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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

佐伯啓思著「反・民主主義論」他を読んで思うこと

自費出版「書棚から顧みる昭和」のその後 世相に思う

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佐伯啓思著「反・民主主義論」他を読んで思うこと

投稿にあたって

 

 確かに異質とも言えるトランプ大統領の出現は日本を含め、今後の世界情勢に大きな影響を与えることは事実でしょう。加えるなら第一次世界大戦以降、連綿と続けてきたアメリカの歴史観にも影響があるのか、ないのかも、考える必要があるのかもしれません。

 

 一方、中国が中華大国への復活をはかるべく、急速に軍事力の拡大しております。陸海空、宇宙、続いて南沙諸島等における一方的な軍事基地の新設。そして中国の核心的利益と称し、中国船舶、航空機による尖閣諸島への異常な接近という現実に日本は直面しているわけです。従い、先日、来日したマテイス米国国防長官、並びに安倍晋三首相の訪米時のトランプ大統領との共同記者会見で明らかにされた、尖閣諸島日米安保条約第5条が適用されるとの発表に、共産党は分りませんが民進党他野党も、われわれもひとつの安堵感を覚えたのではないでしょうか。

 

 因みにこの第5条は重要で、米韓相互防衛条約第三条を比較し合わせ、以下紹介致します。

 

日米安保条約5条(前段)

 

 各条約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方の対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 

米韓相互防衛条約第3条(一部略)

 

 各締約国は、(中略)いずれかの締約国に対する太平洋地域における武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の手続きに従って共通の危機に対処するように行動をすることを宣言する。

 

 (注)上記条文は2017年2月23日、日経新聞・経済教室の添谷芳秀慶応大教授からの引用

 

 そうした現状、日本の置かれた状況は私も理解するのですが、何か釈然としないものが残るのです。果たして我が国は主権を持った独立国家なのだろうか。改めて国とは何か。我が国の憲法とは何か。さらには国会討議に意義が見られない現状。加えてマスメディア並びに民進党他が声高に叫ぶ民主主義とは何か。そうしたことを根本的に再検討すべきではないのか。

 

 そうした想いが錯綜しております。今から3年前になりますが、弊著「書棚から顧みる昭和」の中で「戦後の民主主義と正義」を取り上げました。そこで長谷川三千子氏の「正義の喪失」をご紹介致しました。私が尊敬する学者ですが、今回も同氏の「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」を読み通したところです。折口信夫橋川文三太宰治三島由紀夫等々による敗戦精神状況を語るひとつの日本人の精神史です。方や、昨年7月に佐伯啓思氏「日本の愛国心」を本ブログで紹介致しておりますが、同氏の「反・民主主義論」他も読み進めてみました。今回はその「反・民主主義論」を中心に私の日頃の感想などを交え、紹介したいと思っています。

 

佐伯啓思著「反・民主主義論」他

 

はじめに

 

 佐伯啓思氏は本書に先立ち「反・幸福論」、「正義の偽装」、「さらば、資本主義」、「20世紀とは何だったのか」、「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」等々も著わしております。幅広い研鑽のもと、透徹した洞察力と共に平易な文章で物事の本質を鋭く説く、いわば思想家です。改めて私自身の曖昧な観点、至らなさを痛感させられました。

 

 本書のまえがきで、2015年から16年にかけて、起きた世界的現象とも言うべき「民主主義」の意味合いを問いかける事象が起きた。トランプ現象も然り。日本でも2015年が戦後70年ということであったが、戦後憲法戦後民主主義も戦後平和主義も定着とは言えず、むしろその欺瞞が露呈してきた。「国家」「民主主義」「平和」「国防」といった政治学の、そして「国」のもっとも根幹に関わる概念について、われわれはまともに思索を張り巡らせたことがあったのか。そこで本書で「民主主義」や「憲法」を論じ、唯一の正解はないが、わたしなりの見解を示してみたい。さもなければ、いつまでたってもわれわれは護憲・改憲の党派的対立から抜け出せず、また、民主主義の名のもとに、われわれの政治はとどまるところをしらず混迷に陥っていくだろう、と述べています。印象に残る「まえがき」です。

