清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

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再々投稿に当たって

 

   元投稿は、4年前の2018年9月14日の原稿で、2021年3月1日に補筆しました。今日のメデイアの由々しき現状に鑑み、改めて再投稿する次第です。

 

 昨今の所謂テレビ等の報道番組と称される中で、「故安倍晋三元総理・国葬反対」報道は、あたかも国民各層に基づいているかの如きです。一方、旧統一教会問題については、本体の旧統一教会に対しては、何らの本格的な調査・報道もせず、あるいは出来ないのか、ただ政権政党である自民党、並びに自民党議員のみへの攻撃とも見える安易な報道に終始しております。こうした「報道番組」と称する現状は、メデイアの在り方として、極めて異様・危険な現象と思うのです。メデイア・報道関係者(かっては報道機関という言葉もありましたが、今は死語となっております。)は旧統一教会とは何らの関わりもないのでしょうか。何も関心がなかったとすれば、それも不思議なことです。方や、今になって急に取り上げるのであれば、報道関係者(社)自身の不勉強そのものの現れではないでしょうか。

 

 所謂「報道番組」と称する、全てではありませんが、あたかも国民全体、所謂国民の声を代弁するがの如く流し続ける現状は極めて異様、且つ危険な現象と考えます。すなわち、正義の仮面を被った如き、異様な事象であると、私は思うのです。尚、そうした現状を生み出す要因は所謂・報道番組自体、あるいは企画・運営する、その企業体自身の「商業主義」の冴えたる現実から来るのではないでしょうか。

 

   正義の仮面を被った如き、偏向報道が最も影響を与えるのは所謂高年齢者層であって、所謂国民全体を反映しているは思えません。ただ選挙等の政治参画には、私を含め、そうした高年齢者層の影響が極めて大きく、残念ながら、大きく政局に反映し、日本を危険な状況に追い込んで行くのです。過去の日本がそうでした。

   大きく変貌している現実世界にありながら、この平和ボケの現実。メデイアは、またもや日本を間違った方向に向かわせる危険性を私は感じるのです。如何でしょうか。そんな苛々した思いの中、旧稿を改めて再投稿した次第です。

 

    尚、そうしたメデイアに翻弄される我国の過去を振り返り、弊著「メデイアの正義とは何か・・報道の自由と責任」(文芸社)を、今年4月に出版しました。お時間とご興味があればですが、併せ御一読、頂ければ幸いです

 

 7年ほど前になりますが気ままに始めた、弊ブログ「清宮書房」への投稿数は109件となります。非常に長い駄文ですがお陰様で、コロナ禍の自粛生活が続いた為でしょうか、アクセスがこの数年、何故か増えて62,000台となりました。加えて、上位注目記事も大きく変動しており、4,5年前の投稿が上位に復活してきております。本投稿も4年前のものですが何故か、4 位になっています。今までの投稿とは少し趣の変わったものです。

 東京都武蔵野・吉祥寺の、とある古本屋で偶然、本書に出会い、買い求めたものです。私自身の想い出などを加え、書き記しました。文学作品の紹介ではありませんが、改めて以下、ご一覧頂ければ幸いです。

 

   2022年9月28日

                               清宮昌章

 

はじめに

 

 東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。

 

 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺譚」の一読、「断腸亭日乗」を拾い読みした程度で、その作品はほとんど読んではおりません。偶々、自分なりに昭和の時代を省みる資料のひとつとして、半藤一利「荷風さんの昭和」、「荷風さんの戦後」を読み込み、荷風が風景を描く文章の素晴らしさを私なりに感じ入っては居りました。

 

 また、私の単なる思い出に過ぎませんが、私が高校一年の学校帰り、時折、永井荷風が京成線の終点の押上駅から乗って来られ、隣に座ったり、前に座ったりされていたことを思い起こします。いつも、例の帽子をかぶり、やや重そうなボストンバッグを座った両脚の真ん中の床に置いておりました。浅草通いの帰りだったのでしょうか。偶々、お互い帰り道での遭遇だったのですが、当時は永井荷風とは気が付かず、数年経って知ったわけです。芥川龍之介、堀辰雄他文人を輩出した旧三中に私も偶然通った次第ですが、荷風に気が付かなかった自分に今もって、残念な気もしております。

