清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その1

 

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はじめに

 

 前回になりますが、本年4月の投稿には少々個人的な過去の出来事、思いを載せました。右脚の怪我のためでしょうか、過去の自分を改めて考えるのもいいかなと思ったところです。今から3年程前の吉田満戦艦大和の最後」に関する三本の投稿を今回、修正及び追加を致し二本としました。ご興味とお時間があれば、改めてご一覧頂ければ幸いです。

 

第一章 「鎮魂 吉田満とその時代」( 粕谷一希 文春新書)を読んで

 

その1 某読書会の原稿

 

 下記は今から10数年前2005年の某読書会へ提出した原稿です。

 

 ここのところ例の歴史問題がまたまた論議されています。斯様な状況下、私にとり反面教師でもある高橋哲哉氏の「靖国問題」、「戦後責任論」、「教育と国家」及び中村正則氏の「戦後史」、そして、その対極に立つとも言うべき中西輝政氏の「日本の死」、中間的な横山宏章氏の「反中と反日」に目を通してみました。加え、全然ちがった観点からの「宮澤喜一回顧録」を読んだところです。

 

 何か心にしっくり感が起きない中、1930年生まれ、中央公論の過っての編集長・粕谷一希氏による吉田満に関する掲題の新書に出会ったわけです。それは千早 耿一郎氏の「大和の最後、それから」を補足するような、私にとっては吉田満幼年時代、学生時代、戦後の日銀時代を見る上でとても参考になりました。

 

 本書「鎮魂 吉田満とその時代」6章で、吉田満が東大法学部法律学科時代の友人である和田良一との往復書簡が載っています。全くの偶然とはいえ、その和田良一氏は小生がO社の人事総務本部時代、労使問題の会社側の顧問弁護士であり、小生とも多少の面識もある労働法関係の大家でありました。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継いでいます。良一氏の弟子である当該事務所の弁護士先生方には大変勉強させてもらい、そのうちひとりの先生とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 商社の労働争議の史上最長といわれたストライキを、労使双方大きな痛手なのですが、打たざるを得なかった労働組合の本部副書記長時代の経験、又、その後、いろいろな経緯を経て、全く立場が変わる人事総務本部時代の労使正常化への苦闘。そうした経緯の後、会社としても大きな懸案事項である子会社のY社再建に私は離籍出向を致しました。その社長時代に人員整理を含めた会社再建業務(Y社の顧問弁護士もこれ又、和田良一氏の弟子)。更には現在、建築会社の顧問としての経営指導、並びに懸案の裁判事件の解決。そして、現NPO法人及び生涯学習団体の組織的観点等々への支援活動への私の礎を作ってくれたのが上記の和田良一法律事務所及びその弟子の先生方なのです。

 

 「鎮魂 吉田満とその時代」は、1章から6章までは既にA級戦犯が合祀されていたとはいえ、現在ほどこの歴史問題は大きく取り上げられていなかった昭和60年のものです。(私は昭和53年後半から59年半ばまで米国駐在)。勿論、中曽根元首相が靖国参拝で日本のマスコミも騒いだ事もありましたが、粕谷氏は本書で日米開戦当日の朝日新聞の夕刊に載せた「・・いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである」との社説全文を載せています。

 

 そして、日本の敗戦後は戦意高揚を掲げたマスコミも戦争責任を東条他戦犯のみに押し付け、敗者としての矜持もない、その苦々しさ又これでいいのかとの思いを吉田満の言葉として「一部の評論や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死になったのだろうか?」と記しています。そうした思いが粕谷氏の吉田満を取り上げるひとつ理由であると私は思います。

 

 尚、粕谷氏は「日米関係の最終段階での政治責任者は、近衛文麿、松岡洋介の二人が最も重い、」、「東条は有能な陸軍官僚であっても政治家に必要な器は持っていない、むしろ誰にも解決できない問題を押し付けられた犠牲羊であった。」と述べています。

 

 その観点とは別かもしれませんが、朝日新聞の記者であった、むのたけじ氏が敗戦直後、朝日新聞を辞め、山形の横手でタブロイド版「たいまつ」を出し、新聞のあり方を問い続ける姿に大いなる感動を私は覚えました。私は時の言論界、マスコミの在り方には常に問題点を残したまま、今日のわが国があるように思います。如何でしょうか。先日もちょっと触れましたが、吉田満森有正辻邦生に並び、むのたけじも私にとって大きな影響を与えた人です。

 

 この夏では、本書は私にとって、シュレジンガーの「アメリカ大統領と戦争」と並ぶ印象深い読み物でした。

 

