清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思「西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

佐伯啓思西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

 

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はじめに

 

 一作年前になりますが、毎年開かれる同期のゼミナリステンの集いが、晩秋の京都で行われました。夕暮れ時でしたが、西田幾多郎の「哲学の道」を三々五々、散策致しました。佐伯氏はその「哲学の道」を掲題の本書で次にように記しております。

 

 人のいなくなった夕暮れ時などに来るとこのゆったりとした味わいは格別のものです。哲学の道から疎水を越えて奥へ入ると法然院のあたりにでますが、このあたりのほの暗い静寂は、一瞬、時間が脱落した異次元に引き込まれてしまったような心持ちになります。(8頁)

 

 そんな高尚な心持ちとは、ほど遠いのですが、前回取り上げた佐伯氏の「現代民主主義の病理」の中で触れた、佐伯啓思氏の「西田幾多郎」及び小林敏明氏の「夏目漱石西田幾多郎」について、僭越ながら私なりに興味・共感を覚えた諸点を記して参ります。

 

 尚、ご存知のとおり、佐伯氏は1949年生まれ、東京大学で理論経済を専攻され、その後、社会思想史にも進まれた京大名誉教授です。方や、小林氏は1948年生まれ、名古屋大学文学部哲学科卒、現在はライプツイヒ大学東アジア研究所の日本学科教授です。

 

 佐伯氏は「日本という『価値』」の著書の中で、西田幾多郎について以下のように述べています。

 

西田幾多郎を中心とするいわゆる)京都学派と戦争の関係については戦後様々なことが言われた。戦中にはむしろ自由主義的とされて右翼や陸軍からは批判され、戦後には戦争協力としてタブー視されることになった京都学派の試みについては、ここで詳論する余裕はない。また別の機会に譲りたいが、京都学派の試みとその挫折の意義を改めて検討する価値は十分にあるのではないだろうか。実際、私は、京都学派の「世界史の哲学」の試みは挫折したし、結局、失敗したものだと考える。しかし、では何が挫折したのか、どうして失敗だったのかは改めて論じる必要のあることがらなのではなかろうか。(本書300頁)

 

 一方、小林敏明氏は同じような観点から、掲題の本書の中で、西田幾多郞といえば、必ず禅が連想され、主著「善の研究」を「禅の研究」だと思っている人も少なくないようだ、としながらも次のように記しています。

 

 にもかかわらず、こういう「不可解」な西田の文章が今日依然として読まれ続けるのはなぜだろうか。私は、そこに既成の思索を破ったり、超えたりするような新たな思考の可能性があるかもしれないという予兆めいた期待が、読者の側にはたらくからだと考える。再び物理学に例を取っていうなら、日常の意識では歴然と区別される時間と空間も、時空連続体を考える物理学者にとってはそうでない。それはたんなる時間でも、空間でもないと同時に、その両方でもあるといわざるをえないXである。西田の思索が狙っているのは、何かそのような次元のものである。(211頁)

 

 私は両氏の一面相通ずる観点に惹かれ、とりとめのないものになりますが、両氏の著書を読み比べ、私なりに共感した、あるいは新たな認識を持ったことを、記してみようとおもいます。従い、今回も両氏の掲題の著書全体を紹介するものではありません。

 

1.小林敏明「夏目漱石西田幾多郎

 

 夏目漱石、西田幾多郞は同じ時代を共有しながら、互いによく似た体験をしている事実がある。漱石は世界第一次大戦後の1916年に死去。方や西田は1945年、第二次大戦終結直前の数ヶ月前に死去。ほぼ30年の開きがありますが、漱石は1867年、西田は1870年生まれの誕生で、ほぼそのまま明治日本の誕生と重なり、時代を共有し、しかも両者の家族関係も含め、似たような体験を持ったということは、彼らの思想内容にも相通じるものをもたらした、と氏は述べています。

 

家族関係と教育過程他

 

 夏目漱石については今年8月に投稿した、十川信介著「夏目漱石」の「出生と、めまぐるしい教育過程」の項で、その生い立ちを私なりに紹介していますが、江戸牛込馬場下横町(現喜久井長)の町方名主の父のもとに五男として生まれます。父の先妻には二人の姉がおり、夏目漱石は8人目の子供で、漱石は養子に出されたり、戻されたり決して安定というか、安住した生活を送ってはいません

 

