清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか」(白水社)他を読んで  

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか」(白水社)他を読んで

 

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再投稿にあたって(2021324日)

 

 元原稿は昨年4月7日、安倍元総理が緊急事態宣言を発出した翌日の4月8日にコロナ禍にも言及し、投稿したところです。続いて、本年3月14日、池田了著「ふだん着の寺田寅彦」を読んでの中では、コロナパンデミックの収束よりは拡大の可能性が極めて高く、東京オリンピック開催の中止を日本政府が早々に政治決断し、東北大震災の復興を改めて掲げ、大きく軌道修正すべきと記しました。オリンピック中止による経済的損失も大きいことは承知していますが、その継続への経費は、更なる莫大な経済損失にも繋がると考えます。まずは日本のみならずコロナパンデミックを止めることに勢力を注ぐべきで、その開催中止判断は残念ながら日本政府しかできないと考えます。

 

 そのような中、本年3月21日、緊急事態宣言が解除されました。方や日本のみならず世界各国のコロナ感染は拡大し、フランスでは3月19日、パリ市及び近郊の16県が三回目のロックダウン宣言。加えて、世界各国からの観客無し、選手団のみならずその関連随行者も人数制限の決定。この7月までにはコロナ感染が収まる様相はない中でのオリンピックとは一体何なのか。その様相が大きく変貌したと考えるのが普通ではないでしょうか。

 加えて、現在開発中のワクチンの中で、「条件付き使用」の中国のワクチンを出場選手、並びにその関係者には接種、費用負担はIOCとの報道。私はWHO・テドロス事務局等の中国への対応は異常と映るのですが、IOCの中国への対応も何か似ているように私は思うのです。皆さん如何でしょうか。

 

 

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 本論から少し外れますが、私の今までの投稿の中で、しばしば取り上げておりますが、高校時代の友人の黒木茂夫氏。その兄さんで、日本癌研究の先駆者である黒木登志夫氏が昨年12月に「新型コロナの科学」を発刊されました。感染症やウィルスの基礎知識に加え、各国の対策、研究開発の現状を示す、極めて重要な著作です。素人の私も疑問に思っていた諸点をも解決させて頂きました。是非、御一読をお勧めします。全体を紹介するのではありませんが、私が注目をした幾つかを以下、ご紹介致します。

 

 その1ウィルスと細菌では、感染の様相がまるで異なる。細菌は、適当な条件さえそろえば、自ら増殖し、感染の機会を待つ。方や、ウィルスは身体の外では自ら増えることはない。ただ、減っていくだけである。

 

 その2 SARS、MERSも新型コロナであるが、今回の新型コロナは今までの新型コロナと異なり、無症状感染者からの感染が例外的な感染様式ではなく、むしろ50%近くが無症状感染者からの感染であったことが判明したこと。従い、感染者、病状のある人のみを検査対象としたのでは、感染源を固定できない。健康と思われる人を含め、全ての人を検査しなければならない。それでも感染は防げない。パンデミックは避けられない。このことが確認されたのは、昨年の5月始めである。日本を含め世界は、この恐ろしい現実を軽視した。今や、感染が収まる様子はない。(本書の57~58頁)

 

 その3 集団感染(クラスター)は圧倒的に屋内で発生。その感染の2大ルートは飛沫・エアロゾルと接触感染。従い、特効薬、ワクチンが行き渡らない現在では三密を避けること、マスク、手洗いが現在の最大の予防策である。

 

 その4 新型コロナウィルスの起源。新型コロナコウモリ由来であることは間違いない。武漢の海鮮市場が感染拡大のクラスターになったのは確かだが、海鮮市場の動物から感染が始まった可能性は低い。武漢ウィルス研究所は、コウモリのコロナウィルスを扱っていた。その実験室から陰性になっていないウィルスが外に出た可能性は否定できない。ただ、意図的に人工的に作られたウィルスである可能性はない。(本書42頁の要約)

 

