清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

姜尚中「朝鮮半島と日本の未来」他を読んでみて

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姜尚中「朝鮮半島と日本の未来」他を読んでみて

 

再投稿(日韓歴史認識問題について)

 

 日韓問題については、弊ブログでも度々取り上げてきました。この4月13日福島原発の処理水を国際原子力機関(JAEA)の承認の下、JAEAの許可の7分の1以下、更に日本国の飲料水基準の40分の1以下に抑え、二年後を目処に海洋放出する方針を決定した、との政府発表がありました。そのような背景もあり、昨年の8月に投稿した投稿に若干の補足を加えました。

 

 2021年4月23日

                          淸宮昌章

はじめに

 

 今日8月15日は終戦(敗戦)記念日です。75年前の当時も、とても暑い日でした。東京大空襲の中、本所小梅の隅田川の側、燃え落ちる横川橋の袂で、私達6人家族を含め数家族が奇跡的に生き延びました。焼け出され、被災を逃れた東京向島の叔母の家で、8月15日、あの異様な沈黙の中、親戚の人たち、母、姉、5歳の私には意味は全く分かりませんが、玉音放送をかしこまって聞いたわけです。そうした私の思いで他は今年3月4日、弊ブログ「淸宮書房」の投稿、加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」の中でも、触れております。

 

 方や、ブログ「淸宮書房」の最初の投稿は2015年3月の澤田克己著「韓国『反日』の真相」を読んで、でした。続いて、木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か・・歴史教科書・慰安婦、ポピュリズム」、同年4月「日韓、日中の関係(相互の嫌悪感)」(その1、その2)、という流れで投稿しております。加えて、その後、それぞれの投稿に加筆しており、結果的には日韓に関しては、2019年2月18日までに9回の投稿となりました。私としても中国共産党独裁政権の動向と共に、半島国家と我国との関係、その在り方には大きな関心と同時に大きな危険性、危うさを痛感しております。

 

 そうした中、2019年11月に李栄薫編「反日種族主義」の日本版が出版され、同書に久保田るり子氏の解説、「反日種族主義が問いかける憂国」が記されております。更に、2020年4月、その副読本として久保田るり子著「反日種族主義と日本人」が出版されました。

 久保田氏によれば「最大のタブーである『反日批判』に真っ向から挑戦した『反日種族主義』と言う本の登場は、韓国社会に大きな衝撃を与えた。2019年7月に出版された同書は韓国でベストセラーとなったが、李栄薫氏をはじめとする執筆グループや彼らを支える支援者達の闘いは始まったばかりで、むしろこれからがより茨の道になるだろう。」(「反日種族主義と日本人」 3頁)とその「まえがき」で記しております。

 

 私としては現在の日韓関係にあって、「反日種族主義」という著作が韓国でベストセラーになったことは、本当だろうか、と少し疑問を持つところですが、どのような観点からベストセラーになったのか知りたいところです。

 

 加えて、偶然でしょうか、2020年5月、姜尚中著「朝鮮半島と日本の未来」が出版されました。氏は2003年5月にも「日朝関係の克服」を発刊されておりますが、私の過去のブログ投稿も再検討しながら、姜尚中氏の著作を中心に私の感想など以下、記して行きたいと思います。

                                                                                 (2020年8月15日)

 

姜尚中著「朝鮮半島と日本の未来」他を読んでみて

 

 私は姜尚中氏については詳しくは知りません。政治学者、東大名誉教授として、テレビ等にも頻繁に登場され、物静かに語る姿を拝見しております。方や、何故に氏がメデイアに頻繁に登場するのかと疑問にも思うところです。僭越至極ですが私は氏の見解にはなじめず、共感を持つには到りません。尚、氏の著作は「反ナショナリズム」「悩む力」「姜尚中に聞いてみた」「日朝関係の克服」他、数少ないですが読んできておりまが、いつも何か釈然としない感情が私に残るのです。今回、その釈然としない理由が上掲の本書を読むことにより、分かったようにも思いました。本書の「まえがき」等で、次のように記されております。

 

 2003年に上梓した「日朝関係の克服」は日朝平壌宣言に触発されて書き下ろした、50代前半における勝負作であった。本書もまた、私にとっての勝負作である。だが、前回と違い、今回は、ある種の諦念と折り合いをつけながらの作業であったように思う。私はもう南北朝鮮の統一を見届けることはないのだ。・・(中略)現在、日朝関係は戦後最悪と言われる刺々しい雰囲気が漂い、南北関係も米朝関係も停滞したまま、新たな天望が見いだし難い状況に陥っている.・・(中略)コロナウイルスの大流行により、・・(中略)地球を舐め尽すような災禍の猖獗は、地上の誰もが犠牲者になる可能性を孕んでいる分、かえって国や体制の違いを超えた協力の動きを加速させるかもしれない。もちろん、逆に不安と恐怖に駆動されて、敵対と排斥へと向かう可能性もないわけではない。「連帯」と「新たな壁」は、コインの裏表の関係にある。それでも、私は前者の可能性を信じ、朝鮮半島と日本の未来の姿を多くの人と共有すべく、今回の執筆に臨んだ。(4頁)

 

 果たして本書がそのような連帯、願い、絶望の中に希望の基点となるでしょうか。私は本書を読むことにより、逆に日韓関係の改善は、むしろ世紀を超える、否、解決できない問題なのだなと、残念ながら本書を読んで感じる次第です。

 本書の構成は、序章・危機には変化が必要だ、第一章・なぜ北朝鮮は崩壊しなかったのか、第二章・南北融和と「逆コース」の30年、第三章・「戦後最悪の日韓関係」への道筋、第四章・コリアン・エンドゲームの始まり、終章・朝鮮半島と日本の未来、という構成です。今回も其の全てを紹介するのではなく、私が疑問点を抱いた箇所等を記して参ります。僭越至極な私の感想・言い方も多々あること、重々承知しております。

 

 本書の序章で氏の基本的な観点が記されております。即ち、2017年5月に発足した文在寅政権と安倍政権で日韓関係が深刻になったとの認識です。果たして、そうでしょうか。私は疑問を持つところです。

 

 韓国より一方的に反故にされた従軍慰安婦合意、2018年の韓国大法院による元徴用工判決、其の12月には日本海能登半島沖での韓国海軍・駆逐艦による海上自衛隊の哨戒機への火器管制レーダーの照射事件。2019年8月、日本が韓国を輸出管理の優遇措置対象国から除外。続いて、日韓の軍事情報包括保護協定の自然延長のペンデイングを韓国が行ったこと。こうした中、日本でも韓国とは「断交だ」「伐つべし」との主張まで飛び出す一方、韓国では日曜雑貨から自動車にまで到る不買運動がうねり、日本への渡航自粛の波が広がった、と氏は記しています。

 

 尚、上記の中では至極当然とも見える文言で「従軍慰安婦」、「元徴用工問題」としていますが、李承晩学堂の校長である李栄薫編「反日種族主義」の中では全くその様相が異なります。即ち、そんな従軍慰安婦についても姓奴隷というような事実はなかったと記されています。私はここでどちらが正しいかを問うのではなく、姜尚中氏は「従軍慰安婦」、「元徴用工問題」は既成の完全な事実として記していることに、僭越至極ながら氏に対し、言いしれぬ疑問を感じるのです。

 

 尚、本書に中には参考見解として、度々取り上げられる歴史学者との表現で和田春樹氏の見解が取り上げられ、参考文献としても同氏の4冊の著作を示します。方や、日韓の歴史認識問題他、営々と研究されている専門家・研究者の木村幹氏、細谷雄一氏、田中明氏、鄭大均氏、呉善花氏他の学者の言説には一切触れられておりません。私は奇妙と言うか不思議さを感じるのです。

 

 その一例ですが、木村幹氏によれば、「日本支配の悪しき部分を示す象徴的な事例として挙げられる従軍慰安婦問題も1980年以前の韓国においては、この問題が本格的に取り上げられことはほとんどなかった。また、80年代以前においては、今日我々が用いている「歴史認識問題」や「歴史問題」という言葉が用いられることもきわめて少なかった.・・(中略)同じことは歴史教科書問題についても言うことができる。東アジアにおいて初めて歴史教科書問題が本格的な国際問題として挙論されたのは、1982年のことである。」(木村幹「日韓歴史認識問題とは何か」、17頁)と記しております。

 

 慰安婦問題も1991年の自民党政権ではリベラルと言われる宮沢政権、更には1994年の旧社会党の党首であった村山政権時代に彷彿してきたのが現実です。何が韓国で起こったのでしょうか。姜尚中氏によれば現文在寅政権の取り組み方に問題があったとしても、「日本に現代版の中曽根政権や小泉政権があれば、韓国の出番はなかったかもしれない。それほど北東アジアの新しい秩序形成の勢力地図で日本の位置は低下していたのである。」(「朝鮮半島と日本の未来」162頁)と記されております。皆さん、如何思われますか。私は僭越ながら賛同致しかねます。

 

 そんな思いを抱きながら、李栄薫編「反日種族主義」、及び久保田るり子著「反日種族主義と日本人」と並行しながら、本書の姜尚中著「朝鮮半島と日本の未来」を読み進めた次第です。僭越至極ですが姜尚中氏のような認識が韓国で浸透しているのでは、日韓関係の改善は到底無理、世紀を超えても解決不可能ではないかと思うのです。以下、私が感じる疑問点など、幾つか記して参ります。

 

 その1 日韓関係が戦後最悪になった要因

 

 誤解を恐れずに氏の視点を紹介すると、

 

 まず一つは戦後最悪の日韓関係は朝鮮半島分断体制の「終わりの始まり」と言う大きな時代の流れの中で起きていること。2018年平昌オリンピック以降、ポスト分断体制への移行が始まりつつあること。文在寅政権の対北朝鮮政策は金大中政権の「太陽政策」、盧泰愚政権の「北方政策」に続く、謂わば30年の歴史的必然性であること。方や、日本はこれまでの分断体制の恒久的な存続を死活的利益とし、「現状維持」を安全保障上の基本的な戦略としていること。

 

 その二は日韓の間の国力の差が縮まり、韓国が経済発展よりも歴史問題が優先される課題となったこと。

 

 その三は日韓のナショナル・アイデンティティの衝突に到ったこと。「日本にとって明治以降の歴史は、近代化を成し遂げ、列強に伍する位置まで上り詰めた輝かしさに満ちている。しかし、その光り輝く日本の近代は膨張主義という影と切り離すことはできない。その影の側面を最初に引き受けざるをえなかった地帯こそが朝鮮半島なのであり、韓国併合から110年、南北に分断されたまま、統一的なナショナル・アイデンティティも作り得ないまま、韓国は日本との過去の歴史認識をめぐって緊張を続けているのである.・・(中略)韓国にとっては、1919年の三・一独立運動に代表される日本の侵略に対する抵抗の歴史がアイデンティティの根源にあり、1945年8月15日は日本の植民地支配から解放された日である。」(27,28頁)

 

 加えて、上記の歴史認識と関係があるのか否かは判然としませんが、文在寅政権は1919年3月1日を建国記念日とする動きもあります。李承晩他が1919年3月1日、上海で大韓民国臨時政府を樹立したものの、その後は李承晩も離脱し細々と活動していたわけですが、国際的には国家として認知もされていないはずですが、そのようなことは問題外のことなのでしょうか。その後、アメリカの支援もある中、李承晩元大統領が1948年8月15日に国家樹立を宣言し、国際的にも認知されたわけです。そうした歴史事実は変わるのでしょうか。姜尚中氏によれば日本への抵抗の歴史認識は消えることはないのです。

 

 更に敷衍すれば、著者は1965年に妥結した日韓基本条約の 第二条の「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」。この「もはや」という曖昧な文言は日本による「韓国併合条約」は韓国では不法とし、現在まで両者の主張の違いは現在まで続いている。加えて、第三条の「大韓民国政府は、国際連合総会決議第195条明らかにされているとおり朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」との韓国の解釈に対し、日本はこの条文を「韓国政府が休戦ラインより南側を実行的に管轄している事実を確認したものに過ぎない」とみなしている、と記しております。

 

 加えて、朝鮮戦争についても氏は言及されて行きますが、分断の怨念は戦争の当事者に向かわず日本にきているのです。その一つの理由は南北に分断され、戦争特需により日本は後の高度成長へ繋がった、その怨念はけっして解消することはなく、更なる反日教育によって強まるまる可能性が高いのではないでしょうか。私は呉善花著「侮日論 韓国人はなぜ日本を憎むのか」を想い起こすと共に、本書を読み進め、反日の怨念は今後も消えない、そんな思いが強まりました。

 

 日韓両国はきわめて解きがたい大きな溝を抱えており、それを埋めることはできないのではないでしょうか。姜尚中氏は日韓関係のリミット(限界)に付いても言及されております。

 

 その2 日韓関係四つのリミット(限界)

 

 第三章「戦後最悪の日韓関係」の中で、四つのリミット(限界)が記述されます。

 その一は、日韓の出生率低下による資産や所得、学歴や情報、文化の格差構造が固定化すると共に世代間格差の問題が浮上。韓国内ではその国内の不満の解消策として政府による過剰な「反日」に煽られた対日外交。それに対する日本は日本の中の「嫌韓」感情に便乗したような韓国に対する強硬姿勢。相互の妥協点を見いだせないほどにエスカレートしてしまいかねない。

 

 その二は、地球温暖化に代表される環境的リミット。福島第一原発事故の問題は日本列島と朝鮮半島が共に直面する課題で、今後も福島第一原発内の汚染水が海洋放出となれば、日韓の間の軋轢は再燃することになりかねないこと。

 

 その三は、地政学、・地理学的リミット。ユーラシア大陸の半島の先端に位置する韓国は、中国やロシアなどとの直接的な繋がりを断たれる一方、日本は冷戦のころまで、米国の覇権の下、全方位的通商国家として自由貿易の果実を得てきたこと。

 

 その四は、歴史認識のリミット。そのリミットが浮上したのは1980年初頭の教科書問題後のことであるとし、「韓国側から見ると、李氏朝鮮を不平等条約で開国させた明治初期、さらには韓国併合に連なる日清・日露戦争は、慰安婦や徴用工を生む苦しい受難の時代の始まりを意味し、さらに韓国では南北分断を生んだ遠因を日本の植民地支配に求める見方が支配的だ。日本にとっての『栄光』の歴史と、韓国のとっての『屈辱』の歴史。」(104頁、)と記されております。 

 

 姜尚中氏が政治学者で科学者でないことも起因するのかもしれませんが、上記の通り福島についても「処理水」ではなく「汚染水」と表現しております。氏が日本への風評を更に悪化させる意図はないとは思いますが、何故に悪評を強めるような表現にするのでしょうか。方や、韓国のみならず処理水の海洋放出は世界各国一般的に行われている現実です。氏の生活拠点は日本にあるものの、氏の反日本の感情、あるいは思想は決して消えることはない、と思いました。

  

