清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

十川信介著「夏目漱石」を読んでみて

十川信介著「夏目漱石」を読んでみて

 

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はじめに

 

 私の書棚に「三木清全集19巻」、並びに「夏目漱石全集17巻」及び「月報が」鎮座しております。夏目漱石全集の第一巻・我が輩は猫である、は昭和40年12月9日発刊、そして19巻・索引 は昭和51年4月9日の発刊です。毎年の発刊を楽しみにしておりました。そして歳をとったら全巻を一気に読もうとしていたのですが、いまだに取り組めないまま今日に至っております。そこに昨年11月、「漱石没後百年記念」の一環として、近代日本文学を専攻される十川氏による掲題の本書が出版されました。私にとって、何か幸運が訪れたような気持ちになったわけです。加えて、三谷太一郎著「日本の近代はなんであったのか」が今年3月に出版されました。

 

序章 三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」

 

 三谷太一郞氏については、「淸宮書房」でも一昨年に、「学問は現実にいかに関わるか」、「人は時代にいかに向き合うか」を取り上げました。続いて昨年暮れには、「戦後民主主義をどう生きるか」を「高坂正尭と戦後日本」の対比で、私なりに述べてきました。三谷太一郎氏はご承知のように日本政治史における泰斗です。奇しくも十川信介氏と同年の1936年生まれです。 

 

   三谷氏は上記の本書「あとがき」に、次のように記されております。

 

 昨年人生80年を超えた私にとって、その50年を超える部分は、学問人生であります。必ずしも短いとはいえない学問人生をふりかえって、その間に達成した私の事業はあまりにも貧しく、誇るに足るようなものではありません。むしろ私にとっては、私の人生80年の方が、たとえ凡庸な人生であったにせよ、私が達成した最大事業であったという思いが強いのです。・・(中略)私は学問の発展のためには、学際的なコミュニケーションの他に、プロとアマのとの交流がきわめて重要だと思います。そのためにも、「総論」(general theory)が不可欠であり、それへの貢献が「老年期の学問」の目的の一つではないかと思います。(267~269頁)

 

 そして、英国近代について、まさに総論的考察を試みたウオルター・バジョットの「自然学と政治学」を本書の導入部に参考にしたと、記しております。加えて、三谷氏ご自身の大病後の回復期に、夏目漱石が1910年、修善寺で大患からの回復期について書いた「思い出す事など」を読んだなかで、感銘というか感慨を吐露されております。更に加え、当時の漱石が衰弱しているなか、仰向けに寝て、両方の肘を布団に支えながら、ウイリアム・ジェームスの最後の大著「多元的宇宙」を読み通して、次のように記しています。

 

 文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的な事実を土台として、類推で哲学の領域に切り込んで行く所を面白く読み了つた。・・・自分の平生文学上に抱いてゐる意見と、教授の哲学に就いて主張する所の考えとが親しい気脈を通じて彼此相寄る様な心持ちがしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がす様な勢いで駆け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのかは此時である。(270,271頁)

 

 全くの門外漢の私で、誠に僭越になるのですが、三谷太一郞氏の表現された「凡庸の人生・・・」、そして氏が夏目漱石の上記引用をされたことに私は感銘を受けた次第です。私がこの8月で喜寿を迎えたことも感銘・共感の要因のひとつかもしれません。

 

本題 十川信介夏目漱石

 

 著者はその「あとがき」で、以下のように述べています。

 

 漱石夏目金之助の生涯は、大部分が明治時代に属するが、その始まりは慶応、終わりは大正である。とくに出生期が短期間とはいえ、江戸時代だったことは、小谷野敦が言うように、考慮する価値があろう。明治も十年代までは。「文学」も漢詩文・和歌俳句が優勢だったからでる。彼は少年期には漢詩文を好み、晩年に至るまでそれを捨てなかった。いわば彼の精神には、文明開化による西洋的論理性の下に、すでに「江戸的」な感性が宿っていたことになる。・・(中略)青年期の初めには、「個人」思想が輸入され、拡がった。養家と実家の間で宙ぶらりんだった塩原金之助は、帰属すべき場所を持たない「一人」と成り、「個人」として生きざるを得なかった。だがその意識が強すぎた彼は、結婚後、自分の家族もまた、それぞれ「個人」だという意識を持つには時間を要した。(299頁)

 

 更に、著者は漱石を厳密に言えば、江戸っ子というより出生地は牛込の馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)であり、生後すぐに江戸は東京になるのだから「東京人」と考えるのがふさわしい、としています。いずれにもせよ谷崎潤一郎がのちに述べるように、漱石は江戸っ子人の類型をもっていたのでしょう。世渡りが拙いことは別として、正直、潔癖、お世辞嫌い。しかし学校では秀才、大学教師としても小説家としても成功し、知人からは頼まれたことは可能なかぎり引き受け、感謝された。もちろん彼はそんな評判を無視し、いつも与えられた現在の職務に忠実であった。だが彼はそれに満足できず、突然の様に変心し、職を変えることがあった。彼の心の中には、つねに現状に満足できない強い欲求が潜んでいたようだ。そんな夏目漱石の生涯と生活ぶりを著者は辿り、漱石の作品と現実の人物との関連を見事に織り込みながら記述されていきます。

 

 方や、私は十川信介氏の著書を借りながら、漱石の作品に漱石の育った環境、並びに出会った友人達との遭遇がどのような影響を及ぼしたのか。加えて漱石の一連の作品を私なりに時系列的に整理、そして、ひとつの私の記憶として残しておこうと思ったわけです。著者の本書の意図もしくは内容とはだいぶ離れたものです。毎回のことですが著者の文章を引用させて頂きながら、私なりに記しております。従い本書を知るためには、その帯書に「漱石の生涯を描く決定版評伝」と、書かれておりますが、私もなるほどと僭越ながら思ったところで、本書をご覧になることをお薦め致します。

 

 尚、本書は第一章「不安な育ち」、そして最終章の第十五章「晩年の漱石とその周辺」から成り立っております。以下、私なりに綴って参ります。

 

1.出生と、めまぐるしい教育過程

 

 金之助が生まれたのは、牛込馬場下近辺十一ヶ町の町方名主の父が50歳の時で、病死した先妻の間に姉二人が既におり、実母の間には6人の子供が生まれており、金之助は末っ子の五男であった。実母の乳の出が悪く、早々に里子に出された。姉が里子先の古道具屋の店先に、籠に入れられている彼を見て、可哀想だと引き取った話はよく知られている、とのことです。そして夏目家と親しかった塩原昌之助、やす夫婦の養子にだされます。後に塩原は別な女性の所に行き、やすと金之助の二人の生活が続き、結果的には塩原夫婦は離婚をします。そして金之助22歳の第一高等本科の時、前年に長兄、次兄が結核で相次いで亡くなったこともあり夏目籍に戻ります。養父、実父との間に夏目籍に戻る際、金銭的な問題も生じた、とのことです。

 

 塩原養家の時代、夏目家から、明治7年の暮れから9年5月までに下等小学校四級を終え、市ヶ谷学校三級に転校、10年12月には下等小学校一級を卒業。続いて11年4月に8級を卒業。そして同年10月には神田の錦華学校小学校尋常科第二級を卒業します。明治のこの時代は学制がめまぐるしく変わり、小学校は上等、下等に分れ半年が一期でそれぞれ8級から1級まであった。飛び級があったとはいえ、家族的愛情を受けなかった金之助が優秀な頭脳を持ち、如何に勉強に打ち込んだ証左でもあります。そうした家庭環境も漱石の作品に表われていきます。小学校を卒業した後、東京府第一中学の正則科乙に入学。そして2年あまりで突然退学し、二松学舎に転校し漢学を学ぶこととなります。そして中学卒業の資格のない彼は神田駿河台の私立成立学舎に入り、首尾よく大学予備門(第一高等中学)に合格します。成立学舎以来の生涯の親友、後の満鉄総裁中村是公、並びに23歳の時、高等中学本科にて、正岡子規と出会うことになります。「漱石」の雅号も子規の多数持っていた「雅号」をもらい受けたわけです。

 

2. 子規との交友

 

 金之助は自分の内心まで報ずるほど、子規を信頼していたからなのですが、著者は二人の間に三つの対立点を挙げます。一つは文章の本質、第二は森鴎外の初期作品についての評価、第三は「明治豪傑ものがたり」に関する季節論。文章の本質について私は興味深く思い、以下ご紹介致します。

 

 漱石が「文章の妙は胸中の思想を飾り気なく」直述する点にあり、思想もなく「只文字のみを弄する輩」はもちろん、「思想あるも徒に章句の末に拘泥して」いては、読者を感動させることはできない。「文字の美章句の法」は末の末であり、ideaを中心にしなければならない、と説き、「御前」のように書きまくっていてはイデアを養おう暇もないだろう、少しは「手習い」を休んで読書に励んではどうか、と忠告したのに始まる。子規はRhetoricの語によってこれを攻撃したらしい。彼はそのレトリックによってアイデアが現れると考えたのであろう。(21,22頁)

 

 そうした交友の中、24歳の漱石帝国大学文科大学英文科、子規は国文科に入学します。その後、漱石は文部省貸費生となりますが、できるだけ実家に依存せず早稲田に出講し、自活の道を選びます。尚、大学二年の時、突如、分家して北海道平民となります。軍隊嫌いのこともあるようですが、彼が永眠する大正三年まで北海道を本籍とします。身内と反りが合わず、孤独な彼は戸籍の上だけでも「個人」として生きたかったのではなかろうか。そうしたことは作品「道草」の中でも見られると、著者は記しています。

 

 27歳の大学院卒業後、東京高等師範学校(高師)を勤めますが、それを辞任する前年に初期結核になり、病気を気に病む28歳の漱石は夏休みに鎌倉の円覚寺・帰源院での座禅することになります。管長の釈宋演から与えられた公案は「父母の未生以前本来の面目」でした。その公案は後々まで漱石の心に根付き、晩年の「去私則天」に繫がっていきます。尚、釈宗演とは漱石の葬儀に導師となる巡り会わせです。

 

 そして、29歳漱石は子規の故郷、愛媛松山中学の英語教師として赴任。そこで日清戦争従軍記者として従軍していた子規が帰国し、漱石はその療養中の子規を迎え、同居。漱石の下宿先の一階が子規の俳句のたまり場となり、漱石も句会に参加するわけです。その後、病み上がりの子規は帰郷しますが、その当時の子規の句が周知の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」です。続いて、30歳の漱石は熊本第五高等学校赴任。そして中根重一の長女鏡子と結婚。そのときの子規の結婚祝いの句が「秦々たる桃の若葉や君娶る」。尚、五高で教えた最初の学生は寺田寅彦です。そこに五高に奉職中、文部省より英国の留学指令を受け、34歳の漱石はロンドンに旅立ます。その時の子規の送別の句です。

 

 萩`すゝき来年あはむさりながら 

 

 漱石の二年間のロンドン留学中、子規が死去します。そしてロンドンでシェイクスピア学者で変人でもあるクレイグの個人指導を1年近く受けながら、下宿を度々変えます。漱石の孤独の生活が始まるわけです。著者はそのときの漱石の心境を次のように記しております。

 

