清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

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はじめに

 

 東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。

 

 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺譚」の一読、「断腸亭日乗」を拾い読みした程度で、その作品はほとんど読んではおりません。偶々、自分なりに昭和の時代を省みる資料のひとつとして、半藤一利荷風さんの昭和」、「荷風さんの戦後」を読み込み、荷風が風景を描く文章の素晴らしさを私なりに感じ入っては居りました。

 

 また、私の単なる思い出に過ぎませんが、私が高校一年の学校帰り、時折、永井荷風が京成線の終点の押上駅から乗って来られ、隣に座ったり、前に座ったりされていたことを思い起こします。いつも、例の帽子をかぶり、やや重そうなボストンバッグを座った両脚の真ん中の床に置いておりました。浅草通いの帰りだったのでしょうか。偶々、お互い帰り道での遭遇だったのですが、当時は永井荷風とは気が付かず、数年経って知ったわけです。芥川龍之介堀辰雄文人を輩出した旧三中に私も偶然通った次第ですが、荷風に気が付かなかった自分に今もって、残念な気もしております。

 

 本書は以下の印象深い冒頭から始ります。

 

 恋に「片恋」があるように、人と人との間にも、それに似た悲しい思い出があるものだ。私と永井荷風との関係の如きも、そう言えるだろう。もし荷風という作家が丁度あの時私の目の前にあらわれなかったら、私は小説家にはならなかったろうと思う。それほど・・私の一生を左右したほど大きな存在だった荷風に対して、私はついにわが崇拝の思いを遂げる機会にすら恵まれなかった。それだけならまだいい。私は荷風一人を目当てに、あわよくば彼に褒められるかもしれないと思って書いた第一作を、彼の個人雑誌で嘲笑された。・・(中略)荷風に教わりたくて、私は三田の文科にはいったが、とうとう教わらずにしまった。顧みるに、荷風の文学に惚れて惚れて惚れぬいて、得たものは嘲笑に始って悪声に終わったのだ。こういう人生もまた逸興であろう.(3、4頁) 

 

 続いて、そのあとがきに加え、追記に、これまた強烈な記述があります。以下ご紹介致しますが、そうした一連の記述が目に飛び込んできたことが本書を買い求めた大きな理由なのです。

 

 彼の「日記」が語っているように、荷風は日本には珍しい血の冷たいエゴイストである。荷風に親譲りの財産がなく、彼の好きなボードレールのように、原稿料で生活して行かなければならない作家であり、いやでも応でも、あのエゴイストを剥き出しにして現実を生活しなかったことを私はかえすがえすも、彼のためにも、日本の文壇のためにも、大きな損失だったと思う。いや、それが本当の小説家の生き方なのだ。

漱石に「道草」を書かせ、鴎外に「渋江抽斎」を書かせたように、荷風に彼自身のエゴイズムがいかに現実生活と悪戦苦闘したかを書かせたら、日本のたった一人の特異な小説家が生まれ出たと思うのだ。財産があったばかりに、彼独特のエゴイズムを直接現実生活に接触する機会をなからしめ、逃避の、一人よがりの、隠居のような、趣味の生活に一生を終わらせたことは、一生を誤ったとしか思えず、あたら才能を完全に発揮させず一生を終わらせたことは、幾ら考えても残念で仕方がない。

 荷風は一種の名文家に違いない。しかし、鴎外が「渋江抽斎」で自分の文体を完成したように、また徳田秋声が「のらもの」で彼の文体を完成したように、荷風は彼自身の文体を完成しずに終わった。若し彼が私の言うように、彼の性格で現実の人生を生活したら、恐らく彼の好きなボードレールのように、彼自身の本当の名文を生んだであろう。

 そういう意味でも、私は彼が性格そのもので生活と取り組まなかったことを取り返しの付かぬ大きな失敗だったと思わずにはいられない。(391、392頁)

 

 このあとがきの日付は、永井荷風死去13年後の昭和47年10月31日です。加えて、小島政二郎の甥、稲積光夫が書いた追記の日付は平成19年7月16日となっています。即ち、本書の発刊には原稿完成から35年の年月が流れたわけです。その訳は小島政二郎が発刊しようとした時点では、永井家の許可が得られず、35年後に、鳥影社より「小説としても資料価値としても素晴らしい」とのことで、幻の作品であった「小説 永井荷風」が日の目を見ることになったわけです。

 

 そして、そのあとがきから46年を経過した今年、私は、吉祥寺の風情漂う古本屋で本書と遭遇したわけです。本書は明治、大正、昭和の文壇を垣間見る上でも、極めて貴重なものと思いまます。今回は荷風の文学云々とはだいぶ隔たりますが、著者が荷風の生い立ち、その性格について記述された、私には強く印象に残った箇所を私なりに紹介致したいと思います。

 

永井荷風との出会い

 

 小島政二郎は冒頭に記しております。荷風が「あめりか物語」と「ふらんす物語」とを土産に、パリから帰ってきた当時の颯爽とした姿。すなわち六尺近い上背、リュウとした黒の洋服に、黒のボヘミアン・タイを牡丹の花のように大きく靡かせ、色白の、面長の顔に、長い髪の毛を真ん中から分けた、当時の文士とは似て似つかぬ荷風を私はみんなに見せたかった。著者は荷風に憧れ、小説家を目指したのです。荷風より15才より若い少年でした。ただ、当時の文士は雑誌社が取り仕切る原稿料だけの生活は苦しく、文士には家を貸してくれなかったとのことです。その状況は明治、大正、昭和になってからも然りで、原稿料だけで一家を支えて行けるような時代の来ることをしじゅう文士達は話題にしていた、とのこと。当時の著者自身の状況を次のように述べています。

 

 一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、路地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素すぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前に連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。(10,11頁)

 

 原稿料を払って雑誌に載せた以上、その作品の版権は作者にはなく雑誌社にあると考えられていた。その後、印税という制度が導入・確立され、今日にまで至っている。それは森鴎外の多大な努力のお陰であり、その功績は極めて大きく、それ以降の印税の利得者は、鴎外の恩を忘れるな、と著者は記しています。それ以前では、文壇の大御所の菊池寛、芥川さえ、一方に勤めを持ちながら小説を書く二重生活を呪っていた、とのことです。いずれにもせよ、印税制度がない当時の状況にあって小島政二郎は貧乏暮らしを覚悟の上、小説家を目指すわけです。アメリカ及びフランス帰りの如何にも颯爽とした荷風、そして、「あめりか物語」、「ふらんす物語」が著者に大きな影響を与えたのかが分ります。尚、「あめりか物語」については次の如く記しております。

 

 「あめりか物語」には、小説にならない風景描写や、落葉に寄せた感傷や、そんな種類の作品が少なくない。が、そこに盛られている彼の感想が新鮮で・・これまでの日本の文壇にはなかった豊かな、色彩のある、歌うような文体で語られていると、私達はそれだけでウットリさせられてしまうのだった。(21頁)

 

荷風の生い立ち、その性格

 

 荷風は明治12年、永井家十二代目永井久一郎の長男として、東京牛込大久保余丁町の千坪もある来青閣にて生まれます。永井家は徳川家康の家臣で、所謂名家であり旧家でした。父である久一郎は儒学を修める旁ら、詩をも学び、その後、神田一ッ橋の大学南校に入り、更にアメリカ留学ではプリンストン大学他で学びます。その後、内務省衛生局に勤め、東京帝国大学書記官になり、文部省会計局長を最後に官を辞し、日本郵船の上海支店長、横浜支店長を歴任しています。   

 所謂、荷風は金持ちの名家育ちで、当時の文士とは、その環境が大きく異なる乳母日傘育ちであったのです。父とは異なり、高等師範の付属中学では二度落第、徴兵検査も不合格。早熟でその生活は所謂乱れたものでしたが、小説家になるとの意志は極めて強い少年で、厳格な父親には大きな庇護を受けながらも最後まで怖く、逃げ回っていた。父親が望む大学はおろか、高校にも進まず小説家になったら父親から勘当される怖れで、その備えのために無名の落語家「むらく」に弟子入をしていたこともある、とのことです。何とかして、自分の才能を見出そうとしての足搔きでもあったのでしょう。著者は次のように記しています。

 

 そうして何をやっても駄目で、また素の小説家に戻って来たのだと思う。あれだけ迷った挙句に、やっとこれ以外に自分の行く道はないと覚悟を決めたのだと思う。いや応なしに、勘当されたら勘当された時のことだという腹が・・というと立派だが、そうじゃない、一種の不貞腐れでそうなったのだと思う。・・(中略)私のつくづく感心するのは、坊ちゃんの向こう見ずに似ているとは言え、無鉄砲な勇気と、一種の情熱と、こうと思ったことは必ず実行する青年らしい実行力と、この三つのものを持っている荷風の姿を彷彿としずにいられないことだ。(65頁)

 

 父親としては、荷風のそうした怠惰な生活に区切りを打ち切らせ、真面目な勤め人にさせるべく、荷風数え25才の時、アメリカ行きを命じます。そのときの荷風の心境を著者は次のように記しています。

 

 若い彼の心は、恐らく悲喜こもごもだったろう。父の命ずるままにアメリカに於いて会社員となる素地を作る自信は恐らくなかったろう。いや、そんな道を辿ろうとする気持ちは、さらさらなかったに違いない。何年かの後に帰ってきたときの父の失望、いや、激怒を思うと心は重く沈む一方だった。しかし外国の土を踏み、外国の生活を身を以って味わうことのできる喜びは、飛び立つほどに大きかったに違いない。彼は身の幸運を父に向かって感謝しずにはいられなかったろう。(72,73頁)

 

 荷風アメリカでの生活が始ります。父親のつてで、数カ所の勤めを変えながらも、ハイスクールに入り、再びフランス語の勉強を始め、ついには直接モーパッサン他を原語で読みこなすに至ります。結果的には、当時の日本の自然主義革命に曝されず、無理のない道程を経て自己の文学を発見することができるに至るになった、と著者は記しています。タコマ、シアトル、ワシントンを経た荷風は、再び父の斡旋でニューヨークの横浜正金に勤めます。そしてニューヨークに追ってきた娼婦イデスとの同棲生活が始ります。そうしたことは父からの送金はあったとしても、自らの俸給での生活です。足掛け五年、そして荷風が小説家になることを厳しく禁じた父は、荷風が文学研究のために、フランスに渡ることを峻拒しながらも、彼のために、陰では東京で正金銀行の頭取に遭い、パリではなしにリヨンの支店勤務を頼むわけです。そしてリヨン在は正味九ヶ月、パリはその後二ヶ月を過ごした後、荷風は日本に帰国します。

 

 尚、著者は荷風の合理的な生活法、金の使い方を身につけたのは一般に言われるフランスではなくアメリカであり、一生の一番大切な時期に、アメリカで自活生活したことである、と記しています。

 

アメリカでの自活生活

 

 すこし長くなりますが著者の重要な視点なので、以下ご紹介致します。

 

 自分で稼いだ金で実際に一日一日生活するということは、小説家にとって、いや、小説家に限らない。どんな人間にとっても、大事な意味がある。自己を発見する近道だからだ。たといどんな生活をしようとも、肝にこたえるような生活をしていれば・・。彼はイデスに惚れながら、惚れ合っている最中にも、別れることを考えている。これが荷風なのだ。荷風の個性なのだ。こうして一つ一つ、自分の個性を発見して行くのだ。それが生活の豊かさだ。・・(中略)自分の稼いだ金で自活するということは、誰でもやっている当たり前のことで、特に取り立てて問題にする程のことではない。百人が百人そう思うだろう。しかし、実はそうではないのだ。実に大事な大事なことなのだ。つまらない人は、何も学ばないかも知れない。しかし、つまらなくない人は、自己の日常生活から、大きなものを学ぶのだ。日常生活を置いて、何から人は大切なことを学ぶのだろうか。・・(中略)父の目の届かぬアメリカで、父の指図に従って神妙に銀行勤めをしていると見せ掛けて置いて、その実、女遊びはする、小説は書く、将来文学者として立つ準備は怠らない、何のことはない。父を瞞しながら、完全に自分の思うような生活を享楽していたのだ。享楽しながら、フランス語をものにしたこと。小説家としての荷風を「花咲く樹」にまで一人で育ち上げ点、彼は異端者だと思うが、文学に対してだけは信仰を持っていた。それも、熱烈な信仰を。(117から126頁)

 

帰国後の文士荷風

 

 満29才になりますが、8月に荷風は帰国します。その一月前には日本で「あめりか物語」が発売され未曾有の評判となり、そして彼は一躍流行作家となり、帰朝大歓迎を受けます。荷風の生涯で一番うれしかったことだろう、と著者は記しています。加えて、その「あめりか物語」が「アメリカ物語」ではなかったことも、魅力の一因であった、とのことです。その後、当時のめぼしい雑誌「中学世界」「趣味」「新潮」「中央公論」「「早稲田文学」「新小説」他に荷風の作品が載っていきました。その作品を上げると、「狐」「祝杯」「牡丹の客」「すみだ川」「見果てぬ夢」等々です。そして著者は以下の如く記しています。

