清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

佐伯啓思著『「保守」のゆくえ』を読んで思うこと

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まえがき

 

 ここのところ、個人的事象につき、数本の投稿をしてきました。今回は本来の軌道に戻り、読書後の私の感想など記して参ります。

 

 佐伯啓思氏の著作については、今まで「淸宮書房」で「日本の愛国心」、「反民主議論」、「アメリカ二ズムの終焉」、「現代民主主義の病理」、「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を取り上げてきました。掲題の「保守のゆくえ」は氏の『「脱」戦後のすすめ』に続く後編ともいうべき著作です。今年1月21日に自裁された氏の永年の友人である西部邁の「保守の精神」をできるだけ継承したいとの思いで書かれたとのことです。私としては、佐伯氏に僭越ながら大いに共感を覚えると共に、私のもやもやした頭をだいぶ整理整頓をしてくれた、と思っています。本書の「まえがき」で次のように記されています。

 

 本来、イギリスに誕生した「保守主義」は、人間の理性的な能力を過剰なまでに信奉し、自由の実現を無条件に肯定し、科学や技術革新を盲進して、その力によって社会を急激に変革することを求める「進歩主義」に対抗する思想であった。社会変革を求めないわけではない。しかし、変化や変革は過激で社会秩序を崩壊させるようなものであってはならない。その国や場所の歴史に離れたものであってはならないと考えるのが保守である。(4頁)

 

保守思想の基本的論点

 

 佐伯氏は基本的考えを次のように述べます。

 

 第一 冷戦以後のアメリカ主導のグローバリズムの世界規模の文明は、西洋の近代主義が切り開いたものであるが、それは、確かな価値や秩序原理を見失って混乱状態に陥っており、必然的にニヒリズムに陥るであろう。

 

第二 自由主義や平等主義、市場競争による富の増大、科学の進歩と技術革新に対する信奉と期待、即ち「進歩主義」はニヒリズムを増幅させる。従い、保守は進歩主義を牽制しつつ、ニヒリズムへ傾斜する現代文明に抗いする思想でなければならない。

 

第三 「保守」が拠り所とするのは、それぞれの「国」や「地域」で自主的に展開し、歴史的に生成した慣習や社会構造、文化や価値観であって、それを急激に変更するのではなく、漸進的であるべきである。その背後には人間の理性や合理的能力の限界という認識があるのだ。

 

第四 その帰結として、保守思想は、普遍的価値を絶対的規範として唱えるよりも、まずは国や地域に根ざした土着的で歴史的な価値を重視する。多様性の尊重がなければならない。

 

第五 その点で、日本の戦後の歴史はいささか異様なものであった。あの昭和の大戦争(大東亜・太平洋戦争)の意味づけは決して簡単なものではない。にもかかわらず、戦後日本人は、あの戦争を侵略戦争と断じて、その反省の上に戦後の価値を組み立てて、戦前の日本的なもの(価値体系、文化、社会構造)を否定した。従い、日本の歴史的伝統は、少なくとも公式的な言説においては、戦前と戦後の間に大きな断絶を作り出した。とすれば、「保守」とは「戦後」を疑う思想でなければならない。「戦後」を象徴する憲法を疑うのも当然の帰結であろう。

 

 第六 日本の「戦後」はポツダム宣言に示されるアメリカの戦争観・歴史観によって礎石を与えられ、事実上アメリカが制定した平和憲法日米安保が戦後日本の「統治体制」の基本的な枠組みとした。日本はアメリカ的思想(自由主義、民主主義、歴史観、国際関係論、市場経済)の圧倒的な影響下におかれ、日本の歴史的伝統を排除した。この意味で、戦後日本の対米関係やアメリカの文明に対する批判的認識なくして日本の「保守」はありえない。

 

 第七 保守主義とは一部の国の指導者やエリートだけのものではない。自国の伝統的な価値や文化の上質のものへの尊敬と、それを守るという日常的な営みによって支えられる。それは他国の愛国心を認めた一定の愛国心を伴う。即ち、保守とは一部の階層や集団の専売特許ではなく、自国の歴史的伝統や自国の自立に対する国民的な関心と関与によって支えられるものであろう。

 

 第八 日本の保守は日本の伝統を重視する。その伝統は固定的にとらえるものではない。古代から続く自然観・死生観・宗教観があり、それは大陸から輸入され日本化された仏教、儒教、更には中世から近代において様式化された美意識と西洋の影響のもとに定着した日本なりの合理主義や科学的思考がある。即ち、保守思想は意識の表層に現れている価値や思想だけでなく、無意識の層に堆積された価値へと目をむけなければならない。

 

「近代日本のデイレンマを忘れた現代日本の楽園」

 

 そして、戦後という時間の不可思議さとして、「われわれであることの矜持」とまではいかなくとも、「自国性」ともいうべきものへの問いかけがなくなってしまった。「平和主義」のなかで経済成長を目指すという、戦後のわれわれの共通の経験が、われわれを他国からの脅威に直面するなどという事態から隔て、われわれはほとんど「楽園」のなかいにいるようにみえる。1952年にアメリカの占領政策が終わり、本当の意味での「戦後」になった後も、日本の国土と国民の生命の安全を米軍に委ねるという「準占領政策」は続いている。明治との大きな違いは、「近代化」と「(準)植民地化」を戦後日本は無条件で歓迎したことになる。

 

 福澤諭吉が唱えた「一心独立、一国独立」どころではなく、彼の近代日本の危惧は現実の悲劇へといたる。即ち、近代日本のデイレンマは日本のなかに亀裂をもたらし、亀裂のなかから生み出された軍事的な冒険主義と、「日本的精神」への回帰は、最終的には大東亜・太平洋戦争の特攻へと行き着いたのである。

 

 現実は大方の政治家も知識人も「暗黙の植民地化」を歓迎した。保守派の政治家はどこか躊躇しつつも、日米同盟こそが日本の国益だと自らを納得させた。一方、進歩派知識人は、日本がアメリカの準植民地であることなど全くふれもせずに平和と民主の戦後日本を賞賛して、フェイク・ニュースの片棒を担いだ。その知識人も今や、何をすればよいのか、誰も確信をもって述べることはできない。その知識人に代わって、各種の「専門家」と称する人々が登場し、政治の場面(マスメデイアも含めて)で「専門知識」を披瀝する現状である。そこには、近代を生み出した「個人の内面」への希求はもはやない。われわれは、改めて、日本のたどった「近代のデイレンマ」へと目を凝らし、近代化やグローバル化のなかにおける「日本人であること」の意味と葛藤を問い直すほかないだろう。

 

 私の下世話な感情になりますが、テレビの報道番組と称する中に頻繁に大学教授、あるいは評論家、いわゆる専門家と称される人たちが、何の芸能があるのか分らない芸能人達と頻繁に登場します。以前であれば、専門家は、あやふやな世論形成に荷担する番組には躊躇、もしくは人としての矜持として断ったと思うのですが、嬉々として登場しているように私には見えます。このような不思議な現象はいつ頃から始ったのでしょうか。私はそのような報道番組と称するテレビは実に不愉快で、即切ります。

 

 元に戻しますが、佐伯氏は本書で、「価値の喪失」、意味ある生とは何か」、「歴史について」、「国民国家のために」の章へと展開していきます。今回もその全てを紹介するのではなく、今の世相というか、日本の状況に鑑み、私が共感、感銘を覚えた点を取り上げて参ります。

 

1.戦後の精神の空洞化 団塊の世代

 

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 小林秀雄が「歴史とは上手に思い出すこと」と述べているが、70歳前後のいわゆる団塊の世代が鬼籍には入りつつある。そして、その子供たちが社会の正面舞台に躍り出てきている現在、果たして団塊の世代はいかなる先行世代の遺言を受け取り、それを、自らの経験にてらして、どのように次の世代へと受け渡すだろうかが問われる。ただ、その作業をとてつもない経験の当事者でありすぎる戦争世代に求めることは不可能なのだ、との指摘です。私はその団塊の世代とは少し年齢が高いわけですが、はっとさせられます。省略しておりますが、佐伯氏は次のように記しております。

 

 団塊の世代的責任は、その人生の収支決算が、同時に戦後日本の収支決算と重なり合うという特異な構造を持っている。この世代の人生の回顧が同時に、少々大げさにいえば、戦後日本の歴史的意味を表現するという作業と無関係ではありえないのである。

 

 団塊世代の精神的空白、精神的空虚感はそのまま戦後日本の軌跡と重なり合い、その背後には「歴史観」という問題がある。その歴史観の空洞の中心にかって大東亜戦争と呼ばれた「あの戦争」があり、それに続く「戦後」がある。その場合、困難の中心になるのは、「戦後」が「あの戦争」に引き続いて生起したという点なのではなく、「戦後」が「あの戦争」によって生起させられた、という点である。ポジテイブな意味でもネガテイブな意味でも、「戦後」を生み出したのは「あの戦争」の敗北なのである。したがって、「戦後」の自己解釈は「あの戦争」についての了解と不可分なのだ。だがその了解がなりたつためには、戦争世代から受け継がれ、語られてきた経験が共有されるだけでなく、その経験の諸断面を一定のイメージにまで構成して、共通の物語の高めるという、共同の想像力が要請されるのである。

 

 この作業こそが、戦後第一世代に与えられた課題だったはずだが、彼らはその責務をまっとうできなかった。戦後第一世代には「戦争を知らない子供たち」という特権が与えられた。つまり、団塊の世代とは、「あの戦争」と「戦後」の断絶の上に生み出された世代だった。そして言葉を失った第一世代の空虚感とは、その子供たちの登場とともに、必要な責務をまっとうしえないままにもはや「戦後」が過ぎ去りつつあるのではないかという焦燥感でもあろう、と記しております。

