清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」

   昨年の4月、「書棚から顧みる昭和」を自費出版しました。友人4人が発起人となり内幸町で出版記念の会を開いてくれたこともあり、友人・知己から身にあまる高評を頂きました。また出版に当たり引用させて頂いた月刊誌[選択]、拓殖大学海外事情研究所。及び横浜市立大学、更には地元練馬区図書館他にも寄贈しましたが、200冊の拙著は数日で在庫がなくなりました。「選択」の編集人の湯浅氏、拓殖大学の荒木教授、及び横浜市立大学図書館からは御丁寧なお礼状、もしくはメールを頂き恐縮しております。尚、自慢話になるようですが、1800円の拙著はアマゾンでは中古品として、一時は19800円以上になっています。

f:id:kiyomiya-masaaki:20150622183225j:plain

 そのような経緯もあり、今まで某読書会に投稿していた原稿をより広くブログで発表したらとの友人の勧めがあり、この三月から、その続きとしてブログ「清宮書房」を始めた次第です。ブログに慣れていないこともあり、もたもたしていますが、12本ほどの駄文を既に載せました。今までとは違った反応を各方面から頂き、はてなブログ及びフェイスブックに感謝しております。自分なりに昭和を再検討し、今を見ようとしているのですが、前途遼遠で行き着く先も分かりません。又行き着くことは出来ないとも思っています。ただ、その折々に自分が何を考えていたのか、一つの記憶を残しておくことも、それなりの意義があるのかもしれない、と考えています。

 (注)上記写真は6月10日、銀座の隠れた名店。ご主人と奥さんのお店・寿司清のご主人と飾られた拙著[書棚から顧みる昭和」他
 

 2015年6月13日

                  清宮昌章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その3 

 


はじめに

 

 現役を離れて数年が経ち、改めて自らの生き方というか、在り方に大きな影響を与えた四人を此処にあげてみました。

 

 先ず学生時代に鮮烈な印象を与えた むのたけじ。元朝日新聞社の記者で終戦後、戦時中の自らの記者としての責任をとり、更には報道機関としての新聞社のあり方そのものに抗議するような形で朝日を辞め、故郷の秋田県横手でタブロイド版新聞「たいまつ」を家族と発行されたジャーナリストです。続いて生意気な言い方になりますが私の感性に彩を与えた、緻密な美しい日本語で表現する哲学者とも言うべき森有正。並びにその弟子でもある辻邦夫。そして吉田満であります。

 

 以下の拙稿は7年ほど前に吉田満にも関連して個人的な思いを記したものですが、私の最後の仕事の中での、記憶のひとつとして残しておこうと思った次第です。

 

企業の再生

 

 平成18年の10月、非鉄・機械専門中堅商社のオーナー社長であった畏友が急逝し、その経営の継続を懇請されました。僭越になりますが、私を頼ってきたのはその会社なりの事情、理由があります。私としては引き受けるには大きな重荷と、場合によっては私の家族にもその影響が及ぶ危惧を抱きながらも、覚悟を決めて経営参画を決断しました。そして、その後3年強に亘る役員・社員各位の涙ぐましい努力と協力の下、ほぼ予測どおり順調に推移し,企業存続の基礎ができたと判断し、会社を退いた次第です。人の努力、誠意は必ず伝わるのだとの感動さえ覚えた貴重な経験でした。私が経営を引き受けたその根底には友人遺族、及び彼の友人たちを含めた皆さんからの懇請の為だけではなく、役員・従業員並びにその家族を救うのだとの、私なりのひとつの正義感が後押したように思っていました。果たしてその正義感がいいのかどうか、時折悩むところでもありました。

 

吉田満のこと

f:id:kiyomiya-masaaki:20150608183952j:plain

 心に葛藤を持ちながら日常業務に追われていましたが、ふと自分を省みることが必要になり、改めてその時、吉田満に立ち戻ったわけです。1980年代にかけニューヨークで私が苦闘している時に、吉田満「鎮魂戦艦大和」に出会い、「臼淵大尉の場合」、「祖国と敵国の間」、「戦艦大和ノ最後」に大きな衝撃と感銘を受け、自分を取り戻したわけです。その後も「散華の世代から」、「戦中派の死生観」、「提督伊藤整一の生涯」を読み通してきました。吉田満は私にとって、その後の私の人生というか、物事を考える場合に大きな影響を与えてきたわけです。そして、改めて吉田満文集・保阪正康編「戦艦大和と戦後」を併読しながら、吉田満とほぼ同年代の戦中派・色川大吉「若者が主役だったころ わが60年代」他も読み進めていました。

 

 私に心の支えを与えた吉田満は、戦艦大和の「電測士官として、内外の通信・情報に聞き耳を立てる立場にあったことと同時に哨戒直の少尉として、艦橋という司令塔にあって、司令長官、艦長、参謀長、航海長といった『大和の幹部』たちの素顔を数米の距離から観察できた」(鎮魂 吉田満とその時代 280頁)と記しています。彼は戦争・戦闘そのもの、まさに生と死そのものを体験し、何をすべきだったのか、否、していなければならなかったのか。この戦争は何であったのか、更に生き残った者の責任として自らはどう生きるべきなのか問い続けました。戦後は日銀に入り、ニューヨークにも駐在するなど日銀の幹部として生き、1979年に56歳でその一生を閉じました。ちょうど私がニューヨーク駐在二年目の年でした。

