清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

 佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

 

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はじめに

 

 佐伯啓思氏の著作については一昨年、「日本の愛国心」を初めて読み通した次第です。40年弱前になりますが、私がアメリカ駐在時代にお世話になり、その後もお付き合いを頂いている元バンカーの方に紹介され読み込みました。私にとっては社会思想史の一端を垣間見る、と共に、佐伯氏の論述に深い共感と感銘を覚えた次第です。そして、偶々、私の書棚に18年間も眠っていた、氏の「アメリカ二ズムの終焉」を取り出し読み通しました。続いて、「反・民主主義論」「さらば資本主義」「従属国家論」「反・幸福論」「正義の偽装」他を求め、読み通していったわけです。そして、私なりの理解に過ぎませんが、ブログ「淸宮書房」に「日本の愛国心」(2016.7.1)、「反・民主主義論他を読んで思うこと」(2017.3.11)、「アメリカニズムの終焉を読み終わって 上、下」(2017.5.24/30)をブログ「淸宮書房」に載せたわけです。掲題の著作を含め19冊になりますが、僭越ながら今を観ようとしている者にとって、佐伯氏の著作は目から鱗のような感慨を持った次第です。多く方が氏の著作を読まれれば、と思うところです。

 

佐伯啓思「現代民主主義の病理」

  

 本書の時代背景と趣旨

 

 本書の発刊は今から約20年前の1997年1月20日で、「アメリカ二ズムの終焉」のほぼ1年前になります。戦後50年を経過した1995年当時以降が、その背景となっております。その1995年は1月には村山政権時で阪神大震災、そして政府の初期行動の遅れ。オウム事件バブル崩壊住専問題、日米安保論争、破防法の適用等々、めまぐるしい出来事の連続でした。更にはTBSオウム事件を巡る国会招致、当該プロジューサーの懲戒解雇及びTBS社長の交代。そして、そこにおけるマスメデイア紛糾・論争が印象深い現象でした。更には住専問題に絡む官僚、特に大蔵省批判。加えて、何故か、東京都に青島幸男大阪府横山ノックという、タレント系の知事誕生という時期でもありました。

 

 そのような時代の背景の中、著者は戦後50年とは何であったのか。そこでは何が論議され、何が論議されなかったのか。あるいは何が失われてきたのか。民主主義とは何か、その危うさ。市民と国家とはどのような関係にあるのか。そこにおける知識人の役割とは何か。更には知識人とマスメデイアとの関係。我々は何を目指さなくてはならないのかを論じています。具体的には序・無魂無才の不幸から始り、Ⅰ・戦後50年、アメリカ化の50年、Ⅱ・西洋文明と日本の知識人、Ⅲ・デモクラシーは責任を取れるか、Ⅳ・サブカルチャー化する現代の日本、Ⅴ・市民社会の崩壊、終・信頼と民主主義、あとがき、から本書が構成されております。

 

 佐伯氏による洞察・観点は現在の諸々の事象を観る上で極めて重要であり、本書が発刊されてから20年を経過した現在でも、そこには何らの古さを感じません。今回、私が印象深く、共感したいくつかを挙げますと、丸山眞男の立ち位置の曖昧さ。すなわち「東大法学部という権威主義の牙城にあって、日本社会の権威主義批判を行うという姿勢。アカデミズムの研究者でありつつ、ジャーナリズムや市民運動に関与する姿勢。日本思想史の研究者でありつつ、西洋政治学の学識によって語る姿勢。日本にいながら西洋的近代の目で日本を対象化する姿勢。こうした『曖昧さ=二重性』こそ、丸山が発言し、影響力を発揮した条件であった。」(78頁)、と指摘していることです。加えて、連合国の戦争史観を代弁した如き東京裁判史観などと、呼ばれたりする考えの思想的基礎を作った、その後の後遺症。そして丸山が戦後知識人に残した課題。すなわち日本と西欧、近代とは何か、普遍性と国家意識といったテーマーに取り組むべきだと、述べているところです。象牙の塔におりながら自己特権化しつつ物言う、いわゆる進歩派知識人への批判も痛烈です。

 

 私には、昨今のテレビの報道番組に登場する専門家と称する大学人等は、ただテレビ等に出たいとしか思えないのです。そうした昨今の特殊な事象は、専門家かどうか分りませんが、いわゆる知識人のひとつの頽廃現象そのもの、と私は考えております。そうした諸々の点についても佐伯氏は言及しておりますので、是非とも本書をお読み頂きたいところです。

 

 今回も本書の全体を紹介するものではなく、マス・メデイア、ジャーナリズムに言及された諸点に絞り、取り上げて参ります。本書の背景となる戦後50年の粗筋を以下、記して参ります。