 そして、その焦燥感は中国などの反日運動といった事態に遭遇したときに表面化する、と記しております。如何思われるでしょうか。私としては納得するところです。

 

2.中国の対日歴史観

 

 中国は、靖国や歴史教科書を取り上げ、日本は「正しい歴史観」を持っていないという。中国には、日本の侵略と虐殺を言えば全てが正当化されるといわんばかりの思い込みがある。いまだに「あの戦争」なのである。果たしてその歴史観はどこからくるかといえば、それはアメリカなのである。

 

 そもそも、日本を侵略戦争のかどで告発したのは当のアメリカであった。東京裁判において人道に対する罪から南京大虐殺にいたる「日本の侵略性と残虐性」を世界に知らしめようとしただけでなく、日本の侵略によって開始された「太平洋戦争」は、日本の一方的な罪過から自由・民主主義文明を守る戦いであったと主張したのはアメリカであった。アメリカは一方で、「太平洋戦争」という言い方によって、大東亜戦争がアジアを舞台とした日本と西洋の戦争であるという日本人の意識を切り捨て、それをファッシズムと自由・民主主義の戦いという抽象的な歴史観に置き換えると同時に、・・(中略)この戦争を満州事変から始る「十五戦争」とみる立場も示した。両者を組み合わせれば、アジアに対する日本の侵略を自由や民主主義との戦いの名においてアメリカが制裁したという「正しい歴史観」になる。(59、60頁)

 

 端的に言えば、あの戦争は、日独伊のファシズムによる平和的で民主的な国家への侵略であった。ファッシズムは、勝利するはずがない。自由や民主主義を守る戦いにアメリカは勝利し、日本の錯誤に対しては道徳的な裁きと民主化の教化が必要なのだ、とうことです。

 共産党中国は東京裁判の当事国でも、サンフランシスコ条約の参加国でもないし、又中国が自由と民主主義の為に戦ったわけでもなく、共産党の中国は戦争に勝利したともいえないであろう。ただ、中国政府の反日戦略は、単にアメリカによる東京裁判史観という「正しい歴史観」をそのまま利用しただけである。

 日本の戦後という年月は、果たして、アメリカによるこのような歴史観の捏造を忘れ去るにたるだけの時間なのであろうか。「戦後」とは侵略国家日本の近代化であり文明化である、というアメリカ産の歴史観によって見事に染め上げられたのである、との指摘です。皆さん、如何思われるでしょうか。

 

 「戦後日本が、自前の歴史観を持つとはいわないまでも、西欧の啓蒙的進歩主義近代主義を通俗化したアメリカ流の解放史観に対してほとんど抗するすべを持ちえなかったとろに、今日の日本の無残な姿と世論の混乱があるというべきであろう。」(62頁)、と記しております。私は賛同するところです。

 

3.無・意味化

 

 ニヒリズム状況の「意味の喪失」のなかでこそ、かってない「意味の氾濫」が生じる、と氏は指摘します。即ち、あらゆるものが、にぎやかに、あわただしく自己宣伝と自己主張を始める。内実があろうとなかろうと、何かがあるように宣伝し、広告する。すべてのものに確かな意味がなくなる時代は、あらゆる無意味なものが意味を喧伝する時代となる。「意味の無意味化」はまた、「無意味なものの意味化」である。昨今の日本でこそ、そうした状況が現れ、とりわけその光景は政治とメデイア、特にテレビメデイアを巡って顕著で、この十年ほどの間に、おぞましいまでの勢いで、もはや誰にも制御不能までに一気に噴出している。

 

 その発端は小泉純一郎政治の登場によって、従来の政治手法が変化した。即ち、小泉氏は経済財政諮問会議のような学者、専門家、経済人などの民間人による方針が打ち出される。そして挑発的なやりかたで、自民党の「抵抗勢力」や「官僚」らによる「抵抗」をひきだす。その上で「改革」対「抵抗」というイメージを作り出してマスメデイアに訴え、世間の支持を調達する。重要なものはマスメデイによる支持の調達であるが、それが意味のある議論にもとづくものであれば、その手法は悪くない。ただ、80年以降のポストモダン的な価値喪失のニヒリズム文化にどっぷり侵された日本社会のなかで「意味ある」議論を期待する方が無理なのだ、との指摘です。

 

 現在、大きく変貌するかのヨーロッパ。そして朝鮮半島においては、非核化の統一国家ができるか否か、問われているにもせよ、反日思想が強い国家出現の可能性が更に強まる朝鮮半島。そして、その背後には新たな軍事・経済大国の全体主義の覇権大国化を更に強める中国。加えて軍事大国のロシアの動き。このような状況にあるにも関わらず、日本の現状はどうでしょうか。また、近々の問題としては、朝鮮半島統一国家が出現の結果、朝鮮民族の人々が祖国の再建の為に帰国するより、むしろ祖国から日本を含め他国への脱出する人々が圧倒的に多くなるのではないでしょうか。中国についてもそうした脱出の現象は現在よりも更に強まりましょう。尚、日本を脱出し他国に逃れる日本人はいないことはないでしょうが、極めて少ないでしょう。この落差は何なのでしょうか。

 

 いずれにもせよ、これからの朝鮮半島における状況は、日本に極めて厳しい現実を突きつけると考えます。そうした諸々の危機が深まる可能性が極めて強いなかで、現在の国会における忖度問題等々が報道のメインを占めている現状は、日本が楽園にあるかの如き、平和ボケの典型的状況ではないでしょうか。どこかの国がこの日本の現状を喜んでいるのではないでしょうか。それは目に見えている、と考えますが。

 

 氏は次のように述べています。重要な指摘なので紹介致します。

 

 テレビは本質的に「無・意味」なメデイアである。これは、個々の番組が「無意味」である、ということではない。そうではなく、テレビは本質的に世界を断片化し、統一性を解体し、真理性を担保せず、視聴者に対して、感覚的で情緒的で単純化された印象を与えるものだからだ。それはテレビメデイアの構造的な本質なのである。そこにはよいも悪いもない。われわれは何よりもまず、この種の「無・意味化」へ向かう大きな流れの仲に投げ込まれていることを知らなければならない。この現代文明の構造から抜け出すことはたいへん難しいとしても、そのことを自覚することが不可欠なのだ。私には、欧米の民主政が、やはり同様な構造を持った視覚メデイアにさらされながらも、日本と比してまだしもかろうじて健全性を保っているのは、この種の自覚と自戒の有無にあるように思われるのである。(90頁)

 

4.ポツダム宣言の呪縛

 

 「2014年9月、10月の論壇は、とりわけ保守系ジャーナリズムは朝日新聞攻撃一色になった。いわゆる従軍慰安婦報道の誤報を朝日が認めたからである。朝日が弁解の余地もない失態を犯したことは疑いもなく、ジャーナリズムとして致命的といわねばない。」(159頁)そうしたことに関連し、佐伯氏は次のように重要な指摘を展開していきます。

 

 この構造が朝日新聞及びそれに追随する朝日的サヨクをして、自らをもっとも権威ある言論人とみなすことを可能とした。・・(中略)彼らは概して自らを知識階級に属するとみなす。この自己陶酔的な特権化を可能としたのは、日本国民である限り、戦後民主主義と平和主義に対しては、誰もが「公式的」には正面から反対できないからである。ここに朝日新聞の持つある種の権威主義と同時に驕りが生じる。・・(中略)あの侵略戦争への反省、懺悔と改悛、そして民主と平和という「正しい」戦後の実現、という「物語」の公式化が、進歩的知識人という、戦後日本に特有の奇妙なカテゴリーを生み出したのである。(161頁)

 

 民主主義においても、人は、全てを論じうるわけではない。タブーは存在するのである。だからこそ、戦後民主主義は自らを特権化できたのであった。なぜなら、彼らは、自らが依拠する価値への反論は許さないからである。自らを批判する言論を封鎖したのである。戦後民主主義を正当化するあの公式的な物語に対する批判を封鎖したのである。したがって、戦後民主主義は、ある種の言論封鎖の上になりたっていた。自らの立場への言論を排除した上での言論を排除した上での言論の自由を唱えることの欺瞞が、戦後民主主義をいかにもいかがわしいものにしていたのである。今日では、この言論封鎖は、「政治的正義」や「公式的記憶」(世界記憶遺産などというものまで登場する有様だ)、差別用語の使用禁止、放送禁止用語などという形をとっている。民主主義はまさしく全体主義を内包しているということになろう。

 

(中略)しかし、問題の本質はその先にあって、侵略戦争に対する反省によって誕生した民主と平和の戦後というあの戦争を公式化したのは、戦後日本そのものであったのである。別に朝日とサヨクだけのことではない。少なくとも、公式的には、政府は常にその見解を表明してきた。自民党も大半のいわゆる保守派も、この公式的物語を受け入れたのである。占領政策の一環として制定された戦後憲法を受け入れ、サンフランシスコ条約によって平和主義路線を維持できたことをよしとし、この平和憲法のもとで日米同盟を確保してもっぱら経済成長を追求することこそが日本の国益である、という。いわゆる保守派の現実主義とはおおよそこうしたものである。・・(中略)日本は確かにポツダム宣言を受け入れた。それを受諾することで戦争を終結させた。しかしその背後に横たわっている歴史観・戦争観まで受け入れたわけではない。・・(中略)結局、われわれは、様々な悪に対して自由、民主主義の正義が勝利し、それが世界化するというアメリカ型の歴史観を信じてはいない、ということになる。とすれば、ポツダム宣言の背後にある歴史観まで受け入れたはずではないのである。(162から166頁)