 

 本書は以下の印象深い冒頭から始ります。

 

 恋に「片恋」があるように、人と人との間にも、それに似た悲しい思い出があるものだ。私と永井荷風との関係の如きも、そう言えるだろう。もし荷風という作家が丁度あの時私の目の前にあらわれなかったら、私は小説家にはならなかったろうと思う。それほど・・私の一生を左右したほど大きな存在だった荷風に対して、私はついにわが崇拝の思いを遂げる機会にすら恵まれなかった。それだけならまだいい。私は荷風一人を目当てに、あわよくば彼に褒められるかもしれないと思って書いた第一作を、彼の個人雑誌で嘲笑された。・・(中略)荷風に教わりたくて、私は三田の文科にはいったが、とうとう教わらずにしまった。顧みるに、荷風の文学に惚れて惚れて惚れぬいて、得たものは嘲笑に始って悪声に終わったのだ。こういう人生もまた逸興であろう.(3、4頁) 

 

 続いて、そのあとがきに加え、追記に、これまた強烈な記述があります。以下ご紹介致しますが、そうした一連の記述が目に飛び込んできたことが本書を買い求めた大きな理由なのです。

 

 彼の「日記」が語っているように、荷風は日本には珍しい血の冷たいエゴイストである。荷風に親譲りの財産がなく、彼の好きなボードレールのように、原稿料で生活して行かなければならない作家であり、いやでも応でも、あのエゴイストを剥き出しにして現実を生活しなかったことを私はかえすがえすも、彼のためにも、日本の文壇のためにも、大きな損失だったと思う。いや、それが本当の小説家の生き方なのだ。

漱石に「道草」を書かせ、鴎外に「渋江抽斎」を書かせたように、荷風に彼自身のエゴイズムがいかに現実生活と悪戦苦闘したかを書かせたら、日本のたった一人の特異な小説家が生まれ出たと思うのだ。財産があったばかりに、彼独特のエゴイズムを直接現実生活に接触する機会をなからしめ、逃避の、一人よがりの、隠居のような、趣味の生活に一生を終わらせたことは、一生を誤ったとしか思えず、あたら才能を完全に発揮させず一生を終わらせたことは、幾ら考えても残念で仕方がない。

 荷風は一種の名文家に違いない。しかし、鴎外が「渋江抽斎」で自分の文体を完成したように、また徳田秋声が「のらもの」で彼の文体を完成したように、荷風は彼自身の文体を完成しずに終わった。若し彼が私の言うように、彼の性格で現実の人生を生活したら、恐らく彼の好きなボードレールのように、彼自身の本当の名文を生んだであろう。

 そういう意味でも、私は彼が性格そのもので生活と取り組まなかったことを取り返しの付かぬ大きな失敗だったと思わずにはいられない。(391、392頁)

 

 このあとがきの日付は、永井荷風死去13年後の昭和47年10月31日です。加えて、小島政二郎の甥、稲積光夫が書いた追記の日付は平成19年7月16日となっています。即ち、本書の発刊には原稿完成から35年の年月が流れたわけです。その訳は小島政二郎が発刊しようとした時点では、永井家の許可が得られず、35年後に、鳥影社より「小説としても資料価値としても素晴らしい」とのことで、幻の作品であった「小説 永井荷風」が日の目を見ることになったわけです。

 

 そして、そのあとがきから46年を経過した今年、私は、吉祥寺の風情漂う古本屋で本書と遭遇したわけです。本書は明治、大正、昭和の文壇を垣間見る上でも、極めて貴重なものと思いまます。今回は荷風の文学云々とはだいぶ隔たりますが、著者が荷風の生い立ち、その性格について記述された、私には強く印象に残った箇所を私なりに紹介致したいと思います。

