清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

日米安全保障条約と戦後政治外交

 

 原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【後編】

  

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第三章    保守政治家たちとその証言

 

 著者は情報開示と政治学について極めて重要な指摘を、下記のように記します。

 

 情報開示が進めば進むほど、政治学という学問も進歩していきます。政治家がどのように歴史を動かしていくか、そして政治がいかに歴史とかかわっているかといった問題、つまり政治家の意思決定とそれを取り巻く巨大な政治過程のダイナミックスに関する情報が政治学研究素材として活用されていけば、政治学がそれだけ発達するのは理の当然です。独裁国家に御用政治学はあっても。社会学が無きに等しいのは、民主主義と政治発展の不可分の関係を逆の方向から照射しているといえましょう。(73、74頁) そして、オーラル・ヒストリーに続いていきます。

 

 中村長芳と矢次一夫

             

 日本の政治が戦後の民主化が進むにつれて、少しずつ透明化されてきて、最高意思決定者の総理の「決定」過程に関する情報は、まだまだ不十分ではあるが一定レベルの情報開示のシステムが機能してきている、と記しています。その中で「宰相の舞台裏」として二人の人物、すなわち岸首相秘書官の中村長芳、及び岸信介の長年のフィクサーであった矢次一夫とのオーラル・ヒストリーを紹介していきます。

  戦後史70年のなかであれほどまでに大規模且つ継続的に政治と闘争が沸騰したことはあの「安保闘争」を措いてありません。あの「5.19採決」後の騒乱状態、ある意味では「革命前夜」の状況化にあって、秘書官中村長芳は政権側の最大の敵、院外大衆闘争の中心組織である総評の事務局長岩井章と、赤坂の料亭で夜な夜な会い、情報交換をしていたことです。著者は以下のように記しています。

 

  目の前の中村さんは、こうもいいます。例えば岩井は「自分は共産主義ではない。共産主義を制する第一人者は自分だ」という信念をもっていた。岩井と私は「この騒ぎは革命ではない」ということで一致していた。自衛隊を使うかどうかを考えていた頃だったしね」。

 これは極めて重要なポイントです。岩井が共産主義者であろうとなかろうと、内外の共産勢力から政治的な影響を受けていたこは間違いないでしょう。しかし問題は、この騒乱状況を「革命」と定義するかしないか、です。また、「革命」と定義しないまでも、岩井らが当時の状況を「革命」へともっていくのかどうか、これが政権の最大関心事であったのは、当然です。もし敵陣営が、とりわけ日本共産党とその周辺が本気で「革命」を志向するなら、国家権力を預かる政権側の対応は、まったく次元の異なるものになっていたでしょう。(87頁)

  方や、岸首相は、待ちに待った安保条約改定の「自然承認」をついに迎え,次期後継者の選考に入ります。いわゆる池田政権への移行です。そのとき大きな動きを示すのは岸信介の長年の黒幕でもあった矢吹一夫でした。著者は以下のように記していいます。

 

 それにしても、政治が「夜つくられる」ことは、矢次さんから聞くまでもなく、私も先刻承知しております。(中略)ただ、いまさらながら「夜つくられる」政治が政治のすべてではないことは、いうまでもありません。時代が進んで二一世紀に入った日本の政治も、岸政権の頃に比べれば、さすがに「白昼つくられる」政治、つまりと透明化した政治の部分が増えているのは事実です。とはいえ、政治のリアリティが依然として暗部をもち、その暗部が歴史をうごかしているという側面を、もし私たち看過するなら、私たちは事の本質の重大部分をみていないということになるでしょう。(98頁)

 

 警察官職務執行法日米安保の極東条項

 

 岸政権が「安保改定」に動き出したその頃は、社会党は未だ政党としての意思統一はされておりません。岸信介により懇請され外相になった藤山愛一郎の証言は下記の通りです。

 

  私がダレスに会いに行くまで、(社会党は)(条約)改正論でしたよ。僕は外務委員会でしっかりやってこいって、激励されたんです」「とくに私が(アメリカ)に発つ前に外務委員会で壮行の儀みたいなものを社会党がやってくれたことを覚えています。

 ところが社会党は藤山外相が帰国して日米交渉が始まる頃には、あの統一綱領にある「解消」で意見が集約し、安保条約の存在を認めた上での「改定」には反対するという、いわば左派寄りの見解でとりあえずまとまるのです。しかし社会党がこのように「安保改定」への意思統一をしたからといって、それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと、必ずしもそうではありません。それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと必ずしもそうではありません。「安保改定」の敵は、むしろ岸政権自身がつくってしまったのです。いわゆる警職法案問題が、それです。(107頁)

 

