清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

昭和天皇について思う

昭和天皇について思う【後編】

 

2 章 山本七平裕仁天皇の昭和史」

 

 山本七平は「山本学」とも評される、独自の世界を築いてきた方ですが、一時は保守反動の元凶ともいわれておりました。現在でもそうした評価かもしれません。ご承知のように同氏は戦時中、砲兵少尉としてフィリピンを転戦し、マニラで捕虜となり捕虜収容所を経て帰国し、「私のなかの日本軍」等々をも著しております。尚、本書「裕仁天皇の昭和史」(祥伝社)は昭和天皇崩御される数年前から執筆を開始し、前編に言及した「天皇独白論」が公開される前年の昭和64年1月7日に完成されています。そして、その2年後の平成3年に同氏は亡くなられますが、本書のまえがきで、「本書が『昭和』を考え、『昭和天皇』を考える場合の、何らかの参考になってくれれば幸いである。」(同書5頁)と述べています。以下、本書の概略と言うよりは、私が本書の中で興味深く感じたいくつかの点を以下、挙げていきます。

 

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その 1 天皇の自己規定

 

 本書は第1章・天皇の自己規定から、戦争責任をどう考えるかを問う第14章・天皇の功罪、そして終章・平成への遺訓から成り立っています。その1章で、なぜ、天皇は開戦を阻止できなかったのか。終戦の聖断をなぜ遅らせたのか等々の天皇戦争責任論に対し、そうした論議の前に「天皇の自己規定」の研究が当然ながら必要ではないのかと鋭く指摘します。と共に日本の報道機関、マスコミに対し、

 

 ファシズムへの憧れがいつ頃から生じたか。大体、昭和6年ごろからで、これが昭和11年のベルリン・オリンピックのころ最高潮となる。この年こそ2・26事件の年、そして日独防共協定締結の年である。どうしてこのような状況になったのか。当時のマスコミのファシズム賛美を、後のソ連賛美、中国大躍進賛美、文化革命賛美、更にベトナム賛美、北朝鮮賛美などと比べ、いま振り返って見れば、真に「例によって例の如し」と言う感じがする。(同書155頁)、と今もって変わらないマスコミのあり方・その現状を批判しています。

 

 昭和天皇について、そのまえがきで「考えて見れば全く稀有の存在である。人類史上おそらく前例がなく、今後も再びこのような生涯を送る人物は現れまい、と思われるのが昭和天皇である」(同書3頁)、と述べています。山本七平はその天皇の自己規定について憲法絶対の立憲君主であろうとした姿を描いています。その自己規定は明治大帝が定めたことであり、その制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされたこと。その制限を越えてしまったのは、2・26事件の時にルールを飛び越え、臨時首相代理を任命し、直ちに暴徒の鎮圧を命じたこと。及び終戦時のいわゆる聖断を立憲君主としての道を踏み違えた、そのふたつを天皇は悔やんでいたと述べています。この指摘は多く諸氏の見方とは大きく異なるものになるのではないでしょうか。

 

 山本七平によれば、昭和天皇憲法意識にはその前提である「五箇条の御誓文」を根本理念としており、その第一条・広く会議を興し万機公論に決すべしであり、万機天皇之を決すべしではない、との強いこだわりを終生もっていたこと。その現れの一つとして終戦後の「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」の冒頭に五箇条の御誓文をあげているとの指摘です。では、その自己規定は何処で育まれたのかについて第二章以下、天皇の教師たちの像へと敷衍していきます。

 

その2 天皇の教師

 

 昭和天皇は小学校を学習院で学ばれ、その後は宮中の御学問所で6人の学友と7年間、当時の7年制高校と同じ期間でありますが、そこで教育を受け、その教師陣がその後の天皇の自己規定を育んでいった。そのひとりは博物を担当した服部広太郎博士で、崩御される直前まで天皇が生物学への関心は失わなかったこともその自己形成の重要な要素に挙げています。更に歴史は日本における歴史学の祖である白鳥庫吉博士で、その白鳥博士の学問を継承したのは津田左右吉博士であること。そして最も影響を与えたのは倫理担当の杉浦重剛であると述べています。

 

 杉浦重剛は私にはなじみのない人ですが、イギリス留学の科学者で儒者の家の出身であります。近江藩の藩校のほかで漢学と洋学を学んだ後、後の東大となる江戸の番所調所で、オランダ語、英語、フランス語、さらにはドイツ語等まで学び、イギリスのマンチェスターのオーエンス・カレッジに留学します。科学を専攻し猛勉強を続け、イギリス人も当然いる中で首席になったと紹介しております。帰国後、東大で一時は教鞭をとるものの、その科学で身を立てるのではなく、政界に身を置くことはあってもすぐ退き、私立英語学校を設立し、その後も中学校の校長として教育と言論の世界に身をおき、もはや世間からは忘れられた存在であったようです。その後、東宮大夫になった元東大総長の浜尾新に推挙され、御学問所の倫理の教師となりました。

その杉浦の思想は日本で発達した日本固有の儒学ヴィクトリア朝的なイギリス思想の習合であり、「力とは道徳・仁である、それが国家の興廃を決める。」この道徳・仁こそ最大多数の最大幸福とするベンサム流の杉浦の思想に天皇は影響を強く受け、三代目の守成の名君として教育されます。一方、ロンドン留学で培った杉浦の影響か、天皇は独伊ではなく英米に親近感を持っていたとしています。従い、ナチスばりの大政翼賛会の総裁になるような点においても、近衛文麿に信頼感をもてなかったようだったと記しています。

 

