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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

塚本哲也著「我が家の昭和平成史を」を読み終わって

はじめに

 

 本書は毎日新聞のウイーン特派員、プラハ支局長、ボン支局長、論説委員等を経へた後、防衛大教授さらには東洋英和女学院大学学長をも勤められた塚本哲也氏による、家族の平成昭和の記録です。一巻、二巻からなる長編記録ですが氏の文章力のなせる技でしょう、一気に読まれなくとも鮮明にその記憶が残り、日をおいて読み始めても何らの支障はありません。心が洗われる著作です。読み終わったのが8月15日であることも私の記憶に深く刻まれた本となりました。

 

 義父である国立ガンセンター長の塚本憲甫と年子夫人、並びに哲也氏の妻でウイーン派ピアニストのルリ子夫人の四重奏の生活記録ですが、その背景には冷戦下の東欧諸国、並びに激動の昭和・平成を語る、いわば歴史書でもあります。

 

  尚、本書を読み進めるなかで、時の権力・政権を掣肘する、あるいはもの申すと、独りよがりの正義を振り回す知識人、ジャーナリストと称する人達との比較が私は自然とわき、ジャーナリストはかくあるべしとの感を深くします。また、本書に一貫として流れている塚本家の心の優しさ、それを支える宗教心(キリスト教)を強く感じます。本書を読んでいて、私は、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」に描かれている場面が彷彿されました。それは主人公コペル君(潤一君)へのお母さんの次の言葉です。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取り返しがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんが立派なことは・・、そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(本書248頁)

 

 塚本哲也氏は世界大恐慌の1929年生まれ、その70年後の1999年に脳出血を煩い、続いて2005年には最愛の妻ルリ子氏が逝去された後も、体の右側が不自由のため、左手のみでパソコンを操り、「メッテルニヒ・・危機と混迷を乗り切った保守政治家」他の大著二冊に続き、2016年5月に本書を刊行します。

尚、ルリ子氏の告別式は四谷の聖イグナチオ教会で行われました。その教会で哲也氏夫妻の結婚式も行われております。私ごとですがその聖イグナチオ教会は小中学校の時代に少なからずの縁があり、私の脳裏に鮮やかない記憶を残している教会でもあります。その告別式における「思い出は生きる力なり」とのデーケン神父の告別の辞に並び、その後の松本主任司祭の「立ち上がれなくともいいではないですか。悲しめるだけ悲しんでやって・・」との言葉に強く後押しをされた、と記されています。

 

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我が家の昭和平成史

 

 上にも述べたように本書は塚本哲也氏家族の生活記録ですが、同時に戦中戦後のヨーロッパ及び日本にも関わる長編記録でもあります。一巻、二巻のA五版の二段書きで1048頁に亘る大作です。その副題には「がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏」と記されております。春、夏、秋、冬という中で、第一章・ルリ子との出会い、から始まり第二十六章・晩年の孤独、という構成で、記録されていきます。

また今回も本書の概略を記すものではありません。ご批判もありますが私が感銘を受けた、あるいは心に刻み込まれた点をいくつか紹介してみたいと思っております。

 

その1 第一巻・・春、夏、秋

 

 一巻の「はじめ」で塚本哲也氏は、東京の片隅に住む市民一家の昭和史と謙遜されておりますが、氏の出会った方々は夫妻の親戚、友人、先輩は、そろいもそろって超一流の方、昭和の歴史に記録される錚錚たる方々です。たとえば岸信介丸山真男、中村隆英、江戸英雄、ヘルマン・ホイヴェル神父、若き時代の小澤征爾粕谷一希大賀典雄の方々であり、私は著作物で、あるいは新聞等で知るのみでお会いしたことは全くありません。氏を防衛大教授に依頼された名著「摩擦と革命」を著わした佐瀬昌盛氏は直接お会いした、ただ一人の方でした。私は佐瀬昌盛氏の講義を聞きたく、60数歳の時期に拓殖大の今は大学院になっておりますが当時の国際塾に通った次第です。塚本氏は確かに一市民であるとしても、私とは大きく異なる次元の高い方々の中で生活をされていたわけです。

 

