清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

池田信夫「丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで  

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで

 

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序章

 

 日本の政治は、なぜここまで壊れてしまったのだろうか。国会が圧倒的多数与党と無力な野党に二極化し、政策論争がなくなってスキャンダルばかり論じられる昨今、そう思う人は少なくないだろう。自由民主党が「保守党」であることはいいとして、野党は何なのだろうか。彼らの自称する「リベラル」という理念は、日本にあるのだろうか。

 

 以上は著者、池田信夫氏の本書の「はじめ」における冒頭の言葉です。続いて次のように続けます。

 

 戦後の日本には、リベラルの輝いた時代があった。それを代表するのが丸山眞男である。彼は1950年代まで日本の論壇をリードし、1960年の日米安全保障条約改正の時は反対運動の中心になった。かれの本業は東京大学法学部の教授として政治思想史を教える研究者だったが、世間的に注目されたのは論壇のスターとしてだった。彼は60年代以降、政治運動から身を引き、研究者に専念するが、60年代後半の東大紛争では学生に批判される側になり、「戦後民主主義」とか「近代主義者」というレッテルが貼られた。

 

 ・・(中略)今も丸山を慕う人々は、戦後民主主義国家の黄金時代を懐かしみ、その「原点」を継承して憲法改正を阻止しようと考えているのかもしれない。

 だが憲法第九条の平和主義は、丸山の原点ではなかった。戦後最大の分岐点は、憲法ではなく講和条約だった。丸山は1950年に米ソと同時に平和条約を結ぶ「全面講和」を主張した。1960年の安保改正のときは強行採決を批判し、「民主主義を守れ」と主張した。こうした運動は失敗に終わり、60年代には丸山はアカデミズムに退却した。  

 

 その後の日本は、1950年代にリベラルが考えたのとはまったく違う方向に発展した。憲法は改正されなかったが日本は再軍備し、安保条約は存続した。彼らが理想化した社会主義は悲惨なユートピアになり、自民党に対抗する野党は生まれなかった。丸山を代表とする進歩的知識人は政治的に敗北し、そこから今なお立ち直ることができない。

 丸山の敗北を検討することは、彼個人を超えた意味がある。彼に代表されるリベラルな気分は、今多くの人に受け継がれているからだ。空文化した憲法の平和主義は、篠田英郎の指摘するように「戦後日本の国体」として人々を呪縛している。(本書10頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私としては共感を覚え、それが本書を読み始め、そして読み終えた大きな要因でした。

 本書は序章・明治の国体に抗いして、第一章・自然から作為へ、から始まり、第十一章・失われた主権者、に続きます。そして、終章・永久革命の終わり、という構成ですが、著者は以下のように記し、本書を閉じています。

 

 軍事的な主権を放棄した日本は、アメリカの世界戦略に従属する状態にずっと置かれることになった。一国平和主義は日本人の心に中に住みつき、憲法を変えただけでは変わらない。もはや日本が二十世紀型の主権国家として自立することは不可能だが、それが唯一の「普通の国」のモデルとは限らない。国家主権も平和憲法もフィクションだが、それは平和が続く限り役立つフィクションである。

 今は日本にとって、この変則的な戦後の国体を護持する以外の選択肢はないだろう。それは「憲法改正は時期尚早だ」と主張して、それを既成事実として守った丸山の戦術の成功による失敗だった。彼も認めたように憲法第九条は逆説であり、今後も逆説である他はない。丸山は1996年8月15日、彼の信じた革命の歴史を閉じるかのように異論は世を去った。(本書248頁)

 

 フィクション云々には異論もあるでしょうが、私には印象に残る、「はじめ」と「終わり」の記述です。その中身はどうか、へと関心と興味が沸き、読み進めた次第です。方や、本書は丸山についての解説書ではない、と述べている著者は1953年生まれです。東大を卒業後、NHKに入局、色々とご意見はあろうと想いますが、報道番組「クローズアップ現代」などを手掛け、退職後、博士(学術)取得。現在は、アゴラ研究所代表取締社長です。尚、今回も本書の全体を紹介するのではなく、私の興味深く感じた諸点に絞って綴って行きます。           

 

その1.丸山眞男の履歴、その関連で想うこと

 

