清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで

 

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阿南友亮著「中国はなぜ 軍拡を続けるのか」他を読んで

 

はじめに

 

 2019年3月2日の日経新聞の「米、WTO改革で提案」に記事によれば、スイスのジュネーで2月28日に開かれた世界貿易機構(WTO)の一般理事会で米国が中国などを念頭に、経済発展を遂げた国は「発展途上国」としての恩恵を受けられなくする規定の導入を提案したとのこと。仮に中国が途上国でなくなれば通商交渉での立ち位置は大きく変わり、中国は反対しているようです。「月の裏側にロケットを飛ばした国を誰が途上国とみなすだろうか」と米国代表は中国を皮肉ったようです。方や、中国の習近平国家主席は2018年11月、パプアニューギニアで開かれた太平洋経済協力会議(APEC)で、中国は途上国のリーダーとして「中国はどれほど発展したとしても、常に途上国の一員のままだ、常に途上国の側に立っていると。」述べています。

 

 中華民族の偉大なる復興を掲げ、軍拡を強力に進め、「一帯一路」を掲げる現状の中国は複雑怪奇とも言うべき姿ではないでしょうか。歴史上、中華民族、中華大国とは何であったのでしょうか。私には中華大国という実像が浮かんでは来ないのです。我国はその中国、そして中国の影響下にある朝鮮半島国家に隣接していることを再認識しなければならない、と考えております。私はこれまでも言い続けていますが、一国平和主義は通じない現状に日本は置かれている、と考えております。

 

 私のブログ「淸宮書房」、発足は4年前になりますが、誠に僭越ながら我国と中国、韓国との関係を時に応じ取り上げては来ました。ここに来て日韓関係が、ある面では最悪の状態になっているためでしょうか、弊ブログは追補を入れますと70編を超えますが、ここ数週間で以前に記した日韓、日中に関した投稿が注目記事の上位に復活してきました。そんな経緯もあり、以下の著作等に改めて目を通し、中国と我国との関係を見たいと考え、投稿した次第です。

 

 1.デイヴイッド・アイマー著「辺境中国」

 

 著者は英国のジャーナリストで、新疆、チベット雲南、東北部の、中国の謂わば少数民族への旅行・感想記です。中国に関しては知っているようで知らない、況んや1949年の中華人民共和国成立以降についても、その実態は驚くほど知らない自分を本書で気づかされました。

 

 東西4000キロのアメリカ本土よりも、更に東西に距離のある中国では時差を設けていないこと。しかも中国本土の、むしろ東側に位置する北京、共産党の牙城の北京に標準時間を設け、それを全土に押しつけていること。東西に大きく隔たり、距離を持つ国で標準時間をひとつにしている国は、アメリカ、カナダ、ロシア、インドネシア等々を含め、世界では中国しかない事実です。何故でしょうか。敢えて言えば共産党政権の支配がそれほど強い、あるいは強くなければ共産党独裁政権が続かない、ひとつの証左かもしれません。そこには国民の利便、経済的要素よりも、より重大な観点があるのでしょう。

 

 加えて、中国の人口です。公式な統計はないようですが、その人口は6億の農民を含め14億人を超えると想います。「中国には漢族以外に一億人近い国民がいる。彼らは公式には認められた55の少数民族に属し主に国境地域に居住している。それは国土の約三分の二に相当する広大な地域で、多くはどちらかといえば最近になって中国に吸収された。ほかにも400ほどの民族グループがあるが、いずれも5000人に満たず、与党である中国共産党から少数民族として公認されていない。・・(中略)少数民族の多くは中国人にとっても謎だ。彼らは漢族の中心地域から数千キロ離れた辺境の地に暮らしている。西と北の辺鄙な砂漠、南西は熱帯のジャングル、そして中国最東北部一体に今も広がるシベリア風の亜寒帯林、話す言葉も違えば、共産党から不信の宗教を信奉するケースもあり、ほとんどの場合民族・文化的な漢族よりも隣国の人々のほうがよほど強い。そんなつながりがあるため、中国の辺境では国籍という概念が曖昧で、人が所持するパスポートは民族性ほどには重視されない。その結果、国境地域は内部に火種を抱えている。『山高く、皇帝遠し』という中国の古いことわざは、地元の人びとに対する北京の支配力は弱く、その威光は疎んじられるといった意味だが、今もそれが心に響く土地だ。」(本書10、11頁)

 

 続いて、中国は外部からの影響をほぼ遮断した国家であると言われるが、中国は、「周囲から切り離されているどころか、中国は近隣諸国と分かちがたく結びついている。中国の陸の、国境線は2万2117キロにわたり、世界最長だ。ロシアと並び、中国が隣接している国は14カ国で、これはどの国より多い。北東、南西、そして西側を、ひどく孤立した東南アジアの国々、中央アジア諸国、アフガニスタンブータン、インドにパキスタン、モンゴル、ネパール、北朝鮮、ロシアに囲まれている。・・(中略)歴史をねじ曲げ、共産党はあの手この手で、国境地方は中国の一部となって久しいと主張する。党や過去の皇帝達がこうした地域を武力によって、たかだか60余年前に占領したことを認めようとしない。少数民族が党の支配や党の配下ではるかに豊かな生活を送るようになり、中国の一部であることに満足していると断言する。チベットや新疆といった、きわめて御しがたい地域の掌握は、大規模な駐屯軍に頼りきっているにもかかわらずだ。」(15,16頁)と著者は記しています。

 

 著者はそのような視点から、新疆、チベット雲南、東北部への旅を通じ、少数民族中国共産党政権の支配の現実を描き出しております。共産党政権及び人民解放軍及び中国人民武装警察、人民警察、中国民兵、等々による強烈な支配の一端を見ます。私はこれが共産党独裁政権の一端だ、と思っております。なお、本書は大作ですが、楊海英著「モンゴル人の中国革命」と合わせ、お読み頂くことをお薦めします。

 

 2 阿南友亮著「中国はなぜ軍拡を続けるのか」

 

 著者の阿南友亮氏は1972年生まれ、現在は東北大学院法学部研究科教授です。中国との付き合いは長く、中国を訪れたのは1976年の4歳の時です。その後は小学4年から中学二年の夏まで両親と北京に暮らし、旅行好きの両親に連れられ外国人に開放された間もない中国各地を巡った。又、内モンゴルの草原を馬で駆け抜けといった楽しい思い出と共に、文化大革命の余韻がまだ残っていた当時の中国社会は、日本で住んでいる小中学生では、まず経験しないような暴力的で凄惨な場面にも幾度か遭遇した。そして、慶応大学院生時代には北京大学国際関係学院に留学し、多くの中国の友人とも知り合い、友人と共に、友人の故郷である「黄土高原」と呼ばれる実家、「ヤオトン」と呼ばれる伝統的な横穴式住居に招かれた。村には水道がなく、人々は村にひとつしかない井戸から水を汲んでいた。陽が落ちて涼しくなると、友人の家族が屋外に宴席を設けてくれ、ビール瓶を片手にその父親とも語り合い、「国民党の時は生活が苦しかったと親からよく聞かされたが、共産党の世になってもやっぱり生活は苦しい。革命をやっても苦しさは変わらないのなら、これからも変わらないさ」(342,343頁)と、著者は本書の「あとがき」に記しております。

 

 なお、本書は第30回・アジア・太平洋賞を受賞されておりますが、中国共産党政権と人民解放軍との歴史を含め研究し詳述した、中国論です。私は極めて興味深く読ませて頂きました。本書の見解、観点には勿論多くの批判、反論はあるでしょうが、今後の日本の在り方を考える上で極めて重要な参考書である、と考えます。なお、蛇足になりますが教授の院生には中国からの留学生もいることです。

 

 その1 中国の軍拡と日中関係

 

 著者は、本書の冒頭で以下のように記しています。重要な視点なので、長くなりますが、以下、ご紹介致します。

 

 1937年から続く外交関係の断絶に終止符を打ち、安定した互恵関係を構築する。これが、1945年を境に民主主義と平和主義の看板を掲げるようになった日本と、1949年に大陸で新たに誕生した中華人民共和国の共通課題となった。

 

 両国が1972年の国交正常化を足がかりとして、この共通課題に取り組み始めてからすでに40年以上が経過した。この間、両国の貿易額をみれば、実に三百倍以上拡大している。人の交流も活発化し、交流の形は多様化している。

 しかし、現在、日中の互恵関係は、風前の灯火とさえいえるような不安定な状況にある。72年以降、日本が積極的に支援し、経済的相互依存の関係を築いてきた中国は、今や安全保障上の懸案事項として日本の前に立ちはだかる存在とみなされるようになった。

 

 1978年に平和友好条約を締結し、互恵の道を歩み始めたはずの日本と中国との間で、なぜ、再び軍事的な緊張が高まっているのか。本書では、近年の日中関係ならびにアジア・太平洋地域の国際関係を考えるうえで避けては通れなくなった軍事的緊張という問題の背景について考察する。・・(中略)ではなぜ共産党は、90年代に入ってから中国国内においてに日米に対するネガテイブナ言説を意図的に流布するようになったのか。実は、この点を明らかにすることが、日米と貿易で互恵関係を深めつつも軍事的には対峙するという中国共産党政権の一見不可解な姿勢を理解するうえで一つの鍵となる。

 

 ・・(中略)日中関係をどう捉えるかという問題は、個々人の情報量、情報の入手経路、情報を整理・解釈する際の鋳型となる価値観などによって大きく左右される。しかし、日本が長年にわたって資金と技術を投入し、文化・経済交流を活発化させてきた相手が経済発展の成果を軍事力に転化しつつ、日本を含む周辺諸国ならびに米国に対する態度を硬化させているという情勢認識に対してはさほど異論がないように思われる。

 

 日本が重層的な互恵関係を築くにいたった中国において、空前の規模で軍拡が推し進められ、それが日本ならびにアジア・太平洋地域全体の安全保障をゆさぶっているという矛盾とどう向き合うべきか。この難題に取り組むにあたっては、そもそも軍拡がなぜ展開されるに至ったのかという根本的な問題を議論する必要がある。(本書14~18頁)

 

 そうした視点に立ち、共産党が軍拡を本格的に推進するに至った政治的背景と経緯、軍拡の諸側面、そして軍拡の日中関係の影響について論じていきます。その政治的背景と経緯については1970年半ばから2000年代初頭、即ち鄧小平から江沢民政権の時期に焦点を当てていきます。極めて興味深く、共感を覚えるところです。

 

 その2 対中政策のオーバーホールの必要性

 

 第二次天安門事件(1989年)以降の中国共産党は、中国の外に敵がいるというプロパガンダによって中国社会の不安を煽ることをその安全保障の一手段としてきた。そして共産党は、独裁に固執する限り、国内外に対する不安から解放されることはないし、中国の民間社会において安心が定着するのを妨害し続けるであろう。なぜなら、そうした安心が広まれば、民間の不満は爆発し共産党に集中する。

 

 尖閣問題の処理も以前のように「棚上げ」状態にするという処理の仕方で作用される性質の問題ではなくなっている。それは現代中国の政治構造に直結した問題であり、共産党が統治を続けるうえで欠かせない営みになっている。

 

 日本の対中政策は、オーバーホールの時期を迎えているのである。これまでの日本を含めた西側と中国の関係が中国の民主化には寄与せず、逆に独裁政権の体力を増殖させ、それが中国国内ならびに国際社会における緊張増大をもたらした現実に正面から向き合う姿勢が求められる。経済で結びついてさえいれば、日中関係は安定するという言説は、もはや説得力を失った。独裁政権を主たる交渉・交流相手としてきたこれまでの対中政策は、確かに日本に一定の経済的利益をもたらしてきたが、リスクとコストが年々高まっており、日中の平和的共生関係の持続可能性を危うくしている。既存の日中関係は、(日本側が過去における贖罪との観点もあったとしても)、日本側が天安門事件の象徴される中国の人権問題に欧米に先立ち、事実上目をつむることによって成り立ってきた。共産党の独裁の下で、中国の民衆の基本的人権が蔑まされていることについて、日本人としてどう考えるのか。

