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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思著「反・民主主義論」他を読んで思うこと

自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後 世相に思う

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佐伯啓思著「反・民主主義論」他を読んで思うこと

投稿にあたって

 

 確かに異質とも言えるトランプ大統領の出現は日本を含め、今後の世界情勢に大きな影響を与えることは事実でしょう。加えるなら第一次世界大戦以降、連綿と続けてきたアメリカの歴史観にも影響があるのか、ないのかも、考える必要があるのかもしれません。

 

 一方、中国が中華大国への復活をはかるべく、急速に軍事力の拡大しております。陸海空、宇宙、続いて南沙諸島等における一方的な軍事基地の新設。そして中国の核心的利益と称し、中国船舶、航空機による尖閣諸島への異常な接近という現実に日本は直面しているわけです。従い、先日、来日したマテイス米国国防長官、並びに安倍晋三首相の訪米時のトランプ大統領との共同記者会見で明らかにされた、尖閣諸島日米安保条約第5条が適用されるとの発表に、共産党は分りませんが民進党他野党も、われわれもひとつの安堵感を覚えたのではないでしょうか。

 

 因みにこの第5条は重要で、米韓相互防衛条約第三条を比較し合わせ、以下紹介致します。

 

日米安保条約5条(前段)

 

 各条約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方の対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 

米韓相互防衛条約第3条(一部略)

 

 各締約国は、(中略)いずれかの締約国に対する太平洋地域における武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の手続きに従って共通の危機に対処するように行動をすることを宣言する。

 

 (注)上記条文は2017年2月23日、日経新聞・経済教室の添谷芳秀慶応大教授からの引用

 

 そうした現状、日本の置かれた状況は私も理解するのですが、何か釈然としないものが残るのです。果たして我が国は主権を持った独立国家なのだろうか。改めて国とは何か。我が国の憲法とは何か。さらには国会討議に意義が見られない現状。加えてマスメディア並びに民進党他が声高に叫ぶ民主主義とは何か。そうしたことを根本的に再検討すべきではないのか。

 

 そうした想いが錯綜しております。今から3年前になりますが、弊著「書棚から顧みる昭和」の中で「戦後の民主主義と正義」を取り上げました。そこで長谷川三千子氏の「正義の喪失」をご紹介致しました。私が尊敬する学者ですが、今回も同氏の「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」を読み通したところです。折口信夫橋川文三太宰治三島由紀夫等々による敗戦精神状況を語るひとつの日本人の精神史です。方や、昨年7月に佐伯啓思氏「日本の愛国心」を本ブログで紹介致しておりますが、同氏の「反・民主主義論」他も読み進めてみました。今回はその「反・民主主義論」を中心に私の日頃の感想などを交え、紹介したいと思っています。

 

佐伯啓思著「反・民主主義論」他

 

はじめに

 

 佐伯啓思氏は本書に先立ち「反・幸福論」、「正義の偽装」、「さらば、資本主義」、「20世紀とは何だったのか」、「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」等々も著わしております。幅広い研鑽のもと、透徹した洞察力と共に平易な文章で物事の本質を鋭く説く、いわば思想家です。改めて私自身の曖昧な観点、至らなさを痛感させられました。

 

 本書のまえがきで、2015年から16年にかけて、起きた世界的現象とも言うべき「民主主義」の意味合いを問いかける事象が起きた。トランプ現象も然り。日本でも2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法戦後民主主義も戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、わたしなりの見解を示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろう、と述べています。印象に残る「まえがき」です。

 

 本書は第一章・日本を滅ぼす「異形の民主主義」 第二章・「実体なき」空気の支配される日本 第三章・「戦後70年・安倍談話」の真意と「戦後レジーム」 第四章・摩訶不思議な日本国憲法 第五章・「民主主義」の誕生と歴史を知る 第六章・グローバル文明が生み出す野蛮な無差別テロ 第七章・少数賢者の「民本主義」と愚民の「デモクラシー」 第八章・民主主義政治「文学」 第九章・エマニュエル・トッドは何を炙り出したのか 第十章・トランプ現象は民主主義そのもの そして、あとがき から構成されています。今回もその全体を紹介するのではなく、私が深く共感したところ、改めて認識させられたこと、を切り取り、記して参ります。

 

戦後日本の陥穽

 

 第一章・日本を滅ぼす「異形の民主主義」で、全てが日本国憲法という印章の前で思考停止になる。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、そこで思考停止になった。戦後はそれが「憲法」に変わっただけで、「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう、と述べます。戦後憲法は厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになりかねない。そこで事実上、日本の防衛を担ったのは米軍であった。日本の戦後の平和はただ憲法9条によって可能だったのではなく、それ以上の米軍による抑止力にあった。これは憲法についての大きな欺瞞で、平和主義を唱えつつも、実際にはその背後にアメリカの軍事力を配置したのである。

 

 1. 「国を守る」とは何か。

 

 戦後を代表する護憲派の政治学者の丸山眞男は、日本があの誤った戦争に突入したのは、日本が天皇制にもとづく前近代的で非民主的な国家であったからだと、いいました。日本は、ホッブスから始まる西洋近代国家の契約的な論理を体現していなかった、というのです。そこに日本の誤りがあった。だから。戦後日本は、西洋近代国家の民主政治を徹底して導入しなければならない、というのです。(23頁)

 

 非武装の平和主義こそ理想だと見なし、その平和主義と民主主義こそ戦後日本の最も誇るべき価値だといった。しかし、西洋近代国家の論理のどこをどうたたいても、どうひっぱたいても、民主主義と平和主義を等価値にするような論理は出てこないのです。むしろ民主主義と国民皆兵が親和的なのです。(25頁)

 

 そして、佐伯啓思氏は「従属国家論」の中で、近代国家は主権によって動かされます。そして、主権者の役割は何よりもまず国民の生命・財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命・財産を守らなければなりません。そして主権者が国民ならば、国民は自らの手によって彼ら自身の生命・財産を守らなければならない。これが道理というものでしょう。(従属国家論132頁)、と指摘しています。国を守るという視点・施策を提言しない日本の現野党、さらには知識人と称される一部の方々の深刻ぶった正義論に、私は少なからずの憤りを感じているのです。

 

 2.戦後70年とは何か

 

 何よりもまず「アメリカへの自発的な従属」であった。戦後はあの戦争の敗戦から始まった。敗戦により日本はアメリカに占領され、そのもとで非軍事と民主化が行われ、平和憲法もこの占領期に作られた。戦後日本の現実から出発すれば、日本の防衛はアメリカに委ねるほかなかった。

 

 その枠組みの中で、もっと日本が防衛に主体的に関わろうとすれば、安倍首相の「積極的平和主義」のように日米関係をいっそう強化することになる。すると、それは日本のアメリカへの従属をいっそう強め、自主防衛からますます離れるのです。これは大きなデイレンマで、ここに解決策を提示できるものではありません。しかし、ここに「戦後」の大きな問題があることを知っておく必要はあります。「国を守る」ということの原則はどこにあるのか、ということはやはり知らなければならないのです。(33頁)と記しています。

 

 3.「戦後」は、いつから始まったのか。

 

 同氏著「従属国家論」において、次のように記しています。

 

 1945年8月15日は、1963年、池田内閣の時の「全国戦没者追悼式実施要項」により終戦の日となり、いわゆる終戦記念日の正式名称である「戦没者を追悼し平和を記念する日」が正式に決定されたのは、1982年、鈴木善幸内閣においてであった。1945年8月15日は敗戦の日である。その年の9月2日、横須賀沖で、アメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏調印。1952年4月28日に、全面講和ではないが、アメリカを中心とする西洋諸国との間でのサンフランシスコ講和条約により、戦争終結国際法的な意味で戦後が始まっている。1945年8月15日から1952年4月28日までは、日本はGHQ(実質はアメリカ)の占領下にあったわけです。加えて、講話条約締結と同時に日米安全保障条約が締結されたのです。尚、その占領期間の1948年5月に日本国憲法が制定されました。

 

 では、何故に8月15日は「終戦」記念日なのか。そこにはひとつの欺瞞が込められており、その日はポツダム宣言を受諾して「敗戦」を認めた日なのです。

 

 「アメリカから見れば、日本は敗戦国以外の何ものでもない。ポツダム宣言を受諾させ、戦争を終わらせたのはあくまでアメリカなのです。(中略)ところが、日本の国内では、天皇が『耐え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平をひらかんと欲す』として、自らの決断によってポツダム宣言を受け入れた、ということになる。」(同書84頁)

 

 4.終戦という言葉が意味するものは。

 

 おそらく、大半の日本人は8月15日の時点では、日本人は軍事力でアメリカに負けた、と思っていたのではないでしょうか。一方、終戦の詔勅が出され、多くの者は、戦争が終わってホッとした。さらには、あの無意味で残酷な戦争が終わり喜んだ、ともいわれる。そしてその軍事力の敗北が、いつのまにか「道義的な敗北」へと変わっていきます。日本は世界を相手に侵略戦争という誤った戦争をした。さらには、誤った戦争をしたからこそ、この戦争に敗れたのだ、という了解が出てくる。そしてそれを引き起こしたものは、戦前の日本の独特の社会構造や価値観にあった、ということになる。そして「敗戦」が当然のこととなり、道徳的な愚行にでたから負けた、むしろ「敗戦」により日本は救われたのであり、「敗戦を噛みしめる」どころか、ジョンダワーの「敗戦を抱きしめて」にかわっていく。すなわち普通の意味での「軍事的敗戦」が「道徳的敗戦」に変わっていく。それこそ、アメリカの占領政策の目的だった、と記しています。

 

アメリカの占領政策の元になっている戦争観・歴史観

 

「反・民主主義論」の第三章で、以下のように論を展開します。

 

 アメリカの戦争観・歴史観は、ある意味で一貫しているのです。それは、一方でアメリカが自由、民主主義、人権などを奉じる「理念の共和国」である、という事情によるものであり、もう一方では、アメリカ国民の精神の底流をなしているユダヤキリスト教の影響が強いからでしょう。

 一方で、多様な人種や異なる背景を持ったアメリカ国民をまとめるものは、自由や民主主義という「普遍的価値」しかない。だからこれは「正義」だという。そして他方で、アメリカ国民の精神の核になるものといえば、ユダヤキリスト教的なユートピア思想であり、終末論なのです。「ユニバーサリズム」と「メシア二ズム」です。それがアメリカを支えている、といってよいでしょう。アメリカ的歴史観はそこからでているのです。(中略)ポツダム宣言も基本的にはそのような立場で書かれていた。だから、あの戦争はアメリカにとっては道徳的な意義を帯びたものであり、正義の戦争であった。東京裁判で示されたように、それは「文明を守る戦い」とみなされた。日本は、この文明を蹂躙し、「平和に対する罪」を犯した。戦争指導者は、ただ戦争の責任を問われるのではなく、犯罪人なのです。この戦争は、ただ国際法違反というだけでなく、道徳的にも批判されるべき犯罪だ、というのです。

 

 そして、日本は、7年近くに及ぶ占領政策のもとで、この考えをすっかり受け入れた。重大な戦争犯罪人巣鴨プリズンに収監されましたが、占領政策とは日本全体を矯正施設に収監したようなものです。(68、69頁)

 

戦後70年・814日の安倍談話

 

 戦後レジームからの脱却を目指していた安倍首相ですが、昨年8月の「戦後70年談話」は果たしてどんなものであったでしょうか。佐伯氏はその談話の趣旨を以下のように記します。

 

 19世紀は西洋列強によるアジアやアフリカに対する植民地支配の時代であった。日本は近代化の推進によって、この植民地主義に抵抗し、独立を保持した。しかし、第一次大戦の悲惨を経験した後、西洋は、戦争の違法化と国際協調の方向へ向かった。特にアメリカのウイルソン大統領の理想主義は、世界の民主化民族自決を訴え、世界の潮流は「平和」志向へと変わっていった。ところが日本はこの変化を読み取ることができず、新しい「国際秩序」への挑戦者となった。そして日本は敗戦した。戦後はその反省に立ち、国際社会に復帰し、平和主義のもとで誠実に国際秩序の形成に貢献してきた。(60頁)

 

 これはまぎれもなくひとつの歴史観です。安倍首相が言い出したわけでもなく、戦後日本の「公式的な歴史観」であり、歴史(ヒストリー)がどこまでいっても物語(ストーリー)だとすれば、これは戦後日本の「パブリック・ヒストリー」であり、「パブリック・ストーリー」なのです。この歴史観に含まれている重要な含意は、国際社会は平和的秩序を目指している。かっての日本は、国際社会において孤立し、それが悲惨な結果を招いた。(中略)わが国の生存は、この平和を実現しようとしている国際社会を信頼し、そこにおいて貢献することである。安倍首相の唱える「積極的平和主義」もそこからでているのです。(61頁)

 

 これは左翼的な一国平和主義とは一線を画することは事実ですが、安倍首相が脱却を訴えていたはずの「戦後レジーム」そのものなのです。それを生み出したものは、上に述べたようにアメリカの占領政策であった。佐伯氏の主張したいことは安倍首相の談話は、よく練られた談話であることは評価しているのです。しかし、日本は20世紀に入って道を間違え、錯誤の道を突き進んだとする、「そのような面があることは否定しませんし、今日、われわれは、偉大な明治と道を誤った昭和、という司馬史観ともいわれる歴史観をしばしば開陳します。しかし私には、もっとも基本的な歴史の道筋は少し異なって見える。もしも昭和の対米英戦争が間違っていたというなら、それは明治維新に始まった。いや長州の攘夷に始まった。さらにいえば林房雄が述べたように、1852年の異国船打払令から始まった、といっておきたいというのです。」(74頁)そして、第3章を次のように閉じています。