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 尚、本題とは離れますが、先月11月の初め、吉祥寺の古本屋で、偶々、漱石の孫である漫画家且つ漫画評論家の夏目房之助著「漱石の孫」を見つけました。漱石が悩んだロンドンの下宿先を尋ねながら漱石を語るものですが、漱石の婦人鏡子並びにその長男純一、そしてその子供房之助の姿が写り出されております。夏目漱石家三代の歴史の一面を語るもので、夏目家のその後を知ることにもなり興味深く読んだ次第です。ご参考までにご一読をお薦め致します。

 

 方や、西田は現石川県かほく市森で、西田得登の長男として生まれます。西田家は代々十村と呼ばれる富農で、身分的には夏目家の名主に似ているが庄屋などより身分が高い名家ということです。そして「この西田家の没落についても、われわれは新時代に順応できずに挫折していった旧家の姿を見て取ることができるが、夏目家の没落同様、やはりここでも投機とか投資といった新たな経済原理の犠牲者を確認することができるだろう。・・(中略)それにしても、なぜ総じて父親が超自我の起源になるのかといえば、おそらくそれは長期にわたる家父長制度の歴史が関係している。この制度の下では、全ての権威権限を体現した家長の行動や判断は、家族成員にとってはそのまま従うべき『模範』として機能してきた。当人たちの意志を無視して勝手に息子夫婦の離縁を決めた西田の父親、子供を物品のようにして里子や養子に出し入れした漱石の父親、これらの理不尽な行為がそのまま容認されたのも、彼らが家長だったからにほかならない。・・(中略)父親の欠落によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけに自己制御が弱くなると述べたが、これは必ずしもマイナスの結果ばかりとはいえない。弱い自己抑制は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な『父親殺し』が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。」(20、28,30頁)、続いて、こうした観点から見ると、西田も漱石も若いときから人並み以上の反骨精神や独立心をもっていた人物であることがわかる、と氏は指摘しています。私としては何か分ったような気がしたところです。

 

 両者は、ほぼ同時期に東京帝国大学で学びますが、漱石は英文学本科卒、方や西田は文学哲学科専科卒です。専科はいわば聴講生というような扱いで、その身分差は大変なものだったとのことです。従い、両者は大学時代も直接的な交友はなかったようです。ただ、両者に共通することは「むしろ自由独立を求める反骨精神である。面白いのは、こうした漱石や西田に宿った新しい近代啓蒙の考え方が、消失していく江戸気質や武士道精神の言葉で表現されたという、歴史の皮肉というか妙である。」(42頁) 

 

 更に「漱石のイギリス文学や西田のドイツ哲学というように、彼らが知的方面において一級の西洋通であったことはよく知られているが、同時に彼らは身体的にも(ボート、テニス等の)西洋スポーツの最初の享受者であったということである。言いかえれば、それだけ心身両面において初めて西洋を身につけた世代だということである。そして、だからこそ抱えざるをえなかった彼らの固有の問題が生じた。それが西洋か東洋かという選択の問題にほかならない。今日の目からすれば、このような両極端化は余計なイデオロギーを生み出すだけで生産的ではないということができるかもしれない。だが、彼らの世代はそれは深刻な問題であった。」(108、109頁)

 

 この氏の生産的ではなかったとの指摘には異論があるかもしれません。

 

 加えて、漱石、西田の共通項を見ると、既に記したようにその没年は漱石第一次大戦中の1916年。西田は1945年の第二次大戦終結直前で、二人の生涯は戦争に始り、戦争に終わった。そして、二人にとって最初の切実な戦争といえば日露戦争であったが、この戦争に対する二人の態度には大きな温度差、切実度の違いがあった。西田は二人の近親者を失っている。専門石川県専門学校の学友と旅順で戦死した西田の愛する弟憑次郎である。従い夏目、漱石共に我が子を失ったときの感情においては共鳴しあったが、日露戦争とりわけ戦死に関しては二人の大きな温度差があった、と指摘しています。

 

 両者の門下生

 

 更に、門弟との関係においても両者にはひとつの共通項があります。漱石に近づいてきた青年たち、小宮豊隆鈴木三重吉森田草平、野上豊一郎、安陪能成、久米正雄芥川龍之介等々の漱石山房の集まりです。その関係は「父」を中心に形成された、いわば疑似家族共同体であり、小宮などは自分の家のように漱石家に出入りしております。門下生の一人である松岡譲は漱石の長女筆子と結婚という具体的な形で表われています。

 

 方や、西田においても、その門弟ともいうべき京都学派の哲学者たちの三木清高坂正顕高山岩男、上田操、金子武蔵等々において疑似家族共同体の様相を示しております。漱石同様、上田は西田の長女彌生、金子は六女梅子と結婚しております。

 

2.大東亜戦争と西田哲学

 

 その1.