 

 と著者は問うています。

 

 このような観点・視点にたち、本書は、第Ⅰ部・現代中国における独裁・暴力・ナショナリズム、第Ⅱ部・毛沢東が遺した負の遺産、第Ⅲ部・分岐点となった八〇年代、第Ⅳ部・軍拡の幕開け、第Ⅴ部・軍拡時代の解放軍 について論じていきます。今回も本書全体を紹介するのではなく、私が共感を強く覚えた箇所に付き、記して参ります。

 

 その3 軍拡の原風景・第二次天安門事件と漂流する中国の近代化

 

 「中国社会が比較的自由であった1980年代には、少なからぬ研究者が、当時の中国の指導者であった鄧小平が進めていた『改革・開放』路線の行き着く先は民主化、すなわち議会制民主主義への移行であると予想していた。・・(中略)国民によるデモに対し警察が催涙ガス、ゴム弾、警棒などを使うという光景は民主主義国家と言われる国において決して珍しいものではない。

 

 1989年の第二次天安門事件は、そのような生やさしいものではなかった。この事件では、警察ではなく、本来は国防を主たる任務とするはずの軍隊が、装甲車や戦車を並べて、自動小銃に実弾を装填して民衆に向けて発砲した。そこから垣間見えるのは、国家、特にその主権を独占している共産党と主権へのアクセスを事実上持たない民間社会との間に共存する根深い相互不信と緊張状態である。・・(中略)中国社会の内部対立は、その後の20年間でほぼ中国全土に拡散し、慢性化した。中国国内において急増した『群体性』事件はこのことを端的に物語っている。」(21~23頁)と述べ、天安門事件が軍拡の原風景、謂わば原点だ、との指摘です。

 

 そして、1989年の天安門事件は、主として学生を中心とする都市住民と共産党の衝突に対し、ここ過去15年間で急増した群体性事件の中身は、農民暴動なのです。これまで共産党がその代表を自認してきたその農民(農業戸籍保持者)は中国の人口の6割を占めております。今後の中国の行く末を観る上で極めて重要な判断材料でもあり、方や人民解放軍という暴力装置が中国国内の秩維持に関して中心的な役割を果たしいくこと、即ち人民解放軍は国軍ではなく共産党の軍隊であることを鮮明にしたわけです。国家主席でも共産党の総書記でもなく、人民解放軍のヘッドである中央軍事委員会主席が最高の権力者になっていたのです。そして、「軍事の管制の意義は、匪賊の殲滅・慰撫と自衛団体の掌握をつうじて中国における暴力行使のメカニズムが基本的に共産党の一元管理下に置かれることになった点にもみいだせる。数百万規模の軍隊を骨幹とし、数千万規模の民兵組織を網羅した圧倒的な暴力行使なメカニズムの独占。これこそが一党支配体制の不動の基盤となり、社会主義体制への以降に必要な権力の裏付けとなった。」(108頁)

 

 言論の自由は大規模かつ綿密な監視体制のもとで著しく制限されるに至りました。現在の習近平政権は「七不講(七つの禁句)」を中国の言論界に示しております。即ち「普遍的価値、報道の自由市民社会、市民の権利、党の歴史的な誤り、特権資産階級、司法の独立」という七つのキーワードについて大学やメデイアなどにおいて語ることを禁じている、と著者は指摘しております。そして以下のように記しております。

 

 天安門事件に象徴されるように、共産党は、本格的な制度改革を先送りし、中国の骨組みの弱さに起因する不満を暴力で抑え込むという選択をおこなった。それ以降、共産党が推進してきた軍拡は、脆弱な社会統合の補強材という役割をはたしてきたといえる。そして、このような軍隊による骨組みの補強と同時に、共産党は90年以降、「中華民族」というフィクションを活用して中国の骨組みの弱さを覆い隠そうと画策するようになる。(47頁)

 

 その4 個人独裁のカオス

 

 1976年までの中国は、毛沢東による個人独裁という側面の強い時代であり、毛沢東という一個人の主観に人間が振り回され続けた時代であった。中華人民共和国における毛沢東の施政を「暴走」や「失政」と評価する研究者は、中国内外に大勢いる。そうした評価に主要な根拠となっているのが、1958年から始めた農業の集団化と農民の動員を基礎とする食料・鉄鋼の大増産を図ったが、結果的には4千万人の餓死者(当時の人口は約6億人)出した「大躍進」。それに続く1966年に始まった「文化大革命」である。大躍進以降の混乱の中でフラストレーションを募らせていた若者による党幹部に対する物理的・心理的攻撃は瞬く間に暴走し、「大躍進」の最中に毛沢東を継ぎ、その修正を図る第二代国家主席になった劉少奇、及び鄧小平等を追い落とすべく、起こした「文化大革命」という権力闘争になります。大学生、高校生、中学生を「紅衛兵」として動員し、「造反有理」「革命無罪」を叫びながら、まずは文芸・学術界の住人、そして劉少奇をはじめとする共産党の高級幹部達、即ち中華人民共和国の樹立に貢献した祖国の立役者たちを次々に襲撃し、彼らを悲惨な死や発狂へと追い込んだのです。この迫害の司令部となったのは、毛沢東の妻の江青を中心とする「四人組」であり、解放軍や民兵から奪った兵器を用いた武力紛争が全国で頻発。党組織はもとより社会全体の秩序が大きく崩れ、暴力、恐怖、猜疑心、絶望が民衆の生活を支配するようになった。なお、その結果責任については毛沢東にはいかず、「四人組」に全てを押しつけたわけです。その「紅衛兵」も1967年初旬には、今度は厳しく弾圧され都市部の若者数百万人が厳しく弾圧され、農村へと追放。この世代はまともな教育を受ける機会を奪われ、長期に亘って僻地で孤独かつ過酷な生活を強いられることとなったわけです。習近平国家主席もそのひとりです。

 

 続いて、「国家主席をはじめとする有力指導者、建国の英雄、有能な官僚、著名な作家や学者などが無知蒙昧な子供の暴力にさらされる国。それが文化革命時代の中国の現実であった。・・(中略)一方、文革を生き延びた共産党の幹部たちの間には、文革中に中国社会、特に若い世代が彼らに対しておこなった残忍な仕打ちの数々が深いトラウマとして残った。このトラウマが1980年代に沸き起こった学生主体の『民主化』運動に対する共産党指導部内のパラノイアの源となったといわれている。」(89~90頁)と、著者は記しております。

 

 その5 「改革・解放」の光と影 鄧小平の登場、そして拝金主義の万延

 

 毛沢東時代のカオスから脱却させるという重責は、1978年から党中央の実権を掌握した鄧小平に委ねられます。中国内戦の初期段階から政治委員として各地の戦場を転戦し、頭角を現したカリスマ性を保持した最後の指導者です。毛沢東が1976年9月に死去すると、「四人組」は解放軍が加わったクーデターによりあっさりと一網打尽となります。そして、鄧小平による「改革・開放」という経済成長重視の路線が打ち出されます。鄧小平は共産党独裁支配に固執し、国政選挙、三権分立言論の自由と言う議会民主主義の導入は頑として反対します。その上で、地方経済活性化に向けた地方政府への計画経済から市場経済への段階的移行、農業集団化という方針の放棄、経済特区の設置とそこへの外資系企業の誘致、地方経済活性化に向けた地方政府への権限委譲、国営企業の自主性の尊重、私営企業の奨励、等々の政策に変換します。しかし著者は軍拡の必然性として次のような興味深い視点を述べております。

 

 ただし、「改革・開放」は、それまで共産党が統治の拠り所としていた社会主義との兼ね合いで党内に対立と緊張を惹起した。これは、中国に繁栄をもたらすうえで決定的な役割をはたした資本主義諸国、特に米国と日本を念頭に中国が軍拡を推し進めるようになった背景の一つとして見落としてはならない問題である。(140頁)

 

 一方、この「改革・開放」が始まった段階では中国の人口10億人のうち約8割人が農業戸籍保持者であり、その農業集団化の放棄は市場が機能を回復されると共に郷鎭企業と呼ばれる中小企業が新芽のように次々と誕生した。がそれは農民に対する共産党の束縛の部分的解除と共に農民の社会保障制度の消滅となり、今後の中国の大きな課題の一つになっているわけです。その段階では、農民の一割近くを餓死させた毛沢東時代の施政が余りにも過酷であった為に農民の不満は大幅に軽減され、農民の慰撫におおむね成功したのです。

 

 経済発展を促進するために社会主義からの脱却を図ることと、共産党の独裁的な地位を維持するという本質的な矛盾を抱えた、この「改革・開放」は、外国企業の外資導入先ずもって始めた。そして当該沿海都市を管理下に置いているのは地方の共産党委員会で、1990年以降は半官半民の企業や民間企業も台頭しては来るが、それも共産党幹部のファミリー・ビジネスに連なるもので海外からの資金はそこに流れていったのです。共産党は、80年代をつうじて急速に拝金主義に染まっていきます。1985年に発覚した海南島自動車横流し事件は、その典型例の一つです。

 

 要するに「改革・開放」は、民間を潤す前に、政治権力を一手に握っている共産党幹部とその一族や取り巻き、及び解放軍の幹部を大金持ちにしたのである。鄧小平にしても、彼の後を継いで党中央のトップに立った江沢民胡錦濤、そして習近平にしても、その一族はご多分に漏れず富裕族の一角を占めている。欧米圏で贅沢な暮らしを満喫している一族のメンバーは少なくない。このことは中国でも公然の事実として知られている。(153頁)

 

 GDP世界第二位の経済を誇る現在の中国は資本主義の欧米諸国、日本を含め見られない極端な格差拡大、拝金主義が横行しております。果たしてそれは改善していくでしょうか。共産党独裁政権が続く限り、続くと言わざるを得ません。

 

 その6 胡耀邦の失脚と第二次天安門事件(1989)

 

 この拝金状態に鄧小平の子飼の胡耀邦が党内で改革を唱え、そして民主化要求運動が学生中心に起こります。鄧小平は梯子を外し、胡耀邦を総書記から解任します。胡耀邦の憤死に伴い、民主化運動の第二次天安門事件が起きます。即ち国防を主たる目的としたと見られていた軍隊の人民解放軍が戦車、装甲車を繰り出し、その人民に銃を発射し鎮圧していったのです。解放軍は完全に共産党の軍隊であることを明確に示したのです。では何故それが成功し、共産党支配体制の致命傷にはならなかったのでしょうか。著者は次のような興味深い指摘をされております。

 

 一点目は、中国における社会統合の度合いの低さである。1989年の時点で中国社会のマジョリテイを占める農村社会は、まだ都市部との接点が弱く、首都の北京や複数の大都市で起きた「民主化」運動と共産党との暴力的な衝突の余波は、農村部まで広がらなかった。

 二点目は、鄧小平の神話のような軍歴が一般将校に対して発揮した権威と、解放軍の「現代化・正規化」を痛感していた将校たちからの支持、及び軍将校団の既得権益集団への吸収。

 三点目は、中国に経済制裁を科した西側諸国の態度の変化である。西側諸国の経済制裁は、共産党を窮地に陥れたが、その民主化運動を擁護するよりも共産党との早期関係回復を模索したこと。そして、西側諸国の制裁解除の口火を切ったのは日本であった。1972年以来積み重ねられた日中の関係修復の実績が水泡に帰す事態を回避することが日本の国益に適うと考え、他国に先駆けて制裁解除に踏み切った。日本は当時の中国共産党が喉から手が出るほど欲しかった対中円借款を1990年に再開し、中国からの要請によって92年の天皇訪中を実現させた。

 

 その後の中国、江沢民の時代とその後の時代の日中関係を振り返ってみて、私は早まったというか、後悔というか、何か複雑な想いを抱きます。皆さん、如何思われでしょうか。

 

