清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで

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再々投稿に当たって

  下記投稿は2016年の9月に投稿し、改めて一年前の2021年9月に、若干の補足をし、再投稿したものです。2015年3月に始めた弊ブログ「清宮書房」への投稿は105件となりますが、何故かここに来て、下記投稿・堀田江理「『1941 決意なき開戦』を読んで」が上位・注目記事の二位に返り咲いております。 

  加えて、渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」が三位ですが、 コロナパンデミックに加え、ウクライナ・ロシア問題が生じた為でしょうか。我国に迫る危機感を持たれ、身近な問題として捉え始めたのかもしれません。尚、弊ブログへのアクセスも急増し、60,000件台になろうとしております。

 現在は私なりに、国際政治専門家の細谷雄一氏の「歴史認識とは何か」、「自主独立党は何か」、及び中国政治、東アジア国際関係の専門家の天児慧氏「中国のロジックと欧米思考」、並びに韓国哲学・思想・文化の専門家である小倉紀蔵氏「韓国の行動原理」を併読しているところです。専門家の凄さを感じながら読み進めておりますが、いずれ私なりの感想など記したいと思っております。

 文芸社からは、生きること考えること、神とは何かに関連し、「遠藤周作と森有正に関して私なりの想い」等を記されたら、とのお言葉を頂いておりますが、その件については、もう少し時間をかけて取り組んでみたいと思っております。

 

 尚、蛇足ですが、お陰様でこの4月の発刊した下記の弊著「メデイアの正義とは何か・・報道の自由と責任」(文芸社)は好評の様で、ほっとしております。ご笑覧頂ければ幸いです。

 2022年5月20日

                        清宮昌章

 

再度・堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで

再投稿にあたって

 

 コロナ・パンデミックにあっても、中華大国の復権を掲げ、一帯一路を強引に進める共産党独裁政権の中国。方や、地政学的にも大きな変動がある中、平和、平和のみ唱える、謂わば「一国平和主義」は破綻しているのに関わらず、依然として平和ボケにある日本は、今では特異な国家、世界平和には責任を取らない国家として映るのではないでしょうか。

 

 方や、今回の自然発生とは思えぬコロナ・パンデミックも収束は一向に見られません。加えて、その現実・現状をも何か他人事のように報じ、政府・政権をただ批判するが如きメデイア。それに引きずられ、自ら考えることを停止した我々自身、その在り方も大きな問題です。何か全てが他人事で、自分自身の問題として捉えることを放棄した現象と、私は思えるのです。

 

 尚、元投稿は2016年9月のものです。掲題の本書は先日、再投稿した加藤陽子著「天皇と軍隊と近代史」との視点とは異なりますが、1941年前後の太平洋戦争・開戦の経緯について記された歴史的事象は、大きく変貌した日本を取り巻く現状を詳述しております。先行きが不透明なコロナ禍後の日本の現実を考える上でも参考になるのでは、と思い、今回は補筆もせず、そのまま再投稿致しました。

 

  2021年9月15日

                           淸宮昌章

 

はじめに

 

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。

 

 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難すれば非難し、美化すれば美化する、という形にさえなる。(同書30頁)

 

 現在のメデイアは山本七平の時期とは多少異なるとはいえ、この現実はほとんど変わらないのではないでしょうか。加えて、日本は「空気」が重要な決定をしてきた、戦艦大和の出撃も然りと述べています。ではこの「空気」という思考はどこから来たのか。そこには徳川体制は永久に続けるし、続けなければならない、この体制を変えるという発想はしてはならないという大前提があった。「空気」と「水を差す」という、二つのバランスをとって、日本は文化的秩序を維持してきたのである。ただ、現代ではそういう時代ではなくなっているのであり、この状態を今後どうしていったらいいのか、このことが、おそらくわれわれが抱えているいちばん大きな課題なのだ、と指摘しております。今なお、変わらない現実への山本七平の警告でしょうか。

 

 方や、塩野七生氏が6年前に「日本人へ 国家と歴史編」の中で次のことを指摘しています。

 

