清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで

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牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで

 

はじめに

 

 かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。

 

 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。

 

 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があったので友人と聴講した。竹村氏は当時50歳位であったと思われるが、話しぶりは大学の教師らしくなかったが経歴は判らなかった。講義のなかで「日本はアメリカと戦争しても二年しかもたないことは判っていた」と言う驚きの発言があった。小生の思ったことは、こういう調査を行ったのに何故アメリカと開戦したのかと疑問を感じ、大学卒業後60年間気になっていた。

 

 最近表題の本が出版されたので、書店で目次を見てみると「竹村機関」という活字を目にし、早速読んでみた。(以下略)

 

 なお、私もこの本書を題名に惹かれ既に買い求めてはおりましたが、このように畏友の薦めもあり、私も本書を読み込んだ次第です。なお、本書の著者は1977年生まれ、近代経済思想史を専攻とされる若き経済学博士です。本書の「はじめに」、以下のような印象深い冒頭文章を以て始まります。

 

 昭和16(1941年)、日本はなぜ勝ち目のないアメリカとの戦争を始めたのだろうか。戦後の視点からすれば「対米開戦」、正確には「イギリス、アメリカへの宣戦布告」という選択肢は非合理の極地としかみえない。当時のエリートである日本の指導者たち、(特に軍人)が特別に「愚か」「非合理」であったわけではない。(本書3頁)

 

 その要因を、ある面では闇に包まれていた陸軍省戦争経済研究班(通称秋丸機関)を調べ上げ、探求することにより、その謎の一部を描き出そうとする試みです。私の知らなかった数々の事実を調べ尽す、極めて高度な、興味深い歴史書となっております。今回は本書の全体を紹介するのではなく、私が興味深く感じた諸点を、私自身の参考書、謂わば、ひとつの「覚え書」として残そうと考えた次第です。結果的には普段以上に長い駄文になっており、恐縮しております。

 

満州事変から太平洋戦争へ

 

 日本の戦前の歴史の流れを見ると、太平洋戦争は日中戦争が原因で起き、日中戦争満州事変に起因していることがわかる。そして、満州国の建国が太平洋戦争の遠因ということがある程度理解した上で、初めて「秋丸機関」の性格がわかってくると、著者は記しております。

 

 では、その満州事変にいたる日本の状況はどうであったのでしょうか。古川隆久氏の「昭和史」を参考にしながら、以下記してみます。

 

 日本史上初めて選挙結果をもとに、1924年成立した加藤高明率いる護憲三派内閣のもとで男子普通選挙制度ができます。政治の民主化が進んだとされ、世論からもそれなりに期待された政党内閣でしたが、同時に共産主義運動を取り締まる治安維持法も成立します。そうした中、護憲三派の足並みは乱れ、衆議院過半数をもたない与党憲政会の加藤高明内閣は1926年初頭の議会を乗り切ろうとします。ところが加藤首相が突然病死。首相の病死という政治問題ではない原因で政権交代は好ましくないとする、元老西園寺公望の判断で、加藤内国の内相若槻礼次郎が政権を継ぎます。それからは与野党双方が、からんだ汚職事件が摘発される一方、与党憲政会が野党政友会の田中総裁の陸軍大臣時代の機密費横領疑惑問題が噴出します。そして、新聞や雑誌に政党内閣を批判する記事や論文が目立ってきます。

 

 一方、第一次大戦時の好景気の反動としての戦後不況や、関東大震災がきっかけで生じた大量の不良債権が中小銀行を襲います。1927年(昭和2年)3月14日、衆議院予算委員会で、片岡直温蔵相の、まだ倒産していなかった東京渡辺銀行が倒産したとした為、全国的に信用不安が発生し、中小銀行の休業という、いわゆる昭和恐慌の発生です。方や、日本人居留民の保護とのことで、山東出兵が行われます。続いて、1928年(昭和3年)に、三・一五事件による共産党関係者の大量検挙、治安維持法の改正、更に関東軍参謀河本大作による奉天郊外の線路上の張作霖爆破事件等々が続きます。それに追い打ちを掛けるように1929年(昭和4年)の世界恐慌の発生の中、翌年の昭和5年に旧平価での金輸出解禁実施が行われます。そして、1931年(昭和6年)に満州事変が起き、翌年に満州国が建国されます。

 

 なお、著書の視点として、昭和5年から続く昭和恐慌の最中に満州事変が起きたこともあり、「過った経済政策による昭和恐慌が国民の不満を高め、満州事変支持につながり、それがその後の戦争へつながった」とみなされることが多い。が、実際には金解禁論争以前から中国における国権回復運動と、それに対する日本の世論の反発などを通じて、日中関係はかなり悪化し武力衝突も頻発していた。満州事変を起こした関東軍参謀石原莞爾に関連して、次のように述べています。

 

 満州事変をこの時期に起こした石原莞爾は、1929年のニューヨーク株式市場における大暴落を契機とした世界恐慌の広がりの中で、アメリカなど各国は恐慌への対応に追われて動けないと判断していたと考えられる。昭和恐慌とは無関係に満州事変が起き、国民の支持を得た可能性も大きい。ただ、満州事変の結果誕生した満州国への投資が金輸出再禁止後の日本の景気回復に貢献したのは事実である。日本は高橋是清蔵相による財政拡張政策、通称「高橋財政」下で通貨が膨張する中、満州事変で成立した満州国に投資を拡大することで日本と満州との経済的結びつきを強化していく。(15、16頁)

 

秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の創設

 

 秋丸次郎中佐は1939年(昭和14年)9月、陸軍省軍務局事務課長の岩畔豪雄大佐より上記研究班の創設を命じられることになります。その趣旨は以下のとおりです。

 

 わが陸軍は、先のノモハンの敗戦に鑑み、対ソ作戦準備に全力を傾けつつあるが、世界の情勢は対ソだけでなく、既に欧州では、英・仏の対独戦争が勃発している。ドイツと近い関係にあるわが国は、一歩を過まれば英米を向こうに廻して大戦に突入する危惧が大である。大戦となれば、国家総力戦となることは必至である。しかるに、わが国の総力戦争準備の現状は、第一次世界大戦を経験した列強のそれに比し寒心に堪えい。・・(中略)そこで陸軍としては、独自の立場で秘密戦の防諜、諜報活動をはじめ、思想戦、攻略戦の方策を進めている。しかし肝心の経済戦については何の施策もない。貴公がこの度本省に呼ばれたのは、実は経理局を中心として経済戦の調査研究に着手したいからである。(18頁)

 

 秋丸次郎は宮崎県飯の村(現・えびの市)生まれ、陸軍経理学校を経て主計将校に、卒業後は陸軍省委託学生として、東京帝大経済学部に入学。河合栄治郎門下の山田文雄のもと、工業政策を学び、帝大卒業後は関東軍参謀となり、「関東軍参謀部に秋丸参謀あり」と称される。満州国の経済と深く関わり、「革新官僚」と称される岸信介椎名悦三郎等との人脈も持っております。そして、秋丸機関は「陸軍版満鉄調査部」として昭和15年1月発足します。その陣容は戦後石炭と鉄鋼の増産を交互に繰り返す「傾斜生産方式」を進めた有沢広巳を主査に、その陣容を整えて行きます。なお、戦前の有沢は1938年(昭和13年)第二次人民戦線事件で、大内兵衛美濃部亮吉、脇村義太郎ら他の労農派マルクス経済学者と共に治安維持法違反で検挙されますが、14年には保釈されており、当時の日本における戦時経済研究の第一人者でした。

 

 有沢広巳を中心とする英米班、日本班には中山伊知郎河上肇の門下生である宮川実をソ連班、ドイツ班には慶応義塾の竹村忠雄主計中尉(尚、後には秋丸を引き継ぎ竹村機関となります)、更には行政学者の蝋山政道の国際政治班、高橋亀吉が主宰する高橋研究所員、東洋経済新聞社の村山公三、加えて近衛文麿のブレーンある昭和研究会といった当時の錚錚たる学者達、大川一司、塩谷九十九の面々がこの秋丸機関に参画していきます。

 

新体制運動の波紋

 

 この研究班の体制が整い、活動が緒についた頃、一般政財界において、満州国における関東軍の様に、内地でも陸軍が日本の経済界を牛耳り、統制経済に移行するのではとの疑念が生じます。即ち、治安維持法で検挙された有沢を起用する秋丸機関が経済新体制を推進する司令塔と見なされ、政財界、検察、右翼から攻撃が行われ、謂わば逆風的な中で研究班は発足したわけです。著者は次のように述べています。

 

 政治面での新体制が求められた背景として、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全が深刻化してきたことが挙げられる。大日本帝国憲法下では特定の組織や人物への権力分立体制が採られており、例えば内閣総理大臣国務大臣の首班ではあるものの他の大臣と対等な地位とされていた。こうした権力分立体制を補い政治を安定させていたのが元老制度であったが、元老が死去していき、既存政党は相次ぐ汚職や内紛によって国民の信頼を失い、他方で「高度国防国家」建設のためにより一層の統制を求める軍とそれに反発する政党・財界とが対立する中、権力の空白が続いたことも一因となり日中戦争は泥沼化した。・・(中略)公益優先の原則の下で「資本と経営の分離」を実行して私益を追求する資本家から企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営する「経済新体制」の実現が目指されるようになったといえる。(40~42頁)

 

 方や、「資本と経営の分離」論を「利潤本位から生産本位」へと表現した昭和研究会で活躍した朝日新聞笠信太郎著「日本経済の再編成」は、実質は秋丸の執筆であり、経済新体制の運動の重用人物は秋丸機関とされます。そうした中、新体制運動の中心であったはずの近衛文麿は政財界、観念右翼等々の批判に動揺し、政治や経済の革新に著しく消極的となり、昭和15年に発足した「大制翼賛会」もその政治性はなくなり、単なる政府の外郭団体に過ぎないものになります。著者は次のように記しております。

 

 新体制運動に対する批判が繰り広げられ、それによって政治新体制も経済新体制も事実上骨抜きにされたことは大日本帝国憲法と、資本主義経済の原則といった明治以来の体制が守られたことを意味する。しかしその一方で、特に政治新体制が解決を目指していた「権力分立的な大日本帝国憲法の制度下では意思決定が効率的に行われない」という問題は全く解決されずに残ってしまったことになる。そして昭和16年になると国際情勢はますます大きく変化していく。その中で日本が明確な意思決定を十分に行われない権力分立的な状態にあったことが、逆説的ではあるが「対英米開戦」という重大な意思決定を行う結果となってしまったとも言えるのである。(52,53頁)

 

 皆さん、如何でしょうか。私は僭越ながら賛同するところです。

 

秋丸機関の報告書

 

 上記のような経緯がある中で、ではその秋丸機関の報告は何を語り、それは、陸軍上層部等に、どのように報告され受け止められたのでしょうか。

 