 

 荷風は、実にいい時に褒められた。あれほど絶えず彼の念頭を去らなかった文壇が、双手をあげて満面の笑みを湛えて歓迎してくれたのだ。こんな仕合せな作家はめったにいない。私の知ってからだって、荷風以外は一人もいなかった。派手な売り出しをしたと言われる谷崎潤一郎だって、芥川龍之介だって、一部の味方から褒められたに過ぎない.(142頁)

 

 そして、明治43年荷風31才の時、思わぬ幸運が訪れます。荷風が尊敬してやまぬ鴎外、森林太郎慶應義塾文学部顧問より、上田敏とも相談のことだが慶応義塾文学部大刷新の教授としての、以下の要請文を受け取ります。

 

 拝啓、御無音に打過ぎ候。「冷笑」愉快に拝見仕り居り候。陳者、今回慶応義塾文学部大刷新の計画中にこれあり候ところ、三田側一同先日の会議の結果、貴兄を聘して文学部の中心を作り、その上にて万事取り計らわんということに内定いたし候。

(中略)小生に於いて今回の件は是非貴兄の御承諾を得ずしてはやまざる決心に候。見込まれたるが因果なれば、追って上田君より申し込み相成り次第、ご承引下されたく、またそれまでに他の方面のことお決しなさらぬよう、くれぐれも願い上げ候。尚、義塾をして貴兄を重用せしむることは、小生極力取り計らい申すべく存じ居り候。二月四日

 荷風は喜んで受諾したに違いない。一生のうちで、両親に面目を施したのはこの時だけだったろう。物心ついてから、肩身がせまくなく父の顔を見ることが出来たのは、この時だったろう。(180頁)

 

  尚、荷風は大学の教授になったからと言って、別に生活態度を変えるようなことはなく、アメリカにいた時と同じような放蕩生活を送り続けたのです。むしろ地位も出来て、金も入るようになり、アメリカ以前での吉原、州崎から、新橋のような一等地の花柳界へ出はいりするようになります。そして著者は次のように述べています。

 

 どんな日常生活を送ろうが、当人のかってだが、その頃の荷風の日常は、私に言わせれば、退嬰的だった。新橋一丁目の清元梅吉の裏隣りに一家を構えたり、柳橋の代地河岸に引っ越したり、毎日のように梅吉のところへ清元を習いに通ったり、とかく花柳界情緒に浸るのを楽しみにいているような生活だった。

    

 (中略)そういう生活が、彼の芸術に影響をしずにはいなかった。浮世絵の美しさを論じた「浮世絵の鑑賞」や、ゴンクールの「北斎」や「歌麿」の翻訳や、江戸の狂歌を最大級に褒めたり、だんだん文学とは無縁のものとなって行った。「モーパッサンの石像を拝す」を執筆した頃の荷風はどこへ行ってしまったのだろう.。(248頁)

 

 後日、荷風は最後の元老西園寺公望公爵が開く文士との清談会(雨声会)の一員として招かれ、その席上で、公爵より「君のお父さんには、随分君のことで泣かされたものだよ。」と、侯爵が笑いながら言われ、「息子さんもあれだけの文学者になったのだから、何も言うことはないだろう」と、父の久一郎を宥めたと言う話だった、とのことです。尚、その大学教授の34才の時ですが、父親への怖さからでしょうか、下町の裕福な材木商の二十歳いくかいかぬ二女ヨネと結婚します。半年と続かず、著者はヨネに深い同情を表わしております。著者が学校の行き帰りに、四五度ほどヨネを見知っていて、その頃は十七八の清楚な細面のお嬢さんだったこともあり、同情が増したのかも知れません。その後、荷風はもう一度結婚していますが、それも半年と続かなかったとのことです。

 

 一方、その大学教授としての荷風の講義も評判はむしろ悪く、改革どころか学生も増えず、荷風は程なく大学を去って行きます。一枚看板の荷風のいなくなられた「三田文学」はへたへたと潰れ、荷風に憧れ慶応義塾には入った著者は途方に暮れます。当時では誰かの弟子になって何年か修行の後、先生に認められてどこかの雑誌に推薦してもらう外には文壇に出ていく道しかなかったわけです。「三田文学」を居城として文壇に出ていくつもりの著者達は、「禄を失って浪人の身になって見なければ、浪人の悲しみもつらさも分らないように、雑誌を失って見ないと、それを失った文学青年の途方に暮れた寂しさは分るまい。」(283頁)と、記しています。 

 

 そうした経緯もあり、著者の荷風に対する冒頭の記述になるのでしょうか。 一方、著者は荷風の作品について、つぎのようにも記しています。すこし長くなりますが以下、ご紹介します。

 

 荷風は人生を「物語」にする作家であった。男にも、女にも、人間的に肉薄しようとする興味はなかった。しかし、風俗や、小説が展開する場所、風景には、異常な興味と執念とを持っていた。「すみだ川」の人物は一人も生きていない。しかし、隅田川沿岸の風景描写は、小説に不必要なくらい詳細に生き生きと活写されている。彼が小説の舞台に使おうとする土地へは、煩を厭わず、時間を惜しまず、幾度でも出掛けて行った。そのせいで、我々は忘れない見事な風景描写に接することが出来る。前に抜粋した州崎の描写などそのいい例であろう。もっと示せと言われれば、私は咄嗟に幾つでも挙げることが出来る。芸者の衣装に荷風ほど筆を惜しまなかった作家いないだろう。大正時代の風俗を書き残して置くことに作者の使命を感じている感じ方に私はやはり異常性を感じないではいられない。全部彼の異常性の現れだと見て見られないこともあるまい。彼の作品の最も魅力的な箇所は、彼が無意識に情熱を発揮した時であろう.(336,337頁)

 

おわりに

 

 以上が、私が本書を読み、私なりに荷風の一端を垣間見たところを紹介致しました。肝心の荷風の文学についてはほとんど触れて居りません。片や、著者、小島政二郎は本書の中で荷風の作品あるいは日記の文章、著者自身の作品、更には佐藤春夫の詩、鴎外、久保田万太郎芥川龍之介等々を取り上げ紹介し、荷風論を展開しております。そうしたことを私が省略したことは、何か内容のない、意味を持たないものになったかもしれません。ただ、省略あるいは避けた要因のひとつは、あたら紹介し、かえって著者の意図とは異なることになやもしれぬ、とも考えました。

 

 本書は「小説 永井荷風」との題名です。著者は「私達小説家は、題が極まった時はその小説が半分書けたようなものだ」と記しています。それは本書についても言えることなのでしょう。はじめにも記したように、本書は荷風が生きた明治、大正、昭和の文壇の状況を見る上でも貴重な資料となっております。一読をお勧め致します。

 

 2018年7月11日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

  小島政二郎「小説 永井荷風」(鳥影社)

  半藤一利荷風さんの昭和」(ちくま文庫

  同   「荷風さんの戦後」(同)

  永井荷風「あめりか物語」(岩波文庫

  その他

中澤克二「習近平の暗号 2035」を読んで

中澤克二「習近平帝国の暗号 2035」を読んで

 

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今回の投稿にあたり

 

 この6月12日、シンガポールでトランプ米国大統領と北朝鮮金正恩労働党委員長との間で「合意文書」が署名・発表されました。日本の報道は何か米国と北朝鮮の問題で、日本はあまり直接関係ない、他人事如き報道の有り様に私は大きな疑問と不安を抱いております。大きく変貌している世界状況下に在りながら、日本の国会は森友学園に関わる公文書書き換え問題に大阪地検特捜部が不起訴にしましたが、依然として加計学園の忖度問題を含め、連日の報道合戦を続けております。マスメデイアに翻弄される日本政治の現状は、大きな悲劇といえるのではないでしょうか。私は、繰り返し指摘してきたわけですが、戦前の大阪松島遊郭移転問題、帝人事件の時代を思い起こすわけです。そうした事件はいずれも時の野党が内閣倒閣を起こすために作られた、結果的にはでっち上げ事件でした。連日に亘り新聞等が大々的に取り上げ、やがて政党政治は行き詰まり、日本は大東亜・太平洋戦争に繫がっていったのです。

 

 今日、大きく変貌している国際状況下にあって、日本の安全保障の性格も劇的に変化していると考えます。日本の安全保障の在り方、更には今後の日本の在り方も根本から考え直す時にきたと、私は思っております。片や、今の国会の状況は如何でしょうか。単に平和を享受しているだけに過ぎないと思われる野党の有り様には、国を、国民を守るなどの発想も思想も私にはみじんも感じられません。マスメデイアに囃され誕生した民主党政権時代の、官僚を軽視し、制御できず日本を混乱の極に落とし込んだ、あの時代は何であったのでしょうか。そうした残滓である野党の現状は政党内閣制度の末期的現象とさえ、私には思えるのです。こうした状況・現状をどこかの国々が喜んでいるのではないでしょうか。

 

 残念ながら、その国会議員を選んだのもわれわれなのです。われわれ自身に大きな問題があるのです。平和ボケに安住している、この現状にいちばん大きな問題があるのでしょう。勿論、現与党並びにその国会議員を賞賛しているわけでもありません。与党国会議員の内輪争いは止めることが先決です。迫りくる国難に対し一丸となって、ことを進めることなのです。

 

 尚、日経新聞6月13日付けのコラム「あすへの話題」によれば、佐藤卓己京都大学教授が戦前を含め、メデイア出身議員のメデイア政治史の研究をされているとのこと。輿論(パブリック・オピニオン)と世論(ポピュラー・センテイメンツ)に関わる問題意識に立つ論集を、この秋に公刊されるとのことです。私は興味深く、その発刊を楽しみにしております。

 

 元に戻ります。防衛省の高橋杉雄氏は、今回のトランプ・金正恩の「合意文書」署名の前の時点になりますが、北朝鮮の核弾頭装備中距離弾道ミサイルの出現につき、以下のように述べております。

 

 たとえば1997年に改訂された「日本防衛協力のための指針」では、日本の安全保障に重要な影響を与える事態である周辺事態に際して、日本は自国領域および「活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国の周辺公海およびその上空の範囲」において後方支援を行うと定められたが、これも基本的には日本周辺が安全なステージングエリアであるとの前提に基づいていたと考えられよう。・・(中略)朝鮮戦争からごく最近まで続いてきた、日本が安全なステージングエリアであり得るという前提は、北朝鮮の核弾頭装備中距離弾道ミサイルによって根本から覆されたと考えざるを得ない。(海外事情 5・6 134頁)

 

 今回取り上げた中澤克二氏の著作は、今回のトランプ大統領金正恩北朝鮮労働党委員長の「合意文書」に直接関わるものではありませんが、中国、朝鮮半島、及び今後の日本に関わる重要な指摘と思います。いつもの如くになりますが、私が感じたことなどを含め、僭越ながら紹介したいと思います。

 

習近平帝国の暗号 2035

 

 本書は「反腐敗」で政敵を放逐し、新皇帝の野望を遂げようする姿を描いた中澤克二氏「習近平の権力闘争」に続く著作です。先のトランプ大統領金正恩労働党委員長による「合意文書」以前に著わされたのですが、北朝鮮の今後の動向、加えて朝鮮半島及び中国との関係を考える上で、私は参考にすべきところが多く、ここに取り上げた次第です。

 

はじめに

 

 本書の冒頭に述べられている「はじめに 2035習近平コードの意味」で、極めて印象深い書き出しで本書が始まります。重要な指摘なので、長くなりますが紹介致します。

 

 1917年、ロシアを舞台にレーニン率いるボルシェビキが「10月革命」でソビエト政権を樹立した。武装蜂起集団は当時、ロシアで使われていたユリウス歴の10月24日(現在のグレゴリオ歴11月6日)にペトログラード(現サンクトペテルブルク)の占領を始め、翌25日(同11月7日)には軍事革命委員会に権力が移ったと宣言した。暴力革命が成功したのだ。

 それから、ちょうど百年の2017年。10月24日には中国・北京で第19回共産党大会が、「習近平思想」と中央委員会メンバー総入れ替えを承認して閉幕。翌25日の中央委員会第一回全体会議で(1中全会)で新指導部が選ばれた。偶然にしては出来過ぎている。先の共産党大会はドラスチックだった。個人名を冠した「習近平思想」の確立で「習近平時代」入りを宣言。人事は習近平の色で染め、「ポスト習近平」候補を最高指導部に入れる慣例を破る「候補者つぶし」まで突き進んだ。

 半面、習近平が長く視野に入れていた共産党中央主席(党主席)への就任は果たせなかった。盟友、王岐山が明快な形で最高指導部に残留することもなく、「68歳引退」の内規も破られなかった。最高指導部メンバーの顔ぶれも習近平の完勝ではない。

 だが、そもそも中国の歴史的な政治交渉では、最も重要なものを勝ち取る為に、相手が絶対に認めるはずがないとんでもない条件をまずいくつも出して押しまくり、最後の最後にそれを引っ込めて、取りたいものを確保する手法が使われてきた。

