清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

日米安全保障条約と戦後政治外交

 

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原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【前編】

 

はじめに  

 民主党と維新の党が自公政権の交代を図るべく双方解党し、新しい政党を作るとのこと。その意図は分かるとしても果してどんな成果を望むのでしょうか。更には共産党との選挙協力も分からないわけではありません。しかし消滅した社会党左派への先祖帰りを図る民社党、更には党の理念の分からない、政党交付金を得ることが最優先としか思えない生活の党とも連携を図るような新政党が果して国民政党として成立するとは、私はとても考えられません。  

 民主党に必要なことは労働貴族とも称すべき連合、更には特異な思想を抱き、現実から大きく乖離したような日教組から少し軸足を移し、広く国民政党として再出発することこそが必要に思います。そのためには日本だけしか通用しない視点・観点ではなく、より広い見識を持った有識者を加えたシンクタンクを作り、そこで先ず理念・思想を練りあげ、党としての在るべき政策・指針を構築することが先ずもって重要である。急ごしらえの政党は意味がないと私は勝手に考えております。官僚を軽視し、ただ思いつきの正義感ではとても政権は取れません。民主党は前回の失敗はどこにあったのか。その失敗から何を学ぶべきかが問われている、と思います。マスメディアと一部の知識人に踊らされ、官僚を余りにも軽視し、結果的には情報も知識も乏しくなり、実務が回らなくなったのが民主党政権の現実ではなかったでしょうか。自公政権とて、いつでも交代できる政党の出現を望んでいるやもしれません。

 一方、国会中継を観るにつけ、本題の法案等にはほとんど触れず関連事項の質疑に終始する国会の現状にあっては、わが国が議会制民主主義にたどり着くまでに、気が遠くなる長い長い期間が必要に思います。いかがでしょうか。  

 そんな日頃の思いの中、表題の両氏の著作を改めて読んだわけです。ご存知のように原彬久氏は戦後日本の政治外交史を専門とする方です。今までも同氏の「岸信介」、「吉田茂」、「岸信介証言録」等々紹介して参りました。心に残る文章で日本政治外交史を語る学者です。

  方や服部龍二氏も日本外交史・東アジア国際政治史の専門家です。同氏についても「日中国交正常化」、「広田弘毅」などの著作を紹介して参りました。今回は原彬久著「戦後政治の証言者たち」を中心に話を進めたいと思います。

  いつものことですが、今回も本書全体ではなく、私が感銘あるいは共感したところのみ、紹介して参ります。

 

原彬久著「戦後政治の証言者たち オーラル・ヒストリーを往く」

 

 第一章 オーラル・ヒストリー  

 著者はオーラル・ヒストリーの効用を次のように記しています。  

第一 話し手の「心の事実」も含めて「新しい事実」を発掘することができること。      第二 歴史を立体的に再構築する手段としての有用性をもっていること。

第三 私たちに「歴史の鼓動」を伝えることができること。いい換えれば、「歴史の臨 場感」ともいうべきものを生み出す有用な手段として、活用できること。  

  尚、本書は第一章;オーラル・ヒストリーの旅、第二章;岸信介とその証言、第三章;保守政治家たちとその証言、第四章;社会主義者たちとその証言、から成り立っています。第一章で著者は本書の目的を次のように述べております。本書の骨格を示すもので、以下紹介いたします。

 戦後日本の骨格そのものとなった日米安全体制をめぐって、日米関係と日本の国内政治がいかなるダイナミズムをみせたかを自分なりに明らかにしよう、というわけです。そのための具体的な研究ターゲットとしては、それまで誰も足を踏み入れたことのない、岸政権による安保改定の政策過程(ここでは、最高意思決定者およびその周辺の比較的狭い範囲における政策作成集団内での相互作用をいう)、および同過程を含むより包括的な政治過程(政策決定過程だけでなく、そこに影響力を行使する、より広範囲な政治過程をいう。野党政治家、各種利益集団の他に多くのアクターがここに参入する)をとり上げようと思っていました。  

 というのは、戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程には、ほかならぬこの戦後日本のあらゆる特質が詰め込まれているようにみえたからです。つまり、安保改定の政治過程に政治学的解明のメスを加えれば、戦後日本における政治外交の構造的特質がある程度浮かびあがるにちがいない、ということです。そして、幸運にもいまこのオーラル・ヒストリーを目の前にしますと、これこそ安保改定にかかわる資料獲得の方法としてある一定の効用をもつのではないか、と確信するようになったのです。(本書7、8頁)  