 加えて既に記してはおり、繰り返しになりますが、1965年に妥結した日韓基本条約の第三条の解釈は「韓国では韓国政府こそ全朝鮮の唯一合法政府である」、と解釈しているに対し、日本は北朝鮮とも交渉する余地を残す為に「韓国政府が休戦ラインより南側を実行的に管轄している事実を確認したものに過ぎない」と見なしている。

 

 一方、木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か」の中で、1982年初頭日本の歴史教科書の件に付き次のように記しております。私としてはきわめて重要な指摘と考えますので、長くなりますが以下、ご紹介致します。

 

 日韓両国の間で最初に日本の歴史教科書をめぐる本格的な紛争が発生したのは、1982年のことであり、これは動かしえないようもない事実である。だからこそ、我々はこの時期に集中して、何がどのようにして起こったのかを、時期を絞って分析することができる。・・(中略)1982年の教科書問題が、同年6月26日の日本のマスメディアによる「誤報」事件から始まったことはよく知られている。この日、日本のマスメディアは、既に紹介したような理由に基づく事実誤認から、文部省(当時)がこの時の検定において、実教出版の教科書における中国大陸への「侵略」という記述を、「進出」へと書き換えさせた等と報じることになった。これにより、教科書問題の火蓋が切られることになった。・・(中略)日韓間の歴史教科書問題を考える上で重要なのは、この家永第二次訴訟の最高裁判決が出たのが、1982年4月、つまり「誤報」事件が発生するわずか二ヶ月前のことだったことである。当然のことながら、この前後における日本の世論やマスメデイアの歴史教科書検定に対する関心は前例がないほどまでに高まっていた。結果として出された判決は、82年のこの時点では既に教科書執筆の基準となる学習指導要領が大きく書きかえられておてり、家永の訴えの利益は消滅したとして原判決の破棄、差し戻しとするもので、実質的な家永の敗訴だった。・・(中略)当時の世論では、家永に対しての同情的な声が強く、一部の人々は、文部省がこれにより検定を強めれば、そのことを新たな教科書検定反対運動の契機として利用できるはずだ、とさえ考えていた。だからこそ、とあるジャーナリストの基本的な情報確認の誤りにより生み出された単純な「誤報」は、瞬く間に大半の日本メデイアが共有するものとなった。つまりこの「誤報」は、当時の世論やマスメデイアの「期待」に意図せずして応えるものであり、それゆえに、人々に広く事実として信じられることとなったということができた。(本書75~79頁)

 

 続いて姜尚中氏は、米国が火をつけた「歴史戦」と記します。私としては火をつけたのが米国との記述には強い違和感を抱きます。加えて、カリフォルニア州選出の日系アメリカ人であるマイク・ホンダ下院議委員が2007年1月、「日本政府は慰安婦に謝罪すべき」という決議案が米国下院外交委員会に提出し、外交委員会並びに下院本会議でも可決。その流れはオランダ、カナダ、欧州議会等々に広がり、国際的な人権問題として捉えていった。と記して行きます。

 

 それは事実としても、姜尚中氏の生い立ちに関係はないでしょうが、マイク・ホンダ氏がことさら日系人であることに強調するように見えるのです。従い、日本人である著述家であった故吉田清治の事を私は思い起こすわけです。

 

 私の理解では、吉田清治は1982年頃から、済州島において自らが軍令に従い、若い200人ほどの朝鮮人女性を捕獲、拉致、強制連行したこと等を日本各地、更には韓国まで出向き講演し始めます。加えて、1983年には「私の戦争犯罪」を上梓し、1989年には韓国でも発刊されます。その上、朝日新聞が1983年以降、16回に亘り吉田清治叙述を報道し続けました。日本でもそれは大きな問題となり、学者の秦郁彦氏他の方々がその証言に疑問を持ち、現地調査の結果、それは事実ではないこと。加えて吉田清治も1995年、それは創作であることを表明。それから20数年経過した2014年8月5日、朝日新聞は、吉田証言は虚偽と判断し、吉田清治にかかわる記事をすべて取り消した現実です。

 

 方や、1992年韓国政府は吉田清治の著述を証拠として国連人権委員会に提出。1996年にはクマラスワミ国連人権委員会の日帝下軍隊慰安婦の実態調査報告書でも証拠として取り上げられました。

 吉田清治とはいったい何者だったのでしょうか。私には彼の意図がなんであったのか分からないまま今日到っております。吉田清治には人には言えぬ極度のつらい人生経験があったのでしょうか。

 

 と同時にメデイアの危険性を改めて思うともに、戦中、戦後も変わらない朝日新聞の報道の在り方、更にはその朝日新聞の特殊の体質を私は感じるのです。世間では新聞離れが始まっておりますが、その前兆以前に、朝日新聞の購読部数が急速に減少しているのは何故なのか。戦中では朝日新聞は世論を戦争遂行へと煽り、戦後は韓国のみならず、日本にいる反日勢力に反日感情を増幅させるような報道を続ける、そんな印象を私は強く抱くのです。

 更に加えれば、報道の自由と共に報道しない自由も新聞社を含め、メデイアは持ってしまった。それを掣肘するものが無くなったしまった、と私は常々感じ、今までの投稿にも度々、記して来ました

 

 尚、姜尚中氏は本章の最後の方で次のように記されています。ナチスドイツのジェノサイド、ホロコーストを日本に想定するかの如く、「韓国内では日本に対してドイツ並みの過去の清算と謝罪、補償の要求が繰り返されてきた。ドイツのモデルは理想と見なされてきたのである。」(143頁)

 

 以上のような認識にあっては1948年から始まった李承晩政権の時代から続く日韓の関係を顧みると共に、2008年から始まった李明博、朴大統領、そして現文在寅大統領という政権交代の12年間の経緯に鑑みても、日韓関係が改善に向かうということは、私は到底考えられないのです。種々と経緯・事件はありますが「2015年の『外交青書』で『自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値と、地域の平和の安定の確保などの利益を共有る』という表現が削除され、単に『最も重要な隣国』とされるにとどまった。」(120頁)この推移は何も安倍政権が起こした問題ではなく、むしろ自然の推移の帰結ではないでしょうか。

 

 本書の終章の最後に姜尚中氏は以下のように記されます。

 

 古代史にまで遡れば、日本海に張り出した半島は、大陸の最先端文化の恵みを列島に滴らせる「乳房」のような存在であった。21世紀の新しい時代にふさわしい朝鮮半島と日本の未来は、悠久の歴史を刻んできた半島と列島の歴史を胸に刻み、共に北東アジアへ、さらにユーラシアへと協力して乗り出していくことではないか。パンデミックという禍は、その「啓示」となりうるかもしれない。(202頁)

 

 残念ながら、私にはそうしたことは虚ろに思うのです。この記述に対し、私は井上靖著の日本征服の野望を持つ元と、その兵站基地となった高麗の物語である「風濤」を想い起こすのです。朝鮮半島の悲惨な物語です。

 

 半島国家は大事な隣国ではありますが、戦後の半島国家と我国との経緯・経過を改めて再検討すると共に、このコロナ禍にあって、価値観を大きく異にする共産党独裁政権の中国の動向を見極め、我国は米国との関係をより強化すること。加えて、共通の価値観を持つオースラリア、ニュージーランド、インド等の諸国、更には英国とより深い関係を構築すること。そうした新たな道を築き挙げることが、より重要なのではないでしょうか。更に敷衍すれば、日本がかって統治した台湾及び台湾の人々とは戦後においても強い絆があります。日本が福島原発事故、東北大震災等々に際しては常に他国に先駆け、大きな支援をしてくれていること、そのことも我々は忘れてはなりません。

 

おわりにあたり

 

 僭越至極ですが、私の想いを中心に記して参りました。姜尚中の真意とは大きな異なり、私の勝手な思い込みもあるやもしれません。その一方、冒頭に示した李栄薫編「反日種族主義」、久保田るり子著「反日種族主義と日本人」にはほとんど触れずにきてしまいました。尚、編者であり執筆者の李栄薫氏はソウル大学において、韓国経済史研究で博士学位取得、退職後は李承晩学堂の校長をされております。加えて、金洛年氏他5名の執筆者も日帝下韓国経済史等の研究者であります。

 方や、久保田るり子氏は産経新聞編集委員でもありますが、韓国・延世大学にも留学された朝鮮半島情勢、及び東アジアの安全保障問題に造詣が深い方でもあります。是非、上の二著作も合わせお読みになることをお薦め致します。

 

  2020年8月27日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 姜尚中「朝鮮半島日本の未来」(集英社新書)

 同  「日朝関係の克服」(同上)

 李栄薫編「反日種族主義「(文藝春秋)

 久保田るり子「反日種族主義と日本人」(文春新書)

 木村幹「日韓歴史認識問題とは何か」(ミネルヴァ書房)

 同  「朝鮮半島をどう見るか」(集英社新書)

 細谷雄一「歴史認識とは何か」(新潮選書)

 呉善花「侮日論」(文春新書)

 同  「反日・愛国の由来」(PHP新書)

 田中明「韓国の民族意識と伝統」(岩波現代文庫)

 同  「物語 韓国人」(文春新書)

 鄭大均「韓国のナショナリズム」(岩波現代文庫)

 同  「在日韓国人の終焉」(文春新書)

 澤田克己「韓国『反日』の真相」(文春新書)

 同  「韓国大統領 文在寅とは何者か」(祥伝社)

 井上靖「風濤」(新潮文庫)

 淸宮書房の再・澤田克己著『韓国の『反日』の真相』他

 

追補

 姜尚中「朝鮮半島と日本の未来」(集英社新書)を読んで

 

 

自らの半世紀を顧みて、その後

自らの半世紀を顧みて、その後

 

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 親友達と、 於てシーボニア・メンズクラブ  自粛前

 

再投稿 (補足・加筆)

 2022年8月25日に投稿した、弊ブログ『天児著『中国のロジックと欧米思考』」は」思いの外、好評を頂き、109件の投稿の中、上位3位になっております。

お陰様で、総アクセス数は63,000件に近づいております。お時間とご興味があっての上ですが、下記をクリック頂ければ幸いです。

  https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2022/08/25

 

尚、注目記事の第一位は、2020年7月25日の下記の「自らからの半世紀を顧みて、そ後」です。

  2022年11月17日      

                          清宮昌章

1.注目記事

 

 前回の投稿「改めて、自らの後半の半世紀を顧みて」は何か自慢めいた内容なので、少々不安を持っていましたが、多くの方から好評を頂きました。加えて、各時代、各場所での先輩、後輩からも心温まるメールをも頂き、何かほっとした次第です。尚、フェイスブックによれば前回の投稿が109篇の中で、一位から三位となっております。

 

 因みに、二位は昨年4月20日の投稿で、コロナ禍にも関する「この一ヶ月半、ブログ『淸宮書房』の投稿を省みて」でした。三位は2018年7月の投稿で、従来の一連の流れからは少し異なりますが、吉祥寺の古本屋で偶々見いだした、「小島政二朗著『小説 長い荷風』に遭遇して」で、私の高校時代の思い出をも付記しました。四位は2016年9月の投稿「再度・堀田江理『1941 決意なき開戦』を読んで」です。本書は日本の真珠湾攻撃に到るまでの八ヶ月を当時の社会状況、文化人・知識人、近衛文麿、大手新聞のマスメデイア等々、詳細に記されたものです。五位は2020年3月の「加藤陽子著『天皇と軍隊の近代史』を読んで思うこと」です。歴史とは何か、過去の痛苦を忘れないことや、戦争の前兆に気づくことだけが戦争を考えるときに、それほど万能な処方箋ではない。言葉の力で21世紀を生きていかなければならない若い世代に本書は語り掛ける、というものです。今回のこうした順位は私なりに納得しております。

 

 恐縮しますが、改めて本投稿の最後に上記一位から五位のブログを付記いたしました。時間とご興味があればですが、改めて覗いて頂ければ幸いです。

 

 方や、私は何も仕事をしていないので、コロナ禍の中で自粛という言葉は私には不釣り合いですが、自分なりに自粛を続けております。何故か、半年以上になる頸椎ヘルニアによる右手の痺れもほぼ完治し、パソコンも、読書も、テニスも、日常生活には支障もなく以前の状態に戻りました。自粛のお陰かもしれません。

 

 コロナ禍は日本のみならず世界に今後どのような影響を及ぼしていくのか、大きな不安の中、中国共産党独裁政権の動向は極めて重大な結果をもたらすと、私は幾度となく触れて来ました。米国トランプ政権の在り様もひとつの要因ではありますが、中国共産党独裁政権の動向、その危険性は収まるどころか、そのコロナ禍に乗じて益々強硬に、強引に「一帯一路」の政策を進めるのではないでしょうか。我国は大きく変貌した現状にどう向き合い、戦前・戦中のみならず、敗戦後の日中関係の経緯・結果の歴史事実を踏まえ、価値観を共有する各国と共同し、従来にまして真剣に考え、行動に移していくべきと私は考えます。

 

2.「新聞と戦争」他を読んで

 そうした現状下、改めて北岡伸一・細谷雄一編「新しい地政学」(東洋経済新報社、2020年1月出版)、並びに朝日新聞出版「新聞と戦争」(2008年6月出版)、及び同出版「新聞と昭和」(2010年6月出版)、加えて、むのたけじ著「戦争のいらぬやれぬ世へ」(評論社、2007年4月出版)に眼を通して見ました。「新しい地政学」は地政学とは何かを改めて見る上で、大いに参考となりました。

 

 尚、朝日新聞はいつから現在のような在り様になったのか、ある種の興味があり、朝日新聞中国総局編「紅の党 完全版」(2013年出版)の広告欄に載っていた上記「新聞と戦争」及び「新聞と昭和」を取り寄せた次第です。両書とも極めて真剣に取り組んで良書ですが、僭越ながら私の期待した半分というのが実感です。以下は単なる私の感想ですが、記して参ります。

 

 「新聞と戦争」によれば、戦前の朝日新聞の論調が軍の論調に沿う、否、宣伝機関となったのは1931年の満州事変からだと記しています。では、何故そうなったのかについては明確な分析をしてこなかった。そうしたことが、戦後から今日に到るまで、朝日新聞の質を大きく落として行ったことに繋がったのではないでしょうか。もう二十年前になるでしょうか、私は朝日新聞の何十年にわたる購読者でしたが購読を止めたのです。

 

 尚、本書の中で、ハーバード大学のアンドルー・ゴードン教授が報道の自由が守られている現在の米国さえ(イラク戦争に関してですが)、メデイアは十分な役割を果たせなかったわけで自国の戦争を批判的に報じることは、今も決して簡単な課題ではない、と指摘しつつも次のように語っています。氏の指摘に賛同しており、そのままご紹介します。

 

 日本が第二次大戦へ向かう最大の節目は、1931年の満州事変だった。当時、満州にいた朝日新聞の特派員と日本の関東軍が密接な関係だったことや、事変は関東軍の謀略ではないかと疑った人々が朝日の本社にはかなりいた事実を、連載「新聞と戦争」は明らかにした。