今回、習近平にとって最も大事だったのは、自らの思想の党規約盛り込みによる自らの新時代の宣言だった。それは完全に果たした。(以上1、2頁)

 

 習近平の闘いの第一のクライマックスは、後継者レースの先頭を走っていた重慶市トップの孫政才の追い落とし。続いて軍制服組の要である二人の摘発(一人は自殺)。それは反腐敗運動と軍掌握を梃にした小さな文化革命であり、習近平は就任後わずか5年で、前任の江沢民胡錦濤を抜き去ったわけです。そして、先の共産党大会での3時間半に亘る習近平の演説では100年前の10月革命の経緯を紹介し、マルクスレーニン主義の中国化を強く訴えたのです。そしてソ連を反面教師として新中国には、習近平の力が是非とも必要であるとしたわけです。    

 加えて、2035年までに現代化国家の建設を基本的に終える、即ち経済・軍事の両面で米国に追いつくという当初目標を15年も前倒しにした「2035年の暗号」である、と著者は記しております。

 

 一方、『中国共産党の歴史という観点から捉えると、党の「核心」である習近平が、今回、党規約を強引に大修正し、中国の憲法にも盛り込む真意が見えてくる。初お目見えした「習近平新時代」は少なくとも2035年まで続くよう布石が打たれているのだ。』(5頁)

 

 しかし、道のあちこちに見えない地雷が埋まっている。2035年までの長い長い「習近平新時代」を宣言した巨大国家には、なお多くの死角がある、との指摘も著者はしております。我が国もそのような観点を以て、右往左往せず長期的視点に立って、大国中国に対処していくことが肝要と考えます。

 

 本書は第一章 脅し­­-首を吊った将軍、席を立った胡春華、第2章 党主席への狭き道-習近平コードを解くカギ、第4章 対米外交の蹉跌、新型の「韜光養晦」、第6章 独裁と強健の民-突如、姿を消す有力たち、第7章 新たな主役らへの厳しい目-2035年までの生き残りゲーム、と展開しおります。驚くほどの情報をもった詳細に亘る調査・報告書です。尚、いつものことですが今回もその一部である第三章 金正恩習近平帝国を滅ぼす、と第五章 一進一退の日中関係に絞り、私の感想などを交え記して参ります。

 

その1.北朝鮮の核弾道は全中国が射程内という脅威

 

 習近平にとっては金正恩の行動は誤算の連続であった。北朝鮮は2017年11月28日未明、二ヶ月ぶりの弾道ミサイル「火星15号」を発射。米国西海岸にまで届くとするICBMの完成宣言も然り。18年2月には平昌オリンピックが開かれ、五輪前にはトランプは武力行使に踏み切らないとの金正恩の判断である。   

 片や、朝鮮半島で戦争が再び起これば、習近平が党大会で宣言した2035年までに中国現代化建設が挫折しかねない、との習近平の観点を著者は指摘します。

 

 かって、朝鮮戦争北朝鮮とは中国とは鮮血で固めた友誼ではあった。しかし、北朝鮮が経済的にも中国頼みは明かで、石油だけでなく、北朝鮮の市場には中国製の日用品があふれ、謂わば中国の半植民知的位置にあるのも現状です。そうした現状を避ける、あるいはそれに対抗すべき手段が核兵器であると考えてきたのが金正日、正恩の根本的思想である。従い、2017年5月24日の日本海に落ちた中距離弾道ミサイル北極星2号」により映し出された映像は東側ではなく、西側の中国本土を写す映像が主体であった。即ち、全中国が北朝鮮の核弾道の射程内に入った、とのひとつの北朝鮮の宣言なのです。中国もその意図と危険性を十二分に承知している、と著者は指摘しています。

 

 従い、今回のトランプ・金正恩との合意文書でも明かではありませんが、北朝鮮が完全に核放棄をすることはないのではと、私は考えます。即ち、北朝鮮アメリカだけではなく、中国との長い過酷な歴史から観ても、決して核を放棄することはないのではないかと思うわけです。一方、中国はそうしたと観点をも持ちながら、中国は少数民族問題も抱えております。即ち、中国55の少数民族の中で14番目に上る200万人弱の朝鮮族の扱い、そしてその動向は大きな問題となる可能性もあるわけです。そうした少数民族他の諸問題をも抱えながらも、習近平は絶対失敗してはいけない2035年があるわけです。著者は北朝鮮の核問題について、次のように記しにています。

 

 それは中国自身が歩んだ道でもある。1964年10月16日、東京オリンピックの最中、中国は原爆実験に成功した。まだ国連にも加盟しない時期だ。67年に水爆実験へと進み、70年には弾道ミサイル人工衛星を打ち上げた。

 結果は世界を驚かせた72年の米大統領ニクソンの訪中による米中国交正常化だ。米国は核と弾道ミサイルを持つ中国の力を認めた。旧ソ連と対立する双方の利害も一致した。

 北朝鮮は60年代の中国と同じ戦略で動いている。当時、悲惨な文化革命の発動で国際社会から孤立していた中国は今の北朝鮮と極めて似ている.(145、146頁)

 

 私は正にその通りと思います。トランプ大統領アメリカも大きく変動しようとしている、この国際状況下にあって、日本はその在り方、取るべき方策を外交を含め、根本的に変えて行かなければならないはずです。今日の現状は日本の敗戦後、あるいはサンフランシスコ平和条約締結後、最大の危機事態なのかもしれません。にもかかわらず、日本の国会の現状は国を、国民を守る観点を全く欠く現状です。政権政党は当然のこと、内輪もめは即刻止めること。片や、平和を享受するだけに過ぎない野党、マスメデイアの有り様は末期的状況で、手の施しようもない現状ではないでしょうか。正しく思想が無くなってしまったのです。

 

その2.一進一退の日中間系 なぜ対日強行路線が緩和されたのか

 

 過去の歴史を振り返ると、中国政権の基盤が不安定だったり、共産党内が割れている場合、2012年の反日デモがそうであったように、日本に強硬に出る例が目立っているとのこと。では現在はどうでしょうか。著者は次のように記しています。

 

 中国は対日外交をどのように位置づけているのか。2017年の党大会報告では、対外関係に関して「全方位外交の踏み込んだ展開」という太字の見出しがあった。これを目にした時、ハットした。沖縄県尖閣諸島問題をきっかけにした2012年の反日デモ以来、日中関係は長く冬の時代が続いたが、ここに来て修復の兆しが見られる。しかも、かなり急速な動きである。なぜなのか、その答えの一つが、習近平が5年の実績として挙げた全方位外交の展開なのだ。(270頁)

 

 即ち、2035年を目指した習近平政権の新たな「韜光養晦」ともいえる全方位外交である。世界第二の経済力と空母まで持つに至った中国には、中国脅威論が日本を含め周辺国に出てきた。対米関係にもひずみが出てきた現在、世界第三の経済大国の日本とも、首脳会談さえできないような関係は放っておくわけに行かない状況が習近平側に出てきた。新シルクロードとも言うべき「一帯一路」を粛々と進めるなか、中国が中華帝国の拡大戦略であるとのイメージを変えたいのだ。日本政府は、中国側の裏の意図に十分、注意を払いながら、自らの国益に基づいて協力すればよい、との著者の観点です。

 

 2012年には尖閣諸島問題を巡って中国各地で大規模な反日デモが発生し、その後の2年余り、中国では新たな日本映画の公開は皆無だった。現在では日本のアニメ映画「君の名は」が大ヒットとのことです。片や、かって中国で爆発的ブームになった韓国映画・ドラマは、朴前政権が米軍の地上配備型高高度ミサイル防衛システム(THAAD)を導入にカジを切ることにより皆無となった。 旅行者の急増・急減も然りで、政治性の全くない純粋な青春映画も、いざという時には国際政治の駆け引きの材料となる。韓国への中国人旅行者の急増・急減も、謂わば中国の文化政策のひとつで、それが中国共産党独裁政権の実体なのです。その際は韓国が実施したように、日本は慌てず冷静に長期的対処をしていくことなのです。

 現在、安倍政権が掲げる2020年までの憲法改正が、与党内で具体的な論議に入ったわけですが、今後、中国が「日本の軍国主義復活反対」といった烽火を派手に上げるなら、対日報復はありえるわけです。現在、韓国政府の政策効果もあって韓国は乗り越えたことを見ても、日本は中国の文化政策にも慌てず冷静に対処することです。著者は加えて、以下のように記しています。

 

 世界の人々にとって刻々と変化を遂げる中国を等身大に捉えるのは大変な作業である。ある人が10年前に住んだ経験から最近、見ていない今の中国を語る。また、ある人は5年前に出張した時の見聞から中国の現状を分析する。残念ながら、いずれも今の中国の実情を捉えることはできない.・・(中略)成長の速さゆえに中国認識はすぐ時代遅れになる。半面、中国共産党の根本思想はまったく変わっていない。むしろ独裁体制を維持するため組織を強化し、言論もこれまでになく締め付けている。(301,302頁)

 

 著者はそうした現実を踏まえながら、日中新時代の「第5の政治文書」を提言します。2018年は日中平和友好条約の締結から40年である。これまで日中間には4つの政治文書がある。即ち、国交を正常化した1972年の日中共同声明、78年の日中平和友好条約、98年の日中共同宣言、2008年の戦略互恵関係の包括的推進に関する共同声明です。そこに新たな政治文書が重要になるのです.著者は次のように記しております。

 

 18年以降の首脳相互往来を通じて、互恵の名に恥じぬパートナーシップ関係を再構築するべきだ。その手段として日中の新時代にふさわしい「第5の政治文書」をつくりあげる必要がある。とはいえ文書だけをつくっても魂が入らなければ意味がない。実際に両国民に役立つ中身となることが肝要である。アジアの二大国である日中両国は、様々な摩擦を何とか調整し、折り合いをつけながら、共存していかなければならない運命にある。(303頁)

 

 著者も述べているように共産党独裁の習近平政権には多くの死角と習近平自身にも地雷が埋め込まれているのでしょう。また、過去において日中間で何度も「政治文書」に合意・交換しても、見事に覆し、あるいは無視されてきた現実があります。それでも日本が地政学的見地に立って、著者の提言には賛同していかなければならないのでしょう。

 

おわりにあたり

 

 朝鮮半島の今後の行方は、北朝鮮アメリカの問題では、むしろないのです。今後、安全保障のみならず、経済面においても直接日本に関わる重大な問題なのです。他人事ではないのです。そして中国は共産党独裁政権の、想像もできない格差社会。人権も言論の自由も欧米・日本とは大きく異なり、加えて監視社会を急速に強めています。その中国が中華大国へ道を強引に進めているのです。

 

 日本は地政学的にも大きく変貌した現在の国際環境にあって、冒頭でも述べたように日本の国、国民を守るとはどのようなことなのか、主権国家とは何でなければならないのか、日本の在り方を根本的に再検討しなければならないのです。人口3万6千人の、軍隊のないヨーロッパのサンマリノ共和国とは日本は違うのです。日本の安全保障を、ただただ他国の米国に依存する敗戦後の、この日本の在り方は再検討しなければならないのです。他国の若者が、アメリカ人の若者が自らを犠牲にして日本を守るということはあり得ないのです。朝鮮半島の問題についても、あたかも他人事の如き報道するマスメディアの現状は手の施しようもありません。

 

 今回も読み込みが足りず、単なる抜粋になって全体を紹介できていません。本書「習近平帝国の暗号 2035」は「習近平の権力闘争」に続く、極めて刺激的な著作です。是非、両書を合わせ、お読みになればと思います。

 

2018年6月23日

                                                                                                     淸宮昌章

 参考文書

 

  中澤克二「習近平帝国の暗号 2035」(日本経済新聞出版社

  同上 「習近平の権力闘争」(同上)

  海外事情5・6

  その他

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                             

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を省みて

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を省みて

 

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再拙稿にあたって

 

 昨年の12月に佐伯啓思氏の「西田幾多郞 無私の思想と日本人」、つづいて、今年(2018年)の5月に『「保守」のゆくえ』を取り上げ、私なりの感想などを交え投稿致しました。既にお伝えしておりますが、氏の「日本の愛国心」を読んだときに深く共感を覚え、「反・民主議論」、「アダム・スミスの誤算」、「ケインズの予言」、「正義の偽装」、「反・幸福論」、「さらば資本主義」、「日本の宿命」、「倫理としてのナショナリズム」、「現代民主義の病理」、「西田幾太郎・・無私の思想と日本人」等々と読んでまいりました。氏は次々と著書を発刊されておりますが、本書「アメリカニズムの終焉」は現代文明の本質を見据えた論及であり、諸著作の原点とも言うべきものかなと、私は考えております。本書の出版が20数年前とはとても思えず、現代そのものに鋭い洞察がされており、今日の日本を改めて考える上で極めて貴重な著作と考えております。尚、昨年5月には上・下に分けて本書を紹介しましたが、今回は私の個人的事象への付言は削除するとともに、今日の日本の現象も新たに付言し、ひとつに纏めた次第です。

 

はじめに

 