 クレイグは学殖豊かな一流の学者である。だが彼は、日本人がどのように英文学に向かうべきかを教えてくれなかった。漱石の悩みは、細かな字句の使用法よりも、日本人の自分が異国の文字とどう対するべきかにあった。この年の十月、彼は金銭的事情もあったが、正面からこの難問に対するべく、クレイグの教えを断ることに決めた。(72頁)

 

 このロンドン留学中、味の素を発明した池田菊苗、さらには土井晩翠とも数ヶ月ですが同じ下宿先での交流があったのです。この頃に文部省から、かの有名な電報「夏目、精神に異常あり、藤代同道帰国せしむべし」は誰によるものか、その原因かは不明のようですが、夏目がそれに近い状態の神経衰弱であったことは事実です。

 

3. 帰国後の漱石、そして東京帝大での授業

 

 英国から帰国した37歳の漱石は一高及び東京帝大文科大学に就任します。大学で週六時間、一高で三十時間を担当。尚、大学での講義は小泉八雲(ラフカデイオ。ハーン)の後任の形で、後の二人は7歳下の上田敏とイギリス人宣教師アーサー・ロイドです。尚、一高の学生の中に最年少の学生で、華厳の滝に投身自殺をした藤村操がいます。予習をしてこない藤村を漱石は叱ります。その後、遺書の「巌頭の感 万有の真相は唯一言にて悉す。曰く不可解・・大いなる悲観は大なる楽観に一致する」を知ります。漱石の考えと一致しており、自分の叱責が原因ではないと、漱石は安堵を覚えたようだ、と著者は記しています。後に、漱石新体詩「水底の感」を藤村操女子の名で作ります。

 

 尚、鏡子婦人との間に長女筆子、次女恒子、三女栄子、四女愛子、五女雛子(幼児で急死)長男純一、次男伸六が生まれますが、その結婚生活は鏡子の自殺未遂、別居、義父宛てに離縁状の差し出し等々、波乱に富んだものでした。漱石の精神状態は最悪の時もあり、彼の心は幻覚・幻聴に支配され、その全ての原因は鏡子にあるように思われていたらしい。その「狂態」は鏡子の回想に詳しい、とのことです。その中で「我が輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」等々を発表しながら、文学志望の弟子達の集まりである木曜会を始めます。その木曜会には寺田寅彦、野村伝四、森田草平等々が集い、気の置けない連中との息抜きの時間でもあった。そして晩年になるほど彼は癇癪を起こさなくなり、和辻哲朗他も入門、特に芥川龍之介久米正雄らには優しかった、とのことです。

 

 漱石は41歳で帝大を辞し、朝日新聞の小説記者と転身して、「虞美人草」、続いて「抗夫」、「三四郎」、「それから」への連載が続きます。加えて、朝日文芸欄を創設します。主な執筆者は漱石安倍能成森田草平、阿部次郎、小宮豊隆の他知人、教え子で漱石45歳でまで続きますが廃止となります。

 

 方や、連載は44歳の「門」、そして胃潰瘍を煩い退院後、療養先の修善寺菊屋旅館で一時危篤状態に陥ります。そのときの状況等を記した連載が三谷太一郎氏の挙げた「思い出す事など」です。その後「彼岸過迄」、「行人」、「心 先生の遺書」そして「硝子窓の中」と続き、「明暗」になります。「明暗」の連載は1884回を以て、50歳の漱石の死去で中絶します。尚、45歳の時、文学博士号辞退の事件が起こります。そのときの正面切っての辞退の漱石の言葉が以下の文面です。

 

 小生は今日迄ただの夏目なにがしとして世を渡って参りました。是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのです。

 

4. 死の床の漱石

 

 大正5年、漱石最後の年、新年の迎えた感想を「点頭禄」を表わします。著者は次のように記しています。

 

 「振り返ると過去が丸で夢のやうに見える」。彼は数え五十歳になった。人生わずか五十年と考えられた時代である。過去は「一つの仮象にすぎない」とも思われるし、現在のさまざまな思いは、「刹那の現在からすぐ過去に流れ込む」のだから、同様に現在は瞬間に未来を生み出すものでもある。しかし、それを認識するのは「我」であり、「我」がすべての現象を「認識しつつ絶えず過去へ繰り越してゐる」と思えば「過去は夢所ではない」。明らかに一刻一刻の「我を照らしつつある探照燈のやうなものである」と彼は考える。生きることに対するこの「二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して」、この「一体二様の見解を抱いて」、自分の全生活を「大正五年の潮流に任せる覚悟」で、眼前に展開する月日に対して「自己の天分の有り丈を尽くそうと思ふ」。これが念頭に当たっての彼の所感である。彼はこれまでも全力で生きてきたが、この表明には、どこか最後の灯を掻き立てるような決意が表われている。(264頁)

 

 そして、その年の11月22日、胃潰瘍が再発し、漱石の希望で松山中学時代の教え子の真鍋嘉一郎が主治医となり、鈴木三重吉森田草平小宮豊隆らが交代で夜番、修善寺で頼んだ老練な看護婦も介護に着ます。12月9日、そして中村是公高浜虚子他友人、妻子、門人に見守られ、漱石は「有難う」の言葉を残し旅立ちます。「彼の強情だが真実を貫く気持ちが周囲に理解されていたからだろう。」と著者が記しています。葬儀は12日、青山斎場で行われ、導師は例の円覚寺の管長・釈宗演です。戒名は文献院古道漱石居士、墓は雑司ヶ谷の墓地。著者は本書の最後に以下のように記しております。

 

 「生死を透脱する」ことが彼の願いであり、「死が僕の勝利だ・・・死は僕にとりて一番目出度い、生の時に起こった、あらゆる幸福な事件よりも目出度い」と大正三年秋ごろから、彼は弟子たちに語ったとう。生は苦痛に満ちているのに死の世界にはそれがないからである。死は万人に訪れるものであって、それを回避することはできない。だがその関を超えれば、肉体は消滅してもその意志は残り、万人に働きかける。それが漱石の到達した最後の結論だった。

 

 臨終間際に娘たちが涙を流したとき、父漱石はやさしく、もう泣いてもいいんだよと言ったそうだ。彼はしばしば子供たちにも怒りをぶつけ、泣くなと怒る人物だった。筆子は父の不合理な怒りに泣くと、そのことでまた泣くなと叱られていた。死に際しては彼は本来の持ち前を表に出し、優しい本性を示すことができたのである。(294頁)

 

 2017年8月19日

                           淸宮昌章

 

参考文献

 

  十川信介夏目漱石」(岩波新書

  三谷太一郎「日本の近代とは何であったか」(岩波新書

  他

 

 

毛利和子「日中漂流・グローバル・パワーはどこへ向かうのか」を読んで

毛利和子「日中漂流・グローバル・パワーはどこへ向かうのか」を読んで

 

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はじめに

 

 表題の日中漂流もさることながら、世界中で国家の漂流が始ったかの印象を私は持っているのですが、如何でしょうか。今回、取り上げた本書は11年前に毛利和子氏が著わした「日中関係・戦後から新時代」の続編とのことで、2017年4月発刊されました。著者の「はしがき」で以下のように記しています。

 

 旧著で21世紀に日本と中国は「新時代」に入ると予告しましたが、それにしてもこの11年間の両国関係の変容はすさまじく、大変危うい「新時代」に突入した感じがします。その意味で予告それ自体は正しかったのですが、その内容は想定外のことばかりです。中国がこれほど急速に大国化し、力を誇示するとは予測できませんでしたし、日本の「戦後レジームからの脱却」がこれほどのスピードで強引に進められることも想定外でした。このままにしておくと、両国関係は新たな「力の対抗」の時代に入ってしまいます。二つの大国が大きな海原を漂流し始めた感を強くします。(中略)・・本書は最後に三つの提案をしました。1・関係の制度化と理性化、2・日米中、東アジアの多国関係で日中関係を落ち着いて据え直すこと、3・力での対抗、軍事的拡張を抑止するためのメカニズムの構築、です。(本書ⅰ、ⅱ頁)

 

 1949年社会主義を目指す新生中国の国家戦略は、ほぼ10年ごとに大きく変わってきています。因みに1990年代の韜光養晦戦略は、現在では核心的利益へと大きく変化している、との指摘です。氏による上記提案の実現は極めて難しい現状にあり、残念ながら、私は不安・疑問を持たざるを得ません。一方、現実を踏まえて、日中関係の現状は改善していかなければならないことは、その通りなのです。

 

 毛利氏は膨大な資料・参考文献を基に、僭越ながら私は首をかしげる箇所もありますが、氏の深い洞察力で日中関係を日本と中国双方に対し、努めて公平に客観的に論じられております。それは大変な研究成果であり、一読をお薦めするところです。

 

 本書は1972年の日中国交正常化以降の日中関係の推移と、その悪化した日中関係の改善策の提言です。そして、第一章・日中正常化40年をふり返る、第二章・1972年体制を考える、第3章・「反日」の高まり、第4章・制度化の試みと蹉跌、第5章・日中衝突、第6章・モデルとしての米中関係、第7章・中国外交をめぐる問、第8章・外交行動としての軍事力行使、第9章・中国の変身とリアリズム、終章・21世紀グローバル大国のゆくえ、から構成されています。今回も全てを紹介するのではなく、私の記憶に強く残った論述に感想等を交え、紹介して参ります。 

  

 1. 虚構の終焉

 

 振り返ると、1972年の日中国交正常化は多くの問題点を残したものであった。周恩来が、いつ日本との即時、一気呵成の正常化を決断したのか、いまだ解けていない興味深い謎である。中国国民は日本への賠償放棄等々のことは知らされないまま、毛沢東周恩来他でこの国交正常化が進められた。それが今や虚構の終焉へと向かう、と述べているわけです。

 

 第一に、普通の日本国民にとって七二年正常化は大変喜ばしく、その後の「日中友好」運動を大いに促すものとなった。だが冷厳にプロセスを吟味してみると、七二年交渉はそれ自体決して完璧ではなく、不備と瑕疵を持つものだった。七二年は新しいスタートであって、ゴールではない。おそらく、日本の主流にとってはゴールだったのではあるまいか。最大の問題は、和解への「見取り図」を欠いたままの出発だったことである。

 

 第二に、日本も中国も相手に対する虚構の政策に上に、七二年まで隣り合ってきた。日本は台湾だけを正統と見なし、中国は「二分論」を採用してきた。これらの虚構は冷戦の中で、両者ともやむを得ず採用したと言えるだろう。(中略)

 

 第三に、「七二年体制」それ自体、制度を欠く、脆弱で不安定なものであった。特に中国側に、戦略的であると同時に非常に強い道義主義があった。日本側にも贖罪意識があった。関係はウェットになる。今後は共通の利益、協同の戦略、合理性に立った、新しい関係を作る思考を見つけ出さなければならない。(20.21頁)

 

 たしかにその通りなのでしょう。ただ、当時の中国はソ連との戦闘までに発展した冷え込んだ、あの中ソ関係の中で、日本との交渉へと大きく舵を切ったことも中国の外交戦略でもあったはずです。加えて、中国は国家主権で国民主権とは大きく異なる、共産党一党支配の現体制であり、国民云々との発想はもとよりないのではないか。従い体制の劇的変化でも起こらない限り、国民云々との発想はあり得ないことではないか。いずれにもせよ日中関係において、日本はさらに、厳しい、難しい状況におかれていく、と考えております。