 

 70年も立てば、「戦後レジーム」からの脱却を唱えていた安倍首相の談話によって、本当に「戦後レジーム」が完成してしまったのです。別に安倍首相を難じようというのではありません。それこそが「戦後日本」だったのです。日本人の思考様式が「アメリカの歴史観」のなかに溺れつくす。ということです。

 

 それに多少でも抗いするものがあるとすれば、それは70年前、日本には日本の道義があり、それが不完全で独善的であったとしても、その道義のために悲惨な戦いを経験し、語るのも無残な死へと追いやられた無数の死者たちの思いを引き受けるという以外にはないでしょう。(76,77頁)

 

 皆さん、如何思われるでしょうか。私のアメリカの駐在時代でしたが、1979年に吉田満著「鎮魂戦艦大和」(戦艦大和ノ最期)に偶々、出会いました。大きな衝撃と感動を受け、そして氏の著書を次々と読み続けました。その中のものですが、「戦中派の死生観」、「散華の世代から」を今回、改めて読み直すつもりです。

 

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日本国憲法とは

 

 第4章で、2015年9月19日未明に安全保障関連法が参議院で可決成立したことに関連して、著者は以下のように記しています。概略しますと、

 

 国会内外で近年では珍しい激しい対立が起きた。賛成派はその法案は「国を守る」ためには不可欠だといい、反対派は憲法を守れ、9条を守れ、の大合唱。いわば「国を守れ」と「憲法を守れ」との激突です。しかし、国がなければ憲法はなく、また憲法は国のありようを規定したものですから、そもそも、このふたつが対立するはずのないものです。摩訶不思議な現象といえるのではないか。いずれにもせよ、憲法学者が、集団的自衛権憲法違反である、と主張したことが反対運動を盛り上げた決定的な要因であった。実際には、護憲派とは、憲法そのものを守れといっているのではなく(もし、そういったなら、96条に基づく改正も「護憲」のなかに入ってしまうのですから)、憲法改正に反対する政治的運動にほかならない。民主主義であれ、平和主義であれ、自らの信条を政治的に実現するために憲法を持ち出しているのである。

 

 加えて、護憲派憲法学者は、憲法という神聖にして侵すべからざる最高法規を持ち出してきて、「これは必ず守らなければならない」ということで、ある政治的価値を選択している。「法」が「政治」に対して優位に立つ、といいながら、そのことを政治的に実現しようとしている。憲法の幹になる、幹か枝葉の妥当性は別にして、日本国憲法の場合、幹になるものは、国民主権、平和主義、基本的人権保障の三原則であって、その三原則は変えてはならない。したがって、9条平和主義は改正不可能だ、ということ。そして結局のところは、「憲法憲法であるがゆえに守れ」といっているのではなく、憲法を成立させた価値を守れ。憲法とは、近代社会を主導した「人間の人格的尊重」という政治価値を実現するものである、ということなのです。 即ち、彼ら護憲派学者はある特定な価値を選択しているのであり、それは近代の政治的価値を絶対的なものとして選択し、擁護しているのであって、一つの政治的立場へ深くコミットしているのです。

 

 その上で、佐伯氏はこの第4章の最後に,以下のような考えさせられる文章で閉じます。

 

 西洋にあっては、憲法の制定そのものが政治的行為であり、王権を打破し、市民政府を作るという政治的行為に正当性を与えるものだった。そして王権(世俗的・政治的権力)よりも基本的人権をより上位におくために、「自然権」や「神」や「古来の国制」といった権威を持ち出してきた。それが日本にはありません。ただただ、基本的人権の普遍性といっても、それを根拠付けるイデオロギーとしての「神」も「思想」もない。そうだとすれば、日本ではそれは衰弱した政治的スローガンにしかならないでしょう。日本は、日本の歴史や文化に即した独自の憲法を構想するほかないのです。(98頁)

 

民主主義とは

 

 1.民主主義の意味

 

 第5章以下で民主主義とは何を意味するのかを展開していきます。まず、デモクラシーという言葉はあくまで「民主政」という意味で使うべきで、それに特に良いも悪いもない。長所もあれば欠陥もある。議会主義の民主政は現にわれわれが採用しているルールであって、それだけのこと。にもかかわらず、それを「民主主義」と呼び変えて、そこに崇高な理想を持ち込み、ある種の情緒的な神聖化を行うと、たいへんにやっかいなことになる。

 

 民主主義という概念の心臓部にはある範囲のものを等しきものとする「平等」という理念があり、と同時にその範囲外のものは排除する。そして現実の今日の民主主義の同質性原理は国民的な同質性で、あくまでひとつの国の政治的意思決定以外の何ものでもない。ここでは国民的な同質性が「人としての同質性」より上位におかれる。即ち民主主義とは、実はこうした他者排除と自国民の同質性の優越に基づくもので、自国中心主義を前提としているのである。

 たとえば日本国憲法の三原則である基本的人権保障、民主主義(国民主権)、平和主義は三位一体である、といわれる。しかし、現実に、同一の国民にしか政治参加は認めらない。普遍的人権の絶対性などといいながら、実は国民原理に基づいた差異化が公然と行われている。

 

2.自由な討論・議論

 

 しばしば民主主義は自由な討論や議論から成り立つといわれるが、全ての利害関係者が一堂に会することは物理的にも不可能で、議会が構成される。自由な議論は民主主義というよりも、まずもって議会主義の原理なのです。そして議会でさえも十分な討議ができないときに、自由な討議に基づく民主主義などあり得ません。その議会が機能しないということは、見識ある政治家を人々が選出できなくなっている、ということなのです。あるいは社会の側にまともな政治家を育てる意思がないということです。

 

 3.ポピュリズムと知識人

 

 かってのギリシャ人にとって、デモクラシーは、一方で、極めて不安定な政治体制でした。それは大衆迎合デマゴーグを生み出す「劇場型政治」でした。政治を動かすものは大衆の情緒や気分や情念であり、政治家は人気をうるために大衆の情緒を動かそうとした。今日のポピュリズムにほかならず、それは決して民主主義の逸脱形態などではなく、むしろ民主主義の本質なのです。今日のアメリカのトランプ現象然りです。

 

 そうした現状にあって、佐伯氏は知識人の反政治的なエートスを次のように指摘します。

 

 即ち、たいていの知識人は、反政治的であることを誇りにしている。政治などに関与したくない、という。それは政治とは権力の行使であり、少数者を抑圧するものだ。知識人とは、少数派の側に立つべき存在で、そこに知識人の良心がある、との観点です。

 

 こういう傾向は、戦後日本のいわゆる進歩派的知識人には圧倒的に強かった。いやそれこそが戦後日本の進歩派やリベラル派の一大特徴であり、それが日本の「戦後民主主義者」だったのです。そして、これほど奇妙な反政治主義はめったにないでしょう。反政治を掲げた政治。それが戦後日本の政治のど真ん中にいすわったのです。

 戦後日本の政治とは何といっても民主主義だったからであり、民主政治とは、決着のつかない、もしくは正解のみえない課題に対して、いかに自らの正当性を訴えて数を確保するかという競争にほかならからです。

 もちろん、政府の意思決定に反対する知識人がいることはまったく問題ないどころか、当たり前のことです。それが自らの言論を押しだすことも当然です。しかし、ここでいう進歩派知識人のもつある種のスタンス、あるいはプリコンセプション(思い込み)は、そういうものではありません。民主主義を反権力的なものとして持ち上げ、言論を政府と対立させるという傾向は、政治という観点からして不健全であるだけでなく、知識人として不健康なのです。(167頁)

 

 如何でしょうか。日本ばかりではないでしょうが、大衆は実体なき空気に大きく影響・支配されるのが現実で、そうした知識人に大きく影響されるのです。私は昨今のマスメディアに登場する、そうした識者と称する方々を見ていても佐伯氏の指摘に共感を覚えるのです。

 

おわりにあたり

 

 そして、佐伯氏は以下のように述べ本書を閉じています。

 

 自由を絶対化したとたん、それを限定する規範や道徳律はただただ自由に対する無用な制約としか見なされません。平等を絶対化すれば、平等を限定する差異や多様性の承認は忘れ去れ、権威は平等に対する障害とみなされるでしょう。権利はその背後にある義務の観念を忘却しようとするでしょう。己に対する制約を失った自由や平等の権利の観念から成り立つ民主主義が機能不全に陥るのは当然でしょう。誰もが自己の権利を主張し、それに対する障害にぶつかれば、それを批判、攻撃する自由を持ち、平等の名のもとに他人の足をひっぱることに喜びを覚えるような社会は、民主主義であれ何であれうまくゆくはずはありません。しかし、今日の自由・民主主義はまさにこの種のものになり下がりつつあります。

 

 われわれはそろそろ自由や民主主義の就縛から解き放たれなければどうにもならないでしょう。いや、自由や民主主義そのものが悪いとか無意味だといっているのではなく、それを絶対的な正義とみなすという自己就縛からさめるべきだ、といっているのです。(195,196頁)

 

 2017311日

                           淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思「反・民主主義論」(新潮新書)

 同   「さらば、資本主義」(同上)

 同   「反・幸福論」(同上)

 同   「正義の偽装」(同上)

 同   「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書

 同   「20世紀とは何だったのか西欧近代の帰結」(同上)

 長谷川三千子「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」(中公文庫)

 福沢諭吉文明論之概略」(岩波文庫)

 海外事情2月(拓殖大学海外事情研究所)

 選択1、2月

 日本経済新聞 2017年2月23日経済教室

 他

三谷太一郎著「戦後民主主義をどう生きるか」、並びに五百旗頭真・中西寛編「高坂正尭と戦後日本」他を読んで思うこと

自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後 世相に思う

 

序章 日本を取り巻く現国際状況

 

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  イスラム国の出現、テロの続出に加え、英国のEU離脱国民投票結果で首相交替、イタリア憲法改正反対での首相交替、アメリカ次期大統領トランプの出現、フランス、ドイツの首脳交代の可能性等々と欧州、アメリカが近来にない激しい状況変化に遭遇しているように見えます。方や、中国は依然として軍事費を拡大し「中華大国の復権」を目指そうとしております。まさに地政学的に見ても世界は大きな曲がり角に来たように考えます。そのなかで我が国は、どう対処し、進めて行くべきなのか。没後20年になりますが高坂正尭なら、どのように現状を判断するのかと、私は、ふと思い出しました。そんな中で偶々、掲題の二著に出会い、読み比べをして見ようと思った次第です。

 

 尚、今から4年前になりますが現在の国際上の大きな変化を見通していたかのように、イアン・ブレマー博士は、主導国なき時代の勝者はだれかと、「Gゼロ後の世界」を著わしました。トランプ次期大統領の出現は別としても、今の世界の状況を予期していたかの如き分析です。最終章の第6章で以下のように記し本書を閉じています。

 

 一方、ワシントンは、Gゼロの世界におけるアメリカのリーダーシップの限界を受け入れなければならない。アメリカン人は死活的な国益が危機にさらされる場所では、それがどこであれ、今後とも世界に深く関わらなければならない。また、アメリカのリーダーシップを求める声に応えつづけられるように、費用対効果の高い方法を探さなければならない。アメリカの先見性ある政策立案者たちが、この移行期の時代を利用して、アメリカと共通する価値観と利害の上に成り立っている伝統的な同盟国との関係を深化させると同時に、新たなパートナーや同盟国を探し出すならば、彼らは、来るべき新たな世界にとって必要不可欠な存在となる新生アメリカの構築に向けて、決定的に重要な一歩を踏み出していることだろう。(245頁)

 

 尚、本書の中でアジアについて極めて重要な指摘をしています。これからもアジアは、世界で最も不安定な地域のままであること。そして中国、インド、日本が長期に亘り良好な関係のまま共存する見込みは極めて低いこと。そして、アジアは世界経済の成長を動かすエンジンとしての役割をいっそう強めるだろうが、この地域が安全保障上の危険性を、あまりにも多く抱え込む状況は変わりない、との指摘です。加えて、現習近平主席の登場前にはなりますが、中国について興味深い記述をしております。

 

 Gゼロ世界において中国の発展が予測可能な経緯をたどる見込みは主要国の中で一番低い。インド、ブラジル、トルコは、過去10年間の成長をもたらした基本公式をそのまま使えば、あと10年は成長しつづけることができるだろう。アメリカ、ヨーロッパ、日本は、長い成功の歴史を持つ既存の経済システムに再び投資することだろう。方や、中国は、中産階級が主流となる近代的大国をめざす努力を続けるために、きわめて複雑で野心的な改革を推進しなければならない。この国の台頭は不安定、不均衡、不調和、持続可能不可能だ・・中国共産党指導部は、次の発展段階を迎える中国の舵取りをする自分たちの能力が、確実とはほど遠いものであることを承知している。(188頁)

 

 加えて、アメリカのソフト・パワーもまた、かけがえのないアメリカの貴重な資産であり、標準中国語が、世界で一番人気のある第二言語として、英語にとって変わることはない。従って中国がG2になることはあり得ないとの断定です。では日本についてはどうでしょうか。以下の通りの指摘です。

 

 Gゼロは、リスクにさらされる国のコストとリスクについても高めるだろう。これは、アメリカが自国の力を同盟国防衛のために使う意思に、大きく依存する国である。数百年に及ぶ日本と中国の緊張関係は、そう簡単には緩和されることはないだろう。なぜなら、日中両国の日和見主義的な政府関係者たちが、国民を煽り立てて相手国の不信感を増長することで政治的得点を稼ぐ手法を、あまりに頻繁に使うからだ。・・しかも個人が利用できる情報通信機器が、燎原の火のように普及したため、国民の怒りは空前のスピードで一気に高まる。しかし、日本の指導者たちは、中国の地域的影響力が拡大しつづけることは知っていても、今後アメリカが、日本の利益を防衛する意思と能力を、どの程度持ち続けるかについて知る術もない。台湾も同じ懸念を抱えている。(173頁)