 なお、秋丸機関が発足する昭和15年には日独伊三国軍事同盟、日本軍の北部仏印進駐により日本は英米の関係は悪化し、アメリカの鉄屑輸入禁止等重要資源の入手が困難な状況に追い込まれておりました。そのような状況下で秋丸機関の報告がされます。

 

(A)日本班の研究では日中戦争の二倍の戦争は日本の国力では無理であることを指摘し、さらに「英米合作経済抗戦力調査」、「独逸経済戦力調査」を合わせれば英米の弱点といえる船舶輸送力を攻撃するドイツの経済力には限界があるのでアメリカは当然のこととしてイギリスを屈服させることは困難であり、時間が経てば経つほどアメリカの軍事力は強大になっていく。つまり日本は非常に高い確率で致命的敗北を喫する。

 

(B)一方で独ソ戦が短期間で独逸の勝利に終わり、ドイツがソ連の資源と労働力を手に入れさらに南アフリカに進出して自給力を高め軍事力を強化し、イギリスを早期に屈服させられれば、アメリカは交戦意欲を無くして、日本が南方の資源を入手した状態で講和が出来るかもしれない。つまり日本は非常に低い確率で有利な講和をできる可能性がある。(136、137頁)

 

 即ち、秋丸機関は「全く日本の勝利の可能性は無い」という主張はせず、わずかでも敗北を回避できる可能性がることを指摘することになった。加え、参謀本部の「北進」論に対し、陸軍省軍務局「南進」を支持するレトリックとして受け止められたのです。秋丸次郎自身は回想でその報告について、「消極的平和論には耳をかす様子も無く、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知る者にとっては、薄氷を踏む思いであった」と書いている、と著者は記しています。

 

何故開戦の決定か

 

 昭和16年7月の南部仏印進駐によって、対日石油輸出禁止のアメリカの強力な経済制裁が行われ、陸軍等の宣伝にも乗った報道機関により、世論も対米開戦の機運がさらに高まります。秋丸機関だけでなく陸軍省戦備課を含め各種の研究所での演習にしろ、対英米戦争をすれば短期的には何とかなっても長期戦になれば日本は困難な情勢に陥ることは、当時の日本の指導者は皆知っていた。では何故開戦に至ったのか。当時の指導者の「非合理的な意思決定」「精神主義」が原因なのか。著者は行動経済学プロスペクト理論により次の様に展開していきます。経済学では「人間は合理的に意思決定をする」と考えられてきたが、実際には人間は非合理的に見える行動を取ることがよくある。

 

(A)確実に3000円支払わなければならない。

(B)8割の確立で4000円支払わなければならないが、2割の確率で一円も支払わなくてもよい。

 

 人間は現在所有している財が一単位増加する場合とでは、減少する場合の価値を高く評価する。そのため、人間は損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすることを望む。従い、「一円でも支払わなくてもよい」という確率が主観的に過大に評価されBを選択する。

 

 方や、既に記してきたように、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全状態を打破するための取り組みであった昭和15年の政治新体制運動は挫折し、「船頭多くして船山に登る」状態であった。そうした「集団意思決定」の状態では集団成員の平均より極端な方向に意見が偏る集団極化、即ちリスキーシフトが起こることが社会心理学的な研究でも知られている。謂わば、個人の状態でもプロスペクト理論によってリスクの高い選択が行われやすい状態の中で、そうした人々が集団で意思決定をすればリスキーシフトが起き、極めて低い確率の可能性に賭けて開戦という選択肢が選ばれてしまう。著者は以下、記しております。

 

 昭和15年の新体制運動は「国体」を守ろうとする観念右翼、「議会制民主主義」を守ろうとする政党政治家、「私有財産制」を守ろうとする経済自由主義者の反対により挫折した。それは明治維新の結果である大日本帝国憲法とそれに体現される政治経済システムを守ったことになるが、皮肉なことにそのために「船頭多くして船山に登る」状態を変えることができず、日本が一層重大な決断を迫られた翌年の対英米開戦という極めてリスクの高い選択になってしまったともいえるのである。(161頁)

 

 一般国民はマスメデイアによる軍部の宣伝、更には文化人というか、当時の東方会の中野正剛達による対米デモンストレーションの中、対米戦争も敢えて辞せずという冒険的気分に侵されていた。即ち、日本全体が集団極化してリスキーシフトにより「冒険的気分」が広がり、対米強硬論が世論となっていたのです。

 

 残念なことなのかもしれませんが、先の見通しが立たなかったからこそ始まった戦争、「つまり、アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と、開戦三年目からの見通しつかない戦争は、どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく、ともにどうなるかわからないからこそ、指導者たちが合意することができたのである。結局11月26日にハルノートが提示され、日米交渉は頓挫し、残された唯一の選択肢である開戦が選ばれたことになる。」(169頁)

 

 著者のこの視点は興味深い、一つの新たな研究成果ではないでしょうか。加えて、著者は川西晃祐氏の印象深い言葉を引用され、次のように記していす。

 

 もし現在のわれわれが太平洋戦争開戦に至る歴史から学びえるとすれば、それは、日本の国力を過信した訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかったアクターよって戦争が選択された事実である。正しい情報と判断力があれば戦争が回避ができるわけではない怖さを、この時のアクターらの行動は示していると言えよう。(170頁)

 

正しい戦略とは

 

 著者は次のように記しております。

 

 日本の経済学者が「日英米開戦」の回避に貢献できただろう方策は、日米の経済格差という「ネガティブな現実」を指摘することではなく、むしろ、「ポジテイブなプラン」を経済学を用いて効果的に説明することであったろう。この「ポジテなプラン」はあくまでも開戦論を抑えて時間を稼ぐためのレトリックなので、必ずしもエビデンスに基づく必要はない。ドイツの国力は現在が限界なので数年でソ連英米に挟撃されて敗北する。その後は英米ソ連の対立が起きるのでそれを利用する。そうした「臥薪嘗胆論」が説得力を増し、日英米開戦は回避された可能性がある。勿論、硬化した世論をどう説得する大きな問題はのこるが、秋丸機関は、こうしたことが可能だったかもしれない数少ない組織だった。有沢広巳、中山伊知郎をはじめ多くの優秀な経済学者、国際政治の蝋山政道、ドイツ経済を含め戦略的思考をもできる竹村忠雄等々を巻き込んだ秋丸機関であった。その上、中山、竹村、蝋山は当時の論壇でも活躍しており、メデイアを通じて世論を変えさせることも可能だったかもしれない。結果は、悲劇ですが秋丸機関の報告は「日英米開戦」の材料にされてしまった。陸軍そして日本は、敗北するとが確実な「日英米開戦」に踏み切ってしまったのです。

 

 極めて厳しい著者の指摘ですが、秋丸機関による開戦回避への可能性はあったのでしょうか。上にも記した中野正剛、更には「国民新聞」の徳富蘇峰といったジャーナリスト、文化人がメデイアにより更に煽られ、そして作り出される当時の世論を変えることは至難の業であった、そうした現象は今でも大きな問題だと、私は考えております。民主主義に伴う一つの大きな問題だと考えております。

 

戦中から戦後の秋丸次郎、有沢広巳、竹村忠雄

 

 秋丸機関の報告書は内容自体当時の「常識」に沿ったもので、国策に反したものではなかったはずだが、その報告書が見つからなかったこともあり、戦後は開戦を決定していた陸軍の意に反するものとして焼却された、との定説が流れた。

 

 しかし、事実は昭和16年10月、尾崎秀実・ゾルゲ事件が起こり、陸軍から大量の情報がソ連に流れてもいたとことが、秋丸機関の中心とも言うべき、左翼的思想の持ち主と見られた有沢広巳他がその機関より追放されます。

 

 現在、東京大学経済学部資料室に所蔵されている有沢資料の中には、有沢が執筆したと推察される「英米合作経済抗戦力調査」他が整理・保管されているとのことです。従って、著者は「戦後に秋丸機関についての語り口が固定される中でゾルゲ事件に触れられることも無くなって、秋丸機関の報告書は国策に反するものだったので回収され焼却された、ということになったのではないか」と記しています。

 

 方や、開戦とともに秋丸は大本営での仕事が中心となり、竹村忠雄がそれを継ぐ形で「竹村機関」となります。そうした中、秋丸機関創設時に大きな役割を果たした小泉吉雄らが、ゾルゲ事件に関与したとのことで検挙される、所謂、満州調査部事件が起き、秋丸次郎他関東軍第四課出身の軍人が問題視される一方、公的な経済調査機関が整備され、秋丸機関は昭和17年末に解散となります。

 

 その1 秋丸次郎

 

 戦後の秋丸は地元の飯野町の町長を二期務め、その後は社会福祉協議会を設立し会長を長く勤め、平成4年8月23日、93歳で死去。「敗軍の将は兵を語らず」とのことで戦後は自らの体験を語ることはなかったが、昭和58年の陸軍経理学校の同窓会、若松会の機関誌には次のように記しているとのことです。

 

 経済戦研究班ばかりでなく、遅れて発足した総力戦研究所にしても、第二次大戦の遂行に対しては、ほとんど寄与することなきままに悲劇的な結末に終わった。その因果を省みると、昭和14,5年に陸軍の南進策が決まり。英・米を向こうに回して未曾有の大戦に突入することを予想する時になって、急いで経済戦や総力戦の研究調査機関の設置に着手した“泥縄式”の措置であったことに基因するのである。国防とか戦争とかを考える上で、たとえ専守防衛であっても、常時、科学的・原理的な準備のため機関を常設することの重要性を痛感する次第である。(218頁)

 

 共感を覚えるところです。秋丸は平成4(1992)年8月23日、93歳で死去します。

 

 その2 竹村忠雄

 

 竹村忠雄は終戦直後には慶應義塾大学を追放され、日本共産党系学術団体からは戦争責任者の一人としてされますが、自分の戦中の行動については弁解は一切しなかったとのことです。なお、竹村は戦中では、秋丸機関が解散後も警視庁特高課からはマルキスト内閣情報局からは英米派と警戒されながらも引き続き多方面で活躍します。実際の終戦は直接的には原爆投下と、ソ連の対日参戦によるものでしたが、鈴木貫太郎首相による政府が公的に戦争終結の活動を始めるレトリックを作り出すことに貢献した、と著者は記しております。加えて、極東国際軍事裁判では戦犯問題に協力を求められ、「経済学的見地に立ちて大東亜戦争の必然性を論評す」を提出。以下のように主張し日本の行動を弁護しております。

 