 

 如何でしょうか、私は今日の混迷する世界の現状、並びに、日本の憲法9条改正を巡る世論の現状を見るに、私はその通りと思います。

 

5.「八月十五日」と近代日本の宿命

 

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 1945年8月15日に、日本は降伏を決め、9月2日に正式に降伏し占領が始り、戦争が正式に終結するのは1952年4月28日であった。「8月15日」は事実上戦争が終わったと見てもかまわない。終戦の日としてかまわないが、そこから「戦後」が始ったわけではない。ましてや、丸山眞男のいう「復初の説」のように、「八月十五日」こそは、日本の戦後の民主主義や平和国家への第一歩であったなどというわけにはいかない。これは当たり前のことではあるものの、そのことを口にすること自体、稀であった。別に封印されていたというわけではない。何となく忘れ去られてしまったのだ。そこにわれわれの「戦後教育」の奇矯さがあると、指摘しております。

 

 結果的にみれば、占領によってなされた、憲法や民主主義や教育改革や経済改革やそしてなかんずく侵略戦争史観など、もろもろの「アメリカ式改革」は、サンフランシスコ条約でむしろ固定化し、既成事実となってしまったからである。サンフランシスコ条約は、一方では確かに日本の名目上の「独立」を保証したものの、それは占領政策の実質的な確認でもあった。そして、今日、われわれは、あの戦争は、ドイツや日本による侵略戦争であり、英米の民主主義への挑戦であった、というアメリカ的歴史観をほとんど疑いもなく受け入れてしまった。(195頁)。

 

 そしてあの戦争は近代日本にとっての国民的な悲劇であったと続き、『林房雄の「大東亜戦争肯定論」を全面的に肯定する必要はないとしても、これをまた全面的にさけることもできないであろう。ロシアの南下や英仏の接近から始まり、ペリーの黒船来航で決定的になった「東亜百年戦争」という歴史観を退けることはできない。問題は「東亜百年戦争」のはらむ矛盾にあり、その悲劇性にある。』(195,196頁)との見解です。すなわち、日本近代のほとんど宿命的な帰結であり、西洋列強からの圧力のなかで自立をはかった日本の近代化は、それがまさしく成功したがゆえに列強との対決をもたらすという宿命的な矛盾である。ここに近代日本の悲劇がある。そして、

 

 西田哲学のもとに参集した京都学派の学者にとって、日本的精神の核心は、西田のいう「無の思想」だったからだ。そしてここにどうにもならない京都学派の敗北が予定されていた。・・(中略)私には、大東亜戦争へいたる道程とその敗北は、ほとんど予定されていたかのように見えてしまう。それは、大東亜戦争は、近代日本の宿命的な矛盾のほとんど必然の帰結であり、ここで運命などという言葉は使いたくないものの、ほとんど歴史の「運命の如きものと」さえ見えるのである。(200、201頁)、と第三章・「歴史について」の最後に記しております。

 

 私は昭和の時代が、魔法の杖がぽんと叩いて魔法の森にしてしまった、との史観には頷けません。佐伯氏の歴史観・思想には多くの異論もあるでしょう。ただ、日本憲法を不磨大典の如き扱い、憲法論議、いわんや9条の改正などは全く論議以前のことで、現在の日本国憲法は絶対的存在、いわば戦前の天皇神格化と同じになっている現状です。世界が大きく変貌し、更にその傾向を強めるなか、こうした日本の現象は、世界的に見ても極めて異様・特殊なことではないでしょうか。私は本書における佐伯氏の歴史観、及びその指摘に共感を覚えるのです。

 

 今回も何か急ぎ過ぎ、私の理解不足は否めず、単なる私の断片的な感想に終わっております。是非、本書をお読み頂ければと思います。

 

 2018514

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思『「保守」のゆくえ』(中公新書ラクレ

 同   『「脱」戦後のすすめ』(同上)

 同   「アメリカニズムの終焉」(中公文庫)

 同   「西田幾太郎」(新潮新書

 同   「日本の愛国心』(中公文庫)

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 吉田満「散華の世代から」(講談社

 三谷太一郎「日本の近代化とは何であったか」(岩波新書

 潮匡人司馬史観と太平洋戦争」(PHP新書

 他

 

 

  

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その3 

 

続編を記すにあたり

 

 以下の投稿は3年前のものです。丁度、72歳の時点で、強引ではありましたが全ての仕事というか業務から身を引きました。私は三男坊ですが父親、二人の兄がそろって75歳で他界していたことも何か私自身、それからの人生を考えたのかもしれません。そんなこともあったのか現役を離れて数年が経った75歳の時点で、改めて自らの生き方というか在り方に大きな影響を与えた四人を挙げたのかもしれません。今現在では、そんなことを挙げるのもおこがましい、と思っております。

 

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 先ず、学生時代に鮮烈な印象を与えた むのたけじ元朝日新聞社の記者で終戦後、戦時中の自らの記者としての責任をとり、更には報道機関としての新聞社のあり方そのものに抗議するかのように朝日を辞め、故郷の秋田県横手でタブロイド版新聞「たいまつ」を家族と発行されたジャーナリストです。加えて、生意気な言い方になりますが私の感性に彩を与えた、緻密な美しい日本語で表現する哲学者とも言うべき森有正と、その弟子でもある辻邦夫。そして吉田満であります。

 

 以下の駄文は7年ほど前に、吉田満他にも関連して個人的な私の思いを記したものです。今、思えば赤面の至りですが、私が取り組んだ企業再建の記憶の関連として残しておこう、と思ったのでした。

 

某企業の再建・再生

 

 平成18年の10月、非鉄・機械専門中堅商社のオーナー社長であった畏友が急逝し、その経営の継続を懇請されました。僭越になりますが、私を頼ってきたのはその会社なりの事情、理由があります。私としては引き受けるには大きな危険と、場合によっては私の家族にもその影響が及ぶ危惧を抱きながらも、覚悟を決めて経営することを決断しました。その後、3年強に亘る役員・社員各位の涙ぐましい努力と協力の下、ほぼ予測どおりの再建軌道に乗り、最大の懸案事項であった税務調査も税務当局の超法規的扱いを頂き乗り越えました。顧問契約の税理士を含め誰一人の処分者も出さず、企業存続の基礎ができ、後継者も出来たと判断し、税務調査終了後の翌年の株主総会で会社を退いた次第です。

 

 人の努力、誠意は必ず伝わるのだとの感動さえ覚えた貴重な経験でした。私が経営を引き受けたその根底には友人遺族、及び彼の友人たちを含めた皆さんからの懇請の為だけではなく、役員・従業員並びにその家族を救うのだとの、私なりのひとつの正義感が後押したように思っていました。果たしてその正義感の正当性があるのか否か、時折悩むところでもありました。

 

その1 吉田満のこと

 

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 心に葛藤を持ちながら企業再建・再生の業務に追われていましたが、ふと自分を省みることが必要になり、改めてその時、吉田満に立ち戻ったわけです。1980年代にかけ、ニューヨークで私が苦闘している時でした。吉田満「鎮魂戦艦大和」に出会い、臼淵大尉の場合、祖国と敵国の間、戦艦大和ノ最後の章を読み進め、大きな衝撃と感銘を受けました。大げさな表現ですが、自分を取り戻したわけです。その後も「散華の世代から」、「戦中派の死生観」、「提督伊藤整一の生涯」の著作を読み通しました。吉田満は私にとって、その後の私の人生というか、物事を考える場合に大きな影響を与えてきたわけです。その後、改めて吉田満文集・保阪正康編「戦艦大和と戦後」を併読しながら、吉田満とほぼ同年代の戦中派・色川大吉「若者が主役だったころ わが60年代」他も読み進めました。

 

 私に心の支えを与えた吉田満は、戦艦大和の「電測士官として、内外の通信・情報に聞き耳を立てる立場にあったことと同時に哨戒直の少尉として、艦橋という司令塔にあって、司令長官、艦長、参謀長、航海長といった『大和の幹部』たちの素顔を数米の距離から観察できたことである」(粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」 280頁)と記されています。彼は戦争・戦闘そのもの、まさに生と死そのものを体験し、何をすべきだったのか、否、していなければならなかったのか。この戦争は何であったのか、更に生き残った者の責任として自らはどう生きるべきなのか問い続けました。戦後は日銀に入り、ニューヨークにも駐在するなど日銀の幹部として生き、1979年に56歳でその一生を閉じました。ちょうど私がニューヨーク駐在二年目の年でした。

 

 吉田満は戦後、カトリック(その後、死の間際に奥さんのプロテスタントに改宗)に入信します。そしてカトリック新聞で「あの戦いでも見事な死を見なかったのではない。少なからぬ人が、最後まで敢闘し、従容として散華した。多くは仏教者であった。だがそこに物足りぬ気持が捨て切れなかった。なぜか。彼らにおいては、立派に生きることがそのまま真っすぐに立派に死ぬことにつらなっただろうか。いな、私はそのまなぞこに諦観、寂寞を見たのだ。彼らは堪える力がすぐれていた。だが死を迎え、よろこび進んで自分を任せることはできなかったのだ。ついに否定から肯定に転ずるすべをもたなかったのだ。(中略)私は、一日を生きることが、一日死に近づくことであるという事実を、平静にうけとめたい。正しく生きたい。死とともに生きつづけたい。いつか、死が与えられるであろう。」(保坂正康編「戦艦大和と戦後」 278頁)と記されております。

 

その2色川大吉山本七平のこと

 