 

 本投稿の「はじめ」にも触れましたが、佐伯氏はその著「西田幾多郞」の中でも、次のように述べております。長くなりますが重要と考えますので、以下紹介したします。

例の大東亜戦争イデオロギーと名指しされた「民族国家の世界史的使命」、という京都学派の思想が、いかに西田幾多郞の歴史哲学をよりどころとしているかはあきらかでしょう。ここで、「個性的な自己」といっているものを、歴史的世界における民族や国家に置き換えれば同じ論理がでてくるからです。民族はひとつの国家として独自の個性をもつには、歴史的使命をもつしかない。ここに「国体」というものの自覚がでてくるのです。それは、自己の底に世界を映し出し、世界において自己を生かすことで、その意味では、決して自民族中心主義でもなければ独善的ナショナリズムでもありません。歴史的使命をもつとは、世界の創造的要素となる、ということです。「民族がかく個性的となると云うことは、それが歴史的形成的であり、歴史的使命を担うと云うことでなければならない。国体とはかかる国家の「個性」であるということになるのです。

 

 しかしながら、こうした西田の歴史哲学は、あの苛烈で混沌とした力と力の対決の時代にはほとんど現実性をもちませんでした。あるいはその表層の言葉だけをすくいあげられて、日本の「世界的使命」だとか「歴史の創造的主体」だといった観念だけが独り歩きしました。その意味では、京都学派の試みは、明らかに失敗したのです。戦争イデオロギーとして失敗したのではありません。帝国主義的な力の対決という歴史的現実を変えることに失敗したのです。状況を変えることができなかったのです。

 

 西田がやろうとしたことは「日本的な思想」を内蔵した「日本」という個性をもって、世界の創造的力点としようということでした。しかしそれはまた、当時の歴

史的状況のなかで歴史に動かされながら作用する外ないものでした。すでに、戦争へ向けて駆動する歴史の威力に抗いすることはできなかったのです。何よりも、日本人自身が西田の意図をほぼ理解できなかったといわねばなりません。とはいえ、彼が「思想」というもろくもあやうい営みだけを頼りに悲惨な戦いを挑んだということだけは記憶されるべきでしょう。(198,199頁 上記西田幾多郞)

 

その2

 

 小林氏は掲題の本書の序章で次のように記しています。長くなりますが紹介します。

 

 漱石は、西洋においては開化が「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいる」とすれば、日本の開化はあくまで「外発的」で、「新しい波が寄せる度に自分が某中で居候をして気兼ねをしている様な」ものだというが、この指摘は、こと「思想」と呼ばれるものに関するかぎり、明治維新の30年後だけでなく、150年たった今日の日本にも依然として当てはまる。たとえば、第二次大戦以後今日までの「思想」の変遷を振り返ってみるだけでも、マルクス主義実存主義現象学構造主義ポスト構造主義分析哲学等々といった流行の波が押し寄せ、人々はそのつど狼狽しながら流行の輸入作業に余年がなかったものの、そのほとんどが実をむすぶこともなく、いたずらに瓦礫の山を築いただけであった。その結果今日の思想や政治意識の空洞化である。・・(中略)漱石も西田も早くから日本におけるこうした思想の危機を予想し、危惧していた。危惧の対象は主として消化されない思想や理念とその結末であるが、彼らの危惧はそういう日本側の表面的な受容だけに向けられてはいなかった。受容される当の西洋近代自体が抱える問題をもいち早く見抜いていたからである。まさに思想における内憂外患が彼らの置かれた立場であった.(10、11頁)

 

 その上で、西田は漱石のように距離を取って外からの戦争批判をおこなってすます、というわけにはいかなかった。西田及び京都学派の戦争問題とその経緯を以下のように述べていきます。

 

 1930年代に入って、軍部とりわけ関東軍や陸軍の独走に歯止めがかかわらず、満州から中国本土への侵略、加えて五・一五事件、二・二六事件等々が起こります。そして、1937年、反軍部の期待を背負った第一次近衛文麿内閣が成立します。近衛はご存知のように、河上肇に憧れ、一高から京大に移り、そして西田の教え子となり、そこに学習院時代の仲間も加わるわけです。従い、軍部とは直接関係をもたない近衛への期待、最後の望みも西田には大きかったのです。一方、陸軍の突出に平行するように、民間でも蓑田胸喜のような狂信的なイデオローグ(デマゴーグ)が三井甲之の主催する「原理日本」などが盛んに知識人狩りの論説を書き、その矛先は左翼のみならず美濃部達吉、滝川行辰、大内兵衛津田左右吉、京都学派にも及びます。西田には右翼テロの噂も流されておりました。

