清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再び、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで  

 

改めて、再投稿

 

 74歳で現役を全て退き、40数年続けていたゴルフは時間が掛るため、テニスに転向しました。(その時点ではオフィシャル・ハンデイは7でした。)、テニスの経験はほとんどありませんが、自宅から歩いて数分のテニスクラブに入会し、午前中はテニス、午後は読書中心の気ままな日常を過ごしています。現役の友人たちもいる中、少し気が引けますが、私としては全く自由な気ままな日々を送ることにしました。

 同時に私なりに読み込もうと選び抜いた本で占められた私の書棚から、私なりに昭和の時代を再検討し、今の世相、更には今後の状況を私なりに考えて観ようとの想いで、はてなブログ「清宮書房」を始め出しました。偶々、テニス仲間が、かって出版社の編集に関わっており、テニスの休憩時間に私のブログを読みたいとのこと。加えて、投稿したブログの幾つかを抽出し、本として出版したいとのことになり、2014年4月、「書棚から顧みる昭和」の自費出版となった次第です。更には、友人達5人が発起人となり、千代田区内幸町のシーボニアメンズクラブで、立派な出版記念を開いて頂きました

 

 大きな地政学的変化に加え、なにふり構わぬ中国共産党習欣平独裁政権による強硬な「一帯一路」等々の推進。昨年から始まったロシアによるウクライナ侵略等々。由々しき自体に世界に遭遇しております。北朝鮮の動向も加わり、とりわけ日本は極めて容易ならぬ状況下に置かれています。

 

 このような状況下のためでしょうか、ここ数年前に投稿した弊・はてなブログ「清宮書房」へのアクセス数は69,000台となっております。下記投稿は2年前のものですが、投稿数100件ほどの中、注目記事の上位5位の中、一位になっております。

 

 また、文芸社より弊投稿の幾つかを抽出し、一冊の本にしたいとのお話を頂き、昨年の春に「メデイアの正義とは何か・・報道の自由と責任」が出版されました。ブログから抽出し

 

 このような経緯の中、再び文芸社より私の半世紀に亘る仕事人生、並びにその中でお世話になった方々、さらには私に大きな影響を紀与えた方々との出会いをブログから抽出し出版したいとの有り難いお話を頂きました。この7月までには全国出版の予定です。

 この度の膵臓癌で入院し、抗がん剤化学療法を続けますが、後数年は生きると思います。寿命まで、癌と戦って行く所存です。親友曰く「闘って行くことが我々の共通の使命だ。」私も納得です。

 

2023年3月10日

 

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再々投稿に際して

 

 今から数年前に投稿した、佐伯啓思著「アメリカニズムの終焉」を若干の補足を加え、今年1月25日に再投稿しました。本投稿が96件の中で注目記事の1位になってきております。私としては何か複雑な気持ちです。コロナ禍の自粛生活に加え、アフガン、更には今回の菅政権の政変(?)の影響でしょうか、弊ブログの数年前の投稿へのアクセスが急増し、この一ヶ月半で2,500件を超え、総数も64,000台半ばに入ろうとています。

 尚、色々と考えさせられ、2020年3月11日に投稿した、「加藤陽子著『天皇と軍隊の近代史』を読んで思うこと」が注目記事の5位に浮上してきました。

 

 加えて、下記の再々投稿が4位に返り咲いております。私としては嬉しく思う半面、何か複雑な気持ちもあります。長いブログですが、改めて開いて頂ければ幸いです。

 

 2022年2月20日

                        淸宮昌章

再・再投稿に際して

 

 元投稿は、民主党政権時に起きた東日本大震災の2011年3月11日、その7年後の2018年3月11日に投稿したものです。加えて、2019年5月に安倍前首相の「桜を見る会」がマスメデイアで取り上げられ、国会論議と称される、謂わば、マスメデイアによる「政治ショウ」の現象に私は嫌気を通り越し、強烈な怒りをも覚えておりました。そうした状況に鑑み、2020年12月14日に元投稿に若干の追加を加え、「再投稿にあたって」として再投稿した次第です。

 

 そして、今回も週刊誌のネタに基づく総務省幹部と東北新社、NTT等の食事接待を巡る国会論議。それを放映し続けるマスメデイアの現実。官僚と企業幹部との食事接待(?)そのものを是とするものではありませんが、私はマスメデイアに翻弄される政権の現状と共に平和ボケの日本の現状に危機感を持つのです。