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20201209104542j:plain

 

吉田満は戦後、カトリック(その後、死の間際に奥さんのプロテスタントに改宗)に入信します。そしてカトリック新聞で「あの戦いでも見事な死を見なかったのではない。少なからぬ人が、最後まで敢闘し、従容として散華した。多くは仏教者であった。だがそこに物足りぬ気持が捨て切れなかった。なぜか。彼らにおいては、立派に生きることがそのまま真っすぐに立派に死ぬことにつらなっただろうか。いな、私はそのまなぞこに諦観、寂寞を見たのだ。彼らは堪える力がすぐれていた。だが死を迎え、よろこび進んで自分を任せることはできなかったのだ。ついに否定から肯定に転ずるすべをもたなかったのだ。(中略)私は、一日を生きることが、一日死に近づくことであるという事実を、平静にうけとめたい。正しく生きたい。死とともに生きつづけたい。いつか、死が与えられるであろう。」(戦艦大和と戦後 278頁)と述べています。

 

色川大吉、山本七平のこと

 

 方や、色川大吉も同時期を過ごした戦中派です。土浦の海軍航空隊を経、三重航空隊・伊勢湾の離島基地の特攻艇を入れる地下壕でポツダム宣言の受諾を知りました。その後、一貫して反権力側というか民衆に視点を置き、時には三多摩の困民党事件の真相を辿るといった研究者として、一時は生活に困窮しながら終生、東京経済大学で教鞭をとり、今なお、そこの名誉教授として、日本のあるべき姿を問い続けています。

 「若者が主役だったころ」の中では家族・奥さんのことも触れらており、色川大吉の私生活も垣間見せます。過去に色川大吉の「ある昭和史」、「昭和史世相篇」を通じて、私に目覚めというか覚醒というか、強い印象を与えた人でもあります。そうした意味で戦争を経験した同じ戦中派である両氏との対比、またその違いは何処から来るのかも私なりに興味深く感じていました。

 

 同じく吉田満とほぼ同年の戦中派でもある山本七平は何代に亘るキリスト教徒(プロテスタント)の家に生まれ育ち、軍隊に招集され南方の戦地で中隊長としてただ一人生き残り、捕虜収容所を経たのち帰国します。その後、文筆活動に入るわけですが、山本学とも言われる世界を造りながらも「静かなる細き声」を著したことが思い出されました。そこには同氏の少年期の姿、キリスト教徒としての懊悩が描かれています。

 

 尚、色川大吉には宗教的観点というか、懊悩は私には見られません。時の政府というか、反権力側に立ち戦後は共産党にも入り活動をしていましたが、昭和30年(1955年)夏の日本共産党第六回全国協議会以降、宮本顕治らの新指導部の人権感覚の低さ、同志愛の乏しさへの憤りもあり自然的に離党していったようです。しかし一貫して民衆側に立つという歴史観、独自とも言うべき自分史をも描く歴史学者として、今も活躍されています。

 

 取り上げた「若者が主役だったころ」は足かけ3年をかけ、平成20年2月に上梓されたものです。安保、東京オリンピック、その後の高度成長、ベトナム戦争、大学紛争時代、その後と、激しく動いた昭和60年代を取り上げています。第二章「安保デモの渦中」の最後に「総選挙の勝敗を決したのは、安保闘争でも浅沼の事件でもなく、この高度成長の実績と所得倍増政策が国民にあたえた夢であった。情勢は急速に移り変わり、世論は風のごとく速く動いていた。歴史において民衆の政治的昂揚はつねにおどろくほど短い。変革はその短い時期をとらえて迅速に行なわれなくては機を逸する。それが日本近代史を専攻してきた私が認めた真理の一つである。」(同書 108頁)とのべています。私としては若かった時代の自分と現在の自分とを比較し、場違いにはなりますが、色川大吉が上に述べられたことは企業の経営変革をする際にも当てはまるという実感でした。

 

 色川大吉は海外から日本を考える必要性を感じ、ユーラシア単独行も行ない、本書のなかでソ連共産党が支配していた旧ソ連の実情を批判的に、又民衆の一人ひとりの姿を描いています。私としては中国共産党独裁政権の現中国を氏がどう見ているかも知りたいところです。

 

瀬島龍三のこと

 

 戦中派とは異なり、今次大戦の作戦そのものにも加わった、むしろ戦争そのものを進めた陸軍参謀の瀬島龍三を改めて知りたく、共同通信社社会部編「沈黙のファイル」を再読ですが目を通しました。そこには山崎豊子が小説で描いた瀬島龍三、何の本か記憶が定かではありませんが、過って私が感じた瀬島龍三ではなく冷徹な、合理主義の塊の人だったのではと思い直しています。戦中派の吉田満、山本七平、色川大吉とはまったく異なる正に職業軍人そのものなのです。平成7年6月3日、中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会で次のように述べています。

 