 今から4年前になりますが、私は自費出版の拙著「書棚から省みる昭和」の第十四章・丸山眞男を想う、と題し、丸山眞男を取り上げ、丸山を考えることは、戦後思想と知識人界を考えることにほかならない、と僭越にも記しました。そして丸山のトラウマ的なことも併せ記しました。その時と重複する感もありますが、改めて、丸山の来歴とその思想の発端は何であったのか、僭越至極ですが私なりに若干の補足をし、以下記して参ります。

 

 丸山は1914年(大正三年)、洋行帰りの「大阪朝日新聞」で筆を執った著名なジャーナリスト丸山幹治の次男として大阪で生まれます。謂わば、明治ではなく大正デモクラシーの大正ッ子です。そして一家とともに東京の四谷区愛住町に移り、大正12年9月の関東大震災を経験します。尋常小学校4年生だった丸山の手記として朝鮮人の対する「自警団の暴行」への批判が記されているとのこと。そして、その震災経験を1995年の阪神大震災時の知人の見舞い状に、「ああいうパニックの際の人間性の中にある強烈なエゴイズムと、その反対にまったく自発的な利他精神を子供ながら目撃したことがやはり私の生涯でもっとも大きな経験でした」と記している、とのことです。

 そして東京府立一中(現在の日比谷高校)に合格し、4年次では第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験に失敗するものの、5年次を経て一高、東京帝大に進みます。尚、高校三年の時、父の友人でもある長谷川如是閑の主宰する唯物論研究会の講演が本郷仏教会館で行われ、偶々、学生服で足を運びます。その彼のポケットに入れていた手帳の言葉「日本の国体は果たして懐疑の坩堝の中で鍛えられているだろうか」を見つけられます。それはドストエスキーの「わが信仰は懐疑の坩堝の中で鍛えられた」という引用ですが、「貴様、君主制を否定するのか」と、共産党の活動家とみなされ治安維持法違反で検挙、留置所に拘留されます。そして、スシ詰めの豚箱での異様な体験。朝鮮人への激しい官憲の暴力。そして同房の一年先輩と話しているうちに不覚にも涙を流したことです。この異質なものとの遭遇は後の学生時代、助教授時代、兵役時代、そして広島の原爆の被爆の経験にも連なっていくわけです。

 

 帝大の法学部の助手の時、偶々、早稲田大学津田左右吉が右翼の攻撃を受け、帝大法学部の非常勤講師を辞任したため、26歳で東京帝大法学部の助教授に就任します。しかし、かって逮捕・拘留所でのことから思想犯としてレッテルを貼られていたのでしょう、東京帝大の助教授でありながら、1944年サイパン陥落の時、30歳で長野県松本の連隊に陸軍二等兵として招集されます。そして、所属部隊ごと朝鮮の平城に送られ、朝鮮の人々の底知れない反感、複雑な怨恨感情を知ることとなります。栄養失調から二ヶ月後に兵役を解除されますが、その兵役では思想犯として苛め抜かれといった、再び「異質なもの」に遭遇するわけです。とくに「最も意地の悪い」仕打ちを加えたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入隊した朝鮮人一等兵であった。

 

 丸山は再び、1945年3月、二等兵として招集され、広島の陸軍船舶司令部に配属され8月6日原爆投下から五十キロの地点で被爆します。奇跡的に助かり、死去の際には「香典は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上の残った場合には、原爆被害者法の制定運動に寄付する」との遺言を残しました。

 

 尚、興味深いことは、丸山が八月十六日に上官である谷口参謀に「連合軍は民主主義と言っているが、そうなると陛下はどうなるのか? 君主制は廃止されるのではないか?」との質問に対し、以下のような意味で返答をした、とのことです。興味深いので紹介致します。

 

 ご心配には及ばないと思います。民主主義はわが国体と相容れないというような考え方はそれこそ昭和の初めごろから軍部や右翼勢力を中心にまかれて来たプロパンダです。国法学の定義としても、君主制と対立するのは共和制であって、民主制ではありません。民主制は独裁制に対する対立概念です。イギリスは君主制ですが、極めて民主的な国家であり、逆にドイツは第一次大戦征以後、共和国になりました、その中からヒットラー独裁が生まれました。(本書35頁)

 