 

 戦後のひとつの粗筋

 

 47年のトルーマン・ドクトリン、48年のベルリン封鎖、49年の中華人民共和国の成立、NATOの結成、そして50年の朝鮮戦争という冷戦体制の形成の中、日本はほとんど事実上の選択の余地もなく、アメリカを中心とする西側の世界戦略のもとに1951年サンフランシスコ条約を結び、日米安全保障条約に至ります。すなわち、日本は戦後処理から日米安全保障条約に至る過程は、日本にとっては、当事者でありながら、その当事者の立場そのものを与件として自らに与えてゆく以外になかったことです。

 

 方や、「60年代の学生の主たる攻撃対象はベトナム戦争を遂行するアメリカに向けられ、結局、アメリカン・ジーンズを身につけ、コーラーを飲みながらアメリカ帝国主義を倒せと無意味な言葉を唱和することのちぐはぐに全く無頓着だったわけである。・・(中略)多くの日本人が、ベトナムに爆弾の雨を降らせ、世界の警察官を任ずるアメリカの所業を力ずくの思い上がりと非難しながら、どっぷりと日米安保体制のもとでの平和を享受していたのであり、はいて捨てるよう顔してアメリカ文化の軽薄差を難じながら、アメリカ的生活を享受し、アメリカ映画やドラマを楽しんでいたのである。」(17、18頁)、と記しています。

 

 そして、この装われた普遍主義というアメリカニズムのひとつの特徴を、もっとも真正直に、しかもほとんど何らの抵抗も咀嚼もなく全面的に受け入れたのが、戦後日本社会であり、とりわけ知識人たちであった。知識人たちは、経済学者や政治家という専門化の知的誠実さを口実として、ほとんどなんら疑うこともなく、その普遍主義を受け入れた。(51頁)

 

 冷戦体制が終わった現在、「とりわけわが国の、いわゆる日本経済改革論やグローバルリズム論は、私の解釈では、アメリカニズムの旗を振っているにすぎないように見える。しかし、これは新たな文明の実験と呼ぶにはあまりにも危険な実験であり、とりわけ、いわゆる華人経済圏とアメリカ経済に挟まれた日本にとってはそうであろう。アメリカ二ズムに抗いすることは、それがある種の普遍性と強固な近代性をもっているがゆえに困難な作業である。しかしわれわれのできることは、まず、戦後日本が、その圧倒的な影響下におかれていたアメリカニズムを相対化し、アメリカとアジアに挟まれた日本の宿命とは何かを論じることしかないであろう。文明としてのアメリカニズムに抗いするところから始める以外に、ナショナル・アイデンティティを発見する方法はないのである。」(53、54頁)、と続き、

 

 われわれは再び、西洋化という近代のプロジェクトを始めた、たとえば明治の知識人たちが、西洋化という近代のプロジェクトに着手しながらも、ためらいを隠さない。言うまでもなく、福沢という西洋流の自由主義者の根底には強いナショナリズムがあった。表面上は彼と対立した加藤弘之やまた、徳富蘇峰三宅雪嶺といった人は西洋的自由主義から日本主義へと回帰していった。こうしたためらいは陸羯南にも見られるだろう。西洋というものの圧倒的な文明の力を身をもって感じながらも、表面だけの西洋の受容が日本人のセルフ・アイデンティティを失わせることを危惧したのは言うまでもなく夏目漱石である。むろん漱石は決していわゆる日本主義者ではなかったにもかかわらずである。(72頁)、と記しています。

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  尚、氏は別途、「西田幾多郎」を著わしておりますが、今年の6月に小林敏明氏が「夏目漱石西田幾多郎」を発刊しております。合わせご覧頂ければと思います。後日、私なりに改めて取り上げたいと思っております。又、本書にしばしば登場するアメリカニズムついては、冒頭に記しているように、今年の5月24,30日に佐伯啓思著「アメリカニズ終焉を読み終わって」として私なりに、ご紹介致しております。

 

 日本のマスメディア・ジャーナリズムと世論

 

 その1

 

 本書のひとつの特徴は、表題が「現代民主主義の病理」ですが、「序・無魂無才の不幸」更には「あとがき」においても、マス・メデイアやジャーナリズムの危険性に言及していることです。私は常日頃、マスメディアは独りよがりの正義を唱え、世論と称するものを作り出し、その結果責任は戦中、戦後とも何ら負うことがない。現在のマスメデイアであるテレビ、新聞、週刊誌等々に見られる節度・節操を欠いた目に余るその傲岸さ。それは正義とはほど遠く、単なる商業主義に毒されたものにすぎない、と批判してきました。そうした一連の事象が国会討論等に見られる実に無意味な、無様な現状にも繫がってくるのではないでしょうか。