 英国のEU離脱、揺れ動くヨーロッパ諸国、頻発に起こるテロ、宗教・民族対立、アメリカ第一主義を唱えるトランプ大統領の出現。方や、かっては想定さえしていなかった中華大国の復権を着々と進める、軍事・経済大国の全体主義体制の中国の出現。そして軍事大国を進めるロシア。加えて、非核化で統一ができる否かは依然として問題を残しながらも、反日思想がより強まる朝鮮半島統一国家の出現は、日本に新たな問題と課題を突きつけてくるでしょう。そうした緊迫下の、又地政学的にも大きく変貌した状況に日本が置かれているなかで、われわれは何が必要なのか、何を考え行動に移していかなければならないか、正に問われているわけです。

 

 佐伯氏はその基になるのが思想であると指摘しております。残念ながら、現代ほど「思想」が力を失っている時代もない。その思想とは、とりたてて人々をかりたてるイデオロギーと解することでも、また人間存在の深遠まで達する世界観とみなす必要もない。それはもっとゆるやかな形で世界を解釈するヴィジョンであり、そこからわれわれの行動の指標をつむぎだせる、ある程度の整合性をもった知識の体系である、と本書で記しています。片や、氏は近著『「保守」のゆくえ』のなかで、今や知識人は何をすればよいのか、誰も確信を持って述べることはできない。代わって登場した専門家と称する人々には近代を生み出した「個人の内面」への追求をするというものはない、と指摘しています。果たして日本には思想という視点・観点がなくなってしまったのでしょうか。

 

 我国の現実はどうでしょうか。テレビ等のマスメデイアに現れるのは、森友学園の国有土地払い下げの問題、加計学園獣医学部新設に関する忖度問題、つづく19日間に亘る野党の国会出席拒否と、緊迫した国際情勢を全く無視した、謂わば平和ボケの最たる状況です。私は、1920年代の大阪の松島遊郭の移転に関して、土地会社と政治家の間に不正な利益があったとした「松島遊郭事件」、更には1930年代後半の「帝人事件」を想起するのです。いずれも無罪となる、全くのでっち上げの事件ですが、「帝人事件」では内閣が倒れます。今回の忖度問題等々に関しては検察も動いていない状況下の中、野党、マスメデイアが独りよがりの正義を振りかざし、唯々、現政権を倒す為だけに暴れ回っている異常の現状としか、私には思えないのです。私は改めて、マスメデイアに作り出された世論と称するものに、時の政権が翻弄された戦前・戦中を想起するのです。

 

 果たして日本は楽園にいるのでしょうか。日本の防衛と軍事力がアメリカに委ねられていること。北朝鮮の国家権力により、この日本国土から拉致された日本人家族を救う為に、アメリカに頼まざるをえない現状等々は果たして日本は主権国家と呼べるのか。国を守る、国民を守るとは何なのか、少なくともそのような視点・観点の論議はあってしかるべし、と私は思っているのです。現状では日本の将来には希望の光などは見られず、衰亡に向かうとしか思えないのです。

 

その1.本書の序論

 

 社会が、その根底に変化しがたいものをもっているのは当然のことである。日本社会が、とりあえず「日本的」としか言いようのない、この国の社会や文化、歴史の文脈の中で作られてきたものを保持しつづけているのは、善し悪しは別にしても当然のことであろう。問題は、その「日本的なもの」が何であり、どのような意味を持っているのか、それを解釈する術を戦後の日本が失ってしまったということであろう。・・(中略)戦後日本は、アメリカ的なもの、あるいはアメリカ的文明を常に参照枠とし、思考の基軸に据えてきたということだからである。このアメリカ的なものが、われわれの生活のどこまで浸透したかという判断はまた別のことなのであり、われわれがここでいう「アメリカ二ズム」に常にモデルを求めてきたことは事実なのである。これはしばしば、ほとんどそうとは気づかない無意識のレベルにおいてそうであった。そして今日、グローバルの名のもとに、市場経済の世界的、普遍的な展開が唱えられるが、このグローバルこそまさにアメリカ二ズムの帰結にほかならない。・・(中略)『「アメリカ二ズム」の終焉』という本書の題名は、アメリカの覇権の後退といったようなことを意味しているわけではない。私はアメリカ型の文明(そしてそれは必ずしもアメリカ社会そのものと同じでない)がもたらす危険性について述べたかったのであり、アメリカ的なものに示される「超近代主義」が亀裂をあらわにし、もはやうまく立ち行かなくなるだろう、と述べたのである。そしてその見解は、アメリカの経済的覇権が再び確立されたかに見える今日でも変わらない。それどころか、本書でいうアメリカニズムは、ますます世界的な規模で不安定性を高めていくのではないか、と思われるのである。(文庫版本書19,20頁)

 

 如何でしょうか。トランプ大統領を生み出した現在のアメリカ社会、英国のEU離脱、揺れ動くEU諸国等々の現状を考えるにつき、私は氏の洞察力に感動さえ覚えるところです。今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が共感を覚え、私なりに理解し共感を覚えたこと、特に「アメリカ二ズム」の終焉の章を中心に見、考えたいと思います。

 

その2.19世紀のヨーロッパ時代

 

 20世紀にアメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって多国を牽制し、それなりの国際秩序を作り出したといわれるが、その前に19世紀のヨーロッパを見ておくことが必要としています。即ち、「パックス・ブルタニカ」からアメリカに覇権が移った時、それは軍事力と経済力だけの問題だったのではない。即ち、力の相対関係だけの問題ではなく、それは「近代」の質的変化であり、「近代文明」というものの断層があった。そして、そのことは「パックス・アメリカーナ」への移行に際しても言えることなのだ。

 

 ヨーロッパの歴史を貫くものは、異質な民族、生活、言語、文化、宗教の対立と依存が、いかにヨーロッパの地理的、自然条件と深く重なっているか。そして、地理学的な条件の中で多様性を生み出し、それがヨーロッパの経済活動を生み出しただけでなく「政治」をも生み出した。ヨーロッパにおける政治の概念は、地理的なものと結びついた多様性と不可分なのであり、そして「地勢学」が「地政学」に転化するのである。そこには、神聖ローマ帝国が象徴したような、キリスト教という超越的な普遍性でヨーロッパを統一する、という中世の原理がほぼ崩れ去り、それにかわって主権国家間の国家間関係が登場するのである。

 

 加えて、フランス革命において合い言葉となった自由、平等、博愛、そしてイギリスからヨーロッパ各国に伝搬していったインダストリアリズム(産業主義)がもうひとつの価値になった。即ち、リベラリズム、デモクラシー、インダストリアリズムが近代社会を代表する価値である。加えて西欧の近代社会の形成を支えるもうひとつの重要な要素は「国民国家」の形成なのである。そして19世紀のヨーロッパを考えるとき、決定的な重要性を持っているのがリベラリズ(自由主義)の概念である。

 

 「リベラリズムという言葉が自覚的な意味を持って使われだすのは19世紀のヨーロッパである。この場合の自由の観念は、主として、個人的な意思決定、行動に対して他からの拘束が働かないぐらいの意味で、それゆえ、こうした個人的な自由を拘束する権力に抵抗することがリベラリズムの中核になる。ドイツやイタリアといった19世紀ヨーロッパの後進国にとっては、この権力はオーストリア帝国のような帝国の絶対的君主であった。それゆえ、リベラリズムの運動は同時に国家形成、独立の運動となったのである。しかし、個人的な意志や行動を拘束する権力は必ずしも絶対君主制の中から発生するとはかぎらない。リベラリズムは権力があるひとつのところに集中することを絶えず警戒する。しかしこの権力の集中ということはなにも絶対主義という形で起こるとはかぎらないのである。」(同83頁)

 

 方や、「デモクラシーのひとつの柱は人民主権であり、人民という抽象的存在が、文字通りの無制限の権力を握った時には、人民の名においていかなる専政が行われてもそれを防ぐことはできないのである。ジャコバン党の恐怖政治はまさにそのことを物語っているし、のちにはスターリニズムがその問題を再び提起したのであった。この時、リベラリズムはデモクラシーと対立する。・・(中略)そして19世紀を通じてヨーロッパのリベラリズムはデモクラシーに対する警戒心を緩めることはなかった。すくなくとも急進的なデモクラシーのもつ専制政治への傾きに対してである。」(同84頁)

 

 19世紀のヨーロッパにおいては、リベラリズムは決してナショナリズムとは対立せず、共鳴しあいヨーロッパ社会を支えたのだ。19世紀の相対的に安定していた時期、諸国間の利害を調整していたのはバランス・オブ・パワーという考え方と自由貿易の理念であった。そしてその自由貿易を支えたのは、イギリスの効率的な海軍と経済力であり、それに加え現実的で自国の利益を見失うことのない外交能力であった。そしてそのリベラリズムは極めて現実的な国際感覚と極端な変化に対する警戒心、歴史の連続性や常識に対する信頼といったものに支えられていた。そうした「現実主義」の上に、「パックス・ブルタニカ」は成り立っていた、と記しています。

 

その3.20世紀のアメリカ

 

 第二次大戦後、世界の総生産量の半分を生産した圧倒的な経済力と軍事力が、アメリカの覇権のベースとなったことは事実だが、アメリカの戦後外交の基本は、19世紀のイギリスと同様、国際的なバランス・オブ・パワーを確保することであった。加えて20世紀と19世紀を分かつ重要なことは、そのリーダーシップにはひとつは国際社会における道義的責務という観念と、「モノによるデモクラシー」というやり方である、と述べています。

 

 20世紀は理念とイデオロギーの時代であり、「力」だけがすべてではなかった。社会主義国共産主義やマルクシズムの優位を主張した。ナチズムの汎ヨーロッパ主義、日本の大東亜共演圏もそのイデオロギーを主張した。

 

 そして「戦後、最も普遍化する力をもったものがリベラル・デモクラシーであった。19世紀にはむしろ対立しあう価値であったリベラリズムとデモクラシーを今世紀は結びつけた。この結びつきを普遍的な人類の価値として世界化しようとしたのがアメリカであった。とりわけ、19世紀のヨーロッパでは、新興勢力に支えられているとはいえ、まだ危険思想であったデモクラシーを、社会の普遍的な原理まで祭り上げたのはアメリカであった。」(同124頁) 

 

 しかもその使命を「経済」を通じて実行しようとしたところにアメリカの文明史的な役割がある。そして大量生産と大量消費で大衆(消費者)を生み出したのである。アメリカは商品を通して「自由」や「平等」の観念を宣伝できた唯一の国であった。ともかくも消費財をひとつの文化のように見せかけ、ひとつの国のシンボルにまでしまった国家はほかにない。続いて、デモクラシーについては以下のように述べています。

 

 デモクラシーは19世紀を通じて、主として政治的な価値であり、理想であった。それは国政に対する人々の平等な参与を求める運動であり、その背後には、人民主権という政治理念があった。それは意志決定のやり方であると同時に、主権と統治の正当性に関することがらなのである。しかるに、アメリカニズムのなかで、デモクラシーは生活の均質化、所得配分の平等化を意味するようになってくる。ここでも「政治的平等」から「経済的平等」への転換がおこるのだ。それとともに、国家は、政治の正当性によって基礎づけられるのではなく、それが国民に対して何を提供するかによって意味づけられるようになる。国家はサーヴィス・ステイトとなり、機能的な存在と見なされる。国家とデモクラシーの関係は、人民を媒介にした統治の正当性に関わるのではなく、経済政策を媒介にした機能の遂行に関わるのだ。これが、アメリカ二ズムがスポンサーとなった今世紀のデモクラシーなのである。(同140頁)

 

 正に正鵠を得た指摘ではないでしょうか。私は僭越ながら深い共感を覚えます。いわゆるこの知識革命というべきものの遂行こそが今世紀のアメリカの役割であったわけです。そして次のように展開していきます。

 

 この「革命」がまぎれもなくフランス革命の継続であるのは、それが文化の大衆化という広範な平準化の運動だったからである。デモクラシーのもとでは「普遍化」とは「大衆化」にほかならないのである。ここに今世紀のアメリカの覇権をかってのイギリスのそれから区別する決定的な点がある。パックス・ブリタニカのもとではイギリスの文化は高い尊敬の念を払われたが、それは結局イギリス帝国領土内の支配階級にしか広まらなかったのに対し、パックス・アメリカーナのもとではアメリカ文化はいささかばかにされながらも、世界の大衆に広まっていったのである。(同150頁)

 

 いわゆる大衆の出現です。では、何故、それがアメリカニズムの終焉につながっていくのか。

 

その4.アメリカニズムの終焉

 

 戦後の冷戦体制のもと、圧倒的な経済と戦力でアメリカが自由世界の守護者になった。もうひとつは大量生産と大量消費という「モノのデモクラシー」をいち早く実現し、モノ(商品)の持つ普遍的な力によって「リベラル・デモクラシー」を普遍化しようとする遠心力が、戦後の自由世界を覆っていた。従って、アメリカによるこの「リベラル・デモクラシー」という理念を打ち出した覇権が後退するということは、この理念の旗のもとに結集した西側世界全体の問題となる。即ち、今日のもっとも正統的な価値がもはや自明なことではなくなりつつある、との佐伯氏の指摘です。