 丸山の問題は「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」ということだった。彼はその背景に既成事実に屈服しやすい日本人をみたが、それを屈服させたのはナチスのような独裁者ではなかった。むしろ「寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかった」ことが日本の軍国主義の特徴である。そして、1946年の「世界」五月号に掲載された丸山の「超国家主義の論理と真理」は戦後の社会科学に最大の影響を与えた論文で、戦争の原因を日本人の心理に求めたものです。そして、後に「八月革命」と呼ばれる宣言が以下の記述です。

 

 日本軍国主義に終止符が打たれた八・十五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(本書40頁)

 

 丸山の終生のテーマーは天皇制だった。それは戦前の日本人にとっては圧倒的な権威であり、多くの兵士が天皇のために死んでいったが、単なる政治的な君主制ではない。「原型」や「古層」は、日本人の心に深く根ざした天皇制を理解するための概念装置だった。・・(中略)戦争が終わって多くの人が「天皇の戦争責任」を問題にしたとき、逆にリベラルな天皇が戦争を止められなかったのはなぜか。それは天皇制を支えた政治の問となり、日本人は何かという問になった。(本書142頁)

 

 そして、丸山は1960年に行われた日米安保条約の改正という戦後最大の岐路を迎えます。1950年代か続いてきた講和問題をめぐる左右対立が先鋭化し、安保条約の評価が国論を二分します。このとき、彼は安保反対運動のヒーローとして知られるようになります。ただ、彼は安保条約の内容については、ほとんど論評しておりません。彼が反対したのは、条約改正の強行採決だったのです。

 

 その後は、丸山は全共闘の学生らによる「大衆団交」で吊し上げ、更には在野の知識人である吉本隆明達からも、その行動・思想を激しく批判されます。因みに吉本隆明は1923年生まれで2016年に88歳で死去されます。絵に描いたような学歴エリートの丸山と異なり、下町の船大工の三男として生まれ、東京府立化学工業学校、米沢高等工業学校、東京工業大学です。蛇足ですが、その次女は作家の吉本ばなな氏です。全共闘プロレタリアート化された学生が、丸山に代表される教養エリートをモデルにした上昇型知識人の道ではなく、むしろ下町知識人のポジションから発言する吉本隆明の方にシンパシーを感じたのも不思議ではない、と竹内洋氏が記しております。

 

 丸山は安保騒動後、政治的活動から離れ、東大教授も定年前に退きます。それからは日本政治思想史の研究に専念し、1966年、奇しくも「八月十五日革命説」を唱えた、とする、その同日の五十二回目の所謂、終戦記念日に八十二歳の生涯を閉じます。

 

その2.無責任の体系の始まり

 

 丸山は既成事実への屈服という倒錯した意思決定の原因を明治憲法の欠陥に求め、明治幕藩政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシャに倣って作り上げた時に既に今日の破綻の素因は築かれていた。そこでは明治時代の基本的な対立として幕藩体制自由民権運動という図式が描かれ、その延長上に昭和の軍部と政党政治の対立があった。そして、ファシズムの担い手は本物のインテリではなく、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官という疑似インテリ、としています。このようにインテリを特権化する議論は丸山の特徴で、東大教授のエリート主義として(特に左翼から)強い批判を受けた、と著者の池田氏は記しています。

 

 尚、ファシズムという観点については、著者は以下のように記しています。

 

 代表制が機能しない大衆社会の危機に対する主権者として登場した独裁制ファシズムと考えると、日本の軍部支配はファシズムとはいえない。独裁者は不在で、政党は存続した。本来の主権者である天皇ファシズムに反対していた。よくヒトラーに比せられる東條英機は権力基盤が弱体で、それを補うために首相と陸将と参謀総長を兼務した。実質的な意思決定を行ったのは現場の将校であり、彼らをあおったのは新聞の戦争報道だった。(本書46頁) 続いて、

 

 軍部の力を借りて危機を乗り切ろうとする内閣に革新官僚が呼応し、総動員体制を取るために軍事的な雇用創出や賃金の国家統制などの社会政策を取った。農村の窮乏かを領土拡大で解決するため、陸軍が大陸に進出したのが1931年の満州事件である。翌年には陸軍の青年将校が五・一五事件でクーデタを図ったが、国民は軍部を熱狂的に支持した。この三十年前半が世論の転換期で、政党も軍部に迎合するようになった。大衆がストレスを発散する最大の劇場が戦争だったからだ。