 

2.二分論

 

 72年国交正常化交渉の最重要ポイントの一つは中国国民が知らない、中国が日中戦争の賠償請求を放棄したこと。並びに指導者であるごく一部の軍国主義者と日本人民には戦争の罪はないとの、いわゆる二分論である。1980年代から90年半ばまでの日中関係は、歴史認識・戦後処理についての道徳的アプローチと日本が援助し、中国が援助される経済関係が双方の利に叶っているとする利益アプローチの二つを土台にしてきた。しかし、90年代半ばになると、日本は戦後は終わったとの意識が広まる。95年8月15日の村山富市首相の談話も「戦後に告別する宣言」それにほかならない。

 

 他方、中国ではこの時期、「怒れる青年達」が民族主義的な「ノー」を言い始めた。とくに対日関係では強硬な反日的世論が勢いづいた。これまで閉じ込められてきた歴史に関する日本批判が噴出してくる。「中国の生存空間がこんなんに汚く狭いのは、毛沢東の人口政策のせいではない、近代以降、グローバルな戦いにいつも負けてきたからだ、あるいは、「国際関係には永遠の友はいない。あるのは永遠の利益だけだ」いうような議論(王小東・2000)が喝采を浴びる時代になった。対日民間賠償と尖閣諸島防衛を主張するNGOが動き始めた(童増の釣魚島保衛連合会)。中国でようやく「戦後が始った」のである。(37頁)

 

 80年代初め、鄧小平のブレーンであり、日本研究所所長でもあった何方は、90年代半ばまでは、客観的な日本論で中国における日本批判の議論に対抗していた。しかし、2012年には、戦後ドイツと比べて日本の反省が不徹底のことを強く批判しながら、以下のように指摘に変わっていった。

 

 日本の対外侵略について、民族の犯罪とみなさず、階級闘争の観点に立って、ごく少数の軍国主義分子だけに罪を着せ、日本人民をわれわれと同じ被害者とみなしたこと。これは是非を混淆したものだ。・・中国に攻め寄せて強奪し、欺瞞し、蹂躙した日本兵と中国の人民と一緒に論ずることなどできるわけがない。また、兵にならずに、日本に残って労働に従事していたその他の日本人も、絶対多数が天皇に忠孝で、大東亜聖戦のために甘んじて貢献したではないか。真の反戦者はごく少数だった。そのうえで彼は、「国家の対外侵略は『民族的犯罪』とみなすべきである。(対外侵略を行った民族は)全国上下、すべてが罪悪感を持つべきであり、侵略戦争を支持し参加した大多数人民を免罪したり、弁解したりすべきではない。」(41頁)というのである。

 

 そして著者は、二分論は「虚構」である。中国は当面、二分論を公式アプローチとして維持していくだろう。だが、新しい時期の課題に合わせた二国関係の新核心を探り出さなければならない。相互間の敬意と尊重、交渉・対話・多国間協議で善隣関係を立て直す必要がある、と述べています。日本にとっては極めて困難な道です。

 

3.反日、日中衝突

 

 2005年4月の週末に繰り返された反日デモ反日運動に結びついて行った。その要因は教科書検定小泉首相靖国参拝を契機にした歴史問題、この年2月の日米安保協議が防衛の範囲に台湾を含めることを示した台湾問題、東シナ海領域の海底資源をめぐる紛争、加えて日本が国連安全保障理事国入りを試みる日本の動きであった。そして2010、12年には更に加えて尖閣諸島の領土・領海を巡る日中衝突に至り、日中関係は更に危険な事態に至っていくわけです。

 

 著者はその要因として、1990年半ばからの中国での「愛国主義教育」も影響はあるが、その根底には、改革開放以降の中国社会の多元化状況、自由な空間の拡大がある。とくに注意しなければならないのは、突然の大国化で若者や中間層に、排外的で「大国主義」的民族主義が万延し始めたこと。それらがインターネットと携帯電話というまったく新しい情報手段によって相互に増幅しあい、突然肥大化した、という見解を示しています。加えて、私は経済の急拡大に伴い、中国国民の間における格差拡大、共産党幹部の止まらぬ不正蓄財・腐敗の実体も大きな要因になってといる、と思うのです。 続いて、著者は2012年の衝突の特徴として、以下のように記しています。

 

 第一が、対立の局面が2005年はもっぱら歴史問題だったのに対して、2012年は領土・領海という具体的利益から発して、パワーの争い、歴史問題まで、全面的に拡大してしまったこと。

 

 第二に、今回は、とくに中国側に、大衆的ナショナリズムポピュリズムの傾向が濃厚である。(中略)・・中国社会のアイデンティティ反日であること、反日が強硬であればあるほど大衆は政権を支持すること、この二つを今回の反日暴動は示した。

 

 第三に、中国も日本も権力の空白、統治の衰退が生じている中で事件が起こった。日本では2009年に民主党政権が国民の期待のもとでスタートしたが、鳩山政権、管政権、野田政権ともに、あらゆる面で期待を裏切った。官邸の決定能力、交渉能力、官僚を動かす能力ともに失策を重ねた。とくに2010年から政府の対中外交や国有化措置が慎重さを欠き、漁船衝突事件の「国有化」の決定もタイミングが最悪で(いずれも日中戦争の歴史的記念日前後だった)、国民に対しても、国際社会に対しても、尖閣諸島問題についての広報などが不十分だったことなど、リーダーシップ不足、外交の機能不全が紛争を大きくした。他方、18回党大会を前にして中国の政情不安も深刻だった。四月の薄熙来(中共中央政治局委員)解任事件は薄スキャンダルだけが原因ではない。根源には、指導部内の激しい権力闘争がある。第五世代になって中共の統治力は衰え、正統性も摩滅してきている。反日だけがアイデンティティになる、という構造の由来がここにある。(96,97頁)

 

 この現実をわれわれはしっかりと認識しておくべきと思います。

 

 4.中国の変身とリアリズム

 

 国家目標、外交を拘束する条件、戦略論、国際システムへの態度への思想的接近の変化を10年ごとで見ると大変深い結果がわかる。中国外交が、基本的には時代状況(戦争…革命か、平和…発展か)によって大きく左右されてきた、との指摘です。

 

 例を挙げれば、国家目標は1950年から60年代は革命、1970年から80年代は経済成長、1990年代は成長・大国化、2000年代は大国化・覇権となります。そして、「90年代初頭、冷戦終了とともに中国は新しい戦略に乗り出す。根底には国際政治のバランスを見極め、自らの力量も慎重に分析したリアリズムがある。ひとつは、鄧小平の南巡講話に代表されるような改革開放と市場化のいっそうの推進である。それによってソ連のような崩壊を避けねばならなかった。もう一つは、対外的に隠忍自重戦略をとったことである。これが、80年代末に鄧小平が提起したとされる「韜光養晦」戦略である。(中略)・・だが、この「韜光養晦」が支配したのは10年余りで1990年代末頃から中国外交は再び変わりはじめる。折しも改革開放政策が見事に成功し、東アジアにおける大国への道を歩み出した。この頃から、一段とイデオロギー、理想などから離れ、もっぱらリアリズムと国家利益の外交にシフトしていくのである。(198、199頁) いわゆる核心的利益の登場である。

 

 核心的利益とは、1・国家の主権、2・国家の安全、3・領土の保全、4・国家の統一、5・中国の憲法が確立した国家の政治制度と社会の安定、6・経済・社会の持続的な発展の保障である。そして、2011年9月、「平和発展白書」において、尖閣諸島東シナ海南シナ海など具体的地域を名指しで核心的利益と公式に呼びだしたのである。

 

 5中国外交の核心、どこに向かうか中国

 

 著者は考えられる将来、中国外交の核心は以下のような諸要素からなると指摘しています。

 

 第一は、主権至上主義である。建国以来中国は、冷戦期には別の新国際システムを構築したい願い、70年代以降の脱冷戦期には、キャッチアップ、経済成長によって国際的登場を果たしたいという目標に転じた。ほぼそれを21世紀には実現しつつある。問題は、中国が真のグローバルパワーになったときなお、国家主権と国家利益にしがみつくのだろうか。それとも「帝国の風格」を見せるだろうか。

 

 第二は、実にプラグマティックに国際政治についてのあらゆる理論・手法を相手やイシューに分けて活用していること。たとえば日本に対して、戦争責任や歴史認識では道義で対応する一方、領土・領海など利益とパワーのぶつかる領域では時に激しく対抗的になる。

 

 第三は「外交はパワーであり芸術である」と考える。「外交大国」であること。

 

 第四は、外交の手段としてときには軍事行動を辞さない「圧力外交」である。ある政治的目的を守る、もしくは手に入れる為には軍事的手段を使った方が効果的と判断すれば、その使用は躊躇わないこと。

 

 第五は、21世紀に入ってからの新状況は、さまざまな利益集団が中国の外交に強い圧力をかけるようになったこと。その利益集団とは利益最大化、財政収入の増加を熱望している地方政府、海外資産を増やしたい石油関連の大国有企業、それに加え人民解放軍、そうした軍産地複合体である。

 

 「21世紀の中国外交の決定的ポイントは、巨大な、主権原理を信奉する一元的国民国家であること。19世紀まで栄えた伝統王朝中国のそれとはもとより違うし、20世紀後半に繁栄した『非公式の帝国』米国のように、世界的ミッション、普遍的価値とも無縁である、中国にとっての課題、関心はあくまで主権国家、自国の利益、現体制の存続なのである。」(225頁)

 

 続いて、著者は「国家資本主義」状況で、推移している今の中国で、じつは「国」は無限に「私化」しているのではないか、「巨大な私」が「国」を簒奪しようとしているのではないか、と考えている。21世紀に入ってからの中国外交はそのような「私化しつつある国」による営為なのではなかろうか、と指摘しています。そして以下のように本書を閉じています。

 

 現代中国には、歴史から継承してきた「三つの神話」があり、その神話に「自縄自縛」になるのではないだろうか。その神話とは、

 

 第一、主権は唯一絶対、不可侵である。

 第二、中国は一体であるとする「大一統」論は無条件に正しい。

 第三、必ず政治(すなわち党)が軍をコントロールする、という確信。

 

 この「主権神話は、19世紀中葉以来の屈辱の歴史が、『一等国』になることを通じて払拭されれば後景に退くかもしれないし、『失われた台湾』を回復することで克服できるかもしれない。だがいずれも、かなりの長い時間を要しよう。中国の歴史を繙けば、帝国の周辺統治は決して一元的ではなかったし、『大一統』は決して現実ではなかったにもかかわらず、『大一統』神話の引力はきわめて強い。」(242頁)

 

6.戦争責任問題への道筋

 

 著者は本書の「おわりに」のなかで、次のように述べています。

 

