーが本書で、「中国を世界システムの中に取り込み、グローバル・リーダーシップの一翼を担わせることだ」と指摘しておりましたが、その可能性は如何でしょうか。

 

 アメリカではなく、日本にとって北朝鮮の喫緊の現状もさることながら、ユーラシア大陸を制するロシアより、中国の動向こそが今後の日本にとって大きな脅威というか、課題と私は考えております。歴史事実とは異なる概念の、中国による「歴史認識」を日本が持つことを執拗に迫り、日本を利用しながら日本外しを計る中国。更には沖縄には同情と微笑を続けながら、尖閣諸島と同じように、近い近未来に沖縄を核心的利益と唱える可能性も充分ありましょう。

 加えて、韓国においては、反日教育というより「侮日教育」を一貫として受けてきた世代が国民の多数を占めるに至っております。従い、韓国並びに韓国人としても日本、更には日本人への対応も、今後も変わることはないでしょう。

 

 残念ながら中国及び朝鮮半島の南北二国との友好関係を日本が構築することは極めて難しく、数世紀を要する解けない課題なのです。中国、ロシアをバックに朝鮮半島を中心とした新たな経済圏を模索している、との文韓国新大統領の発想も私は頷けます。日本の現状は地政学的面においても極めて不安的な位置にあります。従い、ブレジンスキーの観点・指摘とは異なりますが、氏が本書で述べている「日本は新たな道を求めることが必要である」、との見解に私は別な意味で共感を覚えた分けです。

 

 方や、現在のマスメディアに見られる、ただただ現安倍自公政権を倒せば良いかの如き、一国平和主義的思考に私は極めて大きな危機感を持っております。毎回の投稿でも付言しておりますが、戦前、戦中、戦後において依然として報道は自らの責任を問わない、負わない、そのマスメディアの在り方。そして、そのマスメディアにより、大きく影響を受ける世論と称するものに、時の政権が大きく左右されてきたことも昭和の歴史です。言論の自由を挙げ、時の権力・政権を掣肘するとは主張するものの、それは独りよがりの正義感で、その実体は単なる商業主義に毒されたものに過ぎないと考えます。ただ、ここに来て、マスメディアによる報道、あるいはその取り上げ方に、不信感を持ち、信頼を置かない人々、層が増えてきているのも、新たな現象といえるでしょう。

 

 このブログを開いて頂ければわかりますが、本稿に続き、筒井清忠「近衛文麿」他、一連の昭和史に関わる投稿をしております。意義があるかどうかは分りませんが、日本の現状、さらには今後の日本を観る上では、少なくとも昭和の歴史を自ら再検討する必要がある、と私なりに思っています。

 

 2017年9月28日

                     淸宮昌章

参考文献

  峰岸博「韓国の憂鬱」(日経プレミアシリーズ)

  櫻井よしこ・呉善花「赤い韓国」(産経セレクト)

  呉善花「侮日論」(文集新書)

  中澤克二「周近平の権力闘争」(日本経済新聞出版社)

  海外事情 2017・9

  他

ズビグニュー・ブレジンスキー著「ブッシュが壊したアメリカ」を思い起こして・・【前編】

再投稿

 

 コロナ禍の緊急事態宣言下、9月29日の自民党総裁選挙。そして衆議院議員選挙と続く中、私は改めて5年前の2015年8月の投稿を読み返しました。手前味噌ですが、古さを感じなく、改めて再投稿する意味もあるかなと思った次第です。後編は同年9月14日です。極めて長い駄文ですが、改めて一読頂ければ幸いです。

 

 2021年9月21日 

 

はじめに

 

 日本政治が右傾化し、自由と民主主義が壊れていくかのような巷の声もあり、中野晃一著「右傾化する日本政治」(岩波新書)を一読しました。著者は1970年生まれの比較政治学、日本政治、政治思想を専門とする学者との紹介ですが、私は初めて氏の著書に触れます。本書の中で長谷川三千子氏を歴史修正主義と断定するわけですから、中野氏はその対局に立つのでしょう。

 