 

 本書は第一章・日本を滅ぼす「異形の民主主義」 第二章・「実体なき」空気の支配される日本 第三章・「戦後70年・安倍談話」の真意と「戦後レジーム」 第四章・摩訶不思議な日本国憲法 第五章・「民主主義」の誕生と歴史を知る 第六章・グローバル文明が生み出す野蛮な無差別テロ 第七章・少数賢者の「民本主義」と愚民の「デモクラシー」 第八章・民主主義政治「文学」 第九章・エマニュエル・トッドは何を炙り出したのか 第十章・トランプ現象は民主主義そのもの そして、あとがき から構成されています。今回もその全体を紹介するのではなく、私が深く共感したところ、改めて認識させられたこと、を切り取り、記して参ります。

 

戦後日本の陥穽

 

 第一章・日本を滅ぼす「異形の民主主義」で、全てが日本国憲法という印章の前で思考停止になる。戦前では、「国体」や「天皇」を持ち出せば、そこで思考停止になった。戦後はそれが「憲法」に変わっただけで、「憲法」という言葉の前で直立不動になってしまう人がいる。「憲法に反する」と言えば、脳内細胞がフリーズしてしまう、と述べます。戦後憲法は厳密に解釈すれば、日本は自衛権も持てないと言うことになりかねない。そこで事実上、日本の防衛を担ったのは米軍であった。日本の戦後の平和はただ憲法9条によって可能だったのではなく、それ以上の米軍による抑止力にあった。これは憲法についての大きな欺瞞で、平和主義を唱えつつも、実際にはその背後にアメリカの軍事力を配置したのである。

 

 1. 「国を守る」とは何か。

 

 戦後を代表する護憲派の政治学者の丸山眞男は、日本があの誤った戦争に突入したのは、日本が天皇制にもとづく前近代的で非民主的な国家であったからだと、いいました。日本は、ホッブスから始まる西洋近代国家の契約的な論理を体現していなかった、というのです。そこに日本の誤りがあった。だから。戦後日本は、西洋近代国家の民主政治を徹底して導入しなければならない、というのです。(23頁)

 

 非武装の平和主義こそ理想だと見なし、その平和主義と民主主義こそ戦後日本の最も誇るべき価値だといった。しかし、西洋近代国家の論理のどこをどうたたいても、どうひっぱたいても、民主主義と平和主義を等価値にするような論理は出てこないのです。むしろ民主主義と国民皆兵が親和的なのです。(25頁)

 

 そして、佐伯啓思氏は「従属国家論」の中で、近代国家は主権によって動かされます。そして、主権者の役割は何よりもまず国民の生命・財産を守ることとされる。とすれば、もし主権者が君主なら、君主は彼の国民の生命・財産を守らなければなりません。そして主権者が国民ならば、国民は自らの手によって彼ら自身の生命・財産を守らなければならない。これが道理というものでしょう。(従属国家論132頁)、と指摘しています。国を守るという視点・施策を提言しない日本の現野党、さらには知識人と称される一部の方々の深刻ぶった正義論に、私は少なからずの憤りを感じているのです。

 

 2.戦後70年とは何か

 

 何よりもまず「アメリカへの自発的な従属」であった。戦後はあの戦争の敗戦から始まった。敗戦により日本はアメリカに占領され、そのもとで非軍事と民主化が行われ、平和憲法もこの占領期に作られた。戦後日本の現実から出発すれば、日本の防衛はアメリカに委ねるほかなかった。

 

 その枠組みの中で、もっと日本が防衛に主体的に関わろうとすれば、安倍首相の「積極的平和主義」のように日米関係をいっそう強化することになる。すると、それは日本のアメリカへの従属をいっそう強め、自主防衛からますます離れるのです。これは大きなデイレンマで、ここに解決策を提示できるものではありません。しかし、ここに「戦後」の大きな問題があることを知っておく必要はあります。「国を守る」ということの原則はどこにあるのか、ということはやはり知らなければならないのです。(33頁)と記しています。

 

 3.「戦後」は、いつから始まったのか。

 

 同氏著「従属国家論」において、次のように記しています。

 

