清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・(上)

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・()

 

今回の拙稿にあたって

 

 毎回のことですが、何故このような投稿を続けているのか、とのご批判もあろうと思います。著名の方々の作品とはいえ、ただ、その文章を引用、紹介する意図は何なのか。まさしく意味はないのかもしれません。私としては人生の大半を過ごした昭和の時代を自分なりに再検討し、今を観たい。そのためには少なくとも私の書棚にある関連著書だけでも読み通し、自分なりの感想などを残しておこうと始めた次第です。自分自らは書き著わす能力がなく、どうしても著名人の方の文章を引用し、切り取りの上で自分の記憶に残そうとなってしまうわけです。方や、膨大な資料というか、読まなければならない文献を前にして愕然としているのも現状です。前途遼遠というか、行き着く先も見えず、暗中模索というのが現実です。

 

   丁度73歳の時点で企業活動とか、NPO活動等とから一切引きあげ、ここ地元東京練馬で遊び惚ける道を歩んでいます。そしてゴルフから転向し、テニス漬けの日々となったわけです。因みにゴルフは68歳に時点でハンデイは7でしたが、ここ4年ほどクラブにも触っておらず、完全に止めてしまいました。蛇足になりますが、一線を退くことに深い考えがあったわけではありません。ただ、父親も兄二人も奇しくも75歳で亡くなっていることも、私なりのひとつの理由付けにしたのかもしれません。一方、遊び惚けている現状には何か一抹の後ろめたさも感じてはいます。親友達がいまだ一線で活躍していることも、その一因なのかもしれません。

 

 方や、ここ数ヶ月の中で淸宮書房へのアクセスが増え出し、1万三千を超えており、そうしたことも一方で励みとなっております。77歳になろうとしている現在、残された時間は余りないのかもしれませんが、このような長々とした拙稿を飽きもせず続けているところです。尚、仕事の関係で前回の東京オリンピックにも、また、シドニーオリンピックではマラソンの高橋尚子さんの応援団の一員として、オリンピックスタジアムで応援をしております。そんなこともあるのでしょう、次回東京オリンピックは80歳になりますが、元気で、そしてスタジアムで観戦すると、急に決意を新たにしたところです。かみさんに笑われております。今年10月で金婚式を迎えますが、二人とも現在のところいたって健康です。

 

 

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本題に入って

 

序論

 

 やっと掲題の著書を読み終わりました。思想という概念・観点に疎い私には、本書を読み切ることは極めて難しいことでした。でも読み終わった今、何かが分ったような気分になっています。

 

 昨年、佐伯氏の「日本の愛国心」、続いて今年3月「反・民主議論」他について私なりの感想などを織り込み、ご紹介致しました。写真の著書は1993年に初版が出、1998年にTBSブリタニカより再版されたものです。さらに2014年に中公文庫より施光恒氏の解説が加わった再版がされております。私の僭越な憶測ですが本書は「日本の愛国心」、「反・民主議論」のみならず、1999年以降に氏により著わされた「アダム・スミスの誤算」、「ケインズの予言」、「正義の偽装」、「反・幸福論」、「さらば資本主義」、「日本の宿命」、「倫理としてのナショナリズム」等々の著書の原点というか、氏の思想の構成の基となるのかな、と思っています。本書の出版が20数年前とはとても思えず、今の時代そのものを洞察され、まさしく今の現実を語っているかのようで、驚きを隠せません。

 

 英国のEU離脱、揺れ動くヨーロッパ諸国、頻発に起こるテロは別として、宗教・民族対立、続いてトランプ大統領の出現。方や、中華大国の復権をはかる一連の動き。そこに普遍性があるとは思えませんが中国主導の一帯一路、そして動乱の朝鮮半島。日本は地政学的にも大きく変貌した世界状況に中にあって、何が必要なのか、何を考えなければいけないのか。

 

 佐伯氏は本書の中で、それは思想であると指摘されています。現代ほど「思想」が力を失っている時代もない。そして、その思想とは、とりたてて人々をかりたてるイデオロギーと解することでも、また人間存在の深遠まで達する世界観とみなす必要もない。それはもっとゆるやかな形で世界を解釈するヴィジョンであり、そこからわれわれの行動の指標をつむぎだせる、ある程度の整合性をもった知識の体系である、と記しています。 本書の序論で次のように記しています。

 

