清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

 

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序章

 

 その1 吉田満の生涯

 

 先月の23日、掲題の著作の概略的なことを紹介しましたが、改めて、吉田満の生涯を著者の記述に沿い、以下記して参ります。

 

 吉田満は1923年(大正12 年)1月6日、父吉田茂、母ツナの長男として東京市山北町に生まれます。その後、関東大震災を機に、渋谷代官山アパートに移り住み、永谷戸小学校に入学。入学以来学術優秀でその卒業まで主席を通します。

 

 1935年(昭和10年東京府立第四中学(現戸山高校)に入学。とびきりの秀才で、特に記憶力は尋常ではなかったとの友人の話です。1939年(昭和14年)、東京高等学校文科甲類に入学、そして寮生活に入ります。 寮時代には二度の停学処分を受け、一度目は靖国神社参拝エスケープ。二度目は一般寮生が退寮した後、寮委員が、食堂、建物などを壊し、火を炊いた中に吉田満もいたことです。東京高等学校の卒業式には総代として答辞を読み、1942年(昭和17年)4月東京帝国大学法学部に入学します。

 

 その翌年、文系大学生及び専門学生の徴兵免除が解除され、20歳で学徒出陣・武山海兵団に入団。その時の心境を、かって、私がご紹介した粕谷一希「鎮魂 吉田満の生涯」に、私も面識がある親友の和田良一への手紙にも記しております。

 

 そして、1944年(昭和19年)12月25日、少尉に任官し、3,323人の乗員の一人として戦艦大和に乗艦します。その翌年4月、沖縄への特攻作戦(天一号作戦)で、艦長以下の幹部に伝える副電測士として、指令塔である艦橋に立つ任務につきます。同年4月7日、戦艦大和は米軍の爆弾と魚雷をあび沈没。3時間の漂流の後、駆逐艦・冬月に救出。吉田は生存者276人の一人です。生還者は佐世保に回航し、機密漏洩を防ぐため、離れ小島の病院室に収容されます。

 

 その後、一時帰郷を命ぜられ、帰省から戻った吉田は改めて特攻を志願。そして配属されたのは、回天魚雷の基地・高知県須坂です。米軍の上陸情報を得るための電設設備工事で、完成を建設期限の8月15日と定め、80名の部下を昼夜兼行の突貫工事に吉田が指揮しておりました。尚、それは海軍と自発的村民一体となった突貫工事でした。そして敗戦を迎えます。若い士官は戦艦長門に乗せられて原爆実験に供されるという風評の中、村民が吉田の身柄をあずかりたい、部落全体の責任でかくまうとのなか、小学校代用教員とう世を忍ぶ、借りの姿でもありました。下士官が次々と復員していく9月半ば、吉田は特攻隊長から呼び出しを受け、村の善意に甘えて子ども達を相手にしたい気持ちは、わからんではないが、一度家に帰ってけじめをつけろ、とお叱りを受けます。結果、両親が疎開している多摩の吉野村・柚木に帰省し、運命の吉川英治に出会い、「戦艦大和ノ最後」の原稿に着手していくわけです。吉川英治とその後の小林秀雄との遭遇が「戦艦大和ノ最後」を世に出す、大きな影響と力を与えたわけです。

 

 そして、1945年12月、22歳の吉田は日本銀行に就職します。そのときの上司から次の言葉を受けます。

 

 君の死生の体験は得がたいものだし、貴重なものとして私達も敬意を表したい。しかし思い過ってはならない。生きるか死ぬか、という形で、いつも人生の問題が与えられるとは限らない。むしろ常にそういう形で問題が与えられるなら、人生はやさしいものになってしまう。死か生かの、その追い詰められた時間だけに、全力をつくせばそれですむのだから。ところが、人生はもっと深く大きい。十年一日というように、見えない努力の積み重ねが人生を造る。情熱よりも忍耐、これが人生だ。(吉田満「散華の世代から」222頁)

 

 その日銀時代に復員軍人の今田健美神父と出会い、精神的な救いを求めるのでしょうか、1948年1月にカトリック世田谷教会で洗礼を受けます。続いて、1949年9月、プロテスタント教徒である嘉子と結婚。その結婚と日銀内での重要な仕事への登用もあるのでしょうか、精神の内奥に向き合うことから、少しずつ現実の暮らしを重視する視点に変わっていった、と渡辺浩平氏は記しています。

 

 一方、日銀内のカトリック研究会、及びその後の吉田に大きな影響を与えた、後年には、日本基督教団の総会議長となるプロテスタンの鈴木正久牧師の聖書研究会にも参加しています。そして、吉田が34歳の1957年から1959年のニューヨーク単身駐在する直前、プロテスタントに改宗します。カトリックプロテスタントか、という懊悩でしょうか、1949年の春、カトリック研究会での集合写真で、中央の今田神父、そして左隅の吉田の表情は何か沈んだ寂しげな顔が、本書に載せられております。

 

 尚、まったく次元の異なることですが、私の母親は代々続くカトリック教徒で、私の母方の一族はカトリック教徒です。私も幼児洗礼を受け、教会時代を過ごしました。私は高校二年の時、カトリックに何か重圧を感じ、教会から離れ、現在でも教会から遠ざかっている者です。私達夫婦は二年前に金婚式を迎えましたが、かって、二週間後に神前結婚式を控えた私は、母親を何か安心させる為か、東京本所カトリック教会の司祭館を訪れ、教会での式を頼みました。訪れた一週間後、私と家内は代父、代母の立ち会いの下、一つ目の式を挙げました。司祭館で下山神父様より「昌章、帰ってきたか」との言葉を頂いた、そんな52年前のことも思いだした次第です。

 

 本題にもどります。吉田は帰国後、為替管理局の総務係長、調査役。そして、時あたかも日米安保が自然承認され、所得倍増を掲げた池田内閣の成立した後の大阪勤務。そして1963年に本店の人事課長、日銀の青森支店長、仙台支店長等々を経て、1971年のニクソンショックの翌年の1972年に、日銀の金融政策の最高意思決定機関である政策委員会の庶務部長、謂わばその事務方のトップに就きます。その後、50歳で局長に就任。方や、吉田はプロテスタントの西片町教会長老としても静かに尽力を致します。そして、52才で監事に就任、その在職中の1979年、56歳で吉田はその生涯を閉じます。

 

 尚、付け加えなければならないことは、1950年の27歳の時、吉田が東京大学の体育館で日銀の同僚とバドミントンをしていた際、サイダーの栓を鉄柵で開けていいた時、蓋が右目を直撃し、右目を失ったことです。そのときの心境というか状況は次の通りです。

 

 その際、自らの姿を鏡に映し、「唇をゆがめて、ニヤリとした笑いが浮かんでいたのが印象にある。・・(中略)いつの間にか、あの奇禍が、突発事件という印象を失い、平凡な出来事になってしまった。けさ起きたとか、誰かに逢ったとかという事実と同じような、何でもないことになって、日常のなかに埋もれかかっている。あの怪我以来の幾日間というものが、これまでの人生とごく自然につながって、なだらかな今日まで流れてきている。自分の人生はもっと本筋を進む筈だった。それが、あの日以来、わき道へそれてしまった。そういうわびしい感じは、初めから一度もない。今踏みしめているこの人生こそ、唯一の真正のものだと、おのずから確信し肯定している。別に苦情をいう必要もない。」(吉田満「戦中派の死生観」143頁から147頁)

 

 如何思われるでしょうか。吉田満が従容として人生を生きることは何処から来たのでしょうか。生死の極に自ら立ち、その後、悩んだ末に達した境地なのでしょうか。僭越至極ながら、私は深く自省するところです。

 

 その2 本書を取り上げた要因のひとつ

 

 吉田満が56年の生涯を終えられてから、ほぼ40年の年月が流れました。その間に、1989年のベルリンの壁の打ち壊し、東欧・ソビエト連邦の崩壊、ロシアの誕生による冷戦の終焉、ブレトンウッズ体制の崩壊、ある面ではアメリカ二ズムの終焉。そして、世界的なテロの発生、イスラム国家の出現等々、国連の存在意義も大きくそこなわれ、第二次大戦後の世界は大きく変動しました。その中で最も大きな変貌は中華大国への復活を着々と進める中国の擡頭ではないでしょうか。加えて、反日を強める朝鮮半島の二国家。地政学的にも大きく変貌した中で、我が国はどうすべきか、どうあるべきか、そして国民一人一人は何を考えなければならないのか、正に問われている、と私は考えます。

 

 残念ながら今の日本の現状は、国会論議と称するものも、並びにそれを報道する報道機関と称するものも、商業主義に侵されているのでしょうか、下劣極まりない現状です。独り善がりの、安上がりの正義を振りまく野党。そして戦中・戦後の自らの在り方の反動なのでしょうか、報道機関と称するものは、もはや末期的現象ではないでしょうか。勿論、私は自公政権を賛美しているわけではありませんが、何ら思想もなく、対案を示し得ない野党は、ただただ政権を批判し、倒せばよいかの如くに写るのです。その現状は平和を享受した、ただ乗りの政党に見えるわけです。そんな気持ちを抱く中、私自身が吉田満に関わる個人的な思い、ささやかな経緯もあり、今回、改めて本書を取り上げた次第です。

 

 吉田満を語る著作は既にご紹介したように、千早 耿一郎著「大和の最後」、粕谷一希著「鎮魂 吉田満の生涯」の二冊があります。本書は吉田満を語る、新たな三冊目の貴重な著作と思います。著者は「白水社の本棚」において、「軍歌と賛美歌」とのタイトルをつけ、本書を次のように紹介しております。

 

 吉田は賛美歌も愛唱した。賛美歌のうちの二つは、吉田の葬儀でうたわれている。「主よ、みもとに近づかん」からはじまる三百二十番と「いずみとあふるる」からはじまる三百五十三番である。交際のあった江藤淳は、牧師(西片町教会)の司式でおこなわれた葬儀に出席してはじめて、吉田がクリスチャンであることを知った。吉田は敵でもなく自らでもなく、一視同仁の公正な裁きを求めていたのではないか、江藤は葬儀の折りの想念を書き残している。

 

 ・・(中略)『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』で私は、大和学徒兵、キリスト者、そして日本銀行員として戦後復興から高度成長経済の金融にたずさわった吉田満の三つの顔をえがいた。そして、その三つの姿から戦中派吉田満の戦争観、戦後観、さらに組織や経済に対する倫理観をさぐった。それは敗戦から七十年を経た現在を生きる私たちにとって、分かりやすいものではない。しかし「戦争」や「戦後」をあらためて考える際、無視できない問題を含んでいると思えた。吉田は軍歌と賛美歌をともに愛唱した。むろん両社に託した思いは同じではないだろう。しかしそこにこそ吉田の思考のおくゆきがある。吉田の著述を読み、彼を知る人にあい、強く感じたことはそのことである。(白水社の本棚より)

 

 その3 「鎮魂戦艦大和」のあとがき

 

 偶々、私がニューヨーク駐在時、ある意味で自分探しをしている40年前になりますが、ニューヨークの紀伊國屋書店で買い求めた「鎮魂戦艦大和」(1974年 講談社)は、1974年版「戦艦大和ノ最後」に「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」が加えられたものです。占領軍の検閲で、その発刊が禁止されたり、吉田満の視点にも種々批判等々がある中、吉田はその「あとがき」に次のことを記しております。

 

 戦中戦後に書かれた戦争文学の類書の量は、無制限ともいうべき厚みに達している。そのなかに伍して、もしこの作品が、初稿から三十年ののちに改稿を許されるに足る特色が恵まれているとすれば、その第一は、ここに扱われた主題、古今東西に比類のない超弩級戦艦の演じた無残な苦闘が、はからずも日本民族の栄光と転落の象徴を形作っていることを示すとともに、みずからの手で歴史を打ち建てるのにいかに無力であるかを露呈するものであった。科学と技術の粋は非合理極まる精神主義と同居し、最も崇高なるべきものは愚劣ななるものの中に埋没することによって、ようやくその存在を許された。

 

 ・・(中略)特色の第二は戦争というものの直中に身を置き、みずから戦う人間として、戦争そのものを描で出そうと専念したことに求められるであろう。・・(中略)しかし、この作品の持つ特色は、反面で、戦争記録文学としての明かな限界を生んでいるのであろう。戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表するという姿勢からは、戦後時代をいかに生きるべきかについてわれわれに訴えるものがないという指弾は、初版が公にされて以来絶えず行われてきた。