 1945年8月15日は、1963年、池田内閣の時の「全国戦没者追悼式実施要項」により終戦の日となり、いわゆる終戦記念日の正式名称である「戦没者を追悼し平和を記念する日」が正式に決定されたのは、1982年、鈴木善幸内閣においてであった。1945年8月15日は敗戦の日である。その年の9月2日、横須賀沖で、アメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏調印。1952年4月28日に、全面講和ではないが、アメリカを中心とする西洋諸国との間でのサンフランシスコ講和条約により、戦争終結国際法的な意味で戦後が始まっている。1945年8月15日から1952年4月28日までは、日本はGHQ(実質はアメリカ)の占領下にあったわけです。加えて、講話条約締結と同時に日米安全保障条約が締結されたのです。尚、その占領期間の1948年5月に日本国憲法が制定されました。

 

 では、何故に8月15日は「終戦」記念日なのか。そこにはひとつの欺瞞が込められており、その日はポツダム宣言を受諾して「敗戦」を認めた日なのです。

 

 「アメリカから見れば、日本は敗戦国以外の何ものでもない。ポツダム宣言を受諾させ、戦争を終わらせたのはあくまでアメリカなのです。(中略)ところが、日本の国内では、天皇が『耐え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平をひらかんと欲す』として、自らの決断によってポツダム宣言を受け入れた、ということになる。」(同書84頁)

 

 4.終戦という言葉が意味するものは。

 

 おそらく、大半の日本人は8月15日の時点では、日本人は軍事力でアメリカに負けた、と思っていたのではないでしょうか。一方、終戦の詔勅が出され、多くの者は、戦争が終わってホッとした。さらには、あの無意味で残酷な戦争が終わり喜んだ、ともいわれる。そしてその軍事力の敗北が、いつのまにか「道義的な敗北」へと変わっていきます。日本は世界を相手に侵略戦争という誤った戦争をした。さらには、誤った戦争をしたからこそ、この戦争に敗れたのだ、という了解が出てくる。そしてそれを引き起こしたものは、戦前の日本の独特の社会構造や価値観にあった、ということになる。そして「敗戦」が当然のこととなり、道徳的な愚行にでたから負けた、むしろ「敗戦」により日本は救われたのであり、「敗戦を噛みしめる」どころか、ジョンダワーの「敗戦を抱きしめて」にかわっていく。すなわち普通の意味での「軍事的敗戦」が「道徳的敗戦」に変わっていく。それこそ、アメリカの占領政策の目的だった、と記しています。

 

アメリカの占領政策の元になっている戦争観・歴史観

 

「反・民主主義論」の第三章で、以下のように論を展開します。

 

 アメリカの戦争観・歴史観は、ある意味で一貫しているのです。それは、一方でアメリカが自由、民主主義、人権などを奉じる「理念の共和国」である、という事情によるものであり、もう一方では、アメリカ国民の精神の底流をなしているユダヤキリスト教の影響が強いからでしょう。

 一方で、多様な人種や異なる背景を持ったアメリカ国民をまとめるものは、自由や民主主義という「普遍的価値」しかない。だからこれは「正義」だという。そして他方で、アメリカ国民の精神の核になるものといえば、ユダヤキリスト教的なユートピア思想であり、終末論なのです。「ユニバーサリズム」と「メシア二ズム」です。それがアメリカを支えている、といってよいでしょう。アメリカ的歴史観はそこからでているのです。(中略)ポツダム宣言も基本的にはそのような立場で書かれていた。だから、あの戦争はアメリカにとっては道徳的な意義を帯びたものであり、正義の戦争であった。東京裁判で示されたように、それは「文明を守る戦い」とみなされた。日本は、この文明を蹂躙し、「平和に対する罪」を犯した。戦争指導者は、ただ戦争の責任を問われるのではなく、犯罪人なのです。この戦争は、ただ国際法違反というだけでなく、道徳的にも批判されるべき犯罪だ、というのです。

 

 そして、日本は、7年近くに及ぶ占領政策のもとで、この考えをすっかり受け入れた。重大な戦争犯罪人巣鴨プリズンに収監されましたが、占領政策とは日本全体を矯正施設に収監したようなものです。(68、69頁)