 しかし朝日はその疑いを公には問題にしないまま、「満州国」が作られていくという悲しい道を日本はたどった。朝日新聞が関東軍による満州事変を結局認めてしまった要因は、(1)軍や右翼からの外部的な圧力(2)国益への配慮などによる自主的な規制(3)新聞が売れなくなることを恐れる社益の顧慮、の三つだ。「新聞と戦争」もそれを詳細に指摘したが、どの要因が最も重かったか結論は書かず読者の判断に任せている。(新聞と戦争 564、565頁)

 

 残念ながら、本書に続く「新聞と昭和」にもそうした流れであり、朝日新聞の質がここ三十年数年になるでしょうか、急速にその質を落としていくことに繋がった、と私は考えます。

 

 前回の投稿でも取り上げましたが、終戦の日、朝日新聞を辞め、秋田の横手でタブロイド版「たいまつ」を発行し続けた、むのたけじ氏は101歳まで現役を貫いたジャーナリストです。私が学生時代、氏の「たいまつ16年」に大きな感動を与えて頂いた方です。僭越至極な言い方ですが、私は氏の全てに賛同しているわけではありません。その、むのたけじ氏が92歳の時、本書の中に対談形式として登場して参ります。同時に、氏は「戦争をいらぬ、やれぬ世へ」を発刊しており、その中で氏は次のように述べられております。

 

 私は天皇年号の昭和11年、1936年に新聞記者になりましたが、この時まで新聞社というのは自分たちを言論機関と称しておった。それはまさにジャーナリズム、報道ということです。あそこに何があったというストレートニュースを積み重ねることで、その背後にあるものを一つの思想の体系まで編み上げる作業なんだ。だから言論機関だ。ところが大本営報道部というものが軍閥の中枢部に出来たら、新聞社は自分らを報道機関と言い換え始めた。その時に批評・評論・主張・思想の形成という部分が弱まったのではないかどうか。・・(中略)ジャーナリズムがジャーナリズムになるためには、絶えざる自己反省、自己点検、内部でその仕事に携わる人たちの、己の姿を歴史の節目、節目に立ち止まって点検し、一つの合意ですね、確認し積み重ねて行く、その作業が大事なんです。・・(中略)ジャーナリズムの仕事で生きる人間は反権力になる必要はないんですよ。ならなきゃいかんのは権力に対しして自分という独立の、権力に対等の自分をつくることなんです。・・(中略)ジャーナリストは誰でもなれるが「権力に対して対峙しながら、独自の存在である」という自分をつくる、そういう意欲をもっている、これ一つだけが条件だろうと私は思う。(本書95,96,111頁)

 

 如何、思われるでしょうか。加えて現在の新聞各社、更にはジャーナリストと称する、否、称される方々は如何でしょうか。

 

 現在では新聞各社は報道しない自由もあり、報道機関とさえ言えず、大衆に単なる迎合するマスメデイアになっているのではないでしょうか。方や、その影響力は時の世論を左右するほどの強大な力を持ち、誰も制御できない危険性、自浄作用が効かない落とし穴に落ち込んでいるのではないでしょうか。その要因のひとつは新聞各社が種々の新聞以外の事業に手を伸ばし、大きくなりすぎた経営にあるのかもしれません。いずれにもせよ、そうしたマスメディアの弊害・危険性に関しては、幾度となく私なりに触れてきましたが、自分なりにもう少し調べてから、感想などは後日、改めて記したいと思っております。今、ジェイソン・スタンリー 棚橋志行訳「ファッシズムはどこからやってくるか」(青土社)を取り寄せました。

 

   2020年7月11日

                            淸宮昌章

 

補足 ブログ「淸宮書房」の注目記事(2020年7月11日時点)

 

第一位

自らの後半の半世紀を顧みて  https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2020/06/15

 平成27年(2015年)以降、5回に亘りますが、ブログ「淸宮書房」中で、吉田満著「戦艦大和」を巡り、私とその著書との偶然の出会いと共に、大切な方々との遭遇の中で、私なりの自己紹介をして参りました。そうした経緯もあるのですが、今回のコロナ禍の影響でしょうか、改めて22歳以降の自らの半世紀を顧み、己の鮮明な記憶を記録として改めて残して置くことにも、意義があるかもしれない、と思い、綴ってみました。ある面では相当変化のあった仕事人生のようにも思いますが、意義ある人生であったとも考えております。ただ、長く、自慢めいた駄文になりますので、以下は無視して頂いて結構です。

 

第二位
この一月半、ブログ「淸宮書房」の投稿を省みて
https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2020/04/20

  今月4月8日の投稿の「はじめに」において今回のコロナ禍に関して、私なりの杞憂というか、世界恐慌にまで発展する恐れをも記しました。ただし、治療薬が開発されていない現在、必要不可欠な、しなければならないことは政府が出した緊急事態宣言通り、国民一人一人の自己管理、外出を最大限避けること、いわゆる三密を徹底することです。現在の感染拡大を止めることが先ずもって先決です。自、…

 

第三位

小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇してhttps://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/07/11

  一年ほど前に投稿したもので、私のかすかな思い出も入れながら記したものです。何故か、この11月に入り、66編の投稿の中で注目記事の5番目になっております。その理由は分かりませんが、今までの投稿の中では少し趣が異なっております。何か嬉しくなり、改めて、以下ご紹介する次第です。  東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺譚

 

第四位
再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで
https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2016/09/29

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す…

 

第五位

加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うことhttps://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2020/03/04

 人生の大半を生きた昭和の時代を自分なりに再検討し、僭越ながら今を観ようとしている私にとり、本書はとても参考になりました。加藤氏の著書に今までも数冊、目を通して参りましたが、疑問に思っていた宣戦布告無き日中戦争、敗戦時の日本軍武装解除等についても、今回の本書を読むことにより改めて明らかにして頂きました。 著者は数々の印象に残る文章を本書の随所に記しています。歴史への研究視点・観点については次のように述べられております。 東大経済学部の小野塚智二教授の教養課程の学生に向けた文章として、「経済学の目的を市場の諸現象と、それに関連・・

                               以上

                          

 

改めて、自らの後半の半世紀を顧みて  

 


再投稿にあたって

 

 本投稿は4年程前の投稿を、今年7月に補足をしたものです。コロナ禍の影響とは直接関係ないと思うのですが、4年ほど前に始めた弊ブログへのアクセスがここ数年に急増し、62,000台となりました。加えて、本投稿は半世紀に亘る個人的な仕事人生の記録ですが、「はてなブログ」によれば、100件ほどの弊投稿の中、上位注目記事の一番になっております。再々の投稿で恐縮します。

 

   2022年10月20日

改めて、自らの後半の半世紀を顧みて

 

 

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 はじめに

 その1 

 私の後半人生(仕事人生)において大きな影響を与えた吉田満に関して、平成27年(2015年)以降、5回に亘りますが弊ブログ「淸宮書房」中で、吉田満著「戦艦大和」を巡り、私とその著書との偶然の出会いと共に、吉田満に関連した方々との遭遇の中で、私なりの自己紹介もして参りました。そうした経緯もあるのですが、今回のコロナ禍の影響でしょうか、改めて22歳以降の自らの半世紀を顧み、己の鮮明な記憶を記録として改めて残して置くことにも、意義があるかもしれない、と思い、綴ってみました。

 加えて、一昨年の11月中旬の想わぬ[心カテーテル]の手術。お陰様で数日の入院で済み、12月からは普段どおり、今までの午前中はテニス、午後は読書中心の日常を送っています。この8月で82歳になる現在、人生の最終章にいることを改て自覚しております。これからは新規を求めるのではなく、しっかりと自分を見つめ、毎日をしっかりと歩まければとの思いです。度々の引用ですが、しかも遠藤周作の真意とは異なるかもしれません。遠藤周作が病魔に脅かされながら呟いた次の言葉が浮かんで来ます。  

 六十になる少し前ごろから私も自分の人生をふりかえって、やっと少しだけ今のぼくにとって何ひとつ無駄なものはなかったような気がする、とそっと一人で呟くことができる気持ちになった。(心の夜想曲)

 そんなわけで一昨年6月に投稿した「自らの後半の半世紀を顧みて」を再度、見直し、若干の補筆を致しました。ある面では相当変化のあった仕事人生のようにも思います。意義ある人生であったかは分りません。長く、自慢めいた駄文になりますので、御興味とお時間があればの上ですが、改めて一読頂ければ幸いです。

 

 その2

  昭和39年(1964年)、横浜市立大学商学部卒、佐藤豊三郎ゼミで、佐藤先生と出会い、教えを頂いたことが私のその後の人生に大きな財産となっています。佐藤先生はノーベル経済学賞のJ.R.ヒックスに造詣の深い、近代経済理論学者です。J.M.ケインズの「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を訳された名古屋大学・塩野谷九十九教授との交換教授で、横浜市大に見えた教授です。従い、佐藤ゼミの先輩には一橋大学長の宮沢健一教授、一杉哲也横浜市大教授他、学者になられた方々が多いように思います。

 

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(私の本棚にある卒論)


 尚、私の卒論は「J・ロビンソンの利潤率低下の法則批判に対する一試論」で、J・ロビンソンの「マルクス主義経済学の検討」を中心に、私なりに多くの文献を参考に論じたものです。その卒論ですが、先生が退官される前でしたが、各ゼミ生の卒論をお返し頂きました。驚いたことは、我々ゼミ生が提出した原稿用紙が素晴らしい表紙で製本されておりました。その中身までもが立派なものと勘違いするものでした。私は今でもその卒論を、私の書棚に、私の自費出版「書棚から顧みる昭和」の横に並べております。

 

 そして、同年、ゼミの推薦で岡谷鋼機(株)に入社。丁度、東京オリンピックの開催の年でした。配属は新丸ビル二階の東京支店・経理部財務課で、その前年に米国岡谷鋼機が発足し、それに合わせて新設された部署でした。その部署の上司は代々、米国岡谷鋼機のトレジャラー(財務担当役員)となって米国に赴任して行きました。

 

 尚、岡谷鋼機は鉄鋼会社ではなく鉄鋼一次問屋の総合商社です。現在では日本で最古の商社かもしれません。2020年10月、創業350周年記念(全国笹友懇親会)が名古屋ニューキャッスル・ホテルで行われました。社長以下全役員と全国の元気な卒業生(男女)の275名、関係者を入れると三百数十名。例年は東京、名古屋、大阪の各地でそれぞれ別途開催されます。今回は合同笹友会ですが例年通り、当該年に亡くなられた卒業生への3分間の黙祷の後、盛大な懇親会となりました。

 

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(令和元年度の笹友会)

 

  私の入社二年目の昭和40年代は、中国文化革命、中国の初の水爆実験、東大安田講堂封鎖、全米に亘るベトナム反戦運動、「よど号」事件、三島由紀夫割腹自殺、浅間山荘事件、ドルショック、沖縄県本土復帰、田中首相訪中による日中国交正常化、第一次オイルショック等々、記憶に残る事象・事件があった時代のように思います。

 

1.組合の執行委員時代

 

 そうした中、大学の全共闘騒動の残滓、あるいはその流れでしょうか、商社業界でも次々と労働組合運動が盛んとなる時でもありました。昭和45年でしたか、岡谷鋼機労働組合が発足、同時に全国商社労働組合連合会に加入。方や、数年後、あれよ、あれよという間に私は岡谷鋼機労働組合・本部副書記長に選出。数年下の後輩が組合専従・書記長となりました。私の部門の上司は私が本部執行委員になるのは困った、と思います。その後は、商社業界始まって以来となりますが、労組として23波のストライキを打たざるをえ得なかった、極めて厳しい数年の本部執行委員の時代を私も経験したわけです。僭越な表現となりますが労使とも厳しい時代であったかもしれません。

 

 方や、全商社労働組合として支援していた大手商社・安宅産業が破産した時代でもありました。従業員の親睦団体から、労組になった初代労働組合委員長の中村氏が苦悩していた姿を今でも思い起こします。

 

 その後、私は組合本部執行委員内部での大きな意見の相違も生じ、私は本部執行委員を降りました。その執行委員であった仲間の中には、80数歳になる現在でも「憲法九条を守る会」で熱心な運動を続けられております。二年前の年(2020年)の年賀状では「安倍政治には未来は託せない。・・この一事を訴え続けて参ります。」とのこと。私とは思想というか、考え方は大きく異なりますが、それはそれで、立派なひとつの別な生き方ではないでしょうか。

 私が組合執行委員の身分上の異動協議対象から外れた、丁度一年後の翌日の1978(昭和53)年11月1日、米国岡谷鋼機出向の発令。組合としては左遷との異議を出しようもなく、組合も盛大な送別会をしてくれた場面が鮮明な思い出となっています。又、その年の3月、成田空港反対同盟を支援する極左暴力集団による成田空港管制塔占拠事件が起こり、空港は3月から5月への開港になりました。そうした影響もあり、空港は11月でも厳戒態勢が引かれており、私の家族も見送りは出来ず、私一人で成田空港を発ちました。空港及びまわりの異様な物々しい光景をも思い出します。

 

 私は例外的扱いだったようで、赴任地のニューヨーク本社に直行ではなく、ロス、シカゴ、ヒューストンの各支店を経由し、11月30日雪の降る、独特の臭いの漂うニューヨークにある、本社に赴任致しました。特別扱いの為か、何か微妙な雰囲気を私は抱きました。一年後には家族帯同となりますが38歳の時でした。

  現地の邦銀取引銀行であった協和銀行にも着任の挨拶に伺ったのですが、財務課時代にお世話になった協和銀行の課長が支店長として先に赴任されており、「岡谷さんは古い会社なのですが、大胆なこともするのですね、淸宮さんは赤旗を振っていたのに。」との笑い話でした。

 

2.米国岡谷駐在時代

 

  本社オフィスは例の爆破されたツインタワーの20階でした。私は数年後に5代目のトレジャラーという重責の役職につきましたが、英語もからしきだめ。当然のことですが書類が全て英語、ニューヨークタイムズも相当分厚く、どこを読めばいいのか戸惑いの続く日々をも思い出します。悪戦苦闘の日々の6年間でした。

 尚、先に帰国されましたが、既に本社には岡谷篤一取締相談役が社員として駐在されておりました。米国の大学をも卒業され、英語も堪能で公私に亘り支援・援助を頂いたこと、今でも当時の状況が鮮明に思い出され、恥ずかしい思いと同時に、感謝の気持ちで一杯です。

  又、当時のアメリカでは人種差別(黒人、ユダヤ人、ヒスパニック、オリエント等々)が色濃く残っており、私たち日本人駐在員の住まいの選択、ゴルフ場における経験でも身近にそれを感じたところです。従い、後年になりますがオバマ大統領の誕生は、私の想像の出来ないことでした。そうした人種差別的感情は今後も世紀を超える大きな課題なのかもしれません。現在、アメリカを始めとして人種差別問題が大きな話題というか、騒動になっておりますが、共産主義か、民主民主義か、という主義・制度の問題とは全く別次元の、異なる、大きな難題と考えています。アメリカのみならず人種差別問題は解決の難しい極めて重い課題です。

 

  本論に戻りますが、業務遂行と同時に、種々の場面で感じ取ったことは、アメリカ人スタッフは日本の多くの会社に観らるれ会社に全依存とは異なり、全面的には会社には依存しない、己を持っていること、本物の親切心、勿論、全てのスタッフではありませんが親身になって私に接してくれた経験。加えて、アメリカ人のおおらかさ、柔軟性を体験したことです。