 このことについて、私は初版あとがきに、いつの日か、私自身の批判をもってその裏打ちをしなければならない責任を感じている、と書いた。「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」は怠惰な私が、この自戒の言葉にいささか報いるための仕事として、四半世紀の空白のあとにようやく到達した一路標である。(吉田満 「鎮魂戦艦大和」 431から433頁)

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」

 

 

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 その1 渡辺浩平氏の視点

 

 先月の23日、本書の概略を紹介しました。著者は吉田満の横顔である日銀行員と、キリスト教徒としての後ろ姿に焦点を当て、吉田満論を展開していきます。本書は序章・私の立場の核心、から始まり、第一章・同期の桜から第九章・ 経済戦艦大和の艦橋、そして、終章・雲という構成です。私としては新たな吉田満の再発見というか、再見直しの必要を感じました。改めて吉田満の著作の再読に至るわけです。本書のなかで特に印象深く感じた諸点を、私なりの感想など交え、記して行きたいと思っております。従い、今回も渡辺浩平氏の著作の全体を紹介するものではありません。

 

 その2 日本人としてのアイデンティティの欠如

 

 著者の渡辺氏は吉田満が戦後の33年という時間を次のように記しています。

 

 「この間に日本が、太平洋戦争とその総決算である敗戦によって得た経験を反芻し、学ぶべきものを学びとるには、充分な時間と試練の場が、あたえられた」はずなのに、しかしそれを日本人はおこたってきた。それは、「日本人としてのアイデンティティ-(自己確認の場)」をどこに求めるべきかという問いがきちんとなされなかったそこに、「戦後最大の危機」といわれる現代の混迷があるというのである。70年代の混迷とは、先に述べた通り「不況と円高の内憂外患の窮境」であり、「外からのわが国に注がれる眼の冷徹さ」であるという。

 吉田はその種の窮境が出来たひとつの原因として、敗戦によって日本人が戦争のなかの自分を見つめることなく、いまわしい記憶を抹殺し、戦中と戦後を貫く一貫した責任を自覚しなかったことに求めるのだ。それを「日本人としてのアイデンティティ-」の欠如とする。(掲題の著書 225頁)

 

 更に、吉田は戦後日本に欠落したものとして詳しく、次のように述べています。

 

 日本人、あるいは日本という国の形骸を神聖化することを強要された、息苦しい生活への反動から、八月十五日以降はそういう一切のものに拘束されない、 「私」の自由な追求が、なにものにも優先する目標となった。日本人としてのアイデンティティ-の中身を吟味し直して、とるものはとり、捨てるものは捨て、その実体を一新させる好機であったのに、性急な国民性から、それだけの余裕はなく、アイデンティティ-のあること自体が悪の根源であると、結論を飛躍させた。「私」の生活を豊かにし、その幸福を増進するためには、アイデンティティ-は無用であるのみならず、障害でさえあるという錯覚から、およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた。

 

 ・・(中略)戦後生活を過りなくスタートするためには、自分という人間の責任の上に立って、あの戦争が自分にとって真実何であったかを問い直すべきであり、国民一人一人が太平洋戦争の意味を改めて究明すべきであるのに、外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方的に断定した。(吉田満「戦中派の死生観」16頁)

 

 この吉田の指摘は、70数年後の今日の日本の現状にも十分に当てはまることではないでしょうか。尚、吉田は上記の著書のなかで、吉田とほぼ同世代の鶴見俊輔司馬遼太郎との対談の中で、司馬遼太郎が『戦後の日本は、経済大国とか言われますが、他の国に影響を与えるほどの思想を持ってない。もしあるとすれば、「私どもは思想なしで、何とか東京も比較的に犯罪件数もすくなく過ごしています」ということでしょうか、とさりげなく語っておられる。日本民族の本質をめぐって、数々の長大作をものされた氏が、明治維新に劣らぬ大変革であった敗戦の経験について、この程度の感想で片付けられるのは腑に落ちないようにおもわれるが、いかがであろうか。』(同121頁)

 

 如何でしょうか。私は吉田満に賛同するわけです。もっとも、昭和の時代が何か魔物のように突然現れたとするように、私が感じられる司馬史観といわれるものにも、私は賛同もしておりませんが。

 

 その3 占領期の報道規制

 

 前回の拙稿にも記しましたが、「戦艦大和」は占領軍の民間検閲支隊により全文削除され、八つの異なる版があったわけです。ではその報道規制はどうであったのか、渡辺浩平氏はある意味では詳細に記しております。重要な記述なので、長くはなりますが以下ご紹介致します。

 

 占領軍の報道規制の主要な問題点は、ポツダム宣言、さらには、日本国憲法にうたわれた表現の自由報道の自由を占領軍は表向き遵守する姿勢をみせながらも、実際には占領軍批判などの言論が封鎖され、さらには先に述べた通り、その封鎖そのものの事実をかくしていた点にある。

 むろん戦時中における日本の情報局も厳しい情報統制をおこなっていた。報道機関(同盟通信、NHK、新聞社など)はそれにしたがい、戦争宣伝をおこなった。しかし、米国が日本を占領すると、その統制主体が、占領軍に変わったのである。

 つまり占領軍による統制は、表面上は民主主義と自由をうたい、制限は一部としながらも、実際は大掛かりな検閲をおこない、さらに、それと対になる思想管理もするというダブルスタンダードにあった。くわえて、日本の報道機関は、占領軍の宣伝工作に全面的にしたがい、むしろ、積極的にその宣伝に加担した。

 その一対となる検閲と宣伝は、前者が先にあげた民間検閲支隊(CCD)が担当し、後者が民間情報教育局(CI&E)がになった。CCDとCI&Eは組織上同格ではない。CCDの上には、民間諜報部(CIS)という組織があり、CISとCI&Eが同列となる。

 CCDの検閲は、放送(ラジオ)、活字のみならず、私信にもおよんでいた。一次検閲には多くの日本人が関わっていた。また、検閲における郵便検閲の比重は高く、検閲者の四分の三が郵便検閲にあたっていた。

 

 山本武利の試算によれば、占領期の日本人検閲係は、延べ二万から二万五千人となる。うち郵便検閲にたずさわった人数は一万から二万。郵便検閲は、検閲であると同時に、占領軍による「世論調査」という機能もあわせもち、それが、占領政策に反映されていたのである。

 

 ・・(中略)報道機関は、民間検閲支隊の統制にしたがうことが、帝国日本の戦争報道に協力した自らの罪の軽減につながると考えた。戦時に、情報局の統制をうけたように、メデイアは占領軍の検閲を受け入れ、むしろ、その宣伝を率先垂範し、組織の生き残りをはかったのである。

 

 ・・(中略)しかし、吉田の主張は少し違っていた。「犯した過りを正されつぐわねばならず、責めは果たされねばならない。」戦争の責任は負わなければならない。しかし、その前にやることがあるはずだ。それは、「おのれの眞實を、もう一度ありありとさぐりあてて見る」ことである。そうしなければ、それはおのれへの冒涜となり、新生への糧はくみとれない、そのように考えたのである。

 

 ・・(中略)それは、敗戦直後、東久邇総理が説いた「一億総懺悔」でも、軍国主義者が「真実を隠蔽」したとする占領軍の戦争罪悪観宣伝とも異なる主張である。  

占領軍は、そのような主張が、自分達の宣伝と鋭く対立するものであり、「占領行政の厄介者」であることを十二分に認識していた。

 文語の問題のその文脈のなかで、とらえることができる。昭和天皇人間宣言も、日本国憲法も、英語の翻訳調ののこる口語で書かれている。・・(中略)「戦艦大和ノ最期」の文体はそれらの延長線上にある文体だ。「内側から見た日本軍国主義の精髄」が文語で書かれたことは、占領軍が許すことはできないのである。(掲題の本書 54頁から61頁)

 

 如何でしょうか。私が永年勤めていた岡谷鋼機(株)で尊敬する上司が、戦後、アルバイトとして、郵便局本局の事務所内で個人郵便を検閲していたことを、恥じるように、そっと私に語ってくれた酒場での出来事を改めて思い起こしました。

 

 その4 三島由紀夫の苦悩

 

 渡辺浩平氏は本書の中では東京帝国大学の吉田の二年後輩の三島由紀夫に言及しております。吉田は日銀、三島は大蔵省には入りますが、学生時代からの交友関係であったとのです。吉田がニューヨーク単身駐在の時には、既に著名な作家になっていた三島とのグリニッジヴィレッジでの、ゲイバーでの交遊も記しております。そして三島について、次のように記しています。

 

 吉田が絶えず意識していたのは、民族共同体としての国家、つまりは国民国家であり、それを引き継ぐ主体の連続性であった。三島の関心の枠組みは、文化共同体の象徴概念としての天皇ということとなろう。吉田は、三島を回顧した文章のなかで、三島の問題提起に理解をしめす。また、三島の死の意味を解明できると思うことは不遜として、解釈を避けようとする。・・(中略)しかし、吉田と三島には、そのような過去の日本を見る視点以前に、当時の日本を見る眼に共通したものを感ずる。(掲題の本書 181頁) 

 

 吉田満は「戦中派の死生観」の中で“三島由紀夫の苦悩”として、以下のように記しています。

 

 三島由起夫の苦悩は何であったか。彼を自決に至らしめた苦悩の本質は、何であったか。この設問を、彼とほぼ同時代に生まれながら、たまたま太平洋戦争で戦死する“くじ”を引き当てた青年達の苦悩と対比して考察せよ、というのが編集部からあたえられたテーマである。私はやはり同じ世代に属し、一時友人として三島と親しくつきあっていたこともあるが、一個の人間、しかも多才な意志強固な行動力旺盛な文学者に、割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明できると思うことがいかに不遜であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明できたと思う時は、永久に来ないであろう。三島はみずからの死の意味について、多くの読者にそれぞれ異なる解明の糸口を得たと思わせて去ったが、糸口をたどってゆくとどの道にも、近づくことを許さぬ深淵が待ち構えている。彼の死はそのような死なのであり、そうであることをはっきり意図して、彼はあの死を選んだとしか思えない。

 

 ・・(中略)三島は終戦の時、満二十才であった。それより少なくとも二年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確立で期待することが出来た。彼が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも明かである。出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。

 

 続いて、全共闘等についても次のように記しております。

 

 こうして臼淵磐が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の中の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。

 しかしそのことは、三島が臼淵と全く異なる地点に立っていることを意味しない。たとえば全共闘への共感を表明し・・彼らが提起した問題点はいまでも生きている。反政府的な言論をやった先生が、政府から金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだ。簡単なことだよ・・と指摘するとき、彼は、臼淵の心情に近い場所に位置しているはずである。

 

 次のことも付しております。

 

 戦後過激な活動に走った多くの学生の中から、一人の自殺者も出ないことは、彼を激怒させた。死ぬ一週間前の対談で、三島は・・彼ら、全共闘の革命のために死なないね。危険に徹しぬいて、最後に生命を投げ出すところまで、どうして思いつかないのか、ぼくはそこが分からない・・と、あからさまに彼らの殉死を督促している。(戦中派の死生観 60頁から71頁)

 

 如何でしょうか。吉田、三島の視点・観点は現在でも当てはまる、痛烈なものではないでしょうか。

 

おわりにあたり

 

 先月23日の拙稿でも、また本拙稿でも触れたように、著者の渡辺浩平氏は吉田の日銀時代の友人、クリスチャンの友人、知人等々を含め多くの人々にも逢い、吉田の実像を描いていきます。本書は序章でも触れたように、吉田満に関する三冊目の本格的な研究著作ではないでしょうか。尚、著者は1958年生まれで、専門はメデイア論で、現在は北海道大学大学院メデイア・コミュニケーション研究院教授とのことです。

 

 本書の序章でも記しているように、氏は吉田満の日銀行員並びに幹部としての「横顔」、そしてクリスチャンという「うしろ姿」に焦点を当て吉田満を語っていきます。長年に亘り、吉田満を読んでき私にとって、とても参考になる著作でした。本拙稿はそうした部分を大分省略しており、是非、渡辺浩平氏の「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」にたち帰り、一読をお勧め致します。

 

 繰り返しの繰り言で恐縮しますが、地裁学的にも大きく変動する世界。アメリカ二ズムの終焉、一方、共産党独裁政権の価値観も大きく異なると思われる中国が中華大国への道へと軍事力を含め着々と進めていること。更には、経済格差が広まる中で次々と現れる独裁的指導者の出現。そうした状況下、日本はどうあるべきなのか、僭越至極ですが、我々個人は何を考え、行動していくべきなのか、正に問われている、苛立ちと自分自身の反省が交錯しております。