 中野氏の見解によれば日本政治は何も現安倍自公政権から大きく右傾化したわけではなく、過去30年ほどの長いタイムスパンで現出してきた、との見解です。残念ながら、私は本書を通じて氏の主張・観点には極めて違和感を持ちます。   

安倍首相に関して「本質的に中国や韓国でも変わりなく、新自由主義改革によって格差社会が広がった一方で、政治権力はますます世襲的政治家や財閥・閨閥に集中し、そこで夫々に国家主義を煽って人心掌握を図り、又ジャーナリズムや言論の自由のみならず、市民社会全体のさまざまな自由を厳しく弾圧する傾向が共通して見られる。安倍、習近平、朴槿惠ら北東アジアの世襲『ナショナリスト』たちが自国内で権力を集中し続けるために、敵愾心を向け合う相手を相互に必要としているといえる」(本書177頁) 加えて終章の最後に「道は険しく、時間は限られているが、負けられない闘いはすでに始まっている」と述べられております。とても私はついてはいけません。

   

  誠に僭越ですが、何故そのような、私には凝り固まったとも言える観点に立つのか、氏の背景、生活・環境がそのひとつの要因なのか、不安を覚えるところです。品格を欠いた他者批判、出版物も、又私のような門外漢も自由に発言、発表できるのが戦後の日本ではないでしょうか。日本の昭和の時代、平成の時代を日本の長い歴史から、何か切り離された特殊な危殆の時代と見ているように私は感じます。よいか悪いかは別ですが、時代は連綿と続き現代に至っているとの私の観点とは大きく異なっています。

 

 そんな感慨を一方に持ち、8年前に掲題の著書について記した駄文を改めて取り出しました。精彩を欠き、もはや影響力もないような現オバマ大統領を見ると、本書の指摘は今さらながら正鵠を得たものであったと私は思います。

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その1

 

 本書の原題はSECOND CHANCE:Three Presidents and the Crisis of American Superpower で、日本版の表題はすこし刺激的で、むしろ本書の内容を言い表してはいないように私は思います。本書の主題は言わば「自己戴冠」が行なわれた超大国アメリカの15年間に亘る三人の大統領、即ちジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンに関わる思考・施政への再検討であり、提言でした。

 

 政治意識のめざめの現象が地球上に広がり、更に其の勢いが増している現在、超大国になってしまったアメリカがこの15年間の中で、何を反省し、何を目指し、そして今後どう在るべきなのか。アメリカ大統領によるアメリカの責任とは何か。アメリカが世界に影響を与えると共にアメリカも世界から影響を受けるという、今までになかった観念をどのように国民に植え付けるか。自由と民主主義の実現に導くだけでなく、文化の多様性に対する敬意はどうか。不公正な格差を是正しなければならないという認識をどう持たせるか。そうしたことが正に問われているのだ、と著者は指摘しています。方や、その視点、指摘自体に人によりアメリカの独善として違和感を持つかも知れません。

 

 そうした思いは残るものの、著者は歴史的意義の高い課題に取り組んだ過去として、一度目は1776年に「自由の意味を定義し、自由の模索を始めたばかりの世界に提示した」こと。二度目は「20世紀の民主主義の守護者として全体主義と戦って見せた」ことを挙げています。

 

 冷戦の終焉後に第一回のチャンスを逃した中、2008年以降に訪れる第二のチャンスを逃してはならない。なぜなら第三のチャンスは永久に巡ってこない。次期アメリカ大統領が「理想に仕えるのをやめた大国は、其の力を失う」ということを理解すること。政治意識にめざめた人類の渇望と、アメリカ合衆国の力との一体感をつくりだすことができれば、まだアメリカにも可能性はのこっている。そして最終章・第六章「アメリカの次期大統領と最後のチャンス」と繋げていくわけです。

 

 著者はご存知のようにアメリカを代表する地政学の権威であり、カーター政権では国家安全保障問題担当補佐官を務め、影響力を持った学者でもあります。1989年に著した「大いなる失敗」のなかで20世紀における共産主義の誕生と其の終焉を従来の通説とは異なり、以下のようにソ連の崩壊を事前にとらえておりました。

 

