清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」を読んで

 

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序章

 

 その1 吉田満の生涯

 

 先月の23日、掲題の著作の概略的なことを紹介しましたが、改めて、吉田満の生涯を著者の記述に沿い、以下記して参ります。

 

 吉田満は1923年(大正12 年)1月6日、父吉田茂、母ツナの長男として東京市山北町に生まれます。その後、関東大震災を機に、渋谷代官山アパートに移り住み、永谷戸小学校に入学。入学以来学術優秀でその卒業まで主席を通します。

 

 1935年(昭和10年東京府立第四中学(現戸山高校)に入学。とびきりの秀才で、特に記憶力は尋常ではなかったとの友人の話です。1939年(昭和14年)、東京高等学校文科甲類に入学、そして寮生活に入ります。 寮時代には二度の停学処分を受け、一度目は靖国神社参拝エスケープ。二度目は一般寮生が退寮した後、寮委員が、食堂、建物などを壊し、火を炊いた中に吉田満もいたことです。東京高等学校の卒業式には総代として答辞を読み、1942年(昭和17年)4月東京帝国大学法学部に入学します。

 

 その翌年、文系大学生及び専門学生の徴兵免除が解除され、20歳で学徒出陣・武山海兵団に入団。その時の心境を、かって、私がご紹介した粕谷一希「鎮魂 吉田満の生涯」に、私も面識がある親友の和田良一への手紙にも記しております。

 

 そして、1944年(昭和19年)12月25日、少尉に任官し、3,323人の乗員の一人として戦艦大和に乗艦します。その翌年4月、沖縄への特攻作戦(天一号作戦)で、艦長以下の幹部に伝える副電測士として、指令塔である艦橋に立つ任務につきます。同年4月7日、戦艦大和は米軍の爆弾と魚雷をあび沈没。3時間の漂流の後、駆逐艦・冬月に救出。吉田は生存者276人の一人です。生還者は佐世保に回航し、機密漏洩を防ぐため、離れ小島の病院室に収容されます。

 

 その後、一時帰郷を命ぜられ、帰省から戻った吉田は改めて特攻を志願。そして配属されたのは、回天魚雷の基地・高知県須坂です。米軍の上陸情報を得るための電設設備工事で、完成を建設期限の8月15日と定め、80名の部下を昼夜兼行の突貫工事に吉田が指揮しておりました。尚、それは海軍と自発的村民一体となった突貫工事でした。そして敗戦を迎えます。若い士官は戦艦長門に乗せられて原爆実験に供されるという風評の中、村民が吉田の身柄をあずかりたい、部落全体の責任でかくまうとのなか、小学校代用教員とう世を忍ぶ、借りの姿でもありました。下士官が次々と復員していく9月半ば、吉田は特攻隊長から呼び出しを受け、村の善意に甘えて子ども達を相手にしたい気持ちは、わからんではないが、一度家に帰ってけじめをつけろ、とお叱りを受けます。結果、両親が疎開している多摩の吉野村・柚木に帰省し、運命の吉川英治に出会い、「戦艦大和ノ最後」の原稿に着手していくわけです。吉川英治とその後の小林秀雄との遭遇が「戦艦大和ノ最後」を世に出す、大きな影響と力を与えたわけです。

 

 そして、1945年12月、22歳の吉田は日本銀行に就職します。そのときの上司から次の言葉を受けます。

 

 君の死生の体験は得がたいものだし、貴重なものとして私達も敬意を表したい。しかし思い過ってはならない。生きるか死ぬか、という形で、いつも人生の問題が与えられるとは限らない。むしろ常にそういう形で問題が与えられるなら、人生はやさしいものになってしまう。死か生かの、その追い詰められた時間だけに、全力をつくせばそれですむのだから。ところが、人生はもっと深く大きい。十年一日というように、見えない努力の積み重ねが人生を造る。情熱よりも忍耐、これが人生だ。(吉田満「散華の世代から」222頁)

 

 その日銀時代に復員軍人の今田健美神父と出会い、精神的な救いを求めるのでしょうか、1948年1月にカトリック世田谷教会で洗礼を受けます。続いて、1949年9月、プロテスタント教徒である嘉子と結婚。その結婚と日銀内での重要な仕事への登用もあるのでしょうか、精神の内奥に向き合うことから、少しずつ現実の暮らしを重視する視点に変わっていった、と渡辺浩平氏は記しています。

 