 問題を起こさないことだけを優先しての事なかれ主義が、今の日本人には信用されなくなっているのは事実であり、それに反発した一部の人々の想いが、感傷的で過激な国粋主義に走りそうなのも事実である。こうなってしまったのは、敗戦以来の半世紀というもの、厳とした歴史事実の基づいた冷静な歴史認識を明示することを怠ってきたツケだが、それも近現代の歴史の共同研究の輪を、少なくとも日米まで広げることで、頭を冷やす役に立つかもしれない。また中・長期的には、常任理事国入りに役立つかもしれないのである。(51,52頁)

 

 歴史認識問題とは「過去」に関わる問題である以上に、「現在」を生きる我々により直接に関わる問題なわけです。歴史認識問題については日韓、日中に限定したものですが、木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か」、服部龍二著「日中歴史認識」等々、優れた著作があります。お読みになることお薦めします。

 

堀田江理著「1941 決意なき開戦」

 

 今回、取り上げた著者・堀田江理氏は東京生まれで、1994年にプリンストン大学歴史学部を卒業し、その後、英オックスフォード大学より国際関係博士号を取得し、そこでも教鞭もとられた若き学者です。尚、夫君は「廃墟の零年」を刊行されたイアン・ブルマ氏です。

 

 本書は英語版で刊行され、その後、改めて日本版に翻訳されました。著者によればアメリカではパール・ハーバーとはまさしく「だまし討ち」の代名詞的概念となっており、アメリカが望んでいないにもかかわらず、正義のため戦争を余儀なくされた、一大ターニングポイントだと思われている。しかし、現実アメリカに生活している中で感じられることは、その名が広く知られ、安易に使われる一方で、実際の真珠湾攻撃に関する知識といえば、はなはだ希薄であることは否めない。歴史に明るい人でさえも、ルーズベルトやチャーチルが、日本に攻撃を仕向けたというような共謀説や、ごく狭い戦術的視点からの論議に固執しがちで、ましてや真珠湾に至る日本の内政問題についてなどは、そのわかりにくさも手伝ってか、あまり語られることはない。そうした背景の中、日米開戦にまつわる一つの新しい見方を提供したい。アメリカの読者に向けて、「日本側から見た真珠湾」という切り口で書いた、と述べています。

 

 豊富な資料と共に、今まであまり取り上げられてこなかった書籍、加えて昭和天皇が不快に思われた、とされる近衛文麿のヒトラーに仮装した写真等々も取り入れられております。開戦に至る1941年を中心に非常に明快な文章で記述され、アメリカ人のみならず我々にとっても、極めて興味深い貴重な歴史研究書になっております。昨年の4月に取り上げたイアン・ブルマの「廃墟の零年」も大著ですが、合わせお読みになることをお薦め致します。

 

 本書はプロローグ「たった一日。なんというその違い!」から始まり、一章「戦争の噂」から16章「清水の舞台から」という構成です。今回も本書の全章を紹介するのではなく、このプロローグを中心に進め、私が深く印象に残ったことにつき、感想を交えながら記して行こうと思います。方や、全章を纏めることは難しく、またそれは著者にも失礼になるかと思っており、僭越ながら私のこの駄文をひとつの契機として、本書を読まれるのが一番と思っています。

 

そのプロローグ「たった一日。なんというその違い!」

 

 本書においてはこのプロローグは極めて重要な指摘のみならず、本書全体を解説し、何を目的とするかを示しております。長くはなりますが、以下、抜粋し、ご紹介致します。

 

その一 本書の目的

 

 本書の目的が、感情的な弁解でもなく、日本の真珠湾攻撃に至るまでの八ヶ月間を、わかりやすく述べることにあることが明らかになるはずだ。日本の振る舞いを、正当化するのとも違う。難攻不落の敵との勝ち得ぬ戦争が、日本の指導者たちによって、いったいどのように始められることになったかを理解したいのだ。もちろん、そのような無謀な選択がより強い意志と忍耐で、避けられるべきであったことは言わなければならないが、それはある一定の理解を得た後に来る、解釈の問題である。・・(中略)日本の運命を握っていた政策決定過程は、信じ難い煩雑さと矛盾に溢れかえっている。ほとんどの指導者は、帰属組織への忠誠心や個人的な事情から、表立った衝突を避ける傾向にあったことは間違いない。遠回りの発言をすることが、常習的に行われていた。特に軍関係の指導者の多くは、当然のことながら、まわりから弱腰と思われるのを何としてでも避けたいと願っていた。そのため、心の内にいかなる疑問を抱いていたとしても戦争回避を訴えることはしなかった。(22,23頁)