 第一章の「ルリ子との出会い」から始まりますが、塚本氏は30歳過ぎの新聞記者の時代に東西冷戦の最中のヨーロッパ、ウイーンへの留学を目指します。日本は安保騒動で揺れている時代でした。そしてウイーン帰りのピアニストのルリ子氏と警察回、首相番(当時は岸信介首相)の塚本氏とひょんな出会いから知り合い、木村姓から日本の放射線医学先駆者で、後の国立ガンセンター長の義父塚本憲甫家の塚本姓になります。そして留学生試験に合格し、夫妻でウイーンに旅立ちます。アメリカによる占領を少なからず評価しながらもヨーロッパに行かれたことが、その後の氏の視点・観点に大きな影響を与えたのでしょう。東欧の社会主義国家の現実を体験し、外から日本を見られたことが、現実から遊離した、いわば観念的な日本の左派知識人、ジャーナリスとの大きな差であろう、と私は考えます。

 

 1969年の東大の安田講堂全共闘の学生に占拠され、機動隊八千五百人が出

動、封鎖を解除した、いわゆる安田講堂事件をプラハからボンに帰ってきた時です。東京から送って来る日本の新聞を見て、氏は次のような感想を記しています。

 

 これだけ多くの機動隊が出動したのは、それだけ学生の数が多かったのだろう。日本も落ち着いていないことを知った。しかし医学部から端を発したにしても、ベトナム反戦運動全共闘支援団体も加わっていたようで、安田講堂を占拠する必要がどこにあるのか、とそのとき、疑問に思った。チエコ事件と比べてみると、規模も小さく、性格も違っていた。外国である大国ソ連による小国チエコの主権蹂躙という世界的なチエコ事件に対し、日本人同士の大学のことであった。新聞には機動隊の指揮官の一人として、同学の知人佐々淳行の名前があった。大変だなと思った。(246頁)

 

 鉄のカーテンの中の国々でハンガリー動乱ポーランドの連帯、チエコ事件、さらには東ドイツ等におけるソ連共産主義社会主義の圧制下の状況を記録していきます。そして事実を知ることの難しさを述べています。

加えて、ヨーロッパ諸国からは東西ドイツの統一を望まれない中で、西ドイツの生き方と評価、さらには西ドイツのブラント首相の東方外交にも言及しています。極めて貴重な記述です。

 

 今回はそれとは別の視点になりますが、ここでは私は深い感動を覚えた第十章「父母の旅立ち」への想等を以下、記していきます。

 

 典型的な外柔内剛の塚本憲甫はがんに冒され、自らの死期が近いことを知ります。そして銀座教会の鵜飼勇牧師に洗礼を頼みます。洗礼式が終わった時、娘のカトリック信者であるルリ子氏に聖書の中のマタイ伝第五章「山上の垂訓」を読んでくれるよう頼みます。

 

 「幸いなるかな、心の貧しきもの、天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん。幸いなるかな、柔和なるもの、その人は地を嗣がん。幸いなるかな、心の清きもの、そのものは神を見ん・・」を読み進めますが 更に「光を高く掲げよと」の続きを静かな声で読むよう頼みます。そして病弱な母「お袋さんを頼むよ」との言葉を娘ルリ子氏に残し、亡くなっていきます。

 

 塚本健甫の葬儀の一週間後、年子夫人の葬儀が銀座教会で行われます。二人の遺骨が花に囲まれ仲良く並んでおりました。今、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルで、「暮らしの手帖」の編集長大橋鎭子編集長が参列し、同誌のコラムに素晴らしい文章でその情景を綴っております。

 

 尚、上記の「心の貧しき人」の意味合いを、曾野綾子氏が書かれた文章を本書で紹介しておりますので、ご参考までに以下記します。

 

 心の貧しいという表現は、日本語ではあまりいいことではなく、心が貧しいようではだめだと言われるくらいですから。しかし、これは翻訳がまずいというより、こう言うよりしょうがないのです。

 心の貧しい人というのは、「自分の貧しさを知る」という態度のことで、旧訳聖書では「アナウイム」というヘブライ語で知られている姿勢を反映したものです。「アナウイム」は「しいたげられているもの者」「苦しむ者」「柔和な者」「へりくだる者」「弱い者」など、さまざまに訳されているそうですが、つまり何も持っていない人のことです。才能も、教育もなく、親や親戚の引きも社会の保護もなく、健康でもないといった、何もない人、そういう人だけが幸いである。なぜならば、その人だけが本当に神に祈り、神に自分の運命をゆだねようという謙虚な気持ちになるからだというわけです。逆に言えば、私たちは不遜だということになるのです。(二巻、268頁)