                           2005年9月1日

その2 ひとつの奇遇

 

 昨年(2014年)の年末のことですが、久しぶりに自宅の襖、障子張替えを本職に頼まざるを得ず、近所の表具屋さんに来てもらいました。今まで近所に住みながら初めてお会いする田所義行氏です。最近になり海底に沈んだ戦艦武蔵の映像が放映されておりましたが、同氏がその撃沈された戦艦武蔵の上等水兵として乗り込み、奇跡的に生還されたとお聞きし、非常に驚いた次第です。今年で90歳になられても現役を続けられています。尚、お子さん達にも戦争の話、戦地での話はされてこなかったとのことです。偶々、ここ数年で機会があり、某月刊誌からの依頼で同氏とのインタヴューが始まったとのことです。6頁に亘るそのインタヴュー記事のコピーも頂きました。同氏は陸軍の空挺部隊と共に「空の神兵」と謳われた初代海軍落下傘部隊の一人で、セレベス島メナド郊外のランゴンアン飛行場に降下した情況等も載せられています。その後、上等水兵として戦艦武蔵に乗り組んだわけです。戦闘並びに撃沈された時の状況、又、始めて聞くことでしたが、レイテ沖海戦を前に戦艦武蔵は目立つ塗装に塗り直された。戦艦武蔵は戦艦大和の囮だったかもしれない、との感想を洩らされました。

 

 そんな奇遇もあり、「鎮魂戦艦大和」他を著した吉田満に関する粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」を再読。そして某読書会に出した2005年9月1日付けの読書感想を今回、合わせご紹介致しました。尚、吉田満については昨年自費出版した拙著「書棚から顧みる昭和」のまえがきにも触れておりますが、私の30代後半の時代に大きな影響を与えたキリスト者でもありました。

 

 2005年当時にも歴史問題が論議されておりましたが、今日の韓国及び中国から執拗に追求される歴史認識問題とは大分状況が異なっていることが分かります。10年という時代の経過があり、その駄文にも幾分かの修正というか、補助説明が必要ですが私の想いには余り変化はありません。拙著「書棚から顧みる昭和」では省いた吉田満と和田良一弁護士のこと、そして和田良一法律事務所の私との関わりも、今回は改めて見直しをした次第です。

 

第二章 粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)に関連して

 

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1.和田良一弁護士との関わり

 

 10年前になりますが、何か心穏やかにならない中、1930年生まれの中央公論の元編集長・粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ました。それは吉田満の戦後の航跡を示す姿、更にはキリスト者との心情を辿った千早 耿一郎著「大和の最後、それから」を補足するかのようで、吉田満幼年時代、府立四中、東京高校、東大の学生時代、そして戦後の日本銀行員の時代を知り、改めて吉田満の現代性の重要性を見たところです。

 

 その本書6章「書簡のなかの自画像」のなかで記されているのですが、吉田満が東大法学部法律学科時代の親友である和田良一氏宛の手紙3通、葉書28通を和田良一弁護士がお持ちとのことです。そのいくつかの往復書簡が載せられています。そのうち学徒出陣が目前に迫る中での和田良一氏宛てのひとつを以下紹介します。

 

 昨日奥多摩に練成旅行をした。けふは夜行で帰郷する。たまたま入営の旅行にもなった。九月ごろかへる予定。

 この二箇月、僕は次のことをして行きたい。あの創作の完結、仏教思想研究の熟読、キリストへの接近、このさいごのものに就いて僕は近頃非常に惹かれてゐる。僕のこれ迄の生活は全く真実でなかったために、僕には仕事への希望というものがなく、虚無的であって、そのため、むしろ僕はほっとした気持ちだ。対人関係も一応解決した。すくなくともさう思へる。では又(同書149,150頁)

 