 

永井荷風との出会い

 

 小島政二郎は冒頭に記しております。荷風が「あめりか物語」と「ふらんす物語」とを土産に、パリから帰ってきた当時の颯爽とした姿。すなわち六尺近い上背、リュウとした黒の洋服に、黒のボヘミアン・タイを牡丹の花のように大きく靡かせ、色白の、面長の顔に、長い髪の毛を真ん中から分けた、当時の文士とは似て似つかぬ荷風を私はみんなに見せたかった。著者は荷風に憧れ、小説家を目指したのです。荷風より15才より若い少年でした。ただ、当時の文士は雑誌社が取り仕切る原稿料だけの生活は苦しく、文士には家を貸してくれなかったとのことです。その状況は明治、大正、昭和になってからも然りで、原稿料だけで一家を支えて行けるような時代の来ることをしじゅう文士達は話題にしていた、とのこと。当時の著者自身の状況を次のように述べています。

 

 一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、路地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素すぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前に連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。(10,11頁)

 

 原稿料を払って雑誌に載せた以上、その作品の版権は作者にはなく雑誌社にあると考えられていた。その後、印税という制度が導入・確立され、今日にまで至っている。それは森鴎外の多大な努力のお陰であり、その功績は極めて大きく、それ以降の印税の利得者は、鴎外の恩を忘れるな、と著者は記しています。それ以前では、文壇の大御所の菊池寛、芥川さえ、一方に勤めを持ちながら小説を書く二重生活を呪っていた、とのことです。いずれにもせよ、印税制度がない当時の状況にあって小島政二郎は貧乏暮らしを覚悟の上、小説家を目指すわけです。アメリカ及びフランス帰りの如何にも颯爽とした荷風、そして、「あめりか物語」、「ふらんす物語」が著者に大きな影響を与えたのかが分ります。尚、「あめりか物語」については次の如く記しております。

 

 「あめりか物語」には、小説にならない風景描写や、落葉に寄せた感傷や、そんな種類の作品が少なくない。が、そこに盛られている彼の感想が新鮮で・・これまでの日本の文壇にはなかった豊かな、色彩のある、歌うような文体で語られていると、私達はそれだけでウットリさせられてしまうのだった。(21頁)

 

荷風の生い立ち、その性格

 

 荷風は明治12年、永井家十二代目永井久一郎の長男として、東京牛込大久保余丁町の千坪もある来青閣にて生まれます。永井家は徳川家康の家臣で、所謂名家であり旧家でした。父である久一郎は儒学を修める旁ら、詩をも学び、その後、神田一ッ橋の大学南校に入り、更にアメリカ留学ではプリンストン大学他で学びます。その後、内務省衛生局に勤め、東京帝国大学書記官になり、文部省会計局長を最後に官を辞し、日本郵船の上海支店長、横浜支店長を歴任しています。   

 所謂、荷風は金持ちの名家育ちで、当時の文士とは、その環境が大きく異なる乳母日傘育ちであったのです。父とは異なり、高等師範の付属中学では二度落第、徴兵検査も不合格。早熟でその生活は所謂乱れたものでしたが、小説家になるとの意志は極めて強い少年で、厳格な父親には大きな庇護を受けながらも最後まで怖く、逃げ回っていた。父親が望む大学はおろか、高校にも進まず小説家になったら父親から勘当される怖れで、その備えのために無名の落語家「むらく」に弟子入をしていたこともある、とのことです。何とかして、自分の才能を見出そうとしての足搔きでもあったのでしょう。著者は次のように記しています。

 