 

その2 第二巻・・冬 一、 二

 

 その1に記した塚本憲甫は日本の放射線医学の一線に立っているのみならず、国連科学委員会主席代表でもあり、多くの国際会議に立ち会っていました。そうした体験から「国連総会や安保理事会は、もっと露骨なすさまじい大国同士のぶつかり合いであった。秘策を尽くし、舌鋒を鋭くしての激しい外交戦の場であった。憲甫は次第に愛国者になっていった。国際会議の場数を重ねるにつれて、『自分の国を思う心のない人は、真の愛国者に慣れない』と思うようになっていった。自らの国の立場、国益に立って国際的に協議を進めることが、真の国際主義だと確信するようになっていった。憲甫は愛国心という言葉をよく使うようになっていた。」(51,52頁)、と哲也氏は記しています。

 

 第二十一章「うたかたの恋の娘」はハプスブルク帝国の末裔であるエリザベートの生涯です。その生涯は「私たちが日本で経験した戦争、敗戦の時、ヨーロッパはどうであったかを知る上で、非常に参考になるもので、書きながら常に日本と比較し、同じ敗戦国として考えさせるものが多かった。当時、日本とヨーロッパは表裏であった。二十世紀がよく分かるのである。」(129頁)と記しております。

 

 印象深い次のことを記しております。

 

 ヨーロッパではロシアは後進国であり、日本にとってはあまりよく知らない、遠いヨーロッパの大国のひとつ以上のなにものでもなかった。知っているのはトルストイ、ドフトエスキーなどの作家の名前であった。ヨーロッパは理論と現実を、日本は理論だけをロシア革命から受け取った。これは大きな差であった。・・(中略)日本では、社会主義は関心や研究の段階でも、異端視、犯罪視されるようになった。その抑圧が、第二次大戦の敗戦後日本で、反動として知識階級に社会主義思想の信奉者を多くした理由ではないかと、私はヨーロッパで思っていた。

 日本におけるソ連についての情報は一方的で、思い過ごしや幻想が多く、それが情報の見通しを誤る原因となった。戦後あれだけ大きかった日本社会党が消えてしまった原因も、社会主義への幻想にあるだろう。一般庶民はそのような情報から遠く、思い過ごしや幻想の多い知識人よりもずっと健全であった。(135,136頁)

 

 更に、次のように続けます。ヒトラーポーランド攻撃から第二次世界大戦が始まるわけですが、当時のヨーロッパの英仏独伊の大国の身勝手さ、横暴ぶりをできるだけ忠実に記述しておきたいと考え、次のように述べていきます。

 

 彼ら大国首脳の言動を鑑みると、その冷酷非情さに驚く。多くの歴史書は小国の悲哀などほとんど書かないので、あえて噛みしめてみる必要があろうと思う。

 私はこの大国のエゴイズム、自己防衛の実態を検証し、正直のところ、そら恐ろしさを感じている。ヒトラーを増長させて、第二次大戦の悲劇をもたらしたのは、こうした大国の自己本位の態度でもあったといえよう。小国の無力さ、泣き寝入りする以外にない、悔しさ。私はいつまでも考え込んだ。そして忘れない。

 アジアでも、日本は戦前も戦中も何をしたか、また敗戦後、政治軍事小国になった日本は何をすべきか、それが他人事ではなく、頭から離れないようになった。(162頁)

 

 東欧圏崩壊

 

 昭和天皇崩御の1989年は年が明けてからもチェコの「ビロード革命」と言われた市民革命から、ルーマニアハンガリーポーランドの革命というソ連圏からの実質的離脱、いわゆる東欧圏の崩壊が始まります。そしてベルリンの壁が砕かれ、東西ドイツの統一という冷戦の終結に繫がっていくわけです。本書にはその背景に共産圏のポーランド出身で、共産党の内情をよく知っていた、しかもその国民の9割を占めるカトリック信者の信頼を集めるバチカンヨハネ・パウロ二世が東方外交を切り開きポーランド共産党の土台から敗北させ、東欧共産圏が全面的崩壊へと導いた命がけの活動を記しています。私は改めて認識したところです。

 