  すなわち安保改定の敵は岸政権自身が突如、国会に提出した「警察官職務執行法」の改正案であり、加えて自民党内の派閥間の凄まじい権力闘争でした。折も折、安保改定日米交渉の初日、新聞に政府のこの「もくろみ」が大々的に報じられ、「反安保」という外交問題よりも、「反警職法」という国民に身近な問題のほうが、社会党をはじめとする革新陣営としては岸政権を攻撃する材料としてはるかに「良質」なものになりました。

 加えて安保改定でも解消はされなかった「在日米軍は日本国の安全のためだけではなく、極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するという極東問題が浮上します。そして国会での藤山外相ほか政府答弁に乱れが生じ、国会は混乱を極めることとなります。この極東という文言は米軍の使用地域ではなく、目的地域なのですが。著者は次のようにのべています。

 

 「極東の範囲」自体、確かに長時間の国会審議に値するものであったとはいえません。岸さんはのちに「極東の範囲」を「愚論の範囲」と切り捨てました。一方、岸攻撃の先頭に立って、「安保改定」批判に執念を燃やした社会党飛鳥田一雄さんは、私の質問に答えて、この議論は「われわれ自身バカバカしいと思ったが、ポピュラリティというか大衆性はあった」と回想しています。「バカバカしい」議論であったが、「安保改定」に無関心な大衆を啓発するには格好のテーマーであった、と飛鳥田さんはいいたいのです。(117頁)

 

 バルカ ン政治家といわれた三木武夫

 

 第三章では保守政治家たちとの証言として藤山愛一郎、福田赳夫赤城宗徳他、更には外交官であった下田武三、東郷文彦他を取り上げていきます。そのなかで、岸信介が「世の中でいちばん嫌いな奴は三木だよ」と言わしめた三木武夫については極めて興味深く、以下紹介します。

 

 三木の岸信介の評として、岸は太平洋開戦のときの閣僚で、戦後に内閣を組織したことは他に誰もいなく、そのうち岸の権力主義的体質は地金がでるというものです。いわば岸信介の戦争責任を問題にしており、岸の戦前戦中の軍国主義を推進した岸の「権力主義的体質」に三木は警戒心を隠しません。

 とはいえ、三木自身も軍国体制に加担していたことは明らかで、一代議士として岸の間近にあって、岸と同じ方向を向いて仕事をしていたことも歴史の事実です。実際、岸商工相のもとで商工省委員を務め、その後、商工省は軍需省になりますが、三木が鈴木貫太郎内閣においては軍需参与官として活動し、本土決戦を目指した大日本政治会に入ったのです。

  方や、「議会の子」といわれる三木武夫ですが、近衛文麿を総裁とする体制翼賛会における選挙でも、鳩山一郎尾崎行雄ら体制批判の「非推薦候補」とは異なり、推薦を切望したものの、地元徳島における選挙区の事情から非推薦であったに過ぎないのです。そして最下位ながら三木は当選を果たしました。尚、三木は当時の官憲から「時局二順応」し「国策ヲ支持」をし「反政府的発言ナキ人物」と評されていたわけです。そして彼は辛うじて政治生命を繋ぎ、敗戦後は幾多の選挙を勝ち抜き、権力闘争の果て、ついに総理の座を射止めたわけです。

  ところで、岸が力を尽くした保守集結のプロセスに立ちはだかったのは、三木武夫松村謙三たちで、彼らは岸の進める保守一党体制の自由民主党の結成に真っ向から反対し、あらゆる方策を裏面で岸の行動に抵抗していくわけです。ことに安保改定の条項の中にある日本の事前協議における拒否権、極東の文言等々に、あらゆる方策で岸の進める安保改定に抵抗します。ただ、この三木の岸批判は、政策の次元で見る限り一定の合理性をもち、岸の政策形成に少なからぬ影響を与えたことはまちがいのないことです。しかし三木らの主張がいかに論理性を持っていたとしても、その主張を押し出す彼らの意図が権力闘争的様相を帯びていたことは自明でありました。著者はその状況を以下のように記しています。

 

 確かに三木武夫は、同じ政権与党ないにあって「野党まがい」の言動に終始していた感があります。もし日本があの時、西欧流の議会制民主主義の中にあったとすれば、三木は野党党首であってもおかしくありません。というのは「国権の最高機関」である国会でのあの自社対決すなわち体制対反体制の対決は、すくなくとも議会制民主主義の枠を超えるものでした。むしろ議会制における野党の役割は皮肉なことに与党内の反主流がこれを担っていたともいえるのです。(185頁) 

 その後自民党内の派閥領袖は、三木を含めて次々に首相になり、これを「擬似政権交代」と称したのは、いいえて妙である、と記しています。

 

 私が本稿の「はじめ」に言及した議会制民主主義については、著者は以下のように述べています。

 