 そうして何をやっても駄目で、また素の小説家に戻って来たのだと思う。あれだけ迷った挙句に、やっとこれ以外に自分の行く道はないと覚悟を決めたのだと思う。いや応なしに、勘当されたら勘当された時のことだという腹が・・というと立派だが、そうじゃない、一種の不貞腐れでそうなったのだと思う。・・(中略)私のつくづく感心するのは、坊ちゃんの向こう見ずに似ているとは言え、無鉄砲な勇気と、一種の情熱と、こうと思ったことは必ず実行する青年らしい実行力と、この三つのものを持っている荷風の姿を彷彿としずにいられないことだ。(65頁)

 

 父親としては、荷風のそうした怠惰な生活に区切りを打ち切らせ、真面目な勤め人にさせるべく、荷風数え25才の時、アメリカ行きを命じます。そのときの荷風の心境を著者は次のように記しています。

 

 若い彼の心は、恐らく悲喜こもごもだったろう。父の命ずるままにアメリカに於いて会社員となる素地を作る自信は恐らくなかったろう。いや、そんな道を辿ろうとする気持ちは、さらさらなかったに違いない。何年かの後に帰ってきたときの父の失望、いや、激怒を思うと心は重く沈む一方だった。しかし外国の土を踏み、外国の生活を身を以って味わうことのできる喜びは、飛び立つほどに大きかったに違いない。彼は身の幸運を父に向かって感謝しずにはいられなかったろう。(72,73頁)

 

 荷風のアメリカでの生活が始ります。父親のつてで、数カ所の勤めを変えながらも、ハイスクールに入り、再びフランス語の勉強を始め、ついには直接モーパッサン他を原語で読みこなすに至ります。結果的には、当時の日本の自然主義革命に曝されず、無理のない道程を経て自己の文学を発見することができるに至るになった、と著者は記しています。タコマ、シアトル、ワシントンを経た荷風は、再び父の斡旋でニューヨークの横浜正金に勤めます。そしてニューヨークに追ってきた娼婦イデスとの同棲生活が始ります。そうしたことは父からの送金はあったとしても、自らの俸給での生活です。足掛け五年、そして荷風が小説家になることを厳しく禁じた父は、荷風が文学研究のために、フランスに渡ることを峻拒しながらも、彼のために、陰では東京で正金銀行の頭取に遭い、パリではなしにリヨンの支店勤務を頼むわけです。そしてリヨン在は正味九ヶ月、パリはその後二ヶ月を過ごした後、荷風は日本に帰国します。

 

 尚、著者は荷風の合理的な生活法、金の使い方を身につけたのは一般に言われるフランスではなくアメリカであり、一生の一番大切な時期に、アメリカで自活生活したことである、と記しています。

 

アメリカでの自活生活

 

 すこし長くなりますが著者の重要な視点なので、以下ご紹介致します。

 

 自分で稼いだ金で実際に一日一日生活するということは、小説家にとって、いや、小説家に限らない。どんな人間にとっても、大事な意味がある。自己を発見する近道だからだ。たといどんな生活をしようとも、肝にこたえるような生活をしていれば・・。彼はイデスに惚れながら、惚れ合っている最中にも、別れることを考えている。これが荷風なのだ。荷風の個性なのだ。こうして一つ一つ、自分の個性を発見して行くのだ。それが生活の豊かさだ。・・(中略)自分の稼いだ金で自活するということは、誰でもやっている当たり前のことで、特に取り立てて問題にする程のことではない。百人が百人そう思うだろう。しかし、実はそうではないのだ。実に大事な大事なことなのだ。つまらない人は、何も学ばないかも知れない。しかし、つまらなくない人は、自己の日常生活から、大きなものを学ぶのだ。日常生活を置いて、何から人は大切なことを学ぶのだろうか。・・(中略)父の目の届かぬアメリカで、父の指図に従って神妙に銀行勤めをしていると見せ掛けて置いて、その実、女遊びはする、小説は書く、将来文学者として立つ準備は怠らない、何のことはない。父を瞞しながら、完全に自分の思うような生活を享楽していたのだ。享楽しながら、フランス語をものにしたこと。小説家としての荷風を「花咲く樹」にまで一人で育ち上げ点、彼は異端者だと思うが、文学に対してだけは信仰を持っていた。それも、熱烈な信仰を。(117から126頁)