 共産主義の下で起こった事象は、歴史の悲劇以外の何物でもなかった。それは現状の不正を正そうとする性急な理想主義に端を発し、よりよい人間的な社会をめざしたのだが、結果的には大量の抑圧を生みだすものになった。共産主義は理性の力を信じ、完全な社会を建設しようとした。高いモラルによって動かされる社会をつくるために、人間へのもっとも大きな愛と、抑制への怒りを結集したのである。それによって最高の頭脳、最良の理想主義的精神を持った人々の心をとらえた。にもかかわらず共産主義は、今世紀はもちろん他の世紀にも類を見ないほどの、大きな害悪を生んだのである。其の上、共産主義の誤りは社会問題を完全に理詰めで解決しようとしたことだった。(中略)人間の理性を信じすぎたこと、激しい権力争いのために時の権力者が自らの一時的判断を絶対視してしまう傾向があったこと、不道徳への怒りがしばしば政敵への独善的な憎悪に変わってしまったこと、とくにレーニン主義がマルクス主義の中に、ロシアの後進的な専制主義を持ち込んだこと。(大いなる失敗 306頁)

 

 その後、1993年に「アウト・オブ・コントロール」を著しました。今の世界の混乱をも既に見通していたかのように思います。私とってはそれらの著作を通し、大きな影響というか、考えさせられた学者であり政治家でもあります。尚、本書は私にとっては同氏の三つ目の著書です。

 

その2

 

 本書も一貫した冷徹な地政学的見地から書かれております。各章のあらましをご紹介したく、長くなり恐縮ですがご容赦願います。

 

 第一章・「超大国アメリカを率いた三人の大統領」で、ソ連が崩壊し、冷戦が終焉したため、国際的承認をいっさい受けていないにもかかわらず、グローバル・リーダー、即ち世界の指導者としてアメリカが振舞い始めたこと。即ち、この「自己戴冠」というこの現象は1876年に、ヴィクトリア女王が英国議会から「インド大帝」の称号を与えられた史実。更には、ナポレオンの自己戴冠の史実を彷彿させる、と述べています。

 一方、世界最強国の座に就いた後、アメリカ外交は自国領土の安全確保に加え、三つの使命を背負ったと述べています。

 

1・世界の勢力関係を構築、管理運用し、より強調的なグローバル・システムができる                
下地を造ること。

2・紛争の封じ込め、沈静化、テロ行為と大量破壊兵器拡散の阻止。

3・格差社会の急速な広がりに対し、より効果的な取り組みを行なうこと。

 

 そして第二章・「アメリカを誤らせたグローバリゼーションとネオコン主義」と続き、先代ブッシュ、クリントン、ブッシュの施政への各章に進んでいきます。冷戦後の短期間、アメリカ政府は「新世界秩序」なるスローガンを掲げ、世界情勢と新たなチャンスについて語ったのですが、其の概念も曖昧のまま、それを浸透させる前に大統領選に負け、互いに相容れない歴史観と未来像を持つ、ふたつの概念、即ちグローバリゼーションと新保守主義(ネオコン)が出てきた。このグローバリゼーションは最終的に安定均衡を生み出すため、多数に対する利益の再配分を通じて、少数の受けた不利益は相殺される、という能天気なまでに楽観的ものだと指摘しております。

 

 一方、ネオコン主義は馬鹿正直なまでの一途さ、悲観的な見方、善悪二元論的な雰囲気を特徴とするもので、ブッシュ大統領の時代に大きく花咲いたこと。又、このネオコン主義に図らずも社会における高い位置を与えたのは、各々の著者の意図とは大きく異なっていますが、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1992年)、及びハンチントンの「文明の衝突」(1996年)であったとの指摘です。結果的にはイスラム原理主義との全面衝突の果てに、民主主義が広まって「歴史の終わり」を告げるという認識はネオコン派からしてみると、ポスト冷戦時代の靄をすっきりと射し貫く一条の光となってしまった。著者は以下のように述べています。

 