 

 今日の現状を見て、如何に思われるでしょうか。まさに日本は4年前にはそのような現状にあったのではないでしょうか。ケント・E・カルダー著「日米同盟の静かなる危機」と共に合わせ、本書を改めて読むことをお薦めします。

 

参考文献 

 

 イアン・ブレマー・北沢格訳「Gゼロの後の世界」(日本経済新聞社)

 ケント・E・カルダー 渡辺将人訳「日米同盟の静かなる危機」(ウエッジ)

 細谷雄一「国際秩序」(中公新書)、岡本隆司「中国の論理」(中公新書)

 海外事情 10、11月、選択12月、 他

 

三谷太一郎「戦後民主主義をどう生きるか」と「高坂正尭と戦後日本」

 

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 今回も同様ですが、上記二著の解説あるいは概要ではなく、両書を読んで行く中で、僭越至極ながら私が共感したところ、あるいは気になる箇所の記述であること、ご了承願います。

 

その1 両氏の敗戦時の思い

 

 三谷太一郎氏は1936年に岡山で生まれました。そして、敗戦当日の感想を次のように記しています。

 

 空爆によって家を失った私の一家は父の出身の農村に移り住み、そこで敗戦を迎えた。八月十五日の記憶はもちろん鮮明であるが、とくに忘れることができないのは、その日の新聞に載った大日本政治会総裁南次郎大将の敗戦を語った談話である。当時の私にはもちろん南次郎についての知識はほとんどなかったが、「南次郎」という名前ははっきりと覚えている。南談話の中で、私を刺激したのは、敗戦の原因として、「国民の戦争努力の不足」を挙げた点であった。自分自身でも意外であったのは、当時の私はこの談話に心の底から憤激した。私は生まれて初めて、日本のリーダーの責任感の欠如に対しての根本的な不信感を持った。振り返ってみると、これが戦後への私の態度を決定する最初の要因であったと思う。そしてそれが記憶としての戦争を歴史としての戦争に結びつける媒介契機となったと思う。(242,243頁)

 

 方や、高坂正尭氏は1934年生まれ、敗戦時11歳の氏が京都府の北端、丹後半島疎開先で敗戦を聞いたあと、父に送った手紙は次のとおりです。

 

 大へんくやしい事です。しかし一度大詔が下りましたから、せいぜい勉強して真に何も彼も強く偉い日本を作りあげとうと思います。ついに我等は科学戦に破れた。きっと仇を討とうと思います。(上記書 3頁)

 

 人はどういう環境、星の下に生まれるかで、人生が決まるとも言われます。両氏の観点は、私なりに両書を読んでいく上で、参考というかある面でなるほど、と思った次第です。両氏は歴史家・政治学者、国際政治学者でもあります。従い、両氏が多くの共通の知友との巡りあいと交友がありながらも、その生まれの環境が両氏の現状を観る観点・思想が異なってくるのかもしれないと、思ったところです。

 

その2 三谷太一郎著「戦後民主主義をどう生きるか」

 

 氏の言う戦後民主主義とは、いわゆる今時大戦の戦後にとどまらず、歴史上の日本の民主主義は、明治10年代の自由民権運動西南戦争に極まる一連の士族反乱が起こした内戦の「戦後民主主義」の波頭であり、日本の歴史上の民主主義は、いずれも全て何らかの「戦後民主主義」であった、という見解です。著者は次のように延べています。

 

 私の「戦後民主主義」がそれに先立つさまざまの歴史上の「戦後民主主義」と異なるのは、それが単に権力形態の民主化や民主的政治運動の勃興のような外面的な政治史的事実として現れるだけではなく、個人の行動を律する道徳原理として内面かされているという点にある。いいかえれば、私の「戦後民主主義」は私の「個人主義」と深く結びついているという点で、それに先立つ歴史上の「戦後民主主義」とは異なる独自性を持っている。(251頁)

 

 Ⅰ 政治社会を生きる

 

 そうした観点に立ち、本章を展開していきます。冒頭で次のように述べます。

 

 現在の日本の政治社会は政治的疎外感の感覚が、国家の経営にあたっている政権の側にも、政権の外の市民の側にもある状況だと思います。そういう意味では、二重の政治的疎外感です。そうした政治的疎外感によって、現在の日本の政治社会には亀裂が生じていると見ています。

 

 まず、国家の経営にあたっている現政権の政治的疎外感とはどういうものかということですが、安倍晋三首相に代表される現政権には、戦後の日本というのは真の日本ではない、つまり戦後日本,そしてその痕跡がのこっている今の日本というものは真の日本が疎外された形態であるという、そういう意味での政治的疎外感があると思うのです。

 

 ですから安倍首相は、真の日本(それは端的に言えば、安倍首相の祖父岸信介の象徴される日本)を取り戻すということをよく言うわけです。それは彼なりの、政治的疎外感を克服したいという願望だと思います。

 

 それに対して現政権の外部にある市民の側・・もちろん安倍首相に同調する人たちも少なからずいるわけですけれど・・にもまた政権に対する政治的疎外感があるように思います。市民の側も、安倍首相が今の日本に対して持っているような政治的疎外感を、現政権に対して持っているということです。(2、3頁)

 

 そして、現在の集団的自衛権の問題は単に安全保障環境の変化に応じた国家の安全の確保ということにとどまらず、自覚的に考えているかどうかはともかくとして、日本の政権の側から見ると、日本の政治社会を変えようとする態度が見える。即ち、日本の政治社会を国際的なアナキーの中にあえて投じるように思え、そこに根本的な疑問を感じる。歴史を振り返ると、日英同盟も日独伊三国同盟も、いずれも戦争の導火線になった。今日の日米同盟は戦争の導火線となった過去の二つの同盟と何処が違うのか。果たして「抑止力」は「抑止」機能を発揮しうるのか、それをはっきりさせることが歴史を学ぶとうことなのだ。集団的自衛権はまさに、敵の存在を強調し、敵に対する恐怖あるいは憎悪を政治社会の統合手段とする、可能性をはらんでいる。それは自由な政治社会の再建という観点からおそれる。加えて、確かに悪は存在し、自由と正義を求める政治社会がそのような悪と非妥協的に敵対せざるを得ない場合もあることは否定しないが、そのような戦術的あるいは戦略方法論の問題は具体的な状況に応じて論ずべきである。その結びとして、次のように記しています。

 

 「悪でもって悪をとりのけることは、できないのだ」というトルストイの命題は、要するに「抑止力」のような必要悪の観念の否定を意味するものであります。それはトルストイ歴史認識の蓄積としての聖書から得た真理であり、聖書的なリアリズムの極地を表現したものと考えます。(23頁)

 

 如何でしょうか、私には氏の見解は迂遠すぎて理解不能、と同時に違和感を禁じ得ません。

 

 Ⅱ 知的共同体を生きる 

 

 本章において、氏は二人の精神的リーダーを挙げます。一人は新渡戸稲造で、戦前の日本が最も国際主義的であり、かつ最も自由主義的であった時代を代表している。方や、南原繁は、戦後の日本において旧体制の崩壊の中で、「国民共同体」を再生させる新しい精神的秩序の理念を吹き込み、実際にそれを建設する指導的役割を果たしたと、しています。続いて丸山眞男の断片的な回想、国際歴史共同研究のリーダーとして細谷千博、想像力を媒介とする政治リアリズムの坂本義和、さらには中央公論の編集者・粕谷一希、弁護士・中坊公平等々の方たちとの関わり、さらには追悼記を載せています。興味深い人々との知的遭遇の章でもあります。尚、民法学者の平井宣雄の三回忌において、令息が生前「人間が生きていく上で最も重要なのは、体力や気力ではなく、判断力だ」と言われた、とのことです。私には強く印象に残りました。

 

その3 「高坂正尭と戦後日本」

 

 本書は細谷雄一慶應義塾大学教授が代表となる「高坂正尭研究会」の研究成果で、同教授他11名の諸学者が高坂正尭氏の業績、あるいはその思い出を記したものです。それぞれ貴重且つ興味深い記述ですが、全部を紹介するのではなく私なりに記憶に留めておこうと考えた箇所を以下、記していきます。

 

 安全保障政策の専門家としての高坂正尭

 

 本書の序章で、五百旗頭真氏は次のように述べています。

 

 ハーバードから帰国したばかりの高坂正尭は、1963年1月号の中央公論に「現実主義者の平和論」の論文を発表した。それはよく知られるように戦後日本の知的世界を風靡していた丸山眞男坂本義和らのリベラル進歩主義に立つ平和論を批判しつつ、国際環境の中で日本に平和外交を提案する論文であった。帰国早々、粕谷の力ある説得に乗って書いたところ、「パラシュートで降りたら地上は敵ばかり」という状況であったと、高坂は苦笑することになる。

 

 そして、60年代は日本は経済的巨人になったかもしれないが、「臆病な巨人」でしかない。自ら考え、決断し、作り出していくことのできない文明では、国際政治の荒海の航海を全うできないのではないか。「1960年代は退屈な時代であった」。それは闘争と欠乏のない「平和の退屈」と「豊かさの退屈」にくるまれた時代であった。そこには「生命以上の価値」のために生命を犠牲にすることを迫られる「真実の時」は存在しない。この社会には、「自主性を口にする集団主義」「決意なき革命論」「道義なき平和国家」がはびこっている。非のうちどころない60年代の成功のさなかにあって、高坂その内にひそむ脆弱性と精神的歪みを見落とさなかった。自己決定する者にのみただよう風格が、経済主義の日本から失われようとしているのではないか。(9頁)

 

 (中略)・・高坂が親密な感情を持って支えようと関与した政府は佐藤内閣だけであったろう。70年代以降の高坂は頼まれた仕事に応ずる形で、政治への一定の関与を折々に行うことになる。とはいえ、その頻度は小さくない。というのは、安全保障政策を扱える専門家は戦後日本におおくなかった。猪木正道や佐伯喜一がその長老格であったが、彼らにしてもデイテールについては高坂に頼ることが多かった。もっと若い世代の北岡伸一田中明彦が登場するまで、政策的センスのある民間の安全保障専門家は高坂が代表する状況が続くことになる。(12頁)

 

 また、1970年代の高坂は,論壇での活躍と政府への関与において多忙な毎日を過ごす中で、18世紀の近代ヨーロッパがつくった勢力均衡が崩れゆく世界を描いた「古典外交の成熟と崩壊」を著わします。細谷雄一教授は、その本書で高坂が読者に伝えたかったのは、歴史を学ぶ魅力であると同時に歴史を学ばないことでわれわれが現代を相対化できず、他国を相対化できない危惧であろう。それは容易に「道徳的唯我論」に帰結し、多様性の精神を摩滅させてしまう。高坂は、この著書の最後を「古典外交の精髄はわれわれに深い叡智と貴重な示唆を与える」と、記しています。

 

 高坂正尭の安全保障の観点

 

 自らの愚かな戦争に深手を負った戦後日本は、「自分の安全を自分で守るという自治」を放棄した。それを高坂は「典型的な小国の外交」もしくは「準禁治産者になった」とすらいう。「しかし、それからわれわれは卒業しなければならないのであります」。自分で責任ある決断をし、行動しなければなければ、道徳的な構造が朽ち果てる、と高坂は警告する。・・(中略)「国際政治は軍事問題と無関係ではありえない。秩序を維持するには力も必要だからである。もっとも力も必要なのであって。力が必要とうわけではない。だから、日本の重点は軍事力以上の部分に置かれるべきであろう」と、湾岸戦争翌年の1992年にも論じている。それは、現代における軍事手段の極大化が軍事力の行使を制約したとの基本認識に立つものである。

 

 日本が安全保障上とるべき措置として高坂が説いたのは、自衛隊PKOへの参加(同前、92年)と、集団自衛行使の解禁であったと思われる。「日米同盟の運営のために、言い抜け、詭弁の類が積み重なって、ストレイト・トークがおよそ不可能に近い状況だと言ってよい。常識的に言えば日米は共同防衛を行っているのだが、日本には集団的自衛権があっても行使はできないという類の議論はその最たるものである。・・それは行動する世界の人々の言葉とはほとんどなんの関係もない。(22、23頁)

 

 高坂正尭の中国論

 

 高坂は中国の台頭についての分析を必要と考えながらも、次のように述べていると、森田吉彦大阪観光大学教授は指摘します。

 

 中国問題は21世紀全般の最大の問題だが、それは私たちの世代の問題ではなくて、君らの世代の問題だよ」とよく言う。・・(中略)より基本的には、中国の在り方とそれが提示する問題は、この何年間のあいだにおこったこととも、歴史書に書いてあることとも違う。まず、中国が弱かったときの行動様式、たとえば以夷制夷は現代中国外交の例外しか説明しない。共産主義政権といっても、それで説明できることはきわめて少ない。それに、強い中国が中国文明圏を作ってこの地域を安定させることは世界化時代にはありえない、といった具合である。部分にも歴史にもとらわれない中国論の出現を、私は心から待ちわびている。(101,102頁)

 