 

戦後70年・814日の安倍談話

 

 戦後レジームからの脱却を目指していた安倍首相ですが、昨年8月の「戦後70年談話」は果たしてどんなものであったでしょうか。佐伯氏はその談話の趣旨を以下のように記します。

 

 19世紀は西洋列強によるアジアやアフリカに対する植民地支配の時代であった。日本は近代化の推進によって、この植民地主義に抵抗し、独立を保持した。しかし、第一次大戦の悲惨を経験した後、西洋は、戦争の違法化と国際協調の方向へ向かった。特にアメリカのウイルソン大統領の理想主義は、世界の民主化民族自決を訴え、世界の潮流は「平和」志向へと変わっていった。ところが日本はこの変化を読み取ることができず、新しい「国際秩序」への挑戦者となった。そして日本は敗戦した。戦後はその反省に立ち、国際社会に復帰し、平和主義のもとで誠実に国際秩序の形成に貢献してきた。(60頁)

 

 これはまぎれもなくひとつの歴史観です。安倍首相が言い出したわけでもなく、戦後日本の「公式的な歴史観」であり、歴史(ヒストリー)がどこまでいっても物語(ストーリー)だとすれば、これは戦後日本の「パブリック・ヒストリー」であり、「パブリック・ストーリー」なのです。この歴史観に含まれている重要な含意は、国際社会は平和的秩序を目指している。かっての日本は、国際社会において孤立し、それが悲惨な結果を招いた。(中略)わが国の生存は、この平和を実現しようとしている国際社会を信頼し、そこにおいて貢献することである。安倍首相の唱える「積極的平和主義」もそこからでているのです。(61頁)

 

 これは左翼的な一国平和主義とは一線を画することは事実ですが、安倍首相が脱却を訴えていたはずの「戦後レジーム」そのものなのです。それを生み出したものは、上に述べたようにアメリカの占領政策であった。佐伯氏の主張したいことは安倍首相の談話は、よく練られた談話であることは評価しているのです。しかし、日本は20世紀に入って道を間違え、錯誤の道を突き進んだとする、「そのような面があることは否定しませんし、今日、われわれは、偉大な明治と道を誤った昭和、という司馬史観ともいわれる歴史観をしばしば開陳します。しかし私には、もっとも基本的な歴史の道筋は少し異なって見える。もしも昭和の対米英戦争が間違っていたというなら、それは明治維新に始まった。いや長州の攘夷に始まった。さらにいえば林房雄が述べたように、1852年の異国船打払令から始まった、といっておきたいというのです。」(74頁)そして、第3章を次のように閉じています。

 

 70年も立てば、「戦後レジーム」からの脱却を唱えていた安倍首相の談話によって、本当に「戦後レジーム」が完成してしまったのです。別に安倍首相を難じようというのではありません。それこそが「戦後日本」だったのです。日本人の思考様式が「アメリカの歴史観」のなかに溺れつくす。ということです。

 

 それに多少でも抗いするものがあるとすれば、それは70年前、日本には日本の道義があり、それが不完全で独善的であったとしても、その道義のために悲惨な戦いを経験し、語るのも無残な死へと追いやられた無数の死者たちの思いを引き受けるという以外にはないでしょう。(76,77頁)

 

 皆さん、如何思われるでしょうか。私のアメリカの駐在時代でしたが、1979年に吉田満著「鎮魂戦艦大和」(戦艦大和ノ最期)に偶々、出会いました。大きな衝撃と感動を受け、そして氏の著書を次々と読み続けました。その中のものですが、「戦中派の死生観」、「散華の世代から」を今回、改めて読み直すつもりです。

 

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日本国憲法とは

 

 第4章で、2015年9月19日未明に安全保障関連法が参議院で可決成立したことに関連して、著者は以下のように記しています。概略しますと、

 