 共産主義が打倒されたあと、西側先進国の市民たちは新しい目標をいったい何処においたのだろうか、(中略)西側先進国を席巻する「快楽追及の相対主義」。方や、突如として貧困へ突き落とされた旧ソ連圏と政治的にめざめた発展途上国の「食うや食わずの絶対主義」。このふたつの対立がいつまでも続けば、世界の分断が深刻化するのは明らかだった。このような事態を食い止め、適切に対処するためには、世界におけるアメリカの役割を定義する際、もっと高いレベルの道徳観を導入する必要があった。道徳が低いままでは、いくらアメリカが世界のリーダーを主張しようとも、その正当性が認められる見込みなどなかった。道徳を政治に持ち込み、政策の指針として利用したいなら、人道主義の観点から行動を起こさなければならない。人権問題を世界の最優先事項に引き上げ、政治意識にめざめた大衆の切望に応えなければならない。また、道徳的信条に基づく賢明な政治は、リーダーシップを発揮する際、善悪二分論を強調するのではなく、コンセンサスの形成を重視しなければならない。逆にいうと、道徳的信条に基づかない政治は、民衆扇動家の暗躍を許し、突然の危機や新たな脅威を引き起こすのだ。(52頁)

 

 以下【後編】に続く

 

  2015年8月31日

                              清宮昌章

 

参考文献

 

ブレジンスキー「大いなる失敗」(伊藤憲一訳 飛鳥新社)

同      「アウト・オブ・コントロール」(鈴木主税訳 草思社)

サミュエル・ハンチントン「文明の衝突」(鈴木主税 集英社)

フランシス・フクヤマ「歴史の終わり 上下」(渡部昇一訳 三笠書房)

中野晃一「右傾化する日本政治」(岩波新書)

田中均「日本外交の挑戦」(角川新書)

井上卓弥「満州難民」(幻冬舎)

「文藝春秋」で読む戦後70年 第一巻

海外事情7、8 海外事情研究所創立60周年

選択8月

 

安全保障関連法案に関連して

 

    前月の7月13、20日に「世相に想う」ということで、上記「安全保障関連法案に関連して」との駄文を載せました。現国会で本法案が審議されているからでしょうか、いつもより多くの感想を皆様から頂きました。

 

 高校時代からの畏友による、理路整然とした6項に纏められた法案賛成の趣旨を記されたメール。加えて米国人と結婚され、長年米国で生活されていらっしゃる日本人女性の方から「日頃の想いを(私が)代弁してくれている」との感謝のメールも頂きました。勿論私の視点というか観点というか、私の想いに反対の方も当然みえるわけですが、「論評はしない」とのことです。その本意は論評にも値いしないとのことでしょう。今回はアメリカに見える女性からのご質問にお答えしたことに少し加えながら、私の想いを載せることにしました。

 

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その御質問は

 

   天皇と皇后は大変なご高齢にもかかわらず、ぺリリュー島など、慰霊にいらしている記事を文藝春秋などで読みましたが、これは日本国民にどのようにとられているのでしょうか。天皇家として最終的な責任を感じていらっしゃるのですか。今日(2015 年7月24日)のワシントンポストに大きな写真入で、北京に日本軍の戦争時代の沢山の資料を展示する博物館ができた記事がありました。あれを子供時代から見ていたら日本人がさぞ嫌いになるでしょう。もう両国泥沼って感じでした。

 

私の回答は下記の通りです

 

 回答にはならないかもしれませんが、昭和天皇については私なりの想いもあり、私の雑感を過去にも拙著「書棚から顧みる昭和」でも記したこともあります。改めて今の私の想いを付け加えてみます。

 私の基本的視点は先の大戦そして敗戦について、昭和天皇は大いに責任があるということです。米国の占領政策にも天皇が必要であったことが、昭和天皇が戦争責任を取ることも叶わなかったことも現実であったのでしょう。でも昭和天皇が何らかの責任形態、例えば退位といった形式もあったのではないかと思います。それも望んでも叶わなかったことも占領下の日本が置かれた状況であったのでしょうか。

 