 そして、高坂の中国論は、「革命的状勢」として中国を捉えると共に,日本人の「アジア」への思いからはっきりと距離をとる立場から始って、やがてその「中共革命の挑戦」の危険性と、「戦争責任」を抱える日本の脆弱性を認識する方向へ進んだ。それは彼にとって、日本文明の基礎にもかかわる問題だったのである。これらの問題は日中国交正常化によって一応の区切りがつくはずであったが、彼の希望的観測とは異なり、そうはならなかった。「戦争責任」を世代交代と共に「歴史認識」の問題へと移行していく。しかし、この問題が本格化するのは高坂逝去の後のこととなった。中国経済の拡大についても同様である。(126頁)

 

 加えて、箕原俊洋神戸大学院教授は次のように記しています。

 

 現在の東アジアの国際政治情勢と照らし合わせて、とくに先見の明が感じられるのは、中国の台頭によって、防衛・外交をアメリカに頼るといった戦後日本の安全の根幹が壊れ始めるという指摘である。これはまさに現在の尖閣諸島を巡る日中両国の攻防につながるものであり、大国中国の出現が国防の観点から日米関係の性質を大きく変貌させるであろうという予言は高坂がきわめて正確に将来の国際情勢を読んでいた証左である。(140頁)

 

 方や、猪木武徳大阪大学名誉教授は、「一億の日本人に関連づければ、理想は大事だけれども、理想だけを語って現実を批判するようなことではなく、達成可能な目標を設定して励むことの方が大事だ、と。これはおわかりのように進歩的文化人批判です。当時の日本人が社会主義に幻想を持って現実の日本を批判する。日本は遅れている、近代化の遅れを強調する日本批判論を高坂先生は切り返すんです。「ある国の、長所だけをみて短所を切り離すことは、軽薄であり、危険である」。と(238頁)

 

むすびにかえて

 

 高名な政治学者且つ歴史家でもある、お二方に関する著作が今年5月,9月にそれぞれ発刊されました。私としては興味深く読んだ次第です。ただ、もし高坂正尭氏が存命であれば、この大きく変動する世界情勢の中にあって、日本はどうあるべきか改めて聞いてみたいと思うところです。

 

 尚、日頃から日本のマスメディアの危うさ、危険性を私なりに憂慮しているわけですが、「高坂正尭と戦後日本」の最後の章に、ジャーナリストの田原総一郎氏が興味ある余談を記しています。私にはとても印象に残る箇所で、むすびにかえて、以下、ご紹介致します。

 

 筑紫哲也という人がいました。ご承知のように、彼は朝日新聞の記者出身ですが、私が「サンデープロジェクト」をやっていた当時、TBSで夜11時から番組のキャスターをしていました。私と彼と仲がよかったんです。二人の共通認識は、テレビはどれほどいい番組でも視聴率を取れなければ打ち切りということ。たぶん雑誌も同じでしょうけど。だから最低視聴率・・彼は「生存視聴率」と言っていました。・・「サンデープロジェクト」も、彼の「筑紫哲也NEWS23」も7パーセント。7パーセントを取らないとどんな偉そうなことを言ってもダメ。ただし10パーセント以上は取らない。10パーセント以上取ろうとすると、別の番組になってしまうんです。早い話、10パーセント以上の番組というのは、概して世論に迎合したものです。世論迎合とは要するに偉いもの、権威あるものを叩くこと。今なら、原発反対を挙げ、東京電力の悪口を言い、強そうな人や組織を叩く。視聴者のカタルシス、それが世論迎合です。(277頁)

 

2016年12月19日

                          淸宮昌章

 

参考文献

 

 三谷太一郎「戦後民主主義をどう生きるか」(東京大学出版会

 五百旗頭真中西寛編「高坂正尭と戦後日本」

 細谷雄一「安保論争」(ちくま新書)

 佐伯啓思「反・民主主義」(新潮新書

 他

 

堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで

自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後 世相に思う

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堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで

 

はじめに

 

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。

 

 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難すれば非難し、美化すれば美化する、という形にさえなる。(同書30頁)

 

 現在のメデイアは山本七平の時期とは多少異なるとはいえ、この現実はほとんど変わらないのではないでしょうか。加えて、日本は「空気」が重要な決定をしてきた、戦艦大和の出撃も然りと述べています。ではこの「空気」という思考はどこから来たのか。そこには徳川体制は永久に続けるし、続けなければならない、この体制を変えるという発想はしてはならないという大前提があった。「空気」と「水を差す」という、二つのバランスをとって、日本は文化的秩序を維持してきたのである。ただ、現代ではそういう時代ではなくなっているのであり、この状態を今後どうしていったらいいのか、このことが、おそらくわれわれが抱えているいちばん大きな課題なのだ、と指摘しております。今なお、変わらない現実への氏の警告でしょうか。

 

 方や、塩野七生氏が6年前に「日本人へ 国家と歴史編」の中で次のことを指摘しています。

 

 問題を起こさないことだけを優先しての事なかれ主義が、今の日本人には信用されなくなっているのは事実であり、それに反発した一部の人々の想いが、感傷的で過激な国粋主義に走りそうなのも事実である。こうなってしまったのは、敗戦以来の半世紀というもの、厳とした歴史事実の基づいた冷静な歴史認識を明示することを怠ってきたツケだが、それも近現代の歴史の共同研究の輪を、少なくとも日米まで広げることで、頭を冷やす役に立つかもしれない。また中・長期的には、常任理事国入りに役立つかもしれないのである。(51,52頁)

 

 歴史認識問題とは「過去」に関わる問題である以上に、「現在」を生きる我々により直接に関わる問題なわけです。

 

堀田江理著「1941 決意なき開戦」

 

 今回、取り上げた著者・堀田江理氏は東京生まれで、1994年にプリンストン大学歴史学部を卒業し、その後、英オックスフォード大学より国際関係博士号を取得し、そこでも教鞭もとられた若き学者です。尚、夫君は「廃墟の零年」を刊行されたイアン・ブルマ氏です。

 

 本書は英語版で刊行され、その後、改めて日本版に翻訳されました。著者によればアメリカではパール・ハーバーとはまさしく「だまし討ち」の代名詞的概念となっており、アメリカが望んでいないにもかかわらず、正義のため戦争を余儀なくされた、一大ターニングポイントだと思われている。しかし、現実アメリカに生活している中で感じられるのでしょうか、その名が広く知られ、安易に使われる一方で、実際の真珠湾攻撃に関する知識といえば、はなはだ希薄であることは否めない。歴史に明るい人でさえも、ルーズベルトチャーチルが、日本に攻撃を仕向けたというような共謀説や、ごく狭い戦術的視点からの論議に固執しがちで、ましてや真珠湾に至る日本の内政問題についてなどは、そのわかりにくさも手伝ってか、あまり語られることはない。そうした背景の中、日米開戦にまつわる一つの新しい見方を提供したい。アメリカの読者に向けて、「日本側から見た真珠湾」という切り口で書いた、と述べています。

 

 豊富な資料と共に、今まであまり取り上げられてこなかった書籍、加えて昭和天皇が不快に思われた、とされる近衛文麿ヒトラーに仮装した写真等々も取り入れられております。開戦に至る1941年を中心に非常に明快な文章で記述され、アメリカ人のみならず我々にとっても、極めて興味深い貴重な歴史研究書になっております。昨年の4月に取り上げたイアン・ブルマの「廃墟の零年」も大著ですが、合わせお読みになることをお薦め致します。

 

 本書はプロローグ「たった一日。なんというその違い!」から始まり、一章「戦争の噂」から16章「清水の舞台から」という構成です。今回も本書の全章を紹介するのではなく、このプロローグを中心に進め、私が深く印象に残ったことにつき、感想を交えながら記して行こうと思います。方や、全章を纏めることは難しく、また著者にも失礼になると思っており、僭越ながら私のこの駄文をひとつの契機として本書を読まれるのが一番と思っています。

 

そのプロローグ「たった一日。なんというその違い!」

 

 本書においてはこのプロローグは極めて重要な指摘のみならず、本書全体を解説し、何を目的とするかを示しております。長くはなりますが、以下、抜粋し、ご紹介致します。

 

その一 本書の目的

 

 本書の目的が、感情的な弁解でもなく、日本の真珠湾攻撃に至るまでの八ヶ月間を、わかりやすく述べることにあることが明らかになるはずだ。日本の振る舞いを、正当化するのとも違う。難攻不落の敵との勝ち得ぬ戦争が、日本の指導者たちによって、いったいどのように始められることになったかを理解したいのだ。もちろん、そのような無謀な選択がより強い意志と忍耐で、避けられるべきであったことは言わなければならないが、それはある一定の理解を得た後に来る,、解釈の問題である。・・(中略)日本の運命を握っていた政策決定過程は、信じ難い煩雑さと矛盾に溢れかえっている。ほとんどの指導者は、帰属組織への忠誠心や個人的な事情から、表立った衝突を避ける傾向にあったことは間違いない。遠回りの発言をすることが、常習的に行われていた。特に軍関係の指導者の多くは、当然のことながら、まわりから弱腰と思われるのを何としてでも避けたいと願っていた。そのため、心の内にいかなる疑問を抱いていたとしても戦争回避を訴えることはしなかった。(22,23頁)

 

その二 当時の状況

 

 そして当時の社会の状況につき、1940年の秋、60歳の永井荷風の日記を紹介します。

 

 日本橋辺街頭の光景は今もひっそりとして何の活気もなく半年前の景色は夢の如くなり。六時前後群衆の混雑は依然として変わりなけれど、男女の服装地味と云うよりはちぢむさくなりたり。女は化粧せず身じまひ怠り甚だしく粗暴になりたり。空暗くなるも灯火すくなければ街上は暗淡として家路を急ぐ男女、また電車に争ひ乗らんとする群衆、何とはなく避難民の群れを見るが如き思ひあらしむ。(10頁)

 

 真珠湾攻撃機を送り出すに至るまでの日本は、政治的にも、経済的にも極度に不安定な状況が続いていた。国による統制が日に日に厳しくなるなか、人々の生活を無力感が支配していた。1937年半ばに始った中国との戦争には終わりが見えず、最初のうちこそ人々は、日本が迅速に決定的勝利を収められると信じて疑わなかったが、あたかもロシアに遠征するナポレオン軍のように、日本軍は大陸の奥へ奥へと引き入られ、荒くれの未知の地形での苦しい戦いを余儀なくされていた。それでも日本の主たるマスメデイアは、盲目的愛国心主義に染まった報道を続けたが、時がたつほど人々の心の中で、なぜいまだ中国との戦いにけりが付けられないのか、疑念が湧き起こり始めていた。そして戦線布告が遅れたために、その後の日本は重い遺産を継承することとなった、と述べています。すなわち1941年12月8日を迎えたわけです。国際法上、戦術上の細かい話は日本の一般市民にとって二の次で、少なくとも表立った反応に限れば、奇襲攻撃の成功は、国民から歓喜の声と共に迎えられました。

 

その三 文化人、知識人の反応

 

 そして例外はあるとしても文化人、知識人とて真珠湾奇襲攻撃成功を冷静に受け止められるわけではなかった。当時59歳であった斎藤茂吉は「老成ノ紅血躍動」と日記に記し、36歳の伊藤整も「我々は白人の第一級者と戦う外、世界一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限りないいとおしさで自分に分って来た。・・(中略)、ハワイだけは我々も意外であり、米人も予想しなかったのであろう。・・(中略)立派なり。日本のやり方日露戦と同様にて素晴らしい」と日記に絶賛した。尚、日露戦争も正式な宣戦布告より二日前の1904年月八日、ポートアーサーで、日本軍がロシア帝国軍の船に仕掛けた奇襲攻撃で始まり、そして日本はその戦争に勝ったのだ。と著者は記しています。

 

 日本の対中政策の大きな矛盾に苦しみ、批判していた当時31歳の中国学者竹内好さえ、同人誌に次の文章を発表するわけです。

 

 歴史は作られた、世界は一夜にして変貌した。・・素直に云えば、我々は支那事変に対して、にわかに同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。・・わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証してゐる。国民のひとりとして、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。(中略)東亜に新しい秩序を布くといひ、民族を解放するといふことの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。(13頁)

 

 もとより少数であるが、正式に敵となった西洋の国々について、正しい知識を持つ人もおり、国力の差、資源の差は明白で日本は結局のところ大敗を喫するだろうとの予想を持っていたが、歓喜と熱狂の渦中では、非国民との告発は免れず、待ち受ける大きな困難については、考えずにいる方をとったのである。

 

その四 前史

 

 加えて著者は、日本の指導者が真珠湾奇襲攻撃に至るまでの道程で、直面した現実の、または想像上の束縛は、これより前の歴史にも根ざしている、と次のように指摘しています。

 

 一九世紀後半の開国持、世界はより広く、しばしば日本に敵意を持っているように思われた。鎖国政策の終焉、大政奉還、そして近代国家の設立と続く日本の一大変革期は、また同時に世界の勢力図が大きく塗り替えられる時期でもあった。中国、スペイン、そしてオスマントルコ帝国が崩壊する中、略奪的性格を持つ西洋帝国主義が日本に示した教訓は、「力」の重要さだった。国力を養うことで国が存続できるという信念が、日本近代国家に植えつけられた所以だった。時代の産物である新敵国主義、社会進化論、白人優越主義などは、さらに人種差別主義的世界観を日本にもたらした。・・(中略)ただ、そんな日本人にもできなかったことがあった。それは肌の色を変えることだった。(27頁)

 

その五 狂信とギャンブル

 