 私の30代後半のニューヨーク駐在の苦闘時代にニューヨークの紀伊國屋書店吉田満著「鎮魂戦艦大和」に出会い、その後、次々と吉田満の著作を読み込んで行きました。その後も私の人生というか、ものの見方に大きな影響を与えた吉田満と和田良一弁護士が親友であったことを知ったわけです。全くの偶然ですが、その和田良一氏は私が岡谷鋼機(株)の人事総務本部時代、会社の顧問弁護士であり、多少の面識もある労働法・労使関係の大家でした。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継がれています。良一氏の弟子である法律事務所の弁護士先生方には大変勉強させられ、そのうち宇田川昌敏弁護士とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 岡谷鋼機労働組合の本部副書記長時代の経験。その後、いろいろと部門も変わり、更には全く立場が変わった人事総務本部時代での労使関係正常化への苦闘時代もありました。最後は岡谷鋼機(株)としても大きな課題の一つであった子会社の(株)山崎商工(現 オカヤマート株式会社)の再建に離籍出向したわけです。その社長時代に不良債権の処理、3割の人員整理等々を含めた会社再建(奇しくも山崎商工の顧問弁護士が上にあげた宇田川昌敏弁護士でした)、その後は神戸の建築会社の経営顧問として懸案の裁判事件、それに伴う企業舎弟とも言うべき地元の顔役との渡り合い、そして全面的勝利を勝ち取って参りました。そうした労使交渉等を含めた私の基盤を作ってくれが和田良一法律事務所であったわけです。加えて、その後のいくつかの企業等の再建業務に際し、私が和田法律事務所との関わりを持ったことを相手側の弁護士事務所等が知ることで、大きな力というか影響力を及ぼした次第です。

 

2.本書の意味合い

 

 本書「鎮魂 吉田満とその時代」は2005年に出版されましたが、21年間の中断も経たとのことです。粕谷一希氏としては、戦後60年を前にして、どうしても戦中派の吉田満の想いを繋いでいこうと考えたのだと思います。その序章で、吉田満の「一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?」とあげ、以下の文章を載せています。

 

 (中略)敗戦直後の風潮のなかでは、占領政策に歩調を合わせて、愚劣な戦争→犬死にとう罵声や風刺で満ちていたためである。徴兵忌避が美徳や勲章のように語られた。戦争の惨禍があまりに徹底していたために、飢餓と混乱のなかで、怨嗟と悔恨のなかで、日本人は我を忘れ、自信を喪失し、敗者の矜持を工夫する余裕がなかった。・・(中略)この敗戦という事態を直視することを怖れ、当時の支配層自体、終戦という言葉を慣用した。この敗戦と終戦という微妙なニュアンスの使いわけによって日本人は負けたという事実認識の真理的負担を回避しようといていたのである。勝っても負けても、戦争が終わったという単純な安堵感はある。そして安堵感は開放感につながる。・・(中略)多くの死傷者を抱え、家や財産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人々の立場を考えると、そうした開放感や笑いは違和感を拡大させるものであった。それぞれの開放感は抑制して、死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。おそらくこの敗戦への対応の態度のなかに、日本の進歩勢力は早くも日本人としての多数派を獲得する可能性を閉ざしてしまったのである。(同書21,21頁)

 

 粕谷氏は本書で靖国参拝のことにも敷衍し、祖国のために死ぬという人類普遍の美徳の意味を確認するためにも、広い視野、国際的な視野でこの問題に対しなければならない。吉田満の視点はある解決の示唆を含んでいるように思うと述べています。戦後は手のひらを返すように、中国との関係もありますが、マスコミが先頭に立って戦争責任を東條他A級戦犯に押し付け、済ましている現状に私は苦々しさを感じています。尚、第五章・栄光と汚辱のなかで、開戦の詔書が出た日の夕刊・朝日新聞の社説全文が記載されております。当時の世論が知識人を含め、どうであったか知る上で参考になります。

 

 現在の中国及び韓国による歴史認識問題に苛立ちを覚えていますが、わが国において安泰な生活を送りながら、独り善がりの正義を振り回す一部の知識人、それに乗るマスメデイアに、現在のどうしようもない歴史認識問題を生み出すひとつの要因があると思っています。

 

                           2015年5月18日

                        

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って その2

 

 粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」の中で、吉田満が学生時代に東大法律学科の親友である和田良一氏と交わされた書簡のことも紹介いたしました。偶々、昨年(平成17年)12月にその良一氏のご子息の和田一郎弁護士とお会いする機会ができ、改めて吉田満と良一氏とのお話を一郎氏よりお伺いする事ができました。

 

 私が30歳後半の苦難苦闘の時期、あるべき自己を考え直させてくれ、その後の私のあり方というか、ものに対する観点に大きな影響を与えてくれたひとりが吉田満です。その和田良一弁護士の門下生であった宇田川昌敏弁護士についても少し触れました。残念ながら宇田川弁護士も昨年(平成17年)11月に亡くなられ、「お別れの会」が和田法律事務所主催で12月6日、新宿のセンチュリーハイヤットで行われました。私もお知らせを頂き、その会場で故和田良一氏のご子息である和田一郎弁護士と人生の不思議と言うか、私は初めてお会いする偶然が生じました。

 

