清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思「西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

佐伯啓思西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

 

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はじめに

 

 一作年前になりますが、毎年開かれる同期のゼミナリステンの集いが、晩秋の京都で行われました。夕暮れ時でしたが、西田幾多郎の「哲学の道」を三々五々、散策致しました。佐伯氏はその「哲学の道」を掲題の本書で次にように記しております。

 

 人のいなくなった夕暮れ時などに来るとこのゆったりとした味わいは格別のものです。哲学の道から疎水を越えて奥へ入ると法然院のあたりにでますが、このあたりのほの暗い静寂は、一瞬、時間が脱落した異次元に引き込まれてしまったような心持ちになります。(8頁)

 

 そんな高尚な心持ちとは、ほど遠いのですが、前回取り上げた佐伯氏の「現代民主主義の病理」の中で触れた、佐伯啓思氏の「西田幾多郎」及び小林敏明氏の「夏目漱石西田幾多郎」について、僭越ながら私なりに興味・共感を覚えた諸点を記して参ります。

 

 尚、ご存知のとおり、佐伯氏は1949年生まれ、東京大学で理論経済を専攻され、その後、社会思想史にも進まれた京大名誉教授です。方や、小林氏は1948年生まれ、名古屋大学文学部哲学科卒、現在はライプツイヒ大学東アジア研究所の日本学科教授です。

 

 佐伯氏は「日本という『価値』」の著書の中で、西田幾多郎について以下のように述べています。

 

西田幾多郎を中心とするいわゆる)京都学派と戦争の関係については戦後様々なことが言われた。戦中にはむしろ自由主義的とされて右翼や陸軍からは批判され、戦後には戦争協力としてタブー視されることになった京都学派の試みについては、ここで詳論する余裕はない。また別の機会に譲りたいが、京都学派の試みとその挫折の意義を改めて検討する価値は十分にあるのではないだろうか。実際、私は、京都学派の「世界史の哲学」の試みは挫折したし、結局、失敗したものだと考える。しかし、では何が挫折したのか、どうして失敗だったのかは改めて論じる必要のあることがらなのではなかろうか。(本書300頁)

 

 一方、小林敏明氏は同じような観点から、掲題の本書の中で、西田幾多郞といえば、必ず禅が連想され、主著「善の研究」を「禅の研究」だと思っている人も少なくないようだ、としながらも次のように記しています。

 

 にもかかわらず、こういう「不可解」な西田の文章が今日依然として読まれ続けるのはなぜだろうか。私は、そこに既成の思索を破ったり、超えたりするような新たな思考の可能性があるかもしれないという予兆めいた期待が、読者の側にはたらくからだと考える。再び物理学に例を取っていうなら、日常の意識では歴然と区別される時間と空間も、時空連続体を考える物理学者にとってはそうでない。それはたんなる時間でも、空間でもないと同時に、その両方でもあるといわざるをえないXである。西田の思索が狙っているのは、何かそのような次元のものである。(211頁)

 

 私は両氏の一面相通ずる観点に惹かれ、とりとめのないものになりますが、両氏の著書を読み比べ、私なりに共感した、あるいは新たな認識を持ったことを、記してみようとおもいます。従い、今回も両氏の掲題の著書全体を紹介するものではありません。

 

1.小林敏明「夏目漱石西田幾多郎

 

 夏目漱石、西田幾多郞は同じ時代を共有しながら、互いによく似た体験をしている事実がある。漱石は世界第一次大戦後の1916年に死去。方や西田は1945年、第二次大戦終結直前の数ヶ月前に死去。ほぼ30年の開きがありますが、漱石は1867年、西田は1870年生まれの誕生で、ほぼそのまま明治日本の誕生と重なり、時代を共有し、しかも両者の家族関係も含め、似たような体験を持ったということは、彼らの思想内容にも相通じるものをもたらした、と氏は述べています。

 

家族関係と教育過程他

 

 夏目漱石については今年8月に投稿した、十川信介著「夏目漱石」の「出生と、めまぐるしい教育過程」の項で、その生い立ちを私なりに紹介していますが、江戸牛込馬場下横町(現喜久井長)の町方名主の父のもとに五男として生まれます。父の先妻には二人の姉がおり、夏目漱石は8人目の子供で、漱石は養子に出されたり、戻されたり決して安定というか、安住した生活を送ってはいません

 

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 尚、本題とは離れますが、先月11月の初め、吉祥寺の古本屋で、偶々、漱石の孫である漫画家且つ漫画評論家の夏目房之助著「漱石の孫」を見つけました。漱石が悩んだロンドンの下宿先を尋ねながら漱石を語るものですが、漱石の婦人鏡子並びにその長男純一、そしてその子供房之助の姿が写り出されております。夏目漱石家三代の歴史の一面を語るもので、夏目家のその後を知ることにもなり興味深く読んだ次第です。ご参考までにご一読をお薦め致します。

 

 方や、西田は現石川県かほく市森で、西田得登の長男として生まれます。西田家は代々十村と呼ばれる富農で、身分的には夏目家の名主に似ているが庄屋などより身分が高い名家ということです。そして「この西田家の没落についても、われわれは新時代に順応できずに挫折していった旧家の姿を見て取ることができるが、夏目家の没落同様、やはりここでも投機とか投資といった新たな経済原理の犠牲者を確認することができるだろう。・・(中略)それにしても、なぜ総じて父親が超自我の起源になるのかといえば、おそらくそれは長期にわたる家父長制度の歴史が関係している。この制度の下では、全ての権威権限を体現した家長の行動や判断は、家族成員にとってはそのまま従うべき『模範』として機能してきた。当人たちの意志を無視して勝手に息子夫婦の離縁を決めた西田の父親、子供を物品のようにして里子や養子に出し入れした漱石の父親、これらの理不尽な行為がそのまま容認されたのも、彼らが家長だったからにほかならない。・・(中略)父親の欠落によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけに自己制御が弱くなると述べたが、これは必ずしもマイナスの結果ばかりとはいえない。弱い自己抑制は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な『父親殺し』が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。」(20、28,30頁)、続いて、こうした観点から見ると、西田も漱石も若いときから人並み以上の反骨精神や独立心をもっていた人物であることがわかる、と氏は指摘しています。私としては何か分ったような気がしたところです。

 

 両者は、ほぼ同時期に東京帝国大学で学びますが、漱石は英文学本科卒、方や西田は文学哲学科専科卒です。専科はいわば聴講生というような扱いで、その身分差は大変なものだったとのことです。従い、両者は大学時代も直接的な交友はなかったようです。ただ、両者に共通することは「むしろ自由独立を求める反骨精神である。面白いのは、こうした漱石や西田に宿った新しい近代啓蒙の考え方が、消失していく江戸気質や武士道精神の言葉で表現されたという、歴史の皮肉というか妙である。」(42頁) 

 

 更に「漱石のイギリス文学や西田のドイツ哲学というように、彼らが知的方面において一級の西洋通であったことはよく知られているが、同時に彼らは身体的にも(ボート、テニス等の)西洋スポーツの最初の享受者であったということである。言いかえれば、それだけ心身両面において初めて西洋を身につけた世代だということである。そして、だからこそ抱えざるをえなかった彼らの固有の問題が生じた。それが西洋か東洋かという選択の問題にほかならない。今日の目からすれば、このような両極端化は余計なイデオロギーを生み出すだけで生産的ではないということができるかもしれない。だが、彼らの世代はそれは深刻な問題であった。」(108、109頁)

 

 この氏の生産的ではなかったとの指摘には異論があるかもしれません。

 

 加えて、漱石、西田の共通項を見ると、既に記したようにその没年は漱石第一次大戦中の1916年。西田は1945年の第二次大戦終結直前で、二人の生涯は戦争に始り、戦争に終わった。そして、二人にとって最初の切実な戦争といえば日露戦争であったが、この戦争に対する二人の態度には大きな温度差、切実度の違いがあった。西田は二人の近親者を失っている。専門石川県専門学校の学友と旅順で戦死した西田の愛する弟憑次郎である。従い夏目、漱石共に我が子を失ったときの感情においては共鳴しあったが、日露戦争とりわけ戦死に関しては二人の大きな温度差があった、と指摘しています。

 

 両者の門下生

 

 更に、門弟との関係においても両者にはひとつの共通項があります。漱石に近づいてきた青年たち、小宮豊隆鈴木三重吉森田草平、野上豊一郎、安陪能成、久米正雄芥川龍之介等々の漱石山房の集まりです。その関係は「父」を中心に形成された、いわば疑似家族共同体であり、小宮などは自分の家のように漱石家に出入りしております。門下生の一人である松岡譲は漱石の長女筆子と結婚という具体的な形で表われています。

 

 方や、西田においても、その門弟ともいうべき京都学派の哲学者たちの三木清高坂正顕高山岩男、上田操、金子武蔵等々において疑似家族共同体の様相を示しております。漱石同様、上田は西田の長女彌生、金子は六女梅子と結婚しております。

 

2.大東亜戦争と西田哲学

 

 その1.