 対抗関係に入り始めた日中関係をどうハンドルするか。日本にとって最小限必要なことはいくつかある。そのうちの一つ、関係の前提になるものは実は戦争責任の問題をどう決着をつけるかではないだろうか。(中略)・・日中関係の80%は日本問題だとずっと思っている。その文脈で、72年に対する何か割り切れない思いの一つは、日本人にとって戦争の責任の問題でどう決着をつけるかが依然として曖昧なままだということだ。このことが今日の日中関係に影を落とし、日中関係を湿っぽく、緊張したものにさせていると思う。(中略)・・端的に言ってこれまでの両国関係は、日本が歴史を詫びる、中国がこれを赦す、という「道義の関係」だった。それが今後は、東アジアでどちらがパワーを振るうか、覇権を握るかの「力の関係」になっていくだろう。だがその前に日本としては、戦争責任問題決着への道筋をつけておくことが必要ではないか、と私はいまなお思うのである。(245,246頁)

 

 私としてはその道の専門家である毛利氏の上記指摘に賛同するものの、何か、釈然としないものが残るのです。

 

 続いて、昭和天皇が1975年10月31日、帰国されたとき内外記者団との会見で、いわゆる戦争責任についてのお考えを尋ねる問に対して、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」等々を挙げ、そして、少なくともこの問答で理解する限り、この時点での昭和天皇には開戦・敗戦・被災などについての責任を考える気持ちはない、と記しています。続いて、「私自身は、昭和天皇には戦争については法的責任がある、侵略した相手国の人々への重大な責任もある。しかし、戦後70年たち、時代は変わり世代も担い手もまるで変わった。物理的にいっても、これらの問題に決着をつけるのは絶望的に難しくなっている。どうやら時代を超えて戦争の負の遺産を継承していく覚悟が必要のようである。しかし、せめて国民レベルで、国民の戦争責任についてどう考えるか、どのようにしてその責任を果たすのかについて最小限の合意を作り出したいと思う。」(251頁)

 

 本件の天皇云々については、私がいささか違和感を持つので、改めて後段7で改めて述べたいと思います。

 

 戻りますが、著者は在日の中国人研究者姜克実氏の言を引用し、歴史教育のあるべき姿について日中双方に問題提起を示しております。それは、日本の学校での歴史教育は断片的事実を教えるだけで、歴史を構造や因果として教えないという欠陥をもち、平和教育では原子爆弾沖縄戦等の被害事実の教育に偏っているなどの問題があるとする。他方、中国の歴史教育も、すでに戦争から四世代も立っているのに戦争への恨み、憎しみをますます強く教育している、との指摘です。

 

7.昭和天皇の戦争責任

 

 拙著「書棚から顧みる昭和」の中で、私は次のように記しました。

 

 私は昭和天皇崩御された現在、今さら昭和天皇の戦争責任を云々するつもりはありません。むしろあの占領下にあって、アメリカそのものである連合軍としても占領統治上から昭和天皇の存在が必要でもあったのでしょう。従い、昭和天皇も自ら退位することもできなかったのが歴史の現実であったのかもしれません。一方、昭和天皇が象徴天皇になられた後は、日本各地への巡幸、戦勝国への訪問に加え、今次大戦の戦争被害者への慰霊、追悼を靖国参拝は別として続けられ、その生涯を閉じられたわけです。更に加え、現天皇皇后陛下はその戦中・戦後の昭和天皇に代わって贖罪をするかのように、ひたすら平和への願いと、戦没者慰霊、追悼の旅を続けられているように私には見えるわけです。それも戦後のひとつの流れというか歴史経過です。(淸宮昌章著「書棚から顧みる昭和」197頁)

 

 更に、2015年11月23日のブログ・淸宮書房の「昭和天皇について思う」の中で、次のように記しています。

 

 昭和50年10月31日の天皇訪米後の記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から、ホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいたします。(山本七平著「裕仁天皇の昭和史」345頁)との事前に提出のない質問に対し、

 

 天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えが出来かねます」(同書346頁)と応えているとのことです。そして、山本七平はこの最終章で次のように述べます。

 

(前略)・・「言葉のアヤ」とは、相手の質問について言っているように思われる。天皇は意味不明瞭で相手をごまかすことはされたことがない。それを考えると、これは問答で、相手は「・・・どのように考えておられるかお伺いします」と聞いているのだから「お答えしたいが、それを答え得るそういう言葉のアヤについては・・・」の意味であろう。これならば天皇が何を言おうとしたかはわかる。天皇政治責任がなく、また一切の責任もないなら、極端な言い方をすれば、「胸が痛むのを覚える」はずがない。さらに8月15日の戦没者慰霊祭に、痛々しい病後のお姿で出席される必要はもとよりない。しかし、「民族統合の象徴」なら、国民の感情と共鳴する感情を持って慰霊祭に臨まれるのが責任であろう。戦争責任が一切ないならば、その必要はないはずである。ただこれは、津田左右吉博士の言葉を借りれば、戦前・戦後を通じての民族の「象徴」の責任であって憲法上の責任ではない。そのことを充分に自覚されていても「文学方面はあまり研究していないので、そういう(ことを的確に表現する)言葉のアヤについては、よくわかりませんから、お答えが出来かねます」と読めば、天皇の言われたことの意味はよく分かる。注意すべきは「お答え致しかねます」ではなく「お答え出来かねます」である点で、天皇は何とかお答えたかったであろう。ここでもう一度、福沢諭吉の言葉を思い起こそう。「いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事」・・長崎市長の発言(昭和史によれば天皇が重臣の上奏を退けたために終戦が遅れた、天皇の責任は自明の理。決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった)を政争に利用するなどとは、もってのほかという以外にない。尾崎行雄は「まだそんなことをやっているのか」と地下であきれているであろう。それがまだ憲法が定着していないことの証拠なら、その行為は、天皇の終生の努力を無駄にし、多大の犠牲をはらったその「行為」を、失わせることになるであろう。(同書348頁)

 

おわりにあたり

 

 今回も、長々と綴ってきてしました。毛利和子氏の趣旨とはだいぶ異なる、あるいは私は誤解していることもあるかもしれません。ただ、氏の言われるような中国と日本が東アジアでどちらがパワーを振るうかの「力の関係」になっていくだろう、との思いには、私は違和感を持ちます。日本はパワーを振るうか否かではなく、どうやったら日本を守ることができるか、否かの道を探しているのではないでしょうか。日本一国だけでは守れない大きな地政学的変化にさらされているのが、現実ではないでしょうか。尖閣諸島の問題にしても、単なる島の領有問題ではなく、その領海40万平方キロの排他的経済水域があるわけです。しかも1968年8月に国連アジア極東経済報告委員会が尖閣の周辺海域に石油埋蔵資源が豊富だとの報告書を出してからのことです。それ以前、中国は「中国の領土」との主張はしていなかったわけです。ところが、2013年4月26日に「核心的利益」と公式に呼び始めたのです。その尖閣諸島地域が日米安全保障の対象となる、との数ヶ月前の米国発表に安堵したのが日本政府、国民の心情では、なかったのではないでしょうか。日本一国では日本を守れない現実が出てきたわけです。他国、とくに米国に頼らざるを得ない日本は、主権国家として極めて寂しい、悲しい現状ではないでしょうか。単に平和、平和と叫んでいても、それで戦争が無くなるわけではないことが現実であり、それが今の日本を取り巻く世界情勢ではないでしょうか。

 

 そういった現実を観ていくと、現在のマスメデイアの有り様、ただ安倍政権を倒せばいいが如き世論操作に、私は強い危機感を抱いています。どこかの国が喜んでいるのではないでしょうか。そして安倍政権の崩壊を期待してはいるのではないでしょうか。 われわれはあの民主党政権時代を決して踏んではならないのです。尚、寡聞にして分りませんが、日本人の海外への移住、もしくは脱出が増加しているとの情報はないように思います。方や、中国本土、さらには香港からの多国への移住、脱出者はむしろ増加しているのではないでしょうか。どうでしょうか。

 

 現在の日本のマスメデイアの論調は思想も対案もなく、場当たり的な独りよがりの正義感による情報操作・世論操作と思えるほど、異様な報道合戦と私は思うのです。それで利するのは誰か、あるいはどこの国か、しっかりと認識すべき、と私は考えています。識者といわれる人々、ニュースキャスター、芸能があるのかどうかは分りませんが芸能人達があたかも正義は我にあり、との傲岸な姿が毎日テレビ等に映される状況は、極めて異常です。それは正義ではなく、単なる商業主義に毒されただけの姿です。大戦中は時の政権・軍部に追随し、報道機関としての責任は何ら自ら問うこともなかった。現在は独りよがりの正義感を振り回し、相変わらず自らの報道責任を問うこともしない報道機関、マスメデイアの在り方に私は強い危機感を覚えております。

 

 2017年7月18日

                            淸宮昌章

 

参考図書

 

 毛利和子「日中漂流 グローバル・パワーはどこへ向かうのか」(岩波新書)

  同  「日中関係 戦後から新時代へ」(岩波新書)

 五百旗薫・小宮一夫・細谷雄一他遍「戦後日本の歴史認識」(東京大学出版)  

 山本七平裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)

 服部龍二日中国交正常化」(中公新書)

 天児慧「日中対立 習近平の中国を読む」(ちくま新書

 牛村圭「戦争責任論の真実 戦後日本の知的怠慢を断ず」(PHP研究所

 佐伯啓思「日本の愛国心」(中公文庫)

 他

阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

 

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阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」を読んで

はじめに

 

 「東京や横浜や神戸等の開港地から始った文明開花の波は、東京の日比谷の一角にも確実に押し寄せていた。」(6頁) と印象深い冒頭から本書が始ります。

 

 安政5年(1858)、江戸幕府が締結した日米修好通商条約の改正に「明治政府は一筋の希望の光も見いだせないまま、極端な欧化政策の象徴であった鹿鳴館外交を批判する声が高まり風当たりも強くなり、明治20年(1887)9月、井上馨外務大臣を辞し、約4年間続いた鹿鳴館時代も終焉を迎える。」(8頁) その2年前、明治18年、燁子は伯爵柳原前光の子として誕生します、と続きます。そして柳原燁子の生母について次のように記します。

 

 生母りょうの父で外国奉行新見豊守正興は万延元年(1860)一月に日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節正使として、副使村垣淡路守範正と監察小栗上野介忠順以下従臣七十余名を従え、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って日本人として初めてアメリカに派遣された。国賓「サムライ」としてアメリカでは大歓迎を受けている。その護衛名目で木村喜毅を副使として幕府軍艦咸臨丸も派遣された。その艦長格として勝海舟、木村の従者として福澤諭吉、他にジョン万次郎ら九十余名を乗せて、ポーハタン号出発の三日前にアメリカに向け浦賀を出港し随伴している。(9、10頁)

 

 著者は明治、大正、昭和の激動の時代を当時の時代背景を史実に、さらに政治状況をも随所に挿入し、歌人柳原燁子(白蓮)の波乱に満ちた一生を、その時々に関連の短歌を添え、色鮮やかな人々の出会いをも含め綴っていきます。加えて、柳原白蓮に関連した柳原家、北小路、伊藤家、宮崎家の家系図を資料として巻末に示しております。