 

 佐伯氏はそうした事象をより鋭く、深く根源的に洞察され、論を進めていきます。今日においても正鵠を得たものと、私は共感し、と同時に考えさせられます。長くはなりますが民主主義とは何か、自由とは何か等々、その視点をも含め、以下、ご紹介して参ります。まず「序・無魂無才」において、次のように述べています。

 

 マス・メデイアやジャーナリズムが、官僚によって情報コントロールされているというのも正しくない。むしろ、これほど言論が明けっ広げの国はそれほどないとさえ言えるだろう。実際、わが国のマス・メデイアほど、絶えず、政府の政策やそのスタンスを批判し続けるメデイアというのもめずらしいものだ。政治家や官僚のスキャンダルともなれば、もっとも張り切るのは、マスメデイアなのである。・・(中略)つまり、わたしは現代日本の「不幸」はデモクラシーが成立していないのではなく、むしろ、そのデモクラシーがあまりにも規律を持たず、いわば無責任な言論の横溢をもたらしているところにある、と思われるのだ。デモクラシーの内部からデモクラシーが自壊しつつあると言ってよい。そして考えてみれば、現代日本に限らず、デモクラシーというものにつきものの病気なのである。自由が秩序によって牽制され、権利が義務によって牽制され、競争が平等によって牽制されるように、デモクラシーもある種の規律によって牽制されなければ、愚衆政治に堕して自壊するのである。そして、デモクラシーが暴力ではなく言論による政治を柱にするかぎり、言論における規律をどのように確保するかこそがデモクラシー社会の課題となるのであろう。

 

 ・・(中略)だから民意を「世論」という名で定立したり操作したりするマス・メデイアこそが、デモクラシーのカギを握ることになる。現代社会ではマス・メデイアこそが、民意の独占的管理者の位置にいるわけだ。したがって、マスメデイアを中心とした言論の様態こそがデモクラシーの死活を握っていることになる。そして、わたしの判断では、まさに、マス・メデイア、ジャーナリズムといった広い意味での言論知識層における言論の乱れ、時には無責任、あるいは確信の喪失こそが、現代日本の漂流の重要な原因ではないか、と考えたいのである。この言い方が少々強いとすれば、マス・メデイア、ジャーナリズムを含む知識人の言説こそが、漂流する現代日本の思考様式の象徴だと言ってもよい。(9、10頁)

 

 皆さん如何思われるでしょうか。佐伯氏はその序「無魂無才の不幸」の最後に次にように述べています。

 

 われわれは一人ひとりの背後には、日本の社会や文化がいやおうなく張り付いているのである。そして、他国の人々も、まずわれわれの中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだそうとするものは、決して「西洋のコピー」ではなく、この「日本人の精神」ではないだろうか.・・(中略)デモクラシーはひとつの意志決定方式にすぎない。それがうまく働くかどうかは、それを支える精神の働きや信念の体系が確固としているかどうかにかかっている。そして、この精神や信念は、容易に西洋から移入したり、模倣したりすることはできないのである。いや、むしろ、模倣しようとしたとたん「魂」を失ってしまうだろう。結果として「無魂無才」にまで至るというわけだ。とすれば、われわれに今、求められていることは、この「魂」の回復への試みということ以外にないだろう。デモクラシーを支える言論は、結局、「精神の形」そのものの表出でしかないからである。(12、13頁)

 

 僭越至極ですが 私は深く共感するところです。

 

 その2

 

サブカルチャー化する現代日本」の章で、TBSオウム事件に関連した報道に関して、次のように述べています。少し長くなりますが私には極めて重要な指摘ですので、そのまま以下紹介します。

 

 国家権力に対する報道の自由、国家権力に対抗して、自由で中立的な報道を擁護するところにジャーナリズムの良心があるという固定観念が行き渡っているのである。つまり、あらかじめジャーナリズムはデモクラシーの側にあるものと想定してしまい、ジャーナリズムに敵対する権力がデモクラシーを破壊するという論理である。もとよりこの論理が誤りだというのではないのだが、同時に考察すべきは、マス・ジャーナリズムが、あるいは官僚組織と化し、あるいは市場主義に侵され、また無意識の主観性を色濃く浸透させ、取材、報道という名のもとで暴力を行使し、ある種の情報操作を行うといったことに通じて、その内部から崩壊してゆくという危険性と常に隣り合わせだということなのである。そして、もし、マス・ジャーナリズムが現代のデモクラシーにとってきわめて重要な意味をもつとすれば、国家権力との闘争などよりも、はるかに、このことの方がデモクラシーにとって枢要な課題なのである。

 