 

 更に、門下生である最愛の三木清が近衛のブレーンともなるべく、1933年に発足した「昭和研究会」に近衛内閣発足と同時に加わります。そして、例の「国民政府を対手とせず」と宣言した近衛の「東亜協同体論」の構想造りに参加していきます。結果は「この最後の希望」だった近衛も結局は陸軍のマリオネットにされ、その昭和研究会は1940年には大政翼賛会へと解消され、実質的に総力戦下で軍政府の協力団体になっていったわけです。尚、三木清はその運動を利用して最後まで何とか別の道を画策しようとしたのですが、特高に捉えられ、敗戦の翌月、出獄を前にした1945年9月26日、48歳で獄死します。尚、すでに記したように、西田は終戦の1945年、75歳で死去します。尿毒症とのことです。

 

 西田のほうは早々に近衛を見限っていましたが、陸軍、海軍とも西田の名声及び京都学派を利用していきます。文芸誌「文学界」が「知的協力会議」と銘打って主宰した「近代の超克」の座談会や「中央公論」が企画した一連の座談会に京都学派が参加します。この一連の座談会は、当時の有名な文学者、学者、芸術家たちが一堂に会してアジア太平洋戦争を思想的に意味づけようと試みた集まりとして、戦後厳しい批判にさらされてきたわけです。

 

 陸軍、海軍からも西田の名声を利用しようという状況が生まれます。加えて、軍部とは違う民間で独自の政策構想を図る「国策研究会」に請われ、「世界新秩序の原理」を発表するに至ります。「西田としては健全な『科学、技術、経済の発達』であり、偏狭な国粋主義にとらわれず『自己に即しながら而も自己を越え』るような普遍的見地に立った世界政治であった。しかし、この『世界史的使命』は、東条はもちろん、アジアにおける日本の覇権をもくろむ軍部にはまったく理解されることがなかった。かくて西田もまた漱石と同じように、戦争の中で失意のまま死んでいかざるをえなかったのである。」(182頁)、と小林氏は記しています。

 

 今日なら「グローバル世界」と呼ばれる事態を西田は「世界史的世界」と呼んだ。そしてそのことは日本は明治という新時代の始まりと同時に自覚されていた。京都学派の「近代の超克」論議はこうした近代世界システムへの批判の試みではあったが、いかんせんその哲学者の空論気味の言説は、無力にも、戦争というシビアな現実に飲み込まれてしまった。第一次大戦の中で死んでいった漱石は、彼ら以上に、言説を無意味化してしまう戦争の非常な性格を感じ取っていたのかもしれない。(192頁)

 

 経済学者であると共に思想家、方や哲学者である両氏の指摘、観点を私がどれほど理解できたか、否か、は問われますがこのまま進めます。

 

3.「永遠の今」と無始無終の時間

 

 佐伯氏は本書「西田幾多郞」の中で、極めて分りやすく西田幾多郞の哲学を解説しております。氏が持ち続ける思想の展開でもあり、私にとっては共感すると共に極めて重要な指摘と思います。長くなりますが、以下、ご紹介し、本投稿を閉じたいと思います。

 

 「進歩」という観念の背後には、過去、現在、未来へと突き進む直線的な時間の意識がなければなりませんが、西洋で、この直線的な時間の観念を明瞭に生み出したものは、ユダヤキリスト教だといってよいでしょう。・・(中略)だからユダヤキリスト教の西洋では、人は、最後の審判に向けて、正しく生き、勤勉に生をまっとうするほかありません。禁欲が日常生活のなかにまで入り込ます。ところが,近代も進んでくれば、もはや誰も簡単には神など信じなくなりました。こうなると深い信仰心に代わって、軽い利己心が支配し、禁欲は強欲へと変わってゆく。しかし、ユダヤキリスト教が生み出した直線的な時間意識だけは残ってしまうのです。・・(中略)かくて無限の経済成長、自由の拡張、富と幸福の追求、世界のグローバル化といった今日の神話は、時間と世界を作った絶対神を前提とするユダヤキリスト教的な思考の世俗化といってよいでしょう。近代にはいって「神」は抜き取られ、この構造だけが残ってしまった。そして近代化とともに、われわれすべてがこの不気味な構造に投げ込まれたのです。(223から226頁)