 

 アメリカ社会の没落がはじってまっているというのは別に最近になって言われ始めたのではない。60年代のヴェトナム戦争を目の当たりにして、そのような感慨を抱いていたし、並行的に起こった学生運動や、ヒッピーの中にその兆候は見られる。また、アメリカの宿命とも言うべき人種問題が新たな局面を迎えたのも60年半ばであった。では今日の現状と何が違うのか。

 

 「ジエフア―ソニアン・デモクラシーの伝統を想起するまでもなく、とりわけアメリカは政治参加に強い関心と意欲を示す国であり、キリスト教の伝統を想起するまでもなく地域活動や社会奉仕に意欲を持った国なのである。その国においてなぜ今、政治問題はほとんど経済一色に塗りつぶされ、社会生活も金銭的関心に塗りつぶされようとしているのであろうか。世界秩序を維持し自由主義を保守するというアメリカ政治の最も高貴な目標はいったいどうなったのか。

 

 ・・(中略)真の問題は、戦後アメリカの覇権を支えてきた『普遍的』なはずの理念がもはや『普遍的』ではなくなった。あるいは十分の説得力を持ち得なくなったということである。問題はアメリカの経済的利害にあるというより、今世紀のアメリカをアメリカたらしめてきたリベラル・デモクラシーの理念の崩壊にある。経済によって支えられてきたリベラリズムとデモクラシーの結合がうまくいかなくなったということなのである。さらにいえば、リベラリズム、デモクラシー、ビジネス(キャピタリズム)の三位一体という今世紀の産業社会の思想的枠組みがうまくいかなくなったということであろう。」(170頁) ではその要因は何であろうか。

 

グローバル化

 

 70年初めにブレトン・ウッズ体制が破棄され、世界経済は変動相場制に移行し、為替レートは貿易つまりモノの移動で決まらず、急速にふくれあがった資本移動に大きく左右されることに連なっていった。次のように述べています。

 

 今、自由貿易自由主義の枠の中で修正をせまられているのである。現実問題としていえば、それはすくなくとも多角的で無制限な自由貿易から、ある程度の二国間調整を含んだ「管理された自由貿易」へ修正せざるを得ないであろう。そのことは必ずしも保護主義への転換を意味するわけではないし、また自由貿易の放棄を意味するわけでもない。しかしそれより重要なことは、こうした自由貿易の修正は経済の「グローバル化」の結果だということである。資本、技術、それに労働の国境をこえた移動が激しくなればなるほど、各国の経済基盤、生産技術は似通ってきて、その結果、自由貿易の理論的根拠は失われていく。また金融のグローバル化がすすめばすすむほど「シンボル経済」はふくらんでゆき、自由貿易はむつかしくなるのである。(179頁)

 

 ・・(中略)「国家の壁」の内と外があって初めて自由貿易という議論も経済的自由主義も成り立つ。即ち自然資源、労働力の質、文化の構造、技術の性格といった広い意味での生産要素の質の国ごとの違いがあって初めて自由貿易の議論は成り立つ。だから、この近年のボーダレス化、グローバル化、市場の自由化といった最近の論調は、ある意味で自由貿易主義とは矛盾することを知らなければならない。・・(中略)「ヨーロッパの思想史の伝統の中にあるリベラリズムをもっぱら経済的自由主義とりわけ自由貿易主義に解消してしまったのは、今世紀の「アメリカ二ズム」であった。すなわち、自由貿易によって富の増大をはかり、その富をめぐって誰もが金持ちになる機会を与えられるのが今世紀の「アメリカ二ズム」なのである。(180、181頁)

 本書は20数年前に書かれたにもかかわらず、まさしくトランプ大統領のアメリカの現状ではないでしょうか。

 

 世論とは何か、世論の登場

 

 一方、アメリカニズムは大量生産と大量消費を生み出し、新たな概念ともいうべき大衆(世論)を重視せざるを得ない状況をも作り出した。その世論というものは、何か対象が見つかれば、常に感情的高揚と主観的偏りをそれに対して向ける。とすれば国際関係とデモクラシーとの関係をもう一度考え直して見る必要があるのだ。そして、以下の150年前のトクヴィルの言葉を紹介します。

 

 民主政治にしばしば欠けているものは、知識経験に基づいた先見の明である。人民は理性にたよるよりも感情にたよっている。将来のことを予見して現在の欲望を抑制したりすることのむつかしさを過小評価する。そして危機のときにおけるアメリカの民主的共和国のこの相対的な弱点はおそらく最大の障害であろう。そしてこの障害は、ヨーロッパで同様な共和国がもっている障害とは全く対照的にことなっている。この障害が一番顕著に表われるのが外交においてであろう。外交政策には民主政治に固有なほとんどすべての美点の使用は必要ではない。即ち外交政策がデモクラシーの弱点に巻き込まれることを避けよ、ということである。この指摘はアメリカのみならず日本そのものに当てはまるのではないでしょうか。そして、次のように記していきます。

 

 今世紀の社会の主役は「消費者」と「世論」ということになった。それは、19世紀なワークマンシップやリーダーシップというものとは正面から対立するものであった。「消費者」や「世論」を構成するのは「普通の人々」なのである。だから「普通の人々」が主役になった社会、それが現代というものである。だが現代はそれ以上のものを「普通の人々」に与えた。それは事実の問題として「普通の人々」を主役にしただけでなく、価値の問題としても、「普通の人々」こそが価値の基準だとしたのである。「普通の人々」の答えが社会とって正解なのである。しかし、まさにそこに現代文明の解きがたい困難がある。(279頁)

 

 日本の世論の現状

 

 むろんこうしたことは、アメリカだけの現象ではない。日本においても事情は同じだ。「世論」は国際社会の相互依存などおかまいなしに「一国平和主義」を主張する。経済的にも安全保障上も複雑に絡み合ってしまった今日の世界においては、よかれあしかれ、日本一国の安全といども、「世界」と結びつきあっていることは明らかなのに、である。湾岸戦争以降高まった反米的でナショナリステイックな気分は、それが「世論」と見なされたとたんに危険なものとなろう。この「世論」は、日本の安全保障を確保する何らの現実的な外交手段も提示しないまま、いたずらに「大国」アメリカを批判するだけなのだ。(190、191頁)

 

 たしかに「一国平和的日本主義」の方はひとつの理念をもっているともいえる。しかし、この理念があまりにも空想的で現実離れしてことを別としても、コスモポリタンな絶対的平和主義というような理念が、たとえばヨーロッパの政治思想史のなかに流れているとは私には思えない。唯一それを思想の課題にしたのはガンジーの無抵抗主義ぐらいであろう。しかし、それも、きわめて実践的性格をもったものだった。端的にいえば、それもまた抵抗の戦略として選び取られたものであった。もしわれわれ「自由」を真に重要なものだと考えるならば、われわれはいま改めて自由の意味について考え直さなければならない。消費者主権に基づく経済的自由主義も、絶対的平和による自由の観念も、ともに強い力はもたない。アメリカニズムのもとでのリベラル・デモクラシーは明らかに限界にあると思われる。(312、313頁)

 

 如何でしょうか。佐伯氏のこの指摘は20年前のものなのですが、私は深い共感を覚えるのです。今日のアメリカの最大の問題は無責任な個人的自由の観念が中間層から上の、どちらかといえば知的な階層に急速に広まりつつあるように思われる。即ち、知的エリートの無責任な状況を氏は指摘しているわけです。

 

 では日本の現実はどうでしょうか。日本の無責任な世論と称されるものが時の政権に大きな影響を与えてきたのは、戦前、戦中は新聞、ラジオ。戦後はテレビ、新聞、週刊誌等々のマスメディア等、特にテレビのそれはもはや制御できないものになっていると、私は考えています。昨今のテレビキャスター、ジャーナリスト、学者、謂わば「専門家」称される人々のテレビで流される言動、いわば独りよがりの正義の無責任な言動が、世論形成に大きな影響を与えている。しかし、そこに潜むものは正義、いわんや思想ではなく、単なる商業主義に毒された言動にすぎない、と私は考えています。謂わば思想の消滅といった現象なのです。

 

 尚、佐伯氏は言論について次のように述べています。

 

 政治の空間は多かれ少なかれ、言葉や表現によって組み立てられている。だから政治の空間での自由は言論や表現の自由と不可分だ。しかしもそれはただ、言論が制限されたり検閲されたりということだけでなく、表現者としての真の内的な自由、つまり、真実を語ること、説得すること、言葉に対して責任をもつことなどを含んでいるはずだ。(139頁)

 

 冷戦以降の日本の位相

 

 実は日本社会こそが本書でいう「アメリカニズム」の典型的な担い手となったのである。そう考えなければ、昨今の日本における「消費者」という概念と「世論」という概念に与えられた特権的な位置を理解することはできない。日本の経済が本当に「消費者」によって動かされ、日本の政治が本当に「世論」によって動かされているのかどうかについては、簡単に判断できないだろう。だが少なくとも言えることは、経済が「消費者」のためにあり、政治が「世論」によって

方向づけられるのが正当だという強固な信念は広がっている。(309頁)

 

 佐伯氏はこの第4章・「アメリカニズム」の終焉を、次のような印象深い文章で閉じます。

 

 こうして近年のアメリカの衰退が意味するものは、必ずしも、経済的、軍事的のものではなく、むしろ「現代」文明が掲げ、担おうとした価値、すなわち、リベラリズムキャピタリズム、デモクラシーといった価値の衰退、あるいはこの三者の優雅な結合の崩壊である、というのが私の考えなのである。あるいはビジネスがもはや、リベラリズムとデモクラシーを結びつける役割を果たさなくなったということだ。・・(中略)ここで確実に言えることは、これはただアメリカだけの問題ではないことだ。「アメリカニズム」は繰り返していうが、アメリカ一国の話でもないし,アメリカが世界に押しつけたものでもない。ビジネスあるいは経済という絵筆によって世界の地図に自由と平等の色を塗り込んでゆくこと、これが「アメリカニズム」の本質なのである。この「アメリカニズム」が20世紀を特徴づける基本的な柱だったとするなら、その崩壊は「現代」そのものの崩壊だし、それを「危機」というなら、それは「現代」そのものの危機なのである。(209,210頁)

 

その5.「グローバリズム」という虚構

 

 1993年に本書の初版が出され、1998年にはグローバリズムに関しての増補を加えております。アメリカニズムについても極めて重要なので、私なりの理解ですが以下、紹介します。

 

 個人的な自由主義、民主主義、そして市場経済の理念の結合を普遍的なものと見なすアメリカニズムの土台は、絶えざる技術展開とその成果の大衆化可能とする大量生産方式であり、それを受け取る大衆社会(世論)の形成であった。しかしながらその理念が基本的なところで亀裂が生じ、衰弱が起きている。そうした流れの中で、グローバリズムが進展している。その中心をなすのは企業活動そして資本の動き、即ち経済の領域におけるボーダレスな活動が今日の大きな焦点なのだ。その国際資本移動は文字通りの意味で国境がなくなった世界を駆け回っているわけでではなく、むしろ国家が厳然として存在するゆえに、その国境を利用したゲームなのだ。

 

 その結果、「国の政策の妥当性の判断が、政策当局や国民ではなく、国際的な投資家たちが構成する市場にゆだねられているということである。政策当局は、その政策を市場がどのように評価するかという観点から行動をせざるをえないのである。こうして市場の動向が政策の基本方針を動かしてしまう。少なくとも、政策の独立性は市場の圧力にさらされ、自立性や裁量は失われつつある。つまり、市場から独立した政策というこれまでの前提はもはや成り立たない。」(331頁) 

 

 このグローバル市場の進展は、人々を律し、また結び付ける社会的エートスを限りなく希薄化させる。市場は、利潤機会に敏感で、価格にすばやく反応する人々の群れを生み出す。決して倫理的な人間など必要としないのだ。ではそれへの対処はあるのか、ないのか。

 

 それは「主権国家という、これまでわれわれの依拠してきた発明物を,グローバルな時代に適応させて活用するというやり方である。近代主義の矛盾とグローバリズムという超アメリカニズムのもたらす不安を牽制し、調整する実際的なやり方は、コスモポリタ二ズムとファンダメンタルズの間で『ナショナルなもの』に依拠する以外に考えられない。」(383頁) それを氏は「シヴィックナショナリズム」と呼んでいます。

 

おわりにあたり

 

 佐伯氏の一連の著作を読み終わった感想は、今の時代に必要なことは、まさしく歴史への深い洞察と、思想の重要さ、ということでした。では必要な思想とは何か。それは単なる知識の集積ではなく、物事を判断する力、ことの本質を追い求める、「個人の内面への希求」ということなのでしょう。

 

 揺れ動くヨーロッパ諸国、民族と宗教との対立、テロの続発、そしてアメリカ第一主義を掲げるトランプ大統領の出現。その現状等々を、あたかも著者は20数年前に既に見通していたかのように感じました。

 