 と共に、国会論議と称する映像に現れる国会議員の人数の多さ。今の日本の現状にあって、こんなに大勢の国会議員が、果たして必要なのか。加えて、政府・官僚に正義漢ぶって質問、問い詰める国会議委員の様相です。その質問者の品格の無さはどこから来るのでしょうか。果たして国会議員と称してはいるものの、その実態は所属する利益団体から派遣された者に過ぎないのではないのかと、私は考えてしまうのです。何故に彼らは国会議員に選ばれたのでしょうか。正に天に唾をすることになりますが、改めて、国会議委員の人数と、質そのものが正に問われる、真剣に問うべき現状に来ていると考えますが、如何でしょうか。

 

 私は何も現在の自・公政権を賛美しているのではありません。方や、立憲民主党をはじめ野党の思想・政策は何なのか。時の政権に、ただ反対するだけが野党の本質なのでしょうか。現在の野党は関係ないというかもしれませんが、民主党政権時には沖縄普天間基地等々の問題を含め、官僚も活用できず、協力体制も構築できず、冷厳の現実には対処できない。否、現実を見ることも識ることもせず、只、その政権が右往左往していた時代を私は想い起こすのです。

 

 加えて、正義の仮面を被った如きですが、実態は謂わば商業主義にどっぷり浸かったと言うかべきものがマスメデイアではないのか。自己規制がないマスメデイアはより深刻な問題を持っていると考えます。マスメデイアに創り出される世論と称するものは、戦前・戦中と同じく、日本をより深刻な状況に追い込むと私は考えております。そんな危惧感の中、本書を読み進めました。

 

 そして今年の3月5日、コロナに関し、一都三県の緊急事態宣言(自粛規制解除)が二週間延長するとの政府発表がされました。その延長は日本のみならず、世界の各国の現状を観れば私は当然のことと思います。只、今回の東京オリンピックは東北大震災の復興を掲げ出発したわけですが、今回のコロナウィールスのパンデミックにより東京オリンピックの様相は大きく変わりました。世界各国からの観客なき東京オリンピックは異様なもので、果たしてそれがオリンピックといえるでしょうか。方や、日本のみならず世界各国においてコロナウィールスがこの夏までに収束するとは誰も考えてもいないのではないでしょうか。

   

 日本のみならず世界の状況が激変したわけです。今後はより早く東京オリンピック中止を打ち出し、このコロナ禍の収束に官民一体となり、日本の復興に向けて全力を注ぐことが、先ずもって今の日本に必要なこと、と考えます。次のオリンピックは私も85歳となり、今回の東京オリンピックが人生最後かなと楽しみにしておりました。また、その中止は各方面に多大な影響を与えることは私なりに十分理解しております。その上で、マスメデイアに翻弄される世論と称するものに惑わされないことが、今は一番肝要なことです。

 

 そんな思いもあり、今回改めて再投稿する次第です。繰り返しになりますが、マスメディアの現状と、それに左右される世論と称される現象に揺れ動く時の政権に私は極めて危機感を抱いております。私なりの解釈も、あるいは誤解もあるかもしれませんが、以下、筒井清忠氏の「戦前日本のポピュリズム」を中心に、改めて、ポピュリズムとは何か私なりに紹介して参ります。

 

 20213月7日

                           淸宮昌章

再投稿にあたって 

 

  前首相主宰の「桜を見る会」を巡って、またも愚劣な政治ショウが始まった、との私の印象です。何時もながら国会審議と称する議会で、あたかも正義の仮面を被ったかの如き主張、質問を浴びせる野党議員御自身、更にはその議員が所属する野党はそれほど清廉潔白なのでしょうか。離散・集合を繰り返す野党の政党交付金残高の推移ひとつを見ても、野党各党は果たして清廉潔白と言えるでしょうか。強いては、頻繁な離散・集合現象は自らが選ばれた政党主体の選挙、そのことへの問題をも含むのではないでしょうか。

 

 加えて、野党各党はそれぞれが数%の支持率しかないのは、何故なのか。何故に若い層に自民党に比べても支持が少ないのか。ただただ、自民党政権を倒せばこと済むのか。野党各党の政策、あるいは思想・信念は何なのでしょうか。野党各党はそうした基本的課題・問題点を明示しているとは私は思えないのです。

 尚、少し脱線しますが、野党のひとつである共産党は戦後、「共産党」から「日本共産党」へと変転しているようですが、その綱領は何なのか、その綱領にどんな変化があるのか、ないのか。何故に、その委員長は20年間という長期間にわたり、その席を占めることができるのか。さらには中国共産党独裁政権の現実をどう見ているのか、私は知りたいところです。

 