 戦後50年というこの年に、権威ある軍事史学会に招かれ光栄に思います。「敗軍の将、兵を語らず」と言います。私は将を補佐してきた一人として、正直なところあまり語りたくございません。ただ歴史を無視することは歴史によって処断されますから、今日は私が体験した問題について忌憚なくお話しさせていただきます。(中略)参謀本部で杉山参謀総長が「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。一生忘れない体験です。日本は少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。大東亜戦争を侵略戦争とする論議には絶対に同意できません。(同書10頁)

 

 と細いからだから絞り出すような低い声が熱を帯びていたと同書の編集者が語っています。陸軍大学の軍刀組の一人として全てを数字としてとらえる合理・冷徹者なのかもしれません。戦争を遂行した大本営参謀として陸軍を動かし何百万の日本人、何千万のアジアの人々を死なせ、敗戦・・それが幸か不幸かは又論議を呼ぶでしょうが・・という未曾有な結末を迎えます。しかし戦後はその旧軍人の人脈を活用、又活用されながら商社マンに転身し、30年足らずで政財界の中枢に上りつめ、影のキーマンとしてその一生を終えています。

 

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」に感動して

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20170408141029j:plain

 企業再生という私なりの業務にあたり、心に葛藤もあるなかで、古典とも言うべき吉野源三郎「君たちはどう生きるか」に逢着いたしました。山本有三編纂の「日本小国民文庫」全16巻の最終配本として1937年8月に刊行された其の文庫版ですが、著者は「作品について」の中で、次にいうに述べています。

 

 1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして1937年といえば、ちょうど「君たちはどう生きるか」が出版され「日本小国民文庫」が完結した7月には盧溝橋事件が起こり、みるみるうちに中日事変となって、以降八年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。(同書301頁)

 

 そんな時代背景の中にあって、ご承知のように本書は中学二年生のコペル君という渾名の少年に対する、ひとつの倫理・道徳書の形式をとりながら人間の生き方を問う、いわば人生読本です。一気に読み通しましたが、言うにいわれぬ感銘を覚えました。時には涙し、自分の過去、現在をも反省させられました。今の時代でも、むしろ今後の世代へも通ずる人の生き方、人に勇気を与えてくれる書と思ったわけです。

 

 丸山真男が「君たちはどう生きるか」をめぐる回想・・吉野さんの霊にささげる(1981年)のなかで、「吉野さんが己を律するのに極めて厳しく、しかも他人には思いやりのある人・・ちかごろはその反対に、自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたように思われますが、・・であることは、およそ吉野さんを知るひとのひとしく認めるところでしょう。モラ-リッシュという形容は、吉野さんの人柄と尤も結びやすい連想です。けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学二年生のコぺル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした。」(君たちはどう生きるか 311頁)と述べています。僭越ですが正に正鵠を得た書評と思います。

 

おわりにあたって

 

 企業再生に際し、私が感じたことを脈絡もなく記してきました。ただ私が当時そして今も何を重視し、何に関心を持って来たか自ら省みるのも意義のあるかもしれないと考えたわけです。最後に丸山真男が吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」から取り上げた叙述の例の他に、私が涙した、心を打たれた別の叙述を以って、三回に亘る吉田満に関する私の駄文を閉じることに致します。

 それは主人公・潤一のコペル君が友達と約束をしながら、リンチ事件でコペル君に少しの勇気がなかったために友達を裏切る結果となり、その心の痛みからか熱を出し寝込んでしまいます。そのときお母さんが潤一君の枕元で女学校時代の自らの痛み、後悔した事件を話し、その事件についてのお母さんの思いを次のように語ります。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあとりかえしがつかないことだけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だからどんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは・・そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(同書 248頁)

 

 2015年年6月8日

                              清宮昌章

 

 参考文献

 

吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社)

同  「散華の世代から」(同)

同  「戦中派の死生観」(文藝春秋)

同  「提督伊藤整一の生涯」(同)

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

保阪正康編「戦艦大和と戦後 吉田満文集」(ちくま学芸文庫)

色川大吉「若者が主役だったころ わが六0年代」(岩波書店)

共同通信社社会部編「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか」(新潮文庫)

加藤周一「日本人とは何か」(講談社学芸文庫)

粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

千早こう一郎「大和の最期 それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社)

山本七平「静かなる細き声」(PHP研究所)

「ある昭和史 自分史の試み」(色川大吉 中央公論社)

色川大吉「昭和史世相篇」(小学館)

むのたけじ「戦争いらぬ やれぬ世へ」(評論社)

カン・サンジュン「悩む力」(集英社新書)

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って その2

  前回、粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」の中で、吉田満が学生時代に東大法律学科の親友である和田良一氏と交わされた書簡のことも紹介いたしました。偶々、昨年(平成17年)12月にその良一氏のご子息の和田一郎弁護士とお会いする機会ができ、改めて吉田満と良一氏とのお話を一郎氏よりお伺いする事ができました。

 

 私が30歳後半の苦難苦闘の時期、あるべき自己を考え直させてくれ、その後の私のあり方というか、ものに対する観点に大きな影響を与えてくれたひとりが吉田満です。その和田良一弁護士の門下生であった宇田川昌敏弁護士についても前回少し触れました。残念ながら宇田川弁護士も昨年(平成17年)11月に亡くなられ、お別れの会が和田法律事務所主催で12月6日、新宿のセンチュリーハイヤットで行われました。私もご案内を頂き、その会場で故和田良一氏のご子息である和田一郎弁護士と人生の不思議と言うか、私は初めてお会いする偶然が生じました。