 方や価値観が大きく異なる、想定外の共産党独裁政権の中国の「中華大国への復活」とその行く末はどうか。そして、その中国を背景に朝鮮半島統一国家の出現。加えて軍事大国のロシア。世界が大きく変動している中にありながら、日本の政治の現状は如何。言論に責任を持つ報道機関がない日本。加えて、昨今の国会討議の有り様、頻繁に起こす野党の審議拒否、採決欠席の現実は目を覆うばかりです。私には、言葉の意味においても理解できない「リベラル」を掲げる立憲民主党を初めとした野党の在り様は、ただ安倍政権を倒せばいいとしか思えないのです。また、共産党も名称を変えて日本共産党として存続してはきたものの、その綱領はどうなっているのでしょうか。他の国との友好関係はあるのでしょうか。あるとすればどこの国なのでしょうか。日本共産党は異質の存在で、現在以上の進展はないと考えます。いずれにもせよ私は、政権交代の意志も、思想も、政策も、人材もない、弱小の野党群を目の当たりし、政党政治の末期的現象のみならず、日本は衰退の方向に向かっている兆候が色濃く表われていると考えています。

 

 2018年5月24日

                         淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ)

 同 上『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)

 同 上「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義上」(中公文庫)

 同 上「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義下」(同上)

 同 上「20世紀とは何だったのか 西欧近代の帰結」(PHP新書

 同 上「日本の愛国心 序説的考察」(中公文庫)

 同 上「大転換 脱成長社会へ」(同上)

 同 上「正義の偽装」(新潮新書)

 同 上「現代民主主義の病理」(NHKブックス

 同 上「反・幸福論」(同上)

 同 上「日本の宿命」(同上)

 同 上「反・民主主義論」(同上)

 同 上「さらば、資本主義」(同上) 

 同 上「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書) 

 同 上「倫理としてのナショナリズム」(中公文庫)

 同 上『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ

 同 上『「脱」戦後のすすめ』(同上)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 同 上「保守の真髄」(講談社現代新書

 ケント・ギルバート「リベラルの毒に侵された日米の憂鬱」(PHP 新書)

 他

 

 

 

                                                                                     

佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

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まえがき

 

 ここのところ、個人的事象につき、数本の投稿をしてきました。今回は本来の軌道に戻り、読書後の私の感想など記して参ります。

 

 佐伯啓思氏の著作については、今まで「淸宮書房」で「日本の愛国心」、「反民主議論」、「アメリカ二ズムの終焉」、「現代民主主義の病理」、「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を取り上げてきました。掲題の「保守のゆくえ」は氏の『「脱」戦後のすすめ』に続く後編ともいうべき著作です。今年1月21日に自裁された氏の永年の友人である西部邁の「保守の精神」をできるだけ継承したいとの思いで書かれたとのことです。私としては、佐伯氏に僭越ながら大いに共感を覚えると共に、私のもやもやした頭をだいぶ整理整頓をしてくれた、と思っています。本書の「まえがき」で次のように記されています。

 

 本来、イギリスに誕生した「保守主義」は、人間の理性的な能力を過剰なまでに信奉し、自由の実現を無条件に肯定し、科学や技術革新を盲進して、その力によって社会を急激に変革することを求める「進歩主義」に対抗する思想であった。社会変革を求めないわけではない。しかし、変化や変革は過激で社会秩序を崩壊させるようなものであってはならない。その国や場所の歴史に離れたものであってはならないと考えるのが保守である。(4頁)

 

保守思想の基本的論点

 

 佐伯氏は基本的考えを次のように述べます。

 

 第一 冷戦以後のアメリカ主導のグローバリズムの世界規模の文明は、西洋の近代主義が切り開いたものであるが、それは、確かな価値や秩序原理を見失って混乱状態に陥っており、必然的にニヒリズムに陥るであろう。

 

第二 自由主義や平等主義、市場競争による富の増大、科学の進歩と技術革新に対する信奉と期待、即ち「進歩主義」はニヒリズムを増幅させる。従い、保守は進歩主義を牽制しつつ、ニヒリズムへ傾斜する現代文明に抗いする思想でなければならない。

 

第三 「保守」が拠り所とするのは、それぞれの「国」や「地域」で自主的に展開し、歴史的に生成した慣習や社会構造、文化や価値観であって、それを急激に変更するのではなく、漸進的であるべきである。その背後には人間の理性や合理的能力の限界という認識があるのだ。

 

第四 その帰結として、保守思想は、普遍的価値を絶対的規範として唱えるよりも、まずは国や地域に根ざした土着的で歴史的な価値を重視する。多様性の尊重がなければならない。

 

第五 その点で、日本の戦後の歴史はいささか異様なものであった。あの昭和の大戦争(大東亜・太平洋戦争)の意味づけは決して簡単なものではない。にもかかわらず、戦後日本人は、あの戦争を侵略戦争と断じて、その反省の上に戦後の価値を組み立てて、戦前の日本的なもの(価値体系、文化、社会構造)を否定した。従い、日本の歴史的伝統は、少なくとも公式的な言説においては、戦前と戦後の間に大きな断絶を作り出した。とすれば、「保守」とは「戦後」を疑う思想でなければならない。「戦後」を象徴する憲法を疑うのも当然の帰結であろう。

 

 第六 日本の「戦後」はポツダム宣言に示されるアメリカの戦争観・歴史観によって礎石を与えられ、事実上アメリカが制定した平和憲法日米安保が戦後日本の「統治体制」の基本的な枠組みとした。日本はアメリカ的思想(自由主義、民主主義、歴史観、国際関係論、市場経済)の圧倒的な影響下におかれ、日本の歴史的伝統を排除した。この意味で、戦後日本の対米関係やアメリカの文明に対する批判的認識なくして日本の「保守」はありえない。

 

 第七 保守主義とは一部の国の指導者やエリートだけのものではない。自国の伝統的な価値や文化の上質のものへの尊敬と、それを守るという日常的な営みによって支えられる。それは他国の愛国心を認めた一定の愛国心を伴う。即ち、保守とは一部の階層や集団の専売特許ではなく、自国の歴史的伝統や自国の自立に対する国民的な関心と関与によって支えられるものであろう。

 

 第八 日本の保守は日本の伝統を重視する。その伝統は固定的にとらえるものではない。古代から続く自然観・死生観・宗教観があり、それは大陸から輸入され日本化された仏教、儒教、更には中世から近代において様式化された美意識と西洋の影響のもとに定着した日本なりの合理主義や科学的思考がある。即ち、保守思想は意識の表層に現れている価値や思想だけでなく、無意識の層に堆積された価値へと目をむけなければならない。

 

「近代日本のデイレンマを忘れた現代日本の楽園」

 

 そして、戦後という時間の不可思議さとして、「われわれであることの矜持」とまではいかなくとも、「自国性」ともいうべきものへの問いかけがなくなってしまった。「平和主義」のなかで経済成長を目指すという、戦後のわれわれの共通の経験が、われわれを他国からの脅威に直面するなどという事態から隔て、われわれはほとんど「楽園」のなかいにいるようにみえる。1952年にアメリカの占領政策が終わり、本当の意味での「戦後」になった後も、日本の国土と国民の生命の安全を米軍に委ねるという「準占領政策」は続いている。明治との大きな違いは、「近代化」と「(準)植民地化」を戦後日本は無条件で歓迎したことになる。

 

 福澤諭吉が唱えた「一心独立、一国独立」どころではなく、彼の近代日本の危惧は現実の悲劇へといたる。即ち、近代日本のデイレンマは日本のなかに亀裂をもたらし、亀裂のなかから生み出された軍事的な冒険主義と、「日本的精神」への回帰は、最終的には大東亜・太平洋戦争の特攻へと行き着いたのである。

 

 現実は大方の政治家も知識人も「暗黙の植民地化」を歓迎した。保守派の政治家はどこか躊躇しつつも、日米同盟こそが日本の国益だと自らを納得させた。一方、進歩派知識人は、日本がアメリカの準植民地であることなど全くふれもせずに平和と民主の戦後日本を賞賛して、フェイク・ニュースの片棒を担いだ。その知識人も今や、何をすればよいのか、誰も確信をもって述べることはできない。その知識人に代わって、各種の「専門家」と称する人々が登場し、政治の場面(マスメデイアも含めて)で「専門知識」を披瀝する現状である。そこには、近代を生み出した「個人の内面」への希求はもはやない。われわれは、改めて、日本のたどった「近代のデイレンマ」へと目を凝らし、近代化やグローバル化のなかにおける「日本人であること」の意味と葛藤を問い直すほかないだろう。

 

 私の下世話な感情になりますが、テレビの報道番組と称する中に頻繁に大学教授、あるいは評論家、いわゆる専門家と称される人たちが、何の芸能があるのか分らない芸能人達と頻繁に登場します。以前であれば、専門家は、あやふやな世論形成に荷担する番組には躊躇、もしくは人としての矜持として断ったと思うのですが、嬉々として登場しているように私には見えます。このような不思議な現象はいつ頃から始ったのでしょうか。私はそのような報道番組と称するテレビは実に不愉快で、即切ります。

 

 元に戻しますが、佐伯氏は本書で、「価値の喪失」、意味ある生とは何か」、「歴史について」、「国民国家のために」の章へと展開していきます。今回もその全てを紹介するのではなく、今の世相というか、日本の状況に鑑み、私が共感、感銘を覚えた点を取り上げて参ります。

 

1.戦後の精神の空洞化 団塊の世代

 

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 小林秀雄が「歴史とは上手に思い出すこと」と述べているが、70歳前後のいわゆる団塊の世代が鬼籍には入りつつある。そして、その子供たちが社会の正面舞台に躍り出てきている現在、果たして団塊の世代はいかなる先行世代の遺言を受け取り、それを、自らの経験にてらして、どのように次の世代へと受け渡すだろうかが問われる。ただ、その作業をとてつもない経験の当事者でありすぎる戦争世代に求めることは不可能なのだ、との指摘です。私はその団塊の世代とは少し年齢が高いわけですが、はっとさせられます。省略しておりますが、佐伯氏は次のように記しております。

 

 団塊の世代的責任は、その人生の収支決算が、同時に戦後日本の収支決算と重なり合うという特異な構造を持っている。この世代の人生の回顧が同時に、少々大げさにいえば、戦後日本の歴史的意味を表現するという作業と無関係ではありえないのである。

 

 団塊世代の精神的空白、精神的空虚感はそのまま戦後日本の軌跡と重なり合い、その背後には「歴史観」という問題がある。その歴史観の空洞の中心にかって大東亜戦争と呼ばれた「あの戦争」があり、それに続く「戦後」がある。その場合、困難の中心になるのは、「戦後」が「あの戦争」に引き続いて生起したという点なのではなく、「戦後」が「あの戦争」によって生起させられた、という点である。ポジテイブな意味でもネガテイブな意味でも、「戦後」を生み出したのは「あの戦争」の敗北なのである。したがって、「戦後」の自己解釈は「あの戦争」についての了解と不可分なのだ。だがその了解がなりたつためには、戦争世代から受け継がれ、語られてきた経験が共有されるだけでなく、その経験の諸断面を一定のイメージにまで構成して、共通の物語の高めるという、共同の想像力が要請されるのである。

 

 この作業こそが、戦後第一世代に与えられた課題だったはずだが、彼らはその責務をまっとうできなかった。戦後第一世代には「戦争を知らない子供たち」という特権が与えられた。つまり、団塊の世代とは、「あの戦争」と「戦後」の断絶の上に生み出された世代だった。そして言葉を失った第一世代の空虚感とは、その子供たちの登場とともに、必要な責務をまっとうしえないままにもはや「戦後」が過ぎ去りつつあるのではないかという焦燥感でもあろう、と記しております。

 そして、その焦燥感は中国などの反日運動といった事態に遭遇したときに表面化する、と記しております。如何思われるでしょうか。私としては納得するところです。

 

2.中国の対日歴史観

 

 中国は、靖国や歴史教科書を取り上げ、日本は「正しい歴史観」を持っていないという。中国には、日本の侵略と虐殺を言えば全てが正当化されるといわんばかりの思い込みがある。いまだに「あの戦争」なのである。果たしてその歴史観はどこからくるかといえば、それはアメリカなのである。

 

 そもそも、日本を侵略戦争のかどで告発したのは当のアメリカであった。東京裁判において人道に対する罪から南京大虐殺にいたる「日本の侵略性と残虐性」を世界に知らしめようとしただけでなく、日本の侵略によって開始された「太平洋戦争」は、日本の一方的な罪過から自由・民主主義文明を守る戦いであったと主張したのはアメリカであった。アメリカは一方で、「太平洋戦争」という言い方によって、大東亜戦争がアジアを舞台とした日本と西洋の戦争であるという日本人の意識を切り捨て、それをファッシズムと自由・民主主義の戦いという抽象的な歴史観に置き換えると同時に、・・(中略)この戦争を満州事変から始る「十五戦争」とみる立場も示した。両者を組み合わせれば、アジアに対する日本の侵略を自由や民主主義との戦いの名においてアメリカが制裁したという「正しい歴史観」になる。(59、60頁)

 