 

 私は、今までも度々、山本七平を取り上げてきました。その山本七平吉田満は懇意でもありました。山本七平は陸軍ですが軍隊経験があるとともに、プロテテスタン教徒という共通点もあるのでしょうか。吉田とは家族ぐるみの交流があり、吉田満の死後、山本夫妻は吉田嘉子夫人をともない死海への旅に出かけたと、著者は記しています。そして、著者は山本七平の以下の言葉をもって、本書を閉じています。私の長々とした拙稿もその最後の言葉をお借りし、おわりと致します。

 

 遠い昔のことでなく、また異国のことでもなく、自分の近いところに、こういう人が現に生きていたのだということ、それを知ることはその人の生涯にとって決して無駄ではない。(本書 257頁)

 

 2018年8月15日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

  渡辺浩平「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」(白水社

  吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

  同  「戦中派の死生観」(文芸春秋)

  同  「散華の世代から」(講談社)

  同  「提督伊藤整一の生涯」(文芸春秋)

  粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

  千早一朗「大和の最期、それから」(講談社)

  保坂正康編「戦艦大和と戦後」(ちくま学芸文庫

  池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/07/23

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/04/25

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/04/24/165352

  その他

  

 

 

           

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」  

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」

 

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その1

 

 吉田満が56年の生涯を終えられてから、ほぼ40年の年月が流れました。吉田満の名前を挙げても、どういう人なの分らない方が現在では多くなっているかもしれません。私が拙著「書棚から顧みる昭和」の「まえがき」の中で、ほぼ40年前になりますが、米国駐在時の苦闘時代に吉田満の「鎮魂戦艦大和」に出会い、深く考えさせられ、その後の私の人生についての在り方に大きな影響を与えた、と記してからも4年が経ちました。加えて、3年前になりますが、ブログ「淸宮書房」において、吉田満に関わる私の偶然の出来事を「戦艦大和の最後の吉田満を巡って」と題し、3回に分けて投稿致しました。そして、改めてその原稿を見直し、今年4月24,25日に2本の記事に纏め直し、改めて再投稿した次第です。

 

 吉田満をご存知でない方に僭越ながら述べますと、吉田満は太平洋戦争末期に沖縄特攻作戦に参加し、学徒兵として戦艦大和に乗船し、奇跡的に生還します。敗戦後に日銀に勤めながら、直後に戦争文学の名作「戦艦大和ノ最後」を著わします。尚、吉田満の生涯では、その他に発刊されたのは「戦中派の死生観」「提督伊藤整一の生涯」「散華の世代から」の三冊のみと、いうことです。極めて少ない著作ですが吉田満が日銀の青森支店長、仙台支店長を経由し最後は監事ですが、日限の幹部としての仕事が主体で、文筆業ではないこともありましょう。

 

 また、「戦艦大和ノ最後」には八つの異なる版があることを渡辺浩平氏は、本書で改めて紹介しております。如何に吉田満による、その発刊が占領軍に問題視されていたか、謂わば本書にまつわる波乱の歴史事実をも指摘しております。八つの異なる版は以下のとおりです。

 

A 文語 一九四五年九月、吉川英治にすすめられ書かれたもの。

B 文語 「戦艦大和ノ最後」Aを肉付けしたもの。

C 文語 「戦艦大和ノ最後」小林秀雄にすすめられ、Bを修正したもの。占領軍の 民間検閲支隊の検閲により全文削除。その後、アメリカのブランゲ文庫に収蔵。吉田の死後、江藤淳により発見され、『文学界』(1981年9月)に掲載

D 口語「「戦艦大和」『新潮』(1947年10月号)に掲載

E 口語「小説軍艦大和」『サロン』(1949年6月号)に掲載

F 口語「軍艦大和」『サロン』掲載版を民間検閲支隊の指示により修正(1949年8月 銀座出版社発行)

G 文語「戦艦大和の最後」(1952年8月 創元社発行)

H 文語「戦艦大和ノ最後」(1974年8月 北洋社発行)

 

 私の本棚にある「鎮魂戦艦大和」(1974年 講談社)は上記のHに加え、「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」が加えられたものです。偶々、私がニューヨーク駐在で、ある意味で自分探しをしている40年前にニューヨークの紀伊國屋書店で本書に遭遇したわけです。

 

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その2

 

 そんな私の個人的経緯があるわけですが、今年の3月に渡辺浩平氏による吉田満を語る、謂わば新たな研究書ともいうべき掲題の著作が発刊され、この夏に一読したところです。今までも吉田満について語る著書は、ブログ「淸宮書房」でもご紹介致しましたが、吉田満の日銀時代の同僚である千早 耿一郎(本名・伊藤健一)の「大和の最後」及び中央公論編集者粕谷一希の「鎮魂 吉田満とその生涯」があります。吉田満論としては、その全てを読んだわけではありませんが、鶴見俊輔江藤淳加藤典洋等々の方のものがあります。そうした方々は吉田満との面識があり相互に会話もあるわけです。

 

 尚、渡辺浩平氏吉田満とは直接会話もされたことのない、1958年生まれのメデイア論を専攻される学者です。従い、その切り口も従来の方のものとは異なっているようにも思います。氏が吉田満との関心を持ったのは、本書では「吉田満をきちんとよんでみたいと思うようになったのは、鶴見俊輔江藤淳加藤典洋吉田満論がたぶん影響している」と述べております。と共に、氏の奥さんを含め家族の方が吉田満キリスト教の師である方々との奇縁があったことも、その要因ではないでしょうか。

 

 渡辺浩平氏は本書に於いて、吉田満が日銀仙台支店長時代に、「家の教会」を主宰していた佐伯晴朗牧師が吉田満戦艦大和の学徒兵としての真向きの顔、日銀行員としての横顔、そして、クリスチャンとしてのうしろ姿、という三つの顔の表現をしていた。加えて、氏は吉田満の日銀行員という「横顔」とクリスチャンという「うしろ姿」に焦点を当てた、と記しております。今回、私が一覧しただけでは、氏はその「うしろ姿」に焦点を強く当てているように感じます。吉田満は戦後間もなくカトリック入信し、その後、ニューヨーク赴任前に、奥さんのプロテスタントに改宗し、東京の西片町教会に入会、そして亡くなるまでの20数年間、西片町教会の会員として、また西片町教会長老としても活動されたとのことです。

 

 敗戦の8月15日が間もなく来ます。戦後とは何であったのかを改めて考える機会かもしれません。私としては改めて吉田満の著作を読むことが必要であろう、と考えております。時間は掛りますが吉田満が著わした四書を改めて再読した上で、掲題の本書についても、私なりの感想などを後日になりますが、記したいと思っております。今回は掲題の本が発刊された、そして一読したとの紹介だけですが、吉田満の新たな研究書としての本書の御一読をお薦め致します。

 

 2018年7月23日

                            淸宮昌章

参考図書

 

渡辺浩平「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」(白水社) 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/04/24

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/04/25/103006

その他

  

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

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はじめに

 

 東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。

 

 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺譚」の一読、「断腸亭日乗」を拾い読みした程度で、その作品はほとんど読んではおりません。偶々、自分なりに昭和の時代を省みる資料のひとつとして、半藤一利荷風さんの昭和」、「荷風さんの戦後」を読み込み、荷風が風景を描く文章の素晴らしさを私なりに感じ入っては居りました。

 

 また、私の単なる思い出に過ぎませんが、私が高校一年の学校帰り、時折、永井荷風が京成線の終点の押上駅から乗って来られ、隣に座ったり、前に座ったりされていたことを思い起こします。いつも、例の帽子をかぶり、やや重そうなボストンバッグを座った両脚の真ん中の床に置いておりました。浅草通いの帰りだったのでしょうか。偶々、お互い帰り道での遭遇だったのですが、当時は永井荷風とは気が付かず、数年経って知ったわけです。芥川龍之介堀辰雄文人を輩出した旧三中に私も偶然通った次第ですが、荷風に気が付かなかった自分に今もって、残念な気もしております。

 

 本書は以下の印象深い冒頭から始ります。

 

 恋に「片恋」があるように、人と人との間にも、それに似た悲しい思い出があるものだ。私と永井荷風との関係の如きも、そう言えるだろう。もし荷風という作家が丁度あの時私の目の前にあらわれなかったら、私は小説家にはならなかったろうと思う。それほど・・私の一生を左右したほど大きな存在だった荷風に対して、私はついにわが崇拝の思いを遂げる機会にすら恵まれなかった。それだけならまだいい。私は荷風一人を目当てに、あわよくば彼に褒められるかもしれないと思って書いた第一作を、彼の個人雑誌で嘲笑された。・・(中略)荷風に教わりたくて、私は三田の文科にはいったが、とうとう教わらずにしまった。顧みるに、荷風の文学に惚れて惚れて惚れぬいて、得たものは嘲笑に始って悪声に終わったのだ。こういう人生もまた逸興であろう.(3、4頁) 

 

 続いて、そのあとがきに加え、追記に、これまた強烈な記述があります。以下ご紹介致しますが、そうした一連の記述が目に飛び込んできたことが本書を買い求めた大きな理由なのです。

 

 彼の「日記」が語っているように、荷風は日本には珍しい血の冷たいエゴイストである。荷風に親譲りの財産がなく、彼の好きなボードレールのように、原稿料で生活して行かなければならない作家であり、いやでも応でも、あのエゴイストを剥き出しにして現実を生活しなかったことを私はかえすがえすも、彼のためにも、日本の文壇のためにも、大きな損失だったと思う。いや、それが本当の小説家の生き方なのだ。

漱石に「道草」を書かせ、鴎外に「渋江抽斎」を書かせたように、荷風に彼自身のエゴイズムがいかに現実生活と悪戦苦闘したかを書かせたら、日本のたった一人の特異な小説家が生まれ出たと思うのだ。財産があったばかりに、彼独特のエゴイズムを直接現実生活に接触する機会をなからしめ、逃避の、一人よがりの、隠居のような、趣味の生活に一生を終わらせたことは、一生を誤ったとしか思えず、あたら才能を完全に発揮させず一生を終わらせたことは、幾ら考えても残念で仕方がない。

 荷風は一種の名文家に違いない。しかし、鴎外が「渋江抽斎」で自分の文体を完成したように、また徳田秋声が「のらもの」で彼の文体を完成したように、荷風は彼自身の文体を完成しずに終わった。若し彼が私の言うように、彼の性格で現実の人生を生活したら、恐らく彼の好きなボードレールのように、彼自身の本当の名文を生んだであろう。

 そういう意味でも、私は彼が性格そのもので生活と取り組まなかったことを取り返しの付かぬ大きな失敗だったと思わずにはいられない。(391、392頁)

 

 このあとがきの日付は、永井荷風死去13年後の昭和47年10月31日です。加えて、小島政二郎の甥、稲積光夫が書いた追記の日付は平成19年7月16日となっています。即ち、本書の発刊には原稿完成から35年の年月が流れたわけです。その訳は小島政二郎が発刊しようとした時点では、永井家の許可が得られず、35年後に、鳥影社より「小説としても資料価値としても素晴らしい」とのことで、幻の作品であった「小説 永井荷風」が日の目を見ることになったわけです。

 

 そして、そのあとがきから46年を経過した今年、私は、吉祥寺の風情漂う古本屋で本書と遭遇したわけです。本書は明治、大正、昭和の文壇を垣間見る上でも、極めて貴重なものと思いまます。今回は荷風の文学云々とはだいぶ隔たりますが、著者が荷風の生い立ち、その性格について記述された、私には強く印象に残った箇所を私なりに紹介致したいと思います。

 

永井荷風との出会い

 

 小島政二郎は冒頭に記しております。荷風が「あめりか物語」と「ふらんす物語」とを土産に、パリから帰ってきた当時の颯爽とした姿。すなわち六尺近い上背、リュウとした黒の洋服に、黒のボヘミアン・タイを牡丹の花のように大きく靡かせ、色白の、面長の顔に、長い髪の毛を真ん中から分けた、当時の文士とは似て似つかぬ荷風を私はみんなに見せたかった。著者は荷風に憧れ、小説家を目指したのです。荷風より15才より若い少年でした。ただ、当時の文士は雑誌社が取り仕切る原稿料だけの生活は苦しく、文士には家を貸してくれなかったとのことです。その状況は明治、大正、昭和になってからも然りで、原稿料だけで一家を支えて行けるような時代の来ることをしじゅう文士達は話題にしていた、とのこと。当時の著者自身の状況を次のように述べています。