 一方、日銀内のカトリック研究会、及びその後の吉田に大きな影響を与えた、後年には、日本基督教団の総会議長となるプロテスタンの鈴木正久牧師の聖書研究会にも参加しています。そして、吉田が34歳の1957年から1959年のニューヨーク単身駐在する直前、プロテスタントに改宗します。カトリックプロテスタントか、という懊悩でしょうか、1949年の春、カトリック研究会での集合写真で、中央の今田神父、そして左隅の吉田の表情は何か沈んだ寂しげな顔が、本書に載せられております。

 

 尚、まったく次元の異なることですが、私の母親は代々続くカトリック教徒で、私の母方の一族はカトリック教徒です。私も幼児洗礼を受け、教会時代を過ごしました。私は高校二年の時、カトリックに何か重圧を感じ、教会から離れ、現在でも教会から遠ざかっている者です。私達夫婦は二年前に金婚式を迎えましたが、かって、二週間後に神前結婚式を控えた私は、母親を何か安心させる為か、東京本所カトリック教会の司祭館を訪れ、教会での式を頼みました。訪れた一週間後、私と家内は代父、代母の立ち会いの下、一つ目の式を挙げました。司祭館で下山神父様より「昌章、帰ってきたか」との言葉を頂いた、そんな52年前のことも思いだした次第です。

 

 本題にもどります。吉田は帰国後、為替管理局の総務係長、調査役。そして、時あたかも日米安保が自然承認され、所得倍増を掲げた池田内閣の成立した後の大阪勤務。そして1963年に本店の人事課長、日銀の青森支店長、仙台支店長等々を経て、1971年のニクソンショックの翌年の1972年に、日銀の金融政策の最高意思決定機関である政策委員会の庶務部長、謂わばその事務方のトップに就きます。その後、50歳で局長に就任。方や、吉田はプロテスタントの西片町教会長老としても静かに尽力を致します。そして、52才で監事に就任、その在職中の1979年、56歳で吉田はその生涯を閉じます。

 

 尚、付け加えなければならないことは、1950年の27歳の時、吉田が東京大学の体育館で日銀の同僚とバドミントンをしていた際、サイダーの栓を鉄柵で開けていいた時、蓋が右目を直撃し、右目を失ったことです。そのときの心境というか状況は次の通りです。

 

 その際、自らの姿を鏡に映し、「唇をゆがめて、ニヤリとした笑いが浮かんでいたのが印象にある。・・(中略)いつの間にか、あの奇禍が、突発事件という印象を失い、平凡な出来事になってしまった。けさ起きたとか、誰かに逢ったとかという事実と同じような、何でもないことになって、日常のなかに埋もれかかっている。あの怪我以来の幾日間というものが、これまでの人生とごく自然につながって、なだらかな今日まで流れてきている。自分の人生はもっと本筋を進む筈だった。それが、あの日以来、わき道へそれてしまった。そういうわびしい感じは、初めから一度もない。今踏みしめているこの人生こそ、唯一の真正のものだと、おのずから確信し肯定している。別に苦情をいう必要もない。」(吉田満「戦中派の死生観」143頁から147頁)

 

 如何思われるでしょうか。吉田満が従容として人生を生きることは何処から来たのでしょうか。生死の極に自ら立ち、その後、悩んだ末に達した境地なのでしょうか。僭越至極ながら、私は深く自省するところです。

 

 その2 本書を取り上げた要因のひとつ

 

 吉田満が56年の生涯を終えられてから、ほぼ40年の年月が流れました。その間に、1989年のベルリンの壁の打ち壊し、東欧・ソビエト連邦の崩壊、ロシアの誕生による冷戦の終焉、ブレトンウッズ体制の崩壊、ある面ではアメリカ二ズムの終焉。そして、世界的なテロの発生、イスラム国家の出現等々、国連の存在意義も大きくそこなわれ、第二次大戦後の世界は大きく変動しました。その中で最も大きな変貌は中華大国への復活を着々と進める中国の擡頭ではないでしょうか。加えて、反日を強める朝鮮半島の二国家。地政学的にも大きく変貌した中で、我が国はどうすべきか、どうあるべきか、そして国民一人一人は何を考えなければならないのか、正に問われている、と私は考えます。

 