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 方や、色川大吉も同時期を過ごした戦中派です。土浦の海軍航空隊を経、三重航空隊・伊勢湾の離島基地の特攻艇を入れる地下壕でポツダム宣言の受諾を知りました。その後、一貫して反権力側というか民衆に視点を置き、時には三多摩の困民党事件の真相を辿るといった研究者として、一時は生活に困窮しながら終生、東京経済大学で教鞭をとり、今なお、そこの名誉教授として、日本のあるべき姿を問い続けています。「若者が主役だったころ」の中では家族・奥さんのことも触れらており、色川大吉の私生活も垣間見せます。過去に色川大吉の「ある昭和史」、「昭和史世相篇」を通じて、私に目覚めというか覚醒というか、強い印象を与えた人でもあります。そうした意味で戦争を経験した同じ戦中派である両氏との対比、またその違いは何処から来るのかも私なりに興味深く感じていました。

 

 同じく吉田満とほぼ同年の戦中派でもある山本七平は何代に亘るキリスト教徒(プロテスタント)の家に生まれ育ち、軍隊に招集され南方の戦地で中隊長として、ただ一人生き残り、捕虜収容所を経たのち帰国します。その後、文筆活動に入るわけですが、山本学とも言われる世界を造りながらも「静かなる細き声」を著したことが思い出されました。そこには同氏の少年期の姿、キリスト教徒としての懊悩が描かれています。

 

 尚、色川大吉には宗教的観点というか、懊悩は私には見られません。時の政府というか、反権力側に立ち戦後は共産党にも入り活動をしていましたが、昭和30年(1955年)夏の日本共産党第六回全国協議会以降、宮本顕治らの新指導部の人権感覚の低さ、同志愛の乏しさへの憤りもあり自然的に離党していったようです。しかし一貫して民衆側に立つという歴史観、独自とも言うべき自分史をも描く歴史学者として、今も活躍されています。

 

 取り上げた「若者が主役だったころ」は足かけ3年をかけ、平成20年2月に上梓されたものです。安保、東京オリンピック、その後の高度成長、ベトナム戦争、大学紛争時代、その後と、激しく動いた昭和60年代を取り上げています。第二章「安保デモの渦中」の最後に「総選挙の勝敗を決したのは、安保闘争でも浅沼の事件でもなく、この高度成長の実績と所得倍増政策が国民にあたえた夢であった。情勢は急速に移り変わり、世論は風のごとく速く動いていた。歴史において民衆の政治的昂揚はつねにおどろくほど短い。変革はその短い時期をとらえて迅速に行なわれなくては機を逸する。それが日本近代史を専攻してきた私が認めた真理の一つである。」(同書 108頁)とのべています。私としては若かった時代の自分と現在の自分とを比較し、場違いにはなりますが、色川大吉が上に述べられたことは企業の経営変革をする際にも当てはまるという実感でした。

 

 色川大吉は海外から日本を考える必要性を感じ、ユーラシア単独行も行ない、本書のなかでソ連共産党が支配していた旧ソ連の実情を批判的に、又民衆の一人ひとりの姿を描いています。私としては中国共産党独裁政権の現中国を氏がどう見ているかも知りたいところです。

 

その3.瀬島龍三のこと

 

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 戦中派とは異なり、今次大戦の作戦そのものにも加わった、むしろ戦争そのものを進めた陸軍参謀の瀬島龍三を改めて知りたく、共同通信社社会部編「沈黙のファイル」を再読ですが目を通しました。そこには山崎豊子が小説で描いた瀬島龍三、何の本か記憶が定かではありませんが、過って私が感じた瀬島龍三ではなく冷徹な、合理主義の塊の人だったのではと思い直しています。戦中派の吉田満山本七平色川大吉とはまったく異なる正に職業軍人そのものなのです。平成7年6月3日、中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会で次のように述べています。

 

 戦後50年というこの年に、権威ある軍事史学会に招かれ光栄に思います。「敗軍の将、兵を語らず」と言います。私は将を補佐してきた一人として、正直なところあまり語りたくございません。ただ歴史を無視することは歴史によって処断されますから、今日は私が体験した問題について忌憚なくお話しさせていただきます。(中略)参謀本部で杉山参謀総長が「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。一生忘れない体験です。日本は少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。大東亜戦争侵略戦争とする論議には絶対に同意できません。(同書10頁)

 

 と細いからだから絞り出すような低い声が熱を帯びていたと同書の編集者が語っています。陸軍大学の軍刀組の一人として全てを数字としてとらえる合理・冷徹者なのかもしれません。戦争を遂行した大本営参謀として陸軍を動かし何百万の日本人、何千万のアジアの人々を死なせ、敗戦・・それが幸か不幸かは又論議を呼ぶでしょうが・・という未曾有な結末を迎えます。しかし戦後はその旧軍人の人脈を活用、又活用されながら商社マンに転身し、30年足らずで政財界の中枢に上りつめ、影のキーマンとしてその一生を終えています。

 

その4吉野源三郎君たちはどう生きるか」に感動して

 

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 企業再建・再生という私なりの業務にあたり、心に葛藤もあるなかで、古典とも言うべき吉野源三郎君たちはどう生きるか」に逢着いたしました。山本有三編纂の「日本小国民文庫」全16巻の最終配本として1937年8月に刊行された其の文庫版ですが、著者は「作品について」の中で、次のように述べています。

 

 1935年といえば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進攻を開始してから4年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして1937年といえば、ちょうど「君たちはどう生きるか」が出版され「日本小国民文庫」が完結した7月には盧溝橋事件が起こり、みるみるうちに中日事変となって、以降八年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした。(同書301頁)

 

 そんな時代背景の中にあって、ご承知のように本書は中学二年生のコペル君という渾名の少年に対する、ひとつの倫理・道徳書の形式をとりながら人間の生き方を問う、いわば人生読本です。一気に読み通しましたが、言うにいわれぬ感銘を覚えました。時には涙し、自分の過去、現在をも反省させられました。今の時代でも、むしろ今後の世代へも通ずる人の生き方、人に勇気を与えてくれる書と思ったわけです。

 

 丸山真男が「君たちはどう生きるか」をめぐる回想・・吉野さんの霊にささげる(1981年)のなかで、「吉野さんが己を律するのに極めて厳しく、しかも他人には思いやりのある人・・ちかごろはその反対に、自分には甘く、もっぱら他人の断罪が専門の、パリサイの徒がますますふえたように思われますが、・・であることは、およそ吉野さんを知るひとのひとしく認めるところでしょう。モラ-リッシュという形容は、吉野さんの人柄と尤も結びやすい連想です。けれども、吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この1930年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学二年生のコぺル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした。」(君たちはどう生きるか 311頁)と述べています。僭越ですが正に正鵠を得た書評と思います。

 

おわりにあたって

 

 企業再建・再生に際し、私が感じたことを脈絡もなく、長々と記してきました。ただ私が当時そして今も何を重視し、何に関心を持って来たか自ら省み、これからを考えるのも意義のあることかもしれない、と考えたわけです。と同時に敗戦後70年を超えて平和ボケとしか言いようのない現在。それを助長するかのようなマスメデイアに翻弄される民意と表する報道の在り方に、私は怒りさえ感じるのですが、如何でしょうか。

 最後に丸山真男吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」から取り上げた叙述の例の他に、私が涙した、心を打たれた別の叙述を以って、吉田満に関する私の一連の駄文を閉じることに致します。

 

 それは主人公・潤一のコペル君が友達と約束をしながら、リンチ事件でコペル君に少しの勇気がなかったために友達を裏切る結果となり、その心の痛みからか熱を出し寝込んでしまいます。そのときお母さんが潤一君の枕元で女学校時代の自らの痛み、後悔した事件を話し、その事件についてのお母さんの思いを次のように語ります。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあとりかえしがつかないことだけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だからどんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは・・そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(同書 248頁)

 

                           (2015年年6月8日)

                              

 

 加筆、修正 2018年4月25日

                              淸宮昌章

 参考文献

 

   吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

       同  「散華の世代から」(同)

   同  「戦中派の死生観」(文藝春秋

   同  「提督伊藤整一の生涯」(同)

   吉野源三郎君たちはどう生きるか」(岩波文庫

   保阪正康編「戦艦大和と戦後 吉田満文集」(ちくま学芸文庫

   色川大吉「若者が主役だったころ わが六0年代」(岩波書店

   共同通信社社会部編「沈黙のファイル 瀬島龍三とは何だったのか]

                                                                                          (新潮文庫

   加藤周一「日本人とは何か」(講談社学芸文庫)

   粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

   千早 耿一郎「大和の最期 それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社

   山本七平「静かなる細き声」(PHP研究所

   「ある昭和史 自分史の試み」(色川大吉 中央公論社

   色川大吉「昭和史世相篇」(小学館

   むのたけじ「戦争いらぬ やれぬ世へ」(評論社)

   同「たいまつ十六年」(企画通信社刊)

   カン・サンジュン「悩む力」(集英社新書

   他

 

           

 

     

 

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その1

 

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はじめに

 

 前回になりますが、本年4月の投稿には少々個人的な過去の出来事、思いを載せました。右脚の怪我のためでしょうか、過去の自分を改めて考えるのもいいかなと思ったところです。今から3年程前の吉田満戦艦大和の最後」に関する三本の投稿を今回、修正及び追加を致し二本としました。ご興味とお時間があれば、改めてご一覧頂ければ幸いです。

 

第一章 「鎮魂 吉田満とその時代」( 粕谷一希 文春新書)を読んで

 

その1 某読書会の原稿

 

 下記は今から10数年前2005年の某読書会へ提出した原稿です。

 