 ただ、戦後は日本の政治家も、知識人も、マスメディアも、そしてその影響を受けた大衆も戦争責任をA級戦犯のみに負わせ、自らは良心の呵責さえも隠し、そして済まし、否、済まさせてきたことに、今の日本の混乱の一つの要因があると思っています。東京裁判の被告とニュルンベルグ裁判の被告とは、そのあり方に関しては大きく異なり、真逆の在り様です。方や、ヒットラー政権下で敗戦となったドイツの戦後のあり方と日本の在り方の比較を述べ、日本を批判する所謂知識人も見えますが、比較の対象というか余り意味のある比較とは私には思えません。  又、お尋ねの現天皇、皇后による長い慰霊の旅ですが、昭和天皇の戦争責任への一生をかけた贖罪の旅、そのものではないかと私は思っています。現天皇は皇太子時代における沖縄への慰霊の旅を始めとして、これからも慰霊の旅は黙して語らず生涯をかけて続けられるものと、私は考えています。そのことについて皆さんがどのように考えられているか私は分かりません。  尚、残念ですがマスメディアが作りあげる国民の声と称するものに、どうやら再び惑わされる状況になってきたと、私は考えております。安全保障関連法案を「戦争法案」と称するものにすり替えさせた共産党をはじめとする野党の手法に、その中身をも知ろうともせず、多くの人が乗せられた、と思います。一方、この安全保障関連法案を分かりやすく具体的に説明することも、対外的な問題に波及し、極めて至難の業であることも現実と考えています。  一方、一般の個人が自らの感じ方を述べるときに何故に「国民」と称するのでしょうか。確かにその方は日本国民ですが、先ず「私は」とか、「自分は」と言わないのでしょうか。そこから物事が始まるのであって、日本国民とか、世論とか個人が軽々しく表現するのは少々、マスメディアに毒されている一つの証左と私は思います。昨今、やたらに「国民」という言葉が巷に氾濫し出しました。私のおぼろげな記憶になりますが戦中の時代を思い起こし、嫌な感じに捉われます。

 私は言論機関及びマスメィアは日本では今以て貧しい状況で、それは戦前も、私が育った戦中も戦後も余り変わっていないと考えております。ただ、例の安保闘争時代とは異なり、私のような考えを持つ人が多くなっているのも、一方の現実と思います。残念ながら、安倍自公政権は安定性を欠き、混乱の時期あるいは時代を迎えるようになると思います。中国、韓国の現政権はそれを期待しているかもしれません。

 2015年8月10日

                             清宮昌章 

                           

参考文献

 井上卓也満州難民」(幻冬舎

 文藝春秋で読む戦後70年 第1巻

 海外事情7・8月(特集 海外事情研究所創立60周年)

 筒井清田忠編「昭和史講義」(ちくま新書

 選択8月   他

 

 

安全保障関連法案に関連して【 後編 】

服部龍二著「広田弘毅

 我々が今なお、今次大戦を問い続け、否問い続けざるをえない中にあって、本書は何故に日本が太平洋戦争に突入し、そして敗戦に至ったのか。世論を作り出す、そのときの言論機関・マスコミはどうであったのか。そういった諸々の歴史経過を検証する意味でも新書版ですが、時宜を得た、極めて参考になる研究書でもあると私は考えます。

 「子曰く志士仁人は生を求めて仁を害することなく、身を殺して仁をなすことにあり」と最後の言葉を残し処刑場に向かったという広田弘毅は悲劇の宰相として語られていますが、「それはたぶんに城山三郎の『落日燃ゆ』に(我々が)影響されており、ひいては日中戦争東京裁判に対する国民の歴史観を形成してきたとすればどうであろうか。等身大の広田像を慎重に描きなおさなければならない。それが本書を著す動機である。」(274頁)、と著者は述べています。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20150722192649j:plain 服部龍二著:広田弘毅「悲劇の宰相」の実像


 1878年(明治11年)に福岡の小さな石屋の長男として生まれた広田弘毅日清戦争に続く三国干渉に衝撃を受け、当初の軍人志望から外交官志望へと変わります。第一高等学校東京帝国大学を経、職業外交官となり、その後、1930年代の日本外交を最も体現する政治家となりました。結果的には東京裁判A級戦犯として、侵略戦争の共同謀議、満州事変以降の侵略戦争、戦争法規遵守義務の無視という三つの訴因で有罪となります。とりわけ外相時代における南京事件の犯罪的過失を重く取られ、