 日清戦争直後には明治天皇が勝利に際し、自惚れての慢心に注意せよ、との警告で「自ら驕り」「他を侮り」「友邦を失うが如きは断じて」受け付けない。全ての国民が勤勉に忠義を尽くし、国家の発展のために邁進しなければならない、と戒めていた。しかし1930年代までには、そのような謙虚な心がけが失われつつあり、西洋によって、不当に扱われてきたことに対する長いルーツを持つ怨念が、近代国民国家として成功したという自負と相まって、ある確信に拍車をかけた。それは、どんなに困難な国内外の危機でも、日本には強い意志さえあれば、乗り越えられるという狂信とも言える信念だった。しかし、何故に捨て鉢の戦争が1941年12月に、勇断として日本国民に歓迎されたことも、部分的には説明がついたとしても、日本の開戦理由にはならない。特に政策決定者たちの多くが、日本の最終的な勝利に懐疑的だったのだから。日本の開戦決定は結局のところ、巨大な国家的ギャンブルとして理解されるのが、最もわかりやすい。

 

 その判断の一つはヒットラーと戦火を交える中、西ヨーロッパ諸国の東南アジア植民地の守りが手薄になっている、という読み。一方、日米決戦がアジア・太平洋地域の覇権を賭けた地政学的に「避けられない」戦いであるという認識も、強迫観念に拍車をかけた。しかし、必ずしも日本の指導者のすべてが、太平洋での大衝突を歴史的必然と捉えていたわけではないが、誰ひとりとして、踏み込んで戦争回避を主張する者はいなかった。当時よく使われた「バスにのり遅れるな」という標語は、この戦機を逃せば、もう二度と日本が大国として世界に君臨するチャンスは巡ってこないだろうという切羽詰まった思いを簡潔に代弁している。

 

 更に、一か八かの開戦に傾く日本の戦略構想の中に、もうひとつの大きな歴史の皮肉があった。それは、その壮大で無謀なギャンブルは、そもそも開戦に反対していた連合艦隊司令官、賭博好きの山本五十六の存在なくしては、あり得なかったということだ。しかし、単純に戦争が「避けられなかった」からだと言うのは、あまりにも不十分である。ではいったい誰が、そして何が、日本に真珠湾を攻撃するように導いて行ったのだろう、とプロローグを結んでいます。

 

第一章「戦争の噂」から第十六章「清水の舞台」

 

 第一章から第16章と真珠湾奇襲攻撃に至る経緯経過を記して行くわけですが、従来あまり取り上げられなかった近衛文麿について資料を丹念に検証しながら著者は掘り下げて行きます。加えて、松岡洋右については近衛文麿と生い立ちについては大きく異なりますが、「タフな日本」「NOと言える日本」を望んだ点、加え,両者が固定観念にとらわれている点で、両者は非常に似ているとしております。もとよりこの両者だけが開戦に至らしめたわけではありませんが、いずれにもせよ開戦に至る要素を結果的に与えた、との重要な指摘です。以下、近衛の演じた負の役割を私なりに紹介して参ります。尚、近衛文麿については筒井清忠著「近衛文麿」を昨年10月にブログでも紹介致しましたが、今回、私としても認識を新たにしたところです。

 

 

 

近衛文麿の役割

 

 第一次近衛内閣は1937年、いかにも軽やかな足取りでスタートした。近衛は民選ではなく重臣の西園寺公望の推薦であったが、近衛に大命が降下されると、マスメデイアにもてはやされ、国民全体が、あたかも救世主が現れたかのように歓迎した。近衛と大きく異なる身分と育ちである松岡洋右国際連盟脱退、三国同盟締結の帰国後の彼に対する奇しくも同じ現象がみられたのであった。「大政翼賛会」、「国家総動員法」、「東亜新秩序声明」、「昭和研究会」はては「隣組制度」も、また「蒋介石を対手とせず」の声明も近衛時代に行われた。そうした一連の近衛に対し著者は次のように記しています。長くなりますが近衛の性格を知る上で紹介致します。

 

 近衛が日本国内でいくらか知られるようになったのは、1919年パリ講話会議前夜、「英米本位の平和にもの申す」という前述の小論文が、英訳され紹介された時だった。そして1937年、日中戦争が勃発し、中国の主要都市や工業地帯、国民党の首都であった南京のどを含む地域で、日本の攻撃が激化したのも、ドイツとイタリアとの同盟を追求したのも、また、今となってはいっさいのの責任を負わせている松岡に、特に期待して外相として任命をしたのも近衛首相だった。紛れもない、言い逃れのできない経歴がまだあった。三国同盟の成立直後、近衛自身が公式の記者会見で「私はアメリカが、日本の真意を理解し、積極的に世界の新秩序建設に協力したほうが賢明ではないか、と考える。しかし、アメリカが日独伊の真意を故意に見誤り、三国に対して条約を敵対行為を表すものと考え,さらに挑発行為を続けるならば、我々とって戦争以外の道は残されないであろう」と、松岡張りに強弁していた。だが不思議なことに本人は、このような言説や行為の数々が西側の自分に対する信頼を損ねてきたとは、思わなかったようだ。自分の地位は不可侵だという、特権意識のなせる業だろうか。ことルーズベルト政権の対近衛意識に関しては完全に勘違いをして、首脳会談開催がここまで難航するとは思っていなかった節は否めない。(250頁)

 

 残念ながら近衛には、ルーズベルトのような耐久力や、諸問題の優先順位を見抜く力が欠けていた。それに加え、自分の判断ミスや失敗も、周りに責任転嫁することが当たり前になっていた。そして見紛いようのない、やんごとなき社会的地位がそれを常に、少なくとも敗戦までは可能にしていた。加えて次のように指摘しています。

 

 気高い血筋も知性も、効果的リーダーシップの保証ではなかったことを、身をもって証明した。政策が決められる議論の場で、自分の意見をはっきりと述べず、自身の手を汚すことを極端に嫌い、事なかれ主義に走り、対立を避け続けた成れの果てが、外交交渉と開戦準備の期限付きの同時進行だった。最後には、日米首脳会談で何もかもがうまく行くという幻想にすがりつきながら、自覚なしに崖っぷちに国を誘導してきたが、ハッと正気に戻ると、その進行止める大仕事をまかされるのはまっぴらごめんとばかりに、すり抜けて逃げることになった。首相として、日本の危機が最高潮に高まった過去四年のうちの三年近く、政府を指導したが、その間、中国との戦争はますます泥沼化し、あり得ない英米戦争が、いたって合法的に、いくつもの会議を経た上で、最終的に天皇の承認を得た国策として、のし上がっていた。(277頁)

 

 大手新聞のマスメディア

 

 では当時の報道機関はどうであったのでしょうか。満州事変当時においても新聞はこぞって戦地に特派員を派遣し、劇的な見出しの下に、号外で戦況を報告することで発行部数を競い合い、売り上げ合戦をますます白熱化させていた。大手新聞はこの時点で、意識的に政治的に「自己検閲」という浅はかな道を選択した。その選択はその後10年間かけて、日本のメデイアを窮地に追い詰めていくことになったわけです。「軍部から正確な情報を得ていたであろうにもかかわらず、どの新聞も,満州事変の発端が実は関東軍が企てたもので、中国側に非がなかったという重大な事実をあえて報道しなかった。満州事変が偽の口実で、なし崩し的に決行されたということが、一般読者に知らされることはなかったのだ。それどころか新聞は,関東軍の主張を全面的に肯定する報道に終始し、爆破された線路の現場や、首謀の中国人の遺体の写真などを事変の確固たる証拠として、センセーショナルに報道した。(61頁) 

 

 そして日本の世論は強行論調のメデイアにたきつけられていったのである。

 

 帝国国策遂行要領の御前会議、そして開戦へ

 

 1941年1月11日、政府は「国家総動員法」を補足する形で、新聞などメデイアに対する規制を強化した。上述のように満州事変以降から大手新聞は国策に取り入り、露骨に愛国的熱狂を煽り立て、激しい売り上げ部数拡大をくり広げてきた。当初、軍人とは積極的に、互いを利用し合った。1941年にもなると、マスメデイアが軍部との「危険な関係」から身を引くのは到底不可能になっていた。そして会議らしいものは行われることなく近衛文麿の下、「帝国国策遂行要領」が御前会議で承認されるわけです。

 その近衛はスパイ・ゾルゲの逮捕に続き、近衛の側近であった尾崎秀実の逮捕のタイミングで近衛から東篠英機へと移ります。新首相は1941年10月から30日まで,9月6日の御前会議決定を再検討するべく連絡会議を招集するも、時既に遅く、東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相の反対もむなしく、論議は尽くされないまま帝国国策遂行要領は変わらず、開戦へと向かいます。即ち「空気」が変わることはなかったわけです。

 

著者はエピローグで次の重要な指摘をしております。

 

 ルーズベルトは演説でこう述べている。「日本の航空部隊が攻撃を開始した一時間後、日本の大使と彼の同僚が、国務長官に、最近のアメリカからのメッセージに対する正式な返答を持ってきた。その返答には、これ以上外交交渉を継続するのは無駄だという見解が延べられてはいたが、戦争や武力攻撃の示唆は、全く含まれていなかった」。つまりルーズベルトは、日本が外交を攻撃計画を包むマントとして、つまり騙しの道具として用いたことを力強く世論に訴えたのだった。

 真珠湾攻撃から三日後、ウエストポトマック公園の中で、最も立派で美しい日本桜四本が、切り倒された。日米間の、「最後の言葉」などない、永い友情のシンボルであるべきはずの桜の木が、米国民の激しい憎悪の対象になったのだ。アメリカが「リメンバー・パールハーバー」のキャッチフレーズのもとに団結し、対日戦争に本気で乗り出したことを反映する、象徴的な事件だった。(363頁)

 

 そして次の文章をもって終わりとしています。

 

 行き着くところ、開戦はすべて国民の責任だった。国民すべてが懺悔しなければならない、としたことは、ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するに等しいのだった。1941年当時大多数の国民の運命を決定する少数の日本人が、確かに存在していた。しかし彼らの開戦決定責任は、十分な検討もされないまま、(また後に続く、連合国による極東国際軍事裁判でも、その全容がつかみきれぬまま)、それはさらに一億の国民によって、薄められたのである。言うまでもなく、東久邇宮内閣の立役者で、無任所大臣として公の場に再浮上した近衛文麿にとって、「国民総懺悔」は、もちろんこの上ない好都合な概念であり、歴史観であった。(375頁)

 

おわりに

 本書についての私自身の解釈に、あるいは勝手な著者の引用に、いろいろとご批判があるでしょう。ただ、私は本書で開戦に至る当時の状況等々を改めて知り、A級戦犯とは何かを考えさせられました。A、B、C級とは単なるクラス分けの分類に過ぎないのに、あたかもA級が最大の重罪として流布され、A級戦犯戦争責任のすべてを押しつけ、それでよしとしてきたこの現状に、私は極めて違和感を持っております。その上でも、今日の日本の現状から今後を考える上でも、本書は極めて貴重な歴史研究書であろう、と考えております。

 

 加えて、私が度々、お伝えする一国平和主義とも言うべき現状の日本は、極めて危険な状況をむしろ作り出すと考えております。戦争の悲惨さを伝えるばかりが能ではありません。共産党独裁政権の中国が次々と核心的利益と称し、中華大国の復活を賭けて邁進する現状は、あたかも1930年代の日本を見るようです。一方、今年の11月8日のアメリカ大統領の選挙結果でクリントンかトランプ、いずれかが大統領になろうとも、アメリカは内向きの政策をとっていくでしょう。それは今後の日本のあり方にも、すくなからずの影響をもたらすでしょう。即ち、そこには大きな地政学的変動も起きているわけです。従い、日本としては価値観を共有する国々との連携を従来以上に強めていかなければならないわけです。

 方や、そうした現実に対し、一部の識者、ジャーナリストがあたかも日本に言論統制が再び始ったかのように喧伝することに、強い嫌悪感を私は持ちます。そのような方に必要なことは、むしろ自ら過去を改めて調べ直し、そして反省し、己を研鑽することが最重要課題ではないでしょうか。マスメデイア等に登場する一部の識者、コメンテーター、さらにはジャーナリストと称する人々の、独りよがりの正義感、そしてあの傲岸さは私だけが感じることなのでしょうか。かってもそうであったように、マスメディアに見られるのは、そこに営利主義的が単に強まってきたに過ぎない、と映るのですが。如何でしょうか。

 

2016年9月29日

                        淸宮昌章

 

参考文献

 

 堀田江理「1941 決意なき開戦 現代日本の起源」(人文書院)

 イアン・ブルマ「廃墟の零年 1945」(三浦元博・軍事泰史訳 白水社)

 山本七平戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇憲法・軍部」(さくら舎)

 筒井清忠陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点」(中公選書)

 塩野七生「日本人へ 国家と歴史篇」(文春新書)

 筒井清忠近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇(岩波現代文庫)

 花山信勝「平和の発見 巣鴨の生と死の記録」(方丈堂出版)

 宮家邦彦「日本の敵 よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)

 木村幹「日韓歴史認識問題とは何か」(ミネルヴァ書房

 他

 

塚本哲也著「我が家の昭和平成史を」を読み終わって

自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後 世相に思う

はじめに

 

 本書は毎日新聞のウイーン特派員、プラハ支局長、ボン支局長、論説委員等を経へた後、防衛大教授さらには東洋英和女学院大学学長をも勤められた塚本哲也氏による、家族の平成昭和の記録です。一巻、二巻からなる長編記録ですが氏の文章力のなせる技でしょう、一気に読まれなくとも鮮明にその記憶が残り、日をおいて読み始めても何らの支障はありません。心が洗われる著作です。読み終わったのが8月15日であることも私の記憶に深く刻まれた本となりました。

 

