清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その3 

 


はじめに

 

 現役を離れて数年が経ち、改めて自らの生き方というか、在り方に大きな影響を与えた四人を此処にあげてみました。

 

 先ず学生時代に鮮烈な印象を与えた むのたけじ。元朝日新聞社の記者で終戦後、戦時中の自らの記者としての責任をとり、更には報道機関としての新聞社のあり方そのものに抗議するような形で朝日を辞め、故郷の秋田県横手でタブロイド版新聞「たいまつ」を家族と発行されたジャーナリストです。続いて生意気な言い方になりますが私の感性に彩を与えた、緻密な美しい日本語で表現する哲学者とも言うべき森有正。並びにその弟子でもある辻邦夫。そして吉田満であります。

 

 以下の拙稿は7年ほど前に吉田満にも関連して個人的な思いを記したものですが、私の最後の仕事の中での、記憶のひとつとして残しておこうと思った次第です。

 

企業の再生

 

 平成18年の10月、非鉄・機械専門中堅商社のオーナー社長であった畏友が急逝し、その経営の継続を懇請されました。僭越になりますが、私を頼ってきたのはその会社なりの事情、理由があります。私としては引き受けるには大きな重荷と、場合によっては私の家族にもその影響が及ぶ危惧を抱きながらも、覚悟を決めて経営参画を決断しました。そして、その後3年強に亘る役員・社員各位の涙ぐましい努力と協力の下、ほぼ予測どおり順調に推移し,企業存続の基礎ができたと判断し、会社を退いた次第です。人の努力、誠意は必ず伝わるのだとの感動さえ覚えた貴重な経験でした。私が経営を引き受けたその根底には友人遺族、及び彼の友人たちを含めた皆さんからの懇請の為だけではなく、役員・従業員並びにその家族を救うのだとの、私なりのひとつの正義感が後押したように思っていました。果たしてその正義感がいいのかどうか、時折悩むところでもありました。

 

吉田満のこと

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 心に葛藤を持ちながら日常業務に追われていましたが、ふと自分を省みることが必要になり、改めてその時、吉田満に立ち戻ったわけです。1980年代にかけニューヨークで私が苦闘している時に、吉田満「鎮魂戦艦大和」に出会い、「臼淵大尉の場合」、「祖国と敵国の間」、「戦艦大和ノ最後」に大きな衝撃と感銘を受け、自分を取り戻したわけです。その後も「散華の世代から」、「戦中派の死生観」、「提督伊藤整一の生涯」を読み通してきました。吉田満は私にとって、その後の私の人生というか、物事を考える場合に大きな影響を与えてきたわけです。そして、改めて吉田満文集・保阪正康編「戦艦大和と戦後」を併読しながら、吉田満とほぼ同年代の戦中派・色川大吉「若者が主役だったころ わが60年代」他も読み進めていました。

 

 私に心の支えを与えた吉田満は、戦艦大和の「電測士官として、内外の通信・情報に聞き耳を立てる立場にあったことと同時に哨戒直の少尉として、艦橋という司令塔にあって、司令長官、艦長、参謀長、航海長といった『大和の幹部』たちの素顔を数米の距離から観察できた」(鎮魂 吉田満とその時代 280頁)と記しています。彼は戦争・戦闘そのもの、まさに生と死そのものを体験し、何をすべきだったのか、否、していなければならなかったのか。この戦争は何であったのか、更に生き残った者の責任として自らはどう生きるべきなのか問い続けました。戦後は日銀に入り、ニューヨークにも駐在するなど日銀の幹部として生き、1979年に56歳でその一生を閉じました。ちょうど私がニューヨーク駐在二年目の年でした。

 

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吉田満は戦後、カトリック(その後、死の間際に奥さんのプロテスタントに改宗)に入信します。そしてカトリック新聞で「あの戦いでも見事な死を見なかったのではない。少なからぬ人が、最後まで敢闘し、従容として散華した。多くは仏教者であった。だがそこに物足りぬ気持が捨て切れなかった。なぜか。彼らにおいては、立派に生きることがそのまま真っすぐに立派に死ぬことにつらなっただろうか。いな、私はそのまなぞこに諦観、寂寞を見たのだ。彼らは堪える力がすぐれていた。だが死を迎え、よろこび進んで自分を任せることはできなかったのだ。ついに否定から肯定に転ずるすべをもたなかったのだ。(中略)私は、一日を生きることが、一日死に近づくことであるという事実を、平静にうけとめたい。正しく生きたい。死とともに生きつづけたい。いつか、死が与えられるであろう。」(戦艦大和と戦後 278頁)と述べています。