 日本は過剰人口に悩み市場を海外に求めざるを得なかったにもかかわらず、日本製品がイギリスなどから閉め出されさらに南部仏印進駐後に石油の禁輸を受けたことで、「茲に於いて我国は三度買い得ざる者は遂に盗むの罪を犯さざる窮地に追い込まれ、太平洋戦争が勃発したのである。」「太平洋戦争の経済的遠因並に近因を検討するならば、それは我国の人口問題の解決を戦争による領土の拡大以外に他に道を与えられなかった独占的国際経済秩序が生んだ罪である」と主張して日本の行動を弁護している。(223頁)

 

 如何でしょうか。一つの視点・観点でと見るべきものでしょう。竹村は昭和62(1987)年12月14日、82歳の生涯を閉じます。

 

 その3 有沢広巳

 

 有沢は戦後、昭和21年、第一次吉田内閣の私的ブレーンとして石炭と鉄鋼の増産を繰り返す、所謂「傾斜生産方式」を提唱します。その真意は有沢自身がGHQの輸入許可を求める品目のうち「とくに鉄鋼と重油を重視していた」。有沢らが日本経済の復興に於いて最も重視していたのは実は石炭の生産ではなく重油の輸入であった。つまり傾斜生産方式というのは「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建をする」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックで、自助努力のプログラムを示し、アメリカからの重油の援助に成功した。著者は次のように記しています。

 

 竹村忠雄がその経験を基に戦争を終わらせるレトリックを作るのに貢献したのと同様に、有沢広巳はその経験を基に戦後に傾斜生産方式というGHQを説得するレトリックを生みだすとともに、「何か新しいことをやるように」ということで国民を勇気づけて労働意欲を引き出し、それが戦後復興に役立ったのである。有沢はその後も多くの産業政策や石炭・原子力などのエネルギー政策に関わり、昭和63(1988)年3月7日、92歳で死去した。(235頁)

 

おわりにあたり

 

 今回、本書を取り上げたのは、「はじめ」にも記したように某読書会の畏友より薦められ読み進めました。「昭和研究会」に関しては私なりに、多少なりとも聞き及んではいましたが秋丸機関については全く知りませんでした。本書を読み進めていく中、歴史研究を進める上での綿密な調査と地道な研究が基で、その成果が見事に現れた著作と思うと共に、学者研究者の凄さを感じ入ったところです。なお、新体制運動及び革新官僚とは何か、その挫折をも改めて認識した次第です。著者は本書の「おわりに」以下のように記しております。

 

 歴史を学ぶ意味は、そこから現代への教訓を読み取ることである。読者の方々にとって本書が歴史の本というだけでなく、現代の社会において「エビデンスとヴィジョン、そしてレトリックを使って、より良い選択をするためにはどうすればよいか」を考える機会となれば幸いである。(240頁)

 

 毎回の言い分で恐縮しますが、欧州の混乱、大きく変貌するアメリカ、そして価値観を大きく異にする共産党独裁政権の中国の急激な台頭等々、世界情勢はは大きく変貌しております。中国に加え、世紀を超えても変わらない反日国家・朝鮮半島を隣国とする日本は更に厳しい状況下に置かれていくと考えます。そうした現状下にありながら日本の政治の現状はどうでしょうか。只、安倍政権を倒せばこと済むような、国会論議を含め、それを喧伝する、決して責任を取ることない最大の権力者になったマスメデイア。それによって作り出された世論と称するものに政治は翻弄され、現実を見失う、否見ない、日本は正しく平和ボケにあるといっても過言ではないでしょう。われわれは改めて歴史を顧み、現状・現実を考える必要があるのではないでしょうか。僭越至極ですが、そうした意味でも私は大いに参考になる本書に出会いました。

 

 なお、「はじめに」も記したように、私の興味に従って長々と述べてきました。ご参考までに本書の構成は記しておきます。

 

  はじめに、第一章・満州国と秋丸機関、第二章・新体制運動の波紋、第三章・秋丸機関の活動、第四章・報告書は何を語り、どう受け止められたのか、第五章・なぜ開戦の決定が行われたのか、第六章・「正しい戦略」とは何だったのか、第七章・戦中から戦後へ、おわりに、から成り立っております。

 

2019年1月7日

                       淸宮昌章

参考図書

 

 牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)

 古川隆久「昭和史」(ちくま新書

 筒井清忠「昭和史講義 最新研究で見る戦争への道」(ちくま新書) 

 同   「近衛文麿」(岩波現代文庫)

 堀田江理「決意なき開戦」(人文書院)

 牛村圭「戦争責任論の真実」(PHP研究所)

 半藤一利「昭和史 1926から1945」(平凡社)

 清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

 堀口正夫「書籍紹介 経済学者たちの日米開戦」

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(NHKブックス)

 カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル著「ポピュリズム」    

                   (永井大輔、高山祐二訳 白水社)

 選択(11、12,1月)

 他

  

この3年8ヶ月を省みて

この3年8ヶ月を省みて

 

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 このブログ「淸宮書房」を立ち上げ、この11月で3年有余が経過しました。初めの投稿は2015年の3月で、澤田克己著「韓国『反日』の真相」を取り上げ、私なりの感想などを併せ記したものです。その後、加筆をも入れますと、今日までに70数編の投稿となり、ひと月に、ふたつの投稿になるでしょうか。

 

 尚、このブログを立ち上げた動機は、自費出版「書棚から顧みる昭和」の後も、人生の大半を過ごした昭和の時代を、僭越至極ながら、私なりに再検討し、今を考えて観ようとした次第です。と同時に私なりの読書感想を残しておくことも私個人にとって意味があるかもしれないと思ったわけです。誠に恐縮ですが、ブログとしては極めて長文で、加えて、何を言いたいのかよく分からぬ、とのご批判もあるでしょう。5年前に一線を全て退き、テニス漬けの日々を送る、遊び惚けて、何か後ろめたい気持ちも残る78歳の者ですが、読書量も落ちてきている状況にもあります。ただ、お陰様で、淸宮書房へのアクセスも26000台になって、ここに、ひとつの中間報告を致したく思ったところです。

 

 フェイスブックの案内によれば、私はその基準は分かりませんが、期近の注目記事として挙げられているのは下記の通りです。

 1.毛利和子「日中漂流・グローバル・パワーはどこへ向かうのか」を読んで

 

2. 佐伯啓思「保守のゆくえ」を読んで思うこと

 

kiyomiya-masaaki.hatenablog.com

 3.再度・堀田江理「1941決意なき開戦」を読んで 

 

kiyomiya-masaaki.hatenablog.com

4. 阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

 

 5.池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで

 

 4番目を除き、他の4編に共通することは、新聞・テレビを初めとしたマスメデイアへ私の強い危機感です。言論・報道の自由云々どころか、報道しない自由をも得た権力構造です。又、そこへ登場する識者・ジャーナリストと称される人々、加えて何の芸か分かりませんが、踊らされるタレントと称される人々の止まるところを知らぬ無責任なご意見。加えて残念ながら、それに影響される世論。そして、そのマスメデイアの世論に翻弄される日本の現実に私は大きな危機感を持っております。正にマスメデイアが最大の権力者化の様相となっている、との思いです。

 

 お時間とご興味があればの上ですが、上記、五つの拙稿を改めて一覧頂ければ幸いです。

 

 尚、4番目の阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」は詩歌等に全く疎い私ですが、著者の綿密な調査・研究に加えて、驚くほどの記憶力により明治、大正、昭和の時代の流れ・政治状況を巧みに紹介し、柳原白蓮とその人々の物語を記述しております。私も一気にその投稿を仕上げました。

 

 現在、上に写真を載せた著書については後日、改めてご紹介したく思っております。

 

 2018年11月20日

 

                             淸宮昌章

 

 

 

 

 

池田信夫「丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで  

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで

 

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序章

 

 日本の政治は、なぜここまで壊れてしまったのだろうか。国会が圧倒的多数与党と無力な野党に二極化し、政策論争がなくなってスキャンダルばかり論じられる昨今、そう思う人は少なくないだろう。自由民主党が「保守党」であることはいいとして、野党は何なのだろうか。彼らの自称する「リベラル」という理念は、日本にあるのだろうか。

 

 以上は著者、池田信夫氏の本書の「はじめ」における冒頭の言葉です。続いて次のように続けます。

 

 戦後の日本には、リベラルの輝いた時代があった。それを代表するのが丸山眞男である。彼は1950年代まで日本の論壇をリードし、1960年の日米安全保障条約改正の時は反対運動の中心になった。かれの本業は東京大学法学部の教授として政治思想史を教える研究者だったが、世間的に注目されたのは論壇のスターとしてだった。彼は60年代以降、政治運動から身を引き、研究者に専念するが、60年代後半の東大紛争では学生に批判される側になり、「戦後民主主義」とか「近代主義者」というレッテルが貼られた。

 

 ・・(中略)今も丸山を慕う人々は、戦後民主主義国家の黄金時代を懐かしみ、その「原点」を継承して憲法改正を阻止しようと考えているのかもしれない。

 だが憲法第九条の平和主義は、丸山の原点ではなかった。戦後最大の分岐点は、憲法ではなく講和条約だった。丸山は1950年に米ソと同時に平和条約を結ぶ「全面講和」を主張した。1960年の安保改正のときは強行採決を批判し、「民主主義を守れ」と主張した。こうした運動は失敗に終わり、60年代には丸山はアカデミズムに退却した。  

 

 その後の日本は、1950年代にリベラルが考えたのとはまったく違う方向に発展した。憲法は改正されなかったが日本は再軍備し、安保条約は存続した。彼らが理想化した社会主義は悲惨なユートピアになり、自民党に対抗する野党は生まれなかった。丸山を代表とする進歩的知識人は政治的に敗北し、そこから今なお立ち直ることができない。

 丸山の敗北を検討することは、彼個人を超えた意味がある。彼に代表されるリベラルな気分は、今多くの人に受け継がれているからだ。空文化した憲法の平和主義は、篠田英郎の指摘するように「戦後日本の国体」として人々を呪縛している。(本書10頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私としては共感を覚え、それが本書を読み始め、そして読み終えた大きな要因でした。

 本書は序章・明治の国体に抗いして、第一章・自然から作為へ、から始まり、第十一章・失われた主権者、に続きます。そして、終章・永久革命の終わり、という構成ですが、著者は以下のように記し、本書を閉じています。

 

 軍事的な主権を放棄した日本は、アメリカの世界戦略に従属する状態にずっと置かれることになった。一国平和主義は日本人の心に中に住みつき、憲法を変えただけでは変わらない。もはや日本が二十世紀型の主権国家として自立することは不可能だが、それが唯一の「普通の国」のモデルとは限らない。国家主権も平和憲法もフィクションだが、それは平和が続く限り役立つフィクションである。