 残念ながら今の日本の現状は、国会論議と称するものも、並びにそれを報道する報道機関と称するものも、商業主義に侵されているのでしょうか、下劣極まりない現状です。独り善がりの、安上がりの正義を振りまく野党。そして戦中・戦後の自らの在り方の反動なのでしょうか、報道機関と称するものは、もはや末期的現象ではないでしょうか。勿論、私は自公政権を賛美しているわけではありませんが、何ら思想もなく、対案を示し得ない野党は、ただただ政権を批判し、倒せばよいかの如くに写るのです。その現状は平和を享受した、ただ乗りの政党に見えるわけです。そんな気持ちを抱く中、私自身が吉田満に関わる個人的な思い、ささやかな経緯もあり、今回、改めて本書を取り上げた次第です。

 

 吉田満を語る著作は既にご紹介したように、千早 耿一郎著「大和の最後」、粕谷一希著「鎮魂 吉田満の生涯」の二冊があります。本書は吉田満を語る、新たな三冊目の貴重な著作と思います。著者は「白水社の本棚」において、「軍歌と賛美歌」とのタイトルをつけ、本書を次のように紹介しております。

 

 吉田は賛美歌も愛唱した。賛美歌のうちの二つは、吉田の葬儀でうたわれている。「主よ、みもとに近づかん」からはじまる三百二十番と「いずみとあふるる」からはじまる三百五十三番である。交際のあった江藤淳は、牧師(西片町教会)の司式でおこなわれた葬儀に出席してはじめて、吉田がクリスチャンであることを知った。吉田は敵でもなく自らでもなく、一視同仁の公正な裁きを求めていたのではないか、江藤は葬儀の折りの想念を書き残している。

 

 ・・(中略)『吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年』で私は、大和学徒兵、キリスト者、そして日本銀行員として戦後復興から高度成長経済の金融にたずさわった吉田満の三つの顔をえがいた。そして、その三つの姿から戦中派吉田満の戦争観、戦後観、さらに組織や経済に対する倫理観をさぐった。それは敗戦から七十年を経た現在を生きる私たちにとって、分かりやすいものではない。しかし「戦争」や「戦後」をあらためて考える際、無視できない問題を含んでいると思えた。吉田は軍歌と賛美歌をともに愛唱した。むろん両社に託した思いは同じではないだろう。しかしそこにこそ吉田の思考のおくゆきがある。吉田の著述を読み、彼を知る人にあい、強く感じたことはそのことである。(白水社の本棚より)

 

 その3 「鎮魂戦艦大和」のあとがき

 

 偶々、私がニューヨーク駐在時、ある意味で自分探しをしている40年前になりますが、ニューヨークの紀伊國屋書店で買い求めた「鎮魂戦艦大和」(1974年 講談社)は、1974年版「戦艦大和ノ最後」に「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」が加えられたものです。占領軍の検閲で、その発刊が禁止されたり、吉田満の視点にも種々批判等々がある中、吉田はその「あとがき」に次のことを記しております。

 

 戦中戦後に書かれた戦争文学の類書の量は、無制限ともいうべき厚みに達している。そのなかに伍して、もしこの作品が、初稿から三十年ののちに改稿を許されるに足る特色が恵まれているとすれば、その第一は、ここに扱われた主題、古今東西に比類のない超弩級戦艦の演じた無残な苦闘が、はからずも日本民族の栄光と転落の象徴を形作っていることを示すとともに、みずからの手で歴史を打ち建てるのにいかに無力であるかを露呈するものであった。科学と技術の粋は非合理極まる精神主義と同居し、最も崇高なるべきものは愚劣ななるものの中に埋没することによって、ようやくその存在を許された。

 

 ・・(中略)特色の第二は戦争というものの直中に身を置き、みずから戦う人間として、戦争そのものを描で出そうと専念したことに求められるであろう。・・(中略)しかし、この作品の持つ特色は、反面で、戦争記録文学としての明かな限界を生んでいるのであろう。戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表するという姿勢からは、戦後時代をいかに生きるべきかについてわれわれに訴えるものがないという指弾は、初版が公にされて以来絶えず行われてきた。

 このことについて、私は初版あとがきに、いつの日か、私自身の批判をもってその裏打ちをしなければならない責任を感じている、と書いた。「臼淵大尉の場合」と「祖国と敵国の間」は怠惰な私が、この自戒の言葉にいささか報いるための仕事として、四半世紀の空白のあとにようやく到達した一路標である。(吉田満 「鎮魂戦艦大和」 431から433頁)

 

渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」

 

 

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 その1 渡辺浩平氏の視点

 