 その5 台湾のコロナ対応、台湾は驚くべき早さで新型コロナに対応した。肺炎発生を最初に報告した、2019年12月31日に武漢からの入国者に対して検疫強化。1月5日には武漢地域を危険レベル1にした。中国によりWHOとの公式パイプを切られた台湾はWHO よりはるかに早く手を打った。中国とWHOを信頼していないからこそ、台湾自身の考えで迅速に行動できたこと。加え2003年にSARS、2015年にMARSで犠牲者を出し、新型の感染症に敏感であったこと。現政権は2018年の地方選挙で大敗し、その反省から有権者とのコミニュケイションを見直ししたこと。マスクの輸出禁止、国民保険のIDを利用し、マスク配給システムの完備したことで、マスクに対する対応で国民が政府に信頼を寄せた、と著者は記しております。

 

 

 


はじめに

 

 中国の武漢で発生したと言われる新型コロナ・ウィールス、いわば人因的事象は全く別な事象を生み出し、我々の経験してきた1995年の阪神・淡路大震災他、数々の自然災害の結果を大きく超え、今後、甚大な被害を日本のみならず世界各国に及ぼしていくと考えます。2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻から生じた世界的な金融危機を超えて、1929年の世界恐慌以降、いわば、現代の我々が経験していない世界大恐慌が起こる可能性もありえると、私は考えております。

 

 一方、習近平政権による武漢封鎖の有り様は他国とは大きく異なり、事件とも称すべき異常なる事態が起きていたのではないでしょうか。いずれは明らかになることと思いますが、そうした一連の事象は中国の習近平共産党独裁政権が強引に進める「一帯一路」政策にも、今後大きな影響を及ぼし、それがどのように変化するのか、あるいは変化せざるをえないのか、注目していく必要を私は感じております。いずれにもせよ今回の新型コロナ・ウィールス事件は其の治療薬ないしはワクチンが開発されたとしても、其の影響は世界の経済・政治にも長期に亘り重大な影響を与えていくと考えます。我々は単に政府、東京都知事を責める、あるいは批判するだけでなく、個人として、何を堪え、何を心構え、来たるべき恐れのある世界恐慌に如何に備えていくのかが問われてくるのかもしれません。

 

 そのような私の現状認識の中、本書を取り上げたことは意味があるのかは問われると思いますが、私に取っては極めて重要な著書に出会った、との思いを強く持っております。

 

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九」

 

 本書は2019年6月1日、明治大学グローバルフロントで開かれた国際シンポジュウム、「六四・天安門事件を考える・・民主化はなぜ挫折したのか」の報告・論文集です。其の意図は中国の現執行体制の基礎を形作った六四・天安門事件を世界史レベルで再検討し、グローバル化した世界の政治・経済システムにおいてますます存在感を増して行く中国の現在、今後の在り方、そして習近平体制のゆくえを見定めること。其のシンポジュウムで共通し念頭に置いたことは、①なぜ天安門事件はあの時、あのようなかたちで起きたのか。其の歴史背景とはいかなるものだったのか。②六月四日のその日、天安門広場、そして「民主化運動」が波及した全国各地で、いったい何が起きたのか。③天安門を舞台とする一連の「民主化運動」、そして全国規模に広がった「民主化運動」を問うことの現在的、且つ将来的意味は何のか。という三点にあったと記されております。

 

 編者、執筆者である政治学専攻の石井知章明治大学教授の記述を中心に私が共感し、僭越ながら賛同する諸点等を以下、記して行きたいと思います。本書の序章で次のように述べています。

 

その1 政治的象徴としての天安門事件

 

 今日において六四・天安門事件そのものの意味を考察する際、それを中国という一国内的コンテクストで「民主化の挫折」としてとらえることは、世界史的位置において理解するうえでけっして十分ではない。その前提作業として、われわれはまず、1989年を象徴しているいわゆる「東欧革命」の意義を歴史的に踏まえておかなければならない。・・(中略)東欧諸国が次々と民主化し、その結果、ソ連が消滅したものの、こうしたヨーロッパでの大きなうねりとは極めて対象的に、中国では1989年というマクロ・ヒストリーの「反動」そのものというべき、それ以前よりさらに強固なる中国共産党一党独裁体制が残存したことになる。いいかえれば、1980年に社会主義国家ポーランドで発生した「民主化運動」の激震は、1980年代後半、中国への「民主化運動」として波及したものの、1989年6月4日の天安門事件という、「血の弾圧」によっていったんは挫折していった。だがそれは、ゴルバチョフのソ連を経由して東欧へと逆投影されるかたちで、いわば「反面教師」として継承されることで「東欧革命」として実現し、その結果として、ソ連が1991年12月、最終的に崩壊したことになる。(本書8頁)