 

 一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、路地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素すぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前に連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。(10,11頁)

 

 原稿料を払って雑誌に載せた以上、その作品の版権は作者にはなく雑誌社にあると考えられていた。その後、印税という制度が導入・確立され、今日にまで至っている。それは森鴎外の多大な努力のお陰であり、その功績は極めて大きく、それ以降の印税の利得者は、鴎外の恩を忘れるな、と著者は記しています。それ以前では、文壇の大御所の菊池寛、芥川さえ、一方に勤めを持ちながら小説を書く二重生活を呪っていた、とのことです。いずれにもせよ、印税制度がない当時の状況にあって小島政二郎は貧乏暮らしを覚悟の上、小説家を目指すわけです。アメリカ及びフランス帰りの如何にも颯爽とした荷風、そして、「あめりか物語」、「ふらんす物語」が著者に大きな影響を与えたのかが分ります。尚、「あめりか物語」については次の如く記しております。

 

 「あめりか物語」には、小説にならない風景描写や、落葉に寄せた感傷や、そんな種類の作品が少なくない。が、そこに盛られている彼の感想が新鮮で・・これまでの日本の文壇にはなかった豊かな、色彩のある、歌うような文体で語られていると、私達はそれだけでウットリさせられてしまうのだった。(21頁)

 

荷風の生い立ち、その性格

 

 荷風は明治12年、永井家十二代目永井久一郎の長男として、東京牛込大久保余丁町の千坪もある来青閣にて生まれます。永井家は徳川家康の家臣で、所謂名家であり旧家でした。父である久一郎は儒学を修める旁ら、詩をも学び、その後、神田一ッ橋の大学南校に入り、更にアメリカ留学ではプリンストン大学他で学びます。その後、内務省衛生局に勤め、東京帝国大学書記官になり、文部省会計局長を最後に官を辞し、日本郵船の上海支店長、横浜支店長を歴任しています。   

 所謂、荷風は金持ちの名家育ちで、当時の文士とは、その環境が大きく異なる乳母日傘育ちであったのです。父とは異なり、高等師範の付属中学では二度落第、徴兵検査も不合格。早熟でその生活は所謂乱れたものでしたが、小説家になるとの意志は極めて強い少年で、厳格な父親には大きな庇護を受けながらも最後まで怖く、逃げ回っていた。父親が望む大学はおろか、高校にも進まず小説家になったら父親から勘当される怖れで、その備えのために無名の落語家「むらく」に弟子入をしていたこともある、とのことです。何とかして、自分の才能を見出そうとしての足搔きでもあったのでしょう。著者は次のように記しています。

 

 そうして何をやっても駄目で、また素の小説家に戻って来たのだと思う。あれだけ迷った挙句に、やっとこれ以外に自分の行く道はないと覚悟を決めたのだと思う。いや応なしに、勘当されたら勘当された時のことだという腹が・・というと立派だが、そうじゃない、一種の不貞腐れでそうなったのだと思う。・・(中略)私のつくづく感心するのは、坊ちゃんの向こう見ずに似ているとは言え、無鉄砲な勇気と、一種の情熱と、こうと思ったことは必ず実行する青年らしい実行力と、この三つのものを持っている荷風の姿を彷彿としずにいられないことだ。(65頁)

 

 父親としては、荷風のそうした怠惰な生活に区切りを打ち切らせ、真面目な勤め人にさせるべく、荷風数え25才の時、アメリカ行きを命じます。そのときの荷風の心境を著者は次のように記しています。

 

 若い彼の心は、恐らく悲喜こもごもだったろう。父の命ずるままにアメリカに於いて会社員となる素地を作る自信は恐らくなかったろう。いや、そんな道を辿ろうとする気持ちは、さらさらなかったに違いない。何年かの後に帰ってきたときの父の失望、いや、激怒を思うと心は重く沈む一方だった。しかし外国の土を踏み、外国の生活を身を以って味わうことのできる喜びは、飛び立つほどに大きかったに違いない。彼は身の幸運を父に向かって感謝しずにはいられなかったろう。(72,73頁)

 

 荷風アメリカでの生活が始ります。父親のつてで、数カ所の勤めを変えながらも、ハイスクールに入り、再びフランス語の勉強を始め、ついには直接モーパッサン他を原語で読みこなすに至ります。結果的には、当時の日本の自然主義革命に曝されず、無理のない道程を経て自己の文学を発見することができるに至るになった、と著者は記しています。タコマ、シアトル、ワシントンを経た荷風は、再び父の斡旋でニューヨークの横浜正金に勤めます。そしてニューヨークに追ってきた娼婦イデスとの同棲生活が始ります。そうしたことは父からの送金はあったとしても、自らの俸給での生活です。足掛け五年、そして荷風が小説家になることを厳しく禁じた父は、荷風が文学研究のために、フランスに渡ることを峻拒しながらも、彼のために、陰では東京で正金銀行の頭取に遭い、パリではなしにリヨンの支店勤務を頼むわけです。そしてリヨン在は正味九ヶ月、パリはその後二ヶ月を過ごした後、荷風は日本に帰国します。

 

 尚、著者は荷風の合理的な生活法、金の使い方を身につけたのは一般に言われるフランスではなくアメリカであり、一生の一番大切な時期に、アメリカで自活生活したことである、と記しています。

 

アメリカでの自活生活

 

 すこし長くなりますが著者の重要な視点なので、以下ご紹介致します。

 

 自分で稼いだ金で実際に一日一日生活するということは、小説家にとって、いや、小説家に限らない。どんな人間にとっても、大事な意味がある。自己を発見する近道だからだ。たといどんな生活をしようとも、肝にこたえるような生活をしていれば・・。彼はイデスに惚れながら、惚れ合っている最中にも、別れることを考えている。これが荷風なのだ。荷風の個性なのだ。こうして一つ一つ、自分の個性を発見して行くのだ。それが生活の豊かさだ。・・(中略)自分の稼いだ金で自活するということは、誰でもやっている当たり前のことで、特に取り立てて問題にする程のことではない。百人が百人そう思うだろう。しかし、実はそうではないのだ。実に大事な大事なことなのだ。つまらない人は、何も学ばないかも知れない。しかし、つまらなくない人は、自己の日常生活から、大きなものを学ぶのだ。日常生活を置いて、何から人は大切なことを学ぶのだろうか。・・(中略)父の目の届かぬアメリカで、父の指図に従って神妙に銀行勤めをしていると見せ掛けて置いて、その実、女遊びはする、小説は書く、将来文学者として立つ準備は怠らない、何のことはない。父を瞞しながら、完全に自分の思うような生活を享楽していたのだ。享楽しながら、フランス語をものにしたこと。小説家としての荷風を「花咲く樹」にまで一人で育ち上げ点、彼は異端者だと思うが、文学に対してだけは信仰を持っていた。それも、熱烈な信仰を。(117から126頁)

 

帰国後の文士荷風

 

 満29才になりますが、8月に荷風は帰国します。その一月前には日本で「あめりか物語」が発売され未曾有の評判となり、そして彼は一躍流行作家となり、帰朝大歓迎を受けます。荷風の生涯で一番うれしかったことだろう、と著者は記しています。加えて、その「あめりか物語」が「アメリカ物語」ではなかったことも、魅力の一因であった、とのことです。その後、当時のめぼしい雑誌「中学世界」「趣味」「新潮」「中央公論」「「早稲田文学」「新小説」他に荷風の作品が載っていきました。その作品を上げると、「狐」「祝杯」「牡丹の客」「すみだ川」「見果てぬ夢」等々です。そして著者は以下の如く記しています。

 

 荷風は、実にいい時に褒められた。あれほど絶えず彼の念頭を去らなかった文壇が、双手をあげて満面の笑みを湛えて歓迎してくれたのだ。こんな仕合せな作家はめったにいない。私の知ってからだって、荷風以外は一人もいなかった。派手な売り出しをしたと言われる谷崎潤一郎だって、芥川龍之介だって、一部の味方から褒められたに過ぎない.(142頁)

 

 そして、明治43年荷風31才の時、思わぬ幸運が訪れます。荷風が尊敬してやまぬ鴎外、森林太郎慶應義塾文学部顧問より、上田敏とも相談のことだが慶応義塾文学部大刷新の教授としての、以下の要請文を受け取ります。

 

 拝啓、御無音に打過ぎ候。「冷笑」愉快に拝見仕り居り候。陳者、今回慶応義塾文学部大刷新の計画中にこれあり候ところ、三田側一同先日の会議の結果、貴兄を聘して文学部の中心を作り、その上にて万事取り計らわんということに内定いたし候。

(中略)小生に於いて今回の件は是非貴兄の御承諾を得ずしてはやまざる決心に候。見込まれたるが因果なれば、追って上田君より申し込み相成り次第、ご承引下されたく、またそれまでに他の方面のことお決しなさらぬよう、くれぐれも願い上げ候。尚、義塾をして貴兄を重用せしむることは、小生極力取り計らい申すべく存じ居り候。二月四日

 荷風は喜んで受諾したに違いない。一生のうちで、両親に面目を施したのはこの時だけだったろう。物心ついてから、肩身がせまくなく父の顔を見ることが出来たのは、この時だったろう。(180頁)

 

  尚、荷風は大学の教授になったからと言って、別に生活態度を変えるようなことはなく、アメリカにいた時と同じような放蕩生活を送り続けたのです。むしろ地位も出来て、金も入るようになり、アメリカ以前での吉原、州崎から、新橋のような一等地の花柳界へ出はいりするようになります。そして著者は次のように述べています。

 

 どんな日常生活を送ろうが、当人のかってだが、その頃の荷風の日常は、私に言わせれば、退嬰的だった。新橋一丁目の清元梅吉の裏隣りに一家を構えたり、柳橋の代地河岸に引っ越したり、毎日のように梅吉のところへ清元を習いに通ったり、とかく花柳界情緒に浸るのを楽しみにいているような生活だった。

    

 (中略)そういう生活が、彼の芸術に影響をしずにはいなかった。浮世絵の美しさを論じた「浮世絵の鑑賞」や、ゴンクールの「北斎」や「歌麿」の翻訳や、江戸の狂歌を最大級に褒めたり、だんだん文学とは無縁のものとなって行った。「モーパッサンの石像を拝す」を執筆した頃の荷風はどこへ行ってしまったのだろう.。(248頁)

 

 後日、荷風は最後の元老西園寺公望公爵が開く文士との清談会(雨声会)の一員として招かれ、その席上で、公爵より「君のお父さんには、随分君のことで泣かされたものだよ。」と、侯爵が笑いながら言われ、「息子さんもあれだけの文学者になったのだから、何も言うことはないだろう」と、父の久一郎を宥めたと言う話だった、とのことです。尚、その大学教授の34才の時ですが、父親への怖さからでしょうか、下町の裕福な材木商の二十歳いくかいかぬ二女ヨネと結婚します。半年と続かず、著者はヨネに深い同情を表わしております。著者が学校の行き帰りに、四五度ほどヨネを見知っていて、その頃は十七八の清楚な細面のお嬢さんだったこともあり、同情が増したのかも知れません。その後、荷風はもう一度結婚していますが、それも半年と続かなかったとのことです。

 

 一方、その大学教授としての荷風の講義も評判はむしろ悪く、改革どころか学生も増えず、荷風は程なく大学を去って行きます。一枚看板の荷風のいなくなられた「三田文学」はへたへたと潰れ、荷風に憧れ慶応義塾には入った著者は途方に暮れます。当時では誰かの弟子になって何年か修行の後、先生に認められてどこかの雑誌に推薦してもらう外には文壇に出ていく道しかなかったわけです。「三田文学」を居城として文壇に出ていくつもりの著者達は、「禄を失って浪人の身になって見なければ、浪人の悲しみもつらさも分らないように、雑誌を失って見ないと、それを失った文学青年の途方に暮れた寂しさは分るまい。」(283頁)と、記しています。 

 

 そうした経緯もあり、著者の荷風に対する冒頭の記述になるのでしょうか。 一方、著者は荷風の作品について、つぎのようにも記しています。すこし長くなりますが以下、ご紹介します。

 