 

その二 当時の状況

 

 そして当時の社会の状況につき、1940年の秋、60歳の永井荷風の日記を紹介します。

 

 日本橋辺街頭の光景は今もひっそりとして何の活気もなく半年前の景色は夢の如くなり。六時前後群衆の混雑は依然として変わりなけれど、男女の服装地味と云うよりはぢぢむさくなりたり。女は化粧せず身じまひ怠り甚だしく粗暴になりたり。空暗くなるも灯火すくなければ街上は暗淡として家路を急ぐ男女、また電車に争ひ乗らんとする群衆、何とはなく避難民の群れを見るが如き思ひあらしむ。(10頁)

 

 真珠湾に攻撃機を送り出すに至るまでの日本は、政治的にも、経済的にも極度に不安定な状況が続いていた。国による統制が日に日に厳しくなるなか、人々の生活を無力感が支配していた。1937年半ばに始った中国との戦争には終わりが見えず、最初のうちこそ人々は、日本が迅速に決定的勝利を収められると信じて疑わなかったが、あたかもロシアに遠征するナポレオン軍のように、日本軍は大陸の奥へ奥へと引き入られ、荒くれの未知の地形での苦しい戦いを余儀なくされていた。それでも日本の主たるマスメデイアは、盲目的愛国心主義に染まった報道を続けたが、時がたつほど人々の心の中で、なぜいまだ中国との戦いにけりが付けられないのか、疑念が湧き起こり始めていた。そして宣戦布告が遅れたために、その後の日本は重い遺産を継承することとなった、と述べています。すなわち1941年12月8日を迎えたわけです。国際法上、戦術上の細かい話は日本の一般市民にとって二の次で、少なくとも表立った反応に限れば、奇襲攻撃の成功は、国民から歓喜の声と共に迎えられました。

 

その三 文化人、知識人の反応

 

 そして例外はあるとしても文化人、知識人とて真珠湾奇襲攻撃成功を冷静に受け止められるわけではなかった。当時59歳であった斎藤茂吉は「老成ノ紅血躍動」と日記に記し、36歳の伊藤整も「我々は白人の第一級者と戦う外、世界一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限りないいとおしさで自分に分って来た。・・(中略)、ハワイだけは我々も意外であり、米人も予想しなかったのであろう。・・(中略)立派なり。日本のやり方日露戦と同様にて素晴らしい」と日記に絶賛した。尚、日露戦争も正式な宣戦布告より二日前の1904年2月8日、ポートアーサーで、日本軍がロシア帝国軍の船に仕掛けた奇襲攻撃で始まり、そして日本はその戦争に勝ったのだ。と著者は記しています。

 

 日本の対中政策の大きな矛盾に苦しみ、批判していた当時31歳の中国学者の竹内好さえ、同人誌に次の文章を発表するわけです。

 

 歴史は作られた、世界は一夜にして変貌した。・・素直に云えば、我々は支那事変に対して、にわかに同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。・・わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証してゐる。国民のひとりとして、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が自日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。(中略)東亜に新しい秩序を布くといひ、民族を解放するといふことの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。(13頁)

 

 もとより少数であるが、正式に敵となった西洋の国々について、正しい知識を持つ人もおり、国力の差、資源の差は明白で日本は結局のところ大敗を喫するだろうとの予想を持っていたが、歓喜と熱狂の渦中では、非国民との告発は免れず、待ち受ける大きな困難については、考えずにいる方をとったのである。

 

その四 前史

 

 加えて著者は、日本の指導者が真珠湾奇襲攻撃に至るまでの道程で、直面した現実の、または想像上の束縛は、これより前の歴史にも根ざしている、と次のように指摘しています。

 