 「残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、又同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の責任に怠慢であった。このため判定はかれの不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。」(260頁)と厳しく断罪されます。

 この不作為という断罪の意味合いには、現在の会社生活を含めた我々日常行動は如何であったかと自らも省みるべき性質をもつものではないでしょうか。広田弘毅は唯一文官として、判事11名のうち6対5の賛成で死刑に処せられ、その運命を閉じるわけです。彼の一生の検証はわれわれにも決して他人事ではなく、自らの生き方、人生のそれぞれの場面での自らの対処の仕方はどうであったの。或いはどうあるべきなのか省みる必要があると私は考えます。

 広田の辞世の言葉も仁人、無私の人という面だけではなく、「だが広田は二・二六事件後の組閣などで粘りをみせたにせよ、総じて首相や外相のときに命を賭するような態度に出なかったはずである。『身を殺して仁をなす』ということばには、要職にありながら敢然たる行動を取れなかった悔恨の情がにじんでいるようにもみえる。辞世に広田は、遠い記憶をたどりながら、自戒の念にとらわれていたのであろうか。」(279頁)、と著者は記しています。

 著者は本書において広田弘毅を論じるに四つの課題をあげています。

  1. 広田の生涯を描くこと。城山三郎「落日燃ゆ」をはじめとした小説にされた有能であるが軍部に抗いしきれず、東京裁判では一切の弁明をせず。死を受け入れたという無私の人物だけではなく、頭山満に率いられた福岡の国家主義的団体「玄洋社」の社員としての憂国の士でもあったこと。
  2. 日本外交の潮流に広田を位置づけること。
  3. 1930年代の日本外交。
  4. 東京裁判


 そうした位置づけの中、本書は第一章;青年期、第二章;中国と欧米の間、第三章;外相就任と協和外交、第四章;首相の10ヶ月半、第五章;国民政府を対手とせず、第六章;帝國日本の瓦解、第七章;東京裁判、終章;訣別、という構成です。諸々の広田弘毅伝、玄洋社に関するもの、. 成されていますが日本外交文書等々、膨大な資料を基に丹念にその四つの課題に迫っていきます。

 広田弘毅は1906年(明治39年)に二度目の外交官試験を主席で通過します。外務省に入省するものの、その後は幣原喜重郎が主流であった欧米派ではなく、むしろ日中提携の革新派の一員として駐オランダ公使、駐ソ連大使といったむしろ外務省の亜流を進みます。1936年(昭和11年)の二・二六事件後の首相に就任し、それから敗戦に向かうまでの政党間の状況、陸軍との葛藤、同期の吉田茂との関係等々詳細に記しております。当時の政局、世論・言論がどんなものであったか伺いできます。

 外相時代における「広田三原則」、首相時代の軍部大臣現役武官制の復活、日中戦争・太平洋戦争に向かうこととなる帝国国防方針の改定。更にその後の近衛内閣の再度の外相時代に盧溝橋事件、及び陸軍が「蒋介石打倒」を打ちあげるなか、広田としてはそれを緩和する表現として「爾後国民政府を対手とせず」との声明を出します。ただ南京事件への対応がA級戦犯として東京裁判で重罪として取り上げられるとは、近衛内閣の外相時代には夢想さえしていなかったがはずです。


補足 天皇制に関して

 尚、むのたけじ著「戦争絶滅へ、人間復活へ」の中で、「戦後の日本は、やるべきことをやってこなかった。1945年8月15日以降、天皇制をきちんと処理することも、とうぜんやるべきだったのにやらなかった。そして、もっとも大事な憲法9条のなかには、さっき言ったように、軍国日本への死刑判決と人類平和へ導く道しるべという両方があり、最も暗いものと明るいものが重なり合っている。」(同書101頁)と述べており、