 故宇田川弁護士も労働法曹界の第一人者でした。私が(株)山崎商工の再建に当たり、既に触れましたが人員整理等々、労使交渉の問題解決の際には顧問弁護士として直接指導を受け、大変お世話になった方でもありました。

 

 岡谷鋼機(株)に在籍していた昭和40、50年代は、大学紛争の残滓でしょうか、商社においても労使問題が大きな課題となっておりました。ひとつの巡り合わせですが、私もまた、昭和60年代の前半に使用者側の人事総務本部の一員として悩み格闘した時代でもありました。そのときの会社の顧問弁護士が和田法律事務所であり、和田良一氏とも面談の機会もあったわけです。

 

 前回でも触れましたが、その後、私は今までの海外部門から離れ、労使問題も抱えた国内の子会社の再建の責任者となって離籍出向をしました。宇田川弁護士も過っては和田法律事務所に所属し、岡谷鋼機(株)の管理職の懲戒解雇問題の際には会社の顧問弁護士として、名古屋地裁の法廷でも活躍され、最終的には双方和解と言う形で終結しました。私も岡谷労組の一員として、その裁判を傍聴しており、宇田川弁護士を知ったわけです。

 

 一方、昭和50年代の前半までは労働組合側に居た私がアメリカ駐在帰国後、管理職となり、労使関係の正常化を計るべく一員として人事総務本部に配置換えとなり、新たな任務を帯びたわけです。共に従業員ではありますがアメリカ赴任前は労働組合の元幹部の私が、帰国後は使用者側のスタッフとしての配属は聊か抵抗もありました。そして7年間に亘る労使間の激しい闘争・交渉を経て、労使正常化が軌道に乗り、岡谷鋼機(株)が三百数十年の歴史上、初めて名古屋一部上場を果たし、そのチームは役目を終えたわけです。上場の為にも労使正常化が必要な時代であったわけです。尚、昭和40、50年代、続いて60年代の初めまでは、会社の人事担当役員は心労もあってか、三代に亘り現役中、或はその直後に病に倒れ60歳前後で亡くなっています。偶々、私の上司の役員も在任中に亡くなり、人事総務部門としては三回目のチーム編成で初めて労使正常化に至ったわけです。その後、私は海外事業部の責任者として、配置換えとなりました。

 

 一方、宇田川弁護士もその後、和田法律事務所から独立され、私の人事総務本部時代には和田事務所の別の弁護士が担当されておりました。そして離籍後の子会社再建時代に私は組合側ではなく、経営の責任者として宇田川弁護士との再会になったわけです。宇田川弁護士もその奇遇には吃驚されておりました。

 

 尚、前回で触れましたが、(株)山崎商工社は国内では子会社の中でも大きく、また課題も抱えた会社でした。そして当時は奇しくも私が育った地元の葛飾区に本社を置いておりました。更に偶然とはいえ、45年前は山崎商工(その時代は未だ子会社ではなく)の関東化学印刷一般労働組合傘下にあり、その「組合10周年記念大会」に岡谷鋼機労働組合の上部組織である全国商社連合労働組合という組合側の来賓として、その記念大会に私が出席していたことでした。しかも同じ組合書記長がひきつづき書記長として活躍しているという事実でした。その新たな任地で、私は勿論のこと再会をした書記長を含め組合幹部もそれは驚きました。

 

 尚、そうした古い経緯は岡谷鋼機の経営陣は誰も知らなかったはずです。一方、社長だけはお互いアメリカ駐在時代の旧知の中で、その子会社の本社が私の育った地元葛飾であることは承知し、派遣を決められた一因であったようです。そして私は子会社再建に際し、労使交渉等々にも備えるべく、練馬の住居から葛飾立石での単身赴任を決めたわけです。そんな4年間の中、宇田川弁護士より人員整理の問題だけでなく、労使の在り方についても種々相談し、改めて多くの教訓・知識を与えて頂いた次第です。そして子会社での生活が終わった後も引き続き手紙等でのお付き合い、時にはご自宅にも伺いました。その経験と教えが、平成18年の神戸の建築会社経営に携わり、請負契約途中解除という事件の裁判で施主から和解金を得て解決させ、同時に新たな弁護士を付け、問題であった仲介者を相手に訴訟を起こし、企画料としてとられた5千万円全額を返させ、本件を終了した次第です。その際、その筋との渡り合いと言うか、対応等々にも生かされたわけです。

 

(株)山崎商工は種々と経緯を経、現在は岡谷鋼機の100%子会社となり、名前もオカヤマート(株)となり、山崎商工としては80数年の歴史の幕を閉じました。それを契機に会社を去った旧社員、役員がOB会を立ち上げ親睦会を続けており、私にも声がかかり親会社の人間としてはただ一人、平成17年の半ばまでは出席をしていました。その後は私として何か心苦しく、出席を遠慮しております。

 

 尚、私が退任した平成13年の後、労働組合の委員長、書記長はその後、一年足らずで自ら会社を去り、全く別の会社で働いております。そして5、6年前までは時折り会い、一杯飲むといった関係を続けていました。そのお二人を見ると、僭越なもの言いになりますが、労働組合という経験でも優れたリーダーはその人物を認められ、別の分野でも生きていけるのだと言う思いを強くしておりました。