 方や、国会審議もさることながら、より問題なのはマスメデイアにより作られる世論と称するものに翻弄される(政権の)現実です。知力よりは体力を重視するかの如き週刊誌、テレビ、新聞等の報道番組と称するマスメデイアの現状は極めて危険な状況に日本を陥れているのではないでしょうか。マスメデイアは何を目指しているのでしょうか。何を世論として形成したいのでしょうか。私には単に商業主義に毒された企業体そのものとしか思えないのです。本来であれば、朝日新聞、毎日新聞をはじめとして、報道機関(?)と称されるマスメデイアは戦前・戦中の自らの行動を深く反省し、その上に立ち、改めて報道とは何か、報道の在り方とは何なのか、最も真摯に考えるべき主体のはずではないでしょうか。残念ながら、今もってその兆しは私には見られません。むしろ戦前、戦中と同じように誤った世論作りをしているように私には見えるのです。今までも何度となく記しておりますが、そのマスメディアを掣肘する者はなく、最大の権力を持っているかの如き状態が今日の現実ではないでしょうか。若者が政治から離れていく、由々しき現実の一因に繫がっているようにも想います。

 

 極めて深刻な「香港の市民による抗議活動」を他人事のように報道している日本のメディア。果たして、その報道の在り方に問題はないのか。今までも何度となく記しておりますが、中華大国の復権と称するものに賭け、急速に軍事力をも高め、一帯一路を強引に進める共産党独裁政権の中国。ウイーグル、チベット等の少数民族等々への人権問題、思想・言論・宗教の統制、情報の異常な遮断等々、価値観を大きく異にする中国の現実は、今後も変わることはないでしょう。その国家主席習近平氏を来春早々に「国賓」として迎える、とのこと。「国賓」として迎えようとしたことは香港騒乱以前でることは承知しております。ただ、現在の状況にあって日本のメデイアはどう考えているのか、あるいはどう考えるべきなのか、その上で何を報道すべきなのか。

 その発症は人為的とも思えるコロナウィールスによるパンデミックにあって、「桜を見る会問題」を四六時報道しているメデイアの現状は、もはや平和ボケだけでは済まされる問題ではありません。如何でしょうか。

 

 1989年、第二次天安門事件後、欧米に先駆け経済制裁を解いた日本。その後も、江沢民主席、胡錦濤出席を「国賓」として招いたものの、中国の日本へのその後の対応は如何にあったでしょうか。更に遡れば、中国が旧ソ連と武力衝突まで行きかけた背景の中、米国次いで日本にも目を向け、結果的には1972年、日中国交正常化への道筋を経たものの、その後の中国との関係は一向に改善に進まないのは何故なのか。

 今回の習近平主席が「国賓」としての来日要請問題はアメリカのみならず、価値観を共有する世界諸国に対しどのような影響・結果をもたらすのか。加えて、一方的に中国の歴史認識を日本に押しつけるかの如き、今までの中国共産党独裁政権の現実に問題はないのか。戦後の日本の歩みをことごとく否定するかの現状に日本は甘んじ過ぎるのでないでしょうか。

 

 今日の現状と1972年日中国正常化以降の過去を省みて、来春早々と言われる習近平主席を「国賓」として迎えることの危険性と疑問を私は禁じ得ません。欧米をはじめとして世界各国が日本をどう見るでしょうか。日本は誤った方向に加担する国、との強い印象を世界に発信することに繋がるのではないでしょうか。今後の日本は極めて厳しい立場に追い込まれると私は考えます。

 

 下記、投稿は約二年半前(2018年3月11日)ですが、今回のコロナ禍にあって、若干の追加修正を加え、再投稿するものです。

 

 2020年12月24日

                            淸宮昌章

 

まえがき

 

 昨今の国会審議を見ていて、やりきれないと思うのは私だけでしょうか。本来,審議・討議すべき法案は何ら触れず、関連事項と称するものに莫大な時間を労し、時には審議も欠席放棄、そして時間だけ進んでいくこの現状は一体、いつから始ったのでしょうか。籠池夫婦の逮捕拘留にも繫がった森友学園問題、更には天下り斡旋問題で引責辞任し、不可解の言動を繰り返す文部科学省、前川喜平前次官が述べる加計学園の忖度問題等々、マスメデイア報道は実に嘆かわしいことではないでしょうか。奇しくも今回、私が掲題の筒井清忠氏が本書で取り上げておりますが、戦前の若槻礼次郎内閣時の怪文書から始った大阪松島遊郭移転問題、更には斉藤内閣時の帝人事件等を思い起こすわけです。

 

 現在も国会審議と称するものが行われております。野党の国会での行動は、ただただ時の政権を倒す為の、行き当たりばったりの行為であり、そこには理念・思想も政策もない、国会議員とは到底思えない品格を欠く烏合の衆の追求としか私には思えないのです。ただ残念なことはその国会議員を選んだのも、われわれ国民です。少なくとも5万人以上の支持者のもと、議員が選出されてきたわけです。他人に転嫁出来ないわれわれ自身の問題なのです。