 社会が、その根底に変化しがたいものをもっているのは当然のことである。日本社会が、とりあえず「日本的」としか言いようのない、この国の社会や文化、歴史の文脈の中で作られてきたものを保持しつづけているのは、善し悪しは別にしても当然のことであろう。問題は、その「日本的なもの」が何であり、どのような意味を持っているのか、それを解釈する術を戦後の日本が失ってしまったとうことであろう。(中略)・・戦後日本は、アメリカ的なもの、あるいはアメリカ的文明を常に参照枠とし、思考の基軸に据えてきたということだからである。このアメリカ的なものが、われわれの生活のどこまで浸透したかという判断はまた別のことなのであり、われわれがここでいう「アメリカ二ズム」に常にモデルを求めてきたことは事実なのである。これはしばしば、ほとんどそうとは気づかない無意識のレベルにおいてそうであった。そして今日、グローバルの名のもとに、市場経済の世界的、普遍的な展開が唱えられるが、このグローバルこそまさにアメリカ二ズムの帰結にほかならない。(中略)・・『「アメリカ二ズム」の終焉』という本書の題名は、アメリカの覇権の後退といったようなことを意味しているわけではない。私はアメリカ型の文明(そしてそれは必ずしもアメリカ社会そのものと同じでない)がもたらす危険性について述べたかったのであり、アメリカ的なものに示される「超近代主義」が亀裂をあらわにし、もはやうまく立ち行かなくなるだろう、と述べたのである。そしてその見解は、アメリカの経済的覇権が再び確立されたかに見える今日でも変わらない。それどころか、本書でいうアメリカニズムは、ますます世界的な規模で不安定性を高めていくのではないか、と思われる。(本書19,20頁)

 

 如何でしょうか。トランプ大統領を生み出した現在のアメリカ社会、英国のEU離脱、EU諸国等々の現状を考えるに付き、私は氏の洞察力に感動さえ覚えるところです。今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が共感を覚え、私なりに理解し共感を覚えたこと、特に「アメリカ二ズム」の終焉の章を中心に見、考えたいと思います。

 

 因みに本書は第一章・「現代」が問いかけるもの、第二章・「ヨーロッパ時代」を支えるもの、第三章・「アメリカ時代」の構図、第四章・「アメリカ二ズム」の終焉、第五章・「近代」をつくったシヴィックリベラリズム、第六章・「近代」から「現代」へ、第七章・結論 「冷戦以後」と日本の位相、増補「グローバリズム」という虚構、で構成されています。

 

その1 19世紀のヨーロッパ時代リ

 

 20世紀にアメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって多国を牽制し、それなりの国際秩序を作り出したといわれるが、その前に19世紀のヨーロッパを見ておくことが必要としています。即ち、「パックス・ブリタニカ」からアメリカに覇権が移った時、それは軍事力と経済力だけの問題だったのではない。即ち力の相対関係だけの問題ではなく、それは「近代」の質的変化であり、「近代文明」というものの断層があった。そして、そのことは「パックス・アメリカーナ」への移行に際しても言えることなのだ。

 

 ヨーロッパの歴史を貫くものは、異質な民族、生活、言語、文化、宗教の対立と依存が、いかにヨーロッパの地理的、自然条件と深く重なっている。そして、地理学的な条件の中で多様性を生み出し、それがヨーロッパの経済活動を生み出しただけでなく「政治」をも生み出した。ヨーロッパにおける政治の概念は、地理的なものと結びついた多様性と不可分なのであり、そして「地勢学」が「地政学」に転化するのである。そこには、神聖ローマ帝国が象徴したような、キリスト教という超越的な普遍性でヨーロッパを統一する、という中世の原理がほぼ崩れ去り、それにかわって主権国家間の国家間関係が登場するのである。

 

 加えて、フランス革命において合い言葉となった自由、平等、博愛、そしてイギリスからヨーロッパ各国に伝搬していったインダストリアリズム(産業主義)がもうひとつの価値になった。即ち、リベラリズム、デモクラシー、インダストリアリズムが近代社会を代表する価値である。加えて西欧の近代社会の形成を支えるもうひとつの重要な要素は「国民国家」の形成なのである。そして19世紀のヨーロッパを考えるとき、決定的な重要性を持っているのがリベラリズ(自由主義)の概念である。

 

 「リベラリズムという言葉が自覚的な意味を持って使われだすのは19世紀のヨーロッパであったが、この場合の自由の観念は、主として、個人的な意思決定、行動に対して他からの拘束が働かないぐらいの意味で、それゆえ、こうした個人的な自由を拘束する権力に抵抗することがリベラリズムの中核になる。ドイツやイタリアといった19世紀ヨーロッパの後進国にとっては、この「権力」はオーストリア帝国のような帝国の絶対的君主であった。それゆえ、リベラリズムの運動は同時に国家形成、独立の運動となった。しかし、個人的な意志や行動を拘束する権力は絶対君主制の中から発生するとは限らない。」(83頁)

 

 方や、「デモクラシーのひとつの柱は人民主権であり、人民という抽象的存在が、文字通りの無制限の権力を握った時には、人民の名においていかなる専政が行われてもそれを防ぐことはできないのである。ジャコバン党の恐怖政治はまさにそのことを物語っているし、のちにはスターリニズムがその問題を再び提起したのであった。この時、リベラリズムはデモクラシーと対立する。(中略)・・そして19世紀を通じてヨーロッパのリベラリズムはデモクラシーに対する警戒心を緩めることはなかった。すくなくとも急進的なデモクラシーのもつ専制政治への傾きに対してである。」(83,84頁)