 さて、吉田とダレスの間でつくられた旧安保条約が戦後日本の根幹をなした、という事実は誰も否定できません。したがって米ソ冷戦のなか、岸信介が同条約の改定に手をかけたとき、それが国内外を大きく揺るがしたのは、ある意味では当然でした。  

 しかも最高意思決定者岸信介が先の戦争に関連して、戦後A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されていたということもあって(不起訴処分)、この安保改定は激しいイデオロギー対立と権力闘争の渦に巻き込まれてしまいます。つまり、安保改定によって条約の日米不平等性を改善して、より強固な日米関係を築こうとした保守の自民党と、岸信介が安保改定をするというなら、むしろこの際条約そのものを廃棄して戦後の日米体制を清算すべきと主張する左派中心の日本社会党との間で、戦後最大の政治抗争を惹起いていくのです。(15頁)  

 尚、共産党がこの政治的騒乱をどう位置づけていたのかを、院外大衆闘争の司令塔である安保改定阻止国民会議にオブザーバーとして参画していた、日本共産党中央委員会幹部会員である鈴木市蔵の証言として以下のとおりです。  

 第一にいわゆる安保闘争は戦後日本の政治闘争においては唯一の統一戦線であったこと、すなわち社会党共産党労働組合の三者が戦後日本の政治史において「一番画期的な役割をもった統一戦線」を形成したとうことです。つまり、「典型的な階級的政治戦線の統一」だったのです。ですから、岸退陣後「これ(安保闘争の勢い)を潰すということは、共産党としてできるわけがない」というのです。  

 第二にこの統一戦線を、すぐさま革命へともっていかなくとも、「日本の変革の道標」にしようとしたことです。すなわちあの政治的騒乱を「革命」とは捉えないまでも、「そういう位置づけをしてもおかしくない状況にあった」というのです。だからこそ共産党は、この闘争の「体制」を「発展させていきたい」と考えていたのですが、統一戦線のパートナーである社会党労働組合(総評)はこれに消極的であった、というわけです。(17頁)  

 そして、岸内閣退陣後の総選挙(1960年11月)は池田政権与党の自民党が勝ち、勝つべき条件をもっていた社会党が負け、新党の期待を背負った民社党が惨敗したという点からすれば、戦後日本70年の歴史における一つの分岐を画する重大な選挙であったと著者は記しております。それではあの安保改定の政治騒乱はその後の日本の政治・外交に何を残したのでしょうか。

 

第二章 岸信介その証言

 岸信介については原彬久著「岸信介証言録」(中公文庫)および「岸信介」(岩波新書)他の研究書で詳しく述べられております。従い本書で私が新に参考になった点のみ紹介いたします。岸信介A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンで3年有余の獄中生活を送ったわけですが(不起訴処分)、吉田茂と共に岸信介は戦後の日本政治を形成した、歴史に残るべき政治家と私は考えております。

 著者は本章の中で、岸信介の長男信和氏の妻であリ、政治家岸信介・人間岸信介を最も身近にみていた一人である岸仲子氏がいう、岸信介が「妖怪」であるかどうかはともかくとして、ある種の「政治的多面体」であることは確かなようです。国粋主義者でありながら自由主義者であり、自由主義者でありながら社会主義者でもあり、そして部下に「勝手気ままに」を許しながら、権力闘争には非情なまでに自我を押し通す、これが岸信介と言わしめています。加えて、以下のように記しています。

  それにしても岸さんは、人間にとってそして社会にとって自由がいかに大切であるかを、三年有余の獄中生活を通じて痛切に感じ取ったようです。「天皇を絶対と思いますか」という私の質問に、「それはありません」と彼は断言するのです。つまり、「天皇より自由が大事」というわけです。吉田茂ならば、「天皇は絶対である」というかもしれません。戦前軍部と結んで統制経済を主導したあの岸信介から、天皇よりも「自由」に価値を置くという言葉を聞くとは、意想外でした。政治家岸信介は、やはり難解です。政治家岸信介は、天性の「政治的人間」です。岸信介は、権力の論理と生理を完璧なまでに呑み込んだうえで、その権力を並外れた行動力で追いかける。「権力の非情と矛盾」を従容として受け入れる。岸信介は権力のニヒリストでもあります。(45、46頁)

