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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

植民地時代から今日まで  エドウィン・S・ガウスタッド・・後編

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「アメリカの政教分離エドウィン・S・ガウスタッド 西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【後編】

 

第三章19世紀 静かなる法廷

 

 信教の自由を与えられた宗教団体はこの世紀に劇的な繁栄を迎えます。例えばメゾジスとバプティストの教会数は会衆派と監督教会派を加えた総数の7倍にも達すると共に、教会の「新たな姿」をあらわすキーワードのボランタリズムの発生があり、アメリカ聖書協会、アメリカ日曜学校連合、アメリカ文書協会等々の活躍につながっていったわけです。

 

 一方、19世紀全般にわたっては、合衆国最高裁はこの世紀後半、モルモン教が一夫多妻制を明確に廃止するに至り、ユタが始めて合衆国への参入が許されるに至る1890年の判決は別として、宗教問題については沈黙を守っていました。所謂表題の静かなる法廷です。しかし宗教のほうが黙っておらず、州レベルや地方レベルの裁判所では数々の論議・判決がでており、たとえば大統領選についても「神と宗教的大統領」に忠誠を誓うか、否かの論議などが発生します。ジェハァソンが例の修正条項から適切な言葉を引用して「こうして政府と宗教のあいだには分離の壁を立てるのである」と連邦憲法には何処にも見当たらないこの[分離の壁]が憲法の言葉以上に合衆国市民に親しまれた、とのその言葉の由来を示します。

 

 又、この世紀半ばの1840年から50年時代には、もっとも情熱をもって戦われた論争は奴隷制度であります。この苦渋に満ちた問題は家族や教会、そしてすべての教派(バプティスト、メゾジスと、長老派)、更には国家そのものをも分裂させる南北戦争に至たります。

 その結果、1868年に修正条項第14条が制定されましたが、それは教会と国家に関する、南北戦争とその直後の重要な意味合いをもっており、

 どの州も、合衆国市民の特権あるいは安寧を妨げる法をつくり、かつまた強制してはならない。またどの州の何人も生命、自由、財産を、正当な法的手続きなしで奪われることはない。また、法的領土内において何人も法の下での平等な保護を拒否されることはない。この修正条項は、おもにかって奴隷であった人々の市民的権利保護のために作成されたものだが、究極的にはその領域を超える意味合いを持つにいたった。修正第一条は合衆国議会がなしうること、なしえないことの領域自体を制限していることを思い起こすべきである。今回は、修正第14条が州のなしてよいこと、よくないことを示している。これらの言葉がこの後の時代の、信教の自由と政府のあたえる信教の恩恵について大きな影響力を持つことになる。(47頁)、と指摘しています。

 

第四章 20世紀とそれから 多忙な法廷

 

 そして、19世紀の静かなる法廷から20世紀には劇的な変化が起こり、多忙な法廷となります。その要因の第一は最高裁が1940年代に修正第一条の宗教条項を州に適用する手段として、前章に述べた修正第14条を使い始めるに至ったことです。

 

 第二は、アメリカ自由人権協会、アメリカ・ユダヤ人会議、アメリカ政教分離連合他多くの新しい組織が伝統的な宗教的慣習に公的な場で挑戦し、最高裁に法的手続きをとるようになったこと。

 

 第三は第一次大戦終焉までにアイルランドからのローマ・カトリック教徒や、東ヨーロッパからのユダヤ人、更にはイスラム教徒、仏教徒等の多くのプロテスタント以外の移民により、アメリカが従来のプロテスタントの宗教的単一色の国家から多元主義の国家に変遷したこと。

 

 第四は連邦政府の規模が拡大して産児制限等個人の領域まで介入せざるを得ない状況に変わったこと。

 

 第五にはアメリカは世界でもっとも訴訟好きな国家になったこと。

 

 そうして最高裁は連邦憲法の[信教の自由]と[自由の行使]と州法の狭間で悩みます。全員一致の判決はまれとなり、むしろ際どい賛否でそれぞれの訴訟に対処してきておりり、其の判決には必ずしも首尾一貫性があるとは言えず、むしろ其の時代の大衆の思いが反映していきます。

 

 たとえばベトナム戦争時の良心的兵役拒否の訴訟が良心の問題なのか否か。それともそれは宗教的・政治的背景のものであるのか否かの問題なのか。更には最も微妙な宗教的背景をも持つ産児制限と中絶の訴訟、国家と教会のかかわりとなるクリスマスの公的な場でのキリストの生誕の展示の訴訟、教会財産課税免除等々の訴訟と極めて多忙な法廷となるわけです。そして一般大衆が懸念を持っている教育の分野が大きな課題となったと本章を纏めています。

 