 

 本投稿の「はじめ」にも触れましたが、佐伯氏はその著「西田幾多郞」の中でも、次のように述べております。長くなりますが重要と考えますので、以下紹介したします。

例の大東亜戦争イデオロギーと名指しされた「民族国家の世界史的使命」、という京都学派の思想が、いかに西田幾多郞の歴史哲学をよりどころとしているかはあきらかでしょう。ここで、「個性的な自己」といっているものを、歴史的世界における民族や国家に置き換えれば同じ論理がでてくるからです。民族はひとつの国家として独自の個性をもつには、歴史的使命をもつしかない。ここに「国体」というものの自覚がでてくるのです。それは、自己の底に世界を映し出し、世界において自己を生かすことで、その意味では、決して自民族中心主義でもなければ独善的ナショナリズムでもありません。歴史的使命をもつとは、世界の創造的要素となる、ということです。「民族がかく個性的となると云うことは、それが歴史的形成的であり、歴史的使命を担うと云うことでなければならない。国体とはかかる国家の「個性」であるということになるのです。

 

 しかしながら、こうした西田の歴史哲学は、あの苛烈で混沌とした力と力の対決の時代にはほとんど現実性をもちませんでした。あるいはその表層の言葉だけをすくいあげられて、日本の「世界的使命」だとか「歴史の創造的主体」だといった観念だけが独り歩きしました。その意味では、京都学派の試みは、明らかに失敗したのです。戦争イデオロギーとして失敗したのではありません。帝国主義的な力の対決という歴史的現実を変えることに失敗したのです。状況を変えることができなかったのです。

 

 西田がやろうとしたことは「日本的な思想」を内蔵した「日本」という個性をもって、世界の創造的力点としようということでした。しかしそれはまた、当時の歴

史的状況のなかで歴史に動かされながら作用する外ないものでした。すでに、戦争へ向けて駆動する歴史の威力に抗いすることはできなかったのです。何よりも、日本人自身が西田の意図をほぼ理解できなかったといわねばなりません。とはいえ、彼が「思想」というもろくもあやうい営みだけを頼りに悲惨な戦いを挑んだということだけは記憶されるべきでしょう。(198,199頁 上記西田幾多郞)

 

その2

 

 小林氏は掲題の本書の序章で次のように記しています。長くなりますが紹介します。

 

 漱石は、西洋においては開化が「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいる」とすれば、日本の開化はあくまで「外発的」で、「新しい波が寄せる度に自分が某中で居候をして気兼ねをしている様な」ものだというが、この指摘は、こと「思想」と呼ばれるものに関するかぎり、明治維新の30年後だけでなく、150年たった今日の日本にも依然として当てはまる。たとえば、第二次大戦以後今日までの「思想」の変遷を振り返ってみるだけでも、マルクス主義実存主義現象学構造主義ポスト構造主義分析哲学等々といった流行の波が押し寄せ、人々はそのつど狼狽しながら流行の輸入作業に余年がなかったものの、そのほとんどが実をむすぶこともなく、いたずらに瓦礫の山を築いただけであった。その結果今日の思想や政治意識の空洞化である。・・(中略)漱石も西田も早くから日本におけるこうした思想の危機を予想し、危惧していた。危惧の対象は主として消化されない思想や理念とその結末であるが、彼らの危惧はそういう日本側の表面的な受容だけに向けられてはいなかった。受容される当の西洋近代自体が抱える問題をもいち早く見抜いていたからである。まさに思想における内憂外患が彼らの置かれた立場であった.(10、11頁)

 

 その上で、西田は漱石のように距離を取って外からの戦争批判をおこなってすます、というわけにはいかなかった。西田及び京都学派の戦争問題とその経緯を以下のように述べていきます。

 

 1930年代に入って、軍部とりわけ関東軍や陸軍の独走に歯止めがかかわらず、満州から中国本土への侵略、加えて五・一五事件、二・二六事件等々が起こります。そして、1937年、反軍部の期待を背負った第一次近衛文麿内閣が成立します。近衛はご存知のように、河上肇に憧れ、一高から京大に移り、そして西田の教え子となり、そこに学習院時代の仲間も加わるわけです。従い、軍部とは直接関係をもたない近衛への期待、最後の望みも西田には大きかったのです。一方、陸軍の突出に平行するように、民間でも蓑田胸喜のような狂信的なイデオローグ(デマゴーグ)が三井甲之の主催する「原理日本」などが盛んに知識人狩りの論説を書き、その矛先は左翼のみならず美濃部達吉、滝川行辰、大内兵衛津田左右吉、京都学派にも及びます。西田には右翼テロの噂も流されておりました。

 

 更に、門下生である最愛の三木清が近衛のブレーンともなるべく、1933年に発足した「昭和研究会」に近衛内閣発足と同時に加わります。そして、例の「国民政府を対手とせず」と宣言した近衛の「東亜協同体論」の構想造りに参加していきます。結果は「この最後の希望」だった近衛も結局は陸軍のマリオネットにされ、その昭和研究会は1940年には大政翼賛会へと解消され、実質的に総力戦下で軍政府の協力団体になっていったわけです。尚、三木清はその運動を利用して最後まで何とか別の道を画策しようとしたのですが、特高に捉えられ、敗戦の翌月、出獄を前にした1945年9月26日、48歳で獄死します。尚、すでに記したように、西田は終戦の1945年、75歳で死去します。尿毒症とのことです。

 

 西田のほうは早々に近衛を見限っていましたが、陸軍、海軍とも西田の名声及び京都学派を利用していきます。文芸誌「文学界」が「知的協力会議」と銘打って主宰した「近代の超克」の座談会や「中央公論」が企画した一連の座談会に京都学派が参加します。この一連の座談会は、当時の有名な文学者、学者、芸術家たちが一堂に会してアジア太平洋戦争を思想的に意味づけようと試みた集まりとして、戦後厳しい批判にさらされてきたわけです。

 

 陸軍、海軍からも西田の名声を利用しようという状況が生まれます。加えて、軍部とは違う民間で独自の政策構想を図る「国策研究会」に請われ、「世界新秩序の原理」を発表するに至ります。「西田としては健全な『科学、技術、経済の発達』であり、偏狭な国粋主義にとらわれず『自己に即しながら而も自己を越え』るような普遍的見地に立った世界政治であった。しかし、この『世界史的使命』は、東条はもちろん、アジアにおける日本の覇権をもくろむ軍部にはまったく理解されることがなかった。かくて西田もまた漱石と同じように、戦争の中で失意のまま死んでいかざるをえなかったのである。」(182頁)、と小林氏は記しています。

 

 今日なら「グローバル世界」と呼ばれる事態を西田は「世界史的世界」と呼んだ。そしてそのことは日本は明治という新時代の始まりと同時に自覚されていた。京都学派の「近代の超克」論議はこうした近代世界システムへの批判の試みではあったが、いかんせんその哲学者の空論気味の言説は、無力にも、戦争というシビアな現実に飲み込まれてしまった。第一次大戦の中で死んでいった漱石は、彼ら以上に、言説を無意味化してしまう戦争の非常な性格を感じ取っていたのかもしれない。(192頁)

 

 経済学者であると共に思想家、方や哲学者である両氏の指摘、観点を私がどれほど理解できたか、否か、は問われますがこのまま進めます。

 

3.「永遠の今」と無始無終の時間

 

 佐伯氏は本書「西田幾多郞」の中で、極めて分りやすく西田幾多郞の哲学を解説しております。氏が持ち続ける思想の展開でもあり、私にとっては共感すると共に極めて重要な指摘と思います。長くなりますが、以下、ご紹介し、本投稿を閉じたいと思います。

 

 「進歩」という観念の背後には、過去、現在、未来へと突き進む直線的な時間の意識がなければなりませんが、西洋で、この直線的な時間の観念を明瞭に生み出したものは、ユダヤキリスト教だといってよいでしょう。・・(中略)だからユダヤキリスト教の西洋では、人は、最後の審判に向けて、正しく生き、勤勉に生をまっとうするほかありません。禁欲が日常生活のなかにまで入り込ます。ところが,近代も進んでくれば、もはや誰も簡単には神など信じなくなりました。こうなると深い信仰心に代わって、軽い利己心が支配し、禁欲は強欲へと変わってゆく。しかし、ユダヤキリスト教が生み出した直線的な時間意識だけは残ってしまうのです。・・(中略)かくて無限の経済成長、自由の拡張、富と幸福の追求、世界のグローバル化といった今日の神話は、時間と世界を作った絶対神を前提とするユダヤキリスト教的な思考の世俗化といってよいでしょう。近代にはいって「神」は抜き取られ、この構造だけが残ってしまった。そして近代化とともに、われわれすべてがこの不気味な構造に投げ込まれたのです。(223から226頁)

 

 日本の思惟

 

 日本の思惟、とりわけ仏教的な思想にはこの世の創造も終末もないのです。われわれはどこからかやってきて、いずこかへ去って行く。そのことの繰り返しなのです。かくて西洋と同じ意味での歴史という観念もありません。日本では、歴史とは、そこに壮大な意味が埋め込まれた巨大な舞台というより、ゆく川の流れの如くに次々と時が去ってはまた来る、といった趣のものなのです。・・(中略)この無始無終の時間を表象するのに、われわれは、無限に延びる一直線ではなく、むしろひとつの瞬間を取り出しました。なぜなら、もしも、時間に始まりも終わりもなく、したがって、時間の流れの全体(それが歴史です)には特別な意味がないのだとすれば、大事なのは、今ここでの瞬間だけだからです。・・(中略)人はただ日々違った身体を持ってその都度生きるだけわけではなく、同じ身体を持って同じ脳を使って生きているのです。身体のなかに、記憶や習慣として過去が蓄積されています。こうして「今」のなかにすべての「過去」が入り込んでいるのです。又、同じように、人は常に未来を気にし、未来を予測しながらいきているものだとすれば「今」のなかに「未来も入っているのです。・・(中略)西田にとっては過去へ向かう記憶も、そして未来へ向かう意志とともに、まさに今ここでの「純粋経験」にほかならないのです。世界や時間の外にあって、万物の創造者としての「神」を持たない日本人にとっては、時間は「ただ今」の延々たる移行というほかはありません。人は、そのようなものとして「時」を感じるはずです。・・(中略)わが国の文化の特徴として「情的」なところがある。それは「知的」のものへと傾く西洋とも、また「行的」なものへと傾く中国とも違っている。老荘思想にも見られるが、「時」は無より来たりて無へ帰る、時は「絶対の自己限定「である。そこでは。常に、「無」が根底にあるので、「形」を持って今ここにあるものも、その背後に「無」が透かし見られる。・・(中略)「有の思想」である西洋に対して、日本の根底にあるのは「無の思想」だというのである。もしも、われわれの生活のなかにある一瞬一瞬を「永遠の無」に触れる「今」と感じることが日本人の時間的感覚に埋め込まれているとすれば、われわれは、もう少し「今」を大切にするのではないでしょうか。(中略)西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えました。そして「特殊性を失うということは文化というものが無くなるということである」といいます。文化がなくなることはその國の国民性がなくなることです。端的に言えば「日本」がなくなる、ということなのです。西田のこの言葉は無条件にグローバルで普遍的な価値や理念を追い求め、それをよしとする今日のわれわれの「脱日本化」にとってはあまりにも耳の痛いことではないでしょうか。(227から236頁)

 

 昨今の目に余る節操を欠くマスメデイア。更にはテレビに頻繁に出てくるジャーナリストと称される人たちの厚顔と私は思われるのですが、その有り様。加えて、佐伯氏が指摘する、過度なグローバリズムや経済競争や成長至上主義やモノの浪費という現状にあって、佐伯氏の指摘に私は深い共感を覚えるのです。

 

終わりに

 

 今回も単に著者の文章を私なりに勝手に解釈・引用し、本来の著者のお考え、あるいは訴えたいこととは離れているでしょう。でも読者とはそんなことなのかもしれない、とこれまた私は勝手に解釈しております。いずれにもせよ私にとって、読み比べの上で、とても参考になるものでした。