 故宇田川弁護士も労働法曹界の第一人者でした。私が(株)山崎商工の再建に当たり、既に触れましたが人員整理等々、労使交渉の問題解決の際には顧問弁護士として直接指導を受け、大変お世話になった方でもありました。

 

 岡谷鋼機(株)に在籍していた昭和40、50年代は、大学紛争の残滓でしょうか、商社においても労使問題が大きな課題となっておりました。ひとつの巡り合わせですが、私もまた、昭和60年代の前半に使用者側の人事総務本部の一員として悩み格闘した時代でもありました。そのときの会社の顧問弁護士が和田法律事務所であり、和田良一氏とも面談の機会もあったわけです。

 

 既に一部触れてきましたが、その後、私は人事総務本部から海外事業部の責任者、そして海外事業部から離れ、労使問題も抱えた国内の子会社の再建の責任者となって離籍出向をしました。宇田川弁護士も過っては和田法律事務所に所属し、岡谷鋼機(株)の管理職の懲戒解雇問題の際には会社の顧問弁護士として、名古屋地裁の法廷でも活躍され、最終的には双方和解と言う形で終結しました。私も岡谷労組の一員として、その裁判を傍聴しており、宇田川弁護士を知ったわけです。

 

 昭和50年代の前半までは労働組合側に居た私が管理職となっており、労使関係の正常化を計るべく一員として人事総務本部に配置換えとなり、新たな任務を帯びたわけです。共に従業員ではありますがアメリカ赴任前には労働組合から盛大な送別会を開いて頂き、帰国後は使用者側の一員としての配属は複雑な思いでもありました。そして7年間に亘る労使間の激しい闘争・交渉を経て、労使正常化が軌道に乗り、岡谷鋼機(株)が三百数十年の歴史上、初めて名古屋一部上場を果たし、そのチームは役目を終えたわけです。上場の為にも労使正常化が必要な時代であったわけです。尚、昭和40、50年代、続いて60年代の初めまでは、会社の人事担当役員は心労もあってか、三代に亘り現役中、或はその直後に病に倒れ60歳前後で亡くなっています。偶々、私の上司の役員も在任中に亡くなり、人事総務部門としては三回目のチーム編成で初めて労使正常化に至ったわけです。その後、私は海外事業部の責任者として、配置換えとなりました。

 

 一方、宇田川弁護士もその後、和田法律事務所から独立され、私の人事総務本部時代には和田事務所の別の弁護士が担当されておりました。そして離籍後の子会社再建時代に私は労組側ではなく、経営の責任者として宇田川弁護士との再会になったわけです。宇田川弁護士もその奇遇には吃驚されておりました。

 

 前回で触れましたが、(株)山崎商工社は国内では子会社の中でも大きく、また課題も抱えた会社でした。そして当時は奇しくも私が育った地元の葛飾区に本社を置いておりました。更に偶然とはいえ、45年前は山崎商工(その時代は未だ子会社ではなく)の組合は関東化学印刷一般労働組合傘下にあり、その「組合10周年記念大会」に岡谷鋼機労働組合の上部組織である全国商社連合労働組合という組合側の来賓として私が出席しました。しかも同じ組合書記長がひきつづき書記長として活躍しているという事実でした。私は勿論のこと、再会をした書記長を含め組合幹部もそれは驚きました。

 

 尚、そうした古い経緯は岡谷鋼機の経営陣は誰も知らなかったはずです。一方、岡谷社長だけはアメリカ駐在時代に大変お世話になったこともあり、その子会社の本社が私の育った地元葛飾であることは承知し、派遣を決められた一因であったようです。そして私は子会社再建に際し、労使交渉等々にも備えるべく、練馬の住居から葛飾立石での単身赴任を決めたわけです。そんな4年間の中、宇田川弁護士より合理化の一環としての3割の人員整理の問題だけでなく、労使の在り方についても種々相談し、改めて多くの教訓・知識を与えて頂いた次第です。そして子会社での生活が終わった後も引き続き手紙等でのお付き合い、時にはご自宅にも伺いました。その経験と教えが、平成18年の神戸の建築会社経営に携わり、請負契約途中解除という事件の裁判で施主から和解金を得て解決させ、同時に新たな弁護士を付け、問題であった仲介者を相手に訴訟を起こし、企画料としてとられた5千万円全額を返させ、本件を終了した次第です。その際、その筋との渡り合いと言うか、対応等々にも生かされたわけです。

 