 阿賀佐氏の長年に亘る研究と、地道な、丹念な資料をもとに生み出された、その成果が本書「柳原燁子 白蓮の生涯」だと、僭越至極ながら思います。文芸評論家の志村有弘氏が本書の帯び書に「美貌の歌人柳原白蓮伝記の決定版」と記しております。巻末には志村有弘氏が本書の解説を詳しく述べられております。文芸等については門外漢の私ですが、昭和史を自分なりに再検討し、今を観ようとしている中、本書は極めて貴重な資料として私の本棚に並んでおります。

 

 何時ものことですが、今回も本書の全体を紹介するのではなく、著者の思いとはだいぶ離れると思いますが、私の中に鮮明に、且つ感銘を受けたこと等を記して参ります。因みに本書は第一章・明治時代、第二章・明治時代(後期)、第三章・大正時代、第四章・昭和時代、そしてエッセイという構成です。

 

その1 明治時代

 

 明治18年(1885)に華族の家に生まれた燁子はその後、子爵の北小路家の養子となり14歳で、同じく養子の北小路資武と結婚。15歳で男子功光が誕生、そして困惑と悩みの末、19歳で離婚。「出戻り娘」の身分として、柳原家での苦労が始るわけです。尚、著者は華族制度につき、次のように記しております。長くなりますが父柳原前光にも関連するので、以下紹介します。

 

 華族制度は、明治二年(1869)の版籍奉還で領主権を接収された大名と王政復古でこれまでの特権を失った公卿の優遇措置として始った。これだけでは不十分で、皇室を囲む新しい貴族制度が必要になり、伊藤博文を中心に明治十七年(1884)七月七日に制定された「華族令」により、維新の功臣を加えた公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の爵本位の華族制度が定められた。身分よりも天皇に対する個人の功労を表彰の基準とする「華族令」によって皇室の藩屏として華族制度が法制化された。これは明治十七年(1884)五月七日に、賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美の提出された「爵制備考」が元になっていた。華族の最大の義務は、皇室や国家への忠誠を誓うことで、皇位継承者は皇族の男系男子だけであるという原則に合わせて、華族の相続者も男子に限定された。(中略)・・華族は男系社会でそれを維持するための閨閥は網の目のように張り巡らされ華族の子女は大切な持ち駒として結婚と品行が管理されていた。華族の子女には学問や結婚や生き方の自由はなかった。昭和二十二年(1947)日本国憲法の施行により、貴族制度の廃止と法の下の平等から、公卿・華族は廃止されることになるが、それまでは、華族令や柳原家範によって燁子の自由は制約されていた。(25,26頁) 

 

 本件とは全く事を逸しますが、天皇陛下の退位が特例法で成立した現在、女性宮家創設論議を考える上で、華族制度の経過、推移も考えるヒントのひとつとして、私には浮かびました。

 

 元に戻りますが、その後、竹早の師範付属小学校、華族女学校中退等々の経緯を経て、明治41年(1908)、22歳のときミッション系の東洋英和女学校に編入し、二年間の寄宿生活に入ります。その部屋は徳富蘆花の愛子夫人が、夫の外遊中の二年間を過ごした部屋とのことです。そして、「赤毛のアン」の翻訳者安中はな、8歳下の村岡花子と運命的な出会いになります。燁子の悩み多い中、宣教師の女性校長ミス・ブラックモアからは「今までの試練は神が与えたものです。それは神の愛なのです。神に全てを任せなさい」との言葉を受けます。二年間の寄宿舎生活で24歳になった燁子は教養豊かな女性となります。尚、安中はな達が日曜学校の教師をしていた頃いた少女、佐野きみが野口雨情の「赤い靴」の女の子がそのモデル、と著者は記しています。

 

 そして、25歳上の衆議院議員を二期務めた九州福岡の名士、「炭鉱王」の伊藤伝右衛門の後妻へと、燁子の運命は再び大きく変わっていきます。伊藤伝右衛門は、燁子の生母りょうの父新見豊前守正興がアメリカへ使節正使として出発した万延元年(1860)、並びに「桜田門外の変」が起きた年に生まれたと、その時代背景を記しています。伝右衛門は明治10年(1877)1月に始った西南戦争の、田原坂での官軍における「弾丸運び」の仕事、船頭暮らし、その後の石炭採掘仕事他に従事したこと。続いて明治27年(1894)に治外法権の撤廃に成功し日英新通商航海条約。更に時の政府は日清戦争後の三国干渉等々から軍備力の必要性を痛感。そして日本の軍備増強に伴う鉄の精錬に必要な炭鉱業の隆盛等々、当時の状況をついて詳しく記していきます。

 

 伝右衛門と燁子の結婚式は東京日比谷大神宮で盛大に行われます。媒酌人は樺山資紀で西南戦争において西郷軍の猛攻に堪えて熊本城を死守した熊本鎮台参謀長です。その盟友が伯爵川村純義(死後に海軍大将)、その長女常子が樺山資紀の長男樺山愛輔に嫁ぎ、その二女が柳原前光の長男義光に嫁いだ花子。樺山愛輔・常子夫婦の二女正子は白洲次郎と結婚する白洲正子。このように婚姻を通じ華族は固い結束で繫がっていた。さらに白洲次郎の紹介で麻生太賀吉吉田茂の三女和子と結婚し、長男麻生太郎が誕生等々、記しています。

 

その2 大正時代

 

 子供のできない伝右衛門との伊藤家の中で、燁子は家族関係を含め「砂漠のような泥沼のような生活」という中で、読書と和歌を詠むことに生きがいを見つけます。そして佐々木信綱主催の歌誌「心の花」に短歌を投稿。歌人白蓮が誕生します。その時の燁子の心境を次のように紹介しております。

 

 天上の花の姿と思ひしはかりねのやどのまぼろしの華  白蓮

 

 この間の物語は是非、本書をお読み下さい。大正3年(1914)、第一次大戦の好景気の中、汚職が蔓延り、大正6年「筑豊疑獄事件」が起き、百四人が起訴、五人の自殺者も出ます。大阪毎日新聞で「筑豊の女王燁子」として十回の連載記事が書かれ、伝右衛門のみならず、燁子も巻き込まれます。続いて大正7年、いわゆる富山県で発生した米騒動は、筑豊炭鉱にも及びます。そして伝右衛門所有の中嶋炭鉱でガス爆発が起き、それを契機に大規模のストライキが発生。約三百人の炭鉱員が一斉に検挙、数十人が禁固刑。方や、大牟田の三井三池万田抗では大暴動が起き、軍隊が出動、鎮圧という状況等々を、克明に記しています。

 

 そのような中で、大正9年、燁子が34歳のとき、伊藤家の別府の別邸で、27歳の宮崎龍介との運命的に出会います。その後の大きな事件、いわゆる白蓮事件に発展しますが、彼と燁子にとっては三度目の結婚に至ります。龍介は宮崎滔天の長男です。かの有名な社会運動家で、中国の革命家孫文を支援した宮崎滔天です。その孫文は滔天の紹介で政治団体の玄洋社の東山満他から支援を受けるわけです。そんな経緯もあり、平成18年の孫文生誕百四十年には、燁子・龍介の長女蕗苳、孫黄石、ひ孫が国賓として中国に招待され、アメリカ在住の孫文の孫たちとも、現在においても親しく交流を続けている、と記しています。

 

 方や、今の日本と中国との関係はどうでしょうか。両国には共通の価値観があるでしょうか。共産党独裁政権言論の自由は如何、極端な報道規制、そして中国から海外へと増え続ける人材流出等々。加えて、中華大国への復活を目指す現中国と日本の関係は今後も極めて難しい、厳しい時代が続くと、私は考えております。

 

 本題に戻りますが、宮崎龍介は東大の吉野作造が顧問である弁論部に属し、その後、その弁論部を母体に生まれた「新人会」への活動に繫がっていきます。そして、大正8年11月24日に平塚らいてう市川房枝他による新婦人協会が設立。それに呼応するように同年12月「新人会」の実践活動を理論的に支える「黎明会」が吉野作造を中心とする学者の中から生まれます。その黎明会の機関誌として雑誌「解放」が誕生。その文芸欄は島崎藤村が顧問、永井荷風谷崎潤一郎芥川龍之介他の人気作家を擁していた。その編集人が龍介であった等々、著者は記しています。

 

 加えて同年の大正9年3月、福岡婦人会会長・村上茂登子を中心に福岡女子専門学校設立資金集めが行われ、燁子も白蓮として活動し、大正12年(1923)に日本初の公立女子専門学校、福岡県立女子専門学校が開校します。本件については阿賀佐圭子氏が責任編集である「福岡女子大学物語」を合わせお読み下さい。阿賀佐氏の母校です。

 

 いまだ姦通罪が存在していた時代に、如何にして結婚にこぎ着けるか。白蓮として、また炭鉱王の伊藤伝右衛門の妻として世論を身方にすべく、どうするか。新人会の仲間である赤松克麿(与謝野鉄幹の実兄が父)他の論客の支援の下、伊藤伝右衛門への絶縁状の公開(大阪朝日新聞夕刊 10月22日)にいたります。いわゆる白蓮事件です。尚、その関連した新聞連載は4回で中止。伝右衛門の「手出しは許さん。末代まで一言の弁明も無用」としたことによる、と記しています。

 

 余談になりますがNHKの朝ドラ「花子とアン」の中で伊藤伝右衛門を演じた役者・吉田鋼太郎氏は著者が描いた人物かのように好演していた映像が、私の鮮明な記憶として残っています。

 

 本題に帰ります。その時の白蓮の心境を著者は次のように紹介しております。

 

「別府にて」

 まゆに似て細き月なり星おちぬかかる夕べは死もやすらむ 燁子

 

 そして大正11年(1922)1月27日、離婚が成立。その後も紆余曲折がありますが、同年5月14日、長男香織が誕生、同年6月婚姻届が成立。方や、兄柳原義光は頭山満玄洋社から発した右翼団体黒龍会」の要請で貴族院議員を引責辞任。加えて、大正12年11月26日、燁子は華族除籍となります。その後、紆余曲折を経て、燁子親子は東京に移り、関東大震災で被災、そして龍介と所帯を持ちます。

 

その3 昭和時代

 

 著者は激動の昭和に歩を進めます。

 

 結核を患っていた龍介の病気の間、燁子は歌人として生活を支えておりましたが、龍介は昭和6年には完治し、健康を取り戻します。そして燁子は滔天の血を受け継いだ龍介の社会運動への献身的な支援。加えて、貧しい華族の子女達、華族女優の久我美子の従兄弟、さらには外国人をも含んだ学生達への援助をする中、親友の九条武子の交流を記しています。昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入。「第一次近衛内閣の首相近衛文麿と中国の政治家の宋子文を通じて和平工作を行い近衛と蒋介石の間で合意が成立した。中国の国民党政府側から特使を南京に派遣して欲しいという電報が届き、近衛は孫文、滔天の盟友の一人である秋山定輔を介して龍介を特使として上海に派遣することを決定した。」(161頁) しかし、神戸から上海に出港する長崎丸に乗船する直前、龍介は憲兵隊に捕まります。

 

 戦時体制への昭和13年(1938)4月1日の国家総動員法がその近衛内閣によって施行され、そして日本は転げ落ちるように太平洋戦争に入って行ったわけです。尚、龍介と燁子の長男香織は早稲田大学政治経済の学生で学徒出陣、そして終戦の4日前、8月11日、鹿児島県串木野の基地で米軍機の爆撃で戦死します。