 

 19世紀のヨーロッパにおいては、リベラリズムは決してナショナリズムとは対立せず、共鳴しあいヨーロッパ社会を支えたのだ。19世紀の相対的に安定していた時期、諸国間の利害を調整していたのはバランス・オブ・パワーという考え方と自由貿易の理念であった。そしてその自由貿易を支えたのは、イギリスの効率的な海軍と経済力であり、それに加え現実的で自国の利益を見失うことのない外交能力であった。そしてそのリベラリズムは極めて現実的な国際感覚と極端な変化に対する警戒心、歴史の連続性や常識に対する信頼といったものに支えられていた。そうした「現実主義」の上に、「パックス・ブリタニカ」は成り立っていた、と記しています。

 

その2 20世紀のアメリカリ

 

 第二次大戦後、世界の総生産量の半分を生産した圧倒的な経済力と軍事力が、アメリカの覇権のベースとなったことは事実だが、アメリカの戦後外交の基本は、19世紀のイギリスと同様、国際的なバランス・オブ・パワーを確保することであった。加えて20世紀と19世紀を分かつ重要なことは、そのリーダーシップにはひとつは国際社会における道義的責務という観念と、「モノによるデモクラシー」というやり方である、と述べています。

 

 20世紀は理念とイデオロギーの時代であり、「力」だけがすべてではなかった。社会主義国共産主義やマルクシズムの優位を主張した。ナチズムの汎ヨーロッパ主義、日本の大東亜共演圏もそのイデオロギーを主張した。

 

 そして「戦後、最も普遍化する力をもったものがリベラル・デモクラシーであった。19世紀にはむしろ対立しあう価値であったリベラリズムとデモクラシーを今世紀は結びつけた。この結びつきを普遍的な人類の価値として世界化しようとしたのがアメリカであった。とりわけ、19世紀のヨーロッパでは、新興勢力に支えられているとはいえ、まだ危険思想であったデモクラシーを、社会の普遍的な原理まで祭り上げたのはアメリカであった。」(124頁) 

 しかもその使命を「経済」を通じて実行しようとしたところにアメリカの文明史的な役割がある。そして大量生産と大量消費で大衆(消費者)を生み出したのである。アメリカは商品を通して「自由」や「平等」の観念を宣伝できた唯一の国であった。ともかくも消費財をひとつの文化のように見せかけ、ひとつの国のシンボルにまでしまった国家ほかにない。続いて、デモクラシーについては以下のように述べています。

 

 デモクラシーは19世紀を通じて、主として政治的な価値であり、理想であった。それは国政に対する人々の平等な参与を求める運動であり、その背後には、人民主権という政治理念があった。それは意志決定のやり方であると同時に、主権と統治の正当性に関することがらなのである。しかるに、アメリカニズムのなかで、デモクラシーは生活の均質化、所得配分の平等化を意味するようになってくる。ここでも「政治的平等」から「経済的平等」への転換がおこるのだ。それとともに、国家は、政治の正当性によって基礎づけられるのではなく、それが国民に対して何を提供するかによって意味づけられるようになる。国家はサーヴィス・ステイトとなり、機能的な存在と見なされる。国家とデモクラシーの関係は、人民を媒介にした統治の正当性に関わるのではなく、経済政策を媒介にした機能の遂行に関わるのだ。これが、アメリカ二ズムがスポンサーとなった今世紀のデモクラシーなのである。(140頁)

 

 正に正鵠を得た指摘ではないでしょうか。私は僭越ながら深い共感を覚えるのです。いわゆるこの知識革命というべきものの遂行こそが今世紀のアメリカの役割であったわけです。そして次のように展開していきます。

 

 この「革命」がまぎれもなくフランス革命の継続であるのは、それが文化の大衆化という広範な平準化の運動だったからである。デモクラシーのもとでは「普遍化」とは「大衆化」にほかならないのである。ここに今世紀のアメリカの覇権をかってのイギリスのそれから区別する決定的な点がある。パックス・ブルタニカのもとではイギリスの文化は高い尊敬の念を払われたが、それは結局イギリス帝国領土内の支配階級にしか広まらなかったのに対し、パックス・アメリカーナのもとではアメリカ文化はいささかばかにされながらも、世界の大衆に広まっていったのである。(150頁)

 

 いわゆる大衆の出現です。では、何故、それがアメリカニズムの終焉につながっていくのか。以下、

 

『「アメリカニズム」の終焉・・(下)』に続きます。

 

2017年5月24日

                        淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思「アメリカ二ズムの終焉」(TBSブリタニカ

 同  上「アダム・スミスの誤算 上」(中公文庫)

 同  上「ケインズの予言 下』(中公文庫)

 同  上「20世紀とは何だったのか」(PHP新書)

 他