 尚、60年安保騒動の時には首相官邸詰めの政治部記者として騒動のど真ん中で事態を経験した大学時代の友人は早くからこの東欧の崩壊を予測し警告していたとのこと。その友人は「日米安保とは何だろう」と考え込み「安保を理解するためにはヨーロッパのNATOを研究しなければならない」と結論し、実際にオーストリア・ウイーン大学に文部省留学生として留学し、ボン特派員を兼ねた。それまで、戦後の日本の青年の多くが抱いていた社会主義への漠然たる期待感は西独の経験で、一挙に醒めた。そして「ハンガリー動乱プラハの春ポーランド連帯の成立、東欧の反乱には、十二年周期説があるとは、多くの人が語っていた。しかし、共産党支配のテクニックを知っている者には、崩壊現象が起こることは不可能に思えたのが普通である」(248頁)、と記しています。続いて松本重治の塚本氏へのお褒め言葉を次のように加えています。

 

 情報源の培養こそ、ジャーナリストの基本条件である。ジャーナリストは、すぐれた情報を持つ人、はいってくる立場の人々との接触を心掛けなければならない。情報は空中を飛んでいるのではない。そして大切なことは情報よりも情報の解釈であり、その解釈を深めるのは、それぞれの人間の素養であり、経験である。

 予見性、先見性を発揮した人間は、それなりに尊重されなければならない。かってはジャーナリズムにもそうした雰囲気があったが、今日ではそれすらなくなりかけている。

 日本の新聞・雑誌には一部に依然として社会主義信仰、マルクス信仰があり、東欧、中国の事態で、突然社会主義に対する反体制支持に百八十度、転向して

恥じないものがある。自らの来歴を誠実に辿るべきであろう。

 T君―それは毎日新聞外報部に長く勤務し「ガンと戦った昭和史で講談社ノンフィクション賞をとり、いま防衛大学教授を務めている塚本哲也君である。(248、249頁)

 

 塚本氏は次のように述べています。

 

 暗い社会主義の実情を見て,私はこの目で民主主義、資本主義の優位と美点を知った。これは社会主義の現実を見なければ、分からないことだった。私は新聞記者で、現実を見なければ気がすまなかった。そういう意味でヨーロッパに行ってよかったと思っている。 

 日本では社会主義を理想化し、美化する知識人、社会党員が多かったが、これは日本特有の現象だ。フランスやイタリーにも左派はいたが、日本の左派はあまりにも非現実的だった。よくいえば、純粋で世間知らず、夢見がちの理想主義で、社会主義をあまりにも美化していた。ソ連・東欧圏の崩壊は、日本の知識人の幻想の崩壊であり、大きなショックだと思う。(306頁)

 

 皆さん如何でしょうか。その塚本氏が東西ドイツの統一、そしてイラク

クウエ―トに侵攻したニュースを聞いた時点で、これからは関係が複雑な中東が、中国とともに国際問題の焦点になりつづけると思ったのです。予見することは、将来の見通しが書けるということなのです。

 

 また、東洋英和女学院大学教授時代には次のように指摘しております。

 

 私はヨーロッパにいるとき、高齢化社会の現実を見た。若い人が少なくなる少子化、高齢者が多くなる高齢化社会では、核家族化し活気がなくなる反面、社会人の相互援助の精神が必要であった。ヨーロッパではまあうまくいっているように思われた。それはキリスト教が基盤にあるからであった。

 日本は高齢化社会に入っているにもかかわらず、物心両面準備が遅れていた。あまり急ピッチで高齢化が進むので間に合わないのと、戦争中の反動で、戦後は間違った個人主義、いうなればエゴイズムがはびこり、相互扶助の精神が社会に欠けて行ったためである。(328頁)

 

 晩年の孤独

 

 哲也氏はカトリック教徒であるルリ子氏にも喜ばれるなか、聖イグナチオ教会で1988年にカトリックの洗礼を受けます。私は、ふと、「戦艦大和ノ最後」等を著わした吉田満カトリック教徒から奥さんのプロテスタントに改宗したことを思い起こしました。

そして哲也氏の最愛の妻ルリ子氏が1999年、脳出血で倒れ、続いて同氏も脳出血で倒れ、右半身が不自由となります。尚、ルリ子氏はその病気の為、60年以上も弾いてきた自分の生命ともいうべきピアノが既に弾けなくなっています。そのお二人の厳しい、且つ愛情あふれる病院等でのリハビリ生活、そして集中治療室でのルリ子氏の最後の情景が語られていきます。涙なくして読み進めることはできませんでした。そのなかで、次のように心に残る二人の会話が綴られます。