 山崎商工(株)は種々と経緯を経、現在は岡谷鋼機の100%子会社となり、名前もオカヤマート(株)と社名変更、山崎商工としては80数年の歴史の幕を閉じました。それを契機に会社を去った旧社員、役員がOB会を立ち上げ親睦会を続けており、私にも声がかかり親会社の人間としてはただ一人、平成17年の半ばまでは出席をしていました。その後は私として何か心苦しく、出席を遠慮しております。

 

 尚、私が退任した平成13年の後、その労働組合の委員長、書記長はその後、一年足らずで自ら会社を去り、全く別の会社で働いております。そして5、6年前までは時折り会い、一杯飲むといった関係を続けていました。そのお二人を見ると、僭越なもの言いになりますが、労働組合という経験でも優れたリーダーはその人物を認められ、別の分野でも生きていけるのだと言う思いを強くしておりました。

 

 私も72歳を潮時に全ての仕事を退きました。そして数年経過した平成26年の5月、友人達が開いてくれた拙著の出版記念の会に、かってお世話になった岡谷鋼機の役員、弁護士の諸先生、管財業界の方々、いろいろな場面でお世話になった方々と共に元委員長、書記長のお二人も出席され、それぞれ祝辞も頂きました。平成27年4月には有楽町でお二人と酒を酌み交わしながら、今を語りあい、お二人との交遊が再開した次第です。お二人とも70歳になられますが、なお凛として現役で仕事をされております。

 

 山崎商工時代にお世話になった管材業界からも私が山崎商工としての最後の社長ということにして、今でも業界の社長の皆さんとは付き合いを頂いております。そのような繋がりを続けることが出来るのも「人を大事にするとい事はどういうことなのか」という宇田川弁護士を始めとして、和田法律事務所一門の教えのお陰と思っております。と共に長年お世話になった岡谷鋼機には感謝以外ありません。

 

 労働法曹界の重鎮和田良一弁護士も20数年前に故人となられ、宇田川弁護士のお別れ会では和田弁護士事務所一門を代表して、ご子息の一郎弁護士が宇田川弁護士を偲ぶなかで「人の生き方、労使問題は如何あるべきか」を話されました。そして、そのお話をされた後、一郎氏と粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」についての私との会話になった次第です。

 

 一郎氏とは初対面でしたが大変喜ばれました。そして「鎮魂 吉田満とその時代」が世に出るまでには、多くの年数がかかったこと。良一氏と粕谷氏との取材時の話、また吉田満が都会育ちでハンサムなのに対し、良一氏が東北育ちの田舎者であることを気にされていたこと等々。会場での立ち話ではありますが良一氏と吉田満との新たなエピソードも紹介して頂いた次第です。

 

 偶々、昨年(平成17年)、千早 耿一郎著「大和の最後、それから」が発刊され、吉田満を改めて身近に感じていた時、戦後60年ということもあるのでしょう、粕谷一希が20数年ぶりに執筆完成された「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ったわけです。其処に記されていたのは私にも少なからず関係のある和田良一氏であり、しかも若き吉田満が親友の良一氏宛てに出した心情を表す書簡で、その驚きと感銘は既にお伝えした通りです。加えて和田良一氏のご子息に一門のお別れ会でお会いし、吉田満を改めて語ることが出来た巡り合わせの不思議。又其処にいたるまでの私の会社生活、加えてその後の数社に亘る経緯・経験、人生には無駄なものはないといった感動すら覚え、その経緯・経験を少し詳しく皆さんにお伝えしところです。

 

 昭和55年、個人として苦難最中のニューヨーク駐在時代、心を閉ざしていた時に吉田満著「鎮魂戦艦大和」に出会い、衝撃を受け、自己として如何にあるべきなのか異郷の地で考え直し、次々と吉田満の著書を探し読み続けました。そして平成26年の暮れ、戦艦武蔵の生還された田所義行氏に偶然お会いし、改めて私の拙い旧駄文を読み返し、時代の推移を勘案し、若干の修正を今回加えました。

 

 遠藤周作が病魔に脅かされながらも「六十になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ今のぼくにとって何ひとつ無駄なものはなかったような気がする、とそっと一人で呟くことができる気持ちになった」(心の夜想曲より)と述べています。遠藤周作は宗教的意味を含めた深い思いなのでしょうが、私も今年で75歳を迎え、僭越ながらそれに近い思いを感じ、改めて吉田満についての私の関わりを記した次第です。

 

                            2015年5月25日

 

(注)旧投稿には今回、若干の修正をしています。

 

2018年4月24日

                           淸宮昌章

 

参考図書は以下のその3で表示

戦艦大和」の吉田満を巡って その3に続きます