 

 私も72歳を潮時に全ての仕事を退きました。そして数年経過した平成26年の5月、拙著の出版記念の会に、かってお世話になった管材業界の方々と共に元委員長、書記長のお二人も出席され、それぞれ祝辞も頂きました。平成27年4月には有楽町でお二人と酒を酌み交わしながら、今を語りあい、お二人との交遊が再開した次第です。お二人とも70歳になられますが、なお凛として現役で仕事をされております。

 

 山崎商工時代にお世話になった管材業界からも私が山崎商工としての最後の社長ということにして、今でも業界の社長の皆さんとは付き合いを頂いております。そのような繋がりを続けることが出来るのも「人を大事にするとい事はどういうことなのか」という宇田川弁護士を始めとして、和田法律事務所一門の教えのお陰と思っております。

 

 労働法曹界の重鎮和田良一弁護士も20数年前に故人となられ、宇田川弁護士のお別れ会では和田弁護士事務所一門を代表して、ご子息の一郎弁護士が宇田川弁護士を偲ぶなかで「人の生き方、労使問題は如何あるべきか」を話されました。そして、そのお話をされた後、一郎氏と粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」についての私との会話になった次第です。

 一郎氏とは初対面でしたが大変喜ばれました。そして「鎮魂 吉田満とその時代」が世に出るまでには、多くの年数がかかったこと。良一氏と粕谷氏との取材時の話、また吉田満が都会育ちでハンサムなのに対し、良一氏が東北育ちの田舎者であることを気にされていたこと等々。会場での立ち話ではありますが良一氏と吉田満との新たなエピソードも紹介して頂いた次第です。

f:id:kiyomiya-masaaki:20170408141052j:plain

 

 偶々、昨年(平成17年)、千早こう一郎の「大和の最後、それから」が発刊され、吉田満を改めて身近に感じていた時、戦後60年ということもあるのでしょう、粕谷一希が20数年ぶりに執筆完成された「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ったわけです。其処に記されていたのは私にも少なからず関係のある和田良一氏であり、しかも若き吉田満が親友の良一氏宛てに出した心情を表す書簡で、その驚きと感銘は前回にお伝えした通りです。加えて和田良一氏のご子息に一門のお別れ会でお会いし、吉田満を改めて語ることが出来た巡り合わせの不思議。其処にいたるまでの私の会社生活、加えてその後の数社に亘る経緯・経験、人生には無駄なものはないといった感動すら覚え、前回の続編を経緯と共に少し詳しく皆さんにお伝えしところです。

 

 昭和55年、個人として苦難最中のニューヨーク駐在時代、心を閉ざしていた時に吉田満著「鎮魂戦艦大和」に出会い、衝撃を受け、自己として如何にあるべきなのか異郷の地で考え直し、次々と吉田満の著書を探し読み続けました。そして35年が経過した平成26年の暮れ、戦艦武蔵の生還された田所義行氏に偶然お会いし、改めて私の旧駄文を読み返し、時代の推移を勘案し、若干の修正を今回加えました。

 

 遠藤周作が病魔に脅かされながらも「六十になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ今のぼくにとって何ひとつ無駄なものはなかったような気がする、とそっと一人で呟くことができる気持ちになった」(心の夜想曲より)と述べています。遠藤周作は宗教的意味を含めた深い思いなのでしょうが、私も今年で75歳を迎え、僭越ながらそれに近い思いを感じ、改めて吉田満についての私の関わりを記した次第です。

 

 2015年5月25日

                           清宮昌章

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その1

 

はじめに

 

 昨年(2014年)の年末のことですが、久しぶりに自宅の襖、障子張替えを本職に頼まざるを得ず、近所の表具屋さんに来てもらいました。今まで近所に住みながら初めてお会いする田所義行氏です。最近になり海底に沈んだ戦艦武蔵の映像が放映されておりましたが、同氏がその撃沈された戦艦武蔵の上等水兵として乗り込み、奇跡的に生還されたとお聞きし、非常に驚いた次第です。今年で90歳になられても現役を続けられています。尚、お子さん達にも戦争の話、戦地での話はされてこなかったとのことです。偶々、ここ数年で機会があり、某月刊誌からの依頼で同氏とのインタヴューが始まったとのことです。6頁に亘るそのインタヴュー記事のコピーも頂きました。同氏は陸軍の空挺部隊と共に「空の神兵」と謳われた初代海軍落下傘部隊の一人で、セレベス島メナド郊外のランゴンアン飛行場に降下した情況等も載せられていました。その後、上等水兵として戦艦武蔵に乗り組んだわけです。戦闘並びに撃沈された時の状況、又、始めて聞くことでしたが、レイテ沖海戦を前に戦艦武蔵は目立つ塗装に塗り直され、戦艦武蔵は戦艦大和の囮だったかもしれない、との感想も洩らされました。

 

 そんな奇遇があり、「鎮魂戦艦大和」他を著した吉田満に関する粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」を再読、そして2005年9月1日付けに記した私の読書感想でもある拙稿も、改めて顧みた次第です。吉田満については昨年自費出版した拙著「書棚から顧みる昭和」のまえがきにも触れておりますが、私の30代後半の時代に大きな影響を与えたカトリック信者(後にプロテスタントに改宗)でもありました。