 その7 ポスト天安門期の危機が生んだ新指導部と軍拡の幕開け

 

 共産党としては80年代に関係修復が進んだソ連を筆頭とする東側陣営との結ぶ付きを強めたが、1989年以降、東欧では社会主義政権が相次いで崩壊し、1991年には東側の総本山のソ連も瓦解した。その崩壊は中国共産党指導部に解放軍の忠誠心を確保する努力を怠ってはならないという教訓を与えた。と同時に、ソ連との対立が深刻だった時期には頼もしくみえた西側諸国の軍事力も、天安門危険以降は一転し、警戒を要する対象となった。特に1991年の湾岸戦争において発揮した西側諸国の最先端の戦争遂行能力は、共産党と解放軍を震え上がらせたといっても過言ではない、と著者が記しています。改めて注目すべき視点ではないでしょうか。

 

 内憂外患の中、鄧小平がその後継者として指名したのは国際社会では無名の江沢民で、天安門広場での学生デモに呼応した上海市内の動きを封じ込めた手腕が買われたのです。毛沢東の個人独裁の悪弊を克服すべく集団指導体制にこだわった鄧小平が、軍歴のない江沢民に二人の上将を後見人に付け、党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席を兼任させたのです。極めて皮肉なことですが、如何に鄧小平が民主化を恐れた証左でもあります。そして、江沢民はその就任と同時に解放軍の装備と将兵の待遇を改善すべく国防費を大幅に増やすと宣言。加えて、解放軍にビジネスをさせるということで解放軍の能力と共産党への忠誠心を高めさせていきます。1989年以降の国防費の急激な増加、即ち軍拡化の道を歩め、「『社会主義市場経済』体制のもとで、共産党は改めて権限・財源の中央集権化を進め、党の意向を反映する形で国営企業の合理化に着手すると同時に外資を含む私営企業にも党委員会のネットワークを張り巡らし、経済に対するグリップを強めた。これにより、市場における競争のいかんにかかわらず共産党が潤うという仕組みができあがっていく。」(216頁) 

  

 そして、文化・教育政策を見直し、思想統制、即ち中華民族という概念を声高に打ち出し、強化し今日に至るわけです。「貧富の格差拡大に伴い、『階級矛盾』が激枠化する社会状況が生起した。そこで、本来は『階級矛盾』の解消のために『民族』の枠を超えて『階級闘争』を遂行することを使命とするべき共産党が。『民族』の枠組みを強調することによって『階級』をまたぐ社会的団結を奨励し、『階級闘争』の防止につとめるという本末転倒な現象が徐々に表面化するようになった。」(238頁) 続いて、この「『中華民族の偉大な復興』という世界観は、共産党既得権益派が旧『帝国主義』諸国と結託して私腹を肥やしてきたという『改革・解放』の現実を覆い隠す役割も果たしている。天安門事件以降『権力と資本の癒着』が一層顕在化し、国内の格差拡大に歯止めをかけることが極めて困難となった状況下において、共産党は『中華民族の偉大な復興』という排外主義と自民族優位主義の根ざした世界観をひろめ、格差に起因する不満を体制からそらして国外に向けることに巨大な労力と資金を注ぎ込むようになった。」(243頁)と指摘しております。なお、著者はこの「中華民族」という概念は19世紀に発明されたもので、それ以前の民衆は、決してこの概念の下にまとまった社会を形成していたわけではない、とも指摘しております。

 

 その8 二つのデイレンマと共産党の安全保障・軍拡

 

 江沢民政権は、沿海地区経済発展政策を推し進めて大規模な外資導入に成功し、それを一つの起爆剤として中国経済を活性化させた。中国国内の富は大きく膨れ上がり、中国国内さらには国外のメデイアでも「改革・開放」政策を順風満帆と見る論調が目立つ。しかし、その富の分配・再配分と言うことについては赤点を取った、と述べています。そこには二つの重大なデイレンマを挙げています。

 

 第一のデイレンマは富の分配・再配分に重大な欠陥を抱えたために農民暴動を含む群体性事件や労働争議の噴出である。都市部の工場に夢を託せなくなった出稼ぎ労働者の農村回帰による労働力不足と言う現象です。

 

 第二のデイレンマは第一のデイレンマに対応するためにとった、即ち国内のデイレンマの中和剤として共産党政権が用いた排外主義的なナショナリズムが中国の経済発展に不可欠な西欧諸国、特に日米との関係を不安定化させたというのが90年代以降の共産党の前に立ちはだかったこと。

 

 では、共産党は何故にロシアの一世代前の技術に依拠した軍拡を続けるのか、著者は以下の諸点を挙げます。

 

 第一に、共産党は中国国内からの一党支配に対する異議申し立てを暴力で封じ込め、米国を中心とする同盟のネットワークに力で対抗する意図を放棄しない限り党の軍隊の待遇改善と装備充実に手をぬくことはできないこと。

 

 第二に、米国と西欧主要国が中国に最先端の兵器を売ることを禁止している現在、共産党と解放軍から見ても、たとえ時代遅れになりつつあるロシア製の武器を購入し、それを参考に武器の自主開発をする以外の選択肢はないこと。

 

 第三に、解放軍の戦力は米国とその同盟国から成る戦力と真っ向から対決するには不十分であっても、台湾海峡南シナ海問題をめぐって中国と対峙している国々には威嚇・恫喝・牽制として有効であること。2010年の尖閣沖漁船事件では日本政府に対する恫喝がそれなりに効果があったことを学習してしまったこと。

 

 第四に、この軍拡は共産党既得権益派の手中にある巨大国有軍需産業にとっては恵みの雨であり、共産党の幹部に大金が転がり込む仕組みによっても支えられていること。

 

 第五に、この軍拡は、米国とその同盟諸国を中国との経済関係を維持しているがゆえに、共産党は軍拡を続ける資金を確保しているのであること。そして、著者は「おわりに」において、次のように記したおります。

 

 中国における格差拡大の責任を歴史に絡めて日米欧に転化するのではなく、日米欧との未来志向の関係を補強することによって中国に流れ込む「富」を拡大しつつ、農村の社会保障制度改革などをつうじて「富」の再分配の拡充につとめ、格差の縮小を図るという胡錦濤政権の「調和の取れた社会」「調和のとれた世界」の改革が成功を収めず、「上海閥」に対する挑戦は失敗し、習近平政権となった。その習近平は就任早々。「中華民族の偉大な復興」を実現するというものであった。

 

 そして、「40年以上の及ぶ日本の対中外交の試行錯誤を経て明白になってきたことは、共産党の自己変革能力というものは決して高くなく、矛盾山積の共産党が支配する中国との共存関係の構築は、暴風のなかで綱渡りをするほど難しいということである。・・(中略)共産党は、独裁に固執する限り、国内外に対する不安から解放されることはないし、独裁を続ける間は、中国の民間社会において日米に対する安心が定着するのを妨害し続けるであろう。なぜなら、そうした安心がひろがれば、民間社会の不満は共産党に集中するからである。・・(中略)日本国内の議論をみると、少なからぬ論客が尖閣問題をそうした緊張増大の主要因とみなし、同問題を以前のように「棚上げ」状態にすることができれば海洋における緊張は解消されるという見通しを示している。しかし、それはことの本末を取り違えた話といわざるをえない。中国で展開されている軍拡というものは、尖閣問題の処理の仕方で左右されるような性質の問題ではない。それは、現代中国の政治構造に直結した問題であり、共産党が統治を続けるうえで欠かせない営みとなっている。」(330~36頁)

 

 以上が本書等を通じて、私なりに共感と賛同を覚えた諸点ですが、著者の観点・視点を誤解しているかもしれません。本書にたち帰りお読み頂くことが必要なのかもしれません。

 

おわりにあたり

 

 今回も長々と書き連ねてしまいました。著者も指摘しておりますが、日中関係をどう捉えるかという問題は、個々人の情報量、その入手経路、その人の価値観などによって大きく左右されます。従い、著者の観点・視点・指摘にも多くの批判もあるとは思います。私は僭越ながら深く共感・賛同するとともに、人民解放軍の軍事力の現状を垣間見た感じです。

 

 本題とは離れますが私を含め平和ボケになっている、この日本の現状、その先行きに大きな危惧を抱いております。平和、平和と叫んでも平和は実現しないこと。国民を守るためには国はどうすべきなのか、どうあるべきなのか。共産党独裁政権の中国、朝鮮半島の国を隣国とする日本は本当に真剣に一人一人が考え、何を為すべきなのか、自国の問題として考えなければならない状況下にあると、私は考えております。

 

  毎度の言い分で恐縮しますが、世論形成に大きな影響を及ぼすマスメディア、そして、そこに登場する識者・ジャーナリストと称される人々の、正義をかざすかの如き言動に、私は大きな問題を感じております。それは正義とは大きく異なる商業主義にどっぷり浸かった姿だけなのではないでしょうか。

報道の自由言論の自由、正義、さらには民主主義とは何か、民主主義のはらむ問題は何か、等々、ひとりひとりが考え直すこと、他人任せにしないこと、そんなことを本書を読みながら、改めて感じたところです。

 

 2019年3月16日

 

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 阿南友亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

 デイヴィッド・アイマー「辺境中国」(近藤隆文訳 白水社)

 楊海英「モンゴル人の中国革命」(ちくま新書

 顔伯鈞「暗黒・中国からの脱出」(文春新書)

 橘玲言ってはいけない中国の真実」(新潮文庫)

 中澤克二「習近平帝国の暗号」(日経新聞出版社)

 同   「習近平の権力闘争」(同上)

 ロバート・D・カプラン「南シナ海 中国海洋覇権の野望」

                                                                        (奥山真司訳 講談社)

  安田峰俊「八九六四 天安門事件は再び起きるか」(角川書店)

  毛利和子「日中漂流 グローバルパワーはどこへ向かうか」(岩波新書)

  服部龍二日中国交正常化」(中公新書)

  天児慧「日中対立 習近平の中国をよむ」(ちくま新書

  杉本信行「大地の咆吼 元上海総領事が見た中国」(PHP

  麻生晴一郎「変わる中国 草の根の現場を訪ねて」(潮出版社)

  稲垣清「中南海」(岩波新書)

  石平「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」(産経新聞出版)

  その他’

                            以上

ここ数ヶ月を省みて

 

 

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ここ数ヶ月を省みて

 

はじめに

 

 「反日・反米・親北」で名前を売った盧武鉉元大統領の側近であった、現文在寅大統領の登場で、日韓の関係は最悪の状況になりました。私は予想はしていたとは言え、日本は極めて難しい状況に置かれている、考えております。韓国の現政権にどういう破局が訪れるかはわかりませんが、日本との接点をほとんど持たない文在寅大統領が続く限り、日韓関係の改善はないでしょう。それを前提にして、日本は今後を考えていくこと、ひとつの重大な岐路にあるということではないでしょうか。方や、日本には半島出身の方々が、日本の国会議員等を含め政治的権力をも持っている現状です。その上、そうした方々の人口は減ることはなく、今後の半島状況によって、ますます日本への流入は増えていくことが必然です。いずれにもせよ、日本は極めて厳しい状況下に置かれてきた、と考えます

 

 そうした現状の中、今年1月30日の日経新聞朝刊のコラム「春秋」で中国の「709事件」を取り上げてられておりました。2015年7月に起きた、中国当局による、人権派の弁護士や活動家を200人以上、「国家政権転覆罪」として逮捕、拘束した事件です。昨年12月、懲役4年6ヶ月の実刑判決がでた、当該人権派弁護士の妻・李氏4人が、昨年12月なかば、青空の下で髪を丸刈りにした動画がでたわけです。中国語では「無髪」の発音は「無法」の発音に似ており、妻達による当局への抗議を示したパフォーマンスもの、とのことです。「春秋」では次のように結ばております。

 