 一九世紀後半の開国持、世界はより広く、しばしば日本に敵意を持っているように思われた。鎖国政策の終焉、大政奉還、そして近代国家の設立と続く日本の一大変革期は、また同時に世界の勢力図が大きく塗り替えられる時期でもあった。中国、スペイン、そしてオスマントルコ帝国が崩壊する中、略奪的性格を持つ西洋帝国主義が日本に示した教訓は、「力」の重要さだった。国力を養うことで国が存続できるという信念が、日本近代国家に植えつけられた所以だった。時代の産物である新敵国主義、社会進化論、白人優越主義などは、さらに人種差別主義的世界観を日本にもたらした。・・(中略)ただ、そんな日本人にもできなかったことがあった。それは肌の色を変えることだった。(27頁)

 

その五 狂信とギャンブル

 

 日清戦争直後には明治天皇が勝利に際し、自惚れての慢心に注意せよ、との警告で「自ら驕り」「他を侮り」「友邦を失うが如きは断じて」受け付けない。全ての国民が勤勉に忠義を尽くし、国家の発展のために邁進しなければならない、と戒めていた。しかし1930年代までには、そのような謙虚な心がけが失われつつあり、西洋によって、不当に扱われてきたことに対する長いルーツを持つ怨念が、近代国民国家として成功したという自負と相まって、ある確信に拍車をかけた。それは、どんなに困難な国内外の危機でも、日本には強い意志さえあれば、乗り越えられるという狂信とも言える信念だった。しかし、何故に捨て鉢の戦争が1941年12月に、勇断として日本国民に歓迎されたことも、部分的には説明がついたとしても、日本の開戦理由にはならない。特に政策決定者たちの多くが、日本の最終的な勝利に懐疑的だったのだから。日本の開戦決定は結局のところ、巨大な国家的ギャンブルとして理解されるのが、最もわかりやすい。

 

 その判断の一つはヒットラーと戦火を交える中、西ヨーロッパ諸国の東南アジア植民地の守りが手薄になっている、という読み。一方、日米決戦がアジア・太平洋地域の覇権を賭けた地政学的に「避けられない」戦いであるという認識も、強迫観念に拍車をかけた。しかし、必ずしも日本の指導者のすべてが、太平洋での大衝突を歴史的必然と捉えていたわけではないが、誰ひとりとして、踏み込んで戦争回避を主張する者はいなかった。当時よく使われた「バスにのり遅れるな」という標語は、この戦機を逃せば、もう二度と日本が大国として世界に君臨するチャンスは巡ってこないだろうという切羽詰まった思いを簡潔に代弁している。

 

 更に、一か八かの開戦に傾く日本の戦略構想の中に、もうひとつの大きな歴史の皮肉があった。それは、その壮大で無謀なギャンブルは、そもそも開戦に反対していた連合艦隊司令官、賭博好きの山本五十六の存在なくしては、あり得なかったということだ。しかし、単純に戦争が「避けられなかった」からだと言うのは、あまりにも不十分である。ではいったい誰が、そして何が、日本に真珠湾を攻撃するように導いて行ったのだろう、とプロローグを結んでいます。

 

第一章「戦争の噂」から第十六章「清水の舞台」

 

 第一章から第16章と真珠湾奇襲攻撃に至る経緯経過を記して行くわけですが、従来あまり取り上げられなかった近衛文麿について資料を丹念に検証しながら著者は掘り下げて行きます。加えて、松岡洋右については近衛文麿と生い立ちについては大きく異なりますが、「タフな日本」「NOと言える日本」を望んだ点、加え、両者が固定観念にとらわれている点で、両者は非常に似ているとしております。もとよりこの両者だけが開戦に至らしめたわけではありませんが、いずれにもせよ開戦に至る要素を結果的に与えた、との重要な指摘です。以下、近衛の演じた負の役割を私なりに紹介して参ります。尚、近衛文麿については筒井清忠著「近衛文麿」を昨年10月にブログでも紹介致しましたが、今回、私としても認識を新たにしたところです。

 

 

 

近衛文麿の役割

 