 

 その拙稿の当時にも歴史問題が論議されておりましたが、今日の韓国及び中国から執拗に追求される歴史認識問題とは大分状況が異なっていることが分かります。10年という時代の経過があり、その拙稿にも幾分かの修正というか、補助説明が必要ですが私の想いには余り変化はありません。拙著では省いた吉田満と和田良一弁護士のこと、そして和田良一法律事務所の私との関わりも、今回は記してみたいと思います。

 

粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」(中公新書)に関連して

 

f:id:kiyomiya-masaaki:20170408141128j:plain

1.和田良一弁護士との関わり

 

 10年前になりますが、何か心穏やかにならない中、1930年生まれの中央公論の元編集長・粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ました。それは吉田満の戦後の航跡を示す姿、更にはキリスト信者の心情を辿った千早こう一郎著「大和の最後、それから」を補足するかのようで、吉田満幼年時代、府立四中、東京高校、東大の学生時代、そして戦後の日本銀行員の時代を知り、改めて吉田満の現代性の重要性を見たところです。

 

 その本書6章「書簡のなかの自画像」のなかで記されているのですが、吉田満が東大法学部法律学科時代の親友である和田良一氏宛の手紙3通、葉書28通を和田良一弁護士がお持ちとのことです。そのいくつかの往復書簡が載せられています。そのうち学徒出陣が目前に迫る中での和田良一氏宛てのひとつを以下紹介します。

 

 昨日奥多摩に練成旅行をした。けふは夜行で帰郷する。たまたま入営の旅行にもなった。九月ごろかへる予定。

 この二箇月、僕は次のことをして行きたい。あの創作の完結、仏教思想研究の熟読、キリストへの接近、このさいごのものに就いて僕は近頃非常に惹かれてゐる。僕のこれ迄の生活は全く真実でなかったために、僕には仕事への希望というものがなく、虚無的であって、そのため、むしろ僕はほっとした気持ちだ。対人関係も一応解決した。すくなくともさう思へる。では又(同書149,150頁)

 

 私の30代後半の時代に吉田満著「鎮魂戦艦大和」に巡りあい、次々と吉田満の著作を読み込んで行きました。その後も私の人生というか、ものの見方に大きな影響を与えた吉田満と和田良一弁護士が親友であったことを知ったわけです。全くの偶然ですが、その和田良一氏は私が岡谷鋼機(株)の人事総務本部時代、会社の顧問弁護士であり、私とも多少の面識もある労働法・労使関係の大家でした。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継がれています。尚、良一氏の弟子である法律事務所の弁護士先生方には大変勉強させられ、そのうち宇田川昌敏弁護士とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 商社の労働争議史上では、最長のストライキと言われた岡谷鋼機労働組合の本部副書記長時代の経験。その後、いろいろと部門も変わり、今度は全く立場が変わった人事総務本部時代での労使関係正常化への苦闘時代もありました。最後は岡谷鋼機(株)としても大きな課題の一つであった子会社の(株)山崎商工(現 オカヤマート株式会社)の再建に離籍出向したわけです。その社長時代に不良債権の処理、3割の人員整理等々を含めた会社再建(奇しくも山崎商工の顧問弁護士が上にあげた宇田川弁護士でした)、その後は神戸にある義兄の建築会社の経営顧問として懸案の裁判事件の解決に携わってまいりました。労使交渉を含めた私の基盤を作ってくれたのが和田良一法律事務所であったわけです。加えて、その後のいくつかの企業等の再建業務に際し、私が和田法律事務所との関わりを持ったことを相手側の弁護士事務所等が知ることで、大きな力というか影響力を及ぼした次第です。

 

2.本書の意味合い

 

 尚、本書「鎮魂 吉田満とその時代」は2005年に出版されましたが、21年間の中断も経たとのことです。粕谷一希氏としては、戦後60年を前にして、どうしても戦中派の吉田満の想いを繋いでいこうと考えたのだと思います。その序章で、吉田満の「一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?」とあげ、以下の文章を載せています。

 

(中略)敗戦直後の風潮のなかでは、占領政策に歩調を合わせて、愚劣な戦争→犬死にとう罵声や風刺で満ちていたためである。徴兵忌避が美徳や勲章のように語られた。戦争の惨禍があまりに徹底していたために、飢餓と混乱のなかで、怨嗟と悔恨のなかで、日本人は我を忘れ、自信を喪失し、敗者の矜持を工夫する余裕がなかった。・・(中略)この敗戦という事態を直視することを怖れ、当時の支配層自体、終戦という言葉を慣用した。この敗戦と終戦という微妙なニュアンスの使いわけによって日本人は負けたという事実認識の真理的負担を回避しようといていたのである。勝っても負けても、戦争が終わったという単純な安堵感はある。そして安堵感は開放感につながる。・・(中略)多くの死傷者を抱え、家や財産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人々の立場を考えると、そうした開放感や笑いは違和感を拡大させるものであった。それぞれの開放感は抑制して、死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。おそらくこの敗戦への対応の態度のなかに、日本の進歩勢力は早くも日本人としての多数派を獲得する可能性を閉ざしてしまったのである。(同書21,21頁)