 「709事件」では全国で200人以上の弁護士や活動家が一時的に拘束され、うち少なくとも8人は国家政権転覆の有罪判決を受けた。王氏は最後のひとりで、事件そのものは一段落した印象である。だが、人権を守ろうとする人々への迫害は今後も続くとみる向きが多い。王氏への判決後に李さんの流した涙が、胸に痛い。

 

 それとは直接関係はありませんが、月刊誌「選択」の2月号には「韓国が壊すアジアの秩序」、「韓国三・一運動百周年の反日暴走」、「中国経済沈没の大波」等の記事を載せております。

 

 そんな状況下、上記画像の中国に関する著書等を読み進めているところです。気鋭の中国研究者、阿南友亮氏の「中国はなぜ軍拡を続けるのか」は極めて興味深く、読み始めたところです。氏は4歳の時中国を訪れ、小学4年生から北京に住み、中学二年の夏に帰国するまで両親と中学各地を訪れた経験。慶応大学院時代には、北京大学国際関係学院に留学。加えて、中国にも多くの友人を持つ氏による人民解放軍等々の記述は、私にとって、おおいに参考になります。

 

 方や、英国のジャーナリストが著わした「辺境中国」。加えて、モンゴル人の楊海英氏の「モンゴル人の中国革命」等々を合わせ読み込んでおります。いずれにもせよ、あの東西に亘り広大な中国大陸に時差を設けず、北京を中国全土の標準時間とする国は世界で恐らく中国だけではないでしょうか。共産党独裁の中国の価値観は我々の価値観とは大きく異なる、と私は考えております。後日、読み進めている著書につき、改めて私の感想など記したと思っております。

 

 そんな現状・心境ですが、フェイスブックによれば、私が投稿した駄文の注目記事も何故か、ここ数ヶ月で、だいぶ変わってきております。私としては意外な感じもするわけですが、宣伝も兼ね、以下ご紹介致します。ご興味があってのことですが開いて頂ければ幸いです。

 

注目記事

 

 順番を付けますと以下のとおりです。

1.十川信介著「夏目漱石」を読んでみて

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/08/19

 

 十川信介著「夏目漱石」を読んでみて はじめに 私の書棚に「三木清全集19巻」、並びに「夏目漱石全集17巻」及び「月報が」鎮座しております。夏目漱石全集の第一巻・我が輩は猫である、は昭和40年12月9日発刊、そして19巻・索引 は昭和51年4月9日の発刊です。毎年の発刊を楽しみにしておりました。そして歳をとったら全巻を一気に読もうとしていたのですが、いまだに取り組めないまま今日に至っております。そこに昨年11月、「漱石没後百年記念」の一環として、近代日本文学を専攻される十川氏による掲題の本書が出版されました。私にとって、何か幸運が訪れたような気持ちになったわけです。加えて、三谷太一郎著「日本の近…

 

2.この3年8ヶ月を省みて

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/11/20 

 この3年8ヶ月を省みて このブログ「淸宮書房」を立ち上げ、この11月で3年有余が経過しました。初めの投稿は2015年の3月で、澤田克己著「韓国『反日』の真相」を取り上げ、私なりの感想などを併せ記したものです。その後、加筆をも入れますと、今日までに70数編の投稿となり、ひと月に、ふたつの投稿になるでしょうか。 尚、このブログを立ち上げた動機は、自費出版「書棚から顧みる昭和」の後も、人生の大半を過ごした昭和の時代を、僭越至極ながら、私なりに再検討し、今を考えて観ようとした次第です。と同時に私なりの読書感想を残しておくことも私個人にとって意味があるかもしれないと思ったわけです。誠に恐縮ですが、ブログ…

 

3.牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2019/01/07

 

 牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで はじめに かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった…

4.佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/05/14

 

 佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと まえがき ここのところ、個人的事象につき、数本の投稿をしてきました。今回は本来の軌道に戻り、読書後の私の感想など記して参ります。 佐伯啓思氏の著作については、今まで「淸宮書房」で「日本の愛国心」、「反民主議論」、「アメリカ二ズムの終焉」、「現代民主主義の病理」、「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を取り上げてきました。掲題の「保守のゆくえ」は氏の『「脱」戦後のすすめ』に続く後編ともいうべき著作です。今年1月21日に自裁された氏の永年の友人である西部邁の「保守の精神」をできるだけ継承したいとの思いで書

 

5.再・木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か・・歴史教科書・『慰安婦』、ポピュリズム]

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2015/03/18

 

 再投稿にあたって この度、21世紀構想懇談会編「戦後70年談話の論点」を一覧致しました。この懇談会は安倍総理が戦後70年あたり、談話を書きたいとの意向のもとに集められた有識者の談話・討論を纏めたものです。この種の編纂はどうしても纏まりのないものになる傾向は否めず、中国、韓国の歴史認識問題の解決策も、その方向性も示し得ないものになった、と僭越ながら感じた次第です。 昨年12月19日に再投稿した『再び・三谷太一郎著「戦後民主主義をどう生きるか」・・・』の際に、私が「再投稿にあたって」のなかで、改めて加筆した朝鮮半島、特に韓国との歴史認識問題(いわゆる慰安婦問)

 

2019年2月3日

 

                     淸宮昌章

 

 

 

 

 

 

 

 

牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで

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牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」を読んで

 

はじめに

 

 かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。

 

 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。

 

 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があったので友人と聴講した。竹村氏は当時50歳位であったと思われるが、話しぶりは大学の教師らしくなかったが経歴は判らなかった。講義のなかで「日本はアメリカと戦争しても二年しかもたないことは判っていた」と言う驚きの発言があった。小生の思ったことは、こういう調査を行ったのに何故アメリカと開戦したのかと疑問を感じ、大学卒業後60年間気になっていた。

 

 最近表題の本が出版されたので、書店で目次を見てみると「竹村機関」という活字を目にし、早速読んでみた。(以下略)

 

 なお、私もこの本書を題名に惹かれ既に買い求めてはおりましたが、このように畏友の薦めもあり、私も本書を読み込んだ次第です。なお、本書の著者は1977年生まれ、近代経済思想史を専攻とされる若き経済学博士です。本書の「はじめに」、以下のような印象深い冒頭文章を以て始まります。

 

 昭和16(1941年)、日本はなぜ勝ち目のないアメリカとの戦争を始めたのだろうか。戦後の視点からすれば「対米開戦」、正確には「イギリス、アメリカへの宣戦布告」という選択肢は非合理の極地としかみえない。当時のエリートである日本の指導者たち、(特に軍人)が特別に「愚か」「非合理」であったわけではない。(本書3頁)

 

 その要因を、ある面では闇に包まれていた陸軍省戦争経済研究班(通称秋丸機関)を調べ上げ、探求することにより、その謎の一部を描き出そうとする試みです。私の知らなかった数々の事実を調べ尽す、極めて高度な、興味深い歴史書となっております。今回は本書の全体を紹介するのではなく、私が興味深く感じた諸点を、私自身の参考書、謂わば、ひとつの「覚え書」として残そうと考えた次第です。結果的には普段以上に長い駄文になっており、恐縮しております。

 

満州事変から太平洋戦争へ

 

 日本の戦前の歴史の流れを見ると、太平洋戦争は日中戦争が原因で起き、日中戦争満州事変に起因していることがわかる。そして、満州国の建国が太平洋戦争の遠因ということがある程度理解した上で、初めて「秋丸機関」の性格がわかってくると、著者は記しております。

 

 では、その満州事変にいたる日本の状況はどうであったのでしょうか。古川隆久氏の「昭和史」を参考にしながら、以下記してみます。

 

 日本史上初めて選挙結果をもとに、1924年成立した加藤高明率いる護憲三派内閣のもとで男子普通選挙制度ができます。政治の民主化が進んだとされ、世論からもそれなりに期待された政党内閣でしたが、同時に共産主義運動を取り締まる治安維持法も成立します。そうした中、護憲三派の足並みは乱れ、衆議院過半数をもたない与党憲政会の加藤高明内閣は1926年初頭の議会を乗り切ろうとします。ところが加藤首相が突然病死。首相の病死という政治問題ではない原因で政権交代は好ましくないとする、元老西園寺公望の判断で、加藤内国の内相若槻礼次郎が政権を継ぎます。それからは与野党双方が、からんだ汚職事件が摘発される一方、与党憲政会が野党政友会の田中総裁の陸軍大臣時代の機密費横領疑惑問題が噴出します。そして、新聞や雑誌に政党内閣を批判する記事や論文が目立ってきます。

 

 一方、第一次大戦時の好景気の反動としての戦後不況や、関東大震災がきっかけで生じた大量の不良債権が中小銀行を襲います。1927年(昭和2年)3月14日、衆議院予算委員会で、片岡直温蔵相の、まだ倒産していなかった東京渡辺銀行が倒産したとした為、全国的に信用不安が発生し、中小銀行の休業という、いわゆる昭和恐慌の発生です。方や、日本人居留民の保護とのことで、山東出兵が行われます。続いて、1928年(昭和3年)に、三・一五事件による共産党関係者の大量検挙、治安維持法の改正、更に関東軍参謀河本大作による奉天郊外の線路上の張作霖爆破事件等々が続きます。それに追い打ちを掛けるように1929年(昭和4年)の世界恐慌の発生の中、翌年の昭和5年に旧平価での金輸出解禁実施が行われます。そして、1931年(昭和6年)に満州事変が起き、翌年に満州国が建国されます。

 

 なお、著書の視点として、昭和5年から続く昭和恐慌の最中に満州事変が起きたこともあり、「過った経済政策による昭和恐慌が国民の不満を高め、満州事変支持につながり、それがその後の戦争へつながった」とみなされることが多い。が、実際には金解禁論争以前から中国における国権回復運動と、それに対する日本の世論の反発などを通じて、日中関係はかなり悪化し武力衝突も頻発していた。満州事変を起こした関東軍参謀石原莞爾に関連して、次のように述べています。

 

 満州事変をこの時期に起こした石原莞爾は、1929年のニューヨーク株式市場における大暴落を契機とした世界恐慌の広がりの中で、アメリカなど各国は恐慌への対応に追われて動けないと判断していたと考えられる。昭和恐慌とは無関係に満州事変が起き、国民の支持を得た可能性も大きい。ただ、満州事変の結果誕生した満州国への投資が金輸出再禁止後の日本の景気回復に貢献したのは事実である。日本は高橋是清蔵相による財政拡張政策、通称「高橋財政」下で通貨が膨張する中、満州事変で成立した満州国に投資を拡大することで日本と満州との経済的結びつきを強化していく。(15、16頁)

 

秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)の創設

 

 秋丸次郎中佐は1939年(昭和14年)9月、陸軍省軍務局事務課長の岩畔豪雄大佐より上記研究班の創設を命じられることになります。その趣旨は以下のとおりです。

 

 わが陸軍は、先のノモハンの敗戦に鑑み、対ソ作戦準備に全力を傾けつつあるが、世界の情勢は対ソだけでなく、既に欧州では、英・仏の対独戦争が勃発している。ドイツと近い関係にあるわが国は、一歩を過まれば英米を向こうに廻して大戦に突入する危惧が大である。大戦となれば、国家総力戦となることは必至である。しかるに、わが国の総力戦争準備の現状は、第一次世界大戦を経験した列強のそれに比し寒心に堪えい。・・(中略)そこで陸軍としては、独自の立場で秘密戦の防諜、諜報活動をはじめ、思想戦、攻略戦の方策を進めている。しかし肝心の経済戦については何の施策もない。貴公がこの度本省に呼ばれたのは、実は経理局を中心として経済戦の調査研究に着手したいからである。(18頁)

 