 友人の大西章夫氏によれば、「政治家はマスコミと国民のレベルの反映であるから、天に唾をするようなものでしょうね。」とのこと。残念ですが、そうかもしれません。

 

 このコロナ禍にあっても、中華大国への復権を着々と進める中国。そして極めて危険な朝鮮半島の現状のみならず、地政学的にも大きく変動している中、国会では何を論議しているのか。と同時にマスメデイアは何を報道し、何を世論として形成したいのか。私はマスメデイアにより作られた世論と称するものに翻弄され、次々と内閣が倒れ、戦争に突入し、敗戦に至った戦前を思い起こすのです。われわれは何を反省しなければならないのか。何を考えなければならないのか。更に加えれば、戦後の日本は何か根本的なことが抜け落ちてしまった、と思うのですが、如何でしょうか。

 

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 佐伯啓思氏が「脱 戦後のすすめ 日本の悲劇」の中で次のように述べています。

 他国の憲法は近代憲法として不完全であるものの、その不完全性のゆえんは、国家の存立を前提とし、国家の存立を憲法の前提条件にしているからだ。いわばわざと不完全にしているのである。ただひとり日本国憲法だけが、近代憲法の原則を律儀に表現したために、国家の存立を前提としない、ということになった。平和主義の絶対性とはそういう意味である。厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさをもった日本国憲法の平和主義は、自らによって国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。(脱 戦後のすすめ221頁)

 私は佐伯氏の指摘に何時もながら共感を覚えます。これが戦後の日本の大きな陥穽に繫がったのではないでしょうか。

 

 一昨年の10月13日になりますが、近衛文麿の生涯を描いた、筒井清忠著「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」を私は取り上げました。二・二六事件の謎を解き明かす、同氏著「陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点」、更には、若手研究者からなる、同氏編「昭和史講義」等も読み進めてみました。そして、昨年12月に掲題の筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」が発刊されたわけです。日本近現代史の泰斗の指摘に私は学ぶとともに、大いに感銘を覚えた次第です。今回も本書全体を紹介するのではありませんが、本書に沿って、私が改めて再認識した、更には深く共感したこと等を紹介したいと思います。本書と離れることも時にはありますが、ご容赦願います。

 

1 ポピュリズムとは何か

 

 ヨーロッパ政治史を専攻される水島治郎氏はポピュリズムの定義として、次のように述べています。

 

 大まかに分けると、第一の定義は、固定的な支持基盤を越え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル。第二の定義は、「人民」の立場から既成政党や政治エリートを批判する政治運動をポピュリズムと捉える定義である。即ち政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層(および社会の支配的な価値)を批判し、人民」に訴えてその主張の実現を目指す運動とされる。

 

 一方、筒井氏は掲題の本書「戦前日本のポピュリズム」の「まえがき」で、日本においてポピュリズムが問題にされ出したのは小泉純一郎首相の頃からであろう。その後、国内的には橋下徹現象から小池百合子東京都都知事の誕生。国際的には英国独立党、フランス国民政党、オーストリア自由党の台頭、更には英国のEU離脱決定、トランプ現象などであろう。しかし氏はそのような現象の指摘に、水島治郎氏とは関連はありませんが、何か違和感を持つ、と述べております。その違和感について、氏は次のように記しております。

 

 筆者の違和感というのは、ポピュリズムの定義は色々あるが、要するに大衆の人気に基づく政治ということであるから、それなら日本ではとうの昔、戦前にそれが行われていたということである。そこには「革新」ということを加えても事態にはあまり変わりはない。言い換えると、ほかでもない日米戦争に日本を進めていったのがポピュリズムなのに、この戦前のポピュリズムの問題がまったくと言っていいほど取り扱われていないということである。そして戦前の戦争への道の反省というようなことがしきりに言われるのだから、このことはそのうち誰かが書くだろうと思っていたが、とうとう一向に現れないまま今日に至った。(本書・戦前の日本のポピュリズム ⅱ頁)

 

 そのような視点の下、筒井氏は日本において初めてポピュリズム現象が始った1905年の日比谷焼き討ち事件を詳細に記すとともに、1901年日米戦争開始の36年、1925年普通平等選挙制成立からは16年の歴史を語って行きます。

 

2 日比谷焼き討ち事件

 

 吉野作造が「民衆が政治上に於いて一つの勢力として動くという傾向の流行するに至った初めは矢張り明治三十八年九月からと見なければならぬ」と述べているとのこと。いわゆる日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の締結に反対する国民大会が暴徒化した事件です。賠償金の支払いと樺太譲渡を巡る交渉が難航し、講話問題が大きな政治問題に発展したわけです。徳富蘇峰の「国民新聞」を除き、「東京朝日」を含め新聞各社がその講和条約反対の論陣を張り、世論を煽り、講和問題同志連合会の「国民大会」を企画し、大衆運動を起こしたわけです。その事件の逮捕者は約2000名、起訴者308名、警備側の負傷者約500名、群衆の死者17名、負傷者2000名から3000名ということです。いわば、当時の政治に強い関心を抱いた東京・都市の知的青年達を中心とした、現状変更の意欲が強いが社会的に満たされない、典型的な「革新青年」、「改革派」が興した事件であり、昭和に至るまで繰り返されるパターン、ポピュリズム的傾向が強いわけです。