 

 本来であれば悲哀の哲学、すなわち「哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」という西田哲学の一端でも紹介できればいいのですが、いまだ私にはその力がなく、このような長々しいものになりました。いずれ近いうちに、その哲学を少しでも知りたいとは思っております。

 

 尚、次回の東京オリンピックには80歳になりますが、そこまでは元気でいようと思っております。蛇足ですが、仕事の関係で前回の東京、ロス、シドニーのオリンピック・スタジアム会場で観戦しておりましたので、次の東京オリンピックまでは元気でいようと思っているわけです。

 

2017年12月8日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 小林敏明「夏目漱石と西田幾多郞 共鳴する明治の精神」(岩波新書

 佐伯啓思「西田幾多郞 無私の思想と日本人」(新潮新書)

 同   「日本という『価値』」(NTT出版

 同   「反・民主主義論(新潮新書)

 夏目房之助漱石の孫』(実業の日本社)

 十川信介夏目漱石』(岩波新書)

 他

 以上

 佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

 

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はじめに

 

 佐伯啓思氏の著作については一昨年、「日本の愛国心」を初めて読み通した次第です。40年弱前になりますが、私がアメリカ駐在時代にお世話になり、その後もお付き合いを頂いている元バンカーの方に紹介され読み込みました。私にとっては社会思想史の一端を垣間見る、と共に、佐伯氏の論述に深い共感と感銘を覚えた次第です。そして、偶々、私の書棚に18年間も眠っていた、氏の「アメリカ二ズムの終焉」を取り出し読み通しました。続いて、「反・民主主義論」「さらば資本主義」「従属国家論」「反・幸福論」「正義の偽装」他を求め、読み通していったわけです。そして、私なりの理解に過ぎませんが、ブログ「淸宮書房」に「日本の愛国心」(2016.7.1)、「反・民主主義論他を読んで思うこと」(2017.3.11)、「アメリカニズムの終焉を読み終わって 上、下」(2017.5.24/30)をブログ「淸宮書房」に載せたわけです。掲題の著作を含め19冊になりますが、僭越ながら今を観ようとしている者にとって、佐伯氏の著作は目から鱗のような感慨を持った次第です。多く方が氏の著作を読まれれば、と思うところです。

 

佐伯啓思「現代民主主義の病理」

  

 本書の時代背景と趣旨

 

 本書の発刊は今から約20年前の1997年1月20日で、「アメリカ二ズムの終焉」のほぼ1年前になります。戦後50年を経過した1995年当時以降が、その背景となっております。その1995年は1月には村山政権時で阪神大震災、そして政府の初期行動の遅れ。オウム事件バブル崩壊住専問題、日米安保論争、破防法の適用等々、めまぐるしい出来事の連続でした。更にはTBSオウム事件を巡る国会招致、当該プロジューサーの懲戒解雇及びTBS社長の交代。そして、そこにおけるマスメデイア紛糾・論争が印象深い現象でした。更には住専問題に絡む官僚、特に大蔵省批判。加えて、何故か、東京都に青島幸男大阪府横山ノックという、タレント系の知事誕生という時期でもありました。

 

 そのような時代の背景の中、著者は戦後50年とは何であったのか。そこでは何が論議され、何が論議されなかったのか。あるいは何が失われてきたのか。民主主義とは何か、その危うさ。市民と国家とはどのような関係にあるのか。そこにおける知識人の役割とは何か。更には知識人とマスメデイアとの関係。我々は何を目指さなくてはならないのかを論じています。具体的には序・無魂無才の不幸から始り、Ⅰ・戦後50年、アメリカ化の50年、Ⅱ・西洋文明と日本の知識人、Ⅲ・デモクラシーは責任を取れるか、Ⅳ・サブカルチャー化する現代の日本、Ⅴ・市民社会の崩壊、終・信頼と民主主義、あとがき、から本書が構成されております。

 

 佐伯氏による洞察・観点は現在の諸々の事象を観る上で極めて重要であり、本書が発刊されてから20年を経過した現在でも、そこには何らの古さを感じません。今回、私が印象深く、共感したいくつかを挙げますと、丸山眞男の立ち位置の曖昧さ。すなわち「東大法学部という権威主義の牙城にあって、日本社会の権威主義批判を行うという姿勢。アカデミズムの研究者でありつつ、ジャーナリズムや市民運動に関与する姿勢。日本思想史の研究者でありつつ、西洋政治学の学識によって語る姿勢。日本にいながら西洋的近代の目で日本を対象化する姿勢。こうした『曖昧さ=二重性』こそ、丸山が発言し、影響力を発揮した条件であった。」(78頁)、と指摘していることです。加えて、連合国の戦争史観を代弁した如き東京裁判史観などと、呼ばれたりする考えの思想的基礎を作った、その後の後遺症。そして丸山が戦後知識人に残した課題。すなわち日本と西欧、近代とは何か、普遍性と国家意識といったテーマーに取り組むべきだと、述べているところです。象牙の塔におりながら自己特権化しつつ物言う、いわゆる進歩派知識人への批判も痛烈です。

 

 私には、昨今のテレビの報道番組に登場する専門家と称する大学人等は、ただテレビ等に出たいとしか思えないのです。そうした昨今の特殊な事象は、専門家かどうか分りませんが、いわゆる知識人のひとつの頽廃現象そのもの、と私は考えております。そうした諸々の点についても佐伯氏は言及しておりますので、是非とも本書をお読み頂きたいところです。

 

 今回も本書の全体を紹介するものではなく、マス・メデイア、ジャーナリズムに言及された諸点に絞り、取り上げて参ります。本書の背景となる戦後50年の粗筋を以下、記して参ります。

 

 戦後のひとつの粗筋

 

 47年のトルーマン・ドクトリン、48年のベルリン封鎖、49年の中華人民共和国の成立、NATOの結成、そして50年の朝鮮戦争という冷戦体制の形成の中、日本はほとんど事実上の選択の余地もなく、アメリカを中心とする西側の世界戦略のもとに1951年サンフランシスコ条約を結び、日米安全保障条約に至ります。すなわち、日本は戦後処理から日米安全保障条約に至る過程は、日本にとっては、当事者でありながら、その当事者の立場そのものを与件として自らに与えてゆく以外になかったことです。

 

 方や、「60年代の学生の主たる攻撃対象はベトナム戦争を遂行するアメリカに向けられ、結局、アメリカン・ジーンズを身につけ、コーラーを飲みながらアメリカ帝国主義を倒せと無意味な言葉を唱和することのちぐはぐに全く無頓着だったわけである。・・(中略)多くの日本人が、ベトナムに爆弾の雨を降らせ、世界の警察官を任ずるアメリカの所業を力ずくの思い上がりと非難しながら、どっぷりと日米安保体制のもとでの平和を享受していたのであり、はいて捨てるよう顔してアメリカ文化の軽薄差を難じながら、アメリカ的生活を享受し、アメリカ映画やドラマを楽しんでいたのである。」(17、18頁)、と記しています。

 

 そして、この装われた普遍主義というアメリカニズムのひとつの特徴を、もっとも真正直に、しかもほとんど何らの抵抗も咀嚼もなく全面的に受け入れたのが、戦後日本社会であり、とりわけ知識人たちであった。知識人たちは、経済学者や政治家という専門化の知的誠実さを口実として、ほとんどなんら疑うこともなく、その普遍主義を受け入れた。(51頁)

 

 冷戦体制が終わった現在、「とりわけわが国の、いわゆる日本経済改革論やグローバルリズム論は、私の解釈では、アメリカニズムの旗を振っているにすぎないように見える。しかし、これは新たな文明の実験と呼ぶにはあまりにも危険な実験であり、とりわけ、いわゆる華人経済圏とアメリカ経済に挟まれた日本にとってはそうであろう。アメリカ二ズムに抗いすることは、それがある種の普遍性と強固な近代性をもっているがゆえに困難な作業である。しかしわれわれのできることは、まず、戦後日本が、その圧倒的な影響下におかれていたアメリカニズムを相対化し、アメリカとアジアに挟まれた日本の宿命とは何かを論じることしかないであろう。文明としてのアメリカニズムに抗いするところから始める以外に、ナショナル・アイデンティティを発見する方法はないのである。」(53、54頁)、と続き、

 

 われわれは再び、西洋化という近代のプロジェクトを始めた、たとえば明治の知識人たちが、西洋化という近代のプロジェクトに着手しながらも、ためらいを隠さない。言うまでもなく、福沢という西洋流の自由主義者の根底には強いナショナリズムがあった。表面上は彼と対立した加藤弘之やまた、徳富蘇峰三宅雪嶺といった人は西洋的自由主義から日本主義へと回帰していった。こうしたためらいは陸羯南にも見られるだろう。西洋というものの圧倒的な文明の力を身をもって感じながらも、表面だけの西洋の受容が日本人のセルフ・アイデンティティを失わせることを危惧したのは言うまでもなく夏目漱石である。むろん漱石は決していわゆる日本主義者ではなかったにもかかわらずである。(72頁)、と記しています。

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  尚、氏は別途、「西田幾多郎」を著わしておりますが、今年の6月に小林敏明氏が「夏目漱石西田幾多郎」を発刊しております。合わせご覧頂ければと思います。後日、私なりに改めて取り上げたいと思っております。又、本書にしばしば登場するアメリカニズムついては、冒頭に記しているように、今年の5月24,30日に佐伯啓思著「アメリカニズ終焉を読み終わって」として私なりに、ご紹介致しております。

 

 日本のマスメディア・ジャーナリズムと世論

 

 その1

 

 本書のひとつの特徴は、表題が「現代民主主義の病理」ですが、「序・無魂無才の不幸」更には「あとがき」においても、マス・メデイアやジャーナリズムの危険性に言及していることです。私は常日頃、マスメディアは独りよがりの正義を唱え、世論と称するものを作り出し、その結果責任は戦中、戦後とも何ら負うことがない。現在のマスメデイアであるテレビ、新聞、週刊誌等々に見られる節度・節操を欠いた目に余るその傲岸さ。それは正義とはほど遠く、単なる商業主義に毒されたものにすぎない、と批判してきました。そうした一連の事象が国会討論等に見られる実に無意味な、無様な現状にも繫がってくるのではないでしょうか。

 

 佐伯氏はそうした事象をより鋭く、深く根源的に洞察され、論を進めていきます。今日においても正鵠を得たものと、私は共感し、と同時に考えさせられます。長くはなりますが民主主義とは何か、自由とは何か等々、その視点をも含め、以下、ご紹介して参ります。まず「序・無魂無才」において、次のように述べています。