 その一例ですが、本社金庫の中の現金が盗まれました。警察官及び刑事による捜査が始まりました。関わりたくない日本人スタッフとは異なり、アメリカ人スタッフが親身になって私を支えてくれたこと。方や、当時の米国では被保険者と保険会社と直に保険契約を結ぶのではなく、その間にブローカーという存在があります。当時では何故か、現金盗難には保険を掛けていなかったのです。当然のこと、保険金は全くでません。社長より「私が責任を取れ、弁償せよ。」とのこと。窮地に陥った私は、ブローカーの責任者に「仮の話ですが、以前に保険を掛けていた、としたらどうでしょうか。」と持ち掛けました。驚くことに「Good  Idea 」 という回答。契約日を遡った保険契約となり、盗まれた、当方の口頭での申告通りの現金全額が保険会社より出たことです。

  尚、本業のトレジャラーの重要な業務のひとつは与信業務。ダンレポート並びに客先のバランスシートを徹底的に読み込み、与信を決定すること。そうした日本とは異なる諸々の経験が、帰国後の私の業務遂行の上で大きな力をもたらした、と思います。帰国後になりますが、会計処理の不正の解明、それに伴う当該者の処分等、つらい数件の事案・事件にも遭遇しました。そうした諸々の経験が私の60歳代後半になって、企業の再生、再建を懇請された数社の会社経営の上でも、大きな力、というか役立った、と思います。

  加えて、取引先の邦人銀行の支店長の方々、大手会計事務所の会計士の知遇を得たことが、帰国後の仕事遂行上、大きな力になっていきました。又、親しくお付き会いを頂いた各銀行の支店長の皆さんは、帰国後は副頭取、副社長等々になられ、その後も皆さんとお付き合いを頂いたこと。更には新たな数社での仕事になりますが、引き続きお付き合いを頂いたことが大きな力となりました。

 

 余談の自慢めいた話になりますが、当時のアメリカでは約束手形ではなく、小切手が決済の主流でした。日本では手形交換所は一日で決済されますが、アメリカでは東西の時差があるため、手形等決済は2日間を要します。私はそこに眼を付けたわけです。1980年初頭でしたが、ニューヨーク東銀信託の発案ですが、米国岡谷の各地の支店で回収した小切手は各地の取引銀行に預けます。支店は同時に本社の私の部署に通信、同時に本社取引銀行にその旨通信。同銀行はフェデラルバンクのグリーンチェックを当社の本社口座に同日入金、という新たな方式です。

 企業化第一号でした。預金の集中システムで、資金のより有効な活用化、いわゆる「ゼロバランス・システム」と称するものです。尚、これは私の造った造語で、本来の英語では「BALANCE of ZERO」かもしれません。これが全米に流布していきました。その結果、ダンレポートを見れば分かりますが、企業各社の本社に預金が集中し、支社の預金残高は限りなくゼロになっていきました。ある著名な学者はコロンブスの卵だと評しておりました。

 

 駐在6年の1984年(昭和59)春、先々代・岡谷社長が視察を兼ね、米国岡谷に見えられました。そして、内々辞の話として人事総務本部への異動を告げられました。私は驚きと共にある種の不安を覚えました。私の赴任当時は管理職ではなく組合員のため、組合との協議上、出国前の部署に戻るとの決まりがあるわけです。数ヶ月後の発令は経理本部。ロスオリンピックの最中でしたが、日本へ帰国となりました。赴任時と大きく異なり、箱崎ターミナルで会社の皆さんが大勢で出迎えてくれたことに、吃驚すると同時に、時の流れを感じたところです。

 

 私の人事移動の真意は分からず、経理本部では私を、どう扱っていいのか困ったようで、仕事らしい仕事は、ほとんどありませんでした。偶々、決算監査を手伝っている時、伝票上、クレーム処理と記された何か不自然な、少額でしたが経費出金伝票が目に付きました。当時の上司からは、そんな少額の数字に拘るな、米国と違って日本本社の規模は大きいとの上司のお言葉でしたが、私は伝票起票者を呼び質問すると、弁舌爽やかに答えが来るのです。何故、このような少額の経費につき説明が出来るのか、ますます、不思議さを感じるなか、更にC社とY社の振りかえ伝票ミスという言い訳が出てきました。米国から帰国した間もない私は、帳簿の配列はアルファベット順思考の頭が残っており、C行とY行では距離があり、極めて不自然な現象と感じたわけです。調べを続けると膨大な振替伝票(振替え伝票には部長印が不要)等々。私は起票者の上司の課長に彼は「残業を多くしていませんか。」との問いに、「本当に良く残業もしてくれ、頑張っている。」とのこと。やはり、と私が合点しました。このようなことは課員が多くいる昼間では絶対できない事務作業なのです。

 

 私はその調査途中でしたが、帰国半年後に人事総務本部発令となりました。その後、本人は懲戒解雇、当該部署の部課長の降格を含めた人事異動、担当役員の配置換え、という結末となりました。

 

3.人事総務本部時代

 

 そして1985年、プラザ合意、並び男女雇用機会均等法が制定された、ひとつの新たな時代の始まりの年でもあります。均等法の施行に合わせ講習会にも参加し、組合側で団体交渉にいた私が、会社側の団体交渉メンバーに入って行く時代の始まりです。はじめの段階では、私は大きな違和感というか困惑感を否めず、と同時に組合側も怒ったというか、困ったでしょうか。その中で私なりに全力を傾け、当時大きな課題であった労使正常化への7年間を過ごすわけです。当時は商社業界でも、それこそ全共闘時代の残滓でしょうか、激しい団体交渉が行われておりました。人事総務担当役員は激務のためか、何代に亘り身体を壊し、当時の役員も任期途中で病死されました。そして、担当役員の交代、会社としては三度目の取り組みになります。新たな人材を各部署から選出し、人事総務部の陣容を一新。会社組織も事業本部体制から、名古屋本社、東京本社、大阪支店、等々、新たな本・支店制の体制作りを進捗させて行きました。

 

 その本・支店制は定着し、今日に至っております。一方、最大の課題である労使正常化を果たしたわけです。私自身の力不足感は否めませんが、苦闘の貴重な七年間でした。加えて、その時代の上司の力量と胆力、後輩を育成する努力、そうした環境下に居たことが、その後の私の会社人生の上で大きな力と成っていきました。そうしたことも岡谷鋼機が三百五十年も続く、要素のひとつかもしれません。

  尚、会社側も同業商社の人事総務部門との連携を図るべく、大倉商事、東食、湯浅、東京貿易他、9社の会合、「九社会」という部長会を形成しており、私が新たに交代し参画したわけです。尚、「九社会」の仲間であった大倉商事、東食は数年の後、その名を消していきました。そういう1980年代後半の時代でした。

 

 日常の仕事からは少し離れた話になりますが、その時代に私の中の鮮明に残る映像として、親友である住友石炭鉱業の南雲定孝・労務部長の仲立ちで、総評専務理事・松橋茂氏との三人の懇親会が持たれました。その契機から岡谷鋼機の団体交渉の会社側代表の常務、並びに本部長の取締役、及び副本部長と私四人と松橋茂氏の会合が行われ、意見交換の上、労働界の状況、団体交渉の在り方等々、教授頂いたことです。その親友は、双方育ちが東京葛飾区立石で、両者の会社の上司の方々には、財務課時代にも双方、親しくして頂きました。

  懐かしい思い出は、私が経理部財務課時代、私の上司の部長と南雲氏三人と東京駅近辺で飲み明かし、私は結婚し練馬区に住んでおりましたが、南雲氏の葛飾立石の実家に泊まり込んだことです。翌朝、「変な叔父さん」が恐縮しながら二階から降りてきたのに、南雲氏の母上がびっくりしたこと。南雲家の朝食を頂いた後、三人は柴又帝釈天をお参り。丁度、「寅さん」の撮影が行われており、参道は人で一杯。例の「寅や」のお店に入りました。はじめは気が付かなかったのですが、横のテーブルには監督の山田洋二監督他三人の方が雑談されておりました。撮影が始まると同時に、撮影前には気持ちを集中させる為でしょうか、別部屋から寅さんが突如、現れたこと。同時に八千草薫さんの美しさに驚いたこと等々、鮮やかな思い出です。

 

 尚、後段で紹介しますが、平成26年(2014年)3月、親友は私の自費出版「書棚から顧みる昭和」に際し、「出版に添えて」として、心のこもった素晴らしい文章を書いてくれました。

 

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(南雲氏と元仕入先社長・田口氏 於てシーボニアメンズクラブ)

 

4.初代の海外事業部時代

 

 そして、1992年(平成4年)、海外事業部での中国を除く(中国部が別組織としありました)、全ての海外子会社、支店・事務所の統括責任者としての6年間の、これまた貴重な体験が始まるわけです。

 

 鮮明な記憶としては、新たにミャンマー海外駐在事務所の開設となり、私は現地に飛びました。状況調査、営業拠点探し、そして駐在候補者を現地に呼び、スコールの激しい音のホテルで、駐在の重要性を説いたこと。かのスーチー女史は自宅に軟禁中で、その評価は日本とは異なり、現地でのスーチー氏の評価は半々という感じでした。加えて、氏の住宅は近隣の住居とは異なり、広大な敷地の立派な建物です。スーチー氏が軟禁された邸宅の屏の上で演説を始める度に集まる群衆の様子が日本のテレビでも報道され、日本から私達の安否を問い合わせる電信がホテルに入ります。そして、入る度にコピー代用紙費が請求されるのです。当時では紙は貴重品そのものでした。ホテルに隣接されたレストランの各テーブルにテイッシ・ボックスが置かれ、私達にしきりに使えとウィトレスに勧められます。テイッシュ・ボックスがあることはそのお店が高級の証なのでした。加えて、日本の街頭で宣伝用に配られる無料のテイッシュそのものが、現地のお店で積み重ねられ、商品として売られていた情景を思い起こします。又、偶然にも当地で、二ューヨーク駐在にお世話になった協和銀行の副支店長と出会ったこと。協和銀行も支店の開設を目指していたのでした。

  当社は日本で16番目の事務所を開設でした。その5,6年後でしたか、いろいろと、現地でお世話になったテインテイン・ウイン女史のご主人が、軍事政権下で殺された、との悲しいし知らせが入りました。

 加え、アメリカから生じた移転価格税制が各国に広がり、その対応のため、デュッセル現法に飛び、現地税務当局と税額を決定し、フランフルトからニューヨーク、ソウルへ直行。各現地法人を訪れ帰国したこと等々も、懐かしい思い出のひとつです。

 

  また、ひょんな事ですが、その時代に私は在外企業協会に参画しておりました。そのひとつの部門の座長となり、協会主催の講演会が東京護国寺のホテルで開催され、「駐在員としての要件」といった私なりの講演をしました。その後のお開きの会で、立命館大学の方との名刺交換となり、大変好評を頂きました。お世辞と思っておりましたが、後日、その方が会社に現れ、「実は立命館大学が九州に大学を新設するので、来て頂けないか」とのこと。驚きましたが、現在、仕事に力を注いでいるので、と丁重にお断りを致しました。

  一方、私が組合の執行委員時代、大変お世話になったニチメン、トーメン等の名前が消えていく商社再編成時代でもありました

 

5.子会社の時代

 

 続いて、平成9年(1997年)、57歳の時点で、種々の問題を孕んだ国内最大の子会社で、管工機材の一次卸問屋への転出。創業70年を超える創業者一族の経営でしたが傾き、大手仕入れ先の岡谷、積水化学、TOTOが支援に入り、岡谷からは社長及び監査役、他の二社は監査役という陣容でした。子会社の常務としての発令でした。尚、人事総務本部時代に岡谷は他商社に先駆け、55歳及び58歳の早期割増し退職金制度を設けましたが、私は覚悟して岡谷鋼機からの離籍を選び赴任しました。

 

 赴任して驚いたのはその会社の労組の書記長が20数年前と同じだったことです。当該子会社の組合は同盟系ですが関東化学印刷一般の支部で、書記長も驚きました。私は全国商社労働組合連合の組合側来賓として、その組合結成10周年に出席していたのです。当然のこと、書記長は私の着任の意図を感じ取ったはずです。

  加えて、子会社の顧問弁護士は私が組合員の時代、岡谷鋼機の法廷弁護士の宇田川昌敏氏でした。双方、その奇遇に驚くと共に、子会社の合理化推進の時代もその後も大変お世話になりました。氏は高名な和田良一弁護士事務所に所属し、その後、新たに弁護士事務所を開いていたのです。

  和田良一氏は本投稿の冒頭にあげた戦艦大和を著わした吉田満の親友です。既に、ブログ「淸宮書房」で取り上げて来ましたが、その後、故人となられた宇田川弁護士の「お別れの会」で和田弁護士事務所の代表として、ご長男の和田一郎弁護士が挨拶をされました。そして、一郎氏とお話ができ、良一氏と吉田満との、とても微笑ましい新たなこともお聞きできました。

 

  元に戻ります。 先行きの組合との団体交渉等々考え、単身赴任を決めました。私は練馬区在住ですが、葛飾区の立石の隣、奥戸が本社でした。加えて、その立石は私が小学四年生から結婚するまで育った場所で、親友の南雲氏も現在でも住居を構えている、いわば、かって知った私の本拠地であったわけです。岡谷篤一前社長は親友のことは別として、私が葛飾育ちはご存知でした。この立石で、中学1年生の時、生涯の親友の親友・南雲定孝氏と遭遇するわけです。

 

 前岡谷社長より依頼された最初の仕事は長年に亘る不可解な会計処理の解明です。赴任

半年後、岡谷常務会で経緯経過、及びその解明を発表。歴代の関係者の処分に至りました。そして、一年後に専務就任、二年後には前例のないことですが、その子会社の株を

もって欲しい、と前岡谷社長の依頼で、ほんの一部ですが子会社の株を持ち、岡谷出身としての6代目の社長に就任。本社には帰らない本物の社長が来たと、社員をはじめ業界でも評価されていきました。

  遊休土地の売却、三件の大口不良債権の処理、一店舗及び併設倉庫の閉鎖、二店舗の新規開設、そして、最大の課題である3割の人員削減等々、いわゆる合理化の推進と労使安定への取り組みを本格的に開始したわけです。団体交渉も私社長自ら行いました。団体交渉に社長自ら行うことも初めてとのことでした。財務課時代、組合執行委員、そして、海外でのトレジャラーの経験、会社側の団体交渉メンバーにも加わった人事総務本部、等々の経験が大きかったと思います。

  そして、61歳の時点で、岡谷本社との微妙な差を感じ、私は辞任の意向も出しておりました。そのことも少しは関係するでしょうが、翌年の平成13年(2001年)、株主総会当日、任期満了の退任となりました。突然の社長交代人事で、その株主総会は異様なものになりましたが、私としてはホッとした安堵の気持ちでした。その後、管材業界からも多くのお声掛けがありましたが、合理化推進で去らざるを得なかった社員の皆さんのこと、加えて自由になりたいとの私の気持ちが強く、辞退させて頂きました。私の退任後、2年ほど後でしょうか、労組の委員長、書記長も会社を辞め、新天地で活躍されております。ひとつの重責の長に立った方は何処でも通用するのだなと思っております。その後もお二人とは一献を傾け、後に述べる私の出版記念会には。委員長、書記長にも出席頂きました。