 日本の国会が議会制民主主義の道を正しく踏んでいるかどうかとなると、必ずしも確たる答えは出てきません。法案の内容の本質は何なのか、そしてその法案が国家国民にとってどういう意味をもつのか、といった問題を論理を尽くして議論するというよりも、日本の場合は、法案を通すか通さざるかの二者択一の政争に終始する傾きをもっています。このことは、自民党社会党対決の「五五年体制」下では特に顕著でした。世界の「反共・親米・資本主義」陣営に与する自民党と、「反米・親中ソ・社会主義」陣営を支持する社会党との対立は、体制対反体制の性格をもっていました。それだけに、政治の要諦である「妥協」の論理は働かず、勢い法案の内容を議論するよりも、あの「二者択一」のために闘う、つまり国会運営のための行動戦術に矮小化されていくのです。(82頁)

 

 皆さん、いかが思われますか。今の自公政権と野党との国会の現状も依然として不毛の議論を重ねているだけで、ただ時間の経過を待つのみの国会討論ではないでしょうか。

 

 尚、本書の中には、中曽根康弘は触れられておりません。岸信介中選挙区制のなかで、派閥間闘争に苦闘したわけですが、服部龍二氏は著書「中曽根康弘」のなかで次のように興味深いことを記しております。それは中曽根の特徴的主張として、小選挙区制や派閥の衰退が政治家のスケールを小さくしただけでなく、国家の再建に不可欠な歴史や伝統に対する関心を低下させたこと。加えて中曽根時代には日本経済が全盛期を迎えていたとはいえ、体系的に世界政策を構築した日本の政治家は中曽根以外におらず、戦後外交の頂点と言っても過言ではない、と言わしめております。唐突の感で恐縮しますが、私は不祥事を頻繁に起こす現国会議員の質の問題には少なからぬ不安を感じており、そうしたこともひとつの要因かな、と服部龍二氏の指摘に共感を覚えた次第です。

 

第四章        社会主義者たちとその証言

 

 岡田春夫飛鳥田一雄 

 

 米ソ冷戦の国内版ともいうべき五五年体制の自民党社会党との妥協なき政治闘争、しかもそれが国家の命運にかかわる安全保障という問題の中にあって、安保七人衆といわれた岡田春夫飛鳥田一雄等の証言は極めて印象深いものです。

 

 岡田春夫によれば、共産党から送りこまれたフラクション(秘密分派)は社会党のみならず自民党、警視庁、更には自衛隊にも入り込み活動をしていたこと。

 方や、飛鳥田によれば議会民主主義は必要悪で、議会がそれなりに機能するためには大衆参加の直接民主主義もまた必要であること。したがって安保騒動のとき、デモ隊が国会に乱入するのを止めた共産党に怒るわけです。飛鳥田の態度には大衆を上から目線でみるある種のエリート意識は否定できないこと。しかし同時に「大衆の理解なしに政治は動かない」との強い信念もあったこと。だから大衆に分からせる方法をどうしたらよいか苦悩しながら、普通の論理ではなく、週刊誌の方式でやろう、となる。極東の範囲など「バカバカしい」ものだが、ポピュラリティがあり、大衆の頭に入っていった、と記しています。

  

  日中共同の敵 

 

 続いて、1959年3月、社会党第二次訪中団の浅沼稲次郎団長(社会党書記長)による、中国での「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」の挨拶です。著者は次のように記しています。

 

 社会党による「反安保改定」闘争において、その行方を左右する重大なエポックはいくつかありました。しかし、同党を震源とするこの「日中共同の敵」問題は、それがアメリカに衝撃を与え、自民党政権を大きく揺さぶり、そしてなによりもそれが折からの「反岸」・「反安保改定」を急進化させただけでなく、その後の社会党左傾化の基点になったという意味で、戦後史のなかで最も重い歴史的事件の一つではありました。(239頁)・・(中略)浅沼の「日中共同の敵」発言は、中国と社会党の「冷ややかな」関係を完全に変えてしまいました。中国にとっていまや社会党は、軍事同盟たる日米安保条約をともに廃棄にもっていく「盟友」になったのです。つまり日本社会党は「反安保改定」闘争において国際的孤立から脱するまたとない機会を与えられたというわけです。(241頁) 

  しかも重要なことは「日中共同の敵」発言は突然出てきたものではなく、それ相応の下地というか「助走段階」があります。それはかの「長崎国旗事件」であり、社会党平党員で元陸軍中野中学校出身の田崎末松ほかを活用するという、中国共産党政権の変わることのないしたたかさ、国益を求めてやまない中国外交のリアリズムを描いております。その田崎末松も、社会党も中国外交からその後は外されていくわけです。著者は以下のように記しています。 

 