 先月の23日、本書の概略を紹介しました。著者は吉田満の横顔である日銀行員と、キリスト教徒としての後ろ姿に焦点を当て、吉田満論を展開していきます。本書は序章・私の立場の核心、から始まり、第一章・同期の桜から第九章・ 経済戦艦大和の艦橋、そして、終章・雲という構成です。私としては新たな吉田満の再発見というか、再見直しの必要を感じました。改めて吉田満の著作の再読に至るわけです。本書のなかで特に印象深く感じた諸点を、私なりの感想など交え、記して行きたいと思っております。従い、今回も渡辺浩平氏の著作の全体を紹介するものではありません。

 

 その2 日本人としてのアイデンティティの欠如

 

 著者の渡辺氏は吉田満が戦後の33年という時間を次のように記しています。

 

 「この間に日本が、太平洋戦争とその総決算である敗戦によって得た経験を反芻し、学ぶべきものを学びとるには、充分な時間と試練の場が、あたえられた」はずなのに、しかしそれを日本人はおこたってきた。それは、「日本人としてのアイデンティティ-(自己確認の場)」をどこに求めるべきかという問いがきちんとなされなかったそこに、「戦後最大の危機」といわれる現代の混迷があるというのである。70年代の混迷とは、先に述べた通り「不況と円高の内憂外患の窮境」であり、「外からのわが国に注がれる眼の冷徹さ」であるという。

 吉田はその種の窮境が出来たひとつの原因として、敗戦によって日本人が戦争のなかの自分を見つめることなく、いまわしい記憶を抹殺し、戦中と戦後を貫く一貫した責任を自覚しなかったことに求めるのだ。それを「日本人としてのアイデンティティ-」の欠如とする。(掲題の著書 225頁)

 

 更に、吉田は戦後日本に欠落したものとして詳しく、次のように述べています。

 

 日本人、あるいは日本という国の形骸を神聖化することを強要された、息苦しい生活への反動から、八月十五日以降はそういう一切のものに拘束されない、 「私」の自由な追求が、なにものにも優先する目標となった。日本人としてのアイデンティティ-の中身を吟味し直して、とるものはとり、捨てるものは捨て、その実体を一新させる好機であったのに、性急な国民性から、それだけの余裕はなく、アイデンティティ-のあること自体が悪の根源であると、結論を飛躍させた。「私」の生活を豊かにし、その幸福を増進するためには、アイデンティティ-は無用であるのみならず、障害でさえあるという錯覚から、およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた。

 

 ・・(中略)戦後生活を過りなくスタートするためには、自分という人間の責任の上に立って、あの戦争が自分にとって真実何であったかを問い直すべきであり、国民一人一人が太平洋戦争の意味を改めて究明すべきであるのに、外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方的に断定した。(吉田満「戦中派の死生観」16頁)

 

 この吉田の指摘は、70数年後の今日の日本の現状にも十分に当てはまることではないでしょうか。尚、吉田は上記の著書のなかで、吉田とほぼ同世代の鶴見俊輔司馬遼太郎との対談の中で、司馬遼太郎が『戦後の日本は、経済大国とか言われますが、他の国に影響を与えるほどの思想を持ってない。もしあるとすれば、「私どもは思想なしで、何とか東京も比較的に犯罪件数もすくなく過ごしています」ということでしょうか、とさりげなく語っておられる。日本民族の本質をめぐって、数々の長大作をものされた氏が、明治維新に劣らぬ大変革であった敗戦の経験について、この程度の感想で片付けられるのは腑に落ちないようにおもわれるが、いかがであろうか。』(同121頁)

 

 如何でしょうか。私は吉田満に賛同するわけです。もっとも、昭和の時代が何か魔物のように突然現れたとするように、私が感じられる司馬史観といわれるものにも、私は賛同もしておりませんが。

 

 その3 占領期の報道規制

 

 前回の拙稿にも記しましたが、「戦艦大和」は占領軍の民間検閲支隊により全文削除され、八つの異なる版があったわけです。ではその報道規制はどうであったのか、渡辺浩平氏はある意味では詳細に記しております。重要な記述なので、長くはなりますが以下ご紹介致します。

 

 占領軍の報道規制の主要な問題点は、ポツダム宣言、さらには、日本国憲法にうたわれた表現の自由報道の自由を占領軍は表向き遵守する姿勢をみせながらも、実際には占領軍批判などの言論が封鎖され、さらには先に述べた通り、その封鎖そのものの事実をかくしていた点にある。

 むろん戦時中における日本の情報局も厳しい情報統制をおこなっていた。報道機関(同盟通信、NHK、新聞社など)はそれにしたがい、戦争宣伝をおこなった。しかし、米国が日本を占領すると、その統制主体が、占領軍に変わったのである。