 端的に言えば、あの戦争は、日独伊のファシズムによる平和的で民主的な国家への侵略であった。ファッシズムは、勝利するはずがない。自由や民主主義を守る戦いにアメリカは勝利し、日本の錯誤に対しては道徳的な裁きと民主化の教化が必要なのだ、とうことです。

 共産党中国は東京裁判の当事国でも、サンフランシスコ条約の参加国でもないし、又中国が自由と民主主義の為に戦ったわけでもなく、共産党の中国は戦争に勝利したともいえないであろう。ただ、中国政府の反日戦略は、単にアメリカによる東京裁判史観という「正しい歴史観」をそのまま利用しただけである。

 日本の戦後という年月は、果たして、アメリカによるこのような歴史観の捏造を忘れ去るにたるだけの時間なのであろうか。「戦後」とは侵略国家日本の近代化であり文明化である、というアメリカ産の歴史観によって見事に染め上げられたのである、との指摘です。皆さん、如何思われるでしょうか。

 

 「戦後日本が、自前の歴史観を持つとはいわないまでも、西欧の啓蒙的進歩主義近代主義を通俗化したアメリカ流の解放史観に対してほとんど抗するすべを持ちえなかったとろに、今日の日本の無残な姿と世論の混乱があるというべきであろう。」(62頁)、と記しております。私は賛同するところです。

 

3.無・意味化

 

 ニヒリズム状況の「意味の喪失」のなかでこそ、かってない「意味の氾濫」が生じる、と氏は指摘します。即ち、あらゆるものが、にぎやかに、あわただしく自己宣伝と自己主張を始める。内実があろうとなかろうと、何かがあるように宣伝し、広告する。すべてのものに確かな意味がなくなる時代は、あらゆる無意味なものが意味を喧伝する時代となる。「意味の無意味化」はまた、「無意味なものの意味化」である。昨今の日本でこそ、そうした状況が現れ、とりわけその光景は政治とメデイア、特にテレビメデイアを巡って顕著で、この十年ほどの間に、おぞましいまでの勢いで、もはや誰にも制御不能までに一気に噴出している。

 

 その発端は小泉純一郎政治の登場によって、従来の政治手法が変化した。即ち、小泉氏は経済財政諮問会議のような学者、専門家、経済人などの民間人による方針が打ち出される。そして挑発的なやりかたで、自民党の「抵抗勢力」や「官僚」らによる「抵抗」をひきだす。その上で「改革」対「抵抗」というイメージを作り出してマスメデイアに訴え、世間の支持を調達する。重要なものはマスメデイによる支持の調達であるが、それが意味のある議論にもとづくものであれば、その手法は悪くない。ただ、80年以降のポストモダン的な価値喪失のニヒリズム文化にどっぷり侵された日本社会のなかで「意味ある」議論を期待する方が無理なのだ、との指摘です。

 

 現在、大きく変貌するかのヨーロッパ。そして朝鮮半島においては、非核化の統一国家ができるか否か、問われているにもせよ、反日思想が強い国家出現の可能性が更に強まる朝鮮半島。そして、その背後には新たな軍事・経済大国の全体主義の覇権大国化を更に強める中国。加えて軍事大国のロシアの動き。このような状況にあるにも関わらず、日本の現状はどうでしょうか。また、近々の問題としては、朝鮮半島統一国家が出現の結果、朝鮮民族の人々が祖国の再建の為に帰国するより、むしろ祖国から日本を含め他国への脱出する人々が圧倒的に多くなるのではないでしょうか。中国についてもそうした脱出の現象は現在よりも更に強まりましょう。尚、日本を脱出し他国に逃れる日本人はいないことはないでしょうが、極めて少ないでしょう。この落差は何なのでしょうか。

 

 いずれにもせよ、これからの朝鮮半島における状況は、日本に極めて厳しい現実を突きつけると考えます。そうした諸々の危機が深まる可能性が極めて強いなかで、現在の国会における忖度問題等々が報道のメインを占めている現状は、日本が楽園にあるかの如き、平和ボケの典型的状況ではないでしょうか。どこかの国がこの日本の現状を喜んでいるのではないでしょうか。それは目に見えている、と考えますが。

 

 氏は次のように述べています。重要な指摘なので紹介致します。

 

 テレビは本質的に「無・意味」なメデイアである。これは、個々の番組が「無意味」である、ということではない。そうではなく、テレビは本質的に世界を断片化し、統一性を解体し、真理性を担保せず、視聴者に対して、感覚的で情緒的で単純化された印象を与えるものだからだ。それはテレビメデイアの構造的な本質なのである。そこにはよいも悪いもない。われわれは何よりもまず、この種の「無・意味化」へ向かう大きな流れの仲に投げ込まれていることを知らなければならない。この現代文明の構造から抜け出すことはたいへん難しいとしても、そのことを自覚することが不可欠なのだ。私には、欧米の民主政が、やはり同様な構造を持った視覚メデイアにさらされながらも、日本と比してまだしもかろうじて健全性を保っているのは、この種の自覚と自戒の有無にあるように思われるのである。(90頁)

 

4.ポツダム宣言の呪縛

 

 「2014年9月、10月の論壇は、とりわけ保守系ジャーナリズムは朝日新聞攻撃一色になった。いわゆる従軍慰安婦報道の誤報を朝日が認めたからである。朝日が弁解の余地もない失態を犯したことは疑いもなく、ジャーナリズムとして致命的といわねばない。」(159頁)そうしたことに関連し、佐伯氏は次のように重要な指摘を展開していきます。

 

 この構造が朝日新聞及びそれに追随する朝日的サヨクをして、自らをもっとも権威ある言論人とみなすことを可能とした。・・(中略)彼らは概して自らを知識階級に属するとみなす。この自己陶酔的な特権化を可能としたのは、日本国民である限り、戦後民主主義と平和主義に対しては、誰もが「公式的」には正面から反対できないからである。ここに朝日新聞の持つある種の権威主義と同時に驕りが生じる。・・(中略)あの侵略戦争への反省、懺悔と改悛、そして民主と平和という「正しい」戦後の実現、という「物語」の公式化が、進歩的知識人という、戦後日本に特有の奇妙なカテゴリーを生み出したのである。(161頁)

 

 民主主義においても、人は、全てを論じうるわけではない。タブーは存在するのである。だからこそ、戦後民主主義は自らを特権化できたのであった。なぜなら、彼らは、自らが依拠する価値への反論は許さないからである。自らを批判する言論を封鎖したのである。戦後民主主義を正当化するあの公式的な物語に対する批判を封鎖したのである。したがって、戦後民主主義は、ある種の言論封鎖の上になりたっていた。自らの立場への言論を排除した上での言論を排除した上での言論の自由を唱えることの欺瞞が、戦後民主主義をいかにもいかがわしいものにしていたのである。今日では、この言論封鎖は、「政治的正義」や「公式的記憶」(世界記憶遺産などというものまで登場する有様だ)、差別用語の使用禁止、放送禁止用語などという形をとっている。民主主義はまさしく全体主義を内包しているということになろう。

 

(中略)しかし、問題の本質はその先にあって、侵略戦争に対する反省によって誕生した民主と平和の戦後というあの戦争を公式化したのは、戦後日本そのものであったのである。別に朝日とサヨクだけのことではない。少なくとも、公式的には、政府は常にその見解を表明してきた。自民党も大半のいわゆる保守派も、この公式的物語を受け入れたのである。占領政策の一環として制定された戦後憲法を受け入れ、サンフランシスコ条約によって平和主義路線を維持できたことをよしとし、この平和憲法のもとで日米同盟を確保してもっぱら経済成長を追求することこそが日本の国益である、という。いわゆる保守派の現実主義とはおおよそこうしたものである。・・(中略)日本は確かにポツダム宣言を受け入れた。それを受諾することで戦争を終結させた。しかしその背後に横たわっている歴史観・戦争観まで受け入れたわけではない。・・(中略)結局、われわれは、様々な悪に対して自由、民主主義の正義が勝利し、それが世界化するというアメリカ型の歴史観を信じてはいない、ということになる。とすれば、ポツダム宣言の背後にある歴史観まで受け入れたはずではないのである。(162から166頁)

 

 如何でしょうか、私は今日の混迷する世界の現状、並びに、日本の憲法9条改正を巡る世論の現状を見るに、私はその通りと思います。

 

5.「八月十五日」と近代日本の宿命

 

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 1945年8月15日に、日本は降伏を決め、9月2日に正式に降伏し占領が始り、戦争が正式に終結するのは1952年4月28日であった。「8月15日」は事実上戦争が終わったと見てもかまわない。終戦の日としてかまわないが、そこから「戦後」が始ったわけではない。ましてや、丸山眞男のいう「復初の説」のように、「八月十五日」こそは、日本の戦後の民主主義や平和国家への第一歩であったなどというわけにはいかない。これは当たり前のことではあるものの、そのことを口にすること自体、稀であった。別に封印されていたというわけではない。何となく忘れ去られてしまったのだ。そこにわれわれの「戦後教育」の奇矯さがあると、指摘しております。

 

 結果的にみれば、占領によってなされた、憲法や民主主義や教育改革や経済改革やそしてなかんずく侵略戦争史観など、もろもろの「アメリカ式改革」は、サンフランシスコ条約でむしろ固定化し、既成事実となってしまったからである。サンフランシスコ条約は、一方では確かに日本の名目上の「独立」を保証したものの、それは占領政策の実質的な確認でもあった。そして、今日、われわれは、あの戦争は、ドイツや日本による侵略戦争であり、英米の民主主義への挑戦であった、というアメリカ的歴史観をほとんど疑いもなく受け入れてしまった。(195頁)。

 

 そしてあの戦争は近代日本にとっての国民的な悲劇であったと続き、『林房雄の「大東亜戦争肯定論」を全面的に肯定する必要はないとしても、これをまた全面的にさけることもできないであろう。ロシアの南下や英仏の接近から始まり、ペリーの黒船来航で決定的になった「東亜百年戦争」という歴史観を退けることはできない。問題は「東亜百年戦争」のはらむ矛盾にあり、その悲劇性にある。』(195,196頁)との見解です。すなわち、日本近代のほとんど宿命的な帰結であり、西洋列強からの圧力のなかで自立をはかった日本の近代化は、それがまさしく成功したがゆえに列強との対決をもたらすという宿命的な矛盾である。ここに近代日本の悲劇がある。そして、

 

 西田哲学のもとに参集した京都学派の学者にとって、日本的精神の核心は、西田のいう「無の思想」だったからだ。そしてここにどうにもならない京都学派の敗北が予定されていた。・・(中略)私には、大東亜戦争へいたる道程とその敗北は、ほとんど予定されていたかのように見えてしまう。それは、大東亜戦争は、近代日本の宿命的な矛盾のほとんど必然の帰結であり、ここで運命などという言葉は使いたくないものの、ほとんど歴史の「運命の如きものと」さえ見えるのである。(200、201頁)、と第三章・「歴史について」の最後に記しております。

 

 私は昭和の時代が、魔法の杖がぽんと叩いて魔法の森にしてしまった、との史観には頷けません。佐伯氏の歴史観・思想には多くの異論もあるでしょう。ただ、日本憲法を不磨大典の如き扱い、憲法論議、いわんや9条の改正などは全く論議以前のことで、現在の日本国憲法は絶対的存在、いわば戦前の天皇神格化と同じになっている現状です。世界が大きく変貌し、更にその傾向を強めるなか、こうした日本の現象は、世界的に見ても極めて異様・特殊なことではないでしょうか。私は本書における佐伯氏の歴史観、及びその指摘に共感を覚えるのです。

 

 今回も何か急ぎ過ぎ、私の理解不足は否めず、単なる私の断片的な感想に終わっております。是非、本書をお読み頂ければと思います。

 

 2018514

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ

 同   『「脱」戦後のすすめ』(同上)

 同   「アメリカニズムの終焉」(中公文庫)

 同   「西田幾太郎」(新潮新書

 同   「日本の愛国心』(中公文庫)

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 吉田満「散華の世代から」(講談社

 三谷太一郎「日本の近代化とは何であったか」(岩波新書

 潮匡人司馬史観と太平洋戦争」(PHP新書

 他

 

 

  

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その3 

 

続編を記すにあたり

 

 以下の投稿は3年前のものです。丁度、72歳の時点で、強引ではありましたが全ての仕事というか業務から身を引きました。私は三男坊ですが父親、二人の兄がそろって75歳で他界していたことも何か私自身、それからの人生を考えたのかもしれません。そんなこともあったのか現役を離れて数年が経った75歳の時点で、改めて自らの生き方というか在り方に大きな影響を与えた四人を挙げたのかもしれません。今現在では、そんなことを挙げるのもおこがましい、と思っております。

 

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 先ず、学生時代に鮮烈な印象を与えた むのたけじ元朝日新聞社の記者で終戦後、戦時中の自らの記者としての責任をとり、更には報道機関としての新聞社のあり方そのものに抗議するかのように朝日を辞め、故郷の秋田県横手でタブロイド版新聞「たいまつ」を家族と発行されたジャーナリストです。加えて、生意気な言い方になりますが私の感性に彩を与えた、緻密な美しい日本語で表現する哲学者とも言うべき森有正と、その弟子でもある辻邦夫。そして吉田満であります。