 義父である国立ガンセンター長の塚本憲甫と年子夫人、並びに哲也氏の妻でウイーン派ピアニストのルリ子夫人の四重奏の生活記録ですが、その背景には冷戦下の東欧諸国、並びに激動の昭和・平成を語る、いわば歴史書でもあります。

 

  尚、本書を読み進めるなかで、時の権力・政権を掣肘する、あるいはもの申すと、独りよがりの正義を振り回す知識人、ジャーナリストと称する人達との比較が私は自然とわき、ジャーナリストはかくあるべしとの感を深くします。また、本書に一貫として流れている塚本家の心の優しさ、それを支える宗教心(キリスト教)を強く感じます。本書を読んでいて、私は、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」に描かれている場面が彷彿されました。それは主人公コペル君(潤一君)へのお母さんの次の言葉です。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取り返しがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんが立派なことは・・、そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(本書248頁)

 

 塚本哲也氏は世界大恐慌の1929年生まれ、その70年後の1999年に脳出血を煩い、続いて2005年には最愛の妻ルリ子氏が逝去された後も、体の右側が不自由のため、左手のみでパソコンを操り、「メッテルニヒ・・危機と混迷を乗り切った保守政治家」他の大著二冊に続き、2016年5月に本書を刊行します。

尚、ルリ子氏の告別式は四谷の聖イグナチオ教会で行われました。その教会で哲也氏夫妻の結婚式も行われております。私ごとですがその聖イグナチオ教会は小中学校の時代に少なからずの縁があり、私の脳裏に鮮やかない記憶を残している教会でもあります。その告別式における「思い出は生きる力なり」とのデーケン神父の告別の辞に並び、その後の松本主任司祭の「立ち上がれなくともいいではないですか。悲しめるだけ悲しんでやって・・」との言葉に強く後押しをされた、と記されています。

 

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我が家の昭和平成史

 

 上にも述べたように本書は塚本哲也氏家族の生活記録ですが、同時に戦中戦後のヨーロッパ及び日本にも関わる長編記録でもあります。一巻、二巻のA五版の二段書きで1048頁に亘る大作です。その副題には「がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏」と記されております。春、夏、秋、冬という中で、第一章・ルリ子との出会い、から始まり第二十六章・晩年の孤独、という構成で、記録されていきます。

また今回も本書の概略を記すものではありません。ご批判もありますが私が感銘を受けた、あるいは心に刻み込まれた点をいくつか紹介してみたいと思っております。

 

その1 第一巻・・春、夏、秋

 

 一巻の「はじめ」で塚本哲也氏は、東京の片隅に住む市民一家の昭和史と謙遜されておりますが、氏の出会った方々は夫妻の親戚、友人、先輩は、そろいもそろって超一流の方、昭和の歴史に記録される錚錚たる方々です。たとえば岸信介丸山真男、中村隆英、江戸英雄、ヘルマン・ホイヴェル神父、若き時代の小澤征爾粕谷一希大賀典雄の方々であり、私は著作物で、あるいは新聞等で知るのみでお会いしたことは全くありません。氏を防衛大教授に依頼された名著「摩擦と革命」を著わした佐瀬昌盛氏は直接お会いした、ただ一人の方でした。私は佐瀬昌盛氏の講義を聞きたく、60数歳の時期に拓殖大の今は大学院になっておりますが当時の国際塾に通った次第です。塚本氏は確かに一市民であるとしても、私とは大きく異なる次元の高い方々の中で生活をされていたわけです。

 

 第一章の「ルリ子との出会い」から始まりますが、塚本氏は30歳過ぎの新聞記者の時代に東西冷戦の最中のヨーロッパ、ウイーンへの留学を目指します。日本は安保騒動で揺れている時代でした。そしてウイーン帰りのピアニストのルリ子氏と警察回、首相番(当時は岸信介首相)の塚本氏とひょんな出会いから知り合い、木村姓から日本の放射線医学先駆者で、後の国立ガンセンター長の義父塚本憲甫家の塚本姓になります。そして留学生試験に合格し、夫妻でウイーンに旅立ちます。アメリカによる占領を少なからず評価しながらもヨーロッパに行かれたことが、その後の氏の視点・観点に大きな影響を与えたのでしょう。東欧の社会主義国家の現実を体験し、外から日本を見られたことが、現実から遊離した、いわば観念的な日本の左派知識人、ジャーナリスとの大きな差であろう、と私は考えます。

 

 1969年の東大の安田講堂全共闘の学生に占拠され、機動隊八千五百人が出

動、封鎖を解除した、いわゆる安田講堂事件をプラハからボンに帰ってきた時です。東京から送って来る日本の新聞を見て、氏は次のような感想を記しています。

 

 これだけ多くの機動隊が出動したのは、それだけ学生の数が多かったのだろう。日本も落ち着いていないことを知った。しかし医学部から端を発したにしても、ベトナム反戦運動全共闘支援団体も加わっていたようで、安田講堂を占拠する必要がどこにあるのか、とそのとき、疑問に思った。チエコ事件と比べてみると、規模も小さく、性格も違っていた。外国である大国ソ連による小国チエコの主権蹂躙という世界的なチエコ事件に対し、日本人同士の大学のことであった。新聞には機動隊の指揮官の一人として、同学の知人佐々淳行の名前があった。大変だなと思った。(246頁)

 

 鉄のカーテンの中の国々でハンガリー動乱ポーランドの連帯、チエコ事件、さらには東ドイツ等におけるソ連共産主義社会主義の圧制下の状況を記録していきます。そして事実を知ることの難しさを述べています。

加えて、ヨーロッパ諸国からは東西ドイツの統一を望まれない中で、西ドイツの生き方と評価、さらには西ドイツのブラント首相の東方外交にも言及しています。極めて貴重な記述です。

 

 今回はそれとは別の視点になりますが、ここでは私は深い感動を覚えた第十章「父母の旅立ち」への想等を以下、記していきます。

 

 典型的な外柔内剛の塚本憲甫はがんに冒され、自らの死期が近いことを知ります。そして銀座教会の鵜飼勇牧師に洗礼を頼みます。洗礼式が終わった時、娘のカトリック信者であるルリ子氏に聖書の中のマタイ伝第五章「山上の垂訓」を読んでくれるよう頼みます。

 

 「幸いなるかな、心の貧しきもの、天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん。幸いなるかな、柔和なるもの、その人は地を嗣がん。幸いなるかな、心の清きもの、そのものは神を見ん・・」を読み進めますが 更に「光を高く掲げよと」の続きを静かな声で読むよう頼みます。そして病弱な母「お袋さんを頼むよ」との言葉を娘ルリ子氏に残し、亡くなっていきます。

 

 塚本健甫の葬儀の一週間後、年子夫人の葬儀が銀座教会で行われます。二人の遺骨が花に囲まれ仲良く並んでおりました。今、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルで、「暮らしの手帖」の編集長大橋鎭子編集長が参列し、同誌のコラムに素晴らしい文章でその情景を綴っております。

 

 尚、上記の「心の貧しき人」の意味合いを、曾野綾子氏が書かれた文章を本書で紹介しておりますので、ご参考までに以下記します。

 

 心の貧しいという表現は、日本語ではあまりいいことではなく、心が貧しいようではだめだと言われるくらいですから。しかし、これは翻訳がまずいというより、こう言うよりしょうがないのです。

 心の貧しい人というのは、「自分の貧しさを知る」という態度のことで、旧訳聖書では「アナウイム」というヘブライ語で知られている姿勢を反映したものです。「アナウイム」は「しいたげられているもの者」「苦しむ者」「柔和な者」「へりくだる者」「弱い者」など、さまざまに訳されているそうですが、つまり何も持っていない人のことです。才能も、教育もなく、親や親戚の引きも社会の保護もなく、健康でもないといった、何もない人、そういう人だけが幸いである。なぜならば、その人だけが本当に神に祈り、神に自分の運命をゆだねようという謙虚な気持ちになるからだというわけです。逆に言えば、私たちは不遜だということになるのです。(二巻、268頁)

 

その2 第二巻・・冬 一、 二

 

 その1に記した塚本憲甫は日本の放射線医学の一線に立っているのみならず、国連科学委員会主席代表でもあり、多くの国際会議に立ち会っていました。そうした体験から「国連総会や安保理事会は、もっと露骨なすさまじい大国同士のぶつかり合いであった。秘策を尽くし、舌鋒を鋭くしての激しい外交戦の場であった。憲甫は次第に愛国者になっていった。国際会議の場数を重ねるにつれて、『自分の国を思う心のない人は、真の愛国者に慣れない』と思うようになっていった。自らの国の立場、国益に立って国際的に協議を進めることが、真の国際主義だと確信するようになっていった。憲甫は愛国心という言葉をよく使うようになっていた。」(51,52頁)、と哲也氏は記しています。

 

 第二十一章「うたかたの恋の娘」はハプスブルク帝国の末裔であるエリザベートの生涯です。その生涯は「私たちが日本で経験した戦争、敗戦の時、ヨーロッパはどうであったかを知る上で、非常に参考になるもので、書きながら常に日本と比較し、同じ敗戦国として考えさせるものが多かった。当時、日本とヨーロッパは表裏であった。二十世紀がよく分かるのである。」(129頁)と記しております。

 

 印象深い次のことを記しております。

 

 ヨーロッパではロシアは後進国であり、日本にとってはあまりよく知らない、遠いヨーロッパの大国のひとつ以上のなにものでもなかった。知っているのはトルストイ、ドフトエスキーなどの作家の名前であった。ヨーロッパは理論と現実を、日本は理論だけをロシア革命から受け取った。これは大きな差であった。・・(中略)日本では、社会主義は関心や研究の段階でも、異端視、犯罪視されるようになった。その抑圧が、第二次大戦の敗戦後日本で、反動として知識階級に社会主義思想の信奉者を多くした理由ではないかと、私はヨーロッパで思っていた。

 日本におけるソ連についての情報は一方的で、思い過ごしや幻想が多く、それが情報の見通しを誤る原因となった。戦後あれだけ大きかった日本社会党が消えてしまった原因も、社会主義への幻想にあるだろう。一般庶民はそのような情報から遠く、思い過ごしや幻想の多い知識人よりもずっと健全であった。(135,136頁)

 

 更に、次のように続けます。ヒトラーポーランド攻撃から第二次世界大戦が始まるわけですが、当時のヨーロッパの英仏独伊の大国の身勝手さ、横暴ぶりをできるだけ忠実に記述しておきたいと考え、次のように述べていきます。

 

 彼ら大国首脳の言動を鑑みると、その冷酷非情さに驚く。多くの歴史書は小国の悲哀などほとんど書かないので、あえて噛みしめてみる必要があろうと思う。

 私はこの大国のエゴイズム、自己防衛の実態を検証し、正直のところ、そら恐ろしさを感じている。ヒトラーを増長させて、第二次大戦の悲劇をもたらしたのは、こうした大国の自己本位の態度でもあったといえよう。小国の無力さ、泣き寝入りする以外にない、悔しさ。私はいつまでも考え込んだ。そして忘れない。

 アジアでも、日本は戦前も戦中も何をしたか、また敗戦後、政治軍事小国になった日本は何をすべきか、それが他人事ではなく、頭から離れないようになった。(162頁)

 

 東欧圏崩壊

 

 昭和天皇崩御の1989年は年が明けてからもチェコの「ビロード革命」と言われた市民革命から、ルーマニアハンガリーポーランドの革命というソ連圏からの実質的離脱、いわゆる東欧圏の崩壊が始まります。そしてベルリンの壁が砕かれ、東西ドイツの統一という冷戦の終結に繫がっていくわけです。本書にはその背景に共産圏のポーランド出身で、共産党の内情をよく知っていた、しかもその国民の9割を占めるカトリック信者の信頼を集めるバチカンヨハネ・パウロ二世が東方外交を切り開きポーランド共産党の土台から敗北させ、東欧共産圏が全面的崩壊へと導いた命がけの活動を記しています。私は改めて認識したところです。

 

 尚、60年安保騒動の時には首相官邸詰めの政治部記者として騒動のど真ん中で事態を経験した大学時代の友人は早くからこの東欧の崩壊を予測し警告していたとのこと。その友人は「日米安保とは何だろう」と考え込み「安保を理解するためにはヨーロッパのNATOを研究しなければならない」と結論し、実際にオーストリア・ウイーン大学に文部省留学生として留学し、ボン特派員を兼ねた。それまで、戦後の日本の青年の多くが抱いていた社会主義への漠然たる期待感は西独の経験で、一挙に醒めた。そして「ハンガリー動乱プラハの春ポーランド連帯の成立、東欧の反乱には、十二年周期説があるとは、多くの人が語っていた。しかし、共産党支配のテクニックを知っている者には、崩壊現象が起こることは不可能に思えたのが普通である」(248頁)、と記しています。続いて松本重治の塚本氏へのお褒め言葉を次のように加えています。

 

 情報源の培養こそ、ジャーナリストの基本条件である。ジャーナリストは、すぐれた情報を持つ人、はいってくる立場の人々との接触を心掛けなければならない。情報は空中を飛んでいるのではない。そして大切なことは情報よりも情報の解釈であり、その解釈を深めるのは、それぞれの人間の素養であり、経験である。

 予見性、先見性を発揮した人間は、それなりに尊重されなければならない。かってはジャーナリズムにもそうした雰囲気があったが、今日ではそれすらなくなりかけている。

 日本の新聞・雑誌には一部に依然として社会主義信仰、マルクス信仰があり、東欧、中国の事態で、突然社会主義に対する反体制支持に百八十度、転向して

恥じないものがある。自らの来歴を誠実に辿るべきであろう。

 T君―それは毎日新聞外報部に長く勤務し「ガンと戦った昭和史で講談社ノンフィクション賞をとり、いま防衛大学教授を務めている塚本哲也君である。(248、249頁)