 

 一方、「大正鉱業社長伊藤伝右衛門が高齢で風邪をこじらせ、昭和二十二年十二月十五日に幸袋の自宅で亡くなった。享年八十七歳、戦時下の乱堀や災害で荒廃した筑豊炭鉱が、戦後復興の役割を担って再び動き始めたときである。明治・大正・昭和を生きた筑豊最後の炭鉱王であった。葬儀は大正鉱業と労働組合が合同で営む盛大なもので炭鉱王の最期を労使のべつなく惜しんだ。」(178頁)と、著者は記しています。

 燁子は出奔後初めて、32年ぶりの昭和二十八年十月十九日に福岡市の土を踏みます。大勢の人々が温かく迎え、「ここはあなたの故郷と思ってください。この土地の我々は、我らの福岡、博多の出身者だとあなたを思っているのです」(189頁) その心境を燁子は以下の短歌で表わします。

 

 うきものと思ひしは昨日の夢なりき海は大きく天につらなる

 捨ててきて三十余年筑紫路の町のあかりはものいふごとし

 旅にきて秋のそよ風身には沁むちくしは我に悲しきところ

 泣きに来し浜辺よ丘よ年月はあやしきものよ今は恋しき

 

 そして、「宮崎燁子は、龍介や長女蕗苳夫婦に見送られながら、昭和四十二年(1967)二月二十二日の夜、東京都西池袋(旧目白町で昭和四十一年一月一日改正)の自宅で苦しみもなく安らかに亡くなった。享年八十一歳であった。奇しくもその日は、かって柳原燁子が伊藤伝右衛門と結婚したのと同じ日であった。」(197頁)

 

 長男香織と燁子と夫龍介は神奈川県相模湖畔の静かな石老山顕鏡寺(神奈川県相模原市緑区)で永遠の眠りについています。その盛大な葬儀で宮崎龍介が大学卒業後に属した中央法律相談所で薫陶を受けた弁護士である、元総理片山哲が葬儀委員長を務め、夫の龍介は以下のように御礼の言葉を残した、とのことです

 

 白蓮、宮崎燁子は皆さんに愛されて幸せな女でした。今頃は香織のところへゆっくりと歩いて行っていることでしょう。ときどき皆様の方を振り返り、振り返りしながら(199頁)

 

 そして著者は次のように記し、本書を閉じます。

 

 贅沢をして人に美しく見られたいとは考えなかったが、着物は「福田屋」と決めて、柳原家の紋である「値引きの松」へのこだわりがあった。そして燁子は絹のショールをいつも首に巻いていた。

 

 花とはうすむらさきと紅とうなづきあふは何のこころぞ 白蓮

 

おわりにあたり

 

 短歌等について門外漢の私が本書の感想など、僭越至極、場違いでもありましょう。加えて、私の感想等は著者の本意とは大きく異なっているかもしれません。ただ、本書を改めて読み直してみて感じたことは、阿賀佐圭子氏が作家であるのみならず、素晴らしい歴史家でもあると思ったことです。著者は母校福岡女子大学では理系の勉強をされ、次第に文学・歴史の世界に関心を抱いていったと、志村氏は記されています。著者の綿密な調査・研究、加えて驚くほどの記憶力により明治、大正、そして昭和の時代の流れ・政治状況を巧みに紹介し、柳原白蓮と人々との物語を記述していることは、その証左でありましょう。まさしく本書は柳原白蓮伝の決定版であると考えます。多くの方が本書を取り上げること、望んでおります。

 

 2017年6月12日

                          淸宮昌章

 参考文献

 

  阿賀佐圭子「柳原白蓮 燁子の生涯」(九州文学社)

  責任編集 西岡成子「福岡女子大学物語」(パワプラ出版)

  長谷川時雨「柳原燁子(白蓮)」(青空文庫

  他

 

 

 

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・(下)

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・()

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その3 アメリカニズムの終焉

 

 戦後の冷戦体制のもと、圧倒的な経済と戦力でアメリカが自由世の守護者になったこと。もうひとつは大量生産と大量消費という「モノのデモクラシー」をいち早く実現し、モノ(商品)の持つ普遍的な力によって「リベラル・デモクラシー」を普遍化しようとする遠心力が、戦後の自由世界を覆っていた。従って、アメリカによるこの「リベラル・デモクラシー」という理念を打ち出した覇権が後退するということは、この理念の旗のもとに結集した西側世界全体の問題となる。即ち、今日のもっとも正統的な価値がもはや自明なことではなくなりつつある、との佐伯氏の指摘です。

 

 アメリカ社会の没落がはじってまっているというのは別に最近になって言われ始めたのではない。60年代のヴェトナム戦争を目の当たりにしてそのような感慨を抱いていたし、並行的に起こった学生運動や、ヒッピーの中にその兆候は見られる。また、アメリカの宿命とも言うべき人種問題が新たな局面を迎えたのも60年半ばであった。では今日の現状と何が違うのか。

 

「ジエハア―ソニアン・デモクラシーの伝統を想起するまでもなく、とりわけアメリカは政治参加に強い関心と意欲を示す国であり、キリスト教の伝統を想起するまでもなく地域活動や社会奉仕に意欲を持った国なのである。その国においてなぜ今、政治問題はほとんど経済一色に塗りつぶされ、社会生活も金銭的関心に塗りつぶされようとしているのであろうか。世界秩序を維持し自由主義を保守するというアメリカ政治の最も高貴な目標はいったいどうなったのか。

 

 (中略)・・真の問題は、戦後アメリカの覇権を支えてきた『普遍的』なはずの理念がもはや『普遍的』ではなくなった。あるいは十分の説得力を持ち得なくなったということである。問題はアメリカの経済的利害にあるというより、今世紀のアメリカをアメリカたらしめてきたリベラル・デモクラシーの理念の崩壊にある。経済によって支えられてきたリベラリズムとデモクラシーの結合がうまくいかなくなったということなのである。さらにいえば、リベラリズム、デモクラシー、ビジネス(キャピタリズム)の三位一体という今世紀の産業社会の思想的枠組みがうまくいかなくなったということであろう。」(170頁) ではその要因は何であろうか。

 

グローバル化

 

 70年初めにブレトン・ウッズ体制が破棄され、世界経済は変動相場制に移行し、為替レートは貿易つまりモノの移動で決まらず、急速にふくれあがった資本移動に大きく左右されることに連なっていった。少し長い引用になりますが、次のように述べています。

 

 今、自由貿易自由主義の枠の中で修正をせまられているのである。現実問題としていえば、それはすくなくとも多角的で無制限な自由貿易から、ある程度の二国間調整を含んだ「管理された自由貿易」へ修正せざるを得ないであろう。そのことは必ずしも保護主義への転換を意味するわけではないし、また自由貿易の放棄を意味するわけでもない。しかしそれより重要なことは、こうした自由貿易の修正は経済の「グローバル化」の結果だということである。資本、技術、それに労働の国境をこえた移動が激しくなればなるほど、各国の経済基盤、生産技術は似通ってきて、その結果、自由貿易の理論的根拠は失われていく。また金融のグローバル化がすすめばすすむほど「シンボル経済」はふくらんでゆき、自由貿易はむつかしくなるのである。(179頁)

 

 (中略)・・「国家の壁」の内と外があって初めて自由貿易という議論も経済的自由主義も成り立つ。即ち自然資源、労働力の質、文化の構造、技術の性格といった広い意味での生産要素の質の国ごとの違いがあって初めて自由貿易の議論は成り立つ。だから、この近年のボーダレス化、グローバル化、市場の自由化といった最近の論調は、ある意味で自由貿易主義とは矛盾することを知らなければならない。(中略)・・「ヨーロッパの思想史の伝統の中にあるリベラリズムをもっぱら経済的自由主義とりわけ自由貿易主義に解消してしまったのは、今世紀の「アメリカ二ズム」であった。すなわち、自由貿易によって富の増大をはかり、その富をめぐって誰もが金持ちになる機会を与えられるのが今世紀の「アメリカ二ズム」なのである。(180、181頁)

 

 本書は20数年前に書かれたにもかかわらず、まさしく現在のアメリカを見ているように感じます。

 

 世論とは何か

 

 方や、アメリカニズムは大量生産と大量消費を生み出し、新たな概念ともいうべき大衆(世論)を重視せざるを得ない状況をも作り出した。その世論というものは、何か対象が見つかれば、常に感情的高揚と主観的偏りをそれに対して向ける。とすれば国際関係とデモクラシーとの関係をもう一度考え直して見る必要があるのだ。そして、以下の150年前のトクヴィルの言葉を紹介します。

 

 民主政治にしばしば欠けているものは、知識経験に基づいた先見の明である。人民は理性にたよるよりも感情にたよっている。将来のことを予見して現在の欲望を抑制したりすることのむつかしさを過小評価する。そして危機のときにおけるアメリカの民主的共和国のこの相対的な弱点はおそらく最大の障害であろう。そしてこの障害は、ヨーロッパで同様な共和国がもっている障害とは全く対照的にことなっている。この障害が一番顕著に表われるのが外交においてであろう。外交政策には民主政治に固有なほとんどすべての美点の使用は必要ではない。即ち外交政策がデモクラシーの弱点に巻き込まれることを避けよ、ということである。そして、第6章・「近代」から「現代」への中で、次のように記していきます。

 

 今世紀の社会の主役は「消費者」と「世論」ということになった。それは、19世紀なワークマンシップやリーダーシップというものとは正面から対立するものであった。「消費者」や「世論」を構成するのは「普通の人々」なのである。だから「普通の人々」が主役になった社会、それが現代というものである。だが現代はそれ以上のものを「普通の人々」に与えた。それは事実の問題として「普通の人々」を主役にしただけでなく、価値の問題としても、「普通の人々」こそが価値の基準だとしたのである。「普通の人々」の答えが社会とって正解なのである。しかし、まさにそこに現代文明の解きがたい困難がある。(279頁)

 

日本の世論の現状

 

 むろんこうしたことは、アメリカだけの現象ではない。日本においても事情は同じだ。「世論」は国際社会の相互依存などおかまいなしに「一国平和主義」を主張する。経済的にも安全保障上も複雑に絡み合ってしまった今日の世界においては、よかれあしかれ、日本一国の安全といども、「世界」と結びつきあっていることは明らかなのに、である。湾岸戦争以降高まった反米的でナショナリステイックな気分は、それが「世論」と見なされたとたんに危険なものとなろう。この「世論」は、日本の安全保障を確保する何らの現実的な外交手段も提示しないまま、いたずらに「大国」アメリカを批判するだけなのだ。(190、191頁)

 

 加えて、以下のように述べています。

 

 たしかに「一国平和的日本主義」の方はひとつの理念をもっているともいえる。しかし、この理念があまりにも空想的で現実離れしてことを別としても、コスモポリタンな絶対的平和主義というような理念が、たとえばヨーロッパの政治思想史のなかに流れているとは私には思えない。唯一それを思想の課題にしたのはガンジーの無抵抗主義ぐらいであろう。しかし、それも、きわめて実践的性格をもったものだった。端的にいえば、それもまた抵抗の戦略として選び取られたものであった。もしわれわれ「自由」を真に重要なものだと考えるならば、われわれはいま改めて自由の意味について考え直さなければならない。消費者主権に基づく経済的自由主義も、絶対的平和による自由の観念も、ともに強い力はもたない。アメリカニズムのもとでのリベラル・デモクラシーは明らかに限界にあると思われる。(312、313頁)