 

 粕谷氏は本書で靖国参拝のことにも敷衍し、祖国のために死ぬという人類普遍の美徳の意味を確認するためにも、広い視野、国際的な視野でこの問題に対しなければならない。吉田満の視点はある解決の示唆を含んでいるように思うと述べています。戦後は手のひらを返すように、中国との関係もありますが、マスコミが先頭に立って戦争責任を東條他A級戦犯に押し付け、済ましている現状に私は苦々しさを感じています。尚、第五章・栄光と汚辱のなかで、開戦の詔書が出た日の夕刊・朝日新聞の社説全文が記載されております。当時の世論が知識人を含め、どうであったか知る上で参考になります。

 

 現在の中国及び韓国による歴史認識問題に苛立ちを覚えていますが、わが国において安泰な生活を送りながら、いたずらな正義を振り回す一部の知識人、それに乗るマスメデイアに、現在のどうしようもない歴史認識問題を生み出すひとつの要因があると思っています。

 

 2015年5月18日

                        清宮昌章

 

 

 

 

杉本信行「大地の咆哮・・元上海総領事が見た中国」を再読して

f:id:kiyomiya-masaaki:20151214181103j:plain

はじめに

 

 本書は今から9年前の2006年7月に発刊されました。著者の杉本信行氏は、一部のマスコミで叩かれた外務省の所謂「チャイナスクール」の外交官の一人でした。

2004年春、上海総領事館員が中国公安部より強迫され、「このままでは国を売らない限り出国できなくなる」との遺書をのこし、自殺に追い込まれる事件がありました。その時の上海総領事が杉本信行氏です。そして同氏も2006年、末期癌で57歳の若さで病死されました。本書は著者が「上海で自らの命を絶ったその同僚の冥福を祈るために捧げる」と最後の力を振り絞って書かれた、現場からの記録と提言です。

 

 1972年、日中国交化正常化が両国、少なくとも日本では華々しく喧伝されました。残念ですが、その後の日中関係の現状は当時においては、全く予想もできないような由々しき状況に陥り、今後もその状態は続くと考えておくべきと考えます。その悪化の要因は日本側にあるのか、それとも中国側にあるのか、あるいは地政学的大変動が起きたことによるものなのか。10年前に本書について記した私の駄文をも改めて省み、私の思いが変わったのか、あるいは変わってはいないのか、触れて見たいと思います。

 

わたしの現状認識、雑感

 

 今や中国は驚異的な成長を遂げ、この数年でそのGDPも、日本をはるかに抜き去り、第一位のアメリカを覗う状況です。中国と西欧先進国との急接近、加えて中国とアメリカのふたつの大国で太平洋を統治していこう、と言わんばかりの習近平国家主席の発言は大国へ復活した中国の自信の現われなのでしょうか。それとも更なる思いが在ってのことなのでしょうか。

今月4月に閉幕したアジア・バンドン会議での習近平国家主席の笑みも、アジア・インフラ銀行の設立、加えてシルクロード構想の発表もその自信の表れなのかもしれません。習近平氏が中国共産党の権力闘争に勝利したと見るのが妥当なのでしょうか。その中国の現在の姿に日本が何か浮き足立ったように見え、いささか不安というか戸惑いを私は感じています。日本は浮き足立つことも、焦る必要もありません。むしろ隣国である大国中国の長い歩みを研究すると共に、日本の過去を踏まえ、戦後の日本の歩みをより鮮明に、正確に世界に発信し続けることがより重要なのではないでしょうか。

 

 4月14日、河野洋平中国訪問団が李克強首相と会談し、その席に沖縄県知事が同席している映像を見て、私は強い違和感を持ちました。沖縄県知事は何の意図と思想があっての訪問なのでしょうか。中国が近年になり沖縄の領有権さえ言い始めており、更には陰で琉球独立を支援しているとみられる中で、沖縄県知事の行動は奇怪な行動と私には映るわけです。沖縄県民はどう考えているのでしょうか。

 

中国は変わったのか

 

その1.著者の研修時代

 

 1966年から始まった文化大革命の最中、1972年の日中共同宣言後の1974年に杉本信行氏は偶然とも思える事情・経緯から香港を経由し、真っ暗闇の北京に到着します。そこでの語学研修に続き、瀋陽での語学研修で著者と中国との関わりが始まります。最初に覚えた中国語は「没有(メイヨウ)」、すなわち「ないよ」との意味で、陳列品はあるが、陳列品だけで、売る商品はなにもない、ということでした。

 一方、各国からの語学研修生は一般的には、それぞれの国の共産党支部など「対中友好分子」であり、杉本氏のような資本主義国の政府から派遣されてきた、いわば特殊な留学生には当局による露骨な差別があり、語学研修よりも非共産主義世界からやってきた非革命分子の思想を改造することに関心があったようです。中国語の上達の為、北京時代に中国人との同室を同氏が要望し認められたものの、同室の中国人とは最後まで打ち解けることはかなわず、個人的なことを含め、一切避けられた状況であった、と記しています。

 