 今は日本にとって、この変則的な戦後の国体を護持する以外の選択肢はないだろう。それは「憲法改正は時期尚早だ」と主張して、それを既成事実として守った丸山の戦術の成功による失敗だった。彼も認めたように憲法第九条は逆説であり、今後も逆説である他はない。丸山は1996年8月15日、彼の信じた革命の歴史を閉じるかのように異論は世を去った。(本書248頁)

 

 フィクション云々には異論もあるでしょうが、私には印象に残る、「はじめ」と「終わり」の記述です。その中身はどうか、へと関心と興味が沸き、読み進めた次第です。方や、本書は丸山についての解説書ではない、と述べている著者は1953年生まれです。東大を卒業後、NHKに入局、色々とご意見はあろうと想いますが、報道番組「クローズアップ現代」などを手掛け、退職後、博士(学術)取得。現在は、アゴラ研究所代表取締社長です。尚、今回も本書の全体を紹介するのではなく、私の興味深く感じた諸点に絞って綴って行きます。           

 

その1.丸山眞男の履歴、その関連で想うこと

 

 今から4年前になりますが、私は自費出版の拙著「書棚から省みる昭和」の第十四章・丸山眞男を想う、と題し、丸山眞男を取り上げ、丸山を考えることは、戦後思想と知識人界を考えることにほかならない、と僭越にも記しました。そして丸山のトラウマ的なことも併せ記しました。その時と重複する感もありますが、改めて、丸山の来歴とその思想の発端は何であったのか、僭越至極ですが私なりに若干の補足をし、以下記して参ります。

 

 丸山は1914年(大正三年)、洋行帰りの「大阪朝日新聞」で筆を執った著名なジャーナリスト丸山幹治の次男として大阪で生まれます。謂わば、明治ではなく大正デモクラシーの大正ッ子です。そして一家とともに東京の四谷区愛住町に移り、大正12年9月の関東大震災を経験します。尋常小学校4年生だった丸山の手記として朝鮮人の対する「自警団の暴行」への批判が記されているとのこと。そして、その震災経験を1995年の阪神大震災時の知人の見舞い状に、「ああいうパニックの際の人間性の中にある強烈なエゴイズムと、その反対にまったく自発的な利他精神を子供ながら目撃したことがやはり私の生涯でもっとも大きな経験でした」と記している、とのことです。

 そして東京府立一中(現在の日比谷高校)に合格し、4年次では第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験に失敗するものの、5年次を経て一高、東京帝大に進みます。尚、高校三年の時、父の友人でもある長谷川如是閑の主宰する唯物論研究会の講演が本郷仏教会館で行われ、偶々、学生服で足を運びます。その彼のポケットに入れていた手帳の言葉「日本の国体は果たして懐疑の坩堝の中で鍛えられているだろうか」を見つけられます。それはドストエスキーの「わが信仰は懐疑の坩堝の中で鍛えられた」という引用ですが、「貴様、君主制を否定するのか」と、共産党の活動家とみなされ治安維持法違反で検挙、留置所に拘留されます。そして、スシ詰めの豚箱での異様な体験。朝鮮人への激しい官憲の暴力。そして同房の一年先輩と話しているうちに不覚にも涙を流したことです。この異質なものとの遭遇は後の学生時代、助教授時代、兵役時代、そして広島の原爆の被爆の経験にも連なっていくわけです。

 

 帝大の法学部の助手の時、偶々、早稲田大学津田左右吉が右翼の攻撃を受け、帝大法学部の非常勤講師を辞任したため、26歳で東京帝大法学部の助教授に就任します。しかし、かって逮捕・拘留所でのことから思想犯としてレッテルを貼られていたのでしょう、東京帝大の助教授でありながら、1944年サイパン陥落の時、30歳で長野県松本の連隊に陸軍二等兵として招集されます。そして、所属部隊ごと朝鮮の平城に送られ、朝鮮の人々の底知れない反感、複雑な怨恨感情を知ることとなります。栄養失調から二ヶ月後に兵役を解除されますが、その兵役では思想犯として苛め抜かれといった、再び「異質なもの」に遭遇するわけです。とくに「最も意地の悪い」仕打ちを加えたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入隊した朝鮮人一等兵であった。

 

 丸山は再び、1945年3月、二等兵として招集され、広島の陸軍船舶司令部に配属され8月6日原爆投下から五十キロの地点で被爆します。奇跡的に助かり、死去の際には「香典は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上の残った場合には、原爆被害者法の制定運動に寄付する」との遺言を残しました。

 

 尚、興味深いことは、丸山が八月十六日に上官である谷口参謀に「連合軍は民主主義と言っているが、そうなると陛下はどうなるのか? 君主制は廃止されるのではないか?」との質問に対し、以下のような意味で返答をした、とのことです。興味深いので紹介致します。

 

 ご心配には及ばないと思います。民主主義はわが国体と相容れないというような考え方はそれこそ昭和の初めごろから軍部や右翼勢力を中心にまかれて来たプロパンダです。国法学の定義としても、君主制と対立するのは共和制であって、民主制ではありません。民主制は独裁制に対する対立概念です。イギリスは君主制ですが、極めて民主的な国家であり、逆にドイツは第一次大戦征以後、共和国になりました、その中からヒットラー独裁が生まれました。(本書35頁)

 

 丸山の問題は「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」ということだった。彼はその背景に既成事実に屈服しやすい日本人をみたが、それを屈服させたのはナチスのような独裁者ではなかった。むしろ「寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかった」ことが日本の軍国主義の特徴である。そして、1946年の「世界」五月号に掲載された丸山の「超国家主義の論理と真理」は戦後の社会科学に最大の影響を与えた論文で、戦争の原因を日本人の心理に求めたものです。そして、後に「八月革命」と呼ばれる宣言が以下の記述です。

 

 日本軍国主義に終止符が打たれた八・十五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(本書40頁)

 

 丸山の終生のテーマーは天皇制だった。それは戦前の日本人にとっては圧倒的な権威であり、多くの兵士が天皇のために死んでいったが、単なる政治的な君主制ではない。「原型」や「古層」は、日本人の心に深く根ざした天皇制を理解するための概念装置だった。・・(中略)戦争が終わって多くの人が「天皇の戦争責任」を問題にしたとき、逆にリベラルな天皇が戦争を止められなかったのはなぜか。それは天皇制を支えた政治の問となり、日本人は何かという問になった。(本書142頁)

 

 そして、丸山は1960年に行われた日米安保条約の改正という戦後最大の岐路を迎えます。1950年代か続いてきた講和問題をめぐる左右対立が先鋭化し、安保条約の評価が国論を二分します。このとき、彼は安保反対運動のヒーローとして知られるようになります。ただ、彼は安保条約の内容については、ほとんど論評しておりません。彼が反対したのは、条約改正の強行採決だったのです。

 

 その後は、丸山は全共闘の学生らによる「大衆団交」で吊し上げ、更には在野の知識人である吉本隆明達からも、その行動・思想を激しく批判されます。因みに吉本隆明は1923年生まれで2016年に88歳で死去されます。絵に描いたような学歴エリートの丸山と異なり、下町の船大工の三男として生まれ、東京府立化学工業学校、米沢高等工業学校、東京工業大学です。蛇足ですが、その次女は作家の吉本ばなな氏です。全共闘プロレタリアート化された学生が、丸山に代表される教養エリートをモデルにした上昇型知識人の道ではなく、むしろ下町知識人のポジションから発言する吉本隆明の方にシンパシーを感じたのも不思議ではない、と竹内洋氏が記しております。

 

 丸山は安保騒動後、政治的活動から離れ、東大教授も定年前に退きます。それからは日本政治思想史の研究に専念し、1966年、奇しくも「八月十五日革命説」を唱えた、とする、その同日の五十二回目の所謂、終戦記念日に八十二歳の生涯を閉じます。

 

その2.無責任の体系の始まり

 

 丸山は既成事実への屈服という倒錯した意思決定の原因を明治憲法の欠陥に求め、明治幕藩政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシャに倣って作り上げた時に既に今日の破綻の素因は築かれていた。そこでは明治時代の基本的な対立として幕藩体制自由民権運動という図式が描かれ、その延長上に昭和の軍部と政党政治の対立があった。そして、ファシズムの担い手は本物のインテリではなく、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官という疑似インテリ、としています。このようにインテリを特権化する議論は丸山の特徴で、東大教授のエリート主義として(特に左翼から)強い批判を受けた、と著者の池田氏は記しています。

 

 尚、ファシズムという観点については、著者は以下のように記しています。

 

 代表制が機能しない大衆社会の危機に対する主権者として登場した独裁制ファシズムと考えると、日本の軍部支配はファシズムとはいえない。独裁者は不在で、政党は存続した。本来の主権者である天皇ファシズムに反対していた。よくヒトラーに比せられる東條英機は権力基盤が弱体で、それを補うために首相と陸将と参謀総長を兼務した。実質的な意思決定を行ったのは現場の将校であり、彼らをあおったのは新聞の戦争報道だった。(本書46頁) 続いて、

 

 軍部の力を借りて危機を乗り切ろうとする内閣に革新官僚が呼応し、総動員体制を取るために軍事的な雇用創出や賃金の国家統制などの社会政策を取った。農村の窮乏かを領土拡大で解決するため、陸軍が大陸に進出したのが1931年の満州事件である。翌年には陸軍の青年将校が五・一五事件でクーデタを図ったが、国民は軍部を熱狂的に支持した。この三十年前半が世論の転換期で、政党も軍部に迎合するようになった。大衆がストレスを発散する最大の劇場が戦争だったからだ。

 この状況で民意を統合する新聞の役割は大きかった。1931年5月まで朝日新聞軍縮派だったが、この年9月に満州事件が起こると、大阪朝日の社説はこれを「自衛権の行使」として擁護した。その動機は単純である。満州事件で、部数が50%も増えたからだ。大規模な戦場のスペクタクルと、そこで戦う息子の安否を知りたい親心から、人々は争って新聞を読んだ。総力戦はデモクラシーから生まれたのだ。(本書243頁)

 

 著者のこの観点は如何でしょうか。私は共感・賛同を覚えるのですが。メデイアが煽った世論操作の行く着く先は、今でも起きている現実ではないでしょうか。加えて、戦後も何らの責任も取らず、感ぜず、A戦犯と称する人々にその責任を負わせる新聞等メデイアの在り様は今日でも変わらない現実ではないでしょうか。3年ほど前になりますが、私は淸宮書房で筒井清忠著「近衛文麿」を取り上げました。新聞各社、とりわけ朝日新聞が如何に他人事のように戦争責任を捉えていたかを示すもので、敢えて再び以下に記します。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかってあれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降、最近の公の行蔵は世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。・・(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。・・(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。・・(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。・・(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(筒井清忠著「近衛文麿」295頁)

 

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(同上近衛文麿296頁)

 

筒井清忠氏は新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しています。何故に戦後、むのたけじ朝日新聞社を辞めていったのかが、改めて私は思い起こされるところです。