 

 戦後、六十年になったんだね。あれからなあ。・・日本は豊かになったが、心は貧しくなった。我々は「衣食足って礼節を知る」と教わったけれど、実際はそうでなかったね」「その逆になってしまったわね」

 これは前からの二人の共通の思いであった。ただ、今になってみると、どうしてこんな歌や大正、昭和の話になったのか不思議である。老人の心の、不意の里帰りなのだろうか。(443頁)

 

おわりに

 

 中国は何十年に亘り、共産党政権による国策として反日教育をしてきております。韓国も同様に時の政権維持のためでしょうか、反日教育をこれも何十年に亘り行ってきました。従い、今日の情報化時代といえども両国の人々の日本、及び日本人への感情が好転することは極めて難しいと私は考えております。かっての日本の敗戦のような大きな変化でも起こらない限り、その解消・解決は世紀を超えても難しいのではないかと考えます。必要なことは我々が両国に対し一喜一憂しないことです。極めて難しい外交交渉ですが敵対することではなく、極めて冷静に対処していくことです。そしてアジア諸国、オセアニア諸国は当然のことですが、価値観を共有する世界の諸国との連携を更に進めることが今後の日本にもっとも重要であること。日本一国では日本の安全も、平和も維持できない、この世界状況を認識することです。残念ながら共産党独裁政権の中国は中華大国の復権をめざし、核心的利益と称しながら事を強引に進めているように思います。かっての日本が戦前、戦中に辿った道を歩んでいるように私には見えます。

 

 塚本氏はこの「晩年の孤独」の章の最後に次の文書を記しています。長くなりますがそれを紹介し、今回のいらぬ、あまり意味を持たない私の想いを閉じます。

 

 今、時代は大きく動いて、アジアでも中国が南沙諸島に軍事基地を造り、周辺の国々に不安を与えて、米国との関係が悪化している。中国のアジア進出は、日本をはじめベトナム、フィリピン、オーストラリアなど多くの国に大きな不安を与えている。中国は南沙諸島付近に空母二隻を配置するなどしているが、私はこれらの動向に大きな不安を感じている。佐々淳行氏がいう国家としての危機管理体制の整備が、今こそ必要だろう。

 

 また、フランスのオランド大統領はフランス国土での「新しい戦争が始ったのだ」と宣言し、フランスとロシアは手を組み、イスラム国に対決している。かって一寸先は闇であると、日本の政治家がいったが、それは今も変わりない。

 誰でもそうであるように、私も平和を望む平和主義者だが、平和は声高に叫び、望むだけで保てるわけではない。日本でも集団的自衛権をめぐる論議が盛んだが、パリや中東での多くの犠牲者を見れば、日本では内向きの論議が多すぎて、これでは急速に変わってゆく国際的な情勢、論議にはついていけないだろうと、懸念している。(中略)

 私は中国の漁船四百隻が日本の近海で赤珊瑚を獲りに来たときに、その数と速さ、獲っていった珊瑚の量がすごいと思い、不安になったが、この中に中国海軍の関係者がいても見つけようもないと推測したりした。平和を望み、唱えるのは誰でもそうであるが、平和を守るのもどこの国もやっていることだ。

 1960年の安保改定の反対した多数のデにモ隊は後にすぐ、高度成長に乗り換え、うやむやになったりしたように、集団的自衛権に反対した人々は、パリやロシア機の大量殺人事件をどう見ているのだろうか。私は内向きの集団的自衛権よりも、これらから時代の大きな変化の中で、日本はこれから何をなすべきか、前向きのことを考えていたが、「日本の敵、よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)に出会った。宮崎邦彦氏という外務省政策研究所所長で、中国は今、かっての日本の満州事変のような方向に進んでいるのではないかという問題を含め数々のテーマーを提起し、私はこれからの日本が進むべき方向についての多くの示唆を受けた。(504,505頁)

 

2016年8月26日

                          淸宮昌章

 

参考文献

 

 塚本哲也著「我が家の昭和平成史」(文芸春秋企画出版部)

 吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

 佐瀬昌盛著「摩擦と革命」(文芸春秋)

 千早こう一郎著「大和の最期、それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社)

 顔伯鈞著「暗黒・中国からの脱出」(安田峰俊編訳  文春新書)

 他