 

 塚本氏は次のように述べています。

 

 暗い社会主義の実情を見て,私はこの目で民主主義、資本主義の優位と美点を知った。これは社会主義の現実を見なければ、分からないことだった。私は新聞記者で、現実を見なければ気がすまなかった。そういう意味でヨーロッパに行ってよかったと思っている。 

 日本では社会主義を理想化し、美化する知識人、社会党員が多かったが、これは日本特有の現象だ。フランスやイタリーにも左派はいたが、日本の左派はあまりにも非現実的だった。よくいえば、純粋で世間知らず、夢見がちの理想主義で、社会主義をあまりにも美化していた。ソ連・東欧圏の崩壊は、日本の知識人の幻想の崩壊であり、大きなショックだと思う。(306頁)

 

 皆さん如何でしょうか。その塚本氏が東西ドイツの統一、そしてイラク

クウエ―トに侵攻したニュースを聞いた時点で、これからは関係が複雑な中東が、中国とともに国際問題の焦点になりつづけると思ったのです。予見することは、将来の見通しが書けるということなのです。

 

 また、東洋英和女学院大学教授時代には次のように指摘しております。

 

 私はヨーロッパにいるとき、高齢化社会の現実を見た。若い人が少なくなる少子化、高齢者が多くなる高齢化社会では、核家族化し活気がなくなる反面、社会人の相互援助の精神が必要であった。ヨーロッパではまあうまくいっているように思われた。それはキリスト教が基盤にあるからであった。

 日本は高齢化社会に入っているにもかかわらず、物心両面準備が遅れていた。あまり急ピッチで高齢化が進むので間に合わないのと、戦争中の反動で、戦後は間違った個人主義、いうなればエゴイズムがはびこり、相互扶助の精神が社会に欠けて行ったためである。(328頁)

 

 晩年の孤独

 

 哲也氏はカトリック教徒であるルリ子氏にも喜ばれるなか、聖イグナチオ教会で1988年にカトリックの洗礼を受けます。私は、ふと、「戦艦大和ノ最後」等を著わした吉田満カトリック教徒から奥さんのプロテスタントに改宗したことを思い起こしました。

そして哲也氏の最愛の妻ルリ子氏が1999年、脳出血で倒れ、続いて同氏も脳出血で倒れ、右半身が不自由となります。尚、ルリ子氏はその病気の為、60年以上も弾いてきた自分の生命ともいうべきピアノが既に弾けなくなっています。そのお二人の厳しい、且つ愛情あふれる病院等でのリハビリ生活、そして集中治療室でのルリ子氏の最後の情景が語られていきます。涙なくして読み進めることはできませんでした。そのなかで、次のように心に残る二人の会話が綴られます。

 

 戦後、六十年になったんだね。あれからなあ。・・日本は豊かになったが、心は貧しくなった。我々は「衣食足って礼節を知る」と教わったけれど、実際はそうでなかったね」「その逆になってしまったわね」

 これは前からの二人の共通の思いであった。ただ、今になってみると、どうしてこんな歌や大正、昭和の話になったのか不思議である。老人の心の、不意の里帰りなのだろうか。(443頁)

 

おわりに

 

 中国は何十年に亘り、共産党政権による国策として反日教育をしてきております。韓国も同様に時の政権維持のためでしょうか、反日教育をこれも何十年に亘り行ってきました。従い、今日の情報化時代といえども両国の人々の日本、及び日本人への感情が好転することは極めて難しいと私は考えております。かっての日本の敗戦のような大きな変化でも起こらない限り、その解消・解決は世紀を超えても難しいのではないかと考えます。必要なことは我々が両国に対し一喜一憂しないことです。極めて難しい外交交渉ですが敵対することではなく、極めて冷静に対処していくことです。そしてアジア諸国、オセアニア諸国は当然のことですが、価値観を共有する世界の諸国との連携を更に進めることが今後の日本にもっとも重要であること。日本一国では日本の安全も、平和も維持できない、この世界状況を認識することです。残念ながら共産党独裁政権の中国は中華大国の復権をめざし、核心的利益と称しながら事を強引に進めているように思います。かっての日本が戦前、戦中に辿った道を歩んでいるように私には見えます。

 

 塚本氏はこの「晩年の孤独」の章の最後に次の文書を記しています。長くなりますがそれを紹介し、今回のいらぬ、あまり意味を持たない私の想いを閉じます。

 

 今、時代は大きく動いて、アジアでも中国が南沙諸島に軍事基地を造り、周辺の国々に不安を与えて、米国との関係が悪化している。中国のアジア進出は、日本をはじめベトナム、フィリピン、オーストラリアなど多くの国に大きな不安を与えている。中国は南沙諸島付近に空母二隻を配置するなどしているが、私はこれらの動向に大きな不安を感じている。佐々淳行氏がいう国家としての危機管理体制の整備が、今こそ必要だろう。

 

 また、フランスのオランド大統領はフランス国土での「新しい戦争が始ったのだ」と宣言し、フランスとロシアは手を組み、イスラム国に対決している。かって一寸先は闇であると、日本の政治家がいったが、それは今も変わりない。

 誰でもそうであるように、私も平和を望む平和主義者だが、平和は声高に叫び、望むだけで保てるわけではない。日本でも集団的自衛権をめぐる論議が盛んだが、パリや中東での多くの犠牲者を見れば、日本では内向きの論議が多すぎて、これでは急速に変わってゆく国際的な情勢、論議にはついていけないだろうと、懸念している。(中略)

 私は中国の漁船四百隻が日本の近海で赤珊瑚を獲りに来たときに、その数と速さ、獲っていった珊瑚の量がすごいと思い、不安になったが、この中に中国海軍の関係者がいても見つけようもないと推測したりした。平和を望み、唱えるのは誰でもそうであるが、平和を守るのもどこの国もやっていることだ。

 1960年の安保改定の反対した多数のデにモ隊は後にすぐ、高度成長に乗り換え、うやむやになったりしたように、集団的自衛権に反対した人々は、パリやロシア機の大量殺人事件をどう見ているのだろうか。私は内向きの集団的自衛権よりも、これらから時代の大きな変化の中で、日本はこれから何をなすべきか、前向きのことを考えていたが、「日本の敵、よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)に出会った。宮崎邦彦氏という外務省政策研究所所長で、中国は今、かっての日本の満州事変のような方向に進んでいるのではないかという問題を含め数々のテーマーを提起し、私はこれからの日本が進むべき方向についての多くの示唆を受けた。(504,505頁)

 

2016年8月26日

                          淸宮昌章

 

参考文献

 

 塚本哲也著「我が家の昭和平成史」(文芸春秋企画出版部)

 吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

 佐瀬昌盛著「摩擦と革命」(文芸春秋)

 千早こう一郎著「大和の最期、それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社)

 顔伯鈞著「暗黒・中国からの脱出」(安田峰俊編訳  文春新書)

 他

日本の愛国心

世相に思う 自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後

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佐伯啓思著「日本の愛国心 序説的考察」等を読み通して

 

はじめに 

 

 舛添知事の辞任に関する一連のテレビを中心とした報道に皆さんはどう思われますか。私は、またも始まったという実に不快な思いを禁じ得ません。

 

 なにも舛添元知事を応援するということではありません。ただテレビに出てくる司会者、コメンテーター等々による、独りよがりの思いつきの正義といったものに私は強い嫌悪感を抱くわけです。情報がテレビから他の媒体に移行しているとはいえ、その元になっているのはテレビ等の報道によるものが多く、そうした報道に世論と称するものが大きく左右される、その現状に不快を感じるわけです。

 

 加えて、テレビ等に現れる皆さんの応答はどういうわけか、「都民として舛添知事の言動は許せない」となるわけです。何故、「私は許さない。反対です」とならないのでしょうか。そうした第三人称的表現はいつ頃から出てきたのでしょうか。なにか全てが第三者的表現になっており、そこにはあるべき個人が存在していないように私には思えるのです。

 

 いずれにもせよ、今回の一連の舛添辞任事件はテレビで名前を売り出し、そして正義とは全く別物である、テレビ等の商業主義に裏切られた、と私は考えます。舛添元知事の自信過剰のなせる仕業なのか、あるいはマスメデイアを軽んじた結果なのか。指導者たる者、あるいは目指す者、公私の区別は当然のことですが油断は禁物、責任をとらないマスメデイアは要注意なのです。

 

 今回の事件とは直接関係するわけではありませんが、大野裕之著「チャップリンヒトラー」はメデイアについて、一つの参考になるように思います。本書は1889年4月16日生まれのチャップリンと、4日遅い同年の4月20日生まれであるヒトラーとの戦いを描いた映画「独裁者」の誕生に至る経緯を綴った研究書です。「独裁者」はチョビ髭の放浪者チャーリーが登場する最後の作品であるとともに、チャップリンが台詞を喋った最初の作品です。

 

 加えて、史上初めてそのキャラクター・イメージを全世界に行き渡らせたメデイアの王様チャップリンと、イメージを武器にメデイアを駆使して権力の座についたヒトラーとの対比を描いたものです。今日の我が国のメデイアを考える上でも極めて参考になると思います。本書の中で、いわゆる時の進歩的知識人といわれた高見順でさえ、戦前においては映画「独裁者」に対し、「天に唾するような結果」との酷評が戦後、百八十度変わってしまうことを嗤うのはたやすい。しかし、より注目すべきことはメデイアが作り出す世論と称するもの、時の流れ・リズムである、との大野氏の指摘があります。

 

古川隆久著「昭和史」への違和感

 

 同氏については優れた著書「昭和天皇 理性の君主の孤独」を以前、御紹介致しました。今回は同氏が若い方々にも読んで頂きたいとの思いもあり、本書を著わしたようです。ただ、戦前・戦中・戦後を一冊の新書版で綴るのは、少し無理ではなかったかな、と僭越ながら私は感じております。

 

 著者は昭和史をみる観点として、一つは庶民の視点を重視したいこと。二つは国際関係を重視したいこと。三つは少数者の観点を忘れないようにしたい、記されております。そのような観点からもあるのでしょうか、主要参考文献には私がさほど目を向けてこなかった文献も数多く、改めて一読を感じました。著者は最後の章で「昭和天皇は、一生のうちに最高権力者と国民の象徴という、全く異なる立場を経験し、戦後は毀誉褒貶のはざまで苦しんだ。昭和という時代の複雑さを体現した一生だった。」(370頁)、本書を結んでいます。

 

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 かの高名なヴァイツゼツカー大統領の「荒れ野の40年」、「愛国心を考える」、「基本法と共に40年」等々の演説集を改めて読んだ上なのですが、古川氏の今回の著書で違和感をもった箇所をあげます。第4章・民主化と復興の中で古川氏の次の指摘です。

 

 だから、東京裁判や戦犯裁判は、ドイツにおける戦犯裁判と同じく、史上空前の犠牲を出した大戦争、という不条理な愚行によって家族や友人を亡くし、営々と築いてきた生活を壊され、心身ともに傷ついた内外の人びとのまっとうな怒りに、人類社会が対応するために必要な手続きだったといわざるをえない。(244頁)

 

 私が何故に古川氏の指摘に違和感を持つのか、以下、私なりの感慨をご紹介したいと思います。

 

佐伯啓思著「日本の愛国心 序説的考察」への私感

 

 前回の4月13日の拙稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」の最後に、「・・侵略戦争という原罪を背負い、その贖罪意識から来る一連の思考・行動が日本自らを縛っているのかもしれません」、と記しました。そのようなあやふやな私の感慨に本書は明快なひとつの回答を与えてくれました。尚、本書はニューヨーク駐在時代にお世話になった取引先銀行の支店長で、帰国後は副社長等々歴任された方で、30数年経った現在でもお付き合い頂いております。そして数ヶ月前に本書を紹介して頂いた次第です。

 

 佐伯氏はその序論に記しています。長くなりますがご紹介します。

 

 愛国心について書くことは難しい。ひとつの理由は、この主題がどうしてもある種の価値判断や態度選択を迫るところがあるからだ。愛国心という言葉を聞いて全く無関心というならともかく、多少とも関心をもつ者であれば、この言葉に対して全面的に価値中立的、あるいは感情中立的というわけには行かないであろう。

 

 どこか身の引き締まる思いをもつ者もいるだろうし、逆にほとんど反射的な嫌悪感に襲われる者もいるであろう。どちらにしても、これほど評価の分かれる観念はそれほど多くはない。愛国心を論じるということは、多少なりとも思想的に踏み絵を受け踏まされるようなところがあり、それゆえわざわざ、頼まれもしないのに自ら進んで踏み絵を踏もうなどというもの好きもあまりいない。・・(中略)愛国心を論じるにはもうひとつの困難がある。(中略)愛国心というのに対する今日のわれわれの態度が、奇妙にねじれ、いわば抑圧と暴発のはざまにあって不安定に揺れ動くものになっているからである。その理由は簡単である。今日の日本の愛国心の問題は「あの戦争」と切り離すことができないからだ。そもそも「あの戦争」を、大東亜戦争といったり、太平洋戦争といったり、あるいは十五年戦争といってみたり、アジア太平洋戦争と呼んだり、しかもその呼称そのものに党派制が生まれてくる、といういささか異常な事態を思い浮かべてみただけでもこのことは明かであろう。呼称が定まらないという異常さは、戦後日本のナショナリズムの問題の特異な性格へと直結してくる。(12から20頁)

 