 ここのところ例の歴史問題がまたまた論議されています。斯様な状況下、私にとり反面教師でもある高橋哲哉氏の「靖国問題」、「戦後責任論」、「教育と国家」及び中村正則氏の「戦後史」、そして、その対極に立つとも言うべき中西輝政氏の「日本の死」、中間的な横山宏章氏の「反中と反日」に目を通してみました。加え、全然ちがった観点からの「宮澤喜一回顧録」を読んだところです。

 

 何か心にしっくり感が起きない中、1930年生まれ、中央公論の過っての編集長・粕谷一希氏による吉田満に関する掲題の新書に出会ったわけです。それは千早 耿一郎氏の「大和の最後、それから」を補足するような、私にとっては吉田満幼年時代、学生時代、戦後の日銀時代を見る上でとても参考になりました。

 

 本書「鎮魂 吉田満とその時代」6章で、吉田満が東大法学部法律学科時代の友人である和田良一との往復書簡が載っています。全くの偶然とはいえ、その和田良一氏は小生がO社の人事総務本部時代、労使問題の会社側の顧問弁護士であり、小生とも多少の面識もある労働法関係の大家でありました。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継いでいます。良一氏の弟子である当該事務所の弁護士先生方には大変勉強させてもらい、そのうちひとりの先生とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 商社の労働争議の史上最長といわれたストライキを、労使双方大きな痛手なのですが、打たざるを得なかった労働組合の本部副書記長時代の経験、又、その後、いろいろな経緯を経て、全く立場が変わる人事総務本部時代の労使正常化への苦闘。そうした経緯の後、会社としても大きな懸案事項である子会社のY社再建に私は離籍出向を致しました。その社長時代に人員整理を含めた会社再建業務(Y社の顧問弁護士もこれ又、和田良一氏の弟子)。更には現在、建築会社の顧問としての経営指導、並びに懸案の裁判事件の解決。そして、現NPO法人及び生涯学習団体の組織的観点等々への支援活動への私の礎を作ってくれたのが上記の和田良一法律事務所及びその弟子の先生方なのです。

 

 「鎮魂 吉田満とその時代」は、1章から6章までは既にA級戦犯が合祀されていたとはいえ、現在ほどこの歴史問題は大きく取り上げられていなかった昭和60年のものです。(私は昭和53年後半から59年半ばまで米国駐在)。勿論、中曽根元首相が靖国参拝で日本のマスコミも騒いだ事もありましたが、粕谷氏は本書で日米開戦当日の朝日新聞の夕刊に載せた「・・いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである」との社説全文を載せています。

 

 そして、日本の敗戦後は戦意高揚を掲げたマスコミも戦争責任を東条他戦犯のみに押し付け、敗者としての矜持もない、その苦々しさ又これでいいのかとの思いを吉田満の言葉として「一部の評論や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死になったのだろうか?」と記しています。そうした思いが粕谷氏の吉田満を取り上げるひとつ理由であると私は思います。

 

 尚、粕谷氏は「日米関係の最終段階での政治責任者は、近衛文麿、松岡洋介の二人が最も重い、」、「東条は有能な陸軍官僚であっても政治家に必要な器は持っていない、むしろ誰にも解決できない問題を押し付けられた犠牲羊であった。」と述べています。

 

 その観点とは別かもしれませんが、朝日新聞の記者であった、むのたけじ氏が敗戦直後、朝日新聞を辞め、山形の横手でタブロイド版「たいまつ」を出し、新聞のあり方を問い続ける姿に大いなる感動を私は覚えました。私は時の言論界、マスコミの在り方には常に問題点を残したまま、今日のわが国があるように思います。如何でしょうか。先日もちょっと触れましたが、吉田満森有正辻邦生に並び、むのたけじも私にとって大きな影響を与えた人です。

 

 この夏では、本書は私にとって、シュレジンガーの「アメリカ大統領と戦争」と並ぶ印象深い読み物でした。

 

                           2005年9月1日

その2 ひとつの奇遇

 

 昨年(2014年)の年末のことですが、久しぶりに自宅の襖、障子張替えを本職に頼まざるを得ず、近所の表具屋さんに来てもらいました。今まで近所に住みながら初めてお会いする田所義行氏です。最近になり海底に沈んだ戦艦武蔵の映像が放映されておりましたが、同氏がその撃沈された戦艦武蔵の上等水兵として乗り込み、奇跡的に生還されたとお聞きし、非常に驚いた次第です。今年で90歳になられても現役を続けられています。尚、お子さん達にも戦争の話、戦地での話はされてこなかったとのことです。偶々、ここ数年で機会があり、某月刊誌からの依頼で同氏とのインタヴューが始まったとのことです。6頁に亘るそのインタヴュー記事のコピーも頂きました。同氏は陸軍の空挺部隊と共に「空の神兵」と謳われた初代海軍落下傘部隊の一人で、セレベス島メナド郊外のランゴンアン飛行場に降下した情況等も載せられています。その後、上等水兵として戦艦武蔵に乗り組んだわけです。戦闘並びに撃沈された時の状況、又、始めて聞くことでしたが、レイテ沖海戦を前に戦艦武蔵は目立つ塗装に塗り直された。戦艦武蔵は戦艦大和の囮だったかもしれない、との感想を洩らされました。

 

 そんな奇遇もあり、「鎮魂戦艦大和」他を著した吉田満に関する粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」を再読。そして某読書会に出した2005年9月1日付けの読書感想を今回、合わせご紹介致しました。尚、吉田満については昨年自費出版した拙著「書棚から顧みる昭和」のまえがきにも触れておりますが、私の30代後半の時代に大きな影響を与えたキリスト者でもありました。

 

 2005年当時にも歴史問題が論議されておりましたが、今日の韓国及び中国から執拗に追求される歴史認識問題とは大分状況が異なっていることが分かります。10年という時代の経過があり、その駄文にも幾分かの修正というか、補助説明が必要ですが私の想いには余り変化はありません。拙著「書棚から顧みる昭和」では省いた吉田満と和田良一弁護士のこと、そして和田良一法律事務所の私との関わりも、今回は改めて見直しをした次第です。

 

第二章 粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)に関連して

 

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1.和田良一弁護士との関わり

 

 10年前になりますが、何か心穏やかにならない中、1930年生まれの中央公論の元編集長・粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ました。それは吉田満の戦後の航跡を示す姿、更にはキリスト者との心情を辿った千早 耿一郎著「大和の最後、それから」を補足するかのようで、吉田満幼年時代、府立四中、東京高校、東大の学生時代、そして戦後の日本銀行員の時代を知り、改めて吉田満の現代性の重要性を見たところです。

 

 その本書6章「書簡のなかの自画像」のなかで記されているのですが、吉田満が東大法学部法律学科時代の親友である和田良一氏宛の手紙3通、葉書28通を和田良一弁護士がお持ちとのことです。そのいくつかの往復書簡が載せられています。そのうち学徒出陣が目前に迫る中での和田良一氏宛てのひとつを以下紹介します。

 

 昨日奥多摩に練成旅行をした。けふは夜行で帰郷する。たまたま入営の旅行にもなった。九月ごろかへる予定。

 この二箇月、僕は次のことをして行きたい。あの創作の完結、仏教思想研究の熟読、キリストへの接近、このさいごのものに就いて僕は近頃非常に惹かれてゐる。僕のこれ迄の生活は全く真実でなかったために、僕には仕事への希望というものがなく、虚無的であって、そのため、むしろ僕はほっとした気持ちだ。対人関係も一応解決した。すくなくともさう思へる。では又(同書149,150頁)

 

 私の30代後半のニューヨーク駐在の苦闘時代にニューヨークの紀伊國屋書店吉田満著「鎮魂戦艦大和」に出会い、その後、次々と吉田満の著作を読み込んで行きました。その後も私の人生というか、ものの見方に大きな影響を与えた吉田満と和田良一弁護士が親友であったことを知ったわけです。全くの偶然ですが、その和田良一氏は私が岡谷鋼機(株)の人事総務本部時代、会社の顧問弁護士であり、多少の面識もある労働法・労使関係の大家でした。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継がれています。良一氏の弟子である法律事務所の弁護士先生方には大変勉強させられ、そのうち宇田川昌敏弁護士とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 岡谷鋼機労働組合の本部副書記長時代の経験。その後、いろいろと部門も変わり、更には全く立場が変わった人事総務本部時代での労使関係正常化への苦闘時代もありました。最後は岡谷鋼機(株)としても大きな課題の一つであった子会社の(株)山崎商工(現 オカヤマート株式会社)の再建に離籍出向したわけです。その社長時代に不良債権の処理、3割の人員整理等々を含めた会社再建(奇しくも山崎商工の顧問弁護士が上にあげた宇田川昌敏弁護士でした)、その後は神戸の建築会社の経営顧問として懸案の裁判事件、それに伴う企業舎弟とも言うべき地元の顔役との渡り合い、そして全面的勝利を勝ち取って参りました。そうした労使交渉等を含めた私の基盤を作ってくれが和田良一法律事務所であったわけです。加えて、その後のいくつかの企業等の再建業務に際し、私が和田法律事務所との関わりを持ったことを相手側の弁護士事務所等が知ることで、大きな力というか影響力を及ぼした次第です。

 

2.本書の意味合い

 

 本書「鎮魂 吉田満とその時代」は2005年に出版されましたが、21年間の中断も経たとのことです。粕谷一希氏としては、戦後60年を前にして、どうしても戦中派の吉田満の想いを繋いでいこうと考えたのだと思います。その序章で、吉田満の「一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?」とあげ、以下の文章を載せています。

 