 秋丸次郎は宮崎県飯の村(現・えびの市)生まれ、陸軍経理学校を経て主計将校に、卒業後は陸軍省委託学生として、東京帝大経済学部に入学。河合栄治郎門下の山田文雄のもと、工業政策を学び、帝大卒業後は関東軍参謀となり、「関東軍参謀部に秋丸参謀あり」と称される。満州国の経済と深く関わり、「革新官僚」と称される岸信介椎名悦三郎等との人脈も持っております。そして、秋丸機関は「陸軍版満鉄調査部」として昭和15年1月発足します。その陣容は戦後石炭と鉄鋼の増産を交互に繰り返す「傾斜生産方式」を進めた有沢広巳を主査に、その陣容を整えて行きます。なお、戦前の有沢は1938年(昭和13年)第二次人民戦線事件で、大内兵衛美濃部亮吉、脇村義太郎ら他の労農派マルクス経済学者と共に治安維持法違反で検挙されますが、14年には保釈されており、当時の日本における戦時経済研究の第一人者でした。

 

 有沢広巳を中心とする英米班、日本班には中山伊知郎河上肇の門下生である宮川実をソ連班、ドイツ班には慶応義塾の竹村忠雄主計中尉(尚、後には秋丸を引き継ぎ竹村機関となります)、更には行政学者の蝋山政道の国際政治班、高橋亀吉が主宰する高橋研究所員、東洋経済新聞社の村山公三、加えて近衛文麿のブレーンある昭和研究会といった当時の錚錚たる学者達、大川一司、塩谷九十九の面々がこの秋丸機関に参画していきます。

 

新体制運動の波紋

 

 この研究班の体制が整い、活動が緒についた頃、一般政財界において、満州国における関東軍の様に、内地でも陸軍が日本の経済界を牛耳り、統制経済に移行するのではとの疑念が生じます。即ち、治安維持法で検挙された有沢を起用する秋丸機関が経済新体制を推進する司令塔と見なされ、政財界、検察、右翼から攻撃が行われ、謂わば逆風的な中で研究班は発足したわけです。著者は次のように述べています。

 

 政治面での新体制が求められた背景として、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全が深刻化してきたことが挙げられる。大日本帝国憲法下では特定の組織や人物への権力分立体制が採られており、例えば内閣総理大臣国務大臣の首班ではあるものの他の大臣と対等な地位とされていた。こうした権力分立体制を補い政治を安定させていたのが元老制度であったが、元老が死去していき、既存政党は相次ぐ汚職や内紛によって国民の信頼を失い、他方で「高度国防国家」建設のためにより一層の統制を求める軍とそれに反発する政党・財界とが対立する中、権力の空白が続いたことも一因となり日中戦争は泥沼化した。・・(中略)公益優先の原則の下で「資本と経営の分離」を実行して私益を追求する資本家から企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営する「経済新体制」の実現が目指されるようになったといえる。(40~42頁)

 

 方や、「資本と経営の分離」論を「利潤本位から生産本位」へと表現した昭和研究会で活躍した朝日新聞笠信太郎著「日本経済の再編成」は、実質は秋丸の執筆であり、経済新体制の運動の重用人物は秋丸機関とされます。そうした中、新体制運動の中心であったはずの近衛文麿は政財界、観念右翼等々の批判に動揺し、政治や経済の革新に著しく消極的となり、昭和15年に発足した「大制翼賛会」もその政治性はなくなり、単なる政府の外郭団体に過ぎないものになります。著者は次のように記しております。

 

 新体制運動に対する批判が繰り広げられ、それによって政治新体制も経済新体制も事実上骨抜きにされたことは大日本帝国憲法と、資本主義経済の原則といった明治以来の体制が守られたことを意味する。しかしその一方で、特に政治新体制が解決を目指していた「権力分立的な大日本帝国憲法の制度下では意思決定が効率的に行われない」という問題は全く解決されずに残ってしまったことになる。そして昭和16年になると国際情勢はますます大きく変化していく。その中で日本が明確な意思決定を十分に行われない権力分立的な状態にあったことが、逆説的ではあるが「対英米開戦」という重大な意思決定を行う結果となってしまったとも言えるのである。(52,53頁)

 

 皆さん、如何でしょうか。私は僭越ながら賛同するところです。

 

秋丸機関の報告書

 

 上記のような経緯がある中で、ではその秋丸機関の報告は何を語り、それは、陸軍上層部等に、どのように報告され受け止められたのでしょうか。

 

 なお、秋丸機関が発足する昭和15年には日独伊三国軍事同盟、日本軍の北部仏印進駐により日本は英米の関係は悪化し、アメリカの鉄屑輸入禁止等重要資源の入手が困難な状況に追い込まれておりました。そのような状況下で秋丸機関の報告がされます。

 

(A)日本班の研究では日中戦争の二倍の戦争は日本の国力では無理であることを指摘し、さらに「英米合作経済抗戦力調査」、「独逸経済戦力調査」を合わせれば英米の弱点といえる船舶輸送力を攻撃するドイツの経済力には限界があるのでアメリカは当然のこととしてイギリスを屈服させることは困難であり、時間が経てば経つほどアメリカの軍事力は強大になっていく。つまり日本は非常に高い確率で致命的敗北を喫する。

 

(B)一方で独ソ戦が短期間で独逸の勝利に終わり、ドイツがソ連の資源と労働力を手に入れさらに南アフリカに進出して自給力を高め軍事力を強化し、イギリスを早期に屈服させられれば、アメリカは交戦意欲を無くして、日本が南方の資源を入手した状態で講和が出来るかもしれない。つまり日本は非常に低い確率で有利な講和をできる可能性がある。(136、137頁)

 

 即ち、秋丸機関は「全く日本の勝利の可能性は無い」という主張はせず、わずかでも敗北を回避できる可能性がることを指摘することになった。加え、参謀本部の「北進」論に対し、陸軍省軍務局「南進」を支持するレトリックとして受け止められたのです。秋丸次郎自身は回想でその報告について、「消極的平和論には耳をかす様子も無く、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知る者にとっては、薄氷を踏む思いであった」と書いている、と著者は記しています。

 

何故開戦の決定か

 

 昭和16年7月の南部仏印進駐によって、対日石油輸出禁止のアメリカの強力な経済制裁が行われ、陸軍等の宣伝にも乗った報道機関により、世論も対米開戦の機運がさらに高まります。秋丸機関だけでなく陸軍省戦備課を含め各種の研究所での演習にしろ、対英米戦争をすれば短期的には何とかなっても長期戦になれば日本は困難な情勢に陥ることは、当時の日本の指導者は皆知っていた。では何故開戦に至ったのか。当時の指導者の「非合理的な意思決定」「精神主義」が原因なのか。著者は行動経済学プロスペクト理論により次の様に展開していきます。経済学では「人間は合理的に意思決定をする」と考えられてきたが、実際には人間は非合理的に見える行動を取ることがよくある。

 

(A)確実に3000円支払わなければならない。

(B)8割の確立で4000円支払わなければならないが、2割の確率で一円も支払わなくてもよい。

 

 人間は現在所有している財が一単位増加する場合とでは、減少する場合の価値を高く評価する。そのため、人間は損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすることを望む。従い、「一円でも支払わなくてもよい」という確率が主観的に過大に評価されBを選択する。

 

 方や、既に記してきたように、大日本帝国憲法下における意思決定の機能不全状態を打破するための取り組みであった昭和15年の政治新体制運動は挫折し、「船頭多くして船山に登る」状態であった。そうした「集団意思決定」の状態では集団成員の平均より極端な方向に意見が偏る集団極化、即ちリスキーシフトが起こることが社会心理学的な研究でも知られている。謂わば、個人の状態でもプロスペクト理論によってリスクの高い選択が行われやすい状態の中で、そうした人々が集団で意思決定をすればリスキーシフトが起き、極めて低い確率の可能性に賭けて開戦という選択肢が選ばれてしまう。著者は以下、記しております。

 

 昭和15年の新体制運動は「国体」を守ろうとする観念右翼、「議会制民主主義」を守ろうとする政党政治家、「私有財産制」を守ろうとする経済自由主義者の反対により挫折した。それは明治維新の結果である大日本帝国憲法とそれに体現される政治経済システムを守ったことになるが、皮肉なことにそのために「船頭多くして船山に登る」状態を変えることができず、日本が一層重大な決断を迫られた翌年の対英米開戦という極めてリスクの高い選択になってしまったともいえるのである。(161頁)

 

 一般国民はマスメデイアによる軍部の宣伝、更には文化人というか、当時の東方会の中野正剛達による対米デモンストレーションの中、対米戦争も敢えて辞せずという冒険的気分に侵されていた。即ち、日本全体が集団極化してリスキーシフトにより「冒険的気分」が広がり、対米強硬論が世論となっていたのです。

 

 残念なことなのかもしれませんが、先の見通しが立たなかったからこそ始まった戦争、「つまり、アメリカが乗ってくるかどうかわからない外交交渉と、開戦三年目からの見通しつかない戦争は、どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく、ともにどうなるかわからないからこそ、指導者たちが合意することができたのである。結局11月26日にハルノートが提示され、日米交渉は頓挫し、残された唯一の選択肢である開戦が選ばれたことになる。」(169頁)

 

 著者のこの視点は興味深い、一つの新たな研究成果ではないでしょうか。加えて、著者は川西晃祐氏の印象深い言葉を引用され、次のように記していす。

 

 もし現在のわれわれが太平洋戦争開戦に至る歴史から学びえるとすれば、それは、日本の国力を過信した訳でも、アメリカの国力を過小評価していた訳でもなかったアクターよって戦争が選択された事実である。正しい情報と判断力があれば戦争が回避ができるわけではない怖さを、この時のアクターらの行動は示していると言えよう。(170頁)

 

正しい戦略とは

 

 著者は次のように記しております。

 

 日本の経済学者が「日英米開戦」の回避に貢献できただろう方策は、日米の経済格差という「ネガティブな現実」を指摘することではなく、むしろ、「ポジテイブなプラン」を経済学を用いて効果的に説明することであったろう。この「ポジテなプラン」はあくまでも開戦論を抑えて時間を稼ぐためのレトリックなので、必ずしもエビデンスに基づく必要はない。ドイツの国力は現在が限界なので数年でソ連英米に挟撃されて敗北する。その後は英米ソ連の対立が起きるのでそれを利用する。そうした「臥薪嘗胆論」が説得力を増し、日英米開戦は回避された可能性がある。勿論、硬化した世論をどう説得する大きな問題はのこるが、秋丸機関は、こうしたことが可能だったかもしれない数少ない組織だった。有沢広巳、中山伊知郎をはじめ多くの優秀な経済学者、国際政治の蝋山政道、ドイツ経済を含め戦略的思考をもできる竹村忠雄等々を巻き込んだ秋丸機関であった。その上、中山、竹村、蝋山は当時の論壇でも活躍しており、メデイアを通じて世論を変えさせることも可能だったかもしれない。結果は、悲劇ですが秋丸機関の報告は「日英米開戦」の材料にされてしまった。陸軍そして日本は、敗北するとが確実な「日英米開戦」に踏み切ってしまったのです。

 

 極めて厳しい著者の指摘ですが、秋丸機関による開戦回避への可能性はあったのでしょうか。上にも記した中野正剛、更には「国民新聞」の徳富蘇峰といったジャーナリスト、文化人がメデイアにより更に煽られ、そして作り出される当時の世論を変えることは至難の業であった、そうした現象は今でも大きな問題だと、私は考えております。民主主義に伴う一つの大きな問題だと考えております。

 

戦中から戦後の秋丸次郎、有沢広巳、竹村忠雄

 

 秋丸機関の報告書は内容自体当時の「常識」に沿ったもので、国策に反したものではなかったはずだが、その報告書が見つからなかったこともあり、戦後は開戦を決定していた陸軍の意に反するものとして焼却された、との定説が流れた。

 

 しかし、事実は昭和16年10月、尾崎秀実・ゾルゲ事件が起こり、陸軍から大量の情報がソ連に流れてもいたとことが、秋丸機関の中心とも言うべき、左翼的思想の持ち主と見られた有沢広巳他がその機関より追放されます。