 つまり占領軍による統制は、表面上は民主主義と自由をうたい、制限は一部としながらも、実際は大掛かりな検閲をおこない、さらに、それと対になる思想管理もするというダブルスタンダードにあった。くわえて、日本の報道機関は、占領軍の宣伝工作に全面的にしたがい、むしろ、積極的にその宣伝に加担した。

 その一対となる検閲と宣伝は、前者が先にあげた民間検閲支隊(CCD)が担当し、後者が民間情報教育局(CI&E)がになった。CCDとCI&Eは組織上同格ではない。CCDの上には、民間諜報部(CIS)という組織があり、CISとCI&Eが同列となる。

 CCDの検閲は、放送(ラジオ)、活字のみならず、私信にもおよんでいた。一次検閲には多くの日本人が関わっていた。また、検閲における郵便検閲の比重は高く、検閲者の四分の三が郵便検閲にあたっていた。

 

 山本武利の試算によれば、占領期の日本人検閲係は、延べ二万から二万五千人となる。うち郵便検閲にたずさわった人数は一万から二万。郵便検閲は、検閲であると同時に、占領軍による「世論調査」という機能もあわせもち、それが、占領政策に反映されていたのである。

 

 ・・(中略)報道機関は、民間検閲支隊の統制にしたがうことが、帝国日本の戦争報道に協力した自らの罪の軽減につながると考えた。戦時に、情報局の統制をうけたように、メデイアは占領軍の検閲を受け入れ、むしろ、その宣伝を率先垂範し、組織の生き残りをはかったのである。

 

 ・・(中略)しかし、吉田の主張は少し違っていた。「犯した過りを正されつぐわねばならず、責めは果たされねばならない。」戦争の責任は負わなければならない。しかし、その前にやることがあるはずだ。それは、「おのれの眞實を、もう一度ありありとさぐりあてて見る」ことである。そうしなければ、それはおのれへの冒涜となり、新生への糧はくみとれない、そのように考えたのである。

 

 ・・(中略)それは、敗戦直後、東久邇総理が説いた「一億総懺悔」でも、軍国主義者が「真実を隠蔽」したとする占領軍の戦争罪悪観宣伝とも異なる主張である。  

占領軍は、そのような主張が、自分達の宣伝と鋭く対立するものであり、「占領行政の厄介者」であることを十二分に認識していた。

 文語の問題のその文脈のなかで、とらえることができる。昭和天皇人間宣言も、日本国憲法も、英語の翻訳調ののこる口語で書かれている。・・(中略)「戦艦大和ノ最期」の文体はそれらの延長線上にある文体だ。「内側から見た日本軍国主義の精髄」が文語で書かれたことは、占領軍が許すことはできないのである。(掲題の本書 54頁から61頁)

 

 如何でしょうか。私が永年勤めていた岡谷鋼機(株)で尊敬する上司が、戦後、アルバイトとして、郵便局本局の事務所内で個人郵便を検閲していたことを、恥じるように、そっと私に語ってくれた酒場での出来事を改めて思い起こしました。

 

 その4 三島由紀夫の苦悩

 

 渡辺浩平氏は本書の中では東京帝国大学の吉田の二年後輩の三島由紀夫に言及しております。吉田は日銀、三島は大蔵省には入りますが、学生時代からの交友関係であったとのです。吉田がニューヨーク単身駐在の時には、既に著名な作家になっていた三島とのグリニッジヴィレッジでの、ゲイバーでの交遊も記しております。そして三島について、次のように記しています。

 

 吉田が絶えず意識していたのは、民族共同体としての国家、つまりは国民国家であり、それを引き継ぐ主体の連続性であった。三島の関心の枠組みは、文化共同体の象徴概念としての天皇ということとなろう。吉田は、三島を回顧した文章のなかで、三島の問題提起に理解をしめす。また、三島の死の意味を解明できると思うことは不遜として、解釈を避けようとする。・・(中略)しかし、吉田と三島には、そのような過去の日本を見る視点以前に、当時の日本を見る眼に共通したものを感ずる。(掲題の本書 181頁) 

 

 吉田満は「戦中派の死生観」の中で“三島由紀夫の苦悩”として、以下のように記しています。

 