 尚、二度と経験の出来ない、楽しい思い出はシドニーオリンピックへ行ったことです。仕入れ先の積水化学が所属のマラソン選手・高橋尚子さんの我々卸業による応援団を結成したのです。私も招待され参加させて頂きました。あの素晴らしいオリンピック・スタジアムの前の方の席に陣取り、Qちゃん帽子を被り、我々同業者仲間が応援したのです。あの優勝ゴールは歓喜、歓喜の瞬間でした。その前日には例のウイニングランをした日の丸国旗に私もサインしておりました。加えて、帰りの空港では田村亮子さんに出会い、私のパスポートにイラスト顔の入ったサインを頂きました。今でもそのパスポートは大事に保管しております。また、帰りの飛行機は柔道選手の皆さんと同じ。体の大きい方はビジネスクラス、田村さん他軽い方はエコノミークラス、私の斜め前は篠原信一選手、前には井上康生選手他の皆さんでした。機内放送で「選手の皆さんが乗られておりますが、皆さんお声等はご遠慮下さい。」とのことでした。現地では柔道は余り放送されておらず、従い選手皆さんの勝敗も分からず、飛行機を降りる際に、ただ「ご苦労様でした」と皆さんにお伝えしたのでした。

 

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(写真 オリンピック 高橋尚子さんQちゃん帽子、 柔らちゃん)

 

6.自由な時代

 

 そして、退任した平成13(2001年)の秋には家内と九州旅行し、改めて自由の我が身を感じました。

 

  その後ですが、拓殖大学海外事業研究所の渡辺利夫教授(後の大学総長)が主催するアジア塾、更には、東欧の専門家・佐瀬昌盛教授で、かって氏の著作「摩擦と革命」に感銘を受けた私は氏が主宰する国際塾入いりました。その数年後、国際塾は大学院となり、残念ながら私は大学院は断念しました。アジア塾は平成18年(2006年)まで、通いました。

 と同時に平成14年(2002年)には練馬区の生涯学習団体の「すばる」に入り、その後、事務局長兼副会長として楽しんでいたわけです。そうした活動から練馬区が授業料の半分を負担してくれる平成18年(2006年)から1年間、武蔵大学特別聴講生となり、講師として来られた、成城大学平井慶太教授(アメリカ宗教史の専門家)の講座「アメリカの歴史と社会」を受講致しました。その中身はアメリカ宗教の歴史で、極めて高度な内容でした。当初は30名近くの受講者は、僭越至極な表現ですが、宗教には関心がないのか、あるいは理解できなくなったのか、次第に消え、最後は私だけとなり、私は恐縮し辞退を申し上げたら、「それは困る。講座がなくなるから。」とのことで、最後までご教授頂きました。 私には極めて興味深い講義でした。修了に際し、種々の参照図書が示され、小論文の提出となりました。先生が上げられた数多くの参考図書を挙げられた中、私はビートたけし「教祖誕生」(新潮文庫)、及び神保タミ子「脱会」(駿河台出版社)をも取り上げ、小論文「現代の日本を省みて・・問われるべきものは何か」を提出。教授より成城大学での受講に来ないかとのお誘いを受けたのですが、頼まれ事が多くなり、残念ながらお断りした次第です。修了後、練馬区教育委員長並びに、武蔵大学学長の連名の、実に立派な装幀をされた修了証書を頂いた次第です。

 

  尚、平成14年(2002年)には東京東京都高齢者研究・福祉興財団のナレッジバンクより声が掛かり協力員として活動には入りました。ナレッジバンクとは、福祉分野の非営利団体を支援する目的で、企業OBや、税理士、会計士などの専門職が「協力員」として登録され、団体に派遣する事業です。私は数社の団体を訪問し、支援する一方、その協力員を募る小さな講演をする事などしておりました。そうした私の活動が平成17年(2005年)10月21日、朝日新聞朝刊の東京版に「団塊はいま」とのタイトルで半面を使い、写真入で紹介されました。掲載は承諾していたものの、驚きと共に、何か恥ずかしい思いをしました。

 

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(写真 朝日新聞)

 

 その中、記憶残る請負契約途中解除事件

 

 そうした自由を楽しんでいた時、私なりに相当な覚悟というか身体を張った事件につき、以下綴ります。 

 

 世間は姉歯秀次一級建築士による耐震強度偽装事件、堀江貴文のライブドア粉飾決算事件、村上フアンド事件等、何か世間が浮ついていた平成17、8年頃の(2005、6年)時代です。神戸の姉より義兄が経営する建設会社が裁判に掛けているので見て欲しいとのこと。神戸の会社に赴き、事件の経緯・内容、加えて、神戸地裁の近くの、当方の弁護士が神戸地裁に提出した訴状等を精査、その施主とも一度面談。そうした一連の中、私は何か腑に落ちないものを感じたのです。弁護士事務所にも何回か伺う中、裁判で訴える相手(施主)がそもそも違う、そして弁護士を変えることを私は決断しました。そして、後日、本件は和解に応じる旨、当該弁護士に伝えました。弁護士は驚きましたが、その後、当方が申し出た金額どおりの和解金9百万円を受けることで和解が成立したのです。

 

 そして、訴える相手は、本件の請負委託契約に介入していた、何やら得体の分からない保険代理店の代表と私は判断しました。彼からは企画料と称して、5000万円を持って行かれている現実です。

 

 新たに弁護士探しを始めようとしていた時、正しく幸運は高校の同級生・黒木茂夫氏が三の宮に本社がある神栄の非常勤監査役として、東京からの出張中での遭遇です。彼は神戸銀行の元秘書役で、その後も、いろいろと要職を経ております。偶々、私がニューヨーク赴任に際しては、先にニューヨークから帰国した彼の三井太陽神戸銀行本店に伺い、現地の体験など話してもらう仲でした。お互いその奇遇に吃驚しました。その後、事件の概要を伝え、神戸で有力な弁護士事務所の土井・北山法律事務所を紹介してもらい、新たな裁判に持ち込んだわけです。

  その代理店代表は慌て、当然のことながら、いろいろ画策を図ってきました。最後は、義兄の事務所にて、当該人と地元三宮のホテル他の経営者で、地元の顔役と評される、ホテル等の経営者(何か山口組の企業舎弟の感じ)との会談持つに至りました。私の経歴、加えて、親友の住友不動産関連会社役員の南雲氏、並びに日経の元論説委員・内田茂男氏(現在は千葉学園理事長、千葉商科大学名誉教授)の名前をも出し、当方は一歩も譲らない、と伝えました。私の迫力に負けたのか、数ヶ月の後、当方の弁護士より企画料の全額返金との、知らせを受けました。全面勝訴です。あの顔役と体を張った会談の、あの緊張感を今でも思い起こします。

 

7.某中堅専門商社の再建・再生

 

 そのような中、私の大きな仕事が始まりました。平成18年(2006年)12月、66歳の時、業歴60年の機械・非鉄を扱う中堅専門商社の再建・再生業務に顧問として入ることになりました。二代目オーナーである友人が公園のベンチで急死した、との知らせです。その友人とは親友・南雲氏が住友石炭の北海道赤平鉱業所での結婚式に際し、若くして亡くなった百貨店の松屋の常務・関口康史氏と三人で赤平にお祝いに駆けつけた仲でもありました。結婚式の前夜は4人枕を並べ、語り合ったことも鮮明に思い出します。と同時に南雲氏の結婚披露宴です。炭鉱住宅に住まわれる炭鉱夫さんの皆さんも多数出席され、ものすごい人数で、皆さんが大変喜ばれていたことも思い出します。南雲氏の人徳でしょう。尚、彼の結婚前、私は札幌に飛び、札幌のグランドホテルで、彼の上司と結婚を決めるか迷う、現奥さんにお会いし、上司と私は彼の奥さんとして了解。そして改めて彼女とパレスホテルで話し合いの中で、彼を褒めすぎたきらいがあること、そして結婚を薦めた経緯もあり、彼の奥さんには一端の責任が私にもあります。お陰様で私達二家族の夫婦は、その後も共に穏やかな日常を過ごしております。

 

 元に戻します。慶応出身の南雲氏他学友達の緊急会合となり、「この会社を任せるのは淸宮しかいない、然も彼は今遊んでいる。」との結論に達しとのことです。私は彼らに呼び出され、否応なしに、その経営を承諾させられた次第です。

  同年、12月15日、帝国ホテルタワーにある本社事務所を訪れ、専業主婦で、形式上は監査役でしたが、急遽、社長になった新社長が、東京在住の専務以下役員を招集し、皆さんと第一回の会合となった次第です。尚、新社長は元女優で、私がニューヨーク駐在時代に、新婚旅行の途上、お二人とプラザホテルで会い、ミュージカル、コーラスラインを案内したこともありました。

 

 約1週間、当該会社の内容、陣容、そして金庫に保管されていた過去5カ年の決算書、並びに税務申告書の決算数値の把握等々に入りました。その内容は仮勘定の「預かり金」他の不思議な推移、そして、貸借対照表・損益計算書並びに税務申告書の添付の別表の中での不可解な動き。これは素人では出来ない極めて巧妙な操作と断定しました。顧問税理士を呼び、実に不安な様相でしたが、その実態というか現実を話し始めたのです。私は愕然とするとともに、これは刑事事件にも繋がるとの一種の恐れでした。私の息子達家族のことも考えましたが、引き受けた以上やるしかないと決めました。私の判断ではその是正には、少なくとも四年を要する由々しい粉飾決算の連続で、加えて実態は大きな債務超過等々でした。よくぞ、取引銀行、データーバンク等々を騙し続けてきた税理士の力量をも逆に知ったのです。悲しいことは、友人は税理士を巻き込んだものの、誰にも、友人にも相談できず苦闘、苦悶の中、散歩中の公園のベンチで倒れたのでしょう。

  そうした現実を踏まえ、私は取り急ぎ、取引銀行全てに挨拶に伺いました。その中には、私の前歴をご存知の銀行もあり、「前社長の後任が経営未経験者の奥さんということで、取引を続けるか、否か迷っていたが、安心しました。」とのお言葉を頂きました。

  方や、私は会社を引き受けた段階で、練馬区の学習団体「すばる」、人材開発機構の協力員、義兄の会社の非常勤顧問等々、全てを辞任した次第です。大学の夜の講座通いも中止し、全力を傾けることにしました。尚、「すばる」の事務局長・副会長の辞任は、詳しいことは説明出来ず、残念ながら批判を受け、円満辞任とはなりませんでした。

  そして、翌年1月19日の役員会議で自己紹介に続き、次のことを皆さんにお伝えした次第です。

 

 主要取引銀行には昨年面談し、安心してもらったこと。(そして、計数については役員の皆さんは疎く、伝えることはせず、方や、)仕入・売先のお客さんの対応は従来通り全て皆さんにお任せする。今、最も肝要なことは役員諸氏が心をひとつにすること、事務・実務に支障をきたさないこと。とりわけ「支払い事務・業務」には絶対に遅れを出さないことに注力すること。北京オリンピック後は政治・経済も大きく変貌することが予想される。当社は前社長に一局集中体制であったが、新たな体制作りが必要なこと。私の役割は社長と役員諸氏の間にあって、皆さんを全力でサポートすること。その為には皆さんから信頼され、受け入れられることが大前提であり、私の言動そのものが問われていること。

 

 こうして私の企業再建・再生の業務が始まったわけです。そのひと月後であったでしょうか、社長を伴い、福岡、山口、広島、大阪の各支店をも訪れ、全社員の皆さんにお会いし、現状をお聞きしたこと。人材の発掘、登用等を始めていく準備に入ったわけです。と同時に、労働基準局からも指摘されていた懸案事項の就業規則の改訂。続いて社長以下、役員、社員の不明確な給与、賞与の是正、登用等人事の刷新を進めていきました。そして、役員並びに社員の懸命な努力と賛同を頂き、再建・再生業務は私も驚くほど順調に進んで行きました。

 

 そうして、最大の難関と考える4年振りの、平成20年(2008年)9月の税務調査を迎えました。

  事前に、例の三人の友人(南雲定孝、内田茂男、並びに太陽ASG有限責任監査法人・公認会計士の本田親彦氏)との会合を持ち、今までの私の取り組みと共に、当社の粉飾決算の内容を説明しました。極めて深刻な状況についての共通認識を持ってもらいました。

 

 特別国税調査官、国際税務専門官他、五名の調査官が入りました。まさに国税本局調査の陣容でした。一週間の調査とのことです。4日目には入り、特別調査官を含め3人と会社の顧問税理士、役員、部長との対応の状況を私は隣の部屋で聞いておりました。最後の段階が来たと判断し、非常勤監査役の立場ではありますが全権委任をとり、調査官皆さんと、私一人で直接交渉に入りました。

 

 特別調査官の第一声は「前年度における売上げの二重計上」の指摘。続いて本題の「税理士の資格剥奪、8億円の損金処理は認められない。」という極めて厳しいものでした。

  私は即座に、「売上の二重計上については、私を含め、社長、専務、当該部長、及び当該人の懲戒処分。当該人は一ヶ月、その他は給与3ヶ月間、一割の減額をする。」と言明。そして本題については以下の通りです。

  私はそれでは会社は即、破綻する。従業員家族を含め百何十名の生活も破綻する。平成16年度から会社は本業に徹し、世の中の経済環境もあるが大きく業績を好転させており、再建途上にあること。そしてその債務超過の解消も視野の中に入ってきたこと。ここで会社を潰せば税務署の算定する税金も徴収できない。なんとか会社を存続させるべく、8億円の損金処理を認めてほしいと強く訴えると共に、私が当社に来てから、役員並びに全社員に訴えた40数頁に亘る諸文書を見せました。そして、突如その書類を持ち帰るとのことで、調査は中断しました。非常に長く感じられましたが、後日、驚くべき調査結果を頂きました。

 

 「再建・再生の可能性を理解し、本調査においては平成20年度だけを調査対象期間とする。平成17,18,19年度は見なかったことにする。ただ、覆ることはないとしても完全な結論ではない。」という極めて政治的な判断でした。加えて、私に「頑張ってほしい」との個人的見解まで頂きました。

  当社の再建・再生への私の行動・気力を評価したとしか思えません。誰も傷つけず、最大の難問を乗り越えたのです。今でも特別調査官の「頑張って欲しい」との時の情景を鮮明に覚えております。

 

  その後、全役員には会社の真実の姿を説明しました。残念ながら、社長以下、役員の皆さんには理解は難しかったとの印象でしたが、その後の役員以下全社員の涙ぐましい努力があり、業績は好調を続けました。方や、専業主婦からの社長では商社の経営は限界であると判断し、支えてくれる友人達三人にも相談の上、社長を会長に、営業を実質的に統括していた生え抜きの専務を社長に、新たな役員の登用、加えて、内部から空席の監査役の選出し、新体制を作り上げました。