 

 如何でしょうか。佐伯氏のこの指摘は20年前のものなのですが、私は深い共感を覚えるのです。全く変わらないのが、日本の世論と称する現実ではないでしょうか。今日のアメリカの最大の問題は無責任な個人的自由の観念が中間層から上の、どちらかといえば知的な階層に急速に広まりつつあるように思われる。即ち、知的エリートの無責任な状況を氏は指摘しているわけです。では日本ではどうでしょうか。私は日本の無責任な世論と称するものに大きな影響を与えているのは、戦前、戦中は新聞、ラジオ、戦後はテレビ、新聞、週刊誌等々のマスメディア等によることが大きいと思っています。昨今のテレビキャスター、評論家、ジャーナリスト、学者と称する人々の言動、いわば思いつきの正義感からくるような無責任な言動が、世論形成に大きな影響を与えている。しかし、そこに潜むものは正義感等ではなく、単なる商業主義に毒された言動にすぎない、と私は考えています。

 

 尚、佐伯氏は別にこの件に直接触れているわけではありませんが、言論について次のように述べています。

 

 政治の空間は多かれ少なかれ、言葉や表現によって組み立てられている。だから政治の自由は言論や表現の自由と不可分だ。しかしそれはただ、言論が制限されたり検閲されたりということだけでなく、表現者としての真の内的な自由、つまり、真実を語ること、言葉に対して責任をもつことなどを含んでいるはずだ。(139頁)

 

 冷戦以降の日本の位相

 

 実は日本社会こそが本書でいう「アメリカニズム」の典型的な担い手となったのである。そう考えなければ昨今の日本における「消費者」という概念と「世論」という概念に与えられた特権的な位置を理解することはできない。日本の経済が本当に「消費者」によって動かされ、日本の政治が本当に「世論」によって動かされているのかどうかについては、簡単に判断できないであろう。だが少なくとも言えることは、経済が「消費者」のためにあり、政治が「世論」によって

方向づけられるのが正当だという強固な信念は広がっている。(309頁)

 

 果たして、それがいいのかどうか、現在の政治状況を見るにつけ、私は不安を覚えています。佐伯氏はこの第4章・「アメリカニズム」の終焉を、次のように印象深い文章で閉じます。

 こうして近年のアメリカの衰退が意味するものは、必ずしも、経済的、軍事的のものではなく、むしろ「現代」文明が掲げ、担おうとした価値、すなわち、リベラリズムキャピタリズム、デモクラシーといった価値の衰退、あるいはこの三者の優雅な結合の崩壊である、というのが私の考えなのである。あるいはビジネスがもはや、リベラリズムとデモクラシーを結びつける役割を果たさなくなったということだ。(中略)・・ここで確実に言えることは、これはただアメリカだけの問題ではないことだ。「アメリカニズム」は繰り返していうが、アメリカ一国の話でもないし,アメリカが世界に押しつけたものでもない。ビジネスあるいは経済という絵筆によって世界の地図に自由と平等の色を塗り込んでゆくこと、これが「アメリカニズム」の本質なのである。この「アメリカニズム」が20世紀を特徴づける基本的な柱だったとするなら、その崩壊は「現代」そのものの崩壊だし、それを「危機」というなら、それは「現代」そのものの危機なのである。(209,210頁)

 

その4 「グローバリズム」という虚構

 

 1993年に本書の初版が出され、1998年にはグローバリズムに関しての増補を加えております。アメリカニズムについても極めて重要なので、私なりの理解ですが以下、紹介します。

 

 個人的な自由主義、民主主義、そして市場経済の理念の結合を普遍的なものと見なすアメリカニズムの土台は、絶えざる技術展開とその成果の大衆化可能とする大量生産方式であり、それを受け取る大衆社会(世論)の形成であった。しかしながらその理念が基本的なところで亀裂が生じ、衰弱が起きている。そうした流れの中で、グローバリズムが進展している。その中心をなすのは企業活動そして資本の動き、即ち経済の領域におけるボーダレスな活動が今日の大きな焦点なのだ。その国際資本移動は文字通りの意味で国境がなくなった世界を駆け回っているわけでではなく、むしろ国家が厳然として存在するゆえに、その国境を利用したゲームなのだ、という指摘です。

 

 その結果、国の政策の妥当性の判断が、政策当局や国民ではなく、国際的な投資家たちが構成する市場にゆだねられているということである。政策当局は、その政策を市場がどのように評価するかという観点か行動をせざるをえないのである。こうして「市場」の動向が政策の基本方針を動かしてしまう。少なくとも、政策の独立性は「市場」の圧力にさらされ、自立性や裁量は失われつつある。つまり。「市場」から独立した政策というこれまでの前提はもはや成り立たない。(331頁) 

 

 このグローバル市場の進展は、人々を律し、また結び付ける社会的エートスを限りなく希薄化させる。市場は、利潤機会に敏感で、価格にすばやく反応する人々の群れを生み出す。決して倫理的な人間など必要としないのだ。ではそれへの対処はあるのか、ないのか。

 

 それは「主権国家という、これまでわれわれの依拠してきた発明物を,グローバルな時代に適応させて活用するというやり方である。近代主義の矛盾とグローバリズムという超アメリカニズムのもたらす不安を牽制し、調整する実際的なやり方は、コスモポリタ二ズムとファンダメンタルズの間で『ナショナルなもの』に依拠する以外に考えられない。」(383頁) それを氏は「シヴィックナショナリズム」と呼んでいます。

 

おわりにあたり

 

 今回も相変わらず、著書をよく理解せず、あるいは理解できないまま、勝手に引用しています。誤解していることも多々あると思っています。

 

 佐伯氏の一連の著作を読み終わった感想は、今の時代に必要なことは、まさしく歴史への深い洞察と、思想の重要さ、ということでした。私に一番欠けているのはその思想ということも分りました。では思想とは何か。それは単なる知識の集積ではなく、物事を判断する力、ことの本質を追い求めるその基となるもの。それは人格形成の基となるもの、なのかもしれません。

 

 揺れ動くヨーロッパ諸国、テロの続発、そしてトランプ大統領の出現とその現状等々を、あたかも著者は20数年前に既に見通していたかのように本書を読み、感じました。

 方や価値観が大きく異なる、共産党独裁政権の中国による中華大国への復活、その行く末はどうか。私は新たな不安、むしろ不吉に感じざるを得ません。

 

 世界が大きく変動している中にありながら、日本の政治は如何にあるのか。言論に責任を持つ報道機関は日本にあるのか、ないのか。方や、昨今の国会討議の有り様、加えて審議拒否、採決欠席の現実は目を覆うばかりです。野党第一党民進党を初めとした野党の有り様は、ただ安倍政権を倒せばいいとしか思えないのです。共産党は別かもしれませんがそこには思想も、政策も、人材も見当たらない、そうした野党を目の当たりにする中、自民党内部で人材を育て、第二の自民党自民党自らが作った方がいいのではと思っています。もしかするとそういう方向に既に進んでいるのでしょうか。

 

2017年5月30日

                         淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ)

 同 上『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)

 同 上「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義上」(中公文庫)

 同 上「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義下」(同上)

 同 上「20世紀とは何だったのか 西欧近代の帰結」(PHP新書

 同 上「日本の愛国心 序説的考察」(中公文庫)

 同 上「大転換 脱成長社会へ」(同上)

 同 上「正義の偽装」(新潮新書)

 同 上「反・幸福論」(同上)

 同 上「日本の宿命」(同上)

 同 上「反・民主主義論」(同上)

 同 上「さらば、資本主義」(同上) 

 同 上「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書) 

 同 上「倫理としてのナショナリズム」(中公文庫)

 他

 

 

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・(上)

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を読み終わって・・()

 

今回の拙稿にあたって

 

 毎回のことですが、何故このような投稿を続けているのか、とのご批判もあろうと思います。著名の方々の作品とはいえ、ただ、その文章を引用、紹介する意図は何なのか。まさしく意味はないのかもしれません。私としては人生の大半を過ごした昭和の時代を自分なりに再検討し、今を観たい。そのためには少なくとも私の書棚にある関連著書だけでも読み通し、自分なりの感想などを残しておこうと始めた次第です。自分自らは書き著わす能力がなく、どうしても著名人の方の文章を引用し、切り取りの上で自分の記憶に残そうとなってしまうわけです。方や、膨大な資料というか、読まなければならない文献を前にして愕然としているのも現状です。前途遼遠というか、行き着く先も見えず、暗中模索というのが現実です。

 

   丁度73歳の時点で企業活動とか、NPO活動等とから一切引きあげ、ここ地元東京練馬で遊び惚ける道を歩んでいます。そしてゴルフから転向し、テニス漬けの日々となったわけです。因みにゴルフは68歳に時点でハンデイは7でしたが、ここ4年ほどクラブにも触っておらず、完全に止めてしまいました。蛇足になりますが、一線を退くことに深い考えがあったわけではありません。ただ、父親も兄二人も奇しくも75歳で亡くなっていることも、私なりのひとつの理由付けにしたのかもしれません。一方、遊び惚けている現状には何か一抹の後ろめたさも感じてはいます。親友達がいまだ一線で活躍していることも、その一因なのかもしれません。

 

 方や、ここ数ヶ月の中で淸宮書房へのアクセスが増え出し、1万三千を超えており、そうしたことも一方で励みとなっております。77歳になろうとしている現在、残された時間は余りないのかもしれませんが、このような長々とした拙稿を飽きもせず続けているところです。尚、仕事の関係で前回の東京オリンピックにも、また、シドニーオリンピックではマラソンの高橋尚子さんの応援団の一員として、オリンピックスタジアムで応援をしております。そんなこともあるのでしょう、次回東京オリンピックは80歳になりますが、元気で、そしてスタジアムで観戦すると、急に決意を新たにしたところです。かみさんに笑われております。今年10月で金婚式を迎えますが、二人とも現在のところいたって健康です。

 

 

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本題に入って

 

序論

 

 やっと掲題の著書を読み終わりました。思想という概念・観点に疎い私には、本書を読み切ることは極めて難しいことでした。でも読み終わった今、何かが分ったような気分になっています。

 

 昨年、佐伯氏の「日本の愛国心」、続いて今年3月「反・民主議論」他について私なりの感想などを織り込み、ご紹介致しました。写真の著書は1993年に初版が出、1998年にTBSブリタニカより再版されたものです。さらに2014年に中公文庫より施光恒氏の解説が加わった再版がされております。私の僭越な憶測ですが本書は「日本の愛国心」、「反・民主議論」のみならず、1999年以降に氏により著わされた「アダム・スミスの誤算」、「ケインズの予言」、「正義の偽装」、「反・幸福論」、「さらば資本主義」、「日本の宿命」、「倫理としてのナショナリズム」等々の著書の原点というか、氏の思想の構成の基となるのかな、と思っています。本書の出版が20数年前とはとても思えず、今の時代そのものを洞察され、まさしく今の現実を語っているかのようで、驚きを隠せません。