第五章、第六章 公定条項

 

 宗教と教育

 

 このふたつの章では、修正第一条の政府(連邦)が宗教を支援しても擁護してもならないという点で、最も悩ましい教育面での最高裁の判決をめぐる諸問題を取り上げています。

 

 西洋文明においては宗教と教育の関係は極めて密で、近代になってもヨーロッパのほとんどの国で、国家による教育と、制度としての組織化された宗教とのつながりは密であったわけです。アメリカでの公立教育の統括は連邦(国家)によるものではなく、地域の州でなされており、更に公立学校ではプロテスタント的要素が多く、そこに他宗派から訴訟が起こされる要因があります。  

 ただ、このすべての学校で、憲法から見て正しい仕方で宗教をどう扱うか(あるいは無視するか)は学校に関するすべての人にとって大きな問題となりえますが、アメリカの教育界の実験が西洋の激しい歴史的潮流に逆らっていることを考えれば、驚くことではない、とも記しています。

 

学校における問題

 

公立学校をめぐる訴訟実態は、以下の通りです。

 

1.なんらかのかたちでの宗教教育を行なうにあたって、それが学校敷地内(自由時間)あるいは敷地外(時間外)で行なわれる場合、教区学校と共同で行なわれる場合(共有時間)。

2.公立学校における実際の宗教的行為(祈り、聖書朗読、礼拝そのもの)。

3.本質的に学術的というより宗教的と考えられる科目を教えることに関する問題。

4.学校の建物や敷地内で、生徒が宗教的活動を実践する権利に関するものであり、最高裁判決はそれらの問題に全員一致の判決はほとんどなく、今もって揺れ動いている。

 

  一方、私立学校における訴訟は財政をめぐる法的問題が主であり、1.教科書と教材、2.給料、3.授業料免除、バウチャー制度、税額控除、4.教会に関した大学への補助に分類されるとしています。これまた最高裁判決は複雑さを深めており、「合衆国社会がその政治的・教育的・道徳的ジレンマの多くを解決するときには最高裁を超えたところを見据えなければならないことを示す、もうひとつの例にすぎないのかもしれないと」と第6章を結んでいます。

 

 ただ、いずれにもせよ、外から自由を与えられたかの我国の現状と、自由を求め大陸に移住したといわれるアメリカの生い立ち。今日においても自由とは何か。信教(宗教)の自由とは何かを追い続け、公的場での祈りや聖書の朗読、ダーウィンの進化論の教材、宗教系の私学への教材の補助等に関するアメリカの各州の訴訟。連邦裁判所においてもそうした訴訟受けざるを得ない彼我の状況の違いを改めて知らされます。

 

第七章 自由行使条項 信教の自由

 

 少数派の宗教

 

  信教の自由行使条項は政府が宗教を不利に陥れたり、抑制してはならないことを言明してますが、この条項から最も阻害される人々は少数の宗教グループであった、としています。

 19世紀後半に起きたモルモン教そのひとつですが、20世紀にはエホバの証人・ものみの搭(現在では信者は世界で400万人以上)による文書販売・寄付金の収集。国旗への忠誠問題、そのほか正統派ユダヤ教の日曜日に関する法律問題、アーミッシュの公立学校の通学問題、敬虔主義ユダヤ教への学習援助問題、サンテリアの動物犠牲の儀式の是非。アメリカインデアンの伝統的儀礼による礼拝の制限等々最高裁の判決は時には表現の自由等と信教の自由との狭間で否決・賛成と揺れ動いており、そこで何が問われてきたのか示しております。

  

 最近はイスラム教徒も増加し、しかも各国で起こる激しさを一段と増すテロ事件の中で、アメリカ国家はますます宗教・人種が複雑さを加えている中で、最高裁は今後もまちがいなく、信教の自由行使を定義し保護する線引きを求められることだろうと、この章を終えています。

 

 以上、本書を通じて言えることは、あまり宗教に関わりのない、あるいは関わらなくても過ごし過ごしてきた、わが国の現実と異なることです。国家と州と教会の相克が政治文化の中に深く根を下ろしているアメリカの生い立ち、ある面では現在においても宗教国家とも言うべきアメリカの一面を理解する上で参考になるのではと思い、今回本書を取り上げた次第です。

 経済格差の拡大、その結果もあるのでしょうか宗教間争い・国際テロ、加えて領土問題等々、大きく変動する21世紀世界にあって、平和を唱えるだけでは平和にはならない現実を真摯に受け止め、わが国の地政学的現状をも踏まえ、その在り方はどうあるべきなのか、個人としても自らの問題として考えることが極めて重要な時代に入ったと思っています。

 

 2016年1月21 日

 

                            清宮昌章