 三島由起夫の苦悩は何であったか。彼を自決に至らしめた苦悩の本質は、何であったか。この設問を、彼とほぼ同時代に生まれながら、たまたま太平洋戦争で戦死する“くじ”を引き当てた青年達の苦悩と対比して考察せよ、というのが編集部からあたえられたテーマである。私はやはり同じ世代に属し、一時友人として三島と親しくつきあっていたこともあるが、一個の人間、しかも多才な意志強固な行動力旺盛な文学者に、割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明できると思うことがいかに不遜であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明できたと思う時は、永久に来ないであろう。三島はみずからの死の意味について、多くの読者にそれぞれ異なる解明の糸口を得たと思わせて去ったが、糸口をたどってゆくとどの道にも、近づくことを許さぬ深淵が待ち構えている。彼の死はそのような死なのであり、そうであることをはっきり意図して、彼はあの死を選んだとしか思えない。

 

 ・・(中略)三島は終戦の時、満二十才であった。それより少なくとも二年早く生まれていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確立で期待することが出来た。彼が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも明かである。出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。

 

 続いて、全共闘等についても次のように記しております。

 

 こうして臼淵磐が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の中の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。

 しかしそのことは、三島が臼淵と全く異なる地点に立っていることを意味しない。たとえば全共闘への共感を表明し・・彼らが提起した問題点はいまでも生きている。反政府的な言論をやった先生が、政府から金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだ。簡単なことだよ・・と指摘するとき、彼は、臼淵の心情に近い場所に位置しているはずである。

 

 次のことも付しております。

 

 戦後過激な活動に走った多くの学生の中から、一人の自殺者も出ないことは、彼を激怒させた。死ぬ一週間前の対談で、三島は・・彼ら、全共闘の革命のために死なないね。危険に徹しぬいて、最後に生命を投げ出すところまで、どうして思いつかないのか、ぼくはそこが分からない・・と、あからさまに彼らの殉死を督促している。(戦中派の死生観 60頁から71頁)

 

 如何でしょうか。吉田、三島の視点・観点は現在でも当てはまる、痛烈なものではないでしょうか。

 

おわりにあたり

 

 先月23日の拙稿でも、また本拙稿でも触れたように、著者の渡辺浩平氏は吉田の日銀時代の友人、クリスチャンの友人、知人等々を含め多くの人々にも逢い、吉田の実像を描いていきます。本書は序章でも触れたように、吉田満に関する三冊目の本格的な研究著作ではないでしょうか。尚、著者は1958年生まれで、専門はメデイア論で、現在は北海道大学大学院メデイア・コミュニケーション研究院教授とのことです。

 

 本書の序章でも記しているように、氏は吉田満の日銀行員並びに幹部としての「横顔」、そしてクリスチャンという「うしろ姿」に焦点を当て吉田満を語っていきます。長年に亘り、吉田満を読んでき私にとって、とても参考になる著作でした。本拙稿はそうした部分を大分省略しており、是非、渡辺浩平氏の「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」にたち帰り、一読をお勧め致します。

 

 繰り返しの繰り言で恐縮しますが、地裁学的にも大きく変動する世界。アメリカ二ズムの終焉、一方、共産党独裁政権の価値観も大きく異なると思われる中国が中華大国への道へと軍事力を含め着々と進めていること。更には、経済格差が広まる中で次々と現れる独裁的指導者の出現。そうした状況下、日本はどうあるべきなのか、僭越至極ですが、我々個人は何を考え、行動していくべきなのか、正に問われている、苛立ちと自分自身の反省が交錯しております。

 

 私は、今までも度々、山本七平を取り上げてきました。その山本七平吉田満は懇意でもありました。山本七平は陸軍ですが軍隊経験があるとともに、プロテテスタン教徒という共通点もあるのでしょうか。吉田とは家族ぐるみの交流があり、吉田満の死後、山本夫妻は吉田嘉子夫人をともない死海への旅に出かけたと、著者は記しています。そして、著者は山本七平の以下の言葉をもって、本書を閉じています。私の長々とした拙稿もその最後の言葉をお借りし、おわりと致します。

 

 遠い昔のことでなく、また異国のことでもなく、自分の近いところに、こういう人が現に生きていたのだということ、それを知ることはその人の生涯にとって決して無駄ではない。(本書 257頁)

 

 2018年8月15日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

  渡辺浩平「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」(白水社

  吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社

  同  「戦中派の死生観」(文芸春秋)

  同  「散華の世代から」(講談社)

  同  「提督伊藤整一の生涯」(文芸春秋)

  粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)

  千早一朗「大和の最期、それから」(講談社)

  保坂正康編「戦艦大和と戦後」(ちくま学芸文庫

  池田信夫丸山眞男と戦後日本の国体」(白水社)

  http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2018/07/23

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