 

その3.知識人の闘い

 

 丸山は疑似インテリがファシズムの担い手としたのですが、では本来のインテリは戦中、戦後どうだったのでしょうか。著者は次のように記して行きます。

 

 1930年代の混乱した時代に、リベラルな「本物のインテリ」は問題を正しく認識していたが、「亜インテリ」のファシストにやられた、という丸山の歴史観は事実にそくしていない。普通選挙ポピュリズムを生み、政党政治軍国主義と野合して大政翼賛会が生まれた。そこに集まった知識人は軍部に対して無力ではなく、積極的に軍部を呼び込んだ。近衛文麿がその中心だが、彼をとりまく「昭和研究会」のメンバーにも東京帝大の本物のインテリである蝋山政道、矢部貞治、大河内一男大塚久雄等々。そして、大政翼賛会の事務局長の朝日新聞緒方竹虎笠信太郎然りである。終戦直後に治安維持法で検挙されて獄中で死んだ三木清が、その中心だった。

 

 「緒方や笠は狂信的な右翼ではなく、リベラルな社会民主主義だったが、彼らが近衛大政の支柱になった。新聞の支持に乗って軍部の発言権は強まり、革新官僚国家社会主義の経済体制を構築した。その中心が岸信介である。国家社会主義の教科書を書いた笠は1948年に帰国し、朝日新聞の論説主幹として全面講和や安保反対の論陣を張った。彼は戦前の著者をすべて絶版にし、戦後はそれについて何も語っていないが、軍国主義を支えたのは笠と革新官僚の立案した国家社会主義だった。戦前の日本と戦後の日本は、丸山が思っていたほど離れていなかったのだ。」(本書221頁)

 

 皆さん、如何思われるでしょうか。一国平和主義についての、所謂知識人との関連については、次のように指摘しています。

 

 安全保障をめぐる国会審議では、国をいかに守るかより憲法違反かどうかが争点なるが、日本国憲法は他国には適用できないのだから、集団的自衛権の行使が憲法違反か否かは自国を防衛できるかどうかとは論理的に無関係な問題である。こうした憲法解釈をめぐる神学論争に多くの政治的資源が費やされる状況は世界にも類をみないが、そういう論争の始まったのが1950年代だった。

 その最大の焦点が講和条約だった。アメリカなどと早期に講和する「単独講和」か、ソ連や中国を含む「全面講和かが論争になったのだが、全面講和を条件としたら、ソ連と平和条約を結んでいない日本は、いまだに講和はできていない。当時の知識人の中では全面講和が圧倒的に優勢で、その運動の中心になったのが丸山だが、彼自身は神学的な立場をとっていなかった。・・(中略)単独講和は実際には単独でなく(中ソを除く)48カ国との「多数講和」だが、この言葉が世の中に錯覚を与えた。・・(中略)全面講和は不可能だったので可能な選択肢の中から多数講和を選んだ。・・(中略)それに対して知識人は、平和問題談話会を結成した。・・(中略)久野収や丸山が中心になって平和問題討議会を結成し・・(中略)メンバーは安陪能成、和辻哲朗、田中耕太郎、蝋山政道などのオールド・リベラリストから大内兵衛、脇村義太郎、有沢広巳などのマルクス経済学者、中野好夫都留重人を含むオール・ジャパンの知識人だった。全面講和を特集した岩波の『世界』1951年11月号は五刷を重ね、十五万部も売れた。・・(中略)丸山が政治の表舞台に登場したのは、この全面講和論争のときだった。(本書70頁から73頁)

 

 そして、著者は次のように指摘します。

 

 丸山は非武装中立と言う言葉は使っていないが、ここで知識人のコンセンサスとなった非同盟・非武装の一国平和主義が、統一された社会党の路線となり、戦後の日本を

呪縛した。談話会は全面講和という目的の達成には失敗したが、憲法改正の阻止という副次的な目的は達成した。結果的には、1950年代が、再軍備の最初で最後のチャンスだった。戦後の不毛な憲法論争のアジェンダを設定した丸山の責任は重い。(本書76頁)

 

 如何でしょうか。私は僭越ながらその通りと、考えます。

 

その4.永久革命の終わり

 

 僭越ながら著者の記述を一部省略し、記して参ります。

 

 1950年代以降の安保論争は、壮大な政治的資源の浪費だった。再軍備によって占領統治を終えていたら起こらなかった神学論争が、その後六十年以上続けられている。平和主義の論陣を張った知識人は丸山を初めとして党派の違いを超えた知的エリートだったが、歴史的には敗北した。・・(中略)労働者にとって外交や国防は大きな関心事ではなかった。人民を豊かにしたのは労働組合ではなく資本主義であり、「持てる者」になったサラリーマンは、既存秩序を維持する自民党の支持層になった。主権者は失われたが、新憲法はなし崩しの正統性を得て、それを守る運動は不要になった。皮肉なことに、日本人の「古層」にあった既成事実への屈服が、憲法改正の最大の障害となったのだ。(本書238頁)

 

 続いて、長い引用で恐縮しますが、重要な著者の指摘なので若干の補足を加え、以下紹介致します。

 

 丸山はデモクラシーをあえて民主主義と呼び、その理念としての面を強調したが、それは国民を戦争に総動員するための統治形態である。その意味では昭和の日本はデモクラシーとして成功したが、それは政治の劣化をもたらした。昭和初期には松島遊郭事件や陸軍機密事件や朴烈怪写事件、帝人事件などの、でっち上げスキャンダルが帝国議会で問題となり、多くの内閣が倒れて政党政治が不安定化した。・・(中略)戦前の国体に代わって丸山が再建しようとした人民主権は、その根底に論理的な弱点をはらんでいた。議員内閣制では、国民が選出した国会議員が内閣総理大臣を選び、彼が行政の最高責任者として国民を支配するが、ここでは至上の主権者たる国民が支配される側になるという循環論法がある。行政の専門家ではない民衆が、統治者として賢明な判断をする保証はどこにもない。

 丸山も自覚した通り、これは近代国家にとって避けられないパラドックスである。それを国民の自覚で乗り越えようとするのが彼の永久革命だったが、これは知識人の観念に過ぎない。冷戦が終わって長く平和が続くと、国民が主権者として決断するという丸山の理念は忘れられ、平和憲法と日米同盟という戦後日本の国体が定着した。

 

 ・・(中略)冷戦は終わったが、資本主義のグローバル化が政治体制の収斂をもたらすようにはみえない。今も独裁国家は民主国家より多く、それが逆転する兆しもない。ヨーロッパ的なデモクラシーを超えた普遍性をもつという、丸山の信念は戦後知識人の願望でしかなかった。日本の政治の末期的な状況は、普通選挙政党政治によるデモクラシーの限界を示している。

 

・・(中略)非同盟と非武装を混同した丸山の理想主義は、戦後の左翼をミスリードした。・・(中略)多くの選挙で野党が共闘する「最小限綱領」として憲法は次第に大きな役割を果たすようになった。当初は綱領で憲法改正ということば明記した共産党もそれを封印し、社会主義という言葉は使わなくなった。残されたのは、平和主義という誰も反対できない心理倫理だった。

 

・・(中略)日本でも与野党が話し合えば憲法は改正できたが、野党は平和憲法に呪縛され、分裂を繰り返した。その原因を中選挙区制だといわれたが、1994年に小選挙区制に改正しても変わらなかった。万年野党が結集できない原因は平和憲法だった。それを封印した民主党政対権が政権交代を果たした後も憲法をめぐる対立は続き、最近は野党は社会党に先祖返りしている。・・(中略)憲法自衛隊・安保条約の矛盾は、政権をあきらめた野党が自民党を攻撃する最大の材料になった。・・(中略)丸山を初めとする進歩的知識人は、万年野党を正当化する守護神の役割を果たしたのだ。(本書242から247頁)

 

 非常に興味深い指摘ではないでしょうか。本書は新たな丸山眞男論かもしれません。

 

おわりに当たって

 

 今回も、本書の紹介にも関わらず、要領悪く、長々と綴ってきてしまいました。

 

 今月20日には自民党総裁選で安倍普三氏か、石破茂氏のいずれかに決まりますが、何も私は自民党の政策等を全面的に支持しているわけではありません。ただ、何でもかでも自民党、特に自民党総裁で首相である安倍晋三氏を目の敵に挙げるメデイアには、極めて異常さ、否、むしろ危険性を私は抱くのです。

 

 方や、旧社会党に先祖帰りをしたかの立憲民主党の理念、外交政策は何なのでしょうか。立憲とはどんな意味を持たせたのでしょうか。むしろ、この政党は単に今の平和を享受しているだけで、その理念・思想も理解できません。従い、外交を含めたその政策も、展望も私には分かりません。又、その政党自体が政権を取るなどという発想は全く持っていないに等しい、と考えます。

 又、日本共産党は何を目指しているのでしょうか。そして、それなりの意味を込め政党名を決めたのでしょうが、共産党の前に日本をつけ、「日本共産党」とした意味合いは何だったでしょうか。また、その日本共産党には自浄装置はあるのでしょうか。現在の委員長の期間は18年になりますが、今後何年やっていくのでしょうか。また、その交代はどのような時に起こるのでしょうか。     

 加えて、日本維新の会は未だ地域政党から脱しきれず、その他の野党は議員自らの生活維持するに過ぎない、単なる集まりとしか私には映りません。全ての野党ではありませんが、野党国会議員の国会内外での言動、行動の在り様は眼を覆うばかりです。今回の北海道の大震災の際でも、粛々と行動する人々との相違はどこから来るのでしょか。ただ、その国会議員を選んだのも国民一人一人なので、こうした批判は天に唾を掛けるようで、一抹の後味の悪さが残るのです。

 

 単なる経済圏構想ではない一帯一路を強引に進める、共産党一党独裁、価値観の大きく異なる大国中国の擡頭。加えて、隣国の朝鮮半島両国の日本敵視は歴史認識・事実とは離れ、それはひとつの国民性となった怨念であり、世紀を超えても変わらないでしょう。従い、そうした隣国との協定・条約はいつでも破棄・無視されることを前提に置くことが必要だということでしょう。更に、内向きになったアメリカ、揺れ動くヨーロッパ、頻発するテロ等々、地政学的にも大きく変貌している中にあって、日本はどうすべきなのか。日本は極めて厳しい時に直面していると想います。そんな苛々している中、本書に出会いました。ただ、私は苛々を解消するには至りませんが、ひとつの参考になる著作に出会った、との印象です。僭越ながら、皆様に改めて本書の一読を勧めるところです。

 

2018年9月14日

 

                           淸宮昌章

 

参考図書

 

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

刈部直「丸山眞男」(岩波新書)

竹内洋丸山眞男の時代」(中公新書)