 

色川大吉、山本七平のこと

 

 方や、色川大吉も同時期を過ごした戦中派です。土浦の海軍航空隊を経、三重航空隊・伊勢湾の離島基地の特攻艇を入れる地下壕でポツダム宣言の受諾を知りました。その後、一貫して反権力側というか民衆に視点を置き、時には三多摩の困民党事件の真相を辿るといった研究者として、一時は生活に困窮しながら終生、東京経済大学で教鞭をとり、今なお、そこの名誉教授として、日本のあるべき姿を問い続けています。

 「若者が主役だったころ」の中では家族・奥さんのことも触れらており、色川大吉の私生活も垣間見せます。過去に色川大吉の「ある昭和史」、「昭和史世相篇」を通じて、私に目覚めというか覚醒というか、強い印象を与えた人でもあります。そうした意味で戦争を経験した同じ戦中派である両氏との対比、またその違いは何処から来るのかも私なりに興味深く感じていました。

 

 同じく吉田満とほぼ同年の戦中派でもある山本七平は何代に亘るキリスト教徒(プロテスタント)の家に生まれ育ち、軍隊に招集され南方の戦地で中隊長としてただ一人生き残り、捕虜収容所を経たのち帰国します。その後、文筆活動に入るわけですが、山本学とも言われる世界を造りながらも「静かなる細き声」を著したことが思い出されました。そこには同氏の少年期の姿、キリスト教徒としての懊悩が描かれています。

 

 尚、色川大吉には宗教的観点というか、懊悩は私には見られません。時の政府というか、反権力側に立ち戦後は共産党にも入り活動をしていましたが、昭和30年(1955年)夏の日本共産党第六回全国協議会以降、宮本顕治らの新指導部の人権感覚の低さ、同志愛の乏しさへの憤りもあり自然的に離党していったようです。しかし一貫して民衆側に立つという歴史観、独自とも言うべき自分史をも描く歴史学者として、今も活躍されています。

 

 取り上げた「若者が主役だったころ」は足かけ3年をかけ、平成20年2月に上梓されたものです。安保、東京オリンピック、その後の高度成長、ベトナム戦争、大学紛争時代、その後と、激しく動いた昭和60年代を取り上げています。第二章「安保デモの渦中」の最後に「総選挙の勝敗を決したのは、安保闘争でも浅沼の事件でもなく、この高度成長の実績と所得倍増政策が国民にあたえた夢であった。情勢は急速に移り変わり、世論は風のごとく速く動いていた。歴史において民衆の政治的昂揚はつねにおどろくほど短い。変革はその短い時期をとらえて迅速に行なわれなくては機を逸する。それが日本近代史を専攻してきた私が認めた真理の一つである。」(同書 108頁)とのべています。私としては若かった時代の自分と現在の自分とを比較し、場違いにはなりますが、色川大吉が上に述べられたことは企業の経営変革をする際にも当てはまるという実感でした。

 

 色川大吉は海外から日本を考える必要性を感じ、ユーラシア単独行も行ない、本書のなかでソ連共産党が支配していた旧ソ連の実情を批判的に、又民衆の一人ひとりの姿を描いています。私としては中国共産党独裁政権の現中国を氏がどう見ているかも知りたいところです。

 

瀬島龍三のこと

 

 戦中派とは異なり、今次大戦の作戦そのものにも加わった、むしろ戦争そのものを進めた陸軍参謀の瀬島龍三を改めて知りたく、共同通信社社会部編「沈黙のファイル」を再読ですが目を通しました。そこには山崎豊子が小説で描いた瀬島龍三、何の本か記憶が定かではありませんが、過って私が感じた瀬島龍三ではなく冷徹な、合理主義の塊の人だったのではと思い直しています。戦中派の吉田満、山本七平、色川大吉とはまったく異なる正に職業軍人そのものなのです。平成7年6月3日、中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会で次のように述べています。

 