 予感みたいのものを言えば、今の皇太子夫婦が天皇・皇后になろうとするときこの天皇制はもう一度問題として吹き出す。これ以上、天皇制を存続させるのはむずかしいのではありませんか。そのとき、天皇一家は自分達をどうしていくかを、みずから意思表示しなければならない。(同書96頁)とも記しています。現在、我々はどう考えればよいでしょうか。

 一方、服部龍二氏は歴史資料を分析する中で、危機的な状況にあって政治指導者は、うつろいやすい時流に染まってはならない。国家の岐路に立つ瞬間であればなおのこと、大勢に順応するのではなく、大所高所から責任ある決断力を発揮すべきである。最晩年の(昭和)天皇は、ときの権力者や後世にそう言い残そうとしたのかもしれない。逆説的な表現ながら、身をもって体験した敗戦から学んだ歴史の教訓であった。(195頁)、と間接的に同氏も今はタブー視されているかのごとき天皇制を問題にしているようにも思います。


おわりに

 以上、確とした根拠もなく、三氏の著書を対比するような形で進め、私なりの感想的なことも織り込みながら、龍二服部著「広田弘毅」に焦点をあて紹介してきました。纏まりのないものになっていますが、同氏が本書の終章「訣別」のなかで私にとり印象深い文節を引用し、終わりと致します。


 思えば、広田の生涯は、逆説に満ちていた。もともと軍人志望であった広田が外交官になったのは、軍事力ではなく外交を政策の手段とするためであった。だが広田の外交は、日中戦争の歯止めとはならず、それどころか武力行使を対中外交の圧力に利用すらした。外務省主流の幣原派と距離を置いたためにかえって1930年代の主役にのし上がったこともそうだが、最大の逆説は中国であろう。少年時代から大陸を夢みた広田は、弘毅という名前すら「論語」から得た。念願の外務省に入った広田は、真っ先に中国へと赴任し、外相としても駐華大使館への昇格を進めるなど中国との提携に努めた。しかし広田の外交は、陸軍の華北分離工作とともに後退しはじめ、陸軍の自治工作を用いて広田三原則を進めようとするところもあった。第二次外相期には「対手とせず」の声明にまでいたり、東京裁判で中国を含む判事団によって死刑宣告をされた。広田が胸に描き続けた「日中提携」の末路は悲劇的なものであったにせよ、そのことは広田の悲劇と片づけられるものではない。悲劇の宰相とみなされがちな広田だが、破局へ向かう時代に決然とした態度に出なかった。広田が悲劇に襲われたとうよりも、危機的な状況下ですら執念をみせず消極的となっていた広田に外相や首相を歴任させたことが、日本の悲劇につながったといわねばならない。あの戦争の責任を広田だけに負わせるのはもちろん公平ではないし、極刑は過酷だったと思うが、少なくとも責任の一端は広田にあったと考えざるを得ない。広田としても責任を痛感していただけに、敢えて証人台に立たなかったのであろう。その半面で広田の挫折は「日中提携」の本質的な難しさを暗示しているようにみえる。(中略)70年で幕を下ろした広田の生涯は、政治指導者のあるべき姿や、「日中提携」の隘路を現代に問いかけているのかもしれない。(272頁)

 

              2015年7月20日

                                                                                               清宮昌章


参考文献

城山三郎「落日燃ゆ」(新潮社)

日暮吉延「東京裁判」(講談社現代新書)

渡辺利夫「私のなかのアジア」(中央公論新社) 

同 「新 脱亜論」(文芸新書) 

むのたけじ「戦争絶滅へ、人間復活へ」(岩波新書) 

服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」(岩波新書)

同 「広田弘毅」(中公新書)

同 「日中国交正常化」(中公新書)

同 「日中歴史認識」(東京大学)

日暮吉延「東京裁判」(講談社現代新書

拓殖大学海外事情研究所「海外事情」(2008年8月、2015年6月)、

文芸春秋」(2008年10月号)

アンネッテ・ヴァインケ著 板橋拓己訳「ニュルンベルク裁判」(中公新書

稲垣清「中南海 知られざる中国の中枢」(岩波新書)

宮本雄二習近平の中国」(新潮新書

「選択」(2015年7月)        他