 この状況で民意を統合する新聞の役割は大きかった。1931年5月まで朝日新聞軍縮派だったが、この年9月に満州事件が起こると、大阪朝日の社説はこれを「自衛権の行使」として擁護した。その動機は単純である。満州事件で、部数が50%も増えたからだ。大規模な戦場のスペクタクルと、そこで戦う息子の安否を知りたい親心から、人々は争って新聞を読んだ。総力戦はデモクラシーから生まれたのだ。(本書243頁)

 

 著者のこの観点は如何でしょうか。私は共感・賛同を覚えるのですが。メデイアが煽った世論操作の行く着く先は、今でも起きている現実ではないでしょうか。加えて、戦後も何らの責任も取らず、感ぜず、A戦犯と称する人々にその責任を負わせる新聞等メデイアの在り様は今日でも変わらない現実ではないでしょうか。3年ほど前になりますが、私は淸宮書房で筒井清忠著「近衛文麿」を取り上げました。新聞各社、とりわけ朝日新聞が如何に他人事のように戦争責任を捉えていたかを示すもので、敢えて再び以下に記します。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかってあれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降、最近の公の行蔵は世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。・・(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。・・(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。・・(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。・・(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(筒井清忠著「近衛文麿」295頁)

 

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(同上近衛文麿296頁)

 

筒井清忠氏は新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しています。何故に戦後、むのたけじ朝日新聞社を辞めていったのかが、改めて私は思い起こされるところです。

 

その3.知識人の闘い

 

 丸山は疑似インテリがファシズムの担い手としたのですが、では本来のインテリは戦中、戦後どうだったのでしょうか。著者は次のように記して行きます。

 

 1930年代の混乱した時代に、リベラルな「本物のインテリ」は問題を正しく認識していたが、「亜インテリ」のファシストにやられた、という丸山の歴史観は事実にそくしていない。普通選挙ポピュリズムを生み、政党政治軍国主義と野合して大政翼賛会が生まれた。そこに集まった知識人は軍部に対して無力ではなく、積極的に軍部を呼び込んだ。近衛文麿がその中心だが、彼をとりまく「昭和研究会」のメンバーにも東京帝大の本物のインテリである蝋山政道、矢部貞治、大河内一男大塚久雄等々。そして、大政翼賛会の事務局長の朝日新聞緒方竹虎笠信太郎然りである。終戦直後に治安維持法で検挙されて獄中で死んだ三木清が、その中心だった。

 

 「緒方や笠は狂信的な右翼ではなく、リベラルな社会民主主義だったが、彼らが近衛大政の支柱になった。新聞の支持に乗って軍部の発言権は強まり、革新官僚国家社会主義の経済体制を構築した。その中心が岸信介である。国家社会主義の教科書を書いた笠は1948年に帰国し、朝日新聞の論説主幹として全面講和や安保反対の論陣を張った。彼は戦前の著者をすべて絶版にし、戦後はそれについて何も語っていないが、軍国主義を支えたのは笠と革新官僚の立案した国家社会主義だった。戦前の日本と戦後の日本は、丸山が思っていたほど離れていなかったのだ。」(本書221頁)

 

 皆さん、如何思われるでしょうか。一国平和主義についての、所謂知識人との関連については、次のように指摘しています。

 

 安全保障をめぐる国会審議では、国をいかに守るかより憲法違反かどうかが争点なるが、日本国憲法は他国には適用できないのだから、集団的自衛権の行使が憲法違反か否かは自国を防衛できるかどうかとは論理的に無関係な問題である。こうした憲法解釈をめぐる神学論争に多くの政治的資源が費やされる状況は世界にも類をみないが、そういう論争の始まったのが1950年代だった。