 周恩来だけでなくて中国の外交は、何よりもまず徹底して現実主義です。彼らがよく唱える「原則」でさえ、現実を動かす一つの道具にすぎません。利用できるものは利用し、目的にとって不要になれば切り捨てる、これが中国外交の真髄です。(266頁)

 「ニクソン大統領訪中」準備のため周恩来と極秘裏に延べ17時間、渡り合ったキッシンジャーは「中国人は、冷血な権力政治の実行家であり、とても西側のインテリ層が想像しているようなロマンチックな人道主義者などいない」と言わしめています

 

 服部龍二氏が日韓、日中との歴史認識を中心とりあげた「日本外交ドキュメント 歴史認識」のなかでも、中国、韓国に翻弄された日本外交の姿、及び中国の現実を如実に描きだしております。合わせ読まれることをお勧めします。

 

 五五年体制崩壊から自社連立政権へ  

 

 第二次大戦終了から今日までの70年間は、1945年の大戦終了前後から90年ごろまでの米ソ冷戦時代と、その後に分かれます。ある面ではそれは歴史の自然な流れなのでしょうが、米ソ冷戦崩壊の数年後の1994年、水と火の関係にあった自民党日本社会党が「連立政権」を作るに至るわけです。

  そのきっかけになったのは、自民党内の派閥抗争から起きた宮澤喜一内閣の不信任案の可決から生じ、94年7月の解散・総選挙です。結果、自民党過半数割れを起こすと共に、野党第一党の社会党も致命的打撃を被り、政治の大乱が始まりました。その一連のなかで、暗躍したのが政治屋小沢一郎ですが、非自民党の細川内閣、羽田内閣と極めて短命な政権を経て、政権協議もないまま村山富市を首班とする自社連立政権が誕生します。結果は御存知のように日本社会党はその後、事実上その党史を閉じ、消滅していった現実です。

  政党が政策変更、しかもそれが大変更であればあるほど、党内合意を得てそれを国民に示さなければならない、と著者は指摘しています。村山首相は後で党が追認したとのことですが、衆議院本会議で社会党の「党是」とも言うべき根本政策を一気に打ち消したのです。著者は次のように記しております。

 

 彼が衆議院本会議で述べたその趣旨はこうです。第一に日米安保体制はアジア太平洋地域の平和・繁栄を促進するために「不可欠」であること、第二に自衛隊は「憲法の認めるもの」であること、第三に「日の丸」が日本国旗であり「君が代」が国歌であること、加えて翌日の参議院本会議では、第四に「非武装中立」は冷戦構造崩壊とともに「その政策的役割を終えた」こと。(293頁)

 

 そして、村山政権は村山談話を後世に残したわけです。その功罪はさらに今後の歴史が判断することになるのではないでしょうか。

 

おわりに

 

 その後、自社連立政権に続き、民主党政権がマスメディア他に持て囃され誕生しました。その民主党政権の場当たり的な政策は日本にとって極めて危険且つ不安定な状況を残し、現在の自公政権になります。

 その民主党が政権奪還のためと称し、維新の党と共に新たな政党を作るようです。ただ日本社会党のあの徹を踏まないこと。歴史から学ぶことが最も肝要なことで、「党是」を明確にし、その上で他党と協議に入ることです。自公政権に取って代わろうとするなら、真の国民政党として根本的に構想を練り直すことです。安易な妥協は最も危険と考えています。

 尚、この新しくする政党は、政党名を公募ないし世論の調査結果に基づき、党名を決めたかのごときですが、私は極めて違和感を持ちます。政党であれば、まず以って基本姿勢たる「党是」を決め、その上でその理念にふさわしい政党名を自ら決め、そこで政党たる是非を国民に問い、そして国民の賛同を得ることが政党のあるべき基本姿勢ではないでしょうか。もし名前すら党として決められず国民にいかがでしょうか、と伺うとしたら、本末転倒もはなはだしいと私は考えます。

 一方、昨今に見られる党名としては、消滅した「みんなの党」あるいは「生活の党」等々しかり、その党名からは党是があるのか、更には何を目指すのか極めて不明確な政党が多いと思います。いかにも場当たり的な、思いつきの正義を振り回ように、私は思います。それは果たして政党と呼べるのでしょうか。

 

 私は「はじめ」にも記しておリますが、議会制民主主義の育成には健全な、国民政党である野党の誕生は望んでおります。

 

2016年3月15日

                         清宮昌章

 

参考図書

 

原彬彬久「戦後政治の証言者たち」(岩波書店)、同「岸信介証言録」(中公新書)、同「岸信介」(岩波新書)、同「吉田茂」(岩波新書)、服部龍二「外交ドキュメント」(岩波新書)、同「中曽根康弘」(中公新書)、文芸春秋4月号、他