 (中略)敗戦直後の風潮のなかでは、占領政策に歩調を合わせて、愚劣な戦争→犬死にとう罵声や風刺で満ちていたためである。徴兵忌避が美徳や勲章のように語られた。戦争の惨禍があまりに徹底していたために、飢餓と混乱のなかで、怨嗟と悔恨のなかで、日本人は我を忘れ、自信を喪失し、敗者の矜持を工夫する余裕がなかった。・・(中略)この敗戦という事態を直視することを怖れ、当時の支配層自体、終戦という言葉を慣用した。この敗戦と終戦という微妙なニュアンスの使いわけによって日本人は負けたという事実認識の真理的負担を回避しようといていたのである。勝っても負けても、戦争が終わったという単純な安堵感はある。そして安堵感は開放感につながる。・・(中略)多くの死傷者を抱え、家や財産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人々の立場を考えると、そうした開放感や笑いは違和感を拡大させるものであった。それぞれの開放感は抑制して、死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。おそらくこの敗戦への対応の態度のなかに、日本の進歩勢力は早くも日本人としての多数派を獲得する可能性を閉ざしてしまったのである。(同書21,21頁)

 

 粕谷氏は本書で靖国参拝のことにも敷衍し、祖国のために死ぬという人類普遍の美徳の意味を確認するためにも、広い視野、国際的な視野でこの問題に対しなければならない。吉田満の視点はある解決の示唆を含んでいるように思うと述べています。戦後は手のひらを返すように、中国との関係もありますが、マスコミが先頭に立って戦争責任を東條他A級戦犯に押し付け、済ましている現状に私は苦々しさを感じています。尚、第五章・栄光と汚辱のなかで、開戦の詔書が出た日の夕刊・朝日新聞の社説全文が記載されております。当時の世論が知識人を含め、どうであったか知る上で参考になります。

 

 現在の中国及び韓国による歴史認識問題に苛立ちを覚えていますが、わが国において安泰な生活を送りながら、独り善がりの正義を振り回す一部の知識人、それに乗るマスメデイアに、現在のどうしようもない歴史認識問題を生み出すひとつの要因があると思っています。

 

                           2015年5月18日

                        

戦艦大和の最後」の吉田満を巡って その2

 

 粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」の中で、吉田満が学生時代に東大法律学科の親友である和田良一氏と交わされた書簡のことも紹介いたしました。偶々、昨年(平成17年)12月にその良一氏のご子息の和田一郎弁護士とお会いする機会ができ、改めて吉田満と良一氏とのお話を一郎氏よりお伺いする事ができました。

 

 私が30歳後半の苦難苦闘の時期、あるべき自己を考え直させてくれ、その後の私のあり方というか、ものに対する観点に大きな影響を与えてくれたひとりが吉田満です。その和田良一弁護士の門下生であった宇田川昌敏弁護士についても少し触れました。残念ながら宇田川弁護士も昨年(平成17年)11月に亡くなられ、「お別れの会」が和田法律事務所主催で12月6日、新宿のセンチュリーハイヤットで行われました。私もお知らせを頂き、その会場で故和田良一氏のご子息である和田一郎弁護士と人生の不思議と言うか、私は初めてお会いする偶然が生じました。

 

 故宇田川弁護士も労働法曹界の第一人者でした。私が(株)山崎商工の再建に当たり、既に触れましたが人員整理等々、労使交渉の問題解決の際には顧問弁護士として直接指導を受け、大変お世話になった方でもありました。

 

 岡谷鋼機(株)に在籍していた昭和40、50年代は、大学紛争の残滓でしょうか、商社においても労使問題が大きな課題となっておりました。ひとつの巡り合わせですが、私もまた、昭和60年代の前半に使用者側の人事総務本部の一員として悩み格闘した時代でもありました。そのときの会社の顧問弁護士が和田法律事務所であり、和田良一氏とも面談の機会もあったわけです。

 

 既に一部触れてきましたが、その後、私は人事総務本部から海外事業部の責任者、そして海外事業部から離れ、労使問題も抱えた国内の子会社の再建の責任者となって離籍出向をしました。宇田川弁護士も過っては和田法律事務所に所属し、岡谷鋼機(株)の管理職の懲戒解雇問題の際には会社の顧問弁護士として、名古屋地裁の法廷でも活躍され、最終的には双方和解と言う形で終結しました。私も岡谷労組の一員として、その裁判を傍聴しており、宇田川弁護士を知ったわけです。

 

 昭和50年代の前半までは労働組合側に居た私が管理職となっており、労使関係の正常化を計るべく一員として人事総務本部に配置換えとなり、新たな任務を帯びたわけです。共に従業員ではありますがアメリカ赴任前には労働組合から盛大な送別会を開いて頂き、帰国後は使用者側の一員としての配属は複雑な思いでもありました。そして7年間に亘る労使間の激しい闘争・交渉を経て、労使正常化が軌道に乗り、岡谷鋼機(株)が三百数十年の歴史上、初めて名古屋一部上場を果たし、そのチームは役目を終えたわけです。上場の為にも労使正常化が必要な時代であったわけです。尚、昭和40、50年代、続いて60年代の初めまでは、会社の人事担当役員は心労もあってか、三代に亘り現役中、或はその直後に病に倒れ60歳前後で亡くなっています。偶々、私の上司の役員も在任中に亡くなり、人事総務部門としては三回目のチーム編成で初めて労使正常化に至ったわけです。その後、私は海外事業部の責任者として、配置換えとなりました。

 

 一方、宇田川弁護士もその後、和田法律事務所から独立され、私の人事総務本部時代には和田事務所の別の弁護士が担当されておりました。そして離籍後の子会社再建時代に私は労組側ではなく、経営の責任者として宇田川弁護士との再会になったわけです。宇田川弁護士もその奇遇には吃驚されておりました。

 

 前回で触れましたが、(株)山崎商工社は国内では子会社の中でも大きく、また課題も抱えた会社でした。そして当時は奇しくも私が育った地元の葛飾区に本社を置いておりました。更に偶然とはいえ、45年前は山崎商工(その時代は未だ子会社ではなく)の組合は関東化学印刷一般労働組合傘下にあり、その「組合10周年記念大会」に岡谷鋼機労働組合の上部組織である全国商社連合労働組合という組合側の来賓として私が出席しました。しかも同じ組合書記長がひきつづき書記長として活躍しているという事実でした。私は勿論のこと、再会をした書記長を含め組合幹部もそれは驚きました。

 

 尚、そうした古い経緯は岡谷鋼機の経営陣は誰も知らなかったはずです。一方、岡谷社長だけはアメリカ駐在時代に大変お世話になったこともあり、その子会社の本社が私の育った地元葛飾であることは承知し、派遣を決められた一因であったようです。そして私は子会社再建に際し、労使交渉等々にも備えるべく、練馬の住居から葛飾立石での単身赴任を決めたわけです。そんな4年間の中、宇田川弁護士より合理化の一環としての3割の人員整理の問題だけでなく、労使の在り方についても種々相談し、改めて多くの教訓・知識を与えて頂いた次第です。そして子会社での生活が終わった後も引き続き手紙等でのお付き合い、時にはご自宅にも伺いました。その経験と教えが、平成18年の神戸の建築会社経営に携わり、請負契約途中解除という事件の裁判で施主から和解金を得て解決させ、同時に新たな弁護士を付け、問題であった仲介者を相手に訴訟を起こし、企画料としてとられた5千万円全額を返させ、本件を終了した次第です。その際、その筋との渡り合いと言うか、対応等々にも生かされたわけです。

 

 山崎商工(株)は種々と経緯を経、現在は岡谷鋼機の100%子会社となり、名前もオカヤマート(株)と社名変更、山崎商工としては80数年の歴史の幕を閉じました。それを契機に会社を去った旧社員、役員がOB会を立ち上げ親睦会を続けており、私にも声がかかり親会社の人間としてはただ一人、平成17年の半ばまでは出席をしていました。その後は私として何か心苦しく、出席を遠慮しております。

 

 尚、私が退任した平成13年の後、その労働組合の委員長、書記長はその後、一年足らずで自ら会社を去り、全く別の会社で働いております。そして5、6年前までは時折り会い、一杯飲むといった関係を続けていました。そのお二人を見ると、僭越なもの言いになりますが、労働組合という経験でも優れたリーダーはその人物を認められ、別の分野でも生きていけるのだと言う思いを強くしておりました。

 

 私も72歳を潮時に全ての仕事を退きました。そして数年経過した平成26年の5月、友人達が開いてくれた拙著の出版記念の会に、かってお世話になった岡谷鋼機の役員、弁護士の諸先生、管財業界の方々、いろいろな場面でお世話になった方々と共に元委員長、書記長のお二人も出席され、それぞれ祝辞も頂きました。平成27年4月には有楽町でお二人と酒を酌み交わしながら、今を語りあい、お二人との交遊が再開した次第です。お二人とも70歳になられますが、なお凛として現役で仕事をされております。

 

 山崎商工時代にお世話になった管材業界からも私が山崎商工としての最後の社長ということにして、今でも業界の社長の皆さんとは付き合いを頂いております。そのような繋がりを続けることが出来るのも「人を大事にするとい事はどういうことなのか」という宇田川弁護士を始めとして、和田法律事務所一門の教えのお陰と思っております。と共に長年お世話になった岡谷鋼機には感謝以外ありません。

 

 労働法曹界の重鎮和田良一弁護士も20数年前に故人となられ、宇田川弁護士のお別れ会では和田弁護士事務所一門を代表して、ご子息の一郎弁護士が宇田川弁護士を偲ぶなかで「人の生き方、労使問題は如何あるべきか」を話されました。そして、そのお話をされた後、一郎氏と粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」についての私との会話になった次第です。