 

 その2 習近平体制の成立の伴う市民社会の弾圧と「民主化運動」の復活

 

 ポスト天安門事件(1989年)期に形成された中国共産党専制独裁体制は、むしろ習近平体制の成立(2013年3月)以降、市民社会に対する弾圧はますます強めている。2013年5月には、党中央が普遍的価値、報道の自由、市民(公民)社会、公民の権利、中国共産党の歴史的誤り、権貴(既得権)資産階級、司法の独立には論じてはならぬとする「七不講」(七つのダブー)を発表した。

 

 こうした経緯の中、2014年の台湾において、中台服務貿易協定に反対する「ひまわり運動」、続いて同年、香港において行政長官選挙をめぐっての「雨傘運動」、更には天安門事件30周年を迎えた2019年、それは中国建国70年になるが、同年6月中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案反対、並びに親中派の行政官辞任を求める香港では史上最大の2百万人による抗議デモに繋がっていった。2014年の雨傘運動では一切妥協せずに運動を内側から解体させた中国習近平政権の対香港強硬姿勢が、ここに来て初めて挫折したのです。石井氏は次のように記しております。

 

 「逃亡犯条例」改正案をめぐる政治状況に多くの人々が天安門事件の悪夢を想起しつつあったのも、ごく自然な成り行きだといえる。こうしたことから、中国の現行体制の基礎を形作った天安門事件を世界史レベルにおいて再検討することは、グローバル化した世界の政治・経済システムにおいてますます存在感を増している中国の在り方を考えるうえで、さらに習近平体制の今後のゆくえを見定めるためにも、必要不可欠の前提作業となっている。(17頁)

 

 又、英米圏を代表する中国通のアンドリュー・ネイサン コロンビア大学教授は本書の第一章「習近平と天安門の教訓」の中で、1989年6月19日から21日までの中国共産党政治局の拡大会議、及び6月23日から24日にわたる中央委員会第四回全体会議の内容を以下のように記しております。

 

 会議の目的は、最高指導者鄧小平のもと次の二つ項目について全党員の意思統一を図ることだった。北京周辺と天安門広場に配置された数万の武装部隊は平和的に抗議者に対処したこと、そして趙紫陽総書記の職務を剥奪すること。会議には趙紫陽のほか、政治局員と経験豊かな政界の長老達が出席した。出席者達がどう感じていようとも、全ての発言者が危機に対してどんな考えを持っていようと、鎮圧をどう感じていようと、全ての発言は鄧小平の決定の正しさを認めなければならなかった。誓いは二つの文書の内容に賛意を示す形で進められた。会場で配られた二つの文書は、鄧小平が6月9日に戒厳部隊に謝意を示した演説と、趙紫陽の強硬なライバルである李鵬総理による「反党反社会主義動乱において趙紫陽同志が犯した誤りに関する報告」だった。会議では「完全に同意」あるいは「完全に支持」といった文言が繰り返され、発言者の一人一人が衆人環視の中で厳粛に宣誓をするかのようだった。こうした儀式は事件に決着をつけ、危機的状況で異なる意見を排除し、党内の思想を統一した上で再び社会の統治に着手するためのものだった。

 

 その後、6月23日から24日に共産党は第十三回中央委員会第四全体会議(四中全会)を開いた。中央委員百七十五人のほか、三百余りの顧問委員会メンバー、閣僚級幹部らが出席し、計四百八十九人が北京西部の京西賓館に集まった。会議では拡大会議の文書を学習させ、思想統一を図り、党の求心力を回復させ、天安門事件の教訓を踏まえた今後の路線をたたき込んだ。・・(中略)習近平の政権運営は四中全会の教訓をしっかりと学んでいるのだ。習の政治、すなわち一党独裁政治は、天安門事件の悲劇がもたらした直接的な結果なのだ。(28~29頁)

 

 その3 1989年問題を巡る日本国内の言説状況

 

 本書の編集会議でも大きな問題として捉えたのは日本の学術・思想界の「歴史修正主義」とも称すべき現実で、その傾向は「進歩的」とされる「左派」において急速に進んでいる、とのことです。石井氏は次のように記しています。

 