 

 現在、東京大学経済学部資料室に所蔵されている有沢資料の中には、有沢が執筆したと推察される「英米合作経済抗戦力調査」他が整理・保管されているとのことです。従って、著者は「戦後に秋丸機関についての語り口が固定される中でゾルゲ事件に触れられることも無くなって、秋丸機関の報告書は国策に反するものだったので回収され焼却された、ということになったのではないか」と記しています。

 

 方や、開戦とともに秋丸は大本営での仕事が中心となり、竹村忠雄がそれを継ぐ形で「竹村機関」となります。そうした中、秋丸機関創設時に大きな役割を果たした小泉吉雄らが、ゾルゲ事件に関与したとのことで検挙される、所謂、満州調査部事件が起き、秋丸次郎他関東軍第四課出身の軍人が問題視される一方、公的な経済調査機関が整備され、秋丸機関は昭和17年末に解散となります。

 

 その1 秋丸次郎

 

 戦後の秋丸は地元の飯野町の町長を二期務め、その後は社会福祉協議会を設立し会長を長く勤め、平成4年8月23日、93歳で死去。「敗軍の将は兵を語らず」とのことで戦後は自らの体験を語ることはなかったが、昭和58年の陸軍経理学校の同窓会、若松会の機関誌には次のように記しているとのことです。

 

 経済戦研究班ばかりでなく、遅れて発足した総力戦研究所にしても、第二次大戦の遂行に対しては、ほとんど寄与することなきままに悲劇的な結末に終わった。その因果を省みると、昭和14,5年に陸軍の南進策が決まり。英・米を向こうに回して未曾有の大戦に突入することを予想する時になって、急いで経済戦や総力戦の研究調査機関の設置に着手した“泥縄式”の措置であったことに基因するのである。国防とか戦争とかを考える上で、たとえ専守防衛であっても、常時、科学的・原理的な準備のため機関を常設することの重要性を痛感する次第である。(218頁)

 

 共感を覚えるところです。秋丸は平成4(1992)年8月23日、93歳で死去します。

 

 その2 竹村忠雄

 

 竹村忠雄は終戦直後には慶應義塾大学を追放され、日本共産党系学術団体からは戦争責任者の一人としてされますが、自分の戦中の行動については弁解は一切しなかったとのことです。なお、竹村は戦中では、秋丸機関が解散後も警視庁特高課からはマルキスト内閣情報局からは英米派と警戒されながらも引き続き多方面で活躍します。実際の終戦は直接的には原爆投下と、ソ連の対日参戦によるものでしたが、鈴木貫太郎首相による政府が公的に戦争終結の活動を始めるレトリックを作り出すことに貢献した、と著者は記しております。加えて、極東国際軍事裁判では戦犯問題に協力を求められ、「経済学的見地に立ちて大東亜戦争の必然性を論評す」を提出。以下のように主張し日本の行動を弁護しております。

 

 日本は過剰人口に悩み市場を海外に求めざるを得なかったにもかかわらず、日本製品がイギリスなどから閉め出されさらに南部仏印進駐後に石油の禁輸を受けたことで、「茲に於いて我国は三度買い得ざる者は遂に盗むの罪を犯さざる窮地に追い込まれ、太平洋戦争が勃発したのである。」「太平洋戦争の経済的遠因並に近因を検討するならば、それは我国の人口問題の解決を戦争による領土の拡大以外に他に道を与えられなかった独占的国際経済秩序が生んだ罪である」と主張して日本の行動を弁護している。(223頁)

 

 如何でしょうか。一つの視点・観点でと見るべきものでしょう。竹村は昭和62(1987)年12月14日、82歳の生涯を閉じます。

 

 その3 有沢広巳

 

 有沢は戦後、昭和21年、第一次吉田内閣の私的ブレーンとして石炭と鉄鋼の増産を繰り返す、所謂「傾斜生産方式」を提唱します。その真意は有沢自身がGHQの輸入許可を求める品目のうち「とくに鉄鋼と重油を重視していた」。有沢らが日本経済の復興に於いて最も重視していたのは実は石炭の生産ではなく重油の輸入であった。つまり傾斜生産方式というのは「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建をする」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックで、自助努力のプログラムを示し、アメリカからの重油の援助に成功した。著者は次のように記しています。

 

 竹村忠雄がその経験を基に戦争を終わらせるレトリックを作るのに貢献したのと同様に、有沢広巳はその経験を基に戦後に傾斜生産方式というGHQを説得するレトリックを生みだすとともに、「何か新しいことをやるように」ということで国民を勇気づけて労働意欲を引き出し、それが戦後復興に役立ったのである。有沢はその後も多くの産業政策や石炭・原子力などのエネルギー政策に関わり、昭和63(1988)年3月7日、92歳で死去した。(235頁)

 

おわりにあたり

 

 今回、本書を取り上げたのは、「はじめ」にも記したように某読書会の畏友より薦められ読み進めました。「昭和研究会」に関しては私なりに、多少なりとも聞き及んではいましたが秋丸機関については全く知りませんでした。本書を読み進めていく中、歴史研究を進める上での綿密な調査と地道な研究が基で、その成果が見事に現れた著作と思うと共に、学者研究者の凄さを感じ入ったところです。なお、新体制運動及び革新官僚とは何か、その挫折をも改めて認識した次第です。著者は本書の「おわりに」以下のように記しております。

 

 歴史を学ぶ意味は、そこから現代への教訓を読み取ることである。読者の方々にとって本書が歴史の本というだけでなく、現代の社会において「エビデンスとヴィジョン、そしてレトリックを使って、より良い選択をするためにはどうすればよいか」を考える機会となれば幸いである。(240頁)

 

 毎回の言い分で恐縮しますが、欧州の混乱、大きく変貌するアメリカ、そして価値観を大きく異にする共産党独裁政権の中国の急激な台頭等々、世界情勢はは大きく変貌しております。中国に加え、世紀を超えても変わらない反日国家・朝鮮半島を隣国とする日本は更に厳しい状況下に置かれていくと考えます。そうした現状下にありながら日本の政治の現状はどうでしょうか。只、安倍政権を倒せばこと済むような、国会論議を含め、それを喧伝する、決して責任を取ることない最大の権力者になったマスメデイア。それによって作り出された世論と称するものに政治は翻弄され、現実を見失う、否見ない、日本は正しく平和ボケにあるといっても過言ではないでしょう。われわれは改めて歴史を顧み、現状・現実を考える必要があるのではないでしょうか。僭越至極ですが、そうした意味でも私は大いに参考になる本書に出会いました。

 

 なお、「はじめに」も記したように、私の興味に従って長々と述べてきました。ご参考までに本書の構成は記しておきます。

 

  はじめに、第一章・満州国と秋丸機関、第二章・新体制運動の波紋、第三章・秋丸機関の活動、第四章・報告書は何を語り、どう受け止められたのか、第五章・なぜ開戦の決定が行われたのか、第六章・「正しい戦略」とは何だったのか、第七章・戦中から戦後へ、おわりに、から成り立っております。

 

2019年1月7日

                       淸宮昌章

参考図書

 

 牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)

 古川隆久「昭和史」(ちくま新書

 筒井清忠「昭和史講義 最新研究で見る戦争への道」(ちくま新書) 

 同   「近衛文麿」(岩波現代文庫)

 堀田江理「決意なき開戦」(人文書院)

 牛村圭「戦争責任論の真実」(PHP研究所)

 半藤一利「昭和史 1926から1945」(平凡社)

 清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

 堀口正夫「書籍紹介 経済学者たちの日米開戦」

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(NHKブックス)

 カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル著「ポピュリズム」    

                   (永井大輔、高山祐二訳 白水社)

 選択(11、12,1月)

 他

  

この3年8ヶ月を省みて

この3年8ヶ月を省みて

 

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 このブログ「淸宮書房」を立ち上げ、この11月で3年有余が経過しました。初めの投稿は2015年の3月で、澤田克己著「韓国『反日』の真相」を取り上げ、私なりの感想などを併せ記したものです。その後、加筆をも入れますと、今日までに70数編の投稿となり、ひと月に、ふたつの投稿になるでしょうか。

 

 尚、このブログを立ち上げた動機は、自費出版「書棚から顧みる昭和」の後も、人生の大半を過ごした昭和の時代を、僭越至極ながら、私なりに再検討し、今を考えて観ようとした次第です。と同時に私なりの読書感想を残しておくことも私個人にとって意味があるかもしれないと思ったわけです。誠に恐縮ですが、ブログとしては極めて長文で、加えて、何を言いたいのかよく分からぬ、とのご批判もあるでしょう。5年前に一線を全て退き、テニス漬けの日々を送る、遊び惚けて、何か後ろめたい気持ちも残る78歳の者ですが、読書量も落ちてきている状況にもあります。ただ、お陰様で、淸宮書房へのアクセスも26000台になって、ここに、ひとつの中間報告を致したく思ったところです。

 

 フェイスブックの案内によれば、私はその基準は分かりませんが、期近の注目記事として挙げられているのは下記の通りです。

 1.毛利和子「日中漂流・グローバル・パワーはどこへ向かうのか」を読んで

 

2. 佐伯啓思「保守のゆくえ」を読んで思うこと

 

kiyomiya-masaaki.hatenablog.com

 3.再度・堀田江理「1941決意なき開戦」を読んで 

 

kiyomiya-masaaki.hatenablog.com

4. 阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

 

 5.池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで

 

 4番目を除き、他の4編に共通することは、新聞・テレビを初めとしたマスメデイアへ私の強い危機感です。言論・報道の自由云々どころか、報道しない自由をも得た権力構造です。又、そこへ登場する識者・ジャーナリストと称される人々、加えて何の芸か分かりませんが、踊らされるタレントと称される人々の止まるところを知らぬ無責任なご意見。加えて残念ながら、それに影響される世論。そして、そのマスメデイアの世論に翻弄される日本の現実に私は大きな危機感を持っております。正にマスメデイアが最大の権力者化の様相となっている、との思いです。

 

 お時間とご興味があればの上ですが、上記、五つの拙稿を改めて一覧頂ければ幸いです。

 

 尚、4番目の阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」は詩歌等に全く疎い私ですが、著者の綿密な調査・研究に加えて、驚くほどの記憶力により明治、大正、昭和の時代の流れ・政治状況を巧みに紹介し、柳原白蓮とその人々の物語を記述しております。私も一気にその投稿を仕上げました。

 

 現在、上に写真を載せた著書については後日、改めてご紹介したく思っております。

 

 2018年11月20日

 

                             淸宮昌章

 

 

 

 

 

池田信夫「丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで  

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」を読んで

 

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序章

 

 日本の政治は、なぜここまで壊れてしまったのだろうか。国会が圧倒的多数与党と無力な野党に二極化し、政策論争がなくなってスキャンダルばかり論じられる昨今、そう思う人は少なくないだろう。自由民主党が「保守党」であることはいいとして、野党は何なのだろうか。彼らの自称する「リベラル」という理念は、日本にあるのだろうか。

 

 以上は著者、池田信夫氏の本書の「はじめ」における冒頭の言葉です。続いて次のように続けます。

 

 戦後の日本には、リベラルの輝いた時代があった。それを代表するのが丸山眞男である。彼は1950年代まで日本の論壇をリードし、1960年の日米安全保障条約改正の時は反対運動の中心になった。かれの本業は東京大学法学部の教授として政治思想史を教える研究者だったが、世間的に注目されたのは論壇のスターとしてだった。彼は60年代以降、政治運動から身を引き、研究者に専念するが、60年代後半の東大紛争では学生に批判される側になり、「戦後民主主義」とか「近代主義者」というレッテルが貼られた。

 