 

 一郎氏とは初対面でしたが大変喜ばれました。そして「鎮魂 吉田満とその時代」が世に出るまでには、多くの年数がかかったこと。良一氏と粕谷氏との取材時の話、また吉田満が都会育ちでハンサムなのに対し、良一氏が東北育ちの田舎者であることを気にされていたこと等々。会場での立ち話ではありますが良一氏と吉田満との新たなエピソードも紹介して頂いた次第です。

 

 偶々、昨年(平成17年)、千早 耿一郎著「大和の最後、それから」が発刊され、吉田満を改めて身近に感じていた時、戦後60年ということもあるのでしょう、粕谷一希が20数年ぶりに執筆完成された「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ったわけです。其処に記されていたのは私にも少なからず関係のある和田良一氏であり、しかも若き吉田満が親友の良一氏宛てに出した心情を表す書簡で、その驚きと感銘は既にお伝えした通りです。加えて和田良一氏のご子息に一門のお別れ会でお会いし、吉田満を改めて語ることが出来た巡り合わせの不思議。又其処にいたるまでの私の会社生活、加えてその後の数社に亘る経緯・経験、人生には無駄なものはないといった感動すら覚え、その経緯・経験を少し詳しく皆さんにお伝えしところです。

 

 昭和55年、個人として苦難最中のニューヨーク駐在時代、心を閉ざしていた時に吉田満著「鎮魂戦艦大和」に出会い、衝撃を受け、自己として如何にあるべきなのか異郷の地で考え直し、次々と吉田満の著書を探し読み続けました。そして平成26年の暮れ、戦艦武蔵の生還された田所義行氏に偶然お会いし、改めて私の拙い旧駄文を読み返し、時代の推移を勘案し、若干の修正を今回加えました。

 

 遠藤周作が病魔に脅かされながらも「六十になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ今のぼくにとって何ひとつ無駄なものはなかったような気がする、とそっと一人で呟くことができる気持ちになった」(心の夜想曲より)と述べています。遠藤周作は宗教的意味を含めた深い思いなのでしょうが、私も今年で75歳を迎え、僭越ながらそれに近い思いを感じ、改めて吉田満についての私の関わりを記した次第です。

 

                            2015年5月25日

 

(注)旧投稿には今回、若干の修正をしています。

 

2018年4月24日

                           淸宮昌章

 

参考図書は以下のその3で表示

戦艦大和」の吉田満を巡って その3に続きます

 

 

 

 

故・西部邁氏の自裁に思うこと

 

故・西部邁氏の自裁に思うこと

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まえがき

 

 この4月8日に投稿した「三年前を振り省みて」の中で、何故か急ぎ、西部邁氏の自裁直前の二作である「保守の遺言」、「保守の真髄」と「虚無の構造」を読み進め、近いうちに私なりの感想など纏めたい、と記しました。加えて、4月13日に、二年前の投稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」の冒頭に、「再投稿にあたって」を加え、氏の視点の一端を紹介したわけです。故・西部邁氏に関心もあるのでしょうか、皆さんから、それなりの反応を頂いております。

 

 因みに、最後の著作「保守の真髄」のその「あとがき」の日付は2018年1月15日、著書の発刊は2月27日。そして、自裁は1月21日です。ご存知のように、氏は1960年安保闘争時の闘志で、公衆の面前で逮捕、留置所の生活をも経験しております。そのときの全学連元委員長・故唐牛健太郎とはその後も友人関係を続けておりましたが、氏は唐牛健太郎とは異なり、22歳で左翼からは一切離れました。その後は東京大学教養学部教授として、更には四十五年余間の執筆活動を続けられてきました。余談になりますが、唐牛健太郎に対し西部氏が日米安全保障条約を読んだことがあるかとの問に対し、「日米安全保障条約なんてものは一度も見たことはないとのこと」でした。

 

 私事で恐縮しますが、1960年の安保闘争時、私は大学一年で、デモにも参加しております。ただ、われわれ学生達と、ほぼ同年代の機動隊員に対し、学生たちの下劣な罵詈雑言の叫びに私は嫌気がさし、そんな単純な理由で私は離れました。その安保闘争も東大生・樺美智子さんの死亡を機に岸政権は退陣、池田内閣になっていきました。そして全共闘時代、大学紛争等々が起こり、その余波でしょうか、商社でも労働組合運動が盛んになり、私も労働組合の本部執行員の三役の一人として活動致しました。その後、考えの相違で私は執行委員を降りました。そして労働組合の執行委員の身分上の異動協議期間の一年の期限切れと同時に、ニューヨーク駐在発令。そして六年間の駐在時に人事総務本部発令となり帰国。今度は労働組合と団体交渉に立つ立場となり、その心境は極めて複雑なものでした。労使正常化を掲げた七年間を経験したわけです。三十代の組合活動と、その後、子会社の代表者として合理化に伴う労働組合との団体交渉。続いて、引き受けた某企業での裁判闘争と再建。更に依頼された某企業の再生・再建には、危険を伴い、それこそ精魂全てを傾けた私には大きな勝負でした。旁ら、NPO法人への支援活動も長年続けましたが、今から6年前の72歳で、強引でしたが全て退き、現在の気ままな、ある面では何か後ろめたい日々となっております。そんな経験の中で、労働組合の委員長、書記長を含めた社員の方々、仕入先・客先の経営陣の皆様、会計事務所・弁護士の諸先生、NPO法人の理事の皆さんと、多くの方々との出会い・遭遇に恵まれました。そして、その場その場において一貫として支援してくれた友人に感謝しております。そんな経緯が私の視点・観点に大きな影響を及ぼしているかもしれません。

 横道にそれますが、当時は総評と同盟の時代から、現在の連合に変わりました。今の連合は果たして労働組合の上部団体と言えるのでしょうか。経営者団体とは異なるでしょうが、何を目的としているのか私には不明です。単なる時の政権を批判、反対するのみの団体と私には映るのですが、如何でしょうか。もっとも、労働組合そのものが大きく変貌しておりますね。

 

 話は戻しますが、西部氏の著作は物事を極める長年の研鑽によるものでしょう、幅広い学識による展開です。加えて、この拙稿も私の勉強不足による理解不足も誤解も多々あるとは思います。方や、ここに取り上げた氏の著作についても、何時ものように、その全体を紹介するのではなく、その一部を切り取ったものから、私なりに感じたことを記したものにすぎません。皆様には思想家である氏の著作を改めて読まれることをお薦め致します。

 

その一 西部邁自裁

 

 故・唐牛健太郎の未亡人である唐牛真喜子氏は数年前になりますが、その三年近く前から癌に冒され、しかし何の治療も加えず、西部氏を含め誰にも知らせないまま、氏が病院に訪れた二日後に71歳で亡くなります。「多くの女の常として公の場に顔を出すことが少ないまま、亡夫の思い出を抱懐しつつ、日常の仕事を反復しつづけたのであろう。」(保守の遺言290頁) と記しております。その未亡人に対し、西部邁氏は実現することはなかったのですが自裁用に短銃の依頼、更には氏の独身のままでいる娘さんにも時々声をかけてやってくれとも依頼していたとのことです。また、かって交通事故で死ぬ目に遭わせた氏の妹さんが58歳で亡くなるまで、マザー・テレサめいた生き方をされていたとのことが記されております。

 

 前回も触れておりますが、私は何か、氏に引っかかるものがあり、一度も氏の著作には触れてきませんでしが、氏の自裁に接し、その著作の三作を読み進め、初めて西部邁という思想家の一端を知ったわけです。氏の最後の著作「保守の遺言」の「あとがき」に、自裁の日をも決められたと私は思う中で、次の如く記しております。

 

 (中略)自分のことについても比較的多くのことを人間解釈の何はともあれ僕の人生にピリオドを打ってくれた題材として書き喋ってきたものの、ほぼ間違いなくそのすべてが時代の重さにふみにじられ時代の風に吹かれてとんでゆくのだと確信できる。その意味では人は一人で生まれ一人で死ぬこと以外には何も残すことがないといった虚無の感が否応もなく押し寄せる。しかも多くの人が、やるべきこととやりたいこととやれることをやりつくしたあとで、僕と似たような気分で生死したのであろうと考えると、まあ、人生の相場はこんなところかと思い定めるしかない。

 何はともあれ僕の人生にピリオドを打ってくれた平凡社の金澤智之氏と高瀬康志氏には、こんな縁起のかならずしもよいとはいえない本のお付き合いして下さったことに感謝を述べておきたい。また自分の娘智子に口述筆記の謝辞を述べるのはこれで二回目と思うが、三回目は断じてないので安心してくれといっておく。

 なお自分の息子一明夫婦をはじめとして、昔同じ屋根の下で暮らした兄正孝の夫婦、妹倫子の夫婦、亡妹容子の夫そして妹千鶴子の夫婦、西部むつ子の皆さんにも、さらに亡妻の姉、弟、妹たちにも、僕流の「生き方としての死に方」に同意はおろか理解もしてもらえないとわきまえつつも、このあとがきの場を借りてグッドバイそしてグッドラックといわせていただきたい。(保守の遺言 301頁)

 

 如何でしょうか。このような「あとがき」を目にするのは初めてですが、私は氏の思想の裏側、奥底にある氏の心優しさを感じるわけです。

 

その二 「戦後の完成」をもたらした破壊者の群れ

 

 氏は保守思想に必要なものは「矛盾に切り込む文学のセンス」と「矛盾に振り回されない歴史のコモンセンス」と記しています。小林秀雄、田中美知太郎、福田恆存三島由紀夫などを挙げるだけで、その見当がつくはずだと。次のように述べています。