 

 マス・メデイアやジャーナリズムが、官僚によって情報コントロールされているというのも正しくない。むしろ、これほど言論が明けっ広げの国はそれほどないとさえ言えるだろう。実際、わが国のマス・メデイアほど、絶えず、政府の政策やそのスタンスを批判し続けるメデイアというのもめずらしいものだ。政治家や官僚のスキャンダルともなれば、もっとも張り切るのは、マスメデイアなのである。・・(中略)つまり、わたしは現代日本の「不幸」はデモクラシーが成立していないのではなく、むしろ、そのデモクラシーがあまりにも規律を持たず、いわば無責任な言論の横溢をもたらしているところにある、と思われるのだ。デモクラシーの内部からデモクラシーが自壊しつつあると言ってよい。そして考えてみれば、現代日本に限らず、デモクラシーというものにつきものの病気なのである。自由が秩序によって牽制され、権利が義務によって牽制され、競争が平等によって牽制されるように、デモクラシーもある種の規律によって牽制されなければ、愚衆政治に堕して自壊するのである。そして、デモクラシーが暴力ではなく言論による政治を柱にするかぎり、言論における規律をどのように確保するかこそがデモクラシー社会の課題となるのであろう。

 

 ・・(中略)だから民意を「世論」という名で定立したり操作したりするマス・メデイアこそが、デモクラシーのカギを握ることになる。現代社会ではマス・メデイアこそが、民意の独占的管理者の位置にいるわけだ。したがって、マスメデイアを中心とした言論の様態こそがデモクラシーの死活を握っていることになる。そして、わたしの判断では、まさに、マス・メデイア、ジャーナリズムといった広い意味での言論知識層における言論の乱れ、時には無責任、あるいは確信の喪失こそが、現代日本の漂流の重要な原因ではないか、と考えたいのである。この言い方が少々強いとすれば、マス・メデイア、ジャーナリズムを含む知識人の言説こそが、漂流する現代日本の思考様式の象徴だと言ってもよい。(9、10頁)

 

 皆さん如何思われるでしょうか。佐伯氏はその序「無魂無才の不幸」の最後に次にように述べています。

 

 われわれは一人ひとりの背後には、日本の社会や文化がいやおうなく張り付いているのである。そして、他国の人々も、まずわれわれの中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだそうとするものは、決して「西洋のコピー」ではなく、この「日本人の精神」ではないだろうか.・・(中略)デモクラシーはひとつの意志決定方式にすぎない。それがうまく働くかどうかは、それを支える精神の働きや信念の体系が確固としているかどうかにかかっている。そして、この精神や信念は、容易に西洋から移入したり、模倣したりすることはできないのである。いや、むしろ、模倣しようとしたとたん「魂」を失ってしまうだろう。結果として「無魂無才」にまで至るというわけだ。とすれば、われわれに今、求められていることは、この「魂」の回復への試みということ以外にないだろう。デモクラシーを支える言論は、結局、「精神の形」そのものの表出でしかないからである。(12、13頁)

 

 僭越至極ですが 私は深く共感するところです。

 

 その2

 

サブカルチャー化する現代日本」の章で、TBSオウム事件に関連した報道に関して、次のように述べています。少し長くなりますが私には極めて重要な指摘ですので、そのまま以下紹介します。

 

 国家権力に対する報道の自由、国家権力に対抗して、自由で中立的な報道を擁護するところにジャーナリズムの良心があるという固定観念が行き渡っているのである。つまり、あらかじめジャーナリズムはデモクラシーの側にあるものと想定してしまい、ジャーナリズムに敵対する権力がデモクラシーを破壊するという論理である。もとよりこの論理が誤りだというのではないのだが、同時に考察すべきは、マス・ジャーナリズムが、あるいは官僚組織と化し、あるいは市場主義に侵され、また無意識の主観性を色濃く浸透させ、取材、報道という名のもとで暴力を行使し、ある種の情報操作を行うといったことに通じて、その内部から崩壊してゆくという危険性と常に隣り合わせだということなのである。そして、もし、マス・ジャーナリズムが現代のデモクラシーにとってきわめて重要な意味をもつとすれば、国家権力との闘争などよりも、はるかに、このことの方がデモクラシーにとって枢要な課題なのである。

 

 端的に言えば、多くのジャーナリストが、ジャーナリズムの良心や倫理を持ち出すとき、その意味は、国家権力や社会的圧力に屈するべきではない、報道の自立と公正を守るべきだと言われる。しかし、今や、マス・ジャーナリズムは権力や圧力からの被害者であるとうよりも、時には、それ自体が世論を動員して、権力を発動する機構ともなっているということなのである。とりわけ、デモクラシーを成り立たせる人民の意志が世論という形で表明されるときには、その世論形成、世論動員に対して重要なスタンスをもつマス・メデイアはもはやデモクラシーにおけるりっぱな権力装置となっているのである。ジャーナリストの良心ということでまず述べるべきことは、このような自覚にほかならないのであろう。・・(中略)日頃、何か起こればたちまちデモクラシーへの挑戦だ、デモクラシーの危機だといった論陣をはるマス・ジャーナリズムから、ほとんどこの手の議論が出てこなかったことは、私には奇妙に見えた。解釈として言えば、常に、権力を批判する点にその役割を求めてきたジャーナリズムの良心という固定観念から彼らが自由ではなかったということになる。権力批判は自己批判とならざるをえないからである。(145、146頁) 

 

・・(中略)彼らにとって、タブーとは、国家による干渉や放送法による規制といったものであり、誰も、タブーを彼ら自らが生み出しているなどとは考えようともしない。タブーは常に外部からやってくる。外部に権力がある、こうして、「世論」と彼ら自身を疑うことをタブーとしてしまうことによって、マス・メデイアは自己自身を特権化してしまう。ここにこそ、今日のマス・メデイアの大きな問題があるように思われるのだ。(156頁)

 

 私ごとになりますが、昨今のテレビの報道番組と称する中で、NHKの司会者のアナウンサーが、「これは私の意見ですが」という不思議な、ことわり的な発言に時折、接します。私は違和感を持つと同時に、NHKの組織に対する防衛なのか、との印象を持つところです。如何でしょうか。いずれにもせよ佐伯氏の上記指摘は今日でも、いや、今日こそ重要な視点ではないでしょうか。続いて、

 

一つは、われわれの得る情報や事実なるものが、常にメデイアの手によって差し出されているという認識は、それ自体、情報や事実を相対化するのに役立つはずだということである。簡単に言えば、われわれはメデイアから受け取るものはいったん疑うこと。

 

二つはマス・メデイアだけに限定されたものではなく、さまざまな分野の専門化や評論家という広い意味での知識層の弱体である。マス・ジャーナリズムと専門的研究者の連携ができていない。ジャーナリズム的評論の多くはある専門分野の都合のよいところだけを引っぱってきてあまりに図式的な結論を引き出す。この両者の間に、適切な論議の交換があるとは思われない。専門家はあまりにも彼らの専門にこだわり、ジャーナリズムもいわば業界を形成してしまい、その両者にゆるやかに往還するための信頼なり、理屈なり哲学的なものがほとんど存在しない。ある程度共通の議論の母体をもった知識層の生育がなければ、今

日のデモクラシーがますます混迷の度を深めることは明かだと思われる、と述べています。私は深く共感を覚えるところです。

 

 そして、氏は本書の「あとがき」で次のように記しております。

 

 現代の日本の閉塞感は、何か、われわれの言論や活動が抑圧され、きわめて窮屈なために生じているというよりも、むしろ、その逆に、あまりに、そこに規律や節度が失われてしまったために生じているように見える。あまりに解放されたために逆に生じる閉塞感と言おうか、あるいは、もう少し高尚な言い方をすれば、われわれの手にしている表現手段と表現内容の乖離と言おうか、そのようなことが生じている。(236頁)

 

おわりに

 

 冒頭に述べたように、本書は20年前に発刊されたものですが、佐伯氏はその後も現代日本への洞察と提言をされた著作を次々と出されております。私なりに戦後というか、今を観ていこうとする中で、氏の一連の著作は大きな刺激と共感、感銘を与えてくれております。昨今のマス・メデイアの私なりに憂うる現状を目の当たりにし、私は本書の一部を、何か急いで紹介した、との感は拭えません。加えて、私の理解不足、あるいは誤解もあるやかもしれません。改めて取り組んでいきたいと思っております。尚、ご参考にはなりませんが、昨年から今年にかけて、佐伯氏の著作について、私が感想を記した以下の投稿を、合わせ一覧頂ければ幸いです。

 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/5

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/3

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/07/01/093614

 

 

 2017年11月20日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(日本放送出版)

 同   「日本という価値」(NTT出版

 同   「西田幾多郎」(新潮新書)

 小林敏明「夏目漱石西田幾多郎」(岩波新書)

 他

 

 

 再・昭和天皇について思う【前編】

 はじめに

  高齢になられた現天皇陛下並びに皇后陛下の御活動に国民が感謝し、そしてその賛意の空気なかで、生前退位がされる運びのようです。方や、私は今後の象徴としての天皇家のご活動はどのような状況になられるのか、一抹の不安を覚えています。現天皇並びに皇后陛下は皇太子時代から昭和天皇の、正に贖罪の道を歩んでこられたとの心象を私は思っておりますので、後を引き継がれる新天皇陛下並びに新皇后陛下はどのようなお姿になるのでしょうか、との想いです。もっとも天皇皇后陛下が国民の前に御一緒にお出になられたのは、この戦後70年間しかなく、むしろこの70年間が例外であって、私のそのような想いは杞憂なのかもしれません。  

 

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 弊著「書棚から顧みる昭和」の中でも、「昭和天皇について思う」の一章を設け、私なりの感想を記してきました。又、私の書棚にも昭和天皇との表題がある本は文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」、保坂正康著「昭和天皇、敗戦からの戦い」、古川隆久著「昭和天皇」、青木冨美子著「昭和天皇とワシントンを結んだ男」、加藤陽子著「昭和天皇と戦争の世紀」、伊藤之雄著「昭和天皇伝」等々あり、それなりに目を通して参りました。加えて、昨年9月9日に「昭和天皇実録」が公開され、更に昭和天皇に関する数多くの著作等が現われ、従来にまして昭和天皇に関する研究が深まるものと思われます。尚、最近発刊された原武史著「昭和天皇実録を読む」のなかでは、「木戸幸一日記」等の一次資料と今回の「昭和天皇実録」との違いを示しております。昭和天皇の退位問題、更にはカトリックへの接近等を含め、興味深い指摘があり、私には新たな思いが加わったところです。