間宮陽介「丸山眞男

筒井清忠近衛文麿」(岩波現代文庫)

同   「戦前の日本のポピュリズム」(中公新書)

水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

丸山眞男「現代政治の思想と行動」(未来社)

淸宮昌章「書棚から顧みる昭和」(言の栞舎)

その他

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

 

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序章

 

 その1 吉田満の生涯

 

 先月の23日、掲題の著作の概略的なことを紹介しましたが、改めて、吉田満の生涯を著者の記述に沿い、以下記して参ります。

 

 吉田満は1923年(大正12 年)1月6日、父吉田茂、母ツナの長男として東京市山北町に生まれます。その後、関東大震災を機に、渋谷代官山アパートに移り住み、永谷戸小学校に入学。入学以来学術優秀でその卒業まで主席を通します。

 

 1935年(昭和10年東京府立第四中学(現戸山高校)に入学。とびきりの秀才で、特に記憶力は尋常ではなかったとの友人の話です。1939年(昭和14年)、東京高等学校文科甲類に入学、そして寮生活に入ります。 寮時代には二度の停学処分を受け、一度目は靖国神社参拝エスケープ。二度目は一般寮生が退寮した後、寮委員が、食堂、建物などを壊し、火を炊いた中に吉田満もいたことです。東京高等学校の卒業式には総代として答辞を読み、1942年(昭和17年)4月東京帝国大学法学部に入学します。

 

 その翌年、文系大学生及び専門学生の徴兵免除が解除され、20歳で学徒出陣・武山海兵団に入団。その時の心境を、かって、私がご紹介した粕谷一希「鎮魂 吉田満の生涯」に、私も面識がある親友の和田良一への手紙にも記しております。

 

 そして、1944年(昭和19年)12月25日、少尉に任官し、3,323人の乗員の一人として戦艦大和に乗艦します。その翌年4月、沖縄への特攻作戦(天一号作戦)で、艦長以下の幹部に伝える副電測士として、指令塔である艦橋に立つ任務につきます。同年4月7日、戦艦大和は米軍の爆弾と魚雷をあび沈没。3時間の漂流の後、駆逐艦・冬月に救出。吉田は生存者276人の一人です。生還者は佐世保に回航し、機密漏洩を防ぐため、離れ小島の病院室に収容されます。

 

 その後、一時帰郷を命ぜられ、帰省から戻った吉田は改めて特攻を志願。そして配属されたのは、回天魚雷の基地・高知県須坂です。米軍の上陸情報を得るための電設設備工事で、完成を建設期限の8月15日と定め、80名の部下を昼夜兼行の突貫工事に吉田が指揮しておりました。尚、それは海軍と自発的村民一体となった突貫工事でした。そして敗戦を迎えます。若い士官は戦艦長門に乗せられて原爆実験に供されるという風評の中、村民が吉田の身柄をあずかりたい、部落全体の責任でかくまうとのなか、小学校代用教員とう世を忍ぶ、借りの姿でもありました。下士官が次々と復員していく9月半ば、吉田は特攻隊長から呼び出しを受け、村の善意に甘えて子ども達を相手にしたい気持ちは、わからんではないが、一度家に帰ってけじめをつけろ、とお叱りを受けます。結果、両親が疎開している多摩の吉野村・柚木に帰省し、運命の吉川英治に出会い、「戦艦大和ノ最後」の原稿に着手していくわけです。吉川英治とその後の小林秀雄との遭遇が「戦艦大和ノ最後」を世に出す、大きな影響と力を与えたわけです。

 

 そして、1945年12月、22歳の吉田は日本銀行に就職します。そのときの上司から次の言葉を受けます。

 

 君の死生の体験は得がたいものだし、貴重なものとして私達も敬意を表したい。しかし思い過ってはならない。生きるか死ぬか、という形で、いつも人生の問題が与えられるとは限らない。むしろ常にそういう形で問題が与えられるなら、人生はやさしいものになってしまう。死か生かの、その追い詰められた時間だけに、全力をつくせばそれですむのだから。ところが、人生はもっと深く大きい。十年一日というように、見えない努力の積み重ねが人生を造る。情熱よりも忍耐、これが人生だ。(吉田満「散華の世代から」222頁)

 

 その日銀時代に復員軍人の今田健美神父と出会い、精神的な救いを求めるのでしょうか、1948年1月にカトリック世田谷教会で洗礼を受けます。続いて、1949年9月、プロテスタント教徒である嘉子と結婚。その結婚と日銀内での重要な仕事への登用もあるのでしょうか、精神の内奥に向き合うことから、少しずつ現実の暮らしを重視する視点に変わっていった、と渡辺浩平氏は記しています。

 

 一方、日銀内のカトリック研究会、及びその後の吉田に大きな影響を与えた、後年には、日本基督教団の総会議長となるプロテスタンの鈴木正久牧師の聖書研究会にも参加しています。そして、吉田が34歳の1957年から1959年のニューヨーク単身駐在する直前、プロテスタントに改宗します。カトリックプロテスタントか、という懊悩でしょうか、1949年の春、カトリック研究会での集合写真で、中央の今田神父、そして左隅の吉田の表情は何か沈んだ寂しげな顔が、本書に載せられております。

 

 尚、まったく次元の異なることですが、私の母親は代々続くカトリック教徒で、私の母方の一族はカトリック教徒です。私も幼児洗礼を受け、教会時代を過ごしました。私は高校二年の時、カトリックに何か重圧を感じ、教会から離れ、現在でも教会から遠ざかっている者です。私達夫婦は二年前に金婚式を迎えましたが、かって、二週間後に神前結婚式を控えた私は、母親を何か安心させる為か、東京本所カトリック教会の司祭館を訪れ、教会での式を頼みました。訪れた一週間後、私と家内は代父、代母の立ち会いの下、一つ目の式を挙げました。司祭館で下山神父様より「昌章、帰ってきたか」との言葉を頂いた、そんな52年前のことも思いだした次第です。

 

 本題にもどります。吉田は帰国後、為替管理局の総務係長、調査役。そして、時あたかも日米安保が自然承認され、所得倍増を掲げた池田内閣の成立した後の大阪勤務。そして1963年に本店の人事課長、日銀の青森支店長、仙台支店長等々を経て、1971年のニクソンショックの翌年の1972年に、日銀の金融政策の最高意思決定機関である政策委員会の庶務部長、謂わばその事務方のトップに就きます。その後、50歳で局長に就任。方や、吉田はプロテスタントの西片町教会長老としても静かに尽力を致します。そして、52才で監事に就任、その在職中の1979年、56歳で吉田はその生涯を閉じます。

 

 尚、付け加えなければならないことは、1950年の27歳の時、吉田が東京大学の体育館で日銀の同僚とバドミントンをしていた際、サイダーの栓を鉄柵で開けていいた時、蓋が右目を直撃し、右目を失ったことです。そのときの心境というか状況は次の通りです。

 

 その際、自らの姿を鏡に映し、「唇をゆがめて、ニヤリとした笑いが浮かんでいたのが印象にある。・・(中略)いつの間にか、あの奇禍が、突発事件という印象を失い、平凡な出来事になってしまった。けさ起きたとか、誰かに逢ったとかという事実と同じような、何でもないことになって、日常のなかに埋もれかかっている。あの怪我以来の幾日間というものが、これまでの人生とごく自然につながって、なだらかな今日まで流れてきている。自分の人生はもっと本筋を進む筈だった。それが、あの日以来、わき道へそれてしまった。そういうわびしい感じは、初めから一度もない。今踏みしめているこの人生こそ、唯一の真正のものだと、おのずから確信し肯定している。別に苦情をいう必要もない。」(吉田満「戦中派の死生観」143頁から147頁)

 

 如何思われるでしょうか。吉田満が従容として人生を生きることは何処から来たのでしょうか。生死の極に自ら立ち、その後、悩んだ末に達した境地なのでしょうか。僭越至極ながら、私は深く自省するところです。

 

 その2 本書を取り上げた要因のひとつ

 

 吉田満が56年の生涯を終えられてから、ほぼ40年の年月が流れました。その間に、1989年のベルリンの壁の打ち壊し、東欧・ソビエト連邦の崩壊、ロシアの誕生による冷戦の終焉、ブレトンウッズ体制の崩壊、ある面ではアメリカ二ズムの終焉。そして、世界的なテロの発生、イスラム国家の出現等々、国連の存在意義も大きくそこなわれ、第二次大戦後の世界は大きく変動しました。その中で最も大きな変貌は中華大国への復活を着々と進める中国の擡頭ではないでしょうか。加えて、反日を強める朝鮮半島の二国家。地政学的にも大きく変貌した中で、我が国はどうすべきか、どうあるべきか、そして国民一人一人は何を考えなければならないのか、正に問われている、と私は考えます。

 

 残念ながら今の日本の現状は、国会論議と称するものも、並びにそれを報道する報道機関と称するものも、商業主義に侵されているのでしょうか、下劣極まりない現状です。独り善がりの、安上がりの正義を振りまく野党。そして戦中・戦後の自らの在り方の反動なのでしょうか、報道機関と称するものは、もはや末期的現象ではないでしょうか。勿論、私は自公政権を賛美しているわけではありませんが、何ら思想もなく、対案を示し得ない野党は、ただただ政権を批判し、倒せばよいかの如くに写るのです。その現状は平和を享受した、ただ乗りの政党に見えるわけです。そんな気持ちを抱く中、私自身が吉田満に関わる個人的な思い、ささやかな経緯もあり、今回、改めて本書を取り上げた次第です。

 

 吉田満を語る著作は既にご紹介したように、千早 耿一郎著「大和の最後」、粕谷一希著「鎮魂 吉田満の生涯」の二冊があります。本書は吉田満を語る、新たな三冊目の貴重な著作と思います。著者は「白水社の本棚」において、「軍歌と賛美歌」とのタイトルをつけ、本書を次のように紹介しております。

 

 吉田は賛美歌も愛唱した。賛美歌のうちの二つは、吉田の葬儀でうたわれている。「主よ、みもとに近づかん」からはじまる三百二十番と「いずみとあふるる」からはじまる三百五十三番である。交際のあった江藤淳は、牧師(西片町教会)の司式でおこなわれた葬儀に出席してはじめて、吉田がクリスチャンであることを知った。吉田は敵でもなく自らでもなく、一視同仁の公正な裁きを求めていたのではないか、江藤は葬儀の折りの想念を書き残している。

 

 ・・(中略)『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』で私は、大和学徒兵、キリスト者、そして日本銀行員として戦後復興から高度成長経済の金融にたずさわった吉田満の三つの顔をえがいた。そして、その三つの姿から戦中派吉田満の戦争観、戦後観、さらに組織や経済に対する倫理観をさぐった。それは敗戦から七十年を経た現在を生きる私たちにとって、分かりやすいものではない。しかし「戦争」や「戦後」をあらためて考える際、無視できない問題を含んでいると思えた。吉田は軍歌と賛美歌をともに愛唱した。むろん両社に託した思いは同じではないだろう。しかしそこにこそ吉田の思考のおくゆきがある。吉田の著述を読み、彼を知る人にあい、強く感じたことはそのことである。(白水社の本棚より)