 第一次近衛内閣は1937年、いかにも軽やかな足取りでスタートした。近衛は民選ではなく重臣の西園寺公望の推薦であったが、近衛に大命が降下されると、マスメデイアにもてはやされ、国民全体が、あたかも救世主が現れたかのように歓迎した。近衛と大きく異なる身分と育ちである松岡洋右も国際連盟脱退、三国同盟締結の帰国後の彼に対する奇しくも同じ現象がみられたのであった。「大政翼賛会」、「国家総動員法」、「東亜新秩序声明」、「昭和研究会」はては「隣組制度」も、また「蒋介石を対手とせず」の声明も近衛時代に行われた。そうした一連の近衛に対し著者は次のように記しています。長くなりますが近衛の性格を知る上で紹介致します。

 

 近衛が日本国内でいくらか知られるようになったのは、1919年パリ講話会議前夜、「英米本位の平和にもの申す」という前述の小論文が、英訳され紹介された時だった。そして1937年、日中戦争が勃発し、中国の主要都市や工業地帯、国民党の首都であった南京などを含む地域で、日本の攻撃が激化したのも、ドイツとイタリアとの同盟を追求したのも、また、今となってはいっさいの責任を負わせている松岡に、特に期待して外相として任命をしたのも近衛首相だった。紛れもない、言い逃れのできない経歴がまだあった。三国同盟の成立直後、近衛自身が公式の記者会見で「私はアメリカが、日本の真意を理解し、積極的に世界の新秩序建設に協力したほうが賢明ではないか、と考える。しかし、アメリカが日独伊の真意を故意に見誤り、三国に対して条約を敵対行為を表すものと考え,、さらに挑発行為を続けるならば、我々とって戦争以外の道は残されないであろう」と、松岡張りに強弁していた。だが不思議なことに本人は、このような言説や行為の数々が西側の自分に対する信頼を損ねてきたとは、思わなかったようだ。自分の地位は不可侵だという、特権意識のなせる業だろうか。ことルーズベルト政権の対近衛意識に関しては完全に勘違いをして、首脳会談開催がここまで難航するとは思っていなかった節は否めない。(250頁)

 

 残念ながら近衛には、ルーズベルトのような耐久力や、諸問題の優先順位を見抜く力が欠けていた。それに加え、自分の判断ミスや失敗も、周りに責任転嫁することが当たり前になっていた。そして見紛いようのない、やんごとなき社会的地位がそれを常に、少なくとも敗戦までは可能にしていた。加えて次のように指摘しています。

 

 気高い血筋も知性も、効果的リーダーシップの保証ではなかったことを、身をもって証明した。政策が決められる議論の場で、自分の意見をはっきりと述べず、自身の手を汚すことを極端に嫌い、事なかれ主義に走り、対立を避け続けた成れの果てが、外交交渉と開戦準備の期限付きの同時進行だった。最後には、日米首脳会談で何もかもがうまく行くという幻想にすがりつきながら、自覚なしに崖っぷちに国を誘導してきたが、ハッと正気に戻ると、その進行止める大仕事をまかされるのはまっぴらごめんとばかりに、すり抜けて逃げることになった。首相として、日本の危機が最高潮に高まった過去四年のうちの三年近く、政府を指導したが、その間、中国との戦争はますます泥沼化し、あり得ない英米戦争が、いたって合法的に、いくつもの会議を経た上で、最終的に天皇の承認を得た国策として、のし上がっていた。(277頁)

 

 大手新聞のマスメディア

 

 では当時の報道機関はどうであったのでしょうか。満州事変当時においても新聞はこぞって戦地に特派員を派遣し、劇的な見出しの下に、号外で戦況を報告することで発行部数を競い合い、売り上げ合戦をますます白熱化させていた。大手新聞はこの時点で、意識的に政治的に「自己検閲」という浅はかな道を選択した。その選択はその後10年間かけて、日本のメデイアを窮地に追い詰めていくことになったわけです。「軍部から正確な情報を得ていたであろうにもかかわらず、どの新聞も、満州事変の発端が実は関東軍が企てたもので、中国側に非がなかったという重大な事実をあえて報道しなかった。満州事変が偽の口実で、なし崩し的に決行されたということが、一般読者に知らされることはなかったのだ。それどころか新聞は、関東軍の主張を全面的に肯定する報道に終始し、爆破された線路の現場や、首謀の中国人の遺体の写真などを事変の確固たる証拠として、センセーショナルに報道した。(61頁) 