 1955年に保守合同にいたるわけですが、岸信介がその保守合同に向った主たる理由は米ソ冷戦のなか、内外共産勢力に対抗できる「強力な保守」をつくって「独立の完成」を実現しようというわけです。この「独立の完成」とは、象徴的にいえば、占領下に作られた日本国憲法の改正で、日本が陸海空の「戦力」をもち、なおかつ集団的自衛権を行使可能にすることなどを含む、と著者は記しています。

 方や、天皇制を尊崇する吉田茂は戦前、戦後を通じ親英米にあるに対し、岸信介は「日米開戦」を支持し、対米戦争そのものを指導し、そしてその責任に容疑を掛けられ獄中の三年有余を送りました。獄中で彼は米人看守からさまざまな虐待を受けており、「反米」感情が根付いたのも現実です。それでも彼は「米ソ冷戦」に導かれるかのようにして、戦後政治の荒野に放たれ、そして「保守合同」を主導し、アメリカの期待に応えていったわけです。しかし、それをテコにしてアメリカ側に一方的に有利であった吉田茂の安保条約を改定にもっていくことは並み大抵でないことも重々承知しております。鳩山一郎内閣の時代の1955年の8月、岸信介鳩山内閣日本民主党幹事長として重光葵外相の訪米に同行し、ダレス国務長官との会談に参加します。その席上で何の相談もない中、重光外相が安保条約は非常に不平等であること、日本側としては条約を対等なものに直したいとダレスに発言します。しかしダレスの反応は「アメリカとの間に対等な安保条約を結ぶなど、日本にそんな力はない」と、木で鼻をくくるような無愛想な態度でその提案を一蹴された現実があるのです。

 保守合同が出来たとはいえ野党社会党に対峙するだけでなく、自由民主党の中にも凄まじい派閥間の権力闘争があり、安保改定のときも三木武夫松村謙三とは政策決定過程の各局面でことあるごとに岸と対立しました。政治家は相手に権力闘争を挑むとき、必ず「政策」あるいは「方策」の違いを理由にその権力闘争を正当化します。政策と権力が渾然一体となっているために、権力闘争の帰趨が政策の命運を、したがって歴史を左右することにもなるのです、と著者は記しています。

 戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程も1960年6月10日のハガチー事件、続き同年6月15日の東大生樺美智子の圧死により、アイゼンハワー大統領の訪日延期となります。そして岸政権は幕を下ろし、安保改定が成立します。

  しかし、「アメリカが憲法改正に期待し『強い日本』を望んだその本心は、日本ができるだけ自力で『対ソ防壁』を築いて、その分アメリカの負担をへらしつつアメリカへの依存を続けることにあったのです。つまりこの程度の『強い日本』が望ましいのです。日本の自衛力がある一定レベルを超えて『強すぎる日本』になれば、この対米依存は弱まり、したがって、少なくともアメリカの『国益』に従属する日本ではなくなります、これこそ、アメリカの悪夢だった、いやいまでも悪夢である、といえましょう。」(70頁)  

 共産党独裁政権の中国が急速に大国化を目指し、軍事力等々を強めるという大きな地政学的変化に直面している日本にとって、このアメリカの国益という問題は日本の国益と繋がるか、否かの問題でもあり、今以て極めて難しい課題でもあるわけです。

著者はこの章をつぎのような印象深い文章で閉じています。

 巣鴨プリズンにあって「反米」を募らされた岸信介は、米ソ冷戦の出現とともにアメリカに接近して「親米」化していきます。一方、戦後いち早く日米戦争の敵方岸信介を戦犯容疑者として収監したアメリカは、これまた米ソ冷戦の進捗とともに岸を抱き込んで利用していきます。

 日本が戦後数十年間、米ソ冷戦の時代文脈から脱しえなかったように、「戦後政治家」岸信介もまた、冷戦の時代文脈を抜きにして語ることはできません。岸がこの世を去ったのは、1987年8月でした、時すでに、米ソ冷戦崩壊の胎動が始まっていました。ソ連民主化」の指導者M・ゴルバチョフ共産党書記長)がワシントンを訪問してアメリカ国民から熱い歓迎を受けたのは、岸信介死去の四ヶ月後、すなわち87年12月です。

 それから二年後、地中海に浮かぶマルタ島でG・H・W・ブッシュ(米国大統領)とゴルバチョフソ連最高会議幹部会議長)は「冷戦終結」を高らかに宣言するのです。「戦後政治家」岸信介は冷戦から生まれ、そして冷戦とともに死す、ということでしょうか。(70、71頁)

 

保守政治家たちとその 証言、社会主義者達とその証言 他 【後編】に続く

 

 2016年3月5日                            

                                清宮昌章