 

 その3 「鎮魂戦艦大和」のあとがき

 

 偶々、私がニューヨーク駐在時、ある意味で自分探しをしている40年前になりますが、ニューヨークの紀伊國屋書店で買い求めた「鎮魂戦艦大和」(1974年 講談社)は、1974年版「戦艦大和ノ最後」に「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」が加えられたものです。占領軍の検閲で、その発刊が禁止されたり、吉田満の視点にも種々批判等々がある中、吉田はその「あとがき」に次のことを記しております。

 

 戦中戦後に書かれた戦争文学の類書の量は、無制限ともいうべき厚みに達している。そのなかに伍して、もしこの作品が、初稿から三十年ののちに改稿を許されるに足る特色が恵まれているとすれば、その第一は、ここに扱われた主題、古今東西に比類のない超弩級戦艦の演じた無残な苦闘が、はからずも日本民族の栄光と転落の象徴を形作っていることを示すとともに、みずからの手で歴史を打ち建てるのにいかに無力であるかを露呈するものであった。科学と技術の粋は非合理極まる精神主義と同居し、最も崇高なるべきものは愚劣ななるものの中に埋没することによって、ようやくその存在を許された。

 

 ・・(中略)特色の第二は戦争というものの直中に身を置き、みずから戦う人間として、戦争そのものを描で出そうと専念したことに求められるであろう。・・(中略)しかし、この作品の持つ特色は、反面で、戦争記録文学としての明かな限界を生んでいるのであろう。戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表するという姿勢からは、戦後時代をいかに生きるべきかについてわれわれに訴えるものがないという指弾は、初版が公にされて以来絶えず行われてきた。

 このことについて、私は初版あとがきに、いつの日か、私自身の批判をもってその裏打ちをしなければならない責任を感じている、と書いた。「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」は怠惰な私が、この自戒の言葉にいささか報いるための仕事として、四半世紀の空白のあとにようやく到達した一路標である。(吉田満 「鎮魂戦艦大和」 431から433頁)

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」

 

 

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 その1 渡辺浩平氏の視点

 

 先月の23日、本書の概略を紹介しました。著者は吉田満の横顔である日銀行員と、キリスト教徒としての後ろ姿に焦点を当て、吉田満論を展開していきます。本書は序章・私の立場の核心、から始まり、第一章・同期の桜から第九章・ 経済戦艦大和の艦橋、そして、終章・雲という構成です。私としては新たな吉田満の再発見というか、再見直しの必要を感じました。改めて吉田満の著作の再読に至るわけです。本書のなかで特に印象深く感じた諸点を、私なりの感想など交え、記して行きたいと思っております。従い、今回も渡辺浩平氏の著作の全体を紹介するものではありません。

 

 その2 日本人としてのアイデンティティの欠如

 

 著者の渡辺氏は吉田満が戦後の33年という時間を次のように記しています。

 

 「この間に日本が、太平洋戦争とその総決算である敗戦によって得た経験を反芻し、学ぶべきものを学びとるには、充分な時間と試練の場が、あたえられた」はずなのに、しかしそれを日本人はおこたってきた。それは、「日本人としてのアイデンティティ-(自己確認の場)」をどこに求めるべきかという問いがきちんとなされなかったそこに、「戦後最大の危機」といわれる現代の混迷があるというのである。70年代の混迷とは、先に述べた通り「不況と円高の内憂外患の窮境」であり、「外からのわが国に注がれる眼の冷徹さ」であるという。

 吉田はその種の窮境が出来たひとつの原因として、敗戦によって日本人が戦争のなかの自分を見つめることなく、いまわしい記憶を抹殺し、戦中と戦後を貫く一貫した責任を自覚しなかったことに求めるのだ。それを「日本人としてのアイデンティティ-」の欠如とする。(掲題の著書 225頁)

 

 更に、吉田は戦後日本に欠落したものとして詳しく、次のように述べています。

 

 日本人、あるいは日本という国の形骸を神聖化することを強要された、息苦しい生活への反動から、八月十五日以降はそういう一切のものに拘束されない、 「私」の自由な追求が、なにものにも優先する目標となった。日本人としてのアイデンティティ-の中身を吟味し直して、とるものはとり、捨てるものは捨て、その実体を一新させる好機であったのに、性急な国民性から、それだけの余裕はなく、アイデンティティ-のあること自体が悪の根源であると、結論を飛躍させた。「私」の生活を豊かにし、その幸福を増進するためには、アイデンティティ-は無用であるのみならず、障害でさえあるという錯覚から、およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた。

 

 ・・(中略)戦後生活を過りなくスタートするためには、自分という人間の責任の上に立って、あの戦争が自分にとって真実何であったかを問い直すべきであり、国民一人一人が太平洋戦争の意味を改めて究明すべきであるのに、外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方的に断定した。(吉田満「戦中派の死生観」16頁)

 

 この吉田の指摘は、70数年後の今日の日本の現状にも十分に当てはまることではないでしょうか。尚、吉田は上記の著書のなかで、吉田とほぼ同世代の鶴見俊輔司馬遼太郎との対談の中で、司馬遼太郎が『戦後の日本は、経済大国とか言われますが、他の国に影響を与えるほどの思想を持ってない。もしあるとすれば、「私どもは思想なしで、何とか東京も比較的に犯罪件数もすくなく過ごしています」ということでしょうか、とさりげなく語っておられる。日本民族の本質をめぐって、数々の長大作をものされた氏が、明治維新に劣らぬ大変革であった敗戦の経験について、この程度の感想で片付けられるのは腑に落ちないようにおもわれるが、いかがであろうか。』(同121頁)

 

 如何でしょうか。私は吉田満に賛同するわけです。もっとも、昭和の時代が何か魔物のように突然現れたとするように、私が感じられる司馬史観といわれるものにも、私は賛同もしておりませんが。

 

 その3 占領期の報道規制

 

 前回の拙稿にも記しましたが、「戦艦大和」は占領軍の民間検閲支隊により全文削除され、八つの異なる版があったわけです。ではその報道規制はどうであったのか、渡辺浩平氏はある意味では詳細に記しております。重要な記述なので、長くはなりますが以下ご紹介致します。

 

 占領軍の報道規制の主要な問題点は、ポツダム宣言、さらには、日本国憲法にうたわれた表現の自由報道の自由を占領軍は表向き遵守する姿勢をみせながらも、実際には占領軍批判などの言論が封鎖され、さらには先に述べた通り、その封鎖そのものの事実をかくしていた点にある。

 むろん戦時中における日本の情報局も厳しい情報統制をおこなっていた。報道機関(同盟通信、NHK、新聞社など)はそれにしたがい、戦争宣伝をおこなった。しかし、米国が日本を占領すると、その統制主体が、占領軍に変わったのである。

 つまり占領軍による統制は、表面上は民主主義と自由をうたい、制限は一部としながらも、実際は大掛かりな検閲をおこない、さらに、それと対になる思想管理もするというダブルスタンダードにあった。くわえて、日本の報道機関は、占領軍の宣伝工作に全面的にしたがい、むしろ、積極的にその宣伝に加担した。

 その一対となる検閲と宣伝は、前者が先にあげた民間検閲支隊(CCD)が担当し、後者が民間情報教育局(CI&E)がになった。CCDとCI&Eは組織上同格ではない。CCDの上には、民間諜報部(CIS)という組織があり、CISとCI&Eが同列となる。

 CCDの検閲は、放送(ラジオ)、活字のみならず、私信にもおよんでいた。一次検閲には多くの日本人が関わっていた。また、検閲における郵便検閲の比重は高く、検閲者の四分の三が郵便検閲にあたっていた。

 

 山本武利の試算によれば、占領期の日本人検閲係は、延べ二万から二万五千人となる。うち郵便検閲にたずさわった人数は一万から二万。郵便検閲は、検閲であると同時に、占領軍による「世論調査」という機能もあわせもち、それが、占領政策に反映されていたのである。

 

 ・・(中略)報道機関は、民間検閲支隊の統制にしたがうことが、帝国日本の戦争報道に協力した自らの罪の軽減につながると考えた。戦時に、情報局の統制をうけたように、メデイアは占領軍の検閲を受け入れ、むしろ、その宣伝を率先垂範し、組織の生き残りをはかったのである。

 

 ・・(中略)しかし、吉田の主張は少し違っていた。「犯した過りを正されつぐわねばならず、責めは果たされねばならない。」戦争の責任は負わなければならない。しかし、その前にやることがあるはずだ。それは、「おのれの眞實を、もう一度ありありとさぐりあてて見る」ことである。そうしなければ、それはおのれへの冒涜となり、新生への糧はくみとれない、そのように考えたのである。

 

 ・・(中略)それは、敗戦直後、東久邇総理が説いた「一億総懺悔」でも、軍国主義者が「真実を隠蔽」したとする占領軍の戦争罪悪観宣伝とも異なる主張である。  

占領軍は、そのような主張が、自分達の宣伝と鋭く対立するものであり、「占領行政の厄介者」であることを十二分に認識していた。

 文語の問題のその文脈のなかで、とらえることができる。昭和天皇人間宣言も、日本国憲法も、英語の翻訳調ののこる口語で書かれている。・・(中略)「戦艦大和ノ最期」の文体はそれらの延長線上にある文体だ。「内側から見た日本軍国主義の精髄」が文語で書かれたことは、占領軍が許すことはできないのである。(掲題の本書 54頁から61頁)

 

 如何でしょうか。私が永年勤めていた岡谷鋼機(株)で尊敬する上司が、戦後、アルバイトとして、郵便局本局の事務所内で個人郵便を検閲していたことを、恥じるように、そっと私に語ってくれた酒場での出来事を改めて思い起こしました。

 

 その4 三島由紀夫の苦悩

 

 渡辺浩平氏は本書の中では東京帝国大学の吉田の二年後輩の三島由紀夫に言及しております。吉田は日銀、三島は大蔵省には入りますが、学生時代からの交友関係であったとのです。吉田がニューヨーク単身駐在の時には、既に著名な作家になっていた三島とのグリニッジヴィレッジでの、ゲイバーでの交遊も記しております。そして三島について、次のように記しています。

 