 戦後50年というこの年に、権威ある軍事史学会に招かれ光栄に思います。「敗軍の将、兵を語らず」と言います。私は将を補佐してきた一人として、正直なところあまり語りたくございません。ただ歴史を無視することは歴史によって処断されますから、今日は私が体験した問題について忌憚なくお話しさせていただきます。(中略)参謀本部で杉山参謀総長が「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。一生忘れない体験です。日本は少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。大東亜戦争を侵略戦争とする論議には絶対に同意できません。(同書10頁)

 

 と細いからだから絞り出すような低い声が熱を帯びていたと同書の編集者が語っています。陸軍大学の軍刀組の一人として全てを数字としてとらえる合理・冷徹者なのかもしれません。戦争を遂行した大本営参謀として陸軍を動かし何百万の日本人、何千万のアジアの人々を死なせ、敗戦・・それが幸か不幸かは又論議を呼ぶでしょうが・・という未曾有な結末を迎えます。しかし戦後はその旧軍人の人脈を活用、又活用されながら商社マンに転身し、30年足らずで政財界の中枢に上りつめ、影のキーマンとしてその一生を終えています。

 

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」に感動して

 

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 企業再生という私なりの業務にあたり、心に葛藤もあるなかで、古典とも言うべき吉野源三郎「君たちはどう生きるか」に逢着いたしました。山本有三編纂の「日本小国民文庫」全16巻の最終配本として1937年8月に刊行された其の文庫版ですが、著者は「作品について」の中で、次にいうに述べています。

 

 1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして1937年といえば、ちょうど「君たちはどう生きるか」が出版され「日本小国民文庫」が完結した7月には盧溝橋事件が起こり、みるみるうちに中日事変となって、以降八年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。(同書301頁)

 

 そんな時代背景の中にあって、ご承知のように本書は中学二年生のコペル君という渾名の少年に対する、ひとつの倫理・道徳書の形式をとりながら人間の生き方を問う、いわば人生読本です。一気に読み通しましたが、言うにいわれぬ感銘を覚えました。時には涙し、自分の過去、現在をも反省させられました。今の時代でも、むしろ今後の世代へも通ずる人の生き方、人に勇気を与えてくれる書と思ったわけです。

 

 丸山真男が「君たちはどう生きるか」をめぐる回想・・吉野さんの霊にささげる(1981年)のなかで、「吉野さんが己を律するのに極めて厳しく、しかも他人には思いやりのある人・・ちかごろはその反対に、自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたように思われますが、・・であることは、およそ吉野さんを知るひとのひとしく認めるところでしょう。モラ-リッシュという形容は、吉野さんの人柄と尤も結びやすい連想です。けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学二年生のコぺル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした。」(君たちはどう生きるか 311頁)と述べています。僭越ですが正に正鵠を得た書評と思います。

 

おわりにあたって

 

 企業再生に際し、私が感じたことを脈絡もなく記してきました。ただ私が当時そして今も何を重視し、何に関心を持って来たか自ら省みるのも意義のあるかもしれないと考えたわけです。最後に丸山真男が吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」から取り上げた叙述の例の他に、私が涙した、心を打たれた別の叙述を以って、三回に亘る吉田満に関する私の駄文を閉じることに致します。

 それは主人公・潤一のコペル君が友達と約束をしながら、リンチ事件でコペル君に少しの勇気がなかったために友達を裏切る結果となり、その心の痛みからか熱を出し寝込んでしまいます。そのときお母さんが潤一君の枕元で女学校時代の自らの痛み、後悔した事件を話し、その事件についてのお母さんの思いを次のように語ります。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあとりかえしがつかないことだけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だからどんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは・・そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(同書 248頁)

 

 2015年年6月8日

                              清宮昌章

 

 参考文献

 

吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社)

同  「散華の世代から」(同)

同  「戦中派の死生観」(文藝春秋)

同  「提督伊藤整一の生涯」(同)

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

保阪正康編「戦艦大和と戦後 吉田満文集」(ちくま学芸文庫)

色川大吉「若者が主役だったころ わが六0年代」(岩波書店)

共同通信社社会部編「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか」(新潮文庫)

加藤周一「日本人とは何か」(講談社学芸文庫)

粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

千早こう一郎「大和の最期 それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社)

山本七平「静かなる細き声」(PHP研究所)

「ある昭和史 自分史の試み」(色川大吉 中央公論社)

色川大吉「昭和史世相篇」(小学館)

むのたけじ「戦争いらぬ やれぬ世へ」(評論社)

カン・サンジュン「悩む力」(集英社新書)