 

 以下の駄文は7年ほど前に、吉田満他にも関連して個人的な私の思いを記したものです。今、思えば赤面の至りですが、私が取り組んだ企業再建の記憶の関連として残しておこう、と思ったのでした。

 

某企業の再建・再生

 

 平成18年の10月、非鉄・機械専門中堅商社のオーナー社長であった畏友が急逝し、その経営の継続を懇請されました。僭越になりますが、私を頼ってきたのはその会社なりの事情、理由があります。私としては引き受けるには大きな危険と、場合によっては私の家族にもその影響が及ぶ危惧を抱きながらも、覚悟を決めて経営することを決断しました。その後、3年強に亘る役員・社員各位の涙ぐましい努力と協力の下、ほぼ予測どおりの再建軌道に乗り、最大の懸案事項であった税務調査も税務当局の超法規的扱いを頂き乗り越えました。顧問契約の税理士を含め誰一人の処分者も出さず、企業存続の基礎ができ、後継者も出来たと判断し、税務調査終了後の翌年の株主総会で会社を退いた次第です。

 

 人の努力、誠意は必ず伝わるのだとの感動さえ覚えた貴重な経験でした。私が経営を引き受けたその根底には友人遺族、及び彼の友人たちを含めた皆さんからの懇請の為だけではなく、役員・従業員並びにその家族を救うのだとの、私なりのひとつの正義感が後押したように思っていました。果たしてその正義感の正当性があるのか否か、時折悩むところでもありました。

 

その1 吉田満のこと

 

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 心に葛藤を持ちながら企業再建・再生の業務に追われていましたが、ふと自分を省みることが必要になり、改めてその時、吉田満に立ち戻ったわけです。1980年代にかけ、ニューヨークで私が苦闘している時でした。吉田満「鎮魂戦艦大和」に出会い、臼淵大尉の場合、祖国と敵国の間、戦艦大和ノ最後の章を読み進め、大きな衝撃と感銘を受けました。大げさな表現ですが、自分を取り戻したわけです。その後も「散華の世代から」、「戦中派の死生観」、「提督伊藤整一の生涯」の著作を読み通しました。吉田満は私にとって、その後の私の人生というか、物事を考える場合に大きな影響を与えてきたわけです。その後、改めて吉田満文集・保阪正康編「戦艦大和と戦後」を併読しながら、吉田満とほぼ同年代の戦中派・色川大吉「若者が主役だったころ わが60年代」他も読み進めました。

 

 私に心の支えを与えた吉田満は、戦艦大和の「電測士官として、内外の通信・情報に聞き耳を立てる立場にあったことと同時に哨戒直の少尉として、艦橋という司令塔にあって、司令長官、艦長、参謀長、航海長といった『大和の幹部』たちの素顔を数米の距離から観察できたことである」(粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」 280頁)と記されています。彼は戦争・戦闘そのもの、まさに生と死そのものを体験し、何をすべきだったのか、否、していなければならなかったのか。この戦争は何であったのか、更に生き残った者の責任として自らはどう生きるべきなのか問い続けました。戦後は日銀に入り、ニューヨークにも駐在するなど日銀の幹部として生き、1979年に56歳でその一生を閉じました。ちょうど私がニューヨーク駐在二年目の年でした。

 

 吉田満は戦後、カトリック(その後、死の間際に奥さんのプロテスタントに改宗)に入信します。そしてカトリック新聞で「あの戦いでも見事な死を見なかったのではない。少なからぬ人が、最後まで敢闘し、従容として散華した。多くは仏教者であった。だがそこに物足りぬ気持が捨て切れなかった。なぜか。彼らにおいては、立派に生きることがそのまま真っすぐに立派に死ぬことにつらなっただろうか。いな、私はそのまなぞこに諦観、寂寞を見たのだ。彼らは堪える力がすぐれていた。だが死を迎え、よろこび進んで自分を任せることはできなかったのだ。ついに否定から肯定に転ずるすべをもたなかったのだ。(中略)私は、一日を生きることが、一日死に近づくことであるという事実を、平静にうけとめたい。正しく生きたい。死とともに生きつづけたい。いつか、死が与えられるであろう。」(保坂正康編「戦艦大和と戦後」 278頁)と記されております。

 

その2色川大吉山本七平のこと

 

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 方や、色川大吉も同時期を過ごした戦中派です。土浦の海軍航空隊を経、三重航空隊・伊勢湾の離島基地の特攻艇を入れる地下壕でポツダム宣言の受諾を知りました。その後、一貫して反権力側というか民衆に視点を置き、時には三多摩の困民党事件の真相を辿るといった研究者として、一時は生活に困窮しながら終生、東京経済大学で教鞭をとり、今なお、そこの名誉教授として、日本のあるべき姿を問い続けています。「若者が主役だったころ」の中では家族・奥さんのことも触れらており、色川大吉の私生活も垣間見せます。過去に色川大吉の「ある昭和史」、「昭和史世相篇」を通じて、私に目覚めというか覚醒というか、強い印象を与えた人でもあります。そうした意味で戦争を経験した同じ戦中派である両氏との対比、またその違いは何処から来るのかも私なりに興味深く感じていました。

 

 同じく吉田満とほぼ同年の戦中派でもある山本七平は何代に亘るキリスト教徒(プロテスタント)の家に生まれ育ち、軍隊に招集され南方の戦地で中隊長として、ただ一人生き残り、捕虜収容所を経たのち帰国します。その後、文筆活動に入るわけですが、山本学とも言われる世界を造りながらも「静かなる細き声」を著したことが思い出されました。そこには同氏の少年期の姿、キリスト教徒としての懊悩が描かれています。

 

 尚、色川大吉には宗教的観点というか、懊悩は私には見られません。時の政府というか、反権力側に立ち戦後は共産党にも入り活動をしていましたが、昭和30年(1955年)夏の日本共産党第六回全国協議会以降、宮本顕治らの新指導部の人権感覚の低さ、同志愛の乏しさへの憤りもあり自然的に離党していったようです。しかし一貫して民衆側に立つという歴史観、独自とも言うべき自分史をも描く歴史学者として、今も活躍されています。

 

 取り上げた「若者が主役だったころ」は足かけ3年をかけ、平成20年2月に上梓されたものです。安保、東京オリンピック、その後の高度成長、ベトナム戦争、大学紛争時代、その後と、激しく動いた昭和60年代を取り上げています。第二章「安保デモの渦中」の最後に「総選挙の勝敗を決したのは、安保闘争でも浅沼の事件でもなく、この高度成長の実績と所得倍増政策が国民にあたえた夢であった。情勢は急速に移り変わり、世論は風のごとく速く動いていた。歴史において民衆の政治的昂揚はつねにおどろくほど短い。変革はその短い時期をとらえて迅速に行なわれなくては機を逸する。それが日本近代史を専攻してきた私が認めた真理の一つである。」(同書 108頁)とのべています。私としては若かった時代の自分と現在の自分とを比較し、場違いにはなりますが、色川大吉が上に述べられたことは企業の経営変革をする際にも当てはまるという実感でした。

 

 色川大吉は海外から日本を考える必要性を感じ、ユーラシア単独行も行ない、本書のなかでソ連共産党が支配していた旧ソ連の実情を批判的に、又民衆の一人ひとりの姿を描いています。私としては中国共産党独裁政権の現中国を氏がどう見ているかも知りたいところです。

 

その3.瀬島龍三のこと

 

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 戦中派とは異なり、今次大戦の作戦そのものにも加わった、むしろ戦争そのものを進めた陸軍参謀の瀬島龍三を改めて知りたく、共同通信社社会部編「沈黙のファイル」を再読ですが目を通しました。そこには山崎豊子が小説で描いた瀬島龍三、何の本か記憶が定かではありませんが、過って私が感じた瀬島龍三ではなく冷徹な、合理主義の塊の人だったのではと思い直しています。戦中派の吉田満山本七平色川大吉とはまったく異なる正に職業軍人そのものなのです。平成7年6月3日、中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会で次のように述べています。

 

 戦後50年というこの年に、権威ある軍事史学会に招かれ光栄に思います。「敗軍の将、兵を語らず」と言います。私は将を補佐してきた一人として、正直なところあまり語りたくございません。ただ歴史を無視することは歴史によって処断されますから、今日は私が体験した問題について忌憚なくお話しさせていただきます。(中略)参謀本部で杉山参謀総長が「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。一生忘れない体験です。日本は少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。大東亜戦争侵略戦争とする論議には絶対に同意できません。(同書10頁)

 

 と細いからだから絞り出すような低い声が熱を帯びていたと同書の編集者が語っています。陸軍大学の軍刀組の一人として全てを数字としてとらえる合理・冷徹者なのかもしれません。戦争を遂行した大本営参謀として陸軍を動かし何百万の日本人、何千万のアジアの人々を死なせ、敗戦・・それが幸か不幸かは又論議を呼ぶでしょうが・・という未曾有な結末を迎えます。しかし戦後はその旧軍人の人脈を活用、又活用されながら商社マンに転身し、30年足らずで政財界の中枢に上りつめ、影のキーマンとしてその一生を終えています。

 

その4吉野源三郎君たちはどう生きるか」に感動して

 

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 企業再建・再生という私なりの業務にあたり、心に葛藤もあるなかで、古典とも言うべき吉野源三郎君たちはどう生きるか」に逢着いたしました。山本有三編纂の「日本小国民文庫」全16巻の最終配本として1937年8月に刊行された其の文庫版ですが、著者は「作品について」の中で、次のように述べています。

 

 1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして1937年といえば、ちょうど「君たちはどう生きるか」が出版され「日本小国民文庫」が完結した7月には盧溝橋事件が起こり、みるみるうちに中日事変となって、以降八年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。(同書301頁)

 

 そんな時代背景の中にあって、ご承知のように本書は中学二年生のコペル君という渾名の少年に対する、ひとつの倫理・道徳書の形式をとりながら人間の生き方を問う、いわば人生読本です。一気に読み通しましたが、言うにいわれぬ感銘を覚えました。時には涙し、自分の過去、現在をも反省させられました。今の時代でも、むしろ今後の世代へも通ずる人の生き方、人に勇気を与えてくれる書と思ったわけです。

 

 丸山真男が「君たちはどう生きるか」をめぐる回想・・吉野さんの霊にささげる(1981年)のなかで、「吉野さんが己を律するのに極めて厳しく、しかも他人には思いやりのある人・・ちかごろはその反対に、自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたように思われますが、・・であることは、およそ吉野さんを知るひとのひとしく認めるところでしょう。モラ-リッシュという形容は、吉野さんの人柄と尤も結びやすい連想です。けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学二年生のコぺル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした。」(君たちはどう生きるか 311頁)と述べています。僭越ですが正に正鵠を得た書評と思います。

 

おわりにあたって

 

 企業再建・再生に際し、私が感じたことを脈絡もなく、長々と記してきました。ただ私が当時そして今も何を重視し、何に関心を持って来たか自ら省み、これからを考えるのも意義のあることかもしれない、と考えたわけです。と同時に敗戦後70年を超えて平和ボケとしか言いようのない現在。それを助長するかのようなマスメデイアに翻弄される民意と表する報道の在り方に、私は怒りさえ感じるのですが、如何でしょうか。

 最後に丸山真男吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」から取り上げた叙述の例の他に、私が涙した、心を打たれた別の叙述を以って、吉田満に関する私の一連の駄文を閉じることに致します。

 

 それは主人公・潤一のコペル君が友達と約束をしながら、リンチ事件でコペル君に少しの勇気がなかったために友達を裏切る結果となり、その心の痛みからか熱を出し寝込んでしまいます。そのときお母さんが潤一君の枕元で女学校時代の自らの痛み、後悔した事件を話し、その事件についてのお母さんの思いを次のように語ります。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあとりかえしがつかないことだけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だからどんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは・・そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(同書 248頁)

 

                           (2015年年6月8日)

                              

 

 加筆、修正 2018年4月25日

                              淸宮昌章

 参考文献

 

   吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

       同  「散華の世代から」(同)

   同  「戦中派の死生観」(文藝春秋

   同  「提督伊藤整一の生涯」(同)

   吉野源三郎君たちはどう生きるか」(岩波文庫

   保阪正康編「戦艦大和と戦後 吉田満文集」(ちくま学芸文庫

   色川大吉「若者が主役だったころ わが六0年代」(岩波書店

   共同通信社社会部編「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか]

                                                                                          (新潮文庫

   加藤周一「日本人とは何か」(講談社学芸文庫)

   粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

   千早 耿一郎「大和の最期 それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社

   山本七平「静かなる細き声」(PHP研究所

   「ある昭和史 自分史の試み」(色川大吉 中央公論社

   色川大吉「昭和史世相篇」(小学館

   むのたけじ「戦争いらぬ やれぬ世へ」(評論社)

   同「たいまつ十六年」(企画通信社刊)

   カン・サンジュン「悩む力」(集英社新書

   他