 

 そして日本の世論は強行論調のメデイアにたきつけられていったのである。

 

 帝国国策遂行要領の御前会議、そして開戦へ

 

 1941年1月11日、政府は「国家総動員法」を補足する形で、新聞などメデイアに対する規制を強化した。上述のように満州事変以降から大手新聞は国策に取り入り、露骨に愛国的熱狂を煽り立て、激しい売り上げ部数拡大をくり広げてきた。当初、軍人とは積極的に、互いを利用し合った。1941年にもなると、マスメデイアが軍部との「危険な関係」から身を引くのは到底不可能になっていた。そして会議らしいものは行われることなく近衛文麿の下、「帝国国策遂行要領」が御前会議で承認されるわけです。

 その近衛はスパイ・ゾルゲの逮捕に続き、近衛の側近であった尾崎秀実の逮捕のタイミングで近衛から東篠英機へと移ります。新首相は1941年10月から30日まで、9月6日の御前会議決定を再検討するべく連絡会議を招集するも、時既に遅く、東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相の反対もむなしく、論議は尽くされないまま帝国国策遂行要領は変わらず、開戦へと向かいます。即ち「空気」が変わることはなかったわけです。

 

著者はエピローグで次の重要な指摘をしております。

 

 ルーズベルトは演説でこう述べている。「日本の航空部隊が攻撃を開始した一時間後、日本の大使と彼の同僚が、国務長官に、最近のアメリカからのメッセージに対する正式な返答を持ってきた。その返答には、これ以上外交交渉を継続するのは無駄だという見解が述べられてはいたが、戦争や武力攻撃の示唆は、全く含まれていなかった」。つまりルーズベルトは、日本が外交を攻撃計画を包むマントとして、つまり騙しの道具として用いたことを力強く世論に訴えたのだった。

 真珠湾攻撃から三日後、ウエストポトマック公園の中で、最も立派で美しい日本桜四本が、切り倒された。日米間の、「最後の言葉」などない、永い友情のシンボルであるべきはずの桜の木が、米国民の激しい憎悪の対象になったのだ。アメリカが「リメンバー・パールハーバー」のキャッチフレーズのもとに団結し、対日戦争に本気で乗り出したことを反映する、象徴的な事件だった。(363頁)

 

 そして次の文章をもって終わりとしています。

 

 行き着くところ、開戦はすべて国民の責任だった。国民すべてが懺悔しなければならない、としたことは、ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するに等しいのだった。1941年当時大多数の国民の運命を決定する少数の日本人が、確かに存在していた。しかし彼らの開戦決定責任は、十分な検討もされないまま、(また後に続く、連合国による極東国際軍事裁判でも、その全容がつかみきれぬまま)、それはさらに一億の国民によって、薄められたのである。言うまでもなく、東久邇宮内閣の立役者で、無任所大臣として公の場に再浮上した近衛文麿にとって、「国民総懺悔」は、もちろんこの上ない好都合な概念であり、歴史観であった。(375頁)

 

おわりに

 本書についての私自身の解釈に、あるいは勝手な著者の引用に、いろいろとご批判があるでしょう。ただ、私は本書で開戦に至る当時の状況等々を改めて知り、A級戦犯とは何かを考えさせられました。A、B、C級とは単なるクラス分けの分類に過ぎないのに、あたかもA級が最大の重罪として流布され、A級戦犯に戦争責任のすべてを押しつけ、それでよしとしてきたこの現状に、私は極めて違和感を持っております。その上でも、今日の日本の現状から今後を考える上でも、本書は極めて貴重な歴史研究書であろう、と考えております。

 