 東欧の体制転換が「経済的自由主義」と「政治的非自由主義」との結合をもたらしたのは事実であろう。だが、記述のような東アジアにおける中国共産党の一党独裁政治への異議申し立てすら、「新自由主義」的反応として理解されるのであれば、さらに1989年の天安門事件を媒介して初めて可能となったとう東欧における体制転換も「市民社会の復権」ではなく、あくまで独裁専制政治による「血の弾圧」とは無縁な「新自由主義革命」としてとらえるべきだ、ということになるのであろうか。・・(中略)もちろん、そのような理解が大きな矛盾をきたすことは、彼ら自身の「沈黙」によってすでにして表明されており、そのことに触れること自体、自らの立論が大きく揺るがざるを得ないことを示唆している。(295頁)

 

 尚、具体的には岩波の「思想1989特集号」(2019年10月)の分析視座・方法論的枠組みに対する強烈な違和感についてである。あえて一言でいうなら、それは国家による「集団的暴力」に対する記憶が薄れるにともなって、1989年問題を巡る「歴史修正義」ともいうべき現象が、「進歩的」される「左派」において急速に進んでいるようにしか思えない、ということである。

 

・・(中略)1989年を巡る様々な歴史的事象、あるいはそれらについての言説を扱うのに際し、自らに都合の悪い過去を過小評価、あるいは排除するなど、そのイデオロギーの立場とは矛盾しないよう、過去に関する理解の骨組み自体を修正するという誤りを、いまや「進歩的」とされる「左派」が犯しはじめているのではないか、ということにある。しかも、その左右両者の根底で共通しているのは、いわば国家による「集団的暴力」を自らの思想形成の契機としてほとんど取り込めていないのでは、という疑義の存在である。きわめて興味深いことに、同誌で収められている中国関連の論文ですら、2019年までに中国で起きたいくつかのごく最近のできごとに触れているにもかかわらず、現在の中国政治のあり方に対する「社会的反応」として台湾で繰り広げられたできごと(ひまわり運動)、そして香港で起きたできごと(雨傘運動)、さらに2019年11月現在でも続いているできごと(逃亡犯条例改正への抗議デモ)には、いずれも一切言及していないのである。しかもこうした傾向は、岩波『思想』だけにとどまらない。日本における中国研究を巡る最大規模の学会である「日本現代中国学会」がその全国大会(2019年10月)の共通論題として選んだのは「中国における民間」という天安門事件と全く無縁のテーマーであり、しかもこの大会の実行委員長は、その「大会趣旨」で、1989年問題を「五四運動百年と〈1969〉五十年」として捉え、天安門事件30周年というモメントを完全に避けて通っているのである。これが1989年か30周年を迎える2019年における日本の学術・思想界の現実である。(293~294頁)

 

 如何思われますか。続いて石井氏は「一方の『右派』が安倍政権に対する『忖度』を繰り返しているように見えるのに対して、同じように『左派』は中国の習近平体制の対する「忖度」をほとんど無意識のうちに、しかも中国とともに暗黙裡に行っているようにしか見えない、という事実に突き当たる。」(296頁)、と鋭く説いています。私は共感し、僭越ながら賛同するところです。

 

リャオ・イーウー著「銃弾とアヘン」(土屋昌明・島本まさき・及川淳子訳 白水社)の薦め

 

 掲題の著作は冒頭の「六四と一九八九」の編者で、本書の第七章「一九八九年の知的系譜」を執筆された中央大学准教授・及川淳子氏も訳者に加わった著作です。上掲書は六四・天安門事件に関わり実刑判決を受け、服役した人々へのインタビューを記録したものです。そして本書の特徴は事件の際に注目された著名人や学生リーダーではなく、事件に関わった市民のインタビュー記録です。彼らは獄中で残忍な虐待を受け、出所後もトラウマを抱えたり、差別や偏見に直面するなど、その内容は30数年前から、現在に至るまで続いているのです。

 

 尚、「銃弾」とは六四の弾圧、「アヘン」とは中国の1990年代以降の「金儲け」による人々の脱政治化、奴隷化を喩えております。そのインタビュー記録は眼を背けたくなるほど残酷、残虐の実態であり、ナチスがユダヤ人に行った残虐行為を私は思い起こします。しかも、このような残虐行為が同じ民族の中で、共産党独裁政権の中、連綿と続いていた、否続いている現実です。私は中国化への集団教育と称するウイグル人への弾圧、連綿と続くチベット他少数民族への扱い等々に共産党独裁政権のあり方に大きな疑念を想起せざるを得ません。私は今回のコロナ事件に遭遇し、改めて、中国共産党独裁政権が強引に進める「一帯一路」の現状、その行く末に、大きな疑念・不安を禁じ得ないのです。本書も合わせお読み頂くことをお薦めする次第です。