 

 そしてその事件の考察にとり重要なことは、戦争中に新聞社が主催者として戦争祝捷会や提灯行列を開き、大衆を扇動し、時には死者まででる状況を作っていたのです。そして事件に至る迄には、「まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報じることで運動の気勢を高めただけでなく、運動そのものの組織にあたったのである。・・(中略)判明する限りのほとんどすべての集会には、新聞記者が発起人あるいは弁士の一員として参加しているのが実情である。・・(中略)新聞社もしくは新聞記者グループが中軸となり、そこに政党人、実業団体員、弁護士が加わって中核隊が構成されているのである。のちの護憲運動・普選運動も同様の形成方式になっており、その起源はこの日比谷焼き討ち事件に象徴されるポーツマス講和条約反対運動にあったと明確に指摘されうるのである.・・神聖な『皇居』を目標としつつ、集合と解散の身近な場所として日比谷公園を設定するという形が成立しつつあったのである.・・(中略)日本に最初に登場した大衆は天皇とナショナリズム(それも『英霊』的なものによって裏打ちされたもの)によって支えられたそれであったことが、明白に理解されると思われるからである。(同 本書、30~34頁)

 

3 劇場型政治の開始

 

 1925年普通平等選挙法が成立し、翌年に原敬に続く二人目の「平民宰相」である若槻内閣が成立します。憲政会は少数与党の為、苦しい政権運営が始ります。そこに三つの大きな疑惑事件、即ち「朝日新聞」が「松島遊郭にからむ奇怪文書の内容」「政界の大渦巻」「各政党員は全部」などの見出しで、この事件を大々的に報道した松島遊郭移転問題。加えて、担当した石田検事が怪死する陸軍機密費事件、松島遊郭、陸軍機密費事件はいずれも時の政権を倒す為の新聞報道等による、でっち上げとも言うべき事件でした。更に、大逆事件でもある朴烈怪写真事件も新聞メデイアが大きく報道します。時の政権が普通選挙を控え、政策的要素よりも大衆シンボル的要素が高まったことを政権は十分理解していなかったことにあります。即ち「劇場型政治」への無理解が大きな問題なのです。更に加えると、この一連の事件についての問題は、朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使します。そして「劇場型政治」を意図的に展開することになり、次の田中義一内閣の統帥権干犯問題、更には天皇機関説問題へと繫がっていくわけです。

 

 その田中内閣の崩壊も張作霖爆破事件はその要因の一つにすぎません。宮中に近い貴族院と新聞世論がその背景にあったわけです。即ち、政党外の超越的存在・勢力とメデイア世論の結合という内閣打倒の枠組みがいったんできると、政党外の超越的存在・勢力が入れ替わり、それとメデイア世論の結合によって、政党政治の崩壊が起きやすくなったのです。そしてそれは再生され、「軍部」「官僚」「近衛文麿」などと形を変え政党政治の破壊に繫がっていったわけです。

 

 筒井氏は「当時、多くの知識人は、既成政党=ブルジュア政党への失望と批判ばかりを語り、同時に新興の第三極としての『無産政党』の発展に期待していたのだった。二大政党の意義と理念を語ることができなかった彼らは、『無産政党』が内訌を続けて国民多数の支持を得られず夢が破れると、今度は『軍部』や『近衛文麿』『新体制』などに期待することになる。勝負は、マスメディアの既成政党政治批判と天皇シンボル型ポピュリズムが結合しはじめたこの時期につきはじめていたとも言えよう」(110頁)と述べています。重要なことは、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆モクラシー状況=ポピュリズム的状況への洞察なしに、現代に活きる反省には結びつかない、との筒井氏の指摘です。そして以下のように記しております。

 

「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は、「劇場型政治」を忌避するばばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命をたどることになろう。(中略)一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアルな要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ、大衆デモクラシー状況=ポピュリズム的状況に対する明敏な洞察からネイテイヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和前期の政治を「劇場型政治」の視点から理解していくことの必要性が痛感される所以であり、繰り返すが、このことに無自覚な側は敗れていくし、また過去のこの時期にこれが起きたことに無自覚な側はまたしても敗れていくのであろう。(同 本書92頁)

 