 加えて、私が度々、お伝えする一国平和主義とも言うべき現状の日本は、極めて危険な状況をむしろ作り出すと考えております。戦争の悲惨さを伝えるばかりが能ではありません。共産党独裁政権の中国が次々と核心的利益と称し、中華大国の復活を賭けて邁進する現状は、あたかも1930年代の日本を見るようです。一方、今年の11月8日のアメリカ大統領の選挙結果でクリントンかトランプ、いずれかが大統領になろうとも、アメリカは内向きの政策をとっていくでしょう。それは今後の日本のあり方にも、すくなからずの影響をもたらすでしょう。即ち、そこには大きな地政学的変動も起きているわけです。従い、日本としては価値観を共有する国々との連携を従来以上に強めていかなければならないわけです。

 方や、そうした現実に対し、一部の識者、ジャーナリストがあたかも日本に言論統制が再び始ったかのように喧伝することに、強い嫌悪感を私は持ちます。そのような方に必要なことは、むしろ自ら過去を改めて調べ直し、そして反省し、己を研鑽することが最重要課題ではないでしょうか。マスメデイア等に登場する一部の識者、コメンテーター、さらにはジャーナリストと称する人々の、独りよがりの正義感、そしてあの傲岸さは私だけが感じることなのでしょうか。かってもそうであったように、マスメディアに見られるのは、そこに営利主義的行為が単に強まってきたに過ぎない、と映るのですが。如何でしょうか。我々が思い起こさなければならないのは、先の大戦時でも、戦後でも然り、自らは何らの責任を問うことも、負うこともしなかった報道機関と称する存在でした。

 

 更に、新たに杞憂する事象は最近の報道番組と称するテレビ画面に芸能人、何の芸能があるか私は分りませんが、頻繁に登場している現状です。そして彼らは当該放送局の意に沿うような発言で番組をリードし、世論と称する、その形成に大きな影響を与えていることです。彼らはいわば庶民の代表では決してないわけですが、庶民の代表的存在として登場してきたことです。専門家と称される人も、その論議において、彼ら芸能人のテレビ慣れには適わない現状で、その結果、無責任に作られた世論と称するものに時の政権が大きく影響を受けている現実です。結果は日本だけしか通用しない思考集団が出来上がるわけです。皆さん、如何思われるでしょうか。

 (注)本拙稿は2016年9月29日に投稿したのですが、今回の「おわり」に若干の補足追加他、加えております。

 

2017年9月29日

                        淸宮昌章

 

追補 新聞社等が造りだす世論

 

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 私は今迄も、自分でも執拗に思うほど何度も繰り返し、新聞を初めとするマスメデイアに主導された世論と称するものに、戦前、戦中、戦後を通じて政権が大きく影響されてきた、と記してきました。筒井清忠氏は日本において、初めてポピュリズム現象が登場したのは日露戦争の講和条約の締結に反対する国民大会が暴動化した、所謂日比谷焼き討ち事件であろう、としています。当時政権を取っていた桂内閣を批判する立場に変更した「東京朝日」が、東京の「万朝報」と大阪の「大阪朝日新聞」の新聞を含め、講和条約を批判する論陣を張ると共に、それらの新聞記者達が提灯行列に先立ち、その反対運動を先導していった、ことです。

 

 そして昭和の時代には、これも何度も触れて参りましたが、1926年の松島遊郭事件、同じく陸軍機密事件、朴烈怪写真事件、1934年の五・一五事件裁判、更には架空の帝人事件が新聞報道による世論形成の結果、時の政権を倒壊させ、政党政治を逆な方向、危険な方向に動かしていったのです。戦中、戦後のマスメデイの実体は上記の本書の紹介の中で述べてきた通りです。

 

 言論機関が時の政権、あるいは権力にもの申す、掣肘するとの正義観は本来的には何も問題はないのかもしれません。ただ、新聞報道の仕方、その主張する正義観は果たして正しいのか否かは、これまた別物なのです。一人よがりの独善的なものになっているか否か。その事は極めて重大な問題であり、課題なのです。

 