 その最大の焦点が講和条約だった。アメリカなどと早期に講和する「単独講和」か、ソ連や中国を含む「全面講和かが論争になったのだが、全面講和を条件としたら、ソ連と平和条約を結んでいない日本は、いまだに講和はできていない。当時の知識人の中では全面講和が圧倒的に優勢で、その運動の中心になったのが丸山だが、彼自身は神学的な立場をとっていなかった。・・(中略)単独講和は実際には単独でなく(中ソを除く)48カ国との「多数講和」だが、この言葉が世の中に錯覚を与えた。・・(中略)全面講和は不可能だったので可能な選択肢の中から多数講和を選んだ。・・(中略)それに対して知識人は、平和問題談話会を結成した。・・(中略)久野収や丸山が中心になって平和問題討議会を結成し・・(中略)メンバーは安陪能成、和辻哲朗、田中耕太郎、蝋山政道などのオールド・リベラリストから大内兵衛、脇村義太郎、有沢広巳などのマルクス経済学者、中野好夫都留重人を含むオール・ジャパンの知識人だった。全面講和を特集した岩波の『世界』1951年11月号は五刷を重ね、十五万部も売れた。・・(中略)丸山が政治の表舞台に登場したのは、この全面講和論争のときだった。(本書70頁から73頁)

 

 そして、著者は次のように指摘します。

 

 丸山は非武装中立と言う言葉は使っていないが、ここで知識人のコンセンサスとなった非同盟・非武装の一国平和主義が、統一された社会党の路線となり、戦後の日本を

呪縛した。談話会は全面講和という目的の達成には失敗したが、憲法改正の阻止という副次的な目的は達成した。結果的には、1950年代が、再軍備の最初で最後のチャンスだった。戦後の不毛な憲法論争のアジェンダを設定した丸山の責任は重い。(本書76頁)

 

 如何でしょうか。私は僭越ながらその通りと、考えます。

 

その4.永久革命の終わり

 

 僭越ながら著者の記述を一部省略し、記して参ります。

 

 1950年代以降の安保論争は、壮大な政治的資源の浪費だった。再軍備によって占領統治を終えていたら起こらなかった神学論争が、その後六十年以上続けられている。平和主義の論陣を張った知識人は丸山を初めとして党派の違いを超えた知的エリートだったが、歴史的には敗北した。・・(中略)労働者にとって外交や国防は大きな関心事ではなかった。人民を豊かにしたのは労働組合ではなく資本主義であり、「持てる者」になったサラリーマンは、既存秩序を維持する自民党の支持層になった。主権者は失われたが、新憲法はなし崩しの正統性を得て、それを守る運動は不要になった。皮肉なことに、日本人の「古層」にあった既成事実への屈服が、憲法改正の最大の障害となったのだ。(本書238頁)

 

 続いて、長い引用で恐縮しますが、重要な著者の指摘なので若干の補足を加え、以下紹介致します。

 

 丸山はデモクラシーをあえて民主主義と呼び、その理念としての面を強調したが、それは国民を戦争に総動員するための統治形態である。その意味では昭和の日本はデモクラシーとして成功したが、それは政治の劣化をもたらした。昭和初期には松島遊郭事件や陸軍機密事件や朴烈怪写事件、帝人事件などの、でっち上げスキャンダルが帝国議会で問題となり、多くの内閣が倒れて政党政治が不安定化した。・・(中略)戦前の国体に代わって丸山が再建しようとした人民主権は、その根底に論理的な弱点をはらんでいた。議員内閣制では、国民が選出した国会議員が内閣総理大臣を選び、彼が行政の最高責任者として国民を支配するが、ここでは至上の主権者たる国民が支配される側になるという循環論法がある。行政の専門家ではない民衆が、統治者として賢明な判断をする保証はどこにもない。

 丸山も自覚した通り、これは近代国家にとって避けられないパラドックスである。それを国民の自覚で乗り越えようとするのが彼の永久革命だったが、これは知識人の観念に過ぎない。冷戦が終わって長く平和が続くと、国民が主権者として決断するという丸山の理念は忘れられ、平和憲法と日米同盟という戦後日本の国体が定着した。

 

 ・・(中略)冷戦は終わったが、資本主義のグローバル化が政治体制の収斂をもたらすようにはみえない。今も独裁国家は民主国家より多く、それが逆転する兆しもない。ヨーロッパ的なデモクラシーを超えた普遍性をもつという、丸山の信念は戦後知識人の願望でしかなかった。日本の政治の末期的な状況は、普通選挙政党政治によるデモクラシーの限界を示している。

 