 

おわりにあたり

 

 今回も本書の全体を紹介するわけでもなく、只、私が共感した箇所のみの記述で、本書の記述者の先生方には、大変失礼極まりないと思っております。

 

 冒頭にも記したように、収束が全く見えない新型コロナウィールス事件の解決には相当な長期間を要する上に、この事件は今後の日本のみならず世界政治・経済に、現代の我々が経験したことがないような状況を生み出すのではないか、と私は考えております。そのような現状にあって、我国はどのような方向性を打ち出し、対処・対応していくのかが正しく問われてくると思います。今回、全く価値観を異にする中国共産党独裁政権の習近平国家主席を国賓としての訪日は延期されておりますが、将来を見据えた中、日本にとってそれは、むしろ幸運なことであったと考えております。

 

 振り返ってみれば、中国はかっての旧ソ連との一触即発の状況下、米国及び日本との関係を強化すべく現実もありました。日本とは1972年、時の田中首相、大平外相の決断は高く評価しますが、日中共同声明の調印で国交回復。続いて、その日中国交回復に尽力した周恩来首相の追悼に際し生じた1976年の第一次天安門事件が起きました。その2年後、1978年8月に日中平和友好条約締結。同年10月には、故周恩来首相のあと、権力を持ち始めた鄧小平副主席の戦後初の公式訪日。そうした経緯の中、1989年の第二次天安門事件の発生。その天安門事件の後、欧米に先駆けて中国との窓口を再開したのが日本です。その十年後の1998年には、中国との平和友好条約締結20周年に、江沢民国家主席が国賓として訪日。さらに、その10年後の2008年には胡錦濤国家主席の国賓として二人目の訪日。このような経緯があるにも関わらず、日本と中国との関係は歴史認識問題を抱え、好転していない現実があるわけです。何故なのか、日本の時の政権の対応に問題があるのか、否か。改めて中国共産党独裁政権の現実、価値観が大きく異なる、その現実をしっかり見定め、中国との関係を見ていく必要があると、私は考えております。ますます権力を集中させる習近平主席は1989年の天安門事件の陣頭指揮を執った鄧小平の有り様を忠実に学び、あるいはそれ以上に共産党独裁政権の有り様を強引に進めているのではないでしょうか。そのような共産党独裁政権の有り様は一部の支配層、人民解放軍の幹部等には豊かな生活を享受させていようとも、農民工あるいは戸籍さえ持てない数億の人々、更には少数民族の人々は監視社会の中、世界第二の経済大国になったとは言え、豊かさとは無縁の実情ではないでしょうか。果たして中国は何処へ向かうのでしょうか。そして中国共産党独裁政権の発展は世界の人々に幸福をもたらすでしょうか。

 

補筆(2021年3月24日)

 

 2021年3月18、19日、アラスカ州アンカレッジで行われた米国と中国の外交トップによる協議の有り様に、皆さん、如何思われたでしょうか。

 人権や経済で同盟国と組んで、中国封じ込めを狙う米国と軍事や内政で強権を誇示する中国との政治体制や国家理念にも立ち入る、新たなる次元に突入したわけです。この衝突は日本も決して他人事ではなく、最早、日本の平和ボケは許されないのです。

 ブリンケン国務長官は「新疆ウイグル自治区、香港、台湾。米国へのサイバー攻撃と同盟国への経済的な強制行為を含む、中国の行動に対する私たちの深い、懸念を提議したい。どれも世界の安定を保つルールに基づく秩序を脅かし、単なる(中国の)内政問題ではない。」との発言に対し、中国外交トップのャン・ジェチー共産党政治局員は「中国には中国式の民主主義がある。米国民の多くは民主主義への信頼を失っている。」等々、長時間に亘り反論したとの報道。(3月21日の日経新聞朝刊)

 