 荷風は人生を「物語」にする作家であった。男にも、女にも、人間的に肉薄しようとする興味はなかった。しかし、風俗や、小説が展開する場所、風景には、異常な興味と執念とを持っていた。「すみだ川」の人物は一人も生きていない。しかし、隅田川沿岸の風景描写は、小説に不必要なくらい詳細に生き生きと活写されている。彼が小説の舞台に使おうとする土地へは、煩を厭わず、時間を惜しまず、幾度でも出掛けて行った。そのせいで、我々は忘れない見事な風景描写に接することが出来る。前に抜粋した州崎の描写などそのいい例であろう。もっと示せと言われれば、私は咄嗟に幾つでも挙げることが出来る。芸者の衣装に荷風ほど筆を惜しまなかった作家いないだろう。大正時代の風俗を書き残して置くことに作者の使命を感じている感じ方に私はやはり異常性を感じないではいられない。全部彼の異常性の現れだと見て見られないこともあるまい。彼の作品の最も魅力的な箇所は、彼が無意識に情熱を発揮した時であろう.(336,337頁)

 

おわりに

 

 以上が、私が本書を読み、私なりに荷風の一端を垣間見たところを紹介致しました。肝心の荷風の文学についてはほとんど触れて居りません。片や、著者、小島政二郎は本書の中で荷風の作品あるいは日記の文章、著者自身の作品、更には佐藤春夫の詩、鴎外、久保田万太郎芥川龍之介等々を取り上げ紹介し、荷風論を展開しております。そうしたことを私が省略したことは、何か内容のない、意味を持たないものになったかもしれません。ただ、省略あるいは避けた要因のひとつは、あたら紹介し、かえって著者の意図とは異なることになやもしれぬ、とも考えました。

 

 本書は「小説 永井荷風」との題名です。著者は「私達小説家は、題が極まった時はその小説が半分書けたようなものだ」と記しています。それは本書についても言えることなのでしょう。はじめにも記したように、本書は荷風が生きた明治、大正、昭和の文壇の状況を見る上でも貴重な資料となっております。一読をお勧め致します。

 

 2018年7月11日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

  小島政二郎「小説 永井荷風」(鳥影社)

  半藤一利荷風さんの昭和」(ちくま文庫

  同   「荷風さんの戦後」(同)

  永井荷風「あめりか物語」(岩波文庫

  その他

中澤克二「習近平の暗号 2035」を読んで

中澤克二「習近平帝国の暗号 2035」を読んで

 

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今回の投稿にあたり

 

 この6月12日、シンガポールでトランプ米国大統領と北朝鮮金正恩労働党委員長との間で「合意文書」が署名・発表されました。日本の報道は何か米国と北朝鮮の問題で、日本はあまり直接関係ない、他人事如き報道の有り様に私は大きな疑問と不安を抱いております。大きく変貌している世界状況下に在りながら、日本の国会は森友学園に関わる公文書書き換え問題に大阪地検特捜部が不起訴にしましたが、依然として加計学園の忖度問題を含め、連日の報道合戦を続けております。マスメデイアに翻弄される日本政治の現状は、大きな悲劇といえるのではないでしょうか。私は、繰り返し指摘してきたわけですが、戦前の大阪松島遊郭移転問題、帝人事件の時代を思い起こすわけです。そうした事件はいずれも時の野党が内閣倒閣を起こすために作られた、結果的にはでっち上げ事件でした。連日に亘り新聞等が大々的に取り上げ、やがて政党政治は行き詰まり、日本は大東亜・太平洋戦争に繫がっていったのです。

 

 今日、大きく変貌している国際状況下にあって、日本の安全保障の性格も劇的に変化していると考えます。日本の安全保障の在り方、更には今後の日本の在り方も根本から考え直す時にきたと、私は思っております。片や、今の国会の状況は如何でしょうか。単に平和を享受しているだけに過ぎないと思われる野党の有り様には、国を、国民を守るなどの発想も思想も私にはみじんも感じられません。マスメデイアに囃され誕生した民主党政権時代の、官僚を軽視し、制御できず日本を混乱の極に落とし込んだ、あの時代は何であったのでしょうか。そうした残滓である野党の現状は政党内閣制度の末期的現象とさえ、私には思えるのです。こうした状況・現状をどこかの国々が喜んでいるのではないでしょうか。

 

 残念ながら、その国会議員を選んだのもわれわれなのです。われわれ自身に大きな問題があるのです。平和ボケに安住している、この現状にいちばん大きな問題があるのでしょう。勿論、現与党並びにその国会議員を賞賛しているわけでもありません。与党国会議員の内輪争いは止めることが先決です。迫りくる国難に対し一丸となって、ことを進めることなのです。

 

 尚、日経新聞6月13日付けのコラム「あすへの話題」によれば、佐藤卓己京都大学教授が戦前を含め、メデイア出身議員のメデイア政治史の研究をされているとのこと。輿論(パブリック・オピニオン)と世論(ポピュラー・センテイメンツ)に関わる問題意識に立つ論集を、この秋に公刊されるとのことです。私は興味深く、その発刊を楽しみにしております。

 

 元に戻ります。防衛省の高橋杉雄氏は、今回のトランプ・金正恩の「合意文書」署名の前の時点になりますが、北朝鮮の核弾頭装備中距離弾道ミサイルの出現につき、以下のように述べております。

 

 たとえば1997年に改訂された「日本防衛協力のための指針」では、日本の安全保障に重要な影響を与える事態である周辺事態に際して、日本は自国領域および「活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国の周辺公海およびその上空の範囲」において後方支援を行うと定められたが、これも基本的には日本周辺が安全なステージングエリアであるとの前提に基づいていたと考えられよう。・・(中略)朝鮮戦争からごく最近まで続いてきた、日本が安全なステージングエリアであり得るという前提は、北朝鮮の核弾頭装備中距離弾道ミサイルによって根本から覆されたと考えざるを得ない。(海外事情 5・6 134頁)

 

 今回取り上げた中澤克二氏の著作は、今回のトランプ大統領金正恩北朝鮮労働党委員長の「合意文書」に直接関わるものではありませんが、中国、朝鮮半島、及び今後の日本に関わる重要な指摘と思います。いつもの如くになりますが、私が感じたことなどを含め、僭越ながら紹介したいと思います。

 

習近平帝国の暗号 2035

 

 本書は「反腐敗」で政敵を放逐し、新皇帝の野望を遂げようする姿を描いた中澤克二氏「習近平の権力闘争」に続く著作です。先のトランプ大統領金正恩労働党委員長による「合意文書」以前に著わされたのですが、北朝鮮の今後の動向、加えて朝鮮半島及び中国との関係を考える上で、私は参考にすべきところが多く、ここに取り上げた次第です。

 

はじめに

 

 本書の冒頭に述べられている「はじめに 2035習近平コードの意味」で、極めて印象深い書き出しで本書が始まります。重要な指摘なので、長くなりますが紹介致します。

 

 1917年、ロシアを舞台にレーニン率いるボルシェビキが「10月革命」でソビエト政権を樹立した。武装蜂起集団は当時、ロシアで使われていたユリウス歴の10月24日(現在のグレゴリオ歴11月6日)にペトログラード(現サンクトペテルブルク)の占領を始め、翌25日(同11月7日)には軍事革命委員会に権力が移ったと宣言した。暴力革命が成功したのだ。

 それから、ちょうど百年の2017年。10月24日には中国・北京で第19回共産党大会が、「習近平思想」と中央委員会メンバー総入れ替えを承認して閉幕。翌25日の中央委員会第一回全体会議で(1中全会)で新指導部が選ばれた。偶然にしては出来過ぎている。先の共産党大会はドラスチックだった。個人名を冠した「習近平思想」の確立で「習近平時代」入りを宣言。人事は習近平の色で染め、「ポスト習近平」候補を最高指導部に入れる慣例を破る「候補者つぶし」まで突き進んだ。

 半面、習近平が長く視野に入れていた共産党中央主席(党主席)への就任は果たせなかった。盟友、王岐山が明快な形で最高指導部に残留することもなく、「68歳引退」の内規も破られなかった。最高指導部メンバーの顔ぶれも習近平の完勝ではない。

 だが、そもそも中国の歴史的な政治交渉では、最も重要なものを勝ち取る為に、相手が絶対に認めるはずがないとんでもない条件をまずいくつも出して押しまくり、最後の最後にそれを引っ込めて、取りたいものを確保する手法が使われてきた。

今回、習近平にとって最も大事だったのは、自らの思想の党規約盛り込みによる自らの新時代の宣言だった。それは完全に果たした。(以上1、2頁)

 

 習近平の闘いの第一のクライマックスは、後継者レースの先頭を走っていた重慶市トップの孫政才の追い落とし。続いて軍制服組の要である二人の摘発(一人は自殺)。それは反腐敗運動と軍掌握を梃にした小さな文化革命であり、習近平は就任後わずか5年で、前任の江沢民胡錦濤を抜き去ったわけです。そして、先の共産党大会での3時間半に亘る習近平の演説では100年前の10月革命の経緯を紹介し、マルクスレーニン主義の中国化を強く訴えたのです。そしてソ連を反面教師として新中国には、習近平の力が是非とも必要であるとしたわけです。    

 加えて、2035年までに現代化国家の建設を基本的に終える、即ち経済・軍事の両面で米国に追いつくという当初目標を15年も前倒しにした「2035年の暗号」である、と著者は記しております。

 

 一方、『中国共産党の歴史という観点から捉えると、党の「核心」である習近平が、今回、党規約を強引に大修正し、中国の憲法にも盛り込む真意が見えてくる。初お目見えした「習近平新時代」は少なくとも2035年まで続くよう布石が打たれているのだ。』(5頁)

 

 しかし、道のあちこちに見えない地雷が埋まっている。2035年までの長い長い「習近平新時代」を宣言した巨大国家には、なお多くの死角がある、との指摘も著者はしております。我が国もそのような観点を以て、右往左往せず長期的視点に立って、大国中国に対処していくことが肝要と考えます。

 

 本書は第一章 脅し­­-首を吊った将軍、席を立った胡春華、第2章 党主席への狭き道-習近平コードを解くカギ、第4章 対米外交の蹉跌、新型の「韜光養晦」、第6章 独裁と強健の民-突如、姿を消す有力たち、第7章 新たな主役らへの厳しい目-2035年までの生き残りゲーム、と展開しおります。驚くほどの情報をもった詳細に亘る調査・報告書です。尚、いつものことですが今回もその一部である第三章 金正恩習近平帝国を滅ぼす、と第五章 一進一退の日中関係に絞り、私の感想などを交え記して参ります。

 

その1.北朝鮮の核弾道は全中国が射程内という脅威

 

 習近平にとっては金正恩の行動は誤算の連続であった。北朝鮮は2017年11月28日未明、二ヶ月ぶりの弾道ミサイル「火星15号」を発射。米国西海岸にまで届くとするICBMの完成宣言も然り。18年2月には平昌オリンピックが開かれ、五輪前にはトランプは武力行使に踏み切らないとの金正恩の判断である。   

 片や、朝鮮半島で戦争が再び起これば、習近平が党大会で宣言した2035年までに中国現代化建設が挫折しかねない、との習近平の観点を著者は指摘します。

 

 かって、朝鮮戦争北朝鮮とは中国とは鮮血で固めた友誼ではあった。しかし、北朝鮮が経済的にも中国頼みは明かで、石油だけでなく、北朝鮮の市場には中国製の日用品があふれ、謂わば中国の半植民知的位置にあるのも現状です。そうした現状を避ける、あるいはそれに対抗すべき手段が核兵器であると考えてきたのが金正日、正恩の根本的思想である。従い、2017年5月24日の日本海に落ちた中距離弾道ミサイル北極星2号」により映し出された映像は東側ではなく、西側の中国本土を写す映像が主体であった。即ち、全中国が北朝鮮の核弾道の射程内に入った、とのひとつの北朝鮮の宣言なのです。中国もその意図と危険性を十二分に承知している、と著者は指摘しています。

 

 従い、今回のトランプ・金正恩との合意文書でも明かではありませんが、北朝鮮が完全に核放棄をすることはないのではと、私は考えます。即ち、北朝鮮アメリカだけではなく、中国との長い過酷な歴史から観ても、決して核を放棄することはないのではないかと思うわけです。一方、中国はそうしたと観点をも持ちながら、中国は少数民族問題も抱えております。即ち、中国55の少数民族の中で14番目に上る200万人弱の朝鮮族の扱い、そしてその動向は大きな問題となる可能性もあるわけです。そうした少数民族他の諸問題をも抱えながらも、習近平は絶対失敗してはいけない2035年があるわけです。著者は北朝鮮の核問題について、次のように記しにています。