 私は日本の新聞社の在り様が、世界の民主主義国家といわれる中でも極めて異質なものではないだろうかと思っているのです。日本の新聞社の現状の際立った特徴は、その巨大な発行部数です。日本の主要三社である読売、朝日、毎日新聞の発行部数の合計だけでも約1800万部です。方や、3億3千万の人口を持つアメリカのウオリートストリート、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト三社のそれは約264万部、66百万人の英国のタイムズの発行部数が約44万、67百万人のフランスのル・モンドは、ほぼ29万部という現実です。何故に日本の新聞社の発行部数が巨大なのでしょうか。この現状をもたらす要因は、その人口1億3千万人弱が、幼・乳児は別として、全て日本語を話し理解できることも、この現状を作り出す大きな要因かもしれません。ただ、この彼我の大きな違いは、別な、極めて由々しい事態を生み出す面をも持つに至った、と私は思うのです。

 

 GHQの占領政策である情報操作とも相まって、戦後も新聞は大きくその発行部数を増やし、その後、主要新聞社は新聞だけではなく、ラジオ、テレビ、スポーツ、果ては不動産業務等々と、その業態を広げ、企業としても巨大化をしていきました。従い、膨大な人々がその新聞等を読み、あるいは聞き、観る、更には参画するということがなければ、その新聞各社の経営は立ちゆかない体質になってしまったわけです。即ち、新聞各社は企業経営上、読者、観客を何としても引きつけなくては、ならなくなった体質になったのです。そこには正義とか、ことの真実ではなく、読者・観客を呼び込む必要性に新聞各社が追い込まれて行った、と言わざるを得ません。そして、結果的に日本では新聞社が強大な権力を持つに至ったのです。由々しきことはその権力を掣肘するものが新聞社内部のみならず、外部にもなくなってしまったのです。

 

 報道の自由は正にその通りでしょう、しかし言論報道の自由と共に、報道しない自由も新聞社が持ってしまったのです。従い、政治家のみならず、一般の人々もその新聞社等メデイアに、むしろ迎合するような現実が生まれ出てきたわけです。由々しき状態に日本がなってしまったと言わざるをえません。国会議員等もメデイアに載せてもらおうとする、国会内外のあの見苦しい、特に野党国会議員等による、あのパフォーマンス姿を現出する状況も生まれたのです。

 

 日本記者クラブと称される会見を含め、種々の記者会見における、記者等による独りよがりの、安上がりの、正義は我に在りとするかの如き姿。元を含め、新聞記者、論説委員と称する人々の、あの傲岸さはどこから来るのでしょう。巨大な権力を持った驕りから来る証左、そのものと考えます。私には歯止めの効かなくなった権力者そのものの姿、と写るのです。

 

 民主主義を掲げる各国の中で、このような膨大な新聞発行部数が在ることは、日本の特殊な実態と考えます。日本の報道機関、そのような名前はもはや無いかもしれませんが、民主主義という制度上にあって、歯止めの効かない巨大な権力、むしろ最大な権力構造かもしれません。日本の新聞社は極めて危険な存在と化したのではないでしょうか。この現状に誰が責任を取るのでしょうか。民主主義を危険に陥れる由々し現状に、日本は置かれていると思います。民主主義とは何か、我々は改めて考えなければならないのではないでしょうか。

 

 今、私のできる細やかな抵抗は、私の嫌いな新聞は取らない、その系統の報道番組と称するテレビ等は見ない、無視する以外ない、という実に悲しい現状です。

 

 皆さんは如何に思われますか。このような観点は私だけでしょうか。今、私は清沢洌「暗黒日記」(岩波文庫)を再読しております。

 

2018年9月29日

                        淸宮昌章

参考文献

 

 堀田江理「1941 決意なき開戦 現代日本の起源」(人文書院)

 イアン・ブルマ「廃墟の零年 1945」(三浦元博・軍事泰史訳 白水社)

 山本七平「戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部」(さくら舎)

 筒井清忠「陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点」(中公選書)

 塩野七生「日本人へ 国家と歴史篇」(文春新書)

 筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇(岩波現代文庫)

 同  「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

  水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

 花山信勝「平和の発見 巣鴨の生と死の記録」(方丈堂出版)

 宮家邦彦「日本の敵 よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)

 木村幹「日韓歴史認識問題とは何か」(ミネルヴァ書房)

 服部龍二「日中歴史認識」(東京大学)

 佐伯啓思「西田幾多郎」(新潮新書)

 清沢洌「暗黒日記」(岩波文庫)

 他