 国会内外で近年では珍しい激しい対立が起きた。賛成派はその法案は「国を守る」ためには不可欠だといい、反対派は憲法を守れ、9条を守れ、の大合唱。いわば「国を守れ」と「憲法を守れ」との激突です。しかし、国がなければ憲法はなく、また憲法は国のありようを規定したものですから、そもそも、このふたつが対立するはずのないものです。摩訶不思議な現象といえるのではないか。いずれにもせよ、憲法学者が、集団的自衛権憲法違反である、と主張したことが反対運動を盛り上げた決定的な要因であった。実際には、護憲派とは、憲法そのものを守れといっているのではなく(もし、そういったなら、96条に基づく改正も「護憲」のなかに入ってしまうのですから)、憲法改正に反対する政治的運動にほかならない。民主主義であれ、平和主義であれ、自らの信条を政治的に実現するために憲法を持ち出しているのである。

 

 加えて、護憲派憲法学者は、憲法という神聖にして侵すべからざる最高法規を持ち出してきて、「これは必ず守らなければならない」ということで、ある政治的価値を選択している。「法」が「政治」に対して優位に立つ、といいながら、そのことを政治的に実現しようとしている。憲法の幹になる、幹か枝葉の妥当性は別にして、日本国憲法の場合、幹になるものは、国民主権、平和主義、基本的人権保障の三原則であって、その三原則は変えてはならない。したがって、9条平和主義は改正不可能だ、ということ。そして結局のところは、「憲法憲法であるがゆえに守れ」といっているのではなく、憲法を成立させた価値を守れ。憲法とは、近代社会を主導した「人間の人格的尊重」という政治価値を実現するものである、ということなのです。 即ち、彼ら護憲派学者はある特定な価値を選択しているのであり、それは近代の政治的価値を絶対的なものとして選択し、擁護しているのであって、一つの政治的立場へ深くコミットしているのです。

 

 その上で、佐伯氏はこの第4章の最後に,以下のような考えさせられる文章で閉じます。

 

 西洋にあっては、憲法の制定そのものが政治的行為であり、王権を打破し、市民政府を作るという政治的行為に正当性を与えるものだった。そして王権(世俗的・政治的権力)よりも基本的人権をより上位におくために、「自然権」や「神」や「古来の国制」といった権威を持ち出してきた。それが日本にはありません。ただただ、基本的人権の普遍性といっても、それを根拠付けるイデオロギーとしての「神」も「思想」もない。そうだとすれば、日本ではそれは衰弱した政治的スローガンにしかならないでしょう。日本は、日本の歴史や文化に即した独自の憲法を構想するほかないのです。(98頁)

 

民主主義とは

 

 1.民主主義の意味

 

 第5章以下で民主主義とは何を意味するのかを展開していきます。まず、デモクラシーという言葉はあくまで「民主政」という意味で使うべきで、それに特に良いも悪いもない。長所もあれば欠陥もある。議会主義の民主政は現にわれわれが採用しているルールであって、それだけのこと。にもかかわらず、それを「民主主義」と呼び変えて、そこに崇高な理想を持ち込み、ある種の情緒的な神聖化を行うと、たいへんにやっかいなことになる。

 

 民主主義という概念の心臓部にはある範囲のものを等しきものとする「平等」という理念があり、と同時にその範囲外のものは排除する。そして現実の今日の民主主義の同質性原理は国民的な同質性で、あくまでひとつの国の政治的意思決定以外の何ものでもない。ここでは国民的な同質性が「人としての同質性」より上位におかれる。即ち民主主義とは、実はこうした他者排除と自国民の同質性の優越に基づくもので、自国中心主義を前提としているのである。

 たとえば日本国憲法の三原則である基本的人権保障、民主主義(国民主権)、平和主義は三位一体である、といわれる。しかし、現実に、同一の国民にしか政治参加は認めらない。普遍的人権の絶対性などといいながら、実は国民原理に基づいた差異化が公然と行われている。

 

2.自由な討論・議論

 

 しばしば民主主義は自由な討論や議論から成り立つといわれるが、全ての利害関係者が一堂に会することは物理的にも不可能で、議会が構成される。自由な議論は民主主義というよりも、まずもって議会主義の原理なのです。そして議会でさえも十分な討議ができないときに、自由な討議に基づく民主主義などあり得ません。その議会が機能しないということは、見識ある政治家を人々が選出できなくなっている、ということなのです。あるいは社会の側にまともな政治家を育てる意思がないということです。