 

 保守思想は人間の心理や社会の制度に矛盾が孕まれていることを鋭く意識している。一例を「自由」という理想の観念をとってみれば、現実それは「秩序」という現実と一般に鋭く対立している。また自由は「平等」というほかの理想とも衝突を演じることが多い。それらの葛藤の有り様を見抜くには文学的なセンスがなければならない。なぜといって文学とは、少なくとも上出来のそれにあっては、人間心理の葛藤のただなかに切り込もうとするところに成り立つものだからである。そういう文学者がほとんどいなくなっていることは認めなければなるまいが、それは現下のマスソサイアテイのしからしむるところであって、そんなものに迎合するのは文学でないとしておけばよいのである。(保守の真髄 238,239頁)

 そして、戦後の育の者たちが各界の指導層に姿を顕した平成時代について述べていきます。即ち、その時代の性格を端的に表わしたのが、細川護煕元首相の自らを「破壊者、革命家」と呼んでみせた発言録である。この政治家は良家のポッと出であるためにかえって正直に、平成改革なるものの軽薄さを露骨にあらわしてくれた、と記しています。今回の都知事選他の際にも何故か顔が出てくるのを、私は異常に感じていたところです。鳩山由紀夫元首相は少し次元の違う方と思い、その対象からも外れますが、細川護煕氏と同様、小泉純一郎元首相然りです。

 

 西部氏が指摘するのは第一に「政治改革」での小選挙区制がもてはやされたこと。第二に「財政改革」で、赤字国債の累積を気にかけることは、それ自体は当然であるが、「ツケを子孫に回す」という主張。第三に「行政改革」ということで、無条件で「小さな政府」を正しいとしたこと。第四に「郵政改革」が天下の正義のように喧伝されたこと。そのような流れの中で、確認すべきことは二つに過ぎない。一つにはこの改革騒ぎにおいては、一貫して「政府批判」が文句なしの正義と見立てられていたこと。正に「天に唾する」ようなものである。二つには構造改革とは何ぞやということであって、本来ならばストラクチャー(構造)という言葉は歴史的に形成されきたった物事の在り方のことを指すのである。つまり、時間と費用をかけて少しずつしか変えられないし、また変えてしまっては単なる破壊に終わってしまう、それが構造をめぐる変化というものである、と論じております。「保守の遺言」では、以下のように記しております。

 

 そうした伝統の喪失は現代日本人の利便姓や収益姓に心を奪われてしまったことの結果である。そして世間で文化といわれている慣習体系の多くがそうした利便姓・収益姓に奉じるための見世物になってしまった。一言でいえば日本はJAP.COMに変じてしまい「新規なものの流行」という溶液のなかに融解してしまったのである。(中略)それは直接的にはアメリカニズムという名の近代主義に飲み込まれてしまったことの結果といえようが、深層では近代主義がこの列島において(明治この方、時折に日本主義への浪漫的な回帰があったものの)批判も受けないままに追い求めつづけられてきたことの結末だったといってさしつかえない。僕のいいたいのは日本人の伝統喪失は、アメリカのせいではなく、日本人自身が選んだ道程だということである。(保守の遺言 287頁)

 

 私は昭和の時代を何か突然変異かの如き断続的史観には批判的で、氏の指摘に深く共感を覚えます。

 

その三 人生の最大限綱領

 

 1874年生まれのイギリス人、G.Kチエスタトンの「人生の最大限綱領は一人の良い女、一人の良い友人、一個の良い思い出、一冊の良い書物」を、氏は若者に語りかけていたとのことです。そして、この四点セットを獲得する難易度を難しい順に並べると、思い出、友人、女性、そして書物となろうと記しています。

 

 その理由を以下の如く述べております。私には難解ですが分るような気がし、以下ご紹介致します。

 

 思い出や友人を得るのが難しいのは(戦争のような)死活の場面を共有することが少なくなったからだ・・。いささか強引だがそれらにたいし性格付けを施してみると、思い出は慣習的・歴史的なもの、友人は技術的・交換的なもの、女性は政治的・決断的なもの、そして書物は価値的・文化的なものと類別することができよう。そして価値と決断を結びつけるのが個人主義的な行動類型であり、交換的なものと歴史的なものを結合するのが集団主義的な行動パターンだとすると、難しいのは後者の集団主義の良き行為であり、易しいのは個人主義の良き振る舞いのほうだといえよう。(保守の真髄 251頁)

 

 そして次のように氏は述べています。

 

 いうまでもないことだが、勇気ばかりが大事なのではなく、正義も思慮も節制もそれぞれ重要な徳義ではある。しかし勇気は外面的な観察可能な振る舞いだという意味において最も論じやすい徳義ではある。だから勇気をもって徳義の代表とみなした上でいうと、現代人は「死を覚悟した勇気」をもって異性に接近したり、友人と固く団結したり、書物の行間を見据えたり、記憶の意味するところの奥底まで解釈するという努力をなおざりにしていると思われてならない。(保守の真髄 252頁)

 

 如何でしょうか。手厳しい指摘ではないでしょうか。

 

おわりにあたり

 

 毎回のことですが、消化不足の上に、今回は西部氏の自裁の報道に接し、何か急ぎすぎたきらいもあり、このような拙稿になり恐縮しております。今現在、なにやらメデイアは民主主義の破壊とひたすら報道しておりますが、その前に民主主義とは何かを根本から問い直すことが必要です。今月8日の拙稿でも若干触れましたが、マスクラシーにおける「メデイアは(立法・行政・司法に続く)第四の権力である」などといわれるが、既存の三権は専門人たちの勧告を受け入れて世論の傾きに身を合わせようとしている以上、世論を動かすものとしてのメデイアこそが第一権力だと、トックヴィルは百八十年前にその事実をアメリカ社会に見届けたのである、と氏は記しております。

 

 そして、「日本政治の(対米追従による)長きに及ぶネジレはついに、内政においては共産党が、外交においては自民党が、それぞれかろうじてリアリティを保ちえている、というところまできてしまった。これら七十年余間の宿敵同士の手打ちは、少なくとも今後二十年間は、想像外のことなので、日本国家は見通すかぎり壊滅の道をひたすらに歩むであろう。そうみるのは、想像を超えた予想どころか、予想を超えた予測に属する、つまり相当に確実なことだといってさしつかえあるまい。」(保守の遺言 153頁)

 

 私も然りと思うところです。ではどうすればいいのか。いずれにもせよ、もう少し勉強してから、改めて何らかの私なりの感想など記してみたいと思っております。

 

 2018年4月17日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 西部邁「保守の遺言」(平凡社新書

 同  「保守の真髄」(講談社現代新書)

 同  「虚無の構造」(中公文庫)

「海外事情3・4」(拓殖大学海外事情研究所

 「選択4」

 http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/04/13/154058

 (2018年4月13日 加筆)

 その他

 

 

 

三年前を振り省みて

三年前を振り省みて

 

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 「書棚から顧みる昭和」を自費出版してから4年が経ちました。現在、私は参加しておりませんが、隔月に開かれる某読書会用の原稿を、偶々、テニス仲間である元編集者の井関清経氏の目にとまり、一冊の本として纏めたら、との勧めがありました。「言の栞舎」より発行人・井関清経のもと、謂わば、私自身のひとつの記念にもなるかな、との思いも重なり自費出版の運びとなりました。読んで頂ける方は当然のことながら少ないだろうと思い、200部を印刷しました。想わぬことに一瞬のうちに裁け、手元には私の記念本として残したい数冊となりました。装幀、用紙・印刷等を少し立派にし過ぎたのでしょうか、費用が掛りすぎ、増刷はしておりません。そんな経緯と、継続すべきとのお声も頂き、3年前よりブログ「淸宮書房」とフェイスブックを同時に始めた次第です。膨大な書籍等資料を前にして、愕然としており、その行き着く先も分らず、また続ける意味はあるだろうかと自問自答しているのも現実です。その後に記した44編も、その内容にも一貫性はなく、また、文章も推敲もせず、書きっぱなしの為、雑なものになっております。

 

 72歳で一線を全て退き、今年で78歳になる現在、テニス漬けの遊び惚け日々で、なにか後ろめたい気持ちでしたが、数ヶ月前に右脚を痛め、更に体調を崩し、何年振りでしょうか、風邪も引き、逆に悶々とした三ヶ月でした。先週からテニスに復帰し、嬉々としている自分に、いい加減な奴だな、と思っております。

 

 そんな憂鬱なこの数ヶ月の中で、西部邁氏が自裁されました。氏は私が今まで何度も取り上げてきた佐伯啓思氏の長年の友人でもありますが、何故か私は氏の著作を避けておりました。その後、自殺幇助とのことで、二人の逮捕者も出ております。氏が私よりひとつ上の1939年生まれのこともあるのでしょうか、複雑な思いです。取り急ぎ、氏の遺作「保守の遺言」「保守の真髄」そして「虚無の構造」他を取り寄せ、読み進めております。

 氏の言葉の厳密性、日本の危機的とも言うべき現状・状態への鋭い指摘、そしてその思想に深く感銘と共感を覚えています。近いうちに私なりの感想などと、纏められるかどうか分りませんが、自分としても何か残しておかなければならないと、考えております。纏まりがついてはおりませんが、取りあえず、上記の三書の写真のみを紹介した次第です。

 

 尚、下記の投稿は私自身のひとつの反省として3年前に記したものです。ご興味があれば、覗いて頂ければ幸いです。

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2015/04/08/140139

 

 2018年4月8日

                            淸宮昌章