 

 そんな状況に引きずられたのかもしれませんが、改めて私なりに昭和天皇への思いも記しておこう、と思ったわけです。加えて、この半年間にブログ「清宮書房」でも広田弘毅近衛文麿を取り上げてきたことも関連しますが、天皇制もしくは昭和天皇の戦争責任等々を私なりにもう少し考えておきたい、私なりに心の整理もしたいと考えました。そして今年の8月15日、戦没者慰霊の際の天皇のお言葉が出る一日前の14日、安倍首相が戦後70年談話を発表したのは、そうせざるを得ない状況、いわば官邸側の政治的配慮が必要であったのでしょう。天皇は象徴のみならず、原武史氏も付言しているように、今以て日本の政治に大きな影響を及ぼしている現実があるわけです。尚、本題との関係からは蛇足の感は否めませんが、保坂正康氏の新刊書「昭和史のかたち」は氏独特の幾何学的発想をもって昭和の姿を示そうとしております。新たな観点であり、なるほどと思ったところです。

  ただ、本書の中では、言論人,マスメデイアの過去、現在のあり方には全くといっていいほど言及されていないことにある種の奇異を感じます。加えて、安倍首相を歴史修正主義者と断定されること。さらには「戦後70年目の節目に無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている。それほどこの70年は脆くはないぞとの思いや、そう簡単に崩してはならないとの動きも徐々に顕在化してきて、やがてうねりを生むような感もする。この時代のその精神を大切にしたい。」(本書186頁)、と本書を閉じています。真に僭越になりますが、私はそうした指摘には強い違和感を持っています。

                   

 今から5年ほど前になりますが、昭和天皇に関し私なりの駄文を某読書会に発表いたしました。対象は1921年生まれの山本七平、1935年の中村政則、1954年の吉田祐氏です。それぞれの思考或いは思想と言えるかもしれませんが、相反するよにも思われる三氏の著書について、私なりに感想を交え紹介したものです。改めてその駄文を見直し、この5年間で何が起こり変わったのか、あるいは変わらないのか、時の推移の中、若干の修正を加えてみました。

 

1 章 中村正則「戦後史」と吉田祐「昭和天皇終戦史」

 

その1

  中村政則は今年8月5日に逝去されましたが、日本近現代史を専攻する学者です。その「戦後史」のなかで、占領と新憲法、その過程での東京裁判等々を含め、戦後の流れの60年間を淡々と述べ、60年間とは何だったのかを問います。分岐点のひとつ目は1950年代前半の講和論争とサンフランシスコ講和条約日米安保条約の締結。二つ目は高度成長とベトナム戦争の時代。三つ目はオイルショック沖縄返還ニクソン・ドクトリン、日中国交回復、第一回・主要先進国首脳会談の参加といった1960年代。そして四つ目は1989年11月のベルリンの壁の崩壊、それに続く91年のソ連邦の消滅を上げています。

 私にとって、改めて戦後60年間の流れを整理する上で、その「戦後史」は大いに参考になった著書でした。そして今年、戦後70年が種々論議を呼んでいるわけですが、ではこの10年間はいったい何だったのであろうかを考える上で、読み直しの必要性を感じたわけです。

 

 尚、本書の中で戦後が未だ終わらないとする中村政則の考え方の背景には、「マッカーサー天皇の政治共生が始まった。しかし昭和天皇が退位もせず、また自らの戦争責任について何も語らずに終わったことは戦後日本史、特に日本人の精神史にはかりしれないマイナスの影響を与えたと私は考える。なかでも日本人の戦争責任意識を希薄化させただけでなく、指導者の政治責任、道義的責任の取り方にけじめがなくなった。」(同書31頁)、という氏の思いがあります。そうした考え方の根底には昭和天皇のアジア軽視と共に天皇の贖罪意識の欠如に、氏のひとつの思いが在るように私は感じています。では昭和天皇自身はどういう存在であったのか。果たして戦争責任を取れる政治状況であったのか。或いは取れる環境、いや可能性があったのか。更には天皇自身の自己規定はどうであったのか等々、については本書では述べられてはいません。むしろ敢えて述べずにしたのかもしれません。

 

その2

  一方、吉田裕氏は本書「昭和天皇終戦史」の中で、敗戦の年から10年近く後に生まれ、天皇の存在そのものをほとんど意識することなしに、幼年期、青年期を過ごしてきた。従い、その後に生まれた若者とも異なり、いわば天皇の存在と最も遠いところで自己形成をとげた世代であると述べています。その意味で本書は、いわば純粋戦後派世代が書いた昭和天皇論なのでしょう。

 

 では何故に吉田氏がこの書を著すことになったのかについては、日本の占領期の日米関係を研究している過程で、東京裁判を従来の東京裁判論とは別の観点から見る必要を感じていたこと。その途上で、1990年11月7日、8日の「昭和天皇独白録」に遭遇し、改めて天皇にまつわる戦後史を調べることに繋がっていったように思います。

 

 その「独白録」は敗戦直後の1946年3月から4月に亘ります。宮内大臣・松平康民、宗秩寮総裁・松平康昌、宮内省御用掛・寺崎英成、内記部長・稲田周一、侍従長・木下道雄という5人の側近達の前で昭和天皇が戦争の時代を回顧し語った内容です。その信憑性も問題としなければなりませんが、その全文を発表した文藝春秋の編集者が下記の一節をもぐりこませているとのことです。

 

 「『独白論』は『天皇無罪論』を補強するため天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられる。あるいは逆に、昭和天皇みずからが昭和を回想し後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される。他から強いられたとは思えない率直なお話しぶりから、そのお気持ちが伺える。・・(中略)いずれにもせよ、この『独白録』がいかなる目的のもとに作成されたものであるかは、昭和史研究家の分析を待たなければなるまい。」(同書5頁)、とその時代の背景を改めて吉田氏は言及しているわけです。この「独白論」は宮中グループが天皇の戦争責任を如何にして回避させるべきか他、寺崎英成を含め興味深い事象をも記されております。そのことは原武史著「昭和天皇実録を読む」と符合し、改めて印象に残りました。

 

 尚、吉田氏による近衛文麿の人物像は服部龍二山本七平他の諸氏から見た人物像とは異なり、当時の保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚を持っていた人物として評価していること。更には、戦後の展開、皇室と天皇個人のあり方をも視野に入れる優れた人物として見ていることはに私に意外感を持ちました。尚、その近衛文麿にしても戦争責任については太平洋戦争のみで、アジアに対する戦争責任の問題については無自覚であった事実が、戦犯として逮捕され、挫折の自殺に繋がったとも氏は指摘しています。

 又、寺崎英成についても、アメリカ人の妻を持ち日米の平和の架け橋になろうとした知米派の外交官であり、且つ気骨のある自由主義者として柳田邦男が描いた人物とは別の、闇に包まれた、ある意味ではスパイとして活躍した人物として描いています。更には頭山満の団体・玄洋社の影響を受けた国粋主義者の一面をも本書では記されています。如何に寺崎英成をも描いた「マリコ」といった小説が、城山三郎の「落日燃ゆ」と同じように、私自身の、ものの見方に影響を与えていたことに改めて気づかされたところです。本当のこと、真実は未だ不明といったところなのでしょう。本書では天皇立憲君主の自己規定とは全く矛盾する要素を含む、さまざまな天皇の言動が記載され、しかも天皇自身が相当な情報通であることも述べております。本書の結の章で、

 

 さらに、天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任論の展開を極めて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定者の当事者であった権力者の責任を追及するという次元だけにとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。其れは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害実行の責任を問い直すものだし、侵略戦争天皇制に一貫して反対したという点からいえば戦争責任とは最も遠い位置にあるコミュニストとその党=日本共産党に対しても、なぜ、より有効な反戦闘争を組織することができなかったのかという点で、戦時下における自己の思想と運動に関する真摯な自己点検を強いられるものである。また、右翼に関しても、それが戦後、思想運動として生き残ろうとするかぎり、敗戦の原因や天皇制のあり方についての本質的な議論が必要だったはずだ。(同書239頁)、と断じています。真に私達は安易に戦後を生きてきたと言えるのかもしれません。

 

以下、本論である山本七平裕仁天皇の昭和史」【後編】に続きます。

 

 2015年11月16日

                          清宮昌章

 以上は二年前の投稿ですが今回の再投稿に際し、時の経過もあり、若干の加筆と修正をしております。本論は何らの変更もしておりません。

 2017年11月1日

                         淸宮昌章

 

参考図書

 中村政則「戦後史」(岩波新書)、吉田祐「昭和天皇終戦史」(岩波新書

原武史昭和天皇実録を読む」(岩波新書)、保坂正康「昭和史のかたち」(岩波新書)、文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」 (文春新書)、古川隆久「昭和天皇」 (中公新書)、保坂正康「昭和天皇 敗戦からの戦い」 (毎日新聞)、伊藤之雄昭和天皇伝」(文藝春秋)、青木冨美子「昭和天皇とワシントンを結んだ男」 (新潮社)、木佐芳男「戦争責任とは何か」 (中公新書)、加藤陽子昭和天皇と戦争の世紀」 (講談社)、豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見」 (岩波現代文庫)、保坂正康「東條英機天皇の時代」(ちくま文庫)、他

 

 

清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再・昭和天皇について思う

 
編集

再・昭和天皇について思う【後編】

 

2 章 山本七平裕仁天皇の昭和史」

 

 山本七平は三代目キリスト教徒でもあり、幸徳秋水大逆事件に関わった姻戚を持つ人でもあります。「山本学」とも評される独自の世界を築いてきた方ですが、一時は保守反動の元凶ともいわれておりました。現在でもそうした評価かもしれません。ご承知のように同氏は「現人神」という状況の中、砲兵少尉としてフィリピンで生死をさまよいながら転戦し、マニラの捕虜収容所を経て帰国し、一時は身を隠していたとのことです。むのたけじが敗戦後、朝日新聞社を辞め、秋田県横手で家族4人でタブロイド判「たいまつ」を立ち上げたことを、私はふと思い起こすのです。山本七平もその後、「山本書店」を独りで立ち上げ、「日本人とユダヤ人」、「私の中の日本軍」並びに「一下級将校の見た帝国陸軍」他三部作、更には「静かなる細き声」等々を著していきます。