 

  尚、其の後の小さな出来事ですが、人権派と称するのでしょうか、著名な弁護士から、「弁護士の事務所に来て欲しい。」との電話が入りました。私は「要件があるなら当方の会社でお会いする。」と応じました。会社にお見えになった要件は、「当社の会長から頼まれているのですが、当社の顧問弁護士になりたい、顧問料は現金で。」とのこと。私は即座にお断りをしたところ、「ではコンサルタン会社を作り、そこへコンサルタント料はどうか。」とのこと。それも当社は必要ない旨、強く答えました。要は弁護士の小遣い稼ぎです。某著名弁護士の普段見せる面とは全く異なる一面をみたのです。方や、その背景には私が会社を乗っ取るのではとの、会長の危惧があったのでしょう。

  そんな事象もあり、私がいなくなった後のことを考え、再び、友人達に相談し、友人の内田茂男氏の親しい大手の卓照綜合法律事務所代表、三光汽船の管財人としても有名ですが、赤井文彌弁護士と新たに顧問契約を結んだ次第です。

  「人は様々、弁護士も様々」、との強烈な印象が残っております。

  そして、会社の再建・再生が達成できるとの私の確信の下、平成23年(2011年)11月を以て、その時点では非常勤顧問になっておりましたが、その職を辞しました。会社は現在も立派に存在しております。その後も会長から頼まれ会社に来てくれとのことで、時折は訪れましたが、72歳の時点で完全に退き、その会社との関与を断ちました。その後も、いろいろと内部では内争いがあったようですが、会社は存続しております。

 

  この企業の再建・再生業務は、私の異なった場所・立場での諸々の経験、いわば仕事の集大成であった、とも考えております。と同時に親友の南雲定孝氏並びに友人達、加えて私のまわりには常に優秀なスタッフが女性を含め、常に支えてくれたことです。更には環境も大きく異なるアメリカを含め各地・各部署でお世話になった皆さんに心より感謝申し上げます。今回、こうした記述をしながら皆さんの姿、情景等が改めて彷彿して参ります。

  そして、10数年と関わったNPO法人「むすび」の監事も辞任し、仕事的なことからは完全に離れ、自由の身となり、新たな自分探しに入った次第です。

 

 尚、余談になりますが、2011年3月11日の東北大震災の時は帝国ホテルタワーにおりました。大きな揺れの中、外のビルの硝子窓が大きく、ゆっくり飛び出したり、引っ込んだりしていたこと、建築中のビルの最上階でクレーンが崩れ落ちることなく、揺れを吸収しながら大きく動いていたこと。加えて、地震になれていない外国客を優先したのでしょう、ホテル館内放送は極めて落ち着いた英語で、次に日本語によるものでした。さすが帝国ホテルと感じ入りました。私はその日は帰れず、翌日の6時頃に帰宅しました。乗った大江戸線・地下鉄の、満員の乗客の、あの異様な沈黙、そんなことも妙に思い出します。

 

8.自由な身の現在

 

 72歳で仕事一線を、ある意味では強引でしたが全て退き、この8月で82歳になります。32歳で始めたゴルフのオフィシャル・ハンデイは7でしたが、時間が掛かる為、72歳で完全に止め、テニスに転向しました。ゴルフバック、フルセット他全てをテニスの若い友人に譲りました。ゴルフ場会員権も処分しました。現在の私は、午前中は自宅から歩いて数分の光ガ丘テニスクラブでのテニス、午後は読書等中心の日々です。毎日が日曜日の、自由気ままな生活を過ごして居ります。

 

その1.自費出版「書棚から顧みる昭和」

 

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 10数年前になるでしょうか、大学のゼミの仲間、唐木紀介氏が東京・国立で読書会「書語の会」を立ち上げ、私は後からですが参加し、40数十本を投稿しておりました。そして今から6年ほど前、テニスクラブとは別の場所ですが、テニスの休憩中のベンチで、テニス仲間とその「書語の会」の話となり、私の原稿を見たいとのことで、後日、その原稿の一部をお見せしたのです。もっと見たいとのことで40数篇をお見せしたところ、本にしませんかとのこと。その方は日経BP社の元編集者・井関淸経氏でした。そうした偶然が重なり、氏は「言の栞舎」を立ち上げ、平成24年(2012年)4月、「書棚から顧みる昭和」の自費出版となった次第です。表紙のデザインは奥さんの典子氏で、私がキリスト教徒であることを暗示した十字架をも意味しております。

 

 編集者の言を借りますと、「学者、歴史家、思想家、知識人などの書物を通じて切り取った戦前・戦中・戦後を中心とした『昭和』という時代を、『東京裁判』を基軸として、明治から平成まで連綿と続く一連の史実の流れの中のひとつの『時』として捉えた、著者独自の視点でまとめ上げられています。」とのことです。15章の構成で217頁になります。

  既に記して来た友人達三人が発起人のなり、彼らの会合場所としている、東京内幸町の会員制クラブの「シーボニア メンズクラブ」で出版記念の会を開いてくれました。蛇足ですが、後日、私もシーボニアの会員となりました。

 

 尚、今から10数年前になりますが、既に記して来た中堅商社の再建・再生業務時代、山口から出張の帰りでしたが、岡谷鋼機創業340周年記念の全店記念の宴が名古屋で行われ、岡谷鋼機社長とは10数年振りにお会いしました。それ以降、私は毎年開かれる会社主催のOB会である「笹友会」に出席しております。方や、4年ほど前、そうした折に社長からの依頼もあり、加えて、岡谷鋼機への恩義、愛着、そして自らの資産保全との観点から岡谷鋼機の株を家内名義で、新たに購入しました。その翌年の決算書を見ますと、桁違いの株主の岡谷社長(現在は取締役・相談役)、ご長男の岡谷専務(現在は社長)は別として、勿論、私の個人名表示はありませんが、現役の副社長他役員の皆さんより、私達の株数が多いことを知り、少し驚きました。

 



 本題に戻ります。出版記念には岡谷鋼機社長からは盛大なお花が届くと共に、社長の代理を兼ねて私をよく知る東京在住の常務の出席。親友南雲氏の司会で始まり、来賓のご挨拶は赤井文彌弁護士から始められ、子会社時代の大手仕入先社長の方々、岡谷の常務及び先輩、大学のゼミ・高校時代の友人、私が関わった数社の役員の方々、労働組合の委員長、書記長、私が携わったNPO法人理事長、そしてテニスの仲間他の皆様から祝辞を頂き、恥ずかしくも、嬉しい鮮明な記憶に残る出版記念となりました。皆様に本当に感謝しております。文字どおり、今までの私の人生で巡り会った、かけがえのない大切な方々のお言葉であったのです。

 

 尚、自費出版書は国会図書館に登録するとともに、横浜市立大学図書館、お世話になった拓殖大学海外事情研究所、月刊誌「選択」、加えて、練馬区図書館にお贈りしました。それぞれから丁重な御礼のお手紙、メールを頂きました。200部の印刷でしたが、一瞬でなくなり、今は私の記念として手元に残したい三冊のみです。増刷を考えたのですが、用紙等にお金を掛けすぎたのか一冊5000円かかる、とのこと。そのような事情に疎く1800円の値段をつけてしまったので、増刷は断念しました。当時、アマゾン等では1万数千円の値がついていた時もありました。余談になりますが、今まで度々、本ブログに銀座の隠れ名店「寿司淸」を紹介しましたが、ご主人夫妻の寄る年波で数年前にそのお店は閉店しましたが、閉店の日まで弊著を飾って頂いておりました。今でも感謝しております。

 

その2.ブログ「淸宮書房」の立ち上げ

 

 そのような経緯があり、今から5年ほど前に、ブログ「淸宮書房」を立ち上げました。「本屋」と思われるか方も見えますが、単なるブログです。自分なりに何か残して置くことも意義があるかもしれない、との勝手な想いを綴ったものです。

 「書棚から顧みる昭和」の続きのようなもので、人生の大半を過ごした昭和の時代を、僭越ながら自分なりに再検討し、今を観てみようという試みです。取り寄せた本を通じて私なりの感想に加え、私なりの想いを記しています。退屈な、ブログとしては長い駄文ですが、100件程の投稿になりました

  尚、フェイスブックによれば注目記事の順位がここに来て、私自身も旧投稿を見直し、若干の修正を加え再投稿しておりますが、以下の通りだいぶ変化しております。コロナ禍の影響もあるのでしょうか、お陰様で、ここに来てアクセスが急速に増えて、61,000件台(2022年7月25日時点)になっております。加えて、投稿の度ごとに、意義深いコメントを下さる方、心暖まるメール、励ましのお手紙、お言葉を送って下さる方々に私は勇気付けられております。そのようなこともあり、今後ももう少し続けていこうと思っております。

 昨年12月のことですが、弊ブログ「自らの後半人生を顧みて」を目にされた文芸社より、「これから職業を歩み出そうとする若者に是非とも読んでもらいたいと願う」との有り難い連絡が入りました。続いて、同社より100件ほどの投稿の中から、「戦後日本の在り方・メデイア」に関するものを抽出して出版されたら」とのお話を頂きました。

 そうした経緯の中、文芸社の編集者・今泉ちえ女史により見事に第1章から第7章に纏め上げられたものが、下記の弊著「メデイアの正義とは何か 報道の自由と責任」です。今年の4月に同社より営業出版となりました。加え、この7月に文芸社提携書店への二回目の配送となりました。お陰様で同書は好評のようで、ほっとしております。私としては思いもかけない出来事で、感謝、感謝です。

 

(蛇足) 現在の注目記事の第一位は2016年9月29日の、再度・堀田江理「1941年 決意なき開戦」、第四位は2022年7月5日の、細谷雄一「自主独立とは何か、冷戦開始から講和条約」となっております。

 

 その3。メデイアに翻弄

 

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 最近、改めて朝日新聞中国総局「紅の党 完全版」を再読している中、その広告のなかに載っていた、朝日新聞出版の「新聞と『昭和』」及び「新聞と戦争」に眼を通しております。朝日新聞がいつからその論調が変わって行ったのか、あるいは全く変わらないのか、その変遷に強い関心もあり、私なりに知りたく思っております。改めて私の感想などを、2020年7月11日「自らの半世紀を顧みて、その後」にて記しました。

 むのたけじ氏が戦後すぐ、朝日新聞を辞め、秋田の横手で家族と共にタブロイド判「たいまつ」を発行し続けたことを私は想い起こすのです。私の学生時代、「たいまつ十六年」に感動し、氏の「雪と足と」、「踏まれ石の返事」など読み進めたのでした。その後も次々と氏の著作を読んで行きました。吉田満、山本七平と並び、むのたけじ は私の後半人生の上で大きな影響を与えた方です。

 

さいごに

  又々、非常に長い駄文を連ねて参り申しわけありません。何の足しにもならない他人の自分史など意味がないことは重々承知の上なのですが、我慢してお読みになられた方々には本当に申し訳ない気持ちです。と同時に改めて厚く感謝申し上げます。

 加えて、お時間とご興味があればの上ですが、ブログ、「淸宮書房」も覗いて頂ければ幸いです。

   https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/

 

 2022月7月25日

 

                             淸宮昌章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この一月半、ブログ「淸宮書房」の投稿を省みて

この一月半、ブログ「淸宮書房」の投稿を省みて

はじめに

 

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 今月4月8日の投稿の「はじめに」において今回のコロナ禍に関して、私なりの杞憂というか、世界恐慌にまで発展する恐れをも記しました。ただし、治療薬が開発されていない現在、必要不可欠な、しなければならないことは政府が出した緊急事態宣言通り、国民一人一人の自己管理、外出を最大限避けること、いわゆる三密を徹底することです。現在の感染拡大を止めることが先ずもって先決です。自らの命、隣人の命を守ることに直結する、その行動を実行して行くことしか、今は残念ながらないのです。

 

 そうした中にあって、権力への掣肘とは異なる、政府のとる施策を悉く批判する、揚げ足をとることが使命みたいな、全てとは言いませんが、各テレビ局の報道番組と称するものは実に観るに堪えません。私は、即、チャンネルを切り替えます。不愉快極まりないのです。報道とは何か、報道の在り方は何なのか、根本から考えなければならないのではないでしょうか。毎回のことで恐縮しますが、メデイアは戦前、戦中、戦後の自ら行ってきた報道の実態を、逆の意味で改めて考える必要を強く思います。大きな影響力、権力とさえ称してもいいような力を持ってしまったテレビ等メデイアは現在の報道の在り方を真摯に反省し、新たに取り組むべき、と私は考えております。今のままでは、日本をますます境地に追い込んでいくのではないでしょうか。

 

 私ごとで恐縮しますが、72歳で現役を離れ、後数ヶ月で80歳になりますが、午前中は歩いて数分のテニスクラブ(屋外の4面コート)、午後からは読書といった自宅中心の生活です。今回の自粛要請に沿って、取りあえず5月6日までクラブは休業ですが、今回の一連の自粛要請には私自身は何らの支障もなく、むしろ誠に心苦しい気持ちです。そうした心境の中、命を賭けて職務遂行に携わっておられる医療、役所、福祉関連、物流等々の前線の方々には申し訳ない、感謝以外の言葉しかありません。何か私もしなければなりません。報道番組の方々は、如何でしょうか。政府を、自公政権を、役所の在り方を批判するだけでなく、この国難に際し、国民一人一人が協力すべきという報道も、より強くあってしかるべきではないでしょうか。

 

 今回のコロナ禍(事件)は数ヶ月で解決することはなく、今後、日本のみならず、長期に亘り全世界に大きな影響を及ぼすと思います。前回にも触れましたが、一人一人の覚悟が改めて問われていると考えます。

 

日経新聞の経済教室

 

 日経新聞の経済教室で4月15日から3日間にわたり「コロナショック後の世界」という三人の学者の見解が示されました。興味深く感じ、私なりの理解の概略ですが、改めて以下、ご紹介致します。

 

1.小林慶一郎・慶応客員教授によれば、新型コロナウイルス感染症と人類の闘いは長期戦になる恐れがある。それは産業構造変化と同時に個人の格差是正に向かうかもしれない。感染症との闘いでは個人の行動が近隣の他人の命を左右するので、地理的な近さで決まる「共同体」を再認識せざるを得なくなる。弱者救済のための現金給付のためには、個人のプライバシーよりも、当局の情報把握を前提とする公正な所得分配政策を重視する方向に世論は変わるかもしれない。

 

 僭越ながら私もそういう方向を期待しております。

 

2.戸堂康之・早稲田大学教授は「コロナ後の世界」を見据えることが必要である。企業、生産・調達の分散継続が必要である。中国依存を減らすのは有効だが、生産拠点や調達先の国内回帰ではなく、欧米や韓国・台湾・オーストラリアなどの先進国・地域へも供給網を拡大すべきであろう。日本企業が海外企業とも相互扶助の関係を造ること。現在最もコロナ感染拡大に苦しむ欧米諸国を支援するのは、民主主義と市場経済の価値を共有する日本の役割ではないか。今後感染拡大が予測される途上国への支援も必要だ。コロナ危機後の世界で日本企業が活躍出来るためにも、今こそ日本政府の国際支援が望まれる。