・・(中略)非同盟と非武装を混同した丸山の理想主義は、戦後の左翼をミスリードした。・・(中略)多くの選挙で野党が共闘する「最小限綱領」として憲法は次第に大きな役割を果たすようになった。当初は綱領で憲法改正ということば明記した共産党もそれを封印し、社会主義という言葉は使わなくなった。残されたのは、平和主義という誰も反対できない心理倫理だった。

 

・・(中略)日本でも与野党が話し合えば憲法は改正できたが、野党は平和憲法に呪縛され、分裂を繰り返した。その原因を中選挙区制だといわれたが、1994年に小選挙区制に改正しても変わらなかった。万年野党が結集できない原因は平和憲法だった。それを封印した民主党政対権が政権交代を果たした後も憲法をめぐる対立は続き、最近は野党は社会党に先祖返りしている。・・(中略)憲法自衛隊・安保条約の矛盾は、政権をあきらめた野党が自民党を攻撃する最大の材料になった。・・(中略)丸山を初めとする進歩的知識人は、万年野党を正当化する守護神の役割を果たしたのだ。(本書242から247頁)

 

 非常に興味深い指摘ではないでしょうか。本書は新たな丸山眞男論かもしれません。

 

おわりに当たって

 

 今回も、本書の紹介にも関わらず、要領悪く、長々と綴ってきてしまいました。

 

 今月20日には自民党総裁選で安倍普三氏か、石破茂氏のいずれかに決まりますが、何も私は自民党の政策等を全面的に支持しているわけではありません。ただ、何でもかでも自民党、特に自民党総裁で首相である安倍晋三氏を目の敵に挙げるメデイアには、極めて異常さ、否、むしろ危険性を私は抱くのです。

 

 方や、旧社会党に先祖帰りをしたかの立憲民主党の理念、外交政策は何なのでしょうか。立憲とはどんな意味を持たせたのでしょうか。むしろ、この政党は単に今の平和を享受しているだけで、その理念・思想も理解できません。従い、外交を含めたその政策も、展望も私には分かりません。又、その政党自体が政権を取るなどという発想は全く持っていないに等しい、と考えます。

 又、日本共産党は何を目指しているのでしょうか。そして、それなりの意味を込め政党名を決めたのでしょうが、共産党の前に日本をつけ、「日本共産党」とした意味合いは何だったでしょうか。また、その日本共産党には自浄装置はあるのでしょうか。現在の委員長の期間は18年になりますが、今後何年やっていくのでしょうか。また、その交代はどのような時に起こるのでしょうか。     

 加えて、日本維新の会は未だ地域政党から脱しきれず、その他の野党は議員自らの生活維持するに過ぎない、単なる集まりとしか私には映りません。全ての野党ではありませんが、野党国会議員の国会内外での言動、行動の在り様は眼を覆うばかりです。今回の北海道の大震災の際でも、粛々と行動する人々との相違はどこから来るのでしょか。ただ、その国会議員を選んだのも国民一人一人なので、こうした批判は天に唾を掛けるようで、一抹の後味の悪さが残るのです。

 

 単なる経済圏構想ではない一帯一路を強引に進める、共産党一党独裁、価値観の大きく異なる大国中国の擡頭。加えて、隣国の朝鮮半島両国の日本敵視は歴史認識・事実とは離れ、それはひとつの国民性となった怨念であり、世紀を超えても変わらないでしょう。従い、そうした隣国との協定・条約はいつでも破棄・無視されることを前提に置くことが必要だということでしょう。更に、内向きになったアメリカ、揺れ動くヨーロッパ、頻発するテロ等々、地政学的にも大きく変貌している中にあって、日本はどうすべきなのか。日本は極めて厳しい時に直面していると想います。そんな苛々している中、本書に出会いました。ただ、私は苛々を解消するには至りませんが、ひとつの参考になる著作に出会った、との印象です。僭越ながら、皆様に改めて本書の一読を勧めるところです。

 

2018年9月14日

 

                           淸宮昌章

 

参考図書

 

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

刈部直「丸山眞男」(岩波新書)

竹内洋丸山眞男の時代」(中公新書)

間宮陽介「丸山眞男

筒井清忠近衛文麿」(岩波現代文庫)

同   「戦前の日本のポピュリズム」(中公新書)

水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

丸山眞男「現代政治の思想と行動」(未来社)

淸宮昌章「書棚から顧みる昭和」(言の栞舎)

その他