 ・・(中略)今も丸山を慕う人々は、戦後民主主義国家の黄金時代を懐かしみ、その「原点」を継承して憲法改正を阻止しようと考えているのかもしれない。

 だが憲法第九条の平和主義は、丸山の原点ではなかった。戦後最大の分岐点は、憲法ではなく講和条約だった。丸山は1950年に米ソと同時に平和条約を結ぶ「全面講和」を主張した。1960年の安保改正のときは強行採決を批判し、「民主主義を守れ」と主張した。こうした運動は失敗に終わり、60年代には丸山はアカデミズムに退却した。  

 

 その後の日本は、1950年代にリベラルが考えたのとはまったく違う方向に発展した。憲法は改正されなかったが日本は再軍備し、安保条約は存続した。彼らが理想化した社会主義は悲惨なユートピアになり、自民党に対抗する野党は生まれなかった。丸山を代表とする進歩的知識人は政治的に敗北し、そこから今なお立ち直ることができない。

 丸山の敗北を検討することは、彼個人を超えた意味がある。彼に代表されるリベラルな気分は、今多くの人に受け継がれているからだ。空文化した憲法の平和主義は、篠田英郎の指摘するように「戦後日本の国体」として人々を呪縛している。(本書10頁)

 

 皆さん如何でしょうか。私としては共感を覚え、それが本書を読み始め、そして読み終えた大きな要因でした。

 本書は序章・明治の国体に抗いして、第一章・自然から作為へ、から始まり、第十一章・失われた主権者、に続きます。そして、終章・永久革命の終わり、という構成ですが、著者は以下のように記し、本書を閉じています。

 

 軍事的な主権を放棄した日本は、アメリカの世界戦略に従属する状態にずっと置かれることになった。一国平和主義は日本人の心に中に住みつき、憲法を変えただけでは変わらない。もはや日本が二十世紀型の主権国家として自立することは不可能だが、それが唯一の「普通の国」のモデルとは限らない。国家主権も平和憲法もフィクションだが、それは平和が続く限り役立つフィクションである。

 今は日本にとって、この変則的な戦後の国体を護持する以外の選択肢はないだろう。それは「憲法改正は時期尚早だ」と主張して、それを既成事実として守った丸山の戦術の成功による失敗だった。彼も認めたように憲法第九条は逆説であり、今後も逆説である他はない。丸山は1996年8月15日、彼の信じた革命の歴史を閉じるかのように異論は世を去った。(本書248頁)

 

 フィクション云々には異論もあるでしょうが、私には印象に残る、「はじめ」と「終わり」の記述です。その中身はどうか、へと関心と興味が沸き、読み進めた次第です。方や、本書は丸山についての解説書ではない、と述べている著者は1953年生まれです。東大を卒業後、NHKに入局、色々とご意見はあろうと想いますが、報道番組「クローズアップ現代」などを手掛け、退職後、博士(学術)取得。現在は、アゴラ研究所代表取締社長です。尚、今回も本書の全体を紹介するのではなく、私の興味深く感じた諸点に絞って綴って行きます。           

 

その1.丸山眞男の履歴、その関連で想うこと

 

 今から4年前になりますが、私は自費出版の拙著「書棚から省みる昭和」の第十四章・丸山眞男を想う、と題し、丸山眞男を取り上げ、丸山を考えることは、戦後思想と知識人界を考えることにほかならない、と僭越にも記しました。そして丸山のトラウマ的なことも併せ記しました。その時と重複する感もありますが、改めて、丸山の来歴とその思想の発端は何であったのか、僭越至極ですが私なりに若干の補足をし、以下記して参ります。

 

 丸山は1914年(大正三年)、洋行帰りの「大阪朝日新聞」で筆を執った著名なジャーナリスト丸山幹治の次男として大阪で生まれます。謂わば、明治ではなく大正デモクラシーの大正ッ子です。そして一家とともに東京の四谷区愛住町に移り、大正12年9月の関東大震災を経験します。尋常小学校4年生だった丸山の手記として朝鮮人の対する「自警団の暴行」への批判が記されているとのこと。そして、その震災経験を1995年の阪神大震災時の知人の見舞い状に、「ああいうパニックの際の人間性の中にある強烈なエゴイズムと、その反対にまったく自発的な利他精神を子供ながら目撃したことがやはり私の生涯でもっとも大きな経験でした」と記している、とのことです。

 そして東京府立一中(現在の日比谷高校)に合格し、4年次では第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験に失敗するものの、5年次を経て一高、東京帝大に進みます。尚、高校三年の時、父の友人でもある長谷川如是閑の主宰する唯物論研究会の講演が本郷仏教会館で行われ、偶々、学生服で足を運びます。その彼のポケットに入れていた手帳の言葉「日本の国体は果たして懐疑の坩堝の中で鍛えられているだろうか」を見つけられます。それはドストエスキーの「わが信仰は懐疑の坩堝の中で鍛えられた」という引用ですが、「貴様、君主制を否定するのか」と、共産党の活動家とみなされ治安維持法違反で検挙、留置所に拘留されます。そして、スシ詰めの豚箱での異様な体験。朝鮮人への激しい官憲の暴力。そして同房の一年先輩と話しているうちに不覚にも涙を流したことです。この異質なものとの遭遇は後の学生時代、助教授時代、兵役時代、そして広島の原爆の被爆の経験にも連なっていくわけです。

 

 帝大の法学部の助手の時、偶々、早稲田大学津田左右吉が右翼の攻撃を受け、帝大法学部の非常勤講師を辞任したため、26歳で東京帝大法学部の助教授に就任します。しかし、かって逮捕・拘留所でのことから思想犯としてレッテルを貼られていたのでしょう、東京帝大の助教授でありながら、1944年サイパン陥落の時、30歳で長野県松本の連隊に陸軍二等兵として招集されます。そして、所属部隊ごと朝鮮の平城に送られ、朝鮮の人々の底知れない反感、複雑な怨恨感情を知ることとなります。栄養失調から二ヶ月後に兵役を解除されますが、その兵役では思想犯として苛め抜かれといった、再び「異質なもの」に遭遇するわけです。とくに「最も意地の悪い」仕打ちを加えたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入隊した朝鮮人一等兵であった。

 

 丸山は再び、1945年3月、二等兵として招集され、広島の陸軍船舶司令部に配属され8月6日原爆投下から五十キロの地点で被爆します。奇跡的に助かり、死去の際には「香典は固辞する。もし、そういった性質のものが事実上の残った場合には、原爆被害者法の制定運動に寄付する」との遺言を残しました。

 

 尚、興味深いことは、丸山が八月十六日に上官である谷口参謀に「連合軍は民主主義と言っているが、そうなると陛下はどうなるのか? 君主制は廃止されるのではないか?」との質問に対し、以下のような意味で返答をした、とのことです。興味深いので紹介致します。

 

 ご心配には及ばないと思います。民主主義はわが国体と相容れないというような考え方はそれこそ昭和の初めごろから軍部や右翼勢力を中心にまかれて来たプロパンダです。国法学の定義としても、君主制と対立するのは共和制であって、民主制ではありません。民主制は独裁制に対する対立概念です。イギリスは君主制ですが、極めて民主的な国家であり、逆にドイツは第一次大戦征以後、共和国になりました、その中からヒットラー独裁が生まれました。(本書35頁)

 

 丸山の問題は「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」ということだった。彼はその背景に既成事実に屈服しやすい日本人をみたが、それを屈服させたのはナチスのような独裁者ではなかった。むしろ「寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかった」ことが日本の軍国主義の特徴である。そして、1946年の「世界」五月号に掲載された丸山の「超国家主義の論理と真理」は戦後の社会科学に最大の影響を与えた論文で、戦争の原因を日本人の心理に求めたものです。そして、後に「八月革命」と呼ばれる宣言が以下の記述です。

 

 日本軍国主義に終止符が打たれた八・十五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(本書40頁)

 

 丸山の終生のテーマーは天皇制だった。それは戦前の日本人にとっては圧倒的な権威であり、多くの兵士が天皇のために死んでいったが、単なる政治的な君主制ではない。「原型」や「古層」は、日本人の心に深く根ざした天皇制を理解するための概念装置だった。・・(中略)戦争が終わって多くの人が「天皇の戦争責任」を問題にしたとき、逆にリベラルな天皇が戦争を止められなかったのはなぜか。それは天皇制を支えた政治の問となり、日本人は何かという問になった。(本書142頁)

 

 そして、丸山は1960年に行われた日米安保条約の改正という戦後最大の岐路を迎えます。1950年代か続いてきた講和問題をめぐる左右対立が先鋭化し、安保条約の評価が国論を二分します。このとき、彼は安保反対運動のヒーローとして知られるようになります。ただ、彼は安保条約の内容については、ほとんど論評しておりません。彼が反対したのは、条約改正の強行採決だったのです。

 

 その後は、丸山は全共闘の学生らによる「大衆団交」で吊し上げ、更には在野の知識人である吉本隆明達からも、その行動・思想を激しく批判されます。因みに吉本隆明は1923年生まれで2016年に88歳で死去されます。絵に描いたような学歴エリートの丸山と異なり、下町の船大工の三男として生まれ、東京府立化学工業学校、米沢高等工業学校、東京工業大学です。蛇足ですが、その次女は作家の吉本ばなな氏です。全共闘プロレタリアート化された学生が、丸山に代表される教養エリートをモデルにした上昇型知識人の道ではなく、むしろ下町知識人のポジションから発言する吉本隆明の方にシンパシーを感じたのも不思議ではない、と竹内洋氏が記しております。

 

 丸山は安保騒動後、政治的活動から離れ、東大教授も定年前に退きます。それからは日本政治思想史の研究に専念し、1966年、奇しくも「八月十五日革命説」を唱えた、とする、その同日の五十二回目の所謂、終戦記念日に八十二歳の生涯を閉じます。

 

その2.無責任の体系の始まり

 

 丸山は既成事実への屈服という倒錯した意思決定の原因を明治憲法の欠陥に求め、明治幕藩政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシャに倣って作り上げた時に既に今日の破綻の素因は築かれていた。そこでは明治時代の基本的な対立として幕藩体制自由民権運動という図式が描かれ、その延長上に昭和の軍部と政党政治の対立があった。そして、ファシズムの担い手は本物のインテリではなく、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官という疑似インテリ、としています。このようにインテリを特権化する議論は丸山の特徴で、東大教授のエリート主義として(特に左翼から)強い批判を受けた、と著者の池田氏は記しています。

 

 尚、ファシズムという観点については、著者は以下のように記しています。

 

 代表制が機能しない大衆社会の危機に対する主権者として登場した独裁制ファシズムと考えると、日本の軍部支配はファシズムとはいえない。独裁者は不在で、政党は存続した。本来の主権者である天皇ファシズムに反対していた。よくヒトラーに比せられる東條英機は権力基盤が弱体で、それを補うために首相と陸将と参謀総長を兼務した。実質的な意思決定を行ったのは現場の将校であり、彼らをあおったのは新聞の戦争報道だった。(本書46頁) 続いて、

 

 軍部の力を借りて危機を乗り切ろうとする内閣に革新官僚が呼応し、総動員体制を取るために軍事的な雇用創出や賃金の国家統制などの社会政策を取った。農村の窮乏かを領土拡大で解決するため、陸軍が大陸に進出したのが1931年の満州事件である。翌年には陸軍の青年将校が五・一五事件でクーデタを図ったが、国民は軍部を熱狂的に支持した。この三十年前半が世論の転換期で、政党も軍部に迎合するようになった。大衆がストレスを発散する最大の劇場が戦争だったからだ。

 この状況で民意を統合する新聞の役割は大きかった。1931年5月まで朝日新聞軍縮派だったが、この年9月に満州事件が起こると、大阪朝日の社説はこれを「自衛権の行使」として擁護した。その動機は単純である。満州事件で、部数が50%も増えたからだ。大規模な戦場のスペクタクルと、そこで戦う息子の安否を知りたい親心から、人々は争って新聞を読んだ。総力戦はデモクラシーから生まれたのだ。(本書243頁)

 