 

 それは中国自身が歩んだ道でもある。1964年10月16日、東京オリンピックの最中、中国は原爆実験に成功した。まだ国連にも加盟しない時期だ。67年に水爆実験へと進み、70年には弾道ミサイル人工衛星を打ち上げた。

 結果は世界を驚かせた72年の米大統領ニクソンの訪中による米中国交正常化だ。米国は核と弾道ミサイルを持つ中国の力を認めた。旧ソ連と対立する双方の利害も一致した。

 北朝鮮は60年代の中国と同じ戦略で動いている。当時、悲惨な文化革命の発動で国際社会から孤立していた中国は今の北朝鮮と極めて似ている.(145、146頁)

 

 私は正にその通りと思います。トランプ大統領アメリカも大きく変動しようとしている、この国際状況下にあって、日本はその在り方、取るべき方策を外交を含め、根本的に変えて行かなければならないはずです。今日の現状は日本の敗戦後、あるいはサンフランシスコ平和条約締結後、最大の危機事態なのかもしれません。にもかかわらず、日本の国会の現状は国を、国民を守る観点を全く欠く現状です。政権政党は当然のこと、内輪もめは即刻止めること。片や、平和を享受するだけに過ぎない野党、マスメデイアの有り様は末期的状況で、手の施しようもない現状ではないでしょうか。正しく思想が無くなってしまったのです。

 

その2.一進一退の日中間系 なぜ対日強行路線が緩和されたのか

 

 過去の歴史を振り返ると、中国政権の基盤が不安定だったり、共産党内が割れている場合、2012年の反日デモがそうであったように、日本に強硬に出る例が目立っているとのこと。では現在はどうでしょうか。著者は次のように記しています。

 

 中国は対日外交をどのように位置づけているのか。2017年の党大会報告では、対外関係に関して「全方位外交の踏み込んだ展開」という太字の見出しがあった。これを目にした時、ハットした。沖縄県尖閣諸島問題をきっかけにした2012年の反日デモ以来、日中関係は長く冬の時代が続いたが、ここに来て修復の兆しが見られる。しかも、かなり急速な動きである。なぜなのか、その答えの一つが、習近平が5年の実績として挙げた全方位外交の展開なのだ。(270頁)

 

 即ち、2035年を目指した習近平政権の新たな「韜光養晦」ともいえる全方位外交である。世界第二の経済力と空母まで持つに至った中国には、中国脅威論が日本を含め周辺国に出てきた。対米関係にもひずみが出てきた現在、世界第三の経済大国の日本とも、首脳会談さえできないような関係は放っておくわけに行かない状況が習近平側に出てきた。新シルクロードとも言うべき「一帯一路」を粛々と進めるなか、中国が中華帝国の拡大戦略であるとのイメージを変えたいのだ。日本政府は、中国側の裏の意図に十分、注意を払いながら、自らの国益に基づいて協力すればよい、との著者の観点です。

 

 2012年には尖閣諸島問題を巡って中国各地で大規模な反日デモが発生し、その後の2年余り、中国では新たな日本映画の公開は皆無だった。現在では日本のアニメ映画「君の名は」が大ヒットとのことです。片や、かって中国で爆発的ブームになった韓国映画・ドラマは、朴前政権が米軍の地上配備型高高度ミサイル防衛システム(THAAD)を導入にカジを切ることにより皆無となった。 旅行者の急増・急減も然りで、政治性の全くない純粋な青春映画も、いざという時には国際政治の駆け引きの材料となる。韓国への中国人旅行者の急増・急減も、謂わば中国の文化政策のひとつで、それが中国共産党独裁政権の実体なのです。その際は韓国が実施したように、日本は慌てず冷静に長期的対処をしていくことなのです。

 現在、安倍政権が掲げる2020年までの憲法改正が、与党内で具体的な論議に入ったわけですが、今後、中国が「日本の軍国主義復活反対」といった烽火を派手に上げるなら、対日報復はありえるわけです。現在、韓国政府の政策効果もあって韓国は乗り越えたことを見ても、日本は中国の文化政策にも慌てず冷静に対処することです。著者は加えて、以下のように記しています。

 

 世界の人々にとって刻々と変化を遂げる中国を等身大に捉えるのは大変な作業である。ある人が10年前に住んだ経験から最近、見ていない今の中国を語る。また、ある人は5年前に出張した時の見聞から中国の現状を分析する。残念ながら、いずれも今の中国の実情を捉えることはできない.・・(中略)成長の速さゆえに中国認識はすぐ時代遅れになる。半面、中国共産党の根本思想はまったく変わっていない。むしろ独裁体制を維持するため組織を強化し、言論もこれまでになく締め付けている。(301,302頁)

 

 著者はそうした現実を踏まえながら、日中新時代の「第5の政治文書」を提言します。2018年は日中平和友好条約の締結から40年である。これまで日中間には4つの政治文書がある。即ち、国交を正常化した1972年の日中共同声明、78年の日中平和友好条約、98年の日中共同宣言、2008年の戦略互恵関係の包括的推進に関する共同声明です。そこに新たな政治文書が重要になるのです.著者は次のように記しております。

 

 18年以降の首脳相互往来を通じて、互恵の名に恥じぬパートナーシップ関係を再構築するべきだ。その手段として日中の新時代にふさわしい「第5の政治文書」をつくりあげる必要がある。とはいえ文書だけをつくっても魂が入らなければ意味がない。実際に両国民に役立つ中身となることが肝要である。アジアの二大国である日中両国は、様々な摩擦を何とか調整し、折り合いをつけながら、共存していかなければならない運命にある。(303頁)

 

 著者も述べているように共産党独裁の習近平政権には多くの死角と習近平自身にも地雷が埋め込まれているのでしょう。また、過去において日中間で何度も「政治文書」に合意・交換しても、見事に覆し、あるいは無視されてきた現実があります。それでも日本が地政学的見地に立って、著者の提言には賛同していかなければならないのでしょう。

 

おわりにあたり

 

 朝鮮半島の今後の行方は、北朝鮮アメリカの問題では、むしろないのです。今後、安全保障のみならず、経済面においても直接日本に関わる重大な問題なのです。他人事ではないのです。そして中国は共産党独裁政権の、想像もできない格差社会。人権も言論の自由も欧米・日本とは大きく異なり、加えて監視社会を急速に強めています。その中国が中華大国へ道を強引に進めているのです。

 

 日本は地政学的にも大きく変貌した現在の国際環境にあって、冒頭でも述べたように日本の国、国民を守るとはどのようなことなのか、主権国家とは何でなければならないのか、日本の在り方を根本的に再検討しなければならないのです。人口3万6千人の、軍隊のないヨーロッパのサンマリノ共和国とは日本は違うのです。日本の安全保障を、ただただ他国の米国に依存する敗戦後の、この日本の在り方は再検討しなければならないのです。他国の若者が、アメリカ人の若者が自らを犠牲にして日本を守るということはあり得ないのです。朝鮮半島の問題についても、あたかも他人事の如き報道するマスメディアの現状は手の施しようもありません。

 

 今回も読み込みが足りず、単なる抜粋になって全体を紹介できていません。本書「習近平帝国の暗号 2035」は「習近平の権力闘争」に続く、極めて刺激的な著作です。是非、両書を合わせ、お読みになればと思います。

 

2018年6月23日

                                                                                                     淸宮昌章

 参考文書

 

  中澤克二「習近平帝国の暗号 2035」(日本経済新聞出版社

  同上 「習近平の権力闘争」(同上)

  海外事情5・6

  その他

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                             

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を省みて

佐伯啓思著『「アメリカニズム」の終焉』を省みて

 

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再拙稿にあたって

 

 昨年の12月に佐伯啓思氏の「西田幾多郞 無私の思想と日本人」、つづいて、今年(2018年)の5月に『「保守」のゆくえ』を取り上げ、私なりの感想などを交え投稿致しました。既にお伝えしておりますが、氏の「日本の愛国心」を読んだときに深く共感を覚え、「反・民主議論」、「アダム・スミスの誤算」、「ケインズの予言」、「正義の偽装」、「反・幸福論」、「さらば資本主義」、「日本の宿命」、「倫理としてのナショナリズム」、「現代民主義の病理」、「西田幾太郎・・無私の思想と日本人」等々と読んでまいりました。氏は次々と著書を発刊されておりますが、本書「アメリカニズムの終焉」は現代文明の本質を見据えた論及であり、諸著作の原点とも言うべきものかなと、私は考えております。本書の出版が20数年前とはとても思えず、現代そのものに鋭い洞察がされており、今日の日本を改めて考える上で極めて貴重な著作と考えております。尚、昨年5月には上・下に分けて本書を紹介しましたが、今回は私の個人的事象への付言は削除するとともに、今日の日本の現象も新たに付言し、ひとつに纏めた次第です。

 

はじめに

 

 英国のEU離脱、揺れ動くヨーロッパ諸国、頻発に起こるテロ、宗教・民族対立、アメリカ第一主義を唱えるトランプ大統領の出現。方や、かっては想定さえしていなかった中華大国の復権を着々と進める、軍事・経済大国の全体主義体制の中国の出現。そして軍事大国を進めるロシア。加えて、非核化で統一ができる否かは依然として問題を残しながらも、反日思想がより強まる朝鮮半島統一国家の出現は、日本に新たな問題と課題を突きつけてくるでしょう。そうした緊迫下の、又地政学的にも大きく変貌した状況に日本が置かれているなかで、われわれは何が必要なのか、何を考え行動に移していかなければならないか、正に問われているわけです。

 

 佐伯氏はその基になるのが思想であると指摘しております。残念ながら、現代ほど「思想」が力を失っている時代もない。その思想とは、とりたてて人々をかりたてるイデオロギーと解することでも、また人間存在の深遠まで達する世界観とみなす必要もない。それはもっとゆるやかな形で世界を解釈するヴィジョンであり、そこからわれわれの行動の指標をつむぎだせる、ある程度の整合性をもった知識の体系である、と本書で記しています。片や、氏は近著『「保守」のゆくえ』のなかで、今や知識人は何をすればよいのか、誰も確信を持って述べることはできない。代わって登場した専門家と称する人々には近代を生み出した「個人の内面」への追求をするというものはない、と指摘しています。果たして日本には思想という視点・観点がなくなってしまったのでしょうか。

 

 我国の現実はどうでしょうか。テレビ等のマスメデイアに現れるのは、森友学園の国有土地払い下げの問題、加計学園獣医学部新設に関する忖度問題、つづく19日間に亘る野党の国会出席拒否と、緊迫した国際情勢を全く無視した、謂わば平和ボケの最たる状況です。私は、1920年代の大阪の松島遊郭の移転に関して、土地会社と政治家の間に不正な利益があったとした「松島遊郭事件」、更には1930年代後半の「帝人事件」を想起するのです。いずれも無罪となる、全くのでっち上げの事件ですが、「帝人事件」では内閣が倒れます。今回の忖度問題等々に関しては検察も動いていない状況下の中、野党、マスメデイアが独りよがりの正義を振りかざし、唯々、現政権を倒す為だけに暴れ回っている異常の現状としか、私には思えないのです。私は改めて、マスメデイアに作り出された世論と称するものに、時の政権が翻弄された戦前・戦中を想起するのです。

 

 果たして日本は楽園にいるのでしょうか。日本の防衛と軍事力がアメリカに委ねられていること。北朝鮮の国家権力により、この日本国土から拉致された日本人家族を救う為に、アメリカに頼まざるをえない現状等々は果たして日本は主権国家と呼べるのか。国を守る、国民を守るとは何なのか、少なくともそのような視点・観点の論議はあってしかるべし、と私は思っているのです。現状では日本の将来には希望の光などは見られず、衰亡に向かうとしか思えないのです。

 

その1.本書の序論

 