 端的に言えば、多くのジャーナリストが、ジャーナリズムの良心や倫理を持ち出すとき、その意味は、国家権力や社会的圧力に屈するべきではない、報道の自立と公正を守るべきだと言われる。しかし、今や、マス・ジャーナリズムは権力や圧力からの被害者であるとうよりも、時には、それ自体が世論を動員して、権力を発動する機構ともなっているということなのである。とりわけ、デモクラシーを成り立たせる人民の意志が世論という形で表明されるときには、その世論形成、世論動員に対して重要なスタンスをもつマス・メデイアはもはやデモクラシーにおけるりっぱな権力装置となっているのである。ジャーナリストの良心ということでまず述べるべきことは、このような自覚にほかならないのであろう。・・(中略)日頃、何か起こればたちまちデモクラシーへの挑戦だ、デモクラシーの危機だといった論陣をはるマス・ジャーナリズムから、ほとんどこの手の議論が出てこなかったことは、私には奇妙に見えた。解釈として言えば、常に、権力を批判する点にその役割を求めてきたジャーナリズムの良心という固定観念から彼らが自由ではなかったということになる。権力批判は自己批判とならざるをえないからである。(145、146頁) 

 

・・(中略)彼らにとって、タブーとは、国家による干渉や放送法による規制といったものであり、誰も、タブーを彼ら自らが生み出しているなどとは考えようともしない。タブーは常に外部からやってくる。外部に権力がある、こうして、「世論」と彼ら自身を疑うことをタブーとしてしまうことによって、マス・メデイアは自己自身を特権化してしまう。ここにこそ、今日のマス・メデイアの大きな問題があるように思われるのだ。(156頁)

 

 私ごとになりますが、昨今のテレビの報道番組と称する中で、NHKの司会者のアナウンサーが、「これは私の意見ですが」という不思議な、ことわり的な発言に時折、接します。私は違和感を持つと同時に、NHKの組織に対する防衛なのか、との印象を持つところです。如何でしょうか。いずれにもせよ佐伯氏の上記指摘は今日でも、いや、今日こそ重要な視点ではないでしょうか。続いて、

 

一つは、われわれの得る情報や事実なるものが、常にメデイアの手によって差し出されているという認識は、それ自体、情報や事実を相対化するのに役立つはずだということである。簡単に言えば、われわれはメデイアから受け取るものはいったん疑うこと。

 

二つはマス・メデイアだけに限定されたものではなく、さまざまな分野の専門化や評論家という広い意味での知識層の弱体である。マス・ジャーナリズムと専門的研究者の連携ができていない。ジャーナリズム的評論の多くはある専門分野の都合のよいところだけを引っぱってきてあまりに図式的な結論を引き出す。この両者の間に、適切な論議の交換があるとは思われない。専門家はあまりにも彼らの専門にこだわり、ジャーナリズムもいわば業界を形成してしまい、その両者にゆるやかに往還するための信頼なり、理屈なり哲学的なものがほとんど存在しない。ある程度共通の議論の母体をもった知識層の生育がなければ、今

日のデモクラシーがますます混迷の度を深めることは明かだと思われる、と述べています。私は深く共感を覚えるところです。

 

 そして、氏は本書の「あとがき」で次のように記しております。

 

 現代の日本の閉塞感は、何か、われわれの言論や活動が抑圧され、きわめて窮屈なために生じているというよりも、むしろ、その逆に、あまりに、そこに規律や節度が失われてしまったために生じているように見える。あまりに解放されたために逆に生じる閉塞感と言おうか、あるいは、もう少し高尚な言い方をすれば、われわれの手にしている表現手段と表現内容の乖離と言おうか、そのようなことが生じている。(236頁)

 

おわりに

 

 冒頭に述べたように、本書は20年前に発刊されたものですが、佐伯氏はその後も現代日本への洞察と提言をされた著作を次々と出されております。私なりに戦後というか、今を観ていこうとする中で、氏の一連の著作は大きな刺激と共感、感銘を与えてくれております。昨今のマス・メデイアの私なりに憂うる現状を目の当たりにし、私は本書の一部を、何か急いで紹介した、との感は拭えません。加えて、私の理解不足、あるいは誤解もあるやかもしれません。改めて取り組んでいきたいと思っております。尚、ご参考にはなりませんが、昨年から今年にかけて、佐伯氏の著作について、私が感想を記した以下の投稿を、合わせ一覧頂ければ幸いです。

 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/5

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/3

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/07/01/093614

 

 

 2017年11月20日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(日本放送出版)

 同   「日本という価値」(NTT出版

 同   「西田幾多郎」(新潮新書)

 小林敏明「夏目漱石西田幾多郎」(岩波新書)

 他