 本書「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)は昭和天皇崩御される数年前から執筆を開始し、前編に言及した「天皇独白論」が公開される前年の昭和64年1月7日に完成されていました。そして、その2年後の平成3年に同氏は亡くなられましたが、本書のまえがきで、「本書が『昭和』を考え、『昭和天皇』を考える場合の、何らかの参考になってくれれば幸いである。」(同書5頁)と述べています。以下、本書の概略と言うよりは、私が本書の中で興味深く感じた、いくつかの点を以下、挙げて参ります。

 

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その 1 天皇の自己規定

 

 本書は第1章・天皇の自己規定から、戦争責任をどう考えるかを問う第14章・天皇の功罪、そして終章・平成への遺訓から成り立っています。その1章で、なぜ、天皇は開戦を阻止できなかったのか。終戦の聖断をなぜ遅らせたのか等々の天皇の戦争責任論に対し、そうした論議の前に「天皇の自己規定」の研究が当然ながら必要ではないのか,と鋭く指摘します。と共に日本の報道機関、マスコミに対し次のように指摘しております。

 

 ファシズムへの憧れがいつ頃から生じたか。大体、昭和6年ごろからで、これが昭和11年のベルリン・オリンピックのころ最高潮となる。この年こそ2・26事件の年、そして日独防共協定締結の年である。どうしてこのような状況になったのか。当時のマスコミのファシズム賛美を、後のソ連賛美、中国大躍進賛美、文化革命賛美、更にベトナム賛美、北朝鮮賛美などと比べ、いま振り返って見れば、真に「例によって例の如し」と言う感じがする。(同書155頁)、と今もって変わらないマスコミのあり方・その現状を批判しているわけです。

 

 昭和天皇について、そのまえがきで「考えて見れば全く稀有の存在である。人類史上おそらく前例がなく、今後も再びこのような生涯を送る人物は現れまい、と思われるのが昭和天皇である。」(同書3頁)、と述べています。山本七平はその天皇の自己規定について憲法絶対の立憲君主であろうとした姿を描いています。その自己規定は明治大帝が定めたことであり、その制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされたこと。その制限を越えてしまったのは、2・26事件の時にルールを飛び越え、臨時首相代理を任命し、直ちに暴徒の鎮圧を命じたこと。及び終戦時のいわゆる聖断を立憲君主としての道を踏み違えた、そのふたつを天皇は悔やんでいた、と述べています。この指摘は多く諸氏の見方とは大きく異なるものになるのではないでしょうか。

 

 山本七平によれば、昭和天皇憲法意識にはその前提である「五箇条の御誓文」を根本理念としており、その第一条・広く会議を興し万機公論に決すべしであり、万機天皇之を決すべしではない、との強いこだわりを終生もっていたこと。その現れの一つとして終戦後の「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」の冒頭に五箇条の御誓文をあげている、との指摘です。では、その自己規定は何処で育まれたのかについて第二章以下、天皇の教師たちの像へと敷衍していきます。

 

その2 天皇の教師

 

 昭和天皇は小学校を学習院で学ばれ、その後は宮中の御学問所で6人の学友と7年間、当時の7年制高校と同じ期間でありますが、そこで教育を受け、その教師陣がその後の天皇の自己規定を育んでいった。そのひとりは博物を担当した服部広太郎博士で、崩御される直前まで天皇が生物学への関心は失わなかったことも、その自己形成の重要な要素に挙げています。更に歴史は日本における歴史学の祖である白鳥庫吉博士で、その白鳥博士の学問を継承したのは津田左右吉博士であること。そして最も影響を与えたのは倫理担当の杉浦重剛である、と述べています。

 

 杉浦重剛は私にはなじみのない人ですが、イギリス留学の科学者で儒者の家の出身であります。近江藩の藩校の他で漢学と洋学を学んだ後、後の東大となる江戸の番所調所で、オランダ語、英語、フランス語、さらにはドイツ語等まで学び、イギリスのマンチェスターのオーエンス・カレッジに留学します。科学を専攻し、猛勉強を続け、イギリス人も当然いる中で首席になったと紹介しております。帰国後、東大で一時は教鞭をとるものの、その科学で身を立てるのではなく、政界に身を置くことはあってもすぐ退き、私立英語学校を設立し、その後も中学校の校長として教育と言論の世界に身をおきました。もはや世間からは忘れられた存在であったようです。その後、東宮大夫になった元東大総長の浜尾新に推挙され、御学問所の倫理の教師となりました。

 その杉浦の思想は日本で発達した日本固有の儒学と、ヴィクトリア朝的なイギリス思想の集合であり、「力とは道徳・仁である、それが国家の興廃を決める。」この道徳・仁こそ最大多数の最大幸福とするベンサム流の杉浦の思想に天皇は影響を強く受け、三代目の守成の名君として教育されます。一方、ロンドン留学で培った杉浦の影響か、天皇は独伊ではなく英米に親近感を持っていたとしています。従い、ナチスばりの大政翼賛会の総裁になるような点においても、近衛文麿に信頼感をもてなかったようだった、と記しています。

 

 尚、「三種の神器」については天皇終戦時もこだわっていた、と吉田裕氏他は述べています。方や、山本七平は杉浦が倫理御進講草案に「三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以って至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知・仁・勇の三徳を示されたるものなり」(同書67頁)と、三種の神器非神格化を記しています。果たして天皇自身の認識はどうであったのでしょうか。そのことも改めて今後も研究すべき事柄なのかもしれません。

 

その3 戦争責任

 

 本書は上記の各章に続き、捕虜の長としての天皇昭和維新、2・26事件の首謀者・磯部浅一天皇への呪詛、北一輝の妄信の悲劇、人間・象徴としての天皇等々、と論を進めていきます。そして第14章・天皇の功罪・そして戦争責任をどう考えるか、に至るわけです。

 

 先ず、山本七平は歴史上の功罪を論ずることの難しさをあげ、江戸時代が評価されるようになったのも最近のことであると指摘しています。時代時代が相当に恣意的な評価を下すことは山本七平自身が経験している、と述べています。その上で、天皇は戦争を止められるのに、なぜ止めなかった等々の戦争責任論に対し、天皇は憲政の伝道師という認識はなかったものの、憲法の遵守を明治天皇の遺勅どおり、それこそ一点一画をおろそかにしない生真面目さで生き抜かれた人類史上、初めて行なった人だったのではないか、と見ております。

 

 加えて、「元来『憲法』とは君主の権力を制限し、実質的には無権力の存在にしてしまうのだからである。したがって国王と憲法の衝突、換言すれば議会との衝突は憲政が定着するまでいずれの国でも起こっており『立憲君主国の模範』のように言われているイギリスでも例外ではない。」(同書330頁)、と指摘しているわけです。

 

 では、その戦争責任とは何を言わんとしているのか、言葉をより明確に言うならば戦争責任ではなく敗戦責任を問うているのであろう。また天皇憲法上の責任を問うているのでもなかろう。なぜならば明治憲法第5条は現代語訳にすれば、「天皇帝国議会の可決した法律に対して拒否権を有せず」、同じく55条は「天皇は閣議の決定に対して拒否権を有せず。また閣議に出席し発言することを得ず。すべて法律・勅令・その他国務に関する詔勅は、国務大臣の副署なきものは無効なり」と規定されており、むしろ「憲法上の責任を問うことはできない」ことをはっきりしておくことが先ず以って重要である。従い敗戦責任論の意味合いは、戦争は「天皇の御ために」と実践し、天皇もそれを知っているはず、だから天皇はその責任を自覚してほしい、ということであろうと分析・解説しています。

 

 昭和50年10月31日の天皇訪米後の記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から、「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいたします。」(同書345頁)、との事前に提出のない質問に対し、天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えが出来かねます。」(同書346頁)と応えているとのことです。その上で、山本七平は最終章で次のように述べます。

 

(前略)・・「言葉のアヤ」とは、相手の質問について言っているように思われる。天皇は意味不明瞭で相手をごまかすことはされたことがない。それを考えると、これは問答で、相手は「・・・どのように考えておられるかお伺いします」と聞いているのだから「お答えしたいが、それを答え得るそういう言葉のアヤについては・・・」の意味であろう。これならば天皇が何を言おうとしたかはわかる。天皇政治責任がなく、また一切の責任もないなら、極端な言い方をすれば、「胸が痛むのを覚える」はずがない。さらに8月15日の戦没者慰霊祭に、痛々しい病後のお姿で出席される必要はもとよりない。しかし、「民族統合の象徴」なら、国民の感情と共鳴する感情を持って慰霊祭に臨まれるのが責任であろう。戦争責任が一切ないならば、その必要はないはずである。ただこれは、津田左右吉博士の言葉を借りれば、戦前・戦後を通じての民族の「象徴」の責任であって憲法上の責任ではない。そのことを充分に自覚されていても「文学方面はあまり研究していないので、そういう(ことを的確に表現する)言葉のアヤについては、よくわかりませんから、お答えが出来かねます」と読めば、天皇の言われたことの意味はよく分かる。注意すべきは「お答え致しかねます」ではなく「お答え出来かねます」である点で、天皇は何とかお答えたかったであろう。ここでもう一度、福沢諭吉の言葉を思い起こそう。「いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事」・・長崎市長の発言(昭和史によれば天皇が重臣の上奏を退けたために終戦が遅れた、天皇の責任は自明の理。決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった)を政争に利用するなどとは、もってのほかという以外にない。尾崎行雄は「まだそんなことをやっているのか」と地下であきれているであろう。それがまだ憲法が定着していないことの証拠なら、その行為は、天皇の終生の努力を無駄にし、多大の犠牲をはらったその「功」を、失わせることになるであろう。(同書348頁)

 

むすびにかえて

 

 以上、世代の異なる、また思いも異なる三氏の著を通して天皇の戦争責任を私なりに見てきたわけです。山本七平天皇の戦争・敗戦責任を先ず以って天皇の自己規定に立ち返り見て、その上でその責任論を問うています。氏が述べるように天皇の歴史的功罪を論ずるのは難しく、否、或いはいまだ早いのかもしれません。僭越な物言いですが、物事をとらえる氏の観察眼の鋭さの知性と共に、ある種のさびしさ、孤独感を私は感じます。そして、その度に私はいつも襟を正させられます。冒頭にも紹介したように本書「裕仁天皇の昭和史」は平成元年1月に著されたものですが、山本七平の一連の著作は今以て輝き続けている、と私は考えています。

 

 2015年11月23日

                            清宮昌章

 