 社会が、その根底に変化しがたいものをもっているのは当然のことである。日本社会が、とりあえず「日本的」としか言いようのない、この国の社会や文化、歴史の文脈の中で作られてきたものを保持しつづけているのは、善し悪しは別にしても当然のことであろう。問題は、その「日本的なもの」が何であり、どのような意味を持っているのか、それを解釈する術を戦後の日本が失ってしまったということであろう。・・(中略)戦後日本は、アメリカ的なもの、あるいはアメリカ的文明を常に参照枠とし、思考の基軸に据えてきたということだからである。このアメリカ的なものが、われわれの生活のどこまで浸透したかという判断はまた別のことなのであり、われわれがここでいう「アメリカ二ズム」に常にモデルを求めてきたことは事実なのである。これはしばしば、ほとんどそうとは気づかない無意識のレベルにおいてそうであった。そして今日、グローバルの名のもとに、市場経済の世界的、普遍的な展開が唱えられるが、このグローバルこそまさにアメリカ二ズムの帰結にほかならない。・・(中略)『「アメリカ二ズム」の終焉』という本書の題名は、アメリカの覇権の後退といったようなことを意味しているわけではない。私はアメリカ型の文明(そしてそれは必ずしもアメリカ社会そのものと同じでない)がもたらす危険性について述べたかったのであり、アメリカ的なものに示される「超近代主義」が亀裂をあらわにし、もはやうまく立ち行かなくなるだろう、と述べたのである。そしてその見解は、アメリカの経済的覇権が再び確立されたかに見える今日でも変わらない。それどころか、本書でいうアメリカニズムは、ますます世界的な規模で不安定性を高めていくのではないか、と思われるのである。(文庫版本書19,20頁)

 

 如何でしょうか。トランプ大統領を生み出した現在のアメリカ社会、英国のEU離脱、揺れ動くEU諸国等々の現状を考えるにつき、私は氏の洞察力に感動さえ覚えるところです。今回も本書の全容を紹介するのではなく、私が共感を覚え、私なりに理解し共感を覚えたこと、特に「アメリカ二ズム」の終焉の章を中心に見、考えたいと思います。

 

その2.19世紀のヨーロッパ時代

 

 20世紀にアメリカが圧倒的な軍事力と経済力をもって多国を牽制し、それなりの国際秩序を作り出したといわれるが、その前に19世紀のヨーロッパを見ておくことが必要としています。即ち、「パックス・ブルタニカ」からアメリカに覇権が移った時、それは軍事力と経済力だけの問題だったのではない。即ち、力の相対関係だけの問題ではなく、それは「近代」の質的変化であり、「近代文明」というものの断層があった。そして、そのことは「パックス・アメリカーナ」への移行に際しても言えることなのだ。

 

 ヨーロッパの歴史を貫くものは、異質な民族、生活、言語、文化、宗教の対立と依存が、いかにヨーロッパの地理的、自然条件と深く重なっているか。そして、地理学的な条件の中で多様性を生み出し、それがヨーロッパの経済活動を生み出しただけでなく「政治」をも生み出した。ヨーロッパにおける政治の概念は、地理的なものと結びついた多様性と不可分なのであり、そして「地勢学」が「地政学」に転化するのである。そこには、神聖ローマ帝国が象徴したような、キリスト教という超越的な普遍性でヨーロッパを統一する、という中世の原理がほぼ崩れ去り、それにかわって主権国家間の国家間関係が登場するのである。

 

 加えて、フランス革命において合い言葉となった自由、平等、博愛、そしてイギリスからヨーロッパ各国に伝搬していったインダストリアリズム(産業主義)がもうひとつの価値になった。即ち、リベラリズム、デモクラシー、インダストリアリズムが近代社会を代表する価値である。加えて西欧の近代社会の形成を支えるもうひとつの重要な要素は「国民国家」の形成なのである。そして19世紀のヨーロッパを考えるとき、決定的な重要性を持っているのがリベラリズ(自由主義)の概念である。

 

 「リベラリズムという言葉が自覚的な意味を持って使われだすのは19世紀のヨーロッパである。この場合の自由の観念は、主として、個人的な意思決定、行動に対して他からの拘束が働かないぐらいの意味で、それゆえ、こうした個人的な自由を拘束する権力に抵抗することがリベラリズムの中核になる。ドイツやイタリアといった19世紀ヨーロッパの後進国にとっては、この権力はオーストリア帝国のような帝国の絶対的君主であった。それゆえ、リベラリズムの運動は同時に国家形成、独立の運動となったのである。しかし、個人的な意志や行動を拘束する権力は必ずしも絶対君主制の中から発生するとはかぎらない。リベラリズムは権力があるひとつのところに集中することを絶えず警戒する。しかしこの権力の集中ということはなにも絶対主義という形で起こるとはかぎらないのである。」(同83頁)

 

 方や、「デモクラシーのひとつの柱は人民主権であり、人民という抽象的存在が、文字通りの無制限の権力を握った時には、人民の名においていかなる専政が行われてもそれを防ぐことはできないのである。ジャコバン党の恐怖政治はまさにそのことを物語っているし、のちにはスターリニズムがその問題を再び提起したのであった。この時、リベラリズムはデモクラシーと対立する。・・(中略)そして19世紀を通じてヨーロッパのリベラリズムはデモクラシーに対する警戒心を緩めることはなかった。すくなくとも急進的なデモクラシーのもつ専制政治への傾きに対してである。」(同84頁)

 

 19世紀のヨーロッパにおいては、リベラリズムは決してナショナリズムとは対立せず、共鳴しあいヨーロッパ社会を支えたのだ。19世紀の相対的に安定していた時期、諸国間の利害を調整していたのはバランス・オブ・パワーという考え方と自由貿易の理念であった。そしてその自由貿易を支えたのは、イギリスの効率的な海軍と経済力であり、それに加え現実的で自国の利益を見失うことのない外交能力であった。そしてそのリベラリズムは極めて現実的な国際感覚と極端な変化に対する警戒心、歴史の連続性や常識に対する信頼といったものに支えられていた。そうした「現実主義」の上に、「パックス・ブルタニカ」は成り立っていた、と記しています。

 

その3.20世紀のアメリカ

 

 第二次大戦後、世界の総生産量の半分を生産した圧倒的な経済力と軍事力が、アメリカの覇権のベースとなったことは事実だが、アメリカの戦後外交の基本は、19世紀のイギリスと同様、国際的なバランス・オブ・パワーを確保することであった。加えて20世紀と19世紀を分かつ重要なことは、そのリーダーシップにはひとつは国際社会における道義的責務という観念と、「モノによるデモクラシー」というやり方である、と述べています。

 

 20世紀は理念とイデオロギーの時代であり、「力」だけがすべてではなかった。社会主義国共産主義やマルクシズムの優位を主張した。ナチズムの汎ヨーロッパ主義、日本の大東亜共演圏もそのイデオロギーを主張した。

 

 そして「戦後、最も普遍化する力をもったものがリベラル・デモクラシーであった。19世紀にはむしろ対立しあう価値であったリベラリズムとデモクラシーを今世紀は結びつけた。この結びつきを普遍的な人類の価値として世界化しようとしたのがアメリカであった。とりわけ、19世紀のヨーロッパでは、新興勢力に支えられているとはいえ、まだ危険思想であったデモクラシーを、社会の普遍的な原理まで祭り上げたのはアメリカであった。」(同124頁) 

 

 しかもその使命を「経済」を通じて実行しようとしたところにアメリカの文明史的な役割がある。そして大量生産と大量消費で大衆(消費者)を生み出したのである。アメリカは商品を通して「自由」や「平等」の観念を宣伝できた唯一の国であった。ともかくも消費財をひとつの文化のように見せかけ、ひとつの国のシンボルにまでしまった国家はほかにない。続いて、デモクラシーについては以下のように述べています。

 

 デモクラシーは19世紀を通じて、主として政治的な価値であり、理想であった。それは国政に対する人々の平等な参与を求める運動であり、その背後には、人民主権という政治理念があった。それは意志決定のやり方であると同時に、主権と統治の正当性に関することがらなのである。しかるに、アメリカニズムのなかで、デモクラシーは生活の均質化、所得配分の平等化を意味するようになってくる。ここでも「政治的平等」から「経済的平等」への転換がおこるのだ。それとともに、国家は、政治の正当性によって基礎づけられるのではなく、それが国民に対して何を提供するかによって意味づけられるようになる。国家はサーヴィス・ステイトとなり、機能的な存在と見なされる。国家とデモクラシーの関係は、人民を媒介にした統治の正当性に関わるのではなく、経済政策を媒介にした機能の遂行に関わるのだ。これが、アメリカ二ズムがスポンサーとなった今世紀のデモクラシーなのである。(同140頁)

 

 正に正鵠を得た指摘ではないでしょうか。私は僭越ながら深い共感を覚えます。いわゆるこの知識革命というべきものの遂行こそが今世紀のアメリカの役割であったわけです。そして次のように展開していきます。

 

 この「革命」がまぎれもなくフランス革命の継続であるのは、それが文化の大衆化という広範な平準化の運動だったからである。デモクラシーのもとでは「普遍化」とは「大衆化」にほかならないのである。ここに今世紀のアメリカの覇権をかってのイギリスのそれから区別する決定的な点がある。パックス・ブリタニカのもとではイギリスの文化は高い尊敬の念を払われたが、それは結局イギリス帝国領土内の支配階級にしか広まらなかったのに対し、パックス・アメリカーナのもとではアメリカ文化はいささかばかにされながらも、世界の大衆に広まっていったのである。(同150頁)

 

 いわゆる大衆の出現です。では、何故、それがアメリカニズムの終焉につながっていくのか。

 

その4.アメリカニズムの終焉

 

 戦後の冷戦体制のもと、圧倒的な経済と戦力でアメリカが自由世界の守護者になった。もうひとつは大量生産と大量消費という「モノのデモクラシー」をいち早く実現し、モノ(商品)の持つ普遍的な力によって「リベラル・デモクラシー」を普遍化しようとする遠心力が、戦後の自由世界を覆っていた。従って、アメリカによるこの「リベラル・デモクラシー」という理念を打ち出した覇権が後退するということは、この理念の旗のもとに結集した西側世界全体の問題となる。即ち、今日のもっとも正統的な価値がもはや自明なことではなくなりつつある、との佐伯氏の指摘です。

 

 アメリカ社会の没落がはじってまっているというのは別に最近になって言われ始めたのではない。60年代のヴェトナム戦争を目の当たりにして、そのような感慨を抱いていたし、並行的に起こった学生運動や、ヒッピーの中にその兆候は見られる。また、アメリカの宿命とも言うべき人種問題が新たな局面を迎えたのも60年半ばであった。では今日の現状と何が違うのか。

 

 「ジエフア―ソニアン・デモクラシーの伝統を想起するまでもなく、とりわけアメリカは政治参加に強い関心と意欲を示す国であり、キリスト教の伝統を想起するまでもなく地域活動や社会奉仕に意欲を持った国なのである。その国においてなぜ今、政治問題はほとんど経済一色に塗りつぶされ、社会生活も金銭的関心に塗りつぶされようとしているのであろうか。世界秩序を維持し自由主義を保守するというアメリカ政治の最も高貴な目標はいったいどうなったのか。

 

 ・・(中略)真の問題は、戦後アメリカの覇権を支えてきた『普遍的』なはずの理念がもはや『普遍的』ではなくなった。あるいは十分の説得力を持ち得なくなったということである。問題はアメリカの経済的利害にあるというより、今世紀のアメリカをアメリカたらしめてきたリベラル・デモクラシーの理念の崩壊にある。経済によって支えられてきたリベラリズムとデモクラシーの結合がうまくいかなくなったということなのである。さらにいえば、リベラリズム、デモクラシー、ビジネス(キャピタリズム)の三位一体という今世紀の産業社会の思想的枠組みがうまくいかなくなったということであろう。」(170頁) ではその要因は何であろうか。

 

グローバル化

 

 70年初めにブレトン・ウッズ体制が破棄され、世界経済は変動相場制に移行し、為替レートは貿易つまりモノの移動で決まらず、急速にふくれあがった資本移動に大きく左右されることに連なっていった。次のように述べています。

 

 今、自由貿易自由主義の枠の中で修正をせまられているのである。現実問題としていえば、それはすくなくとも多角的で無制限な自由貿易から、ある程度の二国間調整を含んだ「管理された自由貿易」へ修正せざるを得ないであろう。そのことは必ずしも保護主義への転換を意味するわけではないし、また自由貿易の放棄を意味するわけでもない。しかしそれより重要なことは、こうした自由貿易の修正は経済の「グローバル化」の結果だということである。資本、技術、それに労働の国境をこえた移動が激しくなればなるほど、各国の経済基盤、生産技術は似通ってきて、その結果、自由貿易の理論的根拠は失われていく。また金融のグローバル化がすすめばすすむほど「シンボル経済」はふくらんでゆき、自由貿易はむつかしくなるのである。(179頁)