 

帰国後の文士荷風

 

 満29才になりますが、8月に荷風は帰国します。その一月前には日本で「あめりか物語」が発売され未曾有の評判となり、そして彼は一躍流行作家となり、帰朝大歓迎を受けます。荷風の生涯で一番うれしかったことだろう、と著者は記しています。加えて、その「あめりか物語」が「アメリカ物語」ではなかったことも、魅力の一因であった、とのことです。その後、当時のめぼしい雑誌「中学世界」「趣味」「新潮」「中央公論」「「早稲田文学」「新小説」他に荷風の作品が載っていきました。その作品を上げると、「狐」「祝杯」「牡丹の客」「すみだ川」「見果てぬ夢」等々です。そして著者は以下の如く記しています。

 

 荷風は、実にいい時に褒められた。あれほど絶えず彼の念頭を去らなかった文壇が、双手をあげて満面の笑みを湛えて歓迎してくれたのだ。こんな仕合せな作家はめったにいない。私の知ってからだって、荷風以外は一人もいなかった。派手な売り出しをしたと言われる谷崎潤一郎だって、芥川龍之介だって、一部の味方から褒められたに過ぎない.(142頁)

 

 そして、明治43年、荷風31才の時、思わぬ幸運が訪れます。荷風が尊敬してやまぬ鴎外、森林太郎慶應義塾文学部顧問より、上田敏とも相談のことだが慶応義塾文学部大刷新の教授としての、以下の要請文を受け取ります。

 

 拝啓、御無音に打過ぎ候。「冷笑」愉快に拝見仕り居り候。陳者、今回慶応義塾文学部大刷新の計画中にこれあり候ところ、三田側一同先日の会議の結果、貴兄を聘して文学部の中心を作り、その上にて万事取り計らわんということに内定いたし候。

(中略)小生に於いて今回の件は是非貴兄の御承諾を得ずしてはやまざる決心に候。見込まれたるが因果なれば、追って上田君より申し込み相成り次第、ご承引下されたく、またそれまでに他の方面のことお決しなさらぬよう、くれぐれも願い上げ候。尚、義塾をして貴兄を重用せしむることは、小生極力取り計らい申すべく存じ居り候。二月四日

 荷風は喜んで受諾したに違いない。一生のうちで、両親に面目を施したのはこの時だけだったろう。物心ついてから、肩身がせまくなく父の顔を見ることが出来たのは、この時だったろう。(180頁)

 

  尚、荷風は大学の教授になったからと言って、別に生活態度を変えるようなことはなく、アメリカにいた時と同じような放蕩生活を送り続けたのです。むしろ地位も出来て、金も入るようになり、アメリカ以前での吉原、州崎から、新橋のような一等地の花柳界へ出はいりするようになります。そして著者は次のように述べています。

 

 どんな日常生活を送ろうが、当人のかってだが、その頃の荷風の日常は、私に言わせれば、退嬰的だった。新橋一丁目の清元梅吉の裏隣りに一家を構えたり、柳橋の代地河岸に引っ越したり、毎日のように梅吉のところへ清元を習いに通ったり、とかく花柳界情緒に浸るのを楽しみにいているような生活だった。

    

 (中略)そういう生活が、彼の芸術に影響をしずにはいなかった。浮世絵の美しさを論じた「浮世絵の鑑賞」や、ゴンクールの「北斎」や「歌麿」の翻訳や、江戸の狂歌を最大級に褒めたり、だんだん文学とは無縁のものとなって行った。「モーパッサンの石像を拝す」を執筆した頃の荷風はどこへ行ってしまったのだろう.。(248頁)

 