 如何でしょうか。現在の森友学園問題、加計学園問題等においても、現政権はそのような視点・洞察とそれへの対応が重要と思うのです。戦前の実例を十分に検証・参考すべきと考えます。

 

4 マスメデイアの状況と変貌

 

 以上のように戦前に於いては、マスメデイア特に新聞の在り様が大衆世論と称するものに多大な影響を与えてきました。満州事変、五・一五事件等々、更には近衛内閣との関わりについて、筒井氏の見解を見ていきます。

 

 その1 満州事変と新聞の変貌

 

 1931年9月18日の満州事変の勃発前には、大正期以来の軍縮に加え、1931年6月ごろから更に陸軍軍政改革(軍縮)が進められます。当時は新聞の力が強く、軍は新聞が作る世論にも追い込まれていました。そこに満州事変が起こると同時にマスメデイアが大きく変貌します。「大阪毎日」が部数を拡張している中、朝日新聞の不買運動もひとつの要因でしょうが、事変後、「朝日」は満州事変支持へと大きく変えていきます。そしてその結果、各新聞社は満州事変報道を誇らしげに掲げ、世論をその方向に引っぱっていったのです。結果、軍は軍縮どころか肥大化していきます。事変が一段落した翌年春、荒木貞夫陸相は以下のような感謝を述べるわけです。

 

 今次満州事変・・各新聞社が満蒙の重大性を経とし、皇道の精神を緯とし、能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したることは、日露戦争以来、稀に見る壮観であってわが国の新聞、新聞人の芳勲偉功は特筆に値する。(新聞及新聞記者1932年三月号 146頁)

 

 その2 五・一五事件裁判等と新聞報道

 

 1933年の重要な事件は1月、ヒトラー首相就任、3月、国際連盟脱退、5月、滝川事件等々とありますが、国民の社会意識という点からはその前年に発生した五・一五事件の裁判が開かれ、その報道が新聞により大々的に行われたことです。加え、五・一五事件と相即の関係にある血盟団事件(井上準之助蔵相、団琢磨三井合名会社理事長の暗殺)の公判についての新聞各社の報道です。「大阪毎日」のその見出しは「血盟団の大公判開く 大事決行の信・・“胸深く宛らの奔流” 日召厳かに答え満廷静粛」となります。即ち犯罪者の陳述を傍聴人が"静粛"に聞かされたとされ、五・一五事件の前奏曲をかなでるものになります。そして、二つの事件が二編構成の音楽にたとえられ、血盟団事件は「同志十四名が昭和維新を目標に」と、報告者自身が被告らの言う「昭和維新」に同調的な姿勢が歴然と感じられる報道姿勢なのです。それは裁判の進行とともに昂進し、五・一五事件裁判と社会の分極化に繫がっていくのです。筒井氏は五・一五事件裁判のポイントであるポピュリズムの背景として、以下のように記しております。

 

 第一は普通選挙決定(1925年)、実施(1928年)によりポピュリズム化が開始されたが、政党の勝利で官僚に対する「政治有利」が確立したことが「政党専横」と見られ、批判の対象になった。そしてそれが官僚的なもの(軍人)の復権志向となり、それとマスメデイアとの結合傾向が見られはじめたこと。

 

 第二は大正後期以来の軍縮時代の軍人抑圧に対する不満・怨恨がロンドン海軍軍縮条約問題における「政党優位」とその期限切れの1936年危機の切迫が軍人の復権につながった。

 

 第三に大正後期以来の左翼による現在の支配体制への批判(不平等批判)がソ連の支援を受ける外来性の為、ナショナリズム志向が増大し生じた「大転換」の状況に、ナショナルな青年将校らの運動と、マスメデイアの同調的報道が適合し、肥大化していった。そして、その平等主義的「革新」志向は継続しつつ「天皇型」強化になっていった。

 

 その3 国際連盟脱退と新聞報道

 

 1933年の国際連盟脱退には、松岡洋右全権と並んで明治・大正・昭和三代に亘り外相となった内田康哉外相を挙げなければならない。内田外相はヴェルサイユ講和会議、ワシントン条約の際に尽力、西園寺らに高く評価され、満鉄総裁時には陸軍からも期待されていた人物です。中国・英国・米国の巧みな連携の中、米国での屈辱的扱いから、内田の内面に英米に対する大きな不信を植え付け、彼の中にアジア的のものを作っていった、としています。そして外交演説で満州国の独立はかの有名な文言「国を焦土にしても此主張(満州国の承認)を徹すことに於いて、一歩も譲らないと云う決心を持って居る」に繫がっていくのです。

 