 

 ・・(中略)「国家の壁」の内と外があって初めて自由貿易という議論も経済的自由主義も成り立つ。即ち自然資源、労働力の質、文化の構造、技術の性格といった広い意味での生産要素の質の国ごとの違いがあって初めて自由貿易の議論は成り立つ。だから、この近年のボーダレス化、グローバル化、市場の自由化といった最近の論調は、ある意味で自由貿易主義とは矛盾することを知らなければならない。・・(中略)「ヨーロッパの思想史の伝統の中にあるリベラリズムをもっぱら経済的自由主義とりわけ自由貿易主義に解消してしまったのは、今世紀の「アメリカ二ズム」であった。すなわち、自由貿易によって富の増大をはかり、その富をめぐって誰もが金持ちになる機会を与えられるのが今世紀の「アメリカ二ズム」なのである。(180、181頁)

 本書は20数年前に書かれたにもかかわらず、まさしくトランプ大統領のアメリカの現状ではないでしょうか。

 

 世論とは何か、世論の登場

 

 一方、アメリカニズムは大量生産と大量消費を生み出し、新たな概念ともいうべき大衆(世論)を重視せざるを得ない状況をも作り出した。その世論というものは、何か対象が見つかれば、常に感情的高揚と主観的偏りをそれに対して向ける。とすれば国際関係とデモクラシーとの関係をもう一度考え直して見る必要があるのだ。そして、以下の150年前のトクヴィルの言葉を紹介します。

 

 民主政治にしばしば欠けているものは、知識経験に基づいた先見の明である。人民は理性にたよるよりも感情にたよっている。将来のことを予見して現在の欲望を抑制したりすることのむつかしさを過小評価する。そして危機のときにおけるアメリカの民主的共和国のこの相対的な弱点はおそらく最大の障害であろう。そしてこの障害は、ヨーロッパで同様な共和国がもっている障害とは全く対照的にことなっている。この障害が一番顕著に表われるのが外交においてであろう。外交政策には民主政治に固有なほとんどすべての美点の使用は必要ではない。即ち外交政策がデモクラシーの弱点に巻き込まれることを避けよ、ということである。この指摘はアメリカのみならず日本そのものに当てはまるのではないでしょうか。そして、次のように記していきます。

 

 今世紀の社会の主役は「消費者」と「世論」ということになった。それは、19世紀なワークマンシップやリーダーシップというものとは正面から対立するものであった。「消費者」や「世論」を構成するのは「普通の人々」なのである。だから「普通の人々」が主役になった社会、それが現代というものである。だが現代はそれ以上のものを「普通の人々」に与えた。それは事実の問題として「普通の人々」を主役にしただけでなく、価値の問題としても、「普通の人々」こそが価値の基準だとしたのである。「普通の人々」の答えが社会とって正解なのである。しかし、まさにそこに現代文明の解きがたい困難がある。(279頁)

 

 日本の世論の現状

 

 むろんこうしたことは、アメリカだけの現象ではない。日本においても事情は同じだ。「世論」は国際社会の相互依存などおかまいなしに「一国平和主義」を主張する。経済的にも安全保障上も複雑に絡み合ってしまった今日の世界においては、よかれあしかれ、日本一国の安全といども、「世界」と結びつきあっていることは明らかなのに、である。湾岸戦争以降高まった反米的でナショナリステイックな気分は、それが「世論」と見なされたとたんに危険なものとなろう。この「世論」は、日本の安全保障を確保する何らの現実的な外交手段も提示しないまま、いたずらに「大国」アメリカを批判するだけなのだ。(190、191頁)

 

 たしかに「一国平和的日本主義」の方はひとつの理念をもっているともいえる。しかし、この理念があまりにも空想的で現実離れしてことを別としても、コスモポリタンな絶対的平和主義というような理念が、たとえばヨーロッパの政治思想史のなかに流れているとは私には思えない。唯一それを思想の課題にしたのはガンジーの無抵抗主義ぐらいであろう。しかし、それも、きわめて実践的性格をもったものだった。端的にいえば、それもまた抵抗の戦略として選び取られたものであった。もしわれわれ「自由」を真に重要なものだと考えるならば、われわれはいま改めて自由の意味について考え直さなければならない。消費者主権に基づく経済的自由主義も、絶対的平和による自由の観念も、ともに強い力はもたない。アメリカニズムのもとでのリベラル・デモクラシーは明らかに限界にあると思われる。(312、313頁)

 

 如何でしょうか。佐伯氏のこの指摘は20年前のものなのですが、私は深い共感を覚えるのです。今日のアメリカの最大の問題は無責任な個人的自由の観念が中間層から上の、どちらかといえば知的な階層に急速に広まりつつあるように思われる。即ち、知的エリートの無責任な状況を氏は指摘しているわけです。

 

 では日本の現実はどうでしょうか。日本の無責任な世論と称されるものが時の政権に大きな影響を与えてきたのは、戦前、戦中は新聞、ラジオ。戦後はテレビ、新聞、週刊誌等々のマスメディア等、特にテレビのそれはもはや制御できないものになっていると、私は考えています。昨今のテレビキャスター、ジャーナリスト、学者、謂わば「専門家」称される人々のテレビで流される言動、いわば独りよがりの正義の無責任な言動が、世論形成に大きな影響を与えている。しかし、そこに潜むものは正義、いわんや思想ではなく、単なる商業主義に毒された言動にすぎない、と私は考えています。謂わば思想の消滅といった現象なのです。

 

 尚、佐伯氏は言論について次のように述べています。

 

 政治の空間は多かれ少なかれ、言葉や表現によって組み立てられている。だから政治の空間での自由は言論や表現の自由と不可分だ。しかしもそれはただ、言論が制限されたり検閲されたりということだけでなく、表現者としての真の内的な自由、つまり、真実を語ること、説得すること、言葉に対して責任をもつことなどを含んでいるはずだ。(139頁)

 

 冷戦以降の日本の位相

 

 実は日本社会こそが本書でいう「アメリカニズム」の典型的な担い手となったのである。そう考えなければ、昨今の日本における「消費者」という概念と「世論」という概念に与えられた特権的な位置を理解することはできない。日本の経済が本当に「消費者」によって動かされ、日本の政治が本当に「世論」によって動かされているのかどうかについては、簡単に判断できないだろう。だが少なくとも言えることは、経済が「消費者」のためにあり、政治が「世論」によって

方向づけられるのが正当だという強固な信念は広がっている。(309頁)

 

 佐伯氏はこの第4章・「アメリカニズム」の終焉を、次のような印象深い文章で閉じます。

 

 こうして近年のアメリカの衰退が意味するものは、必ずしも、経済的、軍事的のものではなく、むしろ「現代」文明が掲げ、担おうとした価値、すなわち、リベラリズムキャピタリズム、デモクラシーといった価値の衰退、あるいはこの三者の優雅な結合の崩壊である、というのが私の考えなのである。あるいはビジネスがもはや、リベラリズムとデモクラシーを結びつける役割を果たさなくなったということだ。・・(中略)ここで確実に言えることは、これはただアメリカだけの問題ではないことだ。「アメリカニズム」は繰り返していうが、アメリカ一国の話でもないし,アメリカが世界に押しつけたものでもない。ビジネスあるいは経済という絵筆によって世界の地図に自由と平等の色を塗り込んでゆくこと、これが「アメリカニズム」の本質なのである。この「アメリカニズム」が20世紀を特徴づける基本的な柱だったとするなら、その崩壊は「現代」そのものの崩壊だし、それを「危機」というなら、それは「現代」そのものの危機なのである。(209,210頁)

 

その5.「グローバリズム」という虚構

 

 1993年に本書の初版が出され、1998年にはグローバリズムに関しての増補を加えております。アメリカニズムについても極めて重要なので、私なりの理解ですが以下、紹介します。

 

 個人的な自由主義、民主主義、そして市場経済の理念の結合を普遍的なものと見なすアメリカニズムの土台は、絶えざる技術展開とその成果の大衆化可能とする大量生産方式であり、それを受け取る大衆社会(世論)の形成であった。しかしながらその理念が基本的なところで亀裂が生じ、衰弱が起きている。そうした流れの中で、グローバリズムが進展している。その中心をなすのは企業活動そして資本の動き、即ち経済の領域におけるボーダレスな活動が今日の大きな焦点なのだ。その国際資本移動は文字通りの意味で国境がなくなった世界を駆け回っているわけでではなく、むしろ国家が厳然として存在するゆえに、その国境を利用したゲームなのだ。

 

 その結果、「国の政策の妥当性の判断が、政策当局や国民ではなく、国際的な投資家たちが構成する市場にゆだねられているということである。政策当局は、その政策を市場がどのように評価するかという観点から行動をせざるをえないのである。こうして市場の動向が政策の基本方針を動かしてしまう。少なくとも、政策の独立性は市場の圧力にさらされ、自立性や裁量は失われつつある。つまり、市場から独立した政策というこれまでの前提はもはや成り立たない。」(331頁) 

 

 このグローバル市場の進展は、人々を律し、また結び付ける社会的エートスを限りなく希薄化させる。市場は、利潤機会に敏感で、価格にすばやく反応する人々の群れを生み出す。決して倫理的な人間など必要としないのだ。ではそれへの対処はあるのか、ないのか。

 

 それは「主権国家という、これまでわれわれの依拠してきた発明物を,グローバルな時代に適応させて活用するというやり方である。近代主義の矛盾とグローバリズムという超アメリカニズムのもたらす不安を牽制し、調整する実際的なやり方は、コスモポリタ二ズムとファンダメンタルズの間で『ナショナルなもの』に依拠する以外に考えられない。」(383頁) それを氏は「シヴィックナショナリズム」と呼んでいます。

 

おわりにあたり

 

 佐伯氏の一連の著作を読み終わった感想は、今の時代に必要なことは、まさしく歴史への深い洞察と、思想の重要さ、ということでした。では必要な思想とは何か。それは単なる知識の集積ではなく、物事を判断する力、ことの本質を追い求める、「個人の内面への希求」ということなのでしょう。

 

 揺れ動くヨーロッパ諸国、民族と宗教との対立、テロの続発、そしてアメリカ第一主義を掲げるトランプ大統領の出現。その現状等々を、あたかも著者は20数年前に既に見通していたかのように感じました。

 

 方や価値観が大きく異なる、想定外の共産党独裁政権の中国の「中華大国への復活」とその行く末はどうか。そして、その中国を背景に朝鮮半島統一国家の出現。加えて軍事大国のロシア。世界が大きく変動している中にありながら、日本の政治の現状は如何。言論に責任を持つ報道機関がない日本。加えて、昨今の国会討議の有り様、頻繁に起こす野党の審議拒否、採決欠席の現実は目を覆うばかりです。私には、言葉の意味においても理解できない「リベラル」を掲げる立憲民主党を初めとした野党の在り様は、ただ安倍政権を倒せばいいとしか思えないのです。また、共産党も名称を変えて日本共産党として存続してはきたものの、その綱領はどうなっているのでしょうか。他の国との友好関係はあるのでしょうか。あるとすればどこの国なのでしょうか。日本共産党は異質の存在で、現在以上の進展はないと考えます。いずれにもせよ私は、政権交代の意志も、思想も、政策も、人材もない、弱小の野党群を目の当たりし、政党政治の末期的現象のみならず、日本は衰退の方向に向かっている兆候が色濃く表われていると考えています。

 

 2018年5月24日

                         淸宮昌章

参考文献

 

 佐伯啓思『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ)

 同 上『「アメリカニズム」の終焉』(中公文庫)

 同 上「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義上」(中公文庫)

 同 上「ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義下」(同上)

 同 上「20世紀とは何だったのか 西欧近代の帰結」(PHP新書

 同 上「日本の愛国心 序説的考察」(中公文庫)

 同 上「大転換 脱成長社会へ」(同上)

 同 上「正義の偽装」(新潮新書)

 同 上「現代民主主義の病理」(NHKブックス

 同 上「反・幸福論」(同上)

 同 上「日本の宿命」(同上)

 同 上「反・民主主義論」(同上)

 同 上「さらば、資本主義」(同上) 

 同 上「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書) 

 同 上「倫理としてのナショナリズム」(中公文庫)

 同 上『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ

 同 上『「脱」戦後のすすめ』(同上)

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 同 上「保守の真髄」(講談社現代新書

 ケント・ギルバート「リベラルの毒に侵された日米の憂鬱」(PHP 新書)

 他