 

 英国のEU離脱、揺れ動くヨーロッパ諸国、頻発に起こるテロは別として、宗教・民族対立、続いてトランプ大統領の出現。方や、中華大国の復権をはかる一連の動き。そこに普遍性があるとは思えませんが中国主導の一帯一路、そして動乱の朝鮮半島。日本は地政学的にも大きく変貌した世界状況に中にあって、何が必要なのか、何を考えなければいけないのか。

 

 佐伯氏は本書の中で、それは思想であると指摘されています。現代ほど「思想」が力を失っている時代もない。そして、その思想とは、とりたてて人々をかりたてるイデオロギーと解することでも、また人間存在の深遠まで達する世界観とみなす必要もない。それはもっとゆるやかな形で世界を解釈するヴィジョンであり、そこからわれわれの行動の指標をつむぎだせる、ある程度の整合性をもった知識の体系である、と記しています。 本書の序論で次のように記しています。

 

 社会が、その根底に変化しがたいものをもっているのは当然のことである。日本社会が、とりあえず「日本的」としか言いようのない、この国の社会や文化、歴史の文脈の中で作られてきたものを保持しつづけているのは、善し悪しは別にしても当然のことであろう。問題は、その「日本的なもの」が何であり、どのような意味を持っているのか、それを解釈する術を戦後の日本が失ってしまったとうことであろう。(中略)・・戦後日本は、アメリカ的なもの、あるいはアメリカ的文明を常に参照枠とし、思考の基軸に据えてきたということだからである。このアメリカ的なものが、われわれの生活のどこまで浸透したかという判断はまた別のことなのであり、われわれがここでいう「アメリカ二ズム」に常にモデルを求めてきたことは事実なのである。これはしばしば、ほとんどそうとは気づかない無意識のレベルにおいてそうであった。そして今日、グローバルの名のもとに、市場経済の世界的、普遍的な展開が唱えられるが、このグローバルこそまさにアメリカ二ズムの帰結にほかならない。(中略)・・『「アメリカ二ズム」の終焉』という本書の題名は、アメリカの覇権の後退といったようなことを意味しているわけではない。私はアメリカ型の文明(そしてそれは必ずしもアメリカ社会そのものと同じでない)がもたらす危険性について述べたかったのであり、アメリカ的なものに示される「超近代主義」が亀裂をあらわにし、もはやうまく立ち行かなくなるだろう、と述べたのである。そしてその見解は、アメリカの経済的覇権が再び確立されたかに見える今日でも変わらない。それどころか、本書でいうアメリカニズムは、ますます世界的な規模で不安定性を高めていくのではないか、と思われる。(本書19,20頁)

 

 如何でしょうか。トランプ大統領を生み出した現在のアメリカ社会、英国のEU離脱、EU諸国等々の現状を考えるに付き、私は氏の洞察力に感動さえ覚えるところです。今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が共感を覚え、私なりに理解し共感を覚えたこと、特に「アメリカ二ズム」の終焉の章を中心に見、考えたいと思います。

 

 因みに本書は第一章・「現代」が問いかけるもの、第二章・「ヨーロッパ時代」を支えるもの、第三章・「アメリカ時代」の構図、第四章・「アメリカ二ズム」の終焉、第五章・「近代」をつくったシヴィックリベラリズム、第六章・「近代」から「現代」へ、第七章・結論 「冷戦以後」と日本の位相、増補「グローバリズム」という虚構、で構成されています。

 

その1 19世紀のヨーロッパ時代リ

 

 20世紀にアメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって多国を牽制し、それなりの国際秩序を作り出したといわれるが、その前に19世紀のヨーロッパを見ておくことが必要としています。即ち、「パックス・ブリタニカ」からアメリカに覇権が移った時、それは軍事力と経済力だけの問題だったのではない。即ち力の相対関係だけの問題ではなく、それは「近代」の質的変化であり、「近代文明」というものの断層があった。そして、そのことは「パックス・アメリカーナ」への移行に際しても言えることなのだ。

 

 ヨーロッパの歴史を貫くものは、異質な民族、生活、言語、文化、宗教の対立と依存が、いかにヨーロッパの地理的、自然条件と深く重なっている。そして、地理学的な条件の中で多様性を生み出し、それがヨーロッパの経済活動を生み出しただけでなく「政治」をも生み出した。ヨーロッパにおける政治の概念は、地理的なものと結びついた多様性と不可分なのであり、そして「地勢学」が「地政学」に転化するのである。そこには、神聖ローマ帝国が象徴したような、キリスト教という超越的な普遍性でヨーロッパを統一する、という中世の原理がほぼ崩れ去り、それにかわって主権国家間の国家間関係が登場するのである。

 

 加えて、フランス革命において合い言葉となった自由、平等、博愛、そしてイギリスからヨーロッパ各国に伝搬していったインダストリアリズム(産業主義)がもうひとつの価値になった。即ち、リベラリズム、デモクラシー、インダストリアリズムが近代社会を代表する価値である。加えて西欧の近代社会の形成を支えるもうひとつの重要な要素は「国民国家」の形成なのである。そして19世紀のヨーロッパを考えるとき、決定的な重要性を持っているのがリベラリズ(自由主義)の概念である。

 

 「リベラリズムという言葉が自覚的な意味を持って使われだすのは19世紀のヨーロッパであったが、この場合の自由の観念は、主として、個人的な意思決定、行動に対して他からの拘束が働かないぐらいの意味で、それゆえ、こうした個人的な自由を拘束する権力に抵抗することがリベラリズムの中核になる。ドイツやイタリアといった19世紀ヨーロッパの後進国にとっては、この「権力」はオーストリア帝国のような帝国の絶対的君主であった。それゆえ、リベラリズムの運動は同時に国家形成、独立の運動となった。しかし、個人的な意志や行動を拘束する権力は絶対君主制の中から発生するとは限らない。」(83頁)

 

 方や、「デモクラシーのひとつの柱は人民主権であり、人民という抽象的存在が、文字通りの無制限の権力を握った時には、人民の名においていかなる専政が行われてもそれを防ぐことはできないのである。ジャコバン党の恐怖政治はまさにそのことを物語っているし、のちにはスターリニズムがその問題を再び提起したのであった。この時、リベラリズムはデモクラシーと対立する。(中略)・・そして19世紀を通じてヨーロッパのリベラリズムはデモクラシーに対する警戒心を緩めることはなかった。すくなくとも急進的なデモクラシーのもつ専制政治への傾きに対してである。」(83,84頁)

 

 19世紀のヨーロッパにおいては、リベラリズムは決してナショナリズムとは対立せず、共鳴しあいヨーロッパ社会を支えたのだ。19世紀の相対的に安定していた時期、諸国間の利害を調整していたのはバランス・オブ・パワーという考え方と自由貿易の理念であった。そしてその自由貿易を支えたのは、イギリスの効率的な海軍と経済力であり、それに加え現実的で自国の利益を見失うことのない外交能力であった。そしてそのリベラリズムは極めて現実的な国際感覚と極端な変化に対する警戒心、歴史の連続性や常識に対する信頼といったものに支えられていた。そうした「現実主義」の上に、「パックス・ブリタニカ」は成り立っていた、と記しています。

 

その2 20世紀のアメリカリ

 

 第二次大戦後、世界の総生産量の半分を生産した圧倒的な経済力と軍事力が、アメリカの覇権のベースとなったことは事実だが、アメリカの戦後外交の基本は、19世紀のイギリスと同様、国際的なバランス・オブ・パワーを確保することであった。加えて20世紀と19世紀を分かつ重要なことは、そのリーダーシップにはひとつは国際社会における道義的責務という観念と、「モノによるデモクラシー」というやり方である、と述べています。

 

 20世紀は理念とイデオロギーの時代であり、「力」だけがすべてではなかった。社会主義国共産主義やマルクシズムの優位を主張した。ナチズムの汎ヨーロッパ主義、日本の大東亜共演圏もそのイデオロギーを主張した。

 

 そして「戦後、最も普遍化する力をもったものがリベラル・デモクラシーであった。19世紀にはむしろ対立しあう価値であったリベラリズムとデモクラシーを今世紀は結びつけた。この結びつきを普遍的な人類の価値として世界化しようとしたのがアメリカであった。とりわけ、19世紀のヨーロッパでは、新興勢力に支えられているとはいえ、まだ危険思想であったデモクラシーを、社会の普遍的な原理まで祭り上げたのはアメリカであった。」(124頁) 

 しかもその使命を「経済」を通じて実行しようとしたところにアメリカの文明史的な役割がある。そして大量生産と大量消費で大衆(消費者)を生み出したのである。アメリカは商品を通して「自由」や「平等」の観念を宣伝できた唯一の国であった。ともかくも消費財をひとつの文化のように見せかけ、ひとつの国のシンボルにまでしまった国家ほかにない。続いて、デモクラシーについては以下のように述べています。

 

 デモクラシーは19世紀を通じて、主として政治的な価値であり、理想であった。それは国政に対する人々の平等な参与を求める運動であり、その背後には、人民主権という政治理念があった。それは意志決定のやり方であると同時に、主権と統治の正当性に関することがらなのである。しかるに、アメリカニズムのなかで、デモクラシーは生活の均質化、所得配分の平等化を意味するようになってくる。ここでも「政治的平等」から「経済的平等」への転換がおこるのだ。それとともに、国家は、政治の正当性によって基礎づけられるのではなく、それが国民に対して何を提供するかによって意味づけられるようになる。国家はサーヴィス・ステイトとなり、機能的な存在と見なされる。国家とデモクラシーの関係は、人民を媒介にした統治の正当性に関わるのではなく、経済政策を媒介にした機能の遂行に関わるのだ。これが、アメリカ二ズムがスポンサーとなった今世紀のデモクラシーなのである。(140頁)

 

 正に正鵠を得た指摘ではないでしょうか。私は僭越ながら深い共感を覚えるのです。いわゆるこの知識革命というべきものの遂行こそが今世紀のアメリカの役割であったわけです。そして次のように展開していきます。

 

 この「革命」がまぎれもなくフランス革命の継続であるのは、それが文化の大衆化という広範な平準化の運動だったからである。デモクラシーのもとでは「普遍化」とは「大衆化」にほかならないのである。ここに今世紀のアメリカの覇権をかってのイギリスのそれから区別する決定的な点がある。パックス・ブルタニカのもとではイギリスの文化は高い尊敬の念を払われたが、それは結局イギリス帝国領土内の支配階級にしか広まらなかったのに対し、パックス・アメリカーナのもとではアメリカ文化はいささかばかにされながらも、世界の大衆に広まっていったのである。(150頁)

 

 いわゆる大衆の出現です。では、何故、それがアメリカニズムの終焉につながっていくのか。以下、

 

『「アメリカニズム」の終焉・・(下)』に続きます。

 

2017年5月24日

                        淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思「アメリカ二ズムの終焉」(TBSブリタニカ

 同  上「アダム・スミスの誤算 上」(中公文庫)

 同  上「ケインズの予言 下』(中公文庫)

 同  上「20世紀とは何だったのか」(PHP新書)

 他