 以下、私なりに要約しますと、この問題を複雑にしたのは、「あの戦争」をただ敗北の戦争であったとういだけでなく、道義的にも誤った戦争であり、日本は、ただ英米と戦って敗れたのみならず、アジア諸国への侵略戦争を仕掛けるという誤りによって大戦を引き起こしたのであり、それゆえ断罪されてしかるべきある、という価値が付加された。これが戦後日本の公式的な戦争解釈であり、戦後平和主義や民主主義の基底においていっさいの疑問を拒絶したのが戦後日本の思想空間であり、その思想空間にしっかりと胡座をかいたのが左翼であった。

 

 一方、保守派は「積極的な戦争解釈を打ち立てるというよりは、左翼的な「侵略戦争史観」の公式化に対する反発的なニュアンスが強く、「アジアの開放」という「意図」も無視しえないし、当時の列強による帝国主義的国際状況とアメリカの圧力を無視しえないという。

 だが、ここで奇妙なねじれができてしまっている。通常は反体制を自認する左翼が実はどっぷりと戦後体制の公式的価値観に浸かっており、通常は体制派とみなされる保守派が、戦後の体制的(公式的)価値を批判しているからである。

 

 上のような序論から本書は始まり、第一章「愛国心という難問」、そして、ナシナリズムや愛国心についての思想的で概念的な事項に関する第二章「愛国心愛郷心ナショナリズム」、第三章「愛国心と近代国家の論理」等々と展開していきます。

 

 今回も、本書全体を解説するのではなく、私が共感、感銘を受けたところを紹介致します。従い、著者の言わんとすることとは異なり、私の単なる勘違い、誤解も多々あるかもしれませんが、ご容赦願います。

 

その1 愛国心と二重価値

 

 第一章「愛国心という難問」で、著者が戦後日本は、価値観の上で「二重国家構造」となっていった。公式的には戦後は戦前の否定の上に成り立った。しかし非公式には誰もそれを額面通りには受け入れなかった。多くの人は、戦争についての無条件の反省をあたかも踏み絵を踏むかのようにいくぶん躊躇しつつも表明し、他方で「誤った戦前」と「自由と民主主義の正しい戦後」という公式的対比は、敗戦日本を国際社会に復帰させ、復興するための、なかばやむをえない手続きだと考えた。公式的には、自由・民主主義・平和主義という「普遍的価値」を唱え、非公式には「日本的なもの」への関心を保ち続けるわけという「二重価値」を作り出した。その公式的価値は保坂正康がいう「顕教」である一方、非公式な日本的なものは「密教」とも称すべきで、その「顕教」が力を持った、と著者は指摘しています。

 

 さらに、戦後の知識人の世界にあっては、「ナショナル・アイデンテイテイ」に関する思考や概念は極力回避されるといった偏った傾向が醸成されてきた。戦後日本の社会科学の大勢は、体制批判を行うという批判主義的ポーズを衣装として、実は最も「戦後体制」に寄り添ってきた。それは戦後の公式的言説の代弁者を引き受けてきた。丸山真男に呪縛されてきた。「愛国心はなくならない。ではそれを民主化すればよい」という議論において、戦後日本の愛国心という問題の決定的な論点が抜け落ちており、良かれ悪しかれ戦後日本の愛国心は、もっと屈折したもの、いわば心理の下層に鬱屈して捉えがたいある種の感情を含んでいる。そのことを直視することを戦後の知識人はタブーとしてきた、との著者の指摘です。

 

その2 負い目とはなにか

 

 前回の拙稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」において、私は「侵略戦争の原罪・贖罪意識」という表現をしました。対し、碩学の著者は「負い目」という心に刻むような表現をされております。改めて私は納得というか、共感を覚えたところです。

 

 著者は第四章「負い目をもつ日本の愛国心」で、8月15日を「終戦記念日」とするが、それはなんの記念日であろうか、と問うわけです。丸山真男のように、この日を境にして新生日本が立ち上げられたという、意味があるだろう。しかしそれはひとつの価値観であり、さらにいえば占領政策を行ったアメリカの価値観で或る。進歩的知識人が理想化した戦後民主主義と平和主義は、実はGHQによってもたらされたもので、そこには敗戦と占領という現実が横たわっていた。この現実から立ち現れる「傷つけられた誇り」に蓋をして、そのいっさいを忘れたかのように振る舞う戦後知識人の倒錯こそが、鬱屈したナショナリズムを生み出す。実際には戦後左翼知識人の多くは、戦争中は愛国主義者であった。

 

 とすればそこにはどうしても「負い目」があるはずで、それはまさに「日本人であるという意識を持って死んでいった者」への「負い目」以外の何ものでもない。あの戦争において、あたかも「犬死」であるように扱われた死者たちへの鎮魂はどうなるのか。戦後という、のっぺりした時空の中で、表面的には民主主義がにぎやかで騒々しい大衆政治を実現し、ありあまるほどの国民的資産を何に投資してよいかわからずに呆然としている今日の「日本人」を見たとき、この平和と繁栄を、戦前の「過ち」を改めたからというだけで礼賛できるのであろうか。それでわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか、と著者は鋭く突きつけています。

 

 私が以前にご紹介してきましたが、「死者の目になりかわって戦後を見てきた」吉田満についても本書は多くの頁をさいています。以下触れてみます。

 

 「戦艦大和ノ最後」に記された臼淵大尉の「敗レテ目覚メル。ソレ以外ニドウシテ日本ガスクワレルカ」という臼淵大尉の証言を引用し、続けて「臼淵が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。(中略)政府から金をもらって特権的な立場において優雅な大学教授をやりながら反政府的言辞を弄して平和や民主を唱える知識人を、いかにも良心的で「進歩的」として賛美するメデイア。「恐るべき俗化の時代」とはこのような欺瞞を醜悪とも薄汚くとも思わなくなった戦後の「進歩主義」的精神であった。三島はそこに耐え難い腐臭を嗅ぎ取ったわけである。(221,222頁)

 

その3 歴史観愛国心を問う

 

 東京裁判を受け入れることの意味あいは何か。重要なのでその全文を以下紹介します。

 

 日本、ドイツ、イタリアは同盟国であったが、それを皆ひとくくりに世界制覇の意図をもったフアシズム、という一語でくくることができるのか。特に、ナチス・ドイツと日本の天皇制・軍国主義は同一視できるのか。ドイツの場合に決定的な問題のひとつは明確な意図をもったユダヤ人殲滅であったが、これに相当する意図的計画は日本にはなかった。

 

 あの戦争をフアシズムの世界支配から自由や民主主義を守る戦いとみなすのはあくまでアメリカの立場であり、それ自体が、また後述するようにひとつの歴史観を体現したものであった。日本はその種の歴史観は果たして共有しているのであろうか。

 

 軍国主義的な戦争指導者と、彼らの犠牲になった国民という分離は果たして可能なのか。むしろ、開戦にいたる経緯においては、マスメディアも含めて、国民の大半は積極的に戦争を支持もし、日本の「国力の増進」に喝采を送ったというべきではなかったか。

    (273,274頁)

 

 この三つの論点について、多くの者は決して納得できているわけではなく、ここに歴史観の二重構造ができた。公式的には東京裁判の判決だけではなく、ひとつの歴史観としての「東京裁判史観」まで受けいれたかのように見做した、との著者の指摘です。

 

 私が先にあげたドイツの敗戦40周年に際しての大統領ヴァイツゼッカーの国会演説との比較において、古川氏が日本の「あの戦争」をドイツのそれと同一するかのような指摘に私は違和感を持つわけです。

 

 さらに著者は第六章「日本の歴史観愛国心」へ論を進めます。学徒兵が戦地に携えた「万葉集」にも言及し、日本人の精神に流れるものを模索しながら、日本の歴史観愛国心とはなにかを進めて行きます。

 

 

その4 もうひとつの愛国心とは

 

 一般的には日本の近代史において、明治の国家建設は誇るべくものであったが、昭和に入り統帥権を盾にとった陸海軍の独善と暴走によって戦争が引き起こされた。すなわち、基本的に明治以降の日本の近代化は評価されるものの、昭和の時期、とりわけ満州事変以降の一時期は本来の近代化からの逸脱であった。これは司馬遼太郎丸山真男にも共通する見方である。しかし、事態はそれほど容易なものではない。明治の近代化は肯定されるべきだが、問題は昭和の軍部独走にあった、という了解は妥当であろうか。歴史事実の検討ということではなく、論理の問題、日本の近代化というロジックに内在する思想の問題においてなのだ、と著者は指摘するわけです。続いて、以下のように論を展開致します。

 

 昭和の大戦へ向かう日本には、当時の政治指導者たちの無責任、軍部の専横、外交の失敗などといういかにももっともな解説ではとても了解できないある「流れ」があり、その「流れ」が、政治家も外交官も、軍人も、国民を丸ごと飲み込んでいったのではなかったのだろうか。歴史学がいかにそれを迷妄と呼ぼうと、そのような感じ方が「日本」の中にあることは歴然としている。このように考えたいのである。(310頁)

 

 さらに西田幾太郎の京都学派の問いかけ、哲学も歴史観は、戦後いっさいかえりみられることなく排斥され、あるいはきびしく封印された。だがその問いかけは本当に間違っていたのか。そして以下のように続きます。

 

 丸山真男は、西欧と比した場合の、日本の後進性を、まさにこの天皇像の中に見いだした。日本の天皇は、西欧の立憲君主とは異なり、国家の源泉であり、本来は私的で個人的なものであるはずの価値や信仰を天皇が独占し、それが国民全体の価値となった。その結果、日本では個人の私的領域が十分に自立できず、すべてが「お上の意思」にしたがうという全体主義国家へと移行していった、というわけである。(366,367頁)

 

 しかし、それはあくまで西欧近代国家を基準にしたものである。問題は何故に日本が矛盾を抱えた天皇制を国家の中心に据えなければならなかったか。明治維新が「革命」であると同時に「復古」でなければならなかったか。明治維新は西洋の衝撃のもとで日本を近代化するという大事業の機転となったのであり、その近代化は日本の歴史的伝統と、その伝統にまつわる本来の日本的精神への復古でもあったはず。日本が西欧型の近代国家建設に遅れをとったと批判しても意味はない。明治以降の日本の近代なるものが、いかにして西洋中心に拡張する世界の中で日本の独立を確保するか、という世界的状況への苦肉の回答だったということだけであろう。

 従い、明治以降の日本近代化の帰結としていえば「大東亜戦争」こそ、まさにその種の戦いであった。こういう理解は当然でてくるであろう。そしてこの宿命的な性格は、敗北の美学という哀調を持った悲劇的性格へと結びつけられていった。いかなる戦争にあっても生じる残虐、非人道、大量殺傷という普遍的な悲惨の中にあって、日本の「あの戦争」をすこしばかり特異なものにしている悲劇的な性格は、日本の近代化のプロセスとその帰結としての「日本的精神の敗北」という自意識にあるだろう。いわゆる特攻こそがその悲劇的性格の象徴であったと、著者は記しています。そして、「日本の愛国心」とは何かについて改めて検討するわけです。

 

 あの戦争については、アジア・太平洋戦争という「侵略戦争史観」と大東亜戦争という「解放と自衛の戦争史観」に二つが対立しあい、日本の「愛国心」へ向かう態度も常にこの対立に焦点を当てたもので、この二つの「史観は」永遠に和解し得ない。そして「愛国心」という概念はこの構図に対する評価を示す象徴的概念になっている、すなわち侵略戦争史観=反愛国派、大東亜戦争肯定論=愛国派という図式である。

 

 しかし、この時代に生きた者たちは、目の前の戦争が侵略戦争か解放戦争かなどと考えて戦争に臨んだわけではないし、戦争の意味を正義の観点から評価しようとしたわけでもない。彼らは、ただ苦難の中で、戦争というものを経験したのであり、その限りで、戦争の意味づけなどとは関係なく、程度の差はあれ「愛国心」を発揮しようとしたというほかはない。ここでは「愛国心」に良いも悪いもない。地獄のような戦場へは行きたくない、死にたくない、とんでもない戦争である、というのはしごく当然の感情であろう。だがそこに作動する、決して声高に叫ぶものではない、底辺の「愛国心」というものがその悲痛を支えようとするだろう。かくて二つの「史観」のもう一歩奥底には、戦時という経験の中で、出征する兵士たちの心情とある程度つながった「愛国心」のありようがあったであろう。しかも、戦争が悲惨なものとなればなるほど、「愛国心」も悲劇的な調子を帯びてくる。(387頁)

 

 万葉時代から見られるわれわれの奥底に沈殿している「日本の精神」や「日本の歴史認識」に遡ることが必要なのではなかろうか。その上で、この(表面上は)豊かで平和な時代だからこそ、あの日本の歴史の中でもっとも苦悩に満ちた時代の人々の生をある共感を持って想起したい。われわれの生きているこの時代の対極にあったような時代、日々死と直面していた時代にあって、人々を支えた「日本」というものの表像について想起したい。そうしたことにより、われわれは、ささやかながら「伝統」の正当な継承者になっていることができるのであろう、と著者は本書を結んでおります。如何思われるでしょうか。

 

2016年7月1日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯敬思「日本の精神」(中央公論社

 大野裕之チャップリンヒトラー」(岩波書店

 古川隆久「昭和史」(ちくま新書)

 同   「昭和天皇」(中公新書

 永井清彦編訳「ヴァイツゼッカー大統領演説集」(岩波書店

 吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

 同  「戦中派の死生観」(文芸春秋

 同  「散華の世代から」(講談社

 江藤淳「言語空間」(文芸春秋

 司馬遼太郎「昭和という国家」(NHK出版)

 丸山真男「現代政治の思想と行動」(未来社

 選択5,6月号

 他