 後日、荷風は最後の元老西園寺公望公爵が開く文士との清談会(雨声会)の一員として招かれ、その席上で、公爵より「君のお父さんには、随分君のことで泣かされたものだよ。」と、侯爵が笑いながら言われ、「息子さんもあれだけの文学者になったのだから、何も言うことはないだろう」と、父の久一郎を宥めたと言う話だった、とのことです。尚、その大学教授の34才の時ですが、父親への怖さからでしょうか、下町の裕福な材木商の二十歳いくかいかぬ二女ヨネと結婚します。半年と続かず、著者はヨネに深い同情を表わしております。著者が学校の行き帰りに、四五度ほどヨネを見知っていて、その頃は十七八の清楚な細面のお嬢さんだったこともあり、同情が増したのかも知れません。その後、荷風はもう一度結婚していますが、それも半年と続かなかったとのことです。

 

 一方、その大学教授としての荷風の講義も評判はむしろ悪く、改革どころか学生も増えず、荷風は程なく大学を去って行きます。一枚看板の荷風のいなくなられた「三田文学」はへたへたと潰れ、荷風に憧れ慶応義塾には入った著者は途方に暮れます。当時では誰かの弟子になって何年か修行の後、先生に認められてどこかの雑誌に推薦してもらう外には文壇に出ていく道しかなかったわけです。「三田文学」を居城として文壇に出ていくつもりの著者達は、「禄を失って浪人の身になって見なければ、浪人の悲しみもつらさも分らないように、雑誌を失って見ないと、それを失った文学青年の途方に暮れた寂しさは分るまい。」(283頁)と、記しています。 

 

 そうした経緯もあり、著者の荷風に対する冒頭の記述になるのでしょうか。 一方、著者は荷風の作品について、つぎのようにも記しています。すこし長くなりますが以下、ご紹介します。

 

 荷風は人生を「物語」にする作家であった。男にも、女にも、人間的に肉薄しようとする興味はなかった。しかし、風俗や、小説が展開する場所、風景には、異常な興味と執念とを持っていた。「すみだ川」の人物は一人も生きていない。しかし、隅田川沿岸の風景描写は、小説に不必要なくらい詳細に生き生きと活写されている。彼が小説の舞台に使おうとする土地へは、煩を厭わず、時間を惜しまず、幾度でも出掛けて行った。そのせいで、我々は忘れない見事な風景描写に接することが出来る。前に抜粋した州崎の描写などそのいい例であろう。もっと示せと言われれば、私は咄嗟に幾つでも挙げることが出来る。芸者の衣装に荷風ほど筆を惜しまなかった作家いないだろう。大正時代の風俗を書き残して置くことに作者の使命を感じている感じ方に私はやはり異常性を感じないではいられない。全部彼の異常性の現れだと見て見られないこともあるまい。彼の作品の最も魅力的な箇所は、彼が無意識に情熱を発揮した時であろう.(336,337頁)

 

おわりに

 

 以上が、私が本書を読み、私なりに荷風の一端を垣間見たところを紹介致しました。肝心の荷風の文学についてはほとんど触れて居りません。片や、著者、小島政二郎は本書の中で荷風の作品あるいは日記の文章、著者自身の作品、更には佐藤春夫の詩、鴎外、久保田万太郎、芥川龍之介等々を取り上げ紹介し、荷風論を展開しております。そうしたことを私が省略したことは、何か内容のない、意味を持たないものになったかもしれません。ただ、省略あるいは避けた要因のひとつは、あたら紹介し、かえって著者の意図とは異なることになやもしれぬ、とも考えました。

 

 本書は「小説 永井荷風」との題名です。著者は「私達小説家は、題が極まった時はその小説が半分書けたようなものだ」と記しています。それは本書についても言えることなのでしょう。はじめにも記したように、本書は荷風が生きた明治、大正、昭和の文壇の状況を見る上でも貴重な資料となっております。一読をお勧め致します。

 

 2018年7月11日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

  小島政二郎「小説 永井荷風」(鳥影社)

  半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫)

  同   「荷風さんの戦後」(同)

  永井荷風「あめりか物語」(岩波文庫)

  その他