 以上は二年前の投稿です。本論は変わりませんが、時間の経過もあり、加筆及び若干の修正をしました。近々、生前退位が行われようとしている現在、改めて本書「裕仁天皇の昭和史」を一読されることをお薦め致します。尚、山本七平の著作は私なりに読み通しておりますが、2017年7月に東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」が発刊されました。山本七平をより識る上でも、又、上記の長々と取り上げたことにも関連致しますので、以下、本書にも触れて参ります。

 

補論・東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」

 

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  著者は本書のプロローグで次のように述べています。

 本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。(13頁)

 

 尚、今回、私が取り上げた山本七平の「裕仁天皇の昭和史」(初版は昭和天皇の研究)を東谷氏は第七章「戦後社会と昭和天皇の研究」で取り上げています。少し長くなりますが、以下ご紹介致します。

 

 山本七平の『昭和天皇の研究』(祥伝社 1989年)を初めて読んだとき、かなり強い違和感をおぼえた。その前に前章で取り上げた『現人神の創作者たち』を読んでいたので、当然、展開されるであろうと思っていた天皇制への批判や憎悪が、ほとんどなかったことが何より大きかった。・・(中略)ところが『昭和天皇の研究』は、あっさりと昭和天皇立憲主義的な性格を受け入れてしまい、「現人神」の教義ゆえに生じた犠牲への責任は、示唆こそ合っても、まったくといってよいほど論じられていないのである。(212,213頁)

 

 続いて、著者は「昭和天皇の『二つの例外』を通じてあきらかなるのは、一度も正式に表明されたことのない『現人神』が政治の中心に押し上げられることで、政治制度がいつのまにか政策決定者たちが決断のできない欠陥制度に頽落していたことである。そして七平は明示こそしないが、昭和天皇の『自己規定』を称えながら、その半面である重臣たちの『政治責任の放棄』を示唆しているともいえるのである。」(234頁)、と記しています。そして7章を次のように記し終えています。

 

 問題はこうした立憲君主制天皇との関係が、戦後はどうなったということだろう。天皇は象徴とされ、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によるものになったことはたしかである。しかし、かっての「御内意」「御希望」「内奏」はなくなったのだろうか。

 そうではない。それはいまも宮内庁内にあり、しかも、それらが高度に発達した大衆社会に直接に公表されるという事態が生じている。いま国民が直面している課題は、この新しい事態が象徴天皇制に何を生み出すかを予測し、そしてその事態にどう対応していくかということに他ならない。

 いまの宮内庁は、かってなら庁内にとどめおかれた「御内意」「御希望」「内奏」に相当するものを、安易にマスコミを通じて「外」にさらす傾向が強まっているとの印象を持たざるを得ない。それは戦後の象徴天皇制の「変質」を招く危険性があるもので、実は宮内庁の職員が判断すべきものではないはずなのである。(238、239 頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私は考えさせられました。そして東谷暁氏は次のように本書を閉じています。

 

「人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、既に別の位置へと一歩進んでいるのである。人が『空気』を本当に把握し得たとき,その人は空気の拘束から脱却している。」これからの日本の運命は、この七平の言葉を、どこまで深く理解するかにかかっているのではないだろうか。(282頁)

 

 2017年11月1日

                            淸宮昌章

参考文献

 山本七平裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)

 山本七平「戦争責任とは何処に,誰にあるのか」(さくら舎)

 東谷暁山本七平の思想 日本教天皇制の70年」(講談社現代新書

 他

 

 
 
 

十川信介著「夏目漱石」を読んでみて

十川信介著「夏目漱石」を読んでみて

 

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はじめに

 

 私の書棚に「三木清全集19巻」、並びに「夏目漱石全集17巻」及び「月報が」鎮座しております。夏目漱石全集の第一巻・我が輩は猫である、は昭和40年12月9日発刊、そして19巻・索引 は昭和51年4月9日の発刊です。毎年の発刊を楽しみにしておりました。そして歳をとったら全巻を一気に読もうとしていたのですが、いまだに取り組めないまま今日に至っております。そこに昨年11月、「漱石没後百年記念」の一環として、近代日本文学を専攻される十川氏による掲題の本書が出版されました。私にとって、何か幸運が訪れたような気持ちになったわけです。加えて、三谷太一郎著「日本の近代はなんであったのか」が今年3月に出版されました。

 

序章 三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」

 

 三谷太一郞氏については、「淸宮書房」でも一昨年に、「学問は現実にいかに関わるか」、「人は時代にいかに向き合うか」を取り上げました。続いて昨年暮れには、「戦後民主主義をどう生きるか」を「高坂正尭と戦後日本」の対比で、私なりに述べてきました。三谷太一郎氏はご承知のように日本政治史における泰斗です。奇しくも十川信介氏と同年の1936年生まれです。 

 

   三谷氏は上記の本書「あとがき」に、次のように記されております。

 

 昨年人生80年を超えた私にとって、その50年を超える部分は、学問人生であります。必ずしも短いとはいえない学問人生をふりかえって、その間に達成した私の事業はあまりにも貧しく、誇るに足るようなものではありません。むしろ私にとっては、私の人生80年の方が、たとえ凡庸な人生であったにせよ、私が達成した最大事業であったという思いが強いのです。・・(中略)私は学問の発展のためには、学際的なコミュニケーションの他に、プロとアマのとの交流がきわめて重要だと思います。そのためにも、「総論」(general theory)が不可欠であり、それへの貢献が「老年期の学問」の目的の一つではないかと思います。(267~269頁)

 

 そして、英国近代について、まさに総論的考察を試みたウオルター・バジョットの「自然学と政治学」を本書の導入部に参考にしたと、記しております。加えて、三谷氏ご自身の大病後の回復期に、夏目漱石が1910年、修善寺で大患からの回復期について書いた「思い出す事など」を読んだなかで、感銘というか感慨を吐露されております。更に加え、当時の漱石が衰弱しているなか、仰向けに寝て、両方の肘を布団に支えながら、ウイリアム・ジェームスの最後の大著「多元的宇宙」を読み通して、次のように記しています。

 

 文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的な事実を土台として、類推で哲学の領域に切り込んで行く所を面白く読み了つた。・・・自分の平生文学上に抱いてゐる意見と、教授の哲学に就いて主張する所の考えとが親しい気脈を通じて彼此相寄る様な心持ちがしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がす様な勢いで駆け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのかは此時である。(270,271頁)

 

 全くの門外漢の私で、誠に僭越になるのですが、三谷太一郞氏の表現された「凡庸の人生・・・」、そして氏が夏目漱石の上記引用をされたことに私は感銘を受けた次第です。私がこの8月で喜寿を迎えたことも感銘・共感の要因のひとつかもしれません。

 

本題 十川信介夏目漱石

 

 著者はその「あとがき」で、以下のように述べています。

 

 漱石夏目金之助の生涯は、大部分が明治時代に属するが、その始まりは慶応、終わりは大正である。とくに出生期が短期間とはいえ、江戸時代だったことは、小谷野敦が言うように、考慮する価値があろう。明治も十年代までは。「文学」も漢詩文・和歌俳句が優勢だったからでる。彼は少年期には漢詩文を好み、晩年に至るまでそれを捨てなかった。いわば彼の精神には、文明開化による西洋的論理性の下に、すでに「江戸的」な感性が宿っていたことになる。・・(中略)青年期の初めには、「個人」思想が輸入され、拡がった。養家と実家の間で宙ぶらりんだった塩原金之助は、帰属すべき場所を持たない「一人」と成り、「個人」として生きざるを得なかった。だがその意識が強すぎた彼は、結婚後、自分の家族もまた、それぞれ「個人」だという意識を持つには時間を要した。(299頁)

 

 更に、著者は漱石を厳密に言えば、江戸っ子というより出生地は牛込の馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)であり、生後すぐに江戸は東京になるのだから「東京人」と考えるのがふさわしい、としています。いずれにもせよ谷崎潤一郎がのちに述べるように、漱石は江戸っ子人の類型をもっていたのでしょう。世渡りが拙いことは別として、正直、潔癖、お世辞嫌い。しかし学校では秀才、大学教師としても小説家としても成功し、知人からは頼まれたことは可能なかぎり引き受け、感謝された。もちろん彼はそんな評判を無視し、いつも与えられた現在の職務に忠実であった。だが彼はそれに満足できず、突然の様に変心し、職を変えることがあった。彼の心の中には、つねに現状に満足できない強い欲求が潜んでいたようだ。そんな夏目漱石の生涯と生活ぶりを著者は辿り、漱石の作品と現実の人物との関連を見事に織り込みながら記述されていきます。

 

 方や、私は十川信介氏の著書を借りながら、漱石の作品に漱石の育った環境、並びに出会った友人達との遭遇がどのような影響を及ぼしたのか。加えて漱石の一連の作品を私なりに時系列的に整理、そして、ひとつの私の記憶として残しておこうと思ったわけです。著者の本書の意図もしくは内容とはだいぶ離れたものです。毎回のことですが著者の文章を引用させて頂きながら、私なりに記しております。従い本書を知るためには、その帯書に「漱石の生涯を描く決定版評伝」と、書かれておりますが、私もなるほどと僭越ながら思ったところで、本書をご覧になることをお薦め致します。

 

 尚、本書は第一章「不安な育ち」、そして最終章の第十五章「晩年の漱石とその周辺」から成り立っております。以下、私なりに綴って参ります。

 

1.出生と、めまぐるしい教育過程

 

 金之助が生まれたのは、牛込馬場下近辺十一ヶ町の町方名主の父が50歳の時で、病死した先妻の間に姉二人が既におり、実母の間には6人の子供が生まれており、金之助は末っ子の五男であった。実母の乳の出が悪く、早々に里子に出された。姉が里子先の古道具屋の店先に、籠に入れられている彼を見て、可哀想だと引き取った話はよく知られている、とのことです。そして夏目家と親しかった塩原昌之助、やす夫婦の養子にだされます。後に塩原は別な女性の所に行き、やすと金之助の二人の生活が続き、結果的には塩原夫婦は離婚をします。そして金之助22歳の第一高等本科の時、前年に長兄、次兄が結核で相次いで亡くなったこともあり夏目籍に戻ります。養父、実父との間に夏目籍に戻る際、金銭的な問題も生じた、とのことです。

 