 方や、松岡も「満蒙は日本の生命線」とのかの言動は、当時の国際社会の理解は得られないものの、関東軍幕僚の論理になっていったのです。そして、此までのいかなる公文書よりはるかに日本の立場を認めたリットン報告書を、新聞各紙は一斉に非難、全国の新聞132紙がリットン報告書受諾拒否共同宣言を出すに至るわけです。そして、2月7日の日比谷公会堂における対国際連盟緊急国民大会がNHKにより全国中継され、「国際連盟脱退、帝国全権をして即時撤退帰朝せしむべし」との宣言が採択されます。NHK全国中継の政治的影響力が発揮された最初の機会でありました。松岡の背後にはこの国民の「声」があったのです。そして、帰国した松岡全権は横浜駅から東京駅まで「全権列車」が特別編成され、群衆が歓呼で迎えたのです。

 

 太平洋戦争下、当時の政治・経済状況や身辺の生活をいきいきと記した記録「戦争日記」をも記された、海外経験の長い外交評論家・清沢烈は「輿論を懼るる政治家」が闊歩する現状の危険性を激しく指弾し、「欧米には老練のジャーナリストが多く、彼らは知力で勝負しており、優れた分析力を見せるのに、日本の新聞記者は若者ばかりで、ジャーナリズムは体力で勝負するものだと日本人は勘違いしていると嘆じた。また、欧米のジャーナリズムは厳密な統計など正確なデーターに基づいた報道を熱心に心掛けているのに、日本のジャーナリズムでは、不正確なものが平気で横行しており、ポピュリズムに足を取られやすい危険性の高いことも強く指摘している。」(戦前日本のポピュリズム209頁)と記しております。何かこの現象は現在でも当てはまることではないでしょうか。

 

 日比谷焼き討ち事件が日本のポピュリズムの起源となりますが、国際連盟脱退の時点では下から上まで大衆世論に覆い尽くされていた。すなわち外交問題における日本のポピュリズムが、明治と異なり昭和前期には、ある完成段階に達したことを告げたのが国際連盟脱退事件なのです。

 

その4 帝人事件と新聞報道とその責任

 

 帝人事件とは1927年の金融恐慌の煽りで倒産した鈴木商店の系列企業であった帝国人造錦糸(株)の株式を財界人グループの関係者が政府高官の口利きで、台湾銀行から不当に安く譲り受け、時の蔵相等や大蔵省幹部が謝礼として受け取ったとする事件です。本書ではその経緯と当時の新聞の報道につき、くわしく記しております。現在の森友学園問題等々にも参考になるのではと思い、長くなりますが以下、紹介いたします。

 

 事件の発端は1934年1月、「時事新報」の武藤山治がスクープ、関直彦が貴族院本会議で政府高官の仲介で帝人株が不当売却されたと追求し、事態が発展していきます。当時の大阪朝日は次のように報道します。

 

 暴露された株売買の裏面 驚くべき策謀と醜悪な犯罪事実 背任として最も悪質、検察当局の鋭いメス (中略)検察当局の鋭い解剖のメスが一度この問題に加えられるや、その裏面に驚くべき策動と醜悪な犯罪事実がひそんでいたことがことごとく暴露するに至った。しかもこの事件は帝人と台銀の関係を歴史的に回顧する時背任事件として最も悪質なるを思わしめるものがあり更に綱紀粛正を標榜する現内閣の大官がこれに関係を有する事実まで暴露されたことは最も遺憾であるといわれている。(同 本書213頁)

 

 その後も明確な証拠が提示されているわけではないが、報道は「背任罪の核心」「収賄罪は成立」等々の事実が読者に感じられる報道が続けられます。そして1937年10月5日まで265回の裁判が開廷され、同年12月16日、被告16名全員が無罪という空前の裁判結果となります。そのときの東京地方裁判所の全員無罪の判決の中で、事件そのものが「空中の楼閣」であることが明記され、「今日の無罪は証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである。この点は間違いのないように」と驚くべきことを裁判長が語ったのです。その判決に対し「大阪朝日」は「何か割り切れないで」始まり、自ら同調した検察を「司法ファッション」などと糾弾して、「斉藤内閣の総辞職」には全く無関係のごとく書き、その「社会的の損害は到底補うことは出来ないのである」としたのです。そして著者は次のように極めて重要な指摘をします。

 

 すなわち新聞は、当初検察に乗って財界・官界要人を激しく攻撃しておきながら、無罪となると今度は検察を糾弾、自ら内閣を倒したことには無関係を装い、損害に対する補償も無頓着のままやりすごしたのだった。新聞は政党攻撃を開始してから、田中義一内閣攻撃では天皇・貴族院による倒閣を支えた形になり、五・一五事件裁判では陸海軍とともに世論を扇動するなどしてきたが、今度は司法官僚の「社会改正」と組み、無罪の人たちを攻撃し内閣を倒したのだった。