 尚、「三種の神器」については天皇が終戦時もこだわっていたと吉田裕他は述べています。方や、山本七平は杉浦が倫理御進講草案に「三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以って至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知・仁・勇の三徳を示されたるものなり」(同書67頁)と、三種の神器非神格化を記しています。果たして天皇自身の認識はどうであったのでしょうか、そのことも改めて今後も研究すべき事柄なのかもしれません。

 

その3 戦争責任

 

 本書は上記の各章に続き、捕虜の長としての天皇昭和維新、2・26事件の首謀者・磯部浅一天皇への呪詛、北一輝の妄信の悲劇、人間・象徴としての天皇等々と論を進めていきます。そして第14章・天皇の功罪・・そして戦争責任をどう考えるか・・に至るわけです。

 

 先ず、山本七平は歴史上の功罪を論ずることの難しさをあげ、江戸時代が評価されるようになったのも最近のことであると指摘しています。時代時代が相当に恣意的な評価を下すことは山本七平自身が経験していると述べています。その上で、天皇は戦争を止められるのに、なぜ止めなかった等々の戦争責任論に対し、天皇は憲政の伝道師という認識はなかったものの、憲法の遵守を明治天皇の遺勅どおり、それこそ一点一画をおろそかにしない生真面目さで生き抜かれた人類史上、初めて行なった人だったのではないかと見ております。

 

 加えて、「元来『憲法』とは君主の権力を制限し、実質的には無権力の存在にしてしまうのだからである。したがって国王と憲法の衝突、換言すれば議会との衝突は憲政が定着するまでいずれの国でも起こっており『立憲君主国の模範』のように言われているイギリスでも例外ではない。」(同書330頁)と指摘しているわけです。

 

 では、その戦争責任とは何を言わんとしているのか、言葉をより明確に言うならば戦争責任ではなく敗戦責任を問うているのであろう。また天皇憲法上の責任を問うているのでもなかろう。なぜならば明治憲法第5条は現代語訳にすれば、「天皇帝国議会の可決した法律に対して拒否権を有せず」、同じく55条は「天皇は閣議の決定に対して拒否権を有せず。また閣議に出席し発言することを得ず。すべて法律・勅令・その他国務に関する詔勅は、国務大臣の副署なきものは無効なり」と規定されており、むしろ「憲法上の責任を問うことはできない」ことをはっきりしておくことが先ず以って重要である。従い敗戦責任論の意味合いは、戦争は「天皇の御ために」と実践し、天皇もそれを知っているはず、だから天皇はその責任を自覚してほしい、ということであろうと分析・解説しています。

 

 昭和50年10月31日の天皇訪米後の記者会見で、ロンドン・タイムズの日本人記者から、「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられるかお伺いいたします。」(同書345頁)との事前に提出のない質問に対し、天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題については、お答えが出来かねます」(同書346頁)と応えているとのことです。その上で、山本七平は最終章で次のように述べます。

 

(前略)・・「言葉のアヤ」とは、相手の質問について言っているように思われる。天皇は意味不明瞭で相手をごまかすことはされたことがない。それを考えると、これは問答で、相手は「・・・どのように考えておられるかお伺いします」と聞いているのだから「お答えしたいが、それを答え得るそういう言葉のアヤについては・・・」の意味であろう。これならば天皇が何を言おうとしたかはわかる。天皇政治責任がなく、また一切の責任もないなら、極端な言い方をすれば、「胸が痛むのを覚える」はずがない。さらに8月15日の戦没者慰霊祭に、痛々しい病後のお姿で出席される必要はもとよりない。しかし、「民族統合の象徴」なら、国民の感情と共鳴する感情を持って慰霊祭に臨まれるのが責任であろう。戦争責任が一切ないならば、その必要はないはずである。ただこれは、津田左右吉博士の言葉を借りれば、戦前・戦後を通じての民族の「象徴」の責任であって憲法上の責任ではない。そのことを充分に自覚されていても「文学方面はあまり研究していないので、そういう(ことを的確に表現する)言葉のアヤについては、よくわかりませんから、お答えが出来かねます」と読めば、天皇の言われたことの意味はよく分かる。注意すべきは「お答え致しかねます」ではなく「お答え出来かねます」である点で、天皇は何とかお答えたかったであろう。ここでもう一度、福沢諭吉の言葉を思い起こそう。「いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事」・・長崎市長の発言(昭和史によれば天皇が重臣の上奏を退けたために終戦が遅れた、天皇の責任は自明の理。決断が早ければ、沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった)を政争に利用するなどとは、もってのほかという以外にない。尾崎行雄は「まだそんなことをやっているのか」と地下であきれているであろう。それがまだ憲法が定着していないことの証拠なら、その行為は、天皇の終生の努力を無駄にし、多大の犠牲をはらったその「行為」を、失わせることになるであろう。(同書348頁)

 

むすびにかえて

 

 以上、世代の異なる、また思いも異なる三氏の著を通して天皇戦争責任を私なりに見てきたわけです。山本七平天皇の戦争・敗戦責任を先ず以って天皇の自己規定に立ち返り見て、その上でその責任論を問うています。氏が述べるように天皇の歴史的功罪を論ずるのは難しく、否、或いはいまだ早いのかもしれません。蛇足になりますが物事をとらえる氏の姿勢に、知性といってもいいのかもしれませんが、私にはいつも襟を正させるものがあります。冒頭にも紹介したように本書は平成元年1月に著されたものですが、今もってこの著はその輝きを持っている、と私は考えています。

 

 2015年11月23日

                          清宮昌章