 吉田が絶えず意識していたのは、民族共同体としての国家、つまりは国民国家であり、それを引き継ぐ主体の連続性であった。三島の関心の枠組みは、文化共同体の象徴概念としての天皇ということとなろう。吉田は、三島を回顧した文章のなかで、三島の問題提起に理解をしめす。また、三島の死の意味を解明できると思うことは不遜として、解釈を避けようとする。・・(中略)しかし、吉田と三島には、そのような過去の日本を見る視点以前に、当時の日本を見る眼に共通したものを感ずる。(掲題の本書 181頁) 

 

 吉田満は「戦中派の死生観」の中で“三島由紀夫の苦悩”として、以下のように記しています。

 

 三島由起夫の苦悩は何であったか。彼を自決に至らしめた苦悩の本質は、何であったか。この設問を、彼とほぼ同時代に生まれながら、たまたま太平洋戦争で戦死する“くじ”を引き当てた青年達の苦悩と対比して考察せよ、というのが編集部からあたえられたテーマである。私はやはり同じ世代に属し、一時友人として三島と親しくつきあっていたこともあるが、一個の人間、しかも多才な意志強固な行動力旺盛な文学者に、割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明できると思うことがいかに不遜であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明できたと思う時は、永久に来ないであろう。三島はみずからの死の意味について、多くの読者にそれぞれ異なる解明の糸口を得たと思わせて去ったが、糸口をたどってゆくとどの道にも、近づくことを許さぬ深淵が待ち構えている。彼の死はそのような死なのであり、そうであることをはっきり意図して、彼はあの死を選んだとしか思えない。

 

 ・・(中略)三島は終戦の時、満二十才であった。それより少なくとも二年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確立で期待することが出来た。彼が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも明かである。出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。

 

 続いて、全共闘等についても次のように記しております。

 

 こうして臼淵磐が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の中の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。

 しかしそのことは、三島が臼淵と全く異なる地点に立っていることを意味しない。たとえば全共闘への共感を表明し・・彼らが提起した問題点はいまでも生きている。反政府的な言論をやった先生が、政府から金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだ。簡単なことだよ・・と指摘するとき、彼は、臼淵の心情に近い場所に位置しているはずである。

 

 次のことも付しております。

 

 戦後過激な活動に走った多くの学生の中から、一人の自殺者も出ないことは、彼を激怒させた。死ぬ一週間前の対談で、三島は・・彼ら、全共闘の革命のために死なないね。危険に徹しぬいて、最後に生命を投げ出すところまで、どうして思いつかないのか、ぼくはそこが分からない・・と、あからさまに彼らの殉死を督促している。(戦中派の死生観 60頁から71頁)

 

 如何でしょうか。吉田、三島の視点・観点は現在でも当てはまる、痛烈なものではないでしょうか。

 

おわりにあたり

 

 先月23日の拙稿でも、また本拙稿でも触れたように、著者の渡辺浩平氏は吉田の日銀時代の友人、クリスチャンの友人、知人等々を含め多くの人々にも逢い、吉田の実像を描いていきます。本書は序章でも触れたように、吉田満に関する三冊目の本格的な研究著作ではないでしょうか。尚、著者は1958年生まれで、専門はメデイア論で、現在は北海道大学大学院メデイア・コミュニケーション研究院教授とのことです。

 

 本書の序章でも記しているように、氏は吉田満の日銀行員並びに幹部としての「横顔」、そしてクリスチャンという「うしろ姿」に焦点を当て吉田満を語っていきます。長年に亘り、吉田満を読んでき私にとって、とても参考になる著作でした。本拙稿はそうした部分を大分省略しており、是非、渡辺浩平氏の「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」にたち帰り、一読をお勧め致します。

 

 繰り返しの繰り言で恐縮しますが、地裁学的にも大きく変動する世界。アメリカ二ズムの終焉、一方、共産党独裁政権の価値観も大きく異なると思われる中国が中華大国への道へと軍事力を含め着々と進めていること。更には、経済格差が広まる中で次々と現れる独裁的指導者の出現。そうした状況下、日本はどうあるべきなのか、僭越至極ですが、我々個人は何を考え、行動していくべきなのか、正に問われている、苛立ちと自分自身の反省が交錯しております。

 

 私は、今までも度々、山本七平を取り上げてきました。その山本七平吉田満は懇意でもありました。山本七平は陸軍ですが軍隊経験があるとともに、プロテテスタン教徒という共通点もあるのでしょうか。吉田とは家族ぐるみの交流があり、吉田満の死後、山本夫妻は吉田嘉子夫人をともない死海への旅に出かけたと、著者は記しています。そして、著者は山本七平の以下の言葉をもって、本書を閉じています。私の長々とした拙稿もその最後の言葉をお借りし、おわりと致します。

 

 遠い昔のことでなく、また異国のことでもなく、自分の近いところに、こういう人が現に生きていたのだということ、それを知ることはその人の生涯にとって決して無駄ではない。(本書 257頁)

 

 2018年8月15日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

  渡辺浩平「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」(白水社

  吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

  同  「戦中派の死生観」(文芸春秋)

  同  「散華の世代から」(講談社)

  同  「提督伊藤整一の生涯」(文芸春秋)

  粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

  千早一朗「大和の最期、それから」(講談社)

  保坂正康編「戦艦大和と戦後」(ちくま学芸文庫

  池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/07/23

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/04/25

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/04/24/165352

  その他

  

 

 

           

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」  

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」

 

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その1

 

 吉田満が56年の生涯を終えられてから、ほぼ40年の年月が流れました。吉田満の名前を挙げても、どういう人なの分らない方が現在では多くなっているかもしれません。私が拙著「書棚から顧みる昭和」の「まえがき」の中で、ほぼ40年前になりますが、米国駐在時の苦闘時代に吉田満の「鎮魂戦艦大和」に出会い、深く考えさせられ、その後の私の人生についての在り方に大きな影響を与えた、と記してからも4年が経ちました。加えて、3年前になりますが、ブログ「淸宮書房」において、吉田満に関わる私の偶然の出来事を「戦艦大和の最後の吉田満を巡って」と題し、3回に分けて投稿致しました。そして、改めてその原稿を見直し、今年4月24,25日に2本の記事に纏め直し、改めて再投稿した次第です。

 

 吉田満をご存知でない方に僭越ながら述べますと、吉田満は太平洋戦争末期に沖縄特攻作戦に参加し、学徒兵として戦艦大和に乗船し、奇跡的に生還します。敗戦後に日銀に勤めながら、直後に戦争文学の名作「戦艦大和ノ最後」を著わします。尚、吉田満の生涯では、その他に発刊されたのは「戦中派の死生観」「提督伊藤整一の生涯」「散華の世代から」の三冊のみと、いうことです。極めて少ない著作ですが吉田満が日銀の青森支店長、仙台支店長を経由し最後は監事ですが、日限の幹部としての仕事が主体で、文筆業ではないこともありましょう。

 

 また、「戦艦大和ノ最後」には八つの異なる版があることを渡辺浩平氏は、本書で改めて紹介しております。如何に吉田満による、その発刊が占領軍に問題視されていたか、謂わば本書にまつわる波乱の歴史事実をも指摘しております。八つの異なる版は以下のとおりです。

 

A 文語 一九四五年九月、吉川英治にすすめられ書かれたもの。

B 文語 「戦艦大和ノ最後」Aを肉付けしたもの。

C 文語 「戦艦大和ノ最後」小林秀雄にすすめられ、Bを修正したもの。占領軍の 民間検閲支隊の検閲により全文削除。その後、アメリカのブランゲ文庫に収蔵。吉田の死後、江藤淳により発見され、『文学界』(1981年9月)に掲載

D 口語「「戦艦大和」『新潮』(1947年10月号)に掲載

E 口語「小説軍艦大和」『サロン』(1949年6月号)に掲載

F 口語「軍艦大和」『サロン』掲載版を民間検閲支隊の指示により修正(1949年8月 銀座出版社発行)

G 文語「戦艦大和の最後」(1952年8月 創元社発行)

H 文語「戦艦大和ノ最後」(1974年8月 北洋社発行)

 

 私の本棚にある「鎮魂戦艦大和」(1974年 講談社)は上記のHに加え、「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」が加えられたものです。偶々、私がニューヨーク駐在で、ある意味で自分探しをしている40年前にニューヨークの紀伊國屋書店で本書に遭遇したわけです。

 

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その2

 

 そんな私の個人的経緯があるわけですが、今年の3月に渡辺浩平氏による吉田満を語る、謂わば新たな研究書ともいうべき掲題の著作が発刊され、この夏に一読したところです。今までも吉田満について語る著書は、ブログ「淸宮書房」でもご紹介致しましたが、吉田満の日銀時代の同僚である千早 耿一郎(本名・伊藤健一)の「大和の最後」及び中央公論編集者粕谷一希の「鎮魂 吉田満とその生涯」があります。吉田満論としては、その全てを読んだわけではありませんが、鶴見俊輔江藤淳加藤典洋等々の方のものがあります。そうした方々は吉田満との面識があり相互に会話もあるわけです。

 

 尚、渡辺浩平氏吉田満とは直接会話もされたことのない、1958年生まれのメデイア論を専攻される学者です。従い、その切り口も従来の方のものとは異なっているようにも思います。氏が吉田満との関心を持ったのは、本書では「吉田満をきちんとよんでみたいと思うようになったのは、鶴見俊輔江藤淳加藤典洋吉田満論がたぶん影響している」と述べております。と共に、氏の奥さんを含め家族の方が吉田満キリスト教の師である方々との奇縁があったことも、その要因ではないでしょうか。

 

 渡辺浩平氏は本書に於いて、吉田満が日銀仙台支店長時代に、「家の教会」を主宰していた佐伯晴朗牧師が吉田満戦艦大和の学徒兵としての真向きの顔、日銀行員としての横顔、そして、クリスチャンとしてのうしろ姿、という三つの顔の表現をしていた。加えて、氏は吉田満の日銀行員という「横顔」とクリスチャンという「うしろ姿」に焦点を当てた、と記しております。今回、私が一覧しただけでは、氏はその「うしろ姿」に焦点を強く当てているように感じます。吉田満は戦後間もなくカトリック入信し、その後、ニューヨーク赴任前に、奥さんのプロテスタントに改宗し、東京の西片町教会に入会、そして亡くなるまでの20数年間、西片町教会の会員として、また西片町教会長老としても活動されたとのことです。

 

 敗戦の8月15日が間もなく来ます。戦後とは何であったのかを改めて考える機会かもしれません。私としては改めて吉田満の著作を読むことが必要であろう、と考えております。時間は掛りますが吉田満が著わした四書を改めて再読した上で、掲題の本書についても、私なりの感想などを後日になりますが、記したいと思っております。今回は掲題の本が発刊された、そして一読したとの紹介だけですが、吉田満の新たな研究書としての本書の御一読をお薦め致します。

 

 2018年7月23日

                            淸宮昌章

参考図書

 

渡辺浩平「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」(白水社) 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/04/24

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/04/25/103006

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