 私はその報道中身の信憑性に疑問も持ちますが、一方、中国式の民主主義とは何でしょうか。民主主義の基本的概念は、先ずもって人権擁護、並びに信教、言論・思想の自由が不可欠です。方や、民主主義は国民、人民を統治する概念ではありません。

 

 共産党独裁政権中国の一帯一路の強硬な推進は、決して世界の人々を幸福にはしません。のみならず10億を超える中国の人民も決して幸せにはしません。中国の共産党幹部、人民解放軍の一部のみが裕福になるだけです。むしろ多くの国民は中国から他国への流出が強まるのではないでしょうか。況んや現在中国以外に生活の拠点を持って居る華僑、華人を含め、中国の方方が故郷である中国への帰還現象が始まることはない、と私は考えます。

 

 続いて、3月22日以降、30年ぶりに、米国に同調し、EU、英国、カナダも中国のウィグル政策をウィグル人権侵害とし、対中制裁を決定しました。日本の現在、将来の在り方を問う、極めて重大な現実に直面したのです。日本は1989年の天安門事件に際し、他国に先駆けて中国との窓口を開いた、あの二の舞は決して取ってはならないのです。中国との経済問題については、我国にこのコロナ禍に加え、更なる深刻な影響を及ぼしたとしても、価値観を共有する西欧諸国のみならず価値観を共有する諸国と共に歩むことが、今後の日本にとって絶対に必要と私は考えます。我々はこの平和ボケから脱出しなければなりません。正にその時が来たのです。(2021年3月24日)

 

 今回の武漢で発生したと思われる新型コロナウィールス発生事件に遭遇し、中国共産党独裁政権の異様な有り様に、世界各国は改めて不吉な思いを与えて行くのではないでしょうか。皆さん、如何に思われるでしょうか。

 

 いつもの蛇足になりますが、テレビ報道で観る、国会討論の現状は余りにもお粗末極まる状況です。議案は論議されることなく、従い、対案も出されることもなく、関連事項と称する事項で唯々反対、唯々時間を浪費する異様な国会討論と称するものはいったい、いつ頃から生じてきたのでしょうか。二言目には「国民、国民」と称しますが、ほんの一部の野党は別として野党には政党としての理念、思想が皆無なのではないでしょうか。従い、政策論、対案、提言等はどだい無理のことで、政権交代への準備は全く持っていないのです。いずれにもせよ、この国会討論と称される、その無駄な状況は限界の極みに来ていると、私は考えております。ただその国会議員を選んだのも我々国民の一人一人なのです。民主主義と称する制度の一つの大きな欠陥なのでしょう。

 

 加えて、私には商業主義に浸かったとしか思えませんが、独りよがりの正義を振りかざすマスメデイア。情報手段は多様化しては来ておりますが、テレビの報道番組と称する各局報道合戦は、きわめて危険な段階に来たのではないでしょうか。そこに登場する司会者、評論家、ジャーナリストと評される人々、更には局の方針に従っているとしか見えない、ただ言葉を披瀝する芸能人等々の頻繁な登場。これは日本だけの現象なのでしょうか。戦前、戦中、戦後となんら反省が見られないのはマスメデイアと考えるのは私だけでしょうか。今回のコロナウィールス発生に際し、繰り広げられるテレビの報道番組に接し、改めてマスメデイアの危険性を感じるところです。

 

 昨日、安倍総理による緊急事態宣言が出されました。戦後最大の危機との表現です。

 

2020年4月8日

                        淸宮昌章

 

参考文書

 

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九」(白水社)

リャオ・イー・ウー「銃弾とアヘン」(土屋昌明・島本まさき・及川淳子訳 白水社)

デイヴィド・アイマー「辺境中国」(近藤隆文訳 白水社)

安田峰俊「八九六四 天安門事件は再び起こるか」(角川書店) 

中澤克二「習近平の権力闘争」(日本経済新聞社)

同  上「習近平帝国の暗号」(同 上)

マイケル・ピルスベリー「China2049」(野中香方子訳 日経BP社)

麻生晴一郎「変わる中国 草の根の現場を訪ねて」(潮出版社)

ロバート・D・カプラン「南シナ海 中国海洋覇権の野望」(奥山真司訳 講談社)

阿南勇亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

フランク・デイケータ-「毛沢東の大飢饉」(中川治子訳 草思社文庫)

黒木登志夫「新型コロナの科学」(中公新書)

 他