 

 私の僭越な感想ですが、そうした力が日本にはあるとの前提なのでしょう。加えて、上記の韓国への言及は韓国と日本の過去・現在の状況の中では極めて難しいのではないでしょうか。韓国の長年に亘る日本への反日教育の結果は、人々個人の善意、意志を超えたものであるように思います。従い、反日への行動はいつでもわき上がるもので、日韓友好関係を築きあげることは世紀を超えた難しい問題である、と私は考えております。韓国は最も近い隣国で、民主主義体制をとる国ですが、この不幸な両国の関係は続くと思います。

 

3.梶谷懐・神戸大学教授によれば、中国のコロナショックへの景気刺激策は効率性を重視したインフラ投資であり、失業率が大きく上昇する中で、零細な事業者や不安定な雇用環境に置かれている労働者の救済が不十分ではなかろうか。中国、社会的分断が深刻化する可能性もある。コロナ禍が全世界的な広がりを見せ、その対策は長期化することが予想される。それだけに中国の経済動向を、その副作用も含めて、より一層注意しながら見守る必要がある。

 

 私としては共感、賛同するところです。

 

北岡伸一細谷雄一編「新しい地政学」(東洋経済新報社

 

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 私は生半可な知識で「地政学見地」などと表現することがあります。上掲の著書はこの3月に発刊されました。地政学の重要性を改めて識る、考える上で参考になると考え、取り寄せ、現在読み進めているところです。いずれの日か、私なりの感想など記して見たいと思っております。

 

ブログ「淸宮書房」の注目記事

 

 私の長々とした弊ブログ「淸宮書房」へのアクセスは37,000に近づこうとしております。皆様に感謝するとともに、もう少し続けていこうと改めて思っております。尚、このひと月ほどですが、その注目記事の順位が大きく変動しております。その要因は何故なのか分かりませんが、私には興味深く感じております。恐縮しますが、以下お知らせする次第です。


1 加藤陽子著「天皇と軍隊の近代史」(勁草書房)を読んで思うこと

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2020/03/04

  人生の大半を生きた昭和の時代を自分なりに再検討し、僭越ながら今を観ようとしている私にとり、本書はとても参考になりました。加藤氏の著書に今までも数冊、目を通して参りましたが、疑問に思っていた宣戦布告無き日中戦争、敗戦時の日本軍武装解除等についても、今回の本書を読むことにより改めて明らかにして頂きました。 著者は数々の印象に残る文章を本書の随所に記しています。歴史への研究視点・観点については次のように述べられております。 東大経済学部の小野塚智二教授の教養課程の学生に向けた文章として、「経済学の目的を市場の諸現象と、それに関連…


2 小島政二郎著「小説 永井荷風」に遭遇して

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2018/07/11/123752

 

 一年ほど前に投稿したもので、私のかすかな思い出も入れながら記したものです。何故か、この11月に入り、66編の投稿の中で注目記事の5番目になっております。その理由は分かりませんが、今までの投稿の中では少し趣が異なっております。何か嬉しくなり、改めて、以下ご紹介する次第です。 2019年11月21日 淸宮昌章 はじめに 東京都武蔵野市吉祥寺に所用があり、その帰り道、とある古本屋を覗きました。神田以外ではほとんど姿を消した、かっての風情を残す古本屋で見つけたのが掲題の本書です。 私は文学について素養がないこともありますが、永井荷風については「濹東綺


3 石井知章・及川淳子編「六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか」(白水社)他を読んで  

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2020/04/08

 中国の武漢で発生したと言われる新型コロナ・ウィールス、いわば人因的事象は全く別な事象を生み出し、我々の経験してきた1995年の阪神・淡路大震災他、数々の自然災害の結果を大きく超え、今後、甚大な被害を日本のみならず世界各国に及ぼしていくと考えます。2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻から生じた世界的な金融危機を超えて、1929年の世界恐慌以降、いわば、現代の我々が経験していない世界大恐慌が起こる可能性が極めて高いと、私は考えております。 一方、習近平政権による武漢封鎖の有り様は他国とは大きく…


4 牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」を読んで

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2019/01/07/100818

 かって、私が参加していた某読書会の慶大経済学卒の畏友・堀口正夫氏より、昨年11月、次の文面が届きました。 昭和15年1月、秋丸次郎陸軍中佐を中心とした調査部が設立された。俗に「秋丸機関」と呼ばれ経済戦の調査研究を目的とし、有沢広巳、中山伊知郎、竹村忠雄,佐藤弘、近藤康男、大川一司、森田優三等多くの学者が集められ、英米班、ドイツ班、ソ連班、日本班に分かれて、経済力、抗戦力の調査を行った。 小生が大学3年生のとき、「原論特殊講義」という外部からの講師を招いて行われる科目があった。その中の一つとして「現代経済論」という、竹村忠雄氏の講座があった…

5 再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで

https://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/09/29/175204

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難す…

 

2020年4月20日

                             淸宮書房

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか」(白水社)他を読んで  

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか」(白水社)他を読んで

 

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再投稿にあたって(2021324日)

 

 元原稿は昨年4月7日、安倍元総理が緊急事態宣言を発出した翌日の4月8日にコロナ禍にも言及し、投稿したところです。続いて、本年3月14日、池田了著「ふだん着の寺田寅彦」を読んでの中では、コロナパンデミックの収束よりは拡大の可能性が極めて高く、東京オリンピック開催の中止を日本政府が早々に政治決断し、東北大震災の復興を改めて掲げ、大きく軌道修正すべきと記しました。オリンピック中止による経済的損失も大きいことは承知していますが、その継続への経費は、更なる莫大な経済損失にも繋がると考えます。まずは日本のみならずコロナパンデミックを止めることに勢力を注ぐべきで、その開催中止判断は残念ながら日本政府しかできないと考えます。

 

 そのような中、本年3月21日、緊急事態宣言が解除されました。方や日本のみならず世界各国のコロナ感染は拡大し、フランスでは3月19日、パリ市及び近郊の16県が三回目のロックダウン宣言。加えて、世界各国からの観客無し、選手団のみならずその関連随行者も人数制限の決定。この7月までにはコロナ感染が収まる様相はない中でのオリンピックとは一体何なのか。その様相が大きく変貌したと考えるのが普通ではないでしょうか。

 加えて、現在開発中のワクチンの中で、「条件付き使用」の中国のワクチンを出場選手、並びにその関係者には接種、費用負担はIOCとの報道。私はWHO・テドロス事務局等の中国への対応は異常と映るのですが、IOCの中国への対応も何か似ているように私は思うのです。皆さん如何でしょうか。

 

 

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 本論から少し外れますが、私の今までの投稿の中で、しばしば取り上げておりますが、高校時代の友人の黒木茂夫氏。その兄さんで、日本癌研究の先駆者である黒木登志夫氏が昨年12月に「新型コロナの科学」を発刊されました。感染症やウィルスの基礎知識に加え、各国の対策、研究開発の現状を示す、極めて重要な著作です。素人の私も疑問に思っていた諸点をも解決させて頂きました。是非、御一読をお勧めします。全体を紹介するのではありませんが、私が注目をした幾つかを以下、ご紹介致します。

 

 その1ウィルスと細菌では、感染の様相がまるで異なる。細菌は、適当な条件さえそろえば、自ら増殖し、感染の機会を待つ。方や、ウィルスは身体の外では自ら増えることはない。ただ、減っていくだけである。

 

 その2 SARS、MERSも新型コロナであるが、今回の新型コロナは今までの新型コロナと異なり、無症状感染者からの感染が例外的な感染様式ではなく、むしろ50%近くが無症状感染者からの感染であったことが判明したこと。従い、感染者、病状のある人のみを検査対象としたのでは、感染源を固定できない。健康と思われる人を含め、全ての人を検査しなければならない。それでも感染は防げない。パンデミックは避けられない。このことが確認されたのは、昨年の5月始めである。日本を含め世界は、この恐ろしい現実を軽視した。今や、感染が収まる様子はない。(本書の57~58頁)

 

 その3 集団感染(クラスター)は圧倒的に屋内で発生。その感染の2大ルートは飛沫・エアロゾルと接触感染。従い、特効薬、ワクチンが行き渡らない現在では三密を避けること、マスク、手洗いが現在の最大の予防策である。

 

 その4 新型コロナウィルスの起源。新型コロナコウモリ由来であることは間違いない。武漢の海鮮市場が感染拡大のクラスターになったのは確かだが、海鮮市場の動物から感染が始まった可能性は低い。武漢ウィルス研究所は、コウモリのコロナウィルスを扱っていた。その実験室から陰性になっていないウィルスが外に出た可能性は否定できない。ただ、意図的に人工的に作られたウィルスである可能性はない。(本書42頁の要約)

 

 その5 台湾のコロナ対応、台湾は驚くべき早さで新型コロナに対応した。肺炎発生を最初に報告した、2019年12月31日に武漢からの入国者に対して検疫強化。1月5日には武漢地域を危険レベル1にした。中国によりWHOとの公式パイプを切られた台湾はWHO よりはるかに早く手を打った。中国とWHOを信頼していないからこそ、台湾自身の考えで迅速に行動できたこと。加え2003年にSARS、2015年にMARSで犠牲者を出し、新型の感染症に敏感であったこと。現政権は2018年の地方選挙で大敗し、その反省から有権者とのコミニュケイションを見直ししたこと。マスクの輸出禁止、国民保険のIDを利用し、マスク配給システムの完備したことで、マスクに対する対応で国民が政府に信頼を寄せた、と著者は記しております。

 

 

 


はじめに

 

 中国の武漢で発生したと言われる新型コロナ・ウィールス、いわば人因的事象は全く別な事象を生み出し、我々の経験してきた1995年の阪神・淡路大震災他、数々の自然災害の結果を大きく超え、今後、甚大な被害を日本のみならず世界各国に及ぼしていくと考えます。2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻から生じた世界的な金融危機を超えて、1929年の世界恐慌以降、いわば、現代の我々が経験していない世界大恐慌が起こる可能性もありえると、私は考えております。

 

 一方、習近平政権による武漢封鎖の有り様は他国とは大きく異なり、事件とも称すべき異常なる事態が起きていたのではないでしょうか。いずれは明らかになることと思いますが、そうした一連の事象は中国の習近平共産党独裁政権が強引に進める「一帯一路」政策にも、今後大きな影響を及ぼし、それがどのように変化するのか、あるいは変化せざるをえないのか、注目していく必要を私は感じております。いずれにもせよ今回の新型コロナ・ウィールス事件は其の治療薬ないしはワクチンが開発されたとしても、其の影響は世界の経済・政治にも長期に亘り重大な影響を与えていくと考えます。我々は単に政府、東京都知事を責める、あるいは批判するだけでなく、個人として、何を堪え、何を心構え、来たるべき恐れのある世界恐慌に如何に備えていくのかが問われてくるのかもしれません。

 

 そのような私の現状認識の中、本書を取り上げたことは意味があるのかは問われると思いますが、私に取っては極めて重要な著書に出会った、との思いを強く持っております。

 

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九」

 

 本書は2019年6月1日、明治大学グローバルフロントで開かれた国際シンポジュウム、「六四・天安門事件を考える・・民主化はなぜ挫折したのか」の報告・論文集です。其の意図は中国の現執行体制の基礎を形作った六四・天安門事件を世界史レベルで再検討し、グローバル化した世界の政治・経済システムにおいてますます存在感を増して行く中国の現在、今後の在り方、そして習近平体制のゆくえを見定めること。其のシンポジュウムで共通し念頭に置いたことは、①なぜ天安門事件はあの時、あのようなかたちで起きたのか。其の歴史背景とはいかなるものだったのか。②六月四日のその日、天安門広場、そして「民主化運動」が波及した全国各地で、いったい何が起きたのか。③天安門を舞台とする一連の「民主化運動」、そして全国規模に広がった「民主化運動」を問うことの現在的、且つ将来的意味は何のか。という三点にあったと記されております。

 

 編者、執筆者である政治学専攻の石井知章明治大学教授の記述を中心に私が共感し、僭越ながら賛同する諸点等を以下、記して行きたいと思います。本書の序章で次のように述べています。

 

その1 政治的象徴としての天安門事件

 

 今日において六四・天安門事件そのものの意味を考察する際、それを中国という一国内的コンテクストで「民主化の挫折」としてとらえることは、世界史的位置において理解するうえでけっして十分ではない。その前提作業として、われわれはまず、1989年を象徴しているいわゆる「東欧革命」の意義を歴史的に踏まえておかなければならない。・・(中略)東欧諸国が次々と民主化し、その結果、ソ連が消滅したものの、こうしたヨーロッパでの大きなうねりとは極めて対象的に、中国では1989年というマクロ・ヒストリーの「反動」そのものというべき、それ以前よりさらに強固なる中国共産党一党独裁体制が残存したことになる。いいかえれば、1980年に社会主義国家ポーランドで発生した「民主化運動」の激震は、1980年代後半、中国への「民主化運動」として波及したものの、1989年6月4日の天安門事件という、「血の弾圧」によっていったんは挫折していった。だがそれは、ゴルバチョフのソ連を経由して東欧へと逆投影されるかたちで、いわば「反面教師」として継承されることで「東欧革命」として実現し、その結果として、ソ連が1991年12月、最終的に崩壊したことになる。(本書8頁)

 

 その2 習近平体制の成立の伴う市民社会の弾圧と「民主化運動」の復活

 

 ポスト天安門事件(1989年)期に形成された中国共産党専制独裁体制は、むしろ習近平体制の成立(2013年3月)以降、市民社会に対する弾圧はますます強めている。2013年5月には、党中央が普遍的価値、報道の自由、市民(公民)社会、公民の権利、中国共産党の歴史的誤り、権貴(既得権)資産階級、司法の独立には論じてはならぬとする「七不講」(七つのダブー)を発表した。

 

 こうした経緯の中、2014年の台湾において、中台服務貿易協定に反対する「ひまわり運動」、続いて同年、香港において行政長官選挙をめぐっての「雨傘運動」、更には天安門事件30周年を迎えた2019年、それは中国建国70年になるが、同年6月中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案反対、並びに親中派の行政官辞任を求める香港では史上最大の2百万人による抗議デモに繋がっていった。2014年の雨傘運動では一切妥協せずに運動を内側から解体させた中国習近平政権の対香港強硬姿勢が、ここに来て初めて挫折したのです。石井氏は次のように記しております。

 

 「逃亡犯条例」改正案をめぐる政治状況に多くの人々が天安門事件の悪夢を想起しつつあったのも、ごく自然な成り行きだといえる。こうしたことから、中国の現行体制の基礎を形作った天安門事件を世界史レベルにおいて再検討することは、グローバル化した世界の政治・経済システムにおいてますます存在感を増している中国の在り方を考えるうえで、さらに習近平体制の今後のゆくえを見定めるためにも、必要不可欠の前提作業となっている。(17頁)

 