 加えて、北京でも瀋陽でも20キロ制限での行動制限が課せられ、最後の瀋陽遼寧大学の送別会では学生を監視する責任者が、杉本氏の素行報告を、何処で何を喋ったかを延々と報告する。更には彼にではなく、ほかの全ての人に喋った内容まで正確に再現する、完全な監視社会がそこにあった、とのこと。それが40年前の中国の現実です。

 

その2.中国の人の醒めた視線、果して現状は

 

 中国の人たちは、76年の天安門事件以前を知る人と、それ以降に生まれて、以前の実態を知らない人、文化大革命の10年を知っている人とそうでない人で、考え方、意識がまったく違っている、と著者は記しています。

 

 だから、政府が躍起になって、戦争で日本がどれだけ悪かったかという教育を一生懸命してみても、その片方で彼らは「だけど、共産党はもっとひどかった」と平気で語る。もちろん、絶対に信用する人間に対し、隠れてではあるが。彼らは感覚でわかるのだ。共産党は49年以来の大躍進政策、その後の大飢饉、文化革命で4千万人もの中国人を殺してきたといわれている。更に89年6月4日の天安門での虐殺。共産党の過去の失政を隠蔽したり、現在の目に余る貧富の格差や腐敗・汚職などから国民の目をそらすために反日教育があることを。(50頁)

 

 中国認識で大切なことは、各種データーによって観念的に中国を観ることではなく、机上の理論を排した現実に即して、中国を理解することであり、中国共産党が支配する「中国人民共和国中国」の現体制と「中国人一般」を同一視しないこと。政治体制の観察は非常に重要だが、13億の民、とりわけ、いまだに封建時代のような身分制度を押しつけられている9億以上の農民の現状を直視すること。13億の人口のうちのわずか5~6パーセントの中国共産党員の一党支配による、いわば絶対政権は絶対的に腐敗すること。しかも長年中国を観てきた中で、中国の歴史に鑑み国内が安定していた時代はそんなに長く続いていない。革命第二世代、第三世代の党指導者たちの子弟の多くは海外留学に出ているが、将来、中華人民共和国のために働くというよりは、共産党の支配体制が崩れた場合に備えていると観た方が正しいのでは等々、著者は5年前ですが本書で語っています。そういえば、アメリカに留学していた習近平国家主席の子女はその後どうなっているでしょうか。

 

 現在、習近平氏が蠅、虎たたきと称し腐敗・汚職の撲滅に躍起になって取り組んでいるようです。海外に逃亡した党幹部、役人までも追及している現実は絶対権力は絶対的に腐敗する証左なのかもしれません。

 

 果して、現在では中国の人々はどうでしょうか。尖閣諸島を巡って日本の前民主党政権の対応のお粗末さもありましたが、中国共産党政権の対応は1978年の日中平和友好条約の時とは大きく変化しています。1968年にこの海域に豊富な天然資源が眠っている可能性が指摘されてから、中国は尖閣諸島の領有権を主張しだしたわけです。日中平和友好条約が締結された1978年の4月においても、すぐ撤退したものの、突如として中国漁船約200隻が尖閣諸島周辺に現れ、数十隻が領海侵犯を繰り返しました。最近ではこの尖閣諸島は核心的利益と称するように、中国共産党政権の主張は大きく変化しています。

 

 残念な現象ですが、自らは安泰の生活を謳歌しながら、ゆがんだ正義を主張する日本の一部の所謂知識人。それに同調するがごとき一部マスメディアの報道の影響もあるのでしょうか、中国政権は安倍自公政権になってからはなおのこと、日本があたかも軍国主義になったかの如く批判を強め、日本の歴史認識が大問題であるかの如き主張を続けている現状です。しかし異論も承知の上ですが、安倍自公政権は少なくとも国民による選挙の結果、誕生した政権であって一党独裁政権ではありません。

 

 中国共産党の正当性を保持する為か、徹底した反日教育が続けられ、しかも世代も大きく変わった現在では、インターネット等による情報の共有が進んだとしても、杉本氏が記していた「中国の人々の醒めた視線」を期待するのは、とても無理な状況になったと私は考えます。

 

 自らの国は自らの国民が守るのだということ基本的理念なしに、国は保持できません。平和、平和と叫んでいるだけで平和は訪れないことは、ウクライナの現実でも明らかです。自国の防衛はどうあるべきなのか、真摯に捉える時代となり、他国の善意を期待するだけでは無理な現実が来たわけです。方や、戦後教育で、なおざりにしてきた日本の近代史を再検討し、その上で戦後の日本の歩みをしっかりと世界に発信し続けることが従来に増して重要になってきた、と考えます。時間は掛かりますが日本が進めていかなければならない道です。

 

 尚、本書では台湾人の悲哀、対中ODA、深刻な水不足問題、搾取される農民、反日運動の背景、靖国神社参拝問題(私は無理と思っていますがA級戦犯分祀という解決策)、日本とドイツの異なる歩みとその事実。更にはトロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者ハイリッヒ・シュリーマンによる1860年に清代の北京、上海、そして幕末の日本を訪れた際の両国比較論等々、興味深い内容が記されています。本書の発刊から10年が経過しておりますが、改めて読み直した次第です。

 

 2015年5月11日                      清宮昌章

 

 参考図書 杉本信行「大地の咆哮 元上海総領事が見た中国」(PHP