 

 日本の思惟

 

 日本の思惟、とりわけ仏教的な思想にはこの世の創造も終末もないのです。われわれはどこからかやってきて、いずこかへ去って行く。そのことの繰り返しなのです。かくて西洋と同じ意味での歴史という観念もありません。日本では、歴史とは、そこに壮大な意味が埋め込まれた巨大な舞台というより、ゆく川の流れの如くに次々と時が去ってはまた来る、といった趣のものなのです。・・(中略)この無始無終の時間を表象するのに、われわれは、無限に延びる一直線ではなく、むしろひとつの瞬間を取り出しました。なぜなら、もしも、時間に始まりも終わりもなく、したがって、時間の流れの全体(それが歴史です)には特別な意味がないのだとすれば、大事なのは、今ここでの瞬間だけだからです。・・(中略)人はただ日々違った身体を持ってその都度生きるだけわけではなく、同じ身体を持って同じ脳を使って生きているのです。身体のなかに、記憶や習慣として過去が蓄積されています。こうして「今」のなかにすべての「過去」が入り込んでいるのです。又、同じように、人は常に未来を気にし、未来を予測しながらいきているものだとすれば「今」のなかに「未来も入っているのです。・・(中略)西田にとっては過去へ向かう記憶も、そして未来へ向かう意志とともに、まさに今ここでの「純粋経験」にほかならないのです。世界や時間の外にあって、万物の創造者としての「神」を持たない日本人にとっては、時間は「ただ今」の延々たる移行というほかはありません。人は、そのようなものとして「時」を感じるはずです。・・(中略)わが国の文化の特徴として「情的」なところがある。それは「知的」のものへと傾く西洋とも、また「行的」なものへと傾く中国とも違っている。老荘思想にも見られるが、「時」は無より来たりて無へ帰る、時は「絶対の自己限定「である。そこでは。常に、「無」が根底にあるので、「形」を持って今ここにあるものも、その背後に「無」が透かし見られる。・・(中略)「有の思想」である西洋に対して、日本の根底にあるのは「無の思想」だというのである。もしも、われわれの生活のなかにある一瞬一瞬を「永遠の無」に触れる「今」と感じることが日本人の時間的感覚に埋め込まれているとすれば、われわれは、もう少し「今」を大切にするのではないでしょうか。(中略)西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えました。そして「特殊性を失うということは文化というものが無くなるということである」といいます。文化がなくなることはその國の国民性がなくなることです。端的に言えば「日本」がなくなる、ということなのです。西田のこの言葉は無条件にグローバルで普遍的な価値や理念を追い求め、それをよしとする今日のわれわれの「脱日本化」にとってはあまりにも耳の痛いことではないでしょうか。(227から236頁)

 

 昨今の目に余る節操を欠くマスメデイア。更にはテレビに頻繁に出てくるジャーナリストと称される人たちの厚顔と私は思われるのですが、その有り様。加えて、佐伯氏が指摘する、過度なグローバリズムや経済競争や成長至上主義やモノの浪費という現状にあって、佐伯氏の指摘に私は深い共感を覚えるのです。

 

終わりに

 

 今回も単に著者の文章を私なりに勝手に解釈・引用し、本来の著者のお考え、あるいは訴えたいこととは離れているでしょう。でも読者とはそんなことなのかもしれない、とこれまた私は勝手に解釈しております。いずれにもせよ私にとって、読み比べの上で、とても参考になるものでした。

 

 本来であれば悲哀の哲学、すなわち「哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」という西田哲学の一端でも紹介できればいいのですが、いまだ私にはその力がなく、このような長々しいものになりました。いずれ近いうちに、その哲学を少しでも知りたいとは思っております。

 

 尚、次回の東京オリンピックには80歳になりますが、そこまでは元気でいようと思っております。蛇足ですが、仕事の関係で前回の東京、ロス、シドニーのオリンピック・スタジアム会場で観戦しておりましたので、次の東京オリンピックまでは元気でいようと思っているわけです。

 

2017年12月8日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 小林敏明「夏目漱石と西田幾多郞 共鳴する明治の精神」(岩波新書

 佐伯啓思「西田幾多郞 無私の思想と日本人」(新潮新書)

 同   「日本という『価値』」(NTT出版

 同   「反・民主主義論(新潮新書)

 夏目房之助漱石の孫』(実業の日本社)

 十川信介夏目漱石』(岩波新書)

 他

 以上