 1934年に起きた事件の判決が三年後に無罪と出たとしても、内閣が倒れ、天皇機関説事件があり、二・二六時件などがあった後では、人々の記憶が大きく修正されるものではないだろう。こうして、この事件は政党・財界の腐敗を印象づけ、正義派官僚の存在をクローズアップさせた事件として記憶に残るものとなった。言い換えれば、政党の後退と官僚・軍部の擡頭の方向へのマスメデイアによるポピュリズムに大きくプラスした事件なのであった。(同 本書224頁)

 

5 近衛内閣の時代 日中戦争と日米戦争へ

 

 近衛文麿については本投稿の冒頭にも記したように、二年前の10月5日に、筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」を取り上げ、私なりの感想など詳述しております。それと重複はしますが、本書でも氏が述べられておりますので若干紹介致します。

 

 世論の圧倒的な賛辞の下、1937年6月に第一次近衛内閣が発足します。サプライズ人事として、大阪朝日新聞元記者、信濃毎日新聞元主幹であった風見章を内閣書記官長に就任させます。いわゆる時として人が陥り安いサプライズ人事です。そして風見章を昭和研究会に入会させます。いわゆる日本最初の本格的知識人ブレーンです。その昭和研究会は錚錚たるメンバーで、蝋山政道を中心に、三木清、東畑精一、笠信太郎、高橋亀吉、中山伊知郎、大河内一男、杉本栄一、風見章、矢部貞治、尾崎秀実、宗像誠也、清水幾太郎、林達夫、三枝博音他。そして後に稲葉秀三、勝間田精一、和田耕作他も参加していきます。このような当時の第一級の知識人をブレーンに持ちながら機能せず、日本は破局に向かっていったのです。何故なのでしょうか。このことは現在においても改めて研究しなければならない重要な点だと、私は思います。

 

 残念ながら、ポピュリズム的性格で成立し、教養主義者といわれた近衛にとって、戦争は最も取り扱いの難しい問題でありました。内閣発足の一月後、盧溝橋事件が起こります。そして風見章の発案による史上初めての、官邸において言論機関代表、貴衆両院代表、財界代表と協力要請の為、会合を30分おきに開きます。翌日の新聞各社は「挙国一致の結束なる 政府の方針遂行に協力・・」と対外強行政策姿勢の報道をしていきます。かの有名な「爾後国民政府を対手とせず」に繫がり、「トラウトマン」和平交渉は潰れていきました。著者は次のように記しています。

 

 議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。逆に言うと、議会と世論が弱ければ和平工作は成功していたかもしれないというのが実相なのであった。ここにポピュリズム的政治の危険性が明確に見て取れるといえよう。近衛内閣はポピュリズムによって成立し、ポピュリズムによって戦争を拡大し、泥沼に追い込まれたのであった。(同 本書266頁)

 

 1940年7月16日、米内内閣が倒れ、第二次近衛内閣が発足します。綱領は何もなく、「綱領は大政翼賛、臣道実践という語に尽きる」との近衛演説のみで、大政翼賛会ができ、日米開戦、日本の敗戦に繫がっていったのです。尚、その間の経緯と近衛文麿の悲劇は筒井清忠著「近衛文麿」を是非、合わせ一読を頂ければ幸いです。

 

おわりにあたり

 

 新聞各社は近衛文麿が自決した際に、近衛の戦争責任を厳しく論じ、かって紙面で彼をあれほど褒めそやした人を、まるで新聞自らは何の責任もないかのごとく紙面でその死を報じます。日米開戦時から急速に発行部数を倍増した朝日新聞も自らの責任は問わず、否問う精神もなく、”まだ自殺者が足りない"が如きつぎのような紙面となります。二年前の前回の投稿で紹介致しましたが、新聞の在り様を観る上で、改めて以下紹介致します。

 

 降伏以後、最近までの公の行蔵は世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマッカーサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったか。・・(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度について、無頓着と思われたのである。・・(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。・・(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導の地位のありしもの、一人進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義子なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡ぶる際も、まだ責任を解する人物があった。・・(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(筒井清忠「近衛文麿」294、295頁)

 

 2018年3月11日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

  同   「近衛文麿」(岩波現代文庫)

  同   「陸軍士官学校事件」(中公選書)

  筒井清忠編「昭和史講義 1 2 3」(筑摩新書)

  佐伯啓思「脱 戦後のすすめ」(中公新書クラレ)

  水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

  清沢烈著「山本義彦編"暗黒日記」(岩波文庫)

  服部龍二「佐藤栄作」(朝日選書)

  同   「広田弘毅」(中公新書)

   追加

  デイヴィッド・アイマー 近藤隆文訳「辺境中国」(白水社)

  阿南友亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

  中澤克二「習近平帝国の暗号2035」(日本経済社)

  清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

  他  

                           以上