 塩原養家の時代、夏目家から、明治7年の暮れから9年5月までに下等小学校四級を終え、市ヶ谷学校三級に転校、10年12月には下等小学校一級を卒業。続いて11年4月に8級を卒業。そして同年10月には神田の錦華学校小学校尋常科第二級を卒業します。明治のこの時代は学制がめまぐるしく変わり、小学校は上等、下等に分れ半年が一期でそれぞれ8級から1級まであった。飛び級があったとはいえ、家族的愛情を受けなかった金之助が優秀な頭脳を持ち、如何に勉強に打ち込んだ証左でもあります。そうした家庭環境も漱石の作品に表われていきます。小学校を卒業した後、東京府第一中学の正則科乙に入学。そして2年あまりで突然退学し、二松学舎に転校し漢学を学ぶこととなります。そして中学卒業の資格のない彼は神田駿河台の私立成立学舎に入り、首尾よく大学予備門(第一高等中学)に合格します。成立学舎以来の生涯の親友、後の満鉄総裁中村是公、並びに23歳の時、高等中学本科にて、正岡子規と出会うことになります。「漱石」の雅号も子規の多数持っていた「雅号」をもらい受けたわけです。

 

2. 子規との交友

 

 金之助は自分の内心まで報ずるほど、子規を信頼していたからなのですが、著者は二人の間に三つの対立点を挙げます。一つは文章の本質、第二は森鴎外の初期作品についての評価、第三は「明治豪傑ものがたり」に関する季節論。文章の本質について私は興味深く思い、以下ご紹介致します。

 

 漱石が「文章の妙は胸中の思想を飾り気なく」直述する点にあり、思想もなく「只文字のみを弄する輩」はもちろん、「思想あるも徒に章句の末に拘泥して」いては、読者を感動させることはできない。「文字の美章句の法」は末の末であり、ideaを中心にしなければならない、と説き、「御前」のように書きまくっていてはイデアを養おう暇もないだろう、少しは「手習い」を休んで読書に励んではどうか、と忠告したのに始まる。子規はRhetoricの語によってこれを攻撃したらしい。彼はそのレトリックによってアイデアが現れると考えたのであろう。(21,22頁)

 

 そうした交友の中、24歳の漱石帝国大学文科大学英文科、子規は国文科に入学します。その後、漱石は文部省貸費生となりますが、できるだけ実家に依存せず早稲田に出講し、自活の道を選びます。尚、大学二年の時、突如、分家して北海道平民となります。軍隊嫌いのこともあるようですが、彼が永眠する大正三年まで北海道を本籍とします。身内と反りが合わず、孤独な彼は戸籍の上だけでも「個人」として生きたかったのではなかろうか。そうしたことは作品「道草」の中でも見られると、著者は記しています。

 

 27歳の大学院卒業後、東京高等師範学校(高師)を勤めますが、それを辞任する前年に初期結核になり、病気を気に病む28歳の漱石は夏休みに鎌倉の円覚寺・帰源院での座禅することになります。管長の釈宋演から与えられた公案は「父母の未生以前本来の面目」でした。その公案は後々まで漱石の心に根付き、晩年の「去私則天」に繫がっていきます。尚、釈宗演とは漱石の葬儀に導師となる巡り会わせです。

 

 そして、29歳漱石は子規の故郷、愛媛松山中学の英語教師として赴任。そこで日清戦争従軍記者として従軍していた子規が帰国し、漱石はその療養中の子規を迎え、同居。漱石の下宿先の一階が子規の俳句のたまり場となり、漱石も句会に参加するわけです。その後、病み上がりの子規は帰郷しますが、その当時の子規の句が周知の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」です。続いて、30歳の漱石は熊本第五高等学校赴任。そして中根重一の長女鏡子と結婚。そのときの子規の結婚祝いの句が「秦々たる桃の若葉や君娶る」。尚、五高で教えた最初の学生は寺田寅彦です。そこに五高に奉職中、文部省より英国の留学指令を受け、34歳の漱石はロンドンに旅立ます。その時の子規の送別の句です。

 

 萩`すゝき来年あはむさりながら 

 

 漱石の二年間のロンドン留学中、子規が死去します。そしてロンドンでシェイクスピア学者で変人でもあるクレイグの個人指導を1年近く受けながら、下宿を度々変えます。漱石の孤独の生活が始まるわけです。著者はそのときの漱石の心境を次のように記しております。

 

 クレイグは学殖豊かな一流の学者である。だが彼は、日本人がどのように英文学に向かうべきかを教えてくれなかった。漱石の悩みは、細かな字句の使用法よりも、日本人の自分が異国の文字とどう対するべきかにあった。この年の十月、彼は金銭的事情もあったが、正面からこの難問に対するべく、クレイグの教えを断ることに決めた。(72頁)

 

 このロンドン留学中、味の素を発明した池田菊苗、さらには土井晩翠とも数ヶ月ですが同じ下宿先での交流があったのです。この頃に文部省から、かの有名な電報「夏目、精神に異常あり、藤代同道帰国せしむべし」は誰によるものか、その原因かは不明のようですが、夏目がそれに近い状態の神経衰弱であったことは事実です。

 

3. 帰国後の漱石、そして東京帝大での授業

 

 英国から帰国した37歳の漱石は一高及び東京帝大文科大学に就任します。大学で週六時間、一高で三十時間を担当。尚、大学での講義は小泉八雲(ラフカデイオ。ハーン)の後任の形で、後の二人は7歳下の上田敏とイギリス人宣教師アーサー・ロイドです。尚、一高の学生の中に最年少の学生で、華厳の滝に投身自殺をした藤村操がいます。予習をしてこない藤村を漱石は叱ります。その後、遺書の「巌頭の感 万有の真相は唯一言にて悉す。曰く不可解・・大いなる悲観は大なる楽観に一致する」を知ります。漱石の考えと一致しており、自分の叱責が原因ではないと、漱石は安堵を覚えたようだ、と著者は記しています。後に、漱石新体詩「水底の感」を藤村操女子の名で作ります。

 

 尚、鏡子婦人との間に長女筆子、次女恒子、三女栄子、四女愛子、五女雛子(幼児で急死)長男純一、次男伸六が生まれますが、その結婚生活は鏡子の自殺未遂、別居、義父宛てに離縁状の差し出し等々、波乱に富んだものでした。漱石の精神状態は最悪の時もあり、彼の心は幻覚・幻聴に支配され、その全ての原因は鏡子にあるように思われていたらしい。その「狂態」は鏡子の回想に詳しい、とのことです。その中で「我が輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」等々を発表しながら、文学志望の弟子達の集まりである木曜会を始めます。その木曜会には寺田寅彦、野村伝四、森田草平等々が集い、気の置けない連中との息抜きの時間でもあった。そして晩年になるほど彼は癇癪を起こさなくなり、和辻哲朗他も入門、特に芥川龍之介久米正雄らには優しかった、とのことです。

 

 漱石は41歳で帝大を辞し、朝日新聞の小説記者と転身して、「虞美人草」、続いて「抗夫」、「三四郎」、「それから」への連載が続きます。加えて、朝日文芸欄を創設します。主な執筆者は漱石安倍能成森田草平、阿部次郎、小宮豊隆の他知人、教え子で漱石45歳でまで続きますが廃止となります。

 

 方や、連載は44歳の「門」、そして胃潰瘍を煩い退院後、療養先の修善寺菊屋旅館で一時危篤状態に陥ります。そのときの状況等を記した連載が三谷太一郎氏の挙げた「思い出す事など」です。その後「彼岸過迄」、「行人」、「心 先生の遺書」そして「硝子窓の中」と続き、「明暗」になります。「明暗」の連載は1884回を以て、50歳の漱石の死去で中絶します。尚、45歳の時、文学博士号辞退の事件が起こります。そのときの正面切っての辞退の漱石の言葉が以下の文面です。

 

 小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りました。是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのです。

 

4. 死の床の漱石

 

 大正5年、漱石最後の年、新年の迎えた感想を「点頭禄」を表わします。著者は次のように記しています。

 

 「振り返ると過去が丸で夢のやうに見える」。彼は数え五十歳になった。人生わずか五十年と考えられた時代である。過去は「一つの仮象にすぎない」とも思われるし、現在のさまざまな思いは、「刹那の現在からすぐ過去に流れ込む」のだから、同様に現在は瞬間に未来を生み出すものでもある。しかし、それを認識するのは「我」であり、「我」がすべての現象を「認識しつつ絶えず過去へ繰り越してゐる」と思えば「過去は夢所ではない」。明らかに一刻一刻の「我を照らしつつある探照燈のやうなものである」と彼は考える。生きることに対するこの「二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して」、この「一体二様の見解を抱いて」、自分の全生活を「大正五年の潮流に任せる覚悟」で、眼前に展開する月日に対して「自己の天分の有り丈を尽くそうと思ふ」。これが念頭に当たっての彼の所感である。彼はこれまでも全力で生きてきたが、この表明には、どこか最後の灯を掻き立てるような決意が表われている。(264頁)

 

 そして、その年の11月22日、胃潰瘍が再発し、漱石の希望で松山中学時代の教え子の真鍋嘉一郎が主治医となり、鈴木三重吉森田草平小宮豊隆らが交代で夜番、修善寺で頼んだ老練な看護婦も介護に着ます。12月9日、そして中村是公高浜虚子他友人、妻子、門人に見守られ、漱石は「有難う」の言葉を残し旅立ちます。「彼の強情だが真実を貫く気持ちが周囲に理解されていたからだろう。」と著者が記しています。葬儀は12日、青山斎場で行われ、導師は例の円覚寺の管長・釈宗演です。戒名は文献院古道漱石居士、墓は雑司ヶ谷の墓地。著者は本書の最後に以下のように記しております。

 

 「生死を透脱する」ことが彼の願いであり、「死が僕の勝利だ・・・死は僕にとりて一番目出度い、生の時に起こった、あらゆる幸福な事件よりも目出度い」と大正三年秋ごろから、彼は弟子たちに語ったとう。生は苦痛に満ちているのに死の世界にはそれがないからである。死は万人に訪れるものであって、それを回避することはできない。だがその関を超えれば、肉体は消滅してもその意志は残り、万人に働きかける。それが漱石の到達した最後の結論だった。

 

 臨終間際に娘たちが涙を流したとき、父漱石はやさしく、もう泣いてもいいんだよと言ったそうだ。彼はしばしば子供たちにも怒りをぶつけ、泣くなと怒る人物だった。筆子は父の不合理な怒りに泣くと、そのことでまた泣くなと叱られていた。死に際しては彼は本来の持ち前を表に出し、優しい本性を示すことができたのである。(294頁)

 

 2017年8月19日

                           淸宮昌章

 

参考文献

 

  十川信介夏目漱石」(岩波新書

  三谷太一郎「日本の近代とは何であったか」(岩波新書

  他