 著者のこの観点は如何でしょうか。私は共感・賛同を覚えるのですが。メデイアが煽った世論操作の行く着く先は、今でも起きている現実ではないでしょうか。加えて、戦後も何らの責任も取らず、感ぜず、A戦犯と称する人々にその責任を負わせる新聞等メデイアの在り様は今日でも変わらない現実ではないでしょうか。3年ほど前になりますが、私は淸宮書房で筒井清忠著「近衛文麿」を取り上げました。新聞各社、とりわけ朝日新聞が如何に他人事のように戦争責任を捉えていたかを示すもので、敢えて再び以下に記します。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかってあれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降、最近の公の行蔵は世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。・・(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。・・(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。・・(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。・・(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(筒井清忠著「近衛文麿」295頁)

 

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(同上近衛文麿296頁)

 

筒井清忠氏は新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しています。何故に戦後、むのたけじ朝日新聞社を辞めていったのかが、改めて私は思い起こされるところです。

 

その3.知識人の闘い

 

 丸山は疑似インテリがファシズムの担い手としたのですが、では本来のインテリは戦中、戦後どうだったのでしょうか。著者は次のように記して行きます。

 

 1930年代の混乱した時代に、リベラルな「本物のインテリ」は問題を正しく認識していたが、「亜インテリ」のファシストにやられた、という丸山の歴史観は事実にそくしていない。普通選挙ポピュリズムを生み、政党政治軍国主義と野合して大政翼賛会が生まれた。そこに集まった知識人は軍部に対して無力ではなく、積極的に軍部を呼び込んだ。近衛文麿がその中心だが、彼をとりまく「昭和研究会」のメンバーにも東京帝大の本物のインテリである蝋山政道、矢部貞治、大河内一男大塚久雄等々。そして、大政翼賛会の事務局長の朝日新聞緒方竹虎笠信太郎然りである。終戦直後に治安維持法で検挙されて獄中で死んだ三木清が、その中心だった。

 

 「緒方や笠は狂信的な右翼ではなく、リベラルな社会民主主義だったが、彼らが近衛大政の支柱になった。新聞の支持に乗って軍部の発言権は強まり、革新官僚国家社会主義の経済体制を構築した。その中心が岸信介である。国家社会主義の教科書を書いた笠は1948年に帰国し、朝日新聞の論説主幹として全面講和や安保反対の論陣を張った。彼は戦前の著者をすべて絶版にし、戦後はそれについて何も語っていないが、軍国主義を支えたのは笠と革新官僚の立案した国家社会主義だった。戦前の日本と戦後の日本は、丸山が思っていたほど離れていなかったのだ。」(本書221頁)

 

 皆さん、如何思われるでしょうか。一国平和主義についての、所謂知識人との関連については、次のように指摘しています。

 

 安全保障をめぐる国会審議では、国をいかに守るかより憲法違反かどうかが争点なるが、日本国憲法は他国には適用できないのだから、集団的自衛権の行使が憲法違反か否かは自国を防衛できるかどうかとは論理的に無関係な問題である。こうした憲法解釈をめぐる神学論争に多くの政治的資源が費やされる状況は世界にも類をみないが、そういう論争の始まったのが1950年代だった。

 その最大の焦点が講和条約だった。アメリカなどと早期に講和する「単独講和」か、ソ連や中国を含む「全面講和かが論争になったのだが、全面講和を条件としたら、ソ連と平和条約を結んでいない日本は、いまだに講和はできていない。当時の知識人の中では全面講和が圧倒的に優勢で、その運動の中心になったのが丸山だが、彼自身は神学的な立場をとっていなかった。・・(中略)単独講和は実際には単独でなく(中ソを除く)48カ国との「多数講和」だが、この言葉が世の中に錯覚を与えた。・・(中略)全面講和は不可能だったので可能な選択肢の中から多数講和を選んだ。・・(中略)それに対して知識人は、平和問題談話会を結成した。・・(中略)久野収や丸山が中心になって平和問題討議会を結成し・・(中略)メンバーは安陪能成、和辻哲朗、田中耕太郎、蝋山政道などのオールド・リベラリストから大内兵衛、脇村義太郎、有沢広巳などのマルクス経済学者、中野好夫都留重人を含むオール・ジャパンの知識人だった。全面講和を特集した岩波の『世界』1951年11月号は五刷を重ね、十五万部も売れた。・・(中略)丸山が政治の表舞台に登場したのは、この全面講和論争のときだった。(本書70頁から73頁)

 

 そして、著者は次のように指摘します。

 

 丸山は非武装中立と言う言葉は使っていないが、ここで知識人のコンセンサスとなった非同盟・非武装の一国平和主義が、統一された社会党の路線となり、戦後の日本を

呪縛した。談話会は全面講和という目的の達成には失敗したが、憲法改正の阻止という副次的な目的は達成した。結果的には、1950年代が、再軍備の最初で最後のチャンスだった。戦後の不毛な憲法論争のアジェンダを設定した丸山の責任は重い。(本書76頁)

 

 如何でしょうか。私は僭越ながらその通りと、考えます。

 

その4.永久革命の終わり

 

 僭越ながら著者の記述を一部省略し、記して参ります。

 

 1950年代以降の安保論争は、壮大な政治的資源の浪費だった。再軍備によって占領統治を終えていたら起こらなかった神学論争が、その後六十年以上続けられている。平和主義の論陣を張った知識人は丸山を初めとして党派の違いを超えた知的エリートだったが、歴史的には敗北した。・・(中略)労働者にとって外交や国防は大きな関心事ではなかった。人民を豊かにしたのは労働組合ではなく資本主義であり、「持てる者」になったサラリーマンは、既存秩序を維持する自民党の支持層になった。主権者は失われたが、新憲法はなし崩しの正統性を得て、それを守る運動は不要になった。皮肉なことに、日本人の「古層」にあった既成事実への屈服が、憲法改正の最大の障害となったのだ。(本書238頁)

 

 続いて、長い引用で恐縮しますが、重要な著者の指摘なので若干の補足を加え、以下紹介致します。

 

 丸山はデモクラシーをあえて民主主義と呼び、その理念としての面を強調したが、それは国民を戦争に総動員するための統治形態である。その意味では昭和の日本はデモクラシーとして成功したが、それは政治の劣化をもたらした。昭和初期には松島遊郭事件や陸軍機密事件や朴烈怪写事件、帝人事件などの、でっち上げスキャンダルが帝国議会で問題となり、多くの内閣が倒れて政党政治が不安定化した。・・(中略)戦前の国体に代わって丸山が再建しようとした人民主権は、その根底に論理的な弱点をはらんでいた。議員内閣制では、国民が選出した国会議員が内閣総理大臣を選び、彼が行政の最高責任者として国民を支配するが、ここでは至上の主権者たる国民が支配される側になるという循環論法がある。行政の専門家ではない民衆が、統治者として賢明な判断をする保証はどこにもない。

 丸山も自覚した通り、これは近代国家にとって避けられないパラドックスである。それを国民の自覚で乗り越えようとするのが彼の永久革命だったが、これは知識人の観念に過ぎない。冷戦が終わって長く平和が続くと、国民が主権者として決断するという丸山の理念は忘れられ、平和憲法と日米同盟という戦後日本の国体が定着した。

 

 ・・(中略)冷戦は終わったが、資本主義のグローバル化が政治体制の収斂をもたらすようにはみえない。今も独裁国家は民主国家より多く、それが逆転する兆しもない。ヨーロッパ的なデモクラシーを超えた普遍性をもつという、丸山の信念は戦後知識人の願望でしかなかった。日本の政治の末期的な状況は、普通選挙政党政治によるデモクラシーの限界を示している。

 

・・(中略)非同盟と非武装を混同した丸山の理想主義は、戦後の左翼をミスリードした。・・(中略)多くの選挙で野党が共闘する「最小限綱領」として憲法は次第に大きな役割を果たすようになった。当初は綱領で憲法改正ということば明記した共産党もそれを封印し、社会主義という言葉は使わなくなった。残されたのは、平和主義という誰も反対できない心理倫理だった。

 

・・(中略)日本でも与野党が話し合えば憲法は改正できたが、野党は平和憲法に呪縛され、分裂を繰り返した。その原因を中選挙区制だといわれたが、1994年に小選挙区制に改正しても変わらなかった。万年野党が結集できない原因は平和憲法だった。それを封印した民主党政対権が政権交代を果たした後も憲法をめぐる対立は続き、最近は野党は社会党に先祖返りしている。・・(中略)憲法自衛隊・安保条約の矛盾は、政権をあきらめた野党が自民党を攻撃する最大の材料になった。・・(中略)丸山を初めとする進歩的知識人は、万年野党を正当化する守護神の役割を果たしたのだ。(本書242から247頁)

 

 非常に興味深い指摘ではないでしょうか。本書は新たな丸山眞男論かもしれません。

 

おわりに当たって

 

 今回も、本書の紹介にも関わらず、要領悪く、長々と綴ってきてしまいました。

 

 今月20日には自民党総裁選で安倍普三氏か、石破茂氏のいずれかに決まりますが、何も私は自民党の政策等を全面的に支持しているわけではありません。ただ、何でもかでも自民党、特に自民党総裁で首相である安倍晋三氏を目の敵に挙げるメデイアには、極めて異常さ、否、むしろ危険性を私は抱くのです。

 

 方や、旧社会党に先祖帰りをしたかの立憲民主党の理念、外交政策は何なのでしょうか。立憲とはどんな意味を持たせたのでしょうか。むしろ、この政党は単に今の平和を享受しているだけで、その理念・思想も理解できません。従い、外交を含めたその政策も、展望も私には分かりません。又、その政党自体が政権を取るなどという発想は全く持っていないに等しい、と考えます。

 又、日本共産党は何を目指しているのでしょうか。そして、それなりの意味を込め政党名を決めたのでしょうが、共産党の前に日本をつけ、「日本共産党」とした意味合いは何だったでしょうか。また、その日本共産党には自浄装置はあるのでしょうか。現在の委員長の期間は18年になりますが、今後何年やっていくのでしょうか。また、その交代はどのような時に起こるのでしょうか。     

 加えて、日本維新の会は未だ地域政党から脱しきれず、その他の野党は議員自らの生活維持するに過ぎない、単なる集まりとしか私には映りません。全ての野党ではありませんが、野党国会議員の国会内外での言動、行動の在り様は眼を覆うばかりです。今回の北海道の大震災の際でも、粛々と行動する人々との相違はどこから来るのでしょか。ただ、その国会議員を選んだのも国民一人一人なので、こうした批判は天に唾を掛けるようで、一抹の後味の悪さが残るのです。

 

 単なる経済圏構想ではない一帯一路を強引に進める、共産党一党独裁、価値観の大きく異なる大国中国の擡頭。加えて、隣国の朝鮮半島両国の日本敵視は歴史認識・事実とは離れ、それはひとつの国民性となった怨念であり、世紀を超えても変わらないでしょう。従い、そうした隣国との協定・条約はいつでも破棄・無視されることを前提に置くことが必要だということでしょう。更に、内向きになったアメリカ、揺れ動くヨーロッパ、頻発するテロ等々、地政学的にも大きく変貌している中にあって、日本はどうすべきなのか。日本は極めて厳しい時に直面していると想います。そんな苛々している中、本書に出会いました。ただ、私は苛々を解消するには至りませんが、ひとつの参考になる著作に出会った、との印象です。僭越ながら、皆様に改めて本書の一読を勧めるところです。

 

2018年9月14日

 

                           淸宮昌章

 

参考図書

 

池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

刈部直「丸山眞男」(岩波新書)

竹内洋丸山眞男の時代」(中公新書)

間宮陽介「丸山眞男

筒井清忠近衛文麿」(岩波現代文庫)

同   「戦前の日本のポピュリズム」(中公新書)

水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

丸山眞男「現代政治の思想と行動」(未来社)

淸宮昌章「書棚から顧みる昭和」(言の栞舎)

その他