 又、英米圏を代表する中国通のアンドリュー・ネイサン コロンビア大学教授は本書の第一章「習近平と天安門の教訓」の中で、1989年6月19日から21日までの中国共産党政治局の拡大会議、及び6月23日から24日にわたる中央委員会第四回全体会議の内容を以下のように記しております。

 

 会議の目的は、最高指導者鄧小平のもと次の二つ項目について全党員の意思統一を図ることだった。北京周辺と天安門広場に配置された数万の武装部隊は平和的に抗議者に対処したこと、そして趙紫陽総書記の職務を剥奪すること。会議には趙紫陽のほか、政治局員と経験豊かな政界の長老達が出席した。出席者達がどう感じていようとも、全ての発言者が危機に対してどんな考えを持っていようと、鎮圧をどう感じていようと、全ての発言は鄧小平の決定の正しさを認めなければならなかった。誓いは二つの文書の内容に賛意を示す形で進められた。会場で配られた二つの文書は、鄧小平が6月9日に戒厳部隊に謝意を示した演説と、趙紫陽の強硬なライバルである李鵬総理による「反党反社会主義動乱において趙紫陽同志が犯した誤りに関する報告」だった。会議では「完全に同意」あるいは「完全に支持」といった文言が繰り返され、発言者の一人一人が衆人環視の中で厳粛に宣誓をするかのようだった。こうした儀式は事件に決着をつけ、危機的状況で異なる意見を排除し、党内の思想を統一した上で再び社会の統治に着手するためのものだった。

 

 その後、6月23日から24日に共産党は第十三回中央委員会第四全体会議(四中全会)を開いた。中央委員百七十五人のほか、三百余りの顧問委員会メンバー、閣僚級幹部らが出席し、計四百八十九人が北京西部の京西賓館に集まった。会議では拡大会議の文書を学習させ、思想統一を図り、党の求心力を回復させ、天安門事件の教訓を踏まえた今後の路線をたたき込んだ。・・(中略)習近平の政権運営は四中全会の教訓をしっかりと学んでいるのだ。習の政治、すなわち一党独裁政治は、天安門事件の悲劇がもたらした直接的な結果なのだ。(28~29頁)

 

 その3 1989年問題を巡る日本国内の言説状況

 

 本書の編集会議でも大きな問題として捉えたのは日本の学術・思想界の「歴史修正主義」とも称すべき現実で、その傾向は「進歩的」とされる「左派」において急速に進んでいる、とのことです。石井氏は次のように記しています。

 

 東欧の体制転換が「経済的自由主義」と「政治的非自由主義」との結合をもたらしたのは事実であろう。だが、記述のような東アジアにおける中国共産党の一党独裁政治への異議申し立てすら、「新自由主義」的反応として理解されるのであれば、さらに1989年の天安門事件を媒介して初めて可能となったとう東欧における体制転換も「市民社会の復権」ではなく、あくまで独裁専制政治による「血の弾圧」とは無縁な「新自由主義革命」としてとらえるべきだ、ということになるのであろうか。・・(中略)もちろん、そのような理解が大きな矛盾をきたすことは、彼ら自身の「沈黙」によってすでにして表明されており、そのことに触れること自体、自らの立論が大きく揺るがざるを得ないことを示唆している。(295頁)

 

 尚、具体的には岩波の「思想1989特集号」(2019年10月)の分析視座・方法論的枠組みに対する強烈な違和感についてである。あえて一言でいうなら、それは国家による「集団的暴力」に対する記憶が薄れるにともなって、1989年問題を巡る「歴史修正義」ともいうべき現象が、「進歩的」される「左派」において急速に進んでいるようにしか思えない、ということである。

 

・・(中略)1989年を巡る様々な歴史的事象、あるいはそれらについての言説を扱うのに際し、自らに都合の悪い過去を過小評価、あるいは排除するなど、そのイデオロギーの立場とは矛盾しないよう、過去に関する理解の骨組み自体を修正するという誤りを、いまや「進歩的」とされる「左派」が犯しはじめているのではないか、ということにある。しかも、その左右両者の根底で共通しているのは、いわば国家による「集団的暴力」を自らの思想形成の契機としてほとんど取り込めていないのでは、という疑義の存在である。きわめて興味深いことに、同誌で収められている中国関連の論文ですら、2019年までに中国で起きたいくつかのごく最近のできごとに触れているにもかかわらず、現在の中国政治のあり方に対する「社会的反応」として台湾で繰り広げられたできごと(ひまわり運動)、そして香港で起きたできごと(雨傘運動)、さらに2019年11月現在でも続いているできごと(逃亡犯条例改正への抗議デモ)には、いずれも一切言及していないのである。しかもこうした傾向は、岩波『思想』だけにとどまらない。日本における中国研究を巡る最大規模の学会である「日本現代中国学会」がその全国大会(2019年10月)の共通論題として選んだのは「中国における民間」という天安門事件と全く無縁のテーマーであり、しかもこの大会の実行委員長は、その「大会趣旨」で、1989年問題を「五四運動百年と〈1969〉五十年」として捉え、天安門事件30周年というモメントを完全に避けて通っているのである。これが1989年か30周年を迎える2019年における日本の学術・思想界の現実である。(293~294頁)

 

 如何思われますか。続いて石井氏は「一方の『右派』が安倍政権に対する『忖度』を繰り返しているように見えるのに対して、同じように『左派』は中国の習近平体制の対する「忖度」をほとんど無意識のうちに、しかも中国とともに暗黙裡に行っているようにしか見えない、という事実に突き当たる。」(296頁)、と鋭く説いています。私は共感し、僭越ながら賛同するところです。

 

リャオ・イーウー著「銃弾とアヘン」(土屋昌明・島本まさき・及川淳子訳 白水社)の薦め

 

 掲題の著作は冒頭の「六四と一九八九」の編者で、本書の第七章「一九八九年の知的系譜」を執筆された中央大学准教授・及川淳子氏も訳者に加わった著作です。上掲書は六四・天安門事件に関わり実刑判決を受け、服役した人々へのインタビューを記録したものです。そして本書の特徴は事件の際に注目された著名人や学生リーダーではなく、事件に関わった市民のインタビュー記録です。彼らは獄中で残忍な虐待を受け、出所後もトラウマを抱えたり、差別や偏見に直面するなど、その内容は30数年前から、現在に至るまで続いているのです。

 

 尚、「銃弾」とは六四の弾圧、「アヘン」とは中国の1990年代以降の「金儲け」による人々の脱政治化、奴隷化を喩えております。そのインタビュー記録は眼を背けたくなるほど残酷、残虐の実態であり、ナチスがユダヤ人に行った残虐行為を私は思い起こします。しかも、このような残虐行為が同じ民族の中で、共産党独裁政権の中、連綿と続いていた、否続いている現実です。私は中国化への集団教育と称するウイグル人への弾圧、連綿と続くチベット他少数民族への扱い等々に共産党独裁政権のあり方に大きな疑念を想起せざるを得ません。私は今回のコロナ事件に遭遇し、改めて、中国共産党独裁政権が強引に進める「一帯一路」の現状、その行く末に、大きな疑念・不安を禁じ得ないのです。本書も合わせお読み頂くことをお薦めする次第です。

 

おわりにあたり

 

 今回も本書の全体を紹介するわけでもなく、只、私が共感した箇所のみの記述で、本書の記述者の先生方には、大変失礼極まりないと思っております。

 

 冒頭にも記したように、収束が全く見えない新型コロナウィールス事件の解決には相当な長期間を要する上に、この事件は今後の日本のみならず世界政治・経済に、現代の我々が経験したことがないような状況を生み出すのではないか、と私は考えております。そのような現状にあって、我国はどのような方向性を打ち出し、対処・対応していくのかが正しく問われてくると思います。今回、全く価値観を異にする中国共産党独裁政権の習近平国家主席を国賓としての訪日は延期されておりますが、将来を見据えた中、日本にとってそれは、むしろ幸運なことであったと考えております。

 

 振り返ってみれば、中国はかっての旧ソ連との一触即発の状況下、米国及び日本との関係を強化すべく現実もありました。日本とは1972年、時の田中首相、大平外相の決断は高く評価しますが、日中共同声明の調印で国交回復。続いて、その日中国交回復に尽力した周恩来首相の追悼に際し生じた1976年の第一次天安門事件が起きました。その2年後、1978年8月に日中平和友好条約締結。同年10月には、故周恩来首相のあと、権力を持ち始めた鄧小平副主席の戦後初の公式訪日。そうした経緯の中、1989年の第二次天安門事件の発生。その天安門事件の後、欧米に先駆けて中国との窓口を再開したのが日本です。その十年後の1998年には、中国との平和友好条約締結20周年に、江沢民国家主席が国賓として訪日。さらに、その10年後の2008年には胡錦濤国家主席の国賓として二人目の訪日。このような経緯があるにも関わらず、日本と中国との関係は歴史認識問題を抱え、好転していない現実があるわけです。何故なのか、日本の時の政権の対応に問題があるのか、否か。改めて中国共産党独裁政権の現実、価値観が大きく異なる、その現実をしっかり見定め、中国との関係を見ていく必要があると、私は考えております。ますます権力を集中させる習近平主席は1989年の天安門事件の陣頭指揮を執った鄧小平の有り様を忠実に学び、あるいはそれ以上に共産党独裁政権の有り様を強引に進めているのではないでしょうか。そのような共産党独裁政権の有り様は一部の支配層、人民解放軍の幹部等には豊かな生活を享受させていようとも、農民工あるいは戸籍さえ持てない数億の人々、更には少数民族の人々は監視社会の中、世界第二の経済大国になったとは言え、豊かさとは無縁の実情ではないでしょうか。果たして中国は何処へ向かうのでしょうか。そして中国共産党独裁政権の発展は世界の人々に幸福をもたらすでしょうか。

 

補筆(2021年3月24日)

 

 2021年3月18、19日、アラスカ州アンカレッジで行われた米国と中国の外交トップによる協議の有り様に、皆さん、如何思われたでしょうか。

 人権や経済で同盟国と組んで、中国封じ込めを狙う米国と軍事や内政で強権を誇示する中国との政治体制や国家理念にも立ち入る、新たなる次元に突入したわけです。この衝突は日本も決して他人事ではなく、最早、日本の平和ボケは許されないのです。

 ブリンケン国務長官は「新疆ウイグル自治区、香港、台湾。米国へのサイバー攻撃と同盟国への経済的な強制行為を含む、中国の行動に対する私たちの深い、懸念を提議したい。どれも世界の安定を保つルールに基づく秩序を脅かし、単なる(中国の)内政問題ではない。」との発言に対し、中国外交トップのャン・ジェチー共産党政治局員は「中国には中国式の民主主義がある。米国民の多くは民主主義への信頼を失っている。」等々、長時間に亘り反論したとの報道。(3月21日の日経新聞朝刊)

 

 私はその報道中身の信憑性に疑問も持ちますが、一方、中国式の民主主義とは何でしょうか。民主主義の基本的概念は、先ずもって人権擁護、並びに信教、言論・思想の自由が不可欠です。方や、民主主義は国民、人民を統治する概念ではありません。

 

 共産党独裁政権中国の一帯一路の強硬な推進は、決して世界の人々を幸福にはしません。のみならず10億を超える中国の人民も決して幸せにはしません。中国の共産党幹部、人民解放軍の一部のみが裕福になるだけです。むしろ多くの国民は中国から他国への流出が強まるのではないでしょうか。況んや現在中国以外に生活の拠点を持って居る華僑、華人を含め、中国の方方が故郷である中国への帰還現象が始まることはない、と私は考えます。

 

 続いて、3月22日以降、30年ぶりに、米国に同調し、EU、英国、カナダも中国のウィグル政策をウィグル人権侵害とし、対中制裁を決定しました。日本の現在、将来の在り方を問う、極めて重大な現実に直面したのです。日本は1989年の天安門事件に際し、他国に先駆けて中国との窓口を開いた、あの二の舞は決して取ってはならないのです。中国との経済問題については、我国にこのコロナ禍に加え、更なる深刻な影響を及ぼしたとしても、価値観を共有する西欧諸国のみならず価値観を共有する諸国と共に歩むことが、今後の日本にとって絶対に必要と私は考えます。我々はこの平和ボケから脱出しなければなりません。正にその時が来たのです。(2021年3月24日)

 

 今回の武漢で発生したと思われる新型コロナウィールス発生事件に遭遇し、中国共産党独裁政権の異様な有り様に、世界各国は改めて不吉な思いを与えて行くのではないでしょうか。皆さん、如何に思われるでしょうか。

 

 いつもの蛇足になりますが、テレビ報道で観る、国会討論の現状は余りにもお粗末極まる状況です。議案は論議されることなく、従い、対案も出されることもなく、関連事項と称する事項で唯々反対、唯々時間を浪費する異様な国会討論と称するものはいったい、いつ頃から生じてきたのでしょうか。二言目には「国民、国民」と称しますが、ほんの一部の野党は別として野党には政党としての理念、思想が皆無なのではないでしょうか。従い、政策論、対案、提言等はどだい無理のことで、政権交代への準備は全く持っていないのです。いずれにもせよ、この国会討論と称される、その無駄な状況は限界の極みに来ていると、私は考えております。ただその国会議員を選んだのも我々国民の一人一人なのです。民主主義と称する制度の一つの大きな欠陥なのでしょう。

 

 加えて、私には商業主義に浸かったとしか思えませんが、独りよがりの正義を振りかざすマスメデイア。情報手段は多様化しては来ておりますが、テレビの報道番組と称する各局報道合戦は、きわめて危険な段階に来たのではないでしょうか。そこに登場する司会者、評論家、ジャーナリストと評される人々、更には局の方針に従っているとしか見えない、ただ言葉を披瀝する芸能人等々の頻繁な登場。これは日本だけの現象なのでしょうか。戦前、戦中、戦後となんら反省が見られないのはマスメデイアと考えるのは私だけでしょうか。今回のコロナウィールス発生に際し、繰り広げられるテレビの報道番組に接し、改めてマスメデイアの危険性を感じるところです。

 

 昨日、安倍総理による緊急事態宣言が出されました。戦後最大の危機との表現です。

 

2020年4月8日

                        淸宮昌章

 

参考文書

 

石井知章・及川淳子編「六四と一九八九」(白水社)

リャオ・イー・ウー「銃弾とアヘン」(土屋昌明・島本まさき・及川淳子訳 白水社)

デイヴィド・アイマー「辺境中国」(近藤隆文訳 白水社)

安田峰俊「八九六四 天安門事件は再び起こるか」(角川書店) 

中澤克二「習近平の権力闘争」(日本経済新聞社)

同  上「習近平帝国の暗号」(同 上)

マイケル・ピルスベリー「China2049」(野中香方子訳 日経BP社)

麻生晴一郎「変わる中国 草の根の現場を訪ねて」(潮出版社)

ロバート・D・カプラン「南シナ海 中国海洋覇権の野望」(奥山真司訳 講談社)

阿南勇亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

フランク・デイケータ-「毛沢東の大飢饉」(中川治子訳 草思社文庫)

黒木登志夫「新型コロナの科学」(中公新書)

 他