 

 3.ポピュリズムと知識人

 

 かってのギリシャ人にとって、デモクラシーは、一方で、極めて不安定な政治体制でした。それは大衆迎合デマゴーグを生み出す「劇場型政治」でした。政治を動かすものは大衆の情緒や気分や情念であり、政治家は人気をうるために大衆の情緒を動かそうとした。今日のポピュリズムにほかならず、それは決して民主主義の逸脱形態などではなく、むしろ民主主義の本質なのです。今日のアメリカのトランプ現象然りです。

 

 そうした現状にあって、佐伯氏は知識人の反政治的なエートスを次のように指摘します。

 

 即ち、たいていの知識人は、反政治的であることを誇りにしている。政治などに関与したくない、という。それは政治とは権力の行使であり、少数者を抑圧するものだ。知識人とは、少数派の側に立つべき存在で、そこに知識人の良心がある、との観点です。

 

 こういう傾向は、戦後日本のいわゆる進歩派的知識人には圧倒的に強かった。いやそれこそが戦後日本の進歩派やリベラル派の一大特徴であり、それが日本の「戦後民主主義者」だったのです。そして、これほど奇妙な反政治主義はめったにないでしょう。反政治を掲げた政治。それが戦後日本の政治のど真ん中にいすわったのです。

 戦後日本の政治とは何といっても民主主義だったからであり、民主政治とは、決着のつかない、もしくは正解のみえない課題に対して、いかに自らの正当性を訴えて数を確保するかという競争にほかならからです。

 もちろん、政府の意思決定に反対する知識人がいることはまったく問題ないどころか、当たり前のことです。それが自らの言論を押しだすことも当然です。しかし、ここでいう進歩派知識人のもつある種のスタンス、あるいはプリコンセプション(思い込み)は、そういうものではありません。民主主義を反権力的なものとして持ち上げ、言論を政府と対立させるという傾向は、政治という観点からして不健全であるだけでなく、知識人として不健康なのです。(167頁)

 

 如何でしょうか。日本ばかりではないでしょうが、大衆は実体なき空気に大きく影響・支配されるのが現実で、そうした知識人に大きく影響されるのです。私は昨今のマスメディアに登場する、そうした識者と称する方々を見ていても佐伯氏の指摘に共感を覚えるのです。

 

おわりにあたり

 

 そして、佐伯氏は以下のように述べ本書を閉じています。

 

 自由を絶対化したとたん、それを限定する規範や道徳律はただただ自由に対する無用な制約としか見なされません。平等を絶対化すれば、平等を限定する差異や多様性の承認は忘れ去れ、権威は平等に対する障害とみなされるでしょう。権利はその背後にある義務の観念を忘却しようとするでしょう。己に対する制約を失った自由や平等の権利の観念から成り立つ民主主義が機能不全に陥るのは当然でしょう。誰もが自己の権利を主張し、それに対する障害にぶつかれば、それを批判、攻撃する自由を持ち、平等の名のもとに他人の足をひっぱることに喜びを覚えるような社会は、民主主義であれ何であれうまくゆくはずはありません。しかし、今日の自由・民主主義はまさにこの種のものになり下がりつつあります。

 

 われわれはそろそろ自由や民主主義の就縛から解き放たれなければどうにもならないでしょう。いや、自由や民主主義そのものが悪いとか無意味だといっているのではなく、それを絶対的な正義とみなすという自己就縛からさめるべきだ、といっているのです。(195,196頁)

 

 2017311日

                           淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思「反・民主主義論」(新潮新書)

 同   「さらば、資本主義」(同上)

 同   「反・幸福論」(同上)

 同   「正義の偽装」(同上)

 同   「従属国家論 日米戦後史の欺瞞」(PHP新書

 同   「20世紀とは何だったのか西欧近代の帰結」(同上)

 長谷川三千子「神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日正午」(中公文庫)

 福沢諭吉文明論之概略」(岩波文庫)

 海外事情2月(拓殖大学海外事情研究所)

 選択1、2月

 日本経済新聞 2017年2月23日経済教室

 他