清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」他への覚書 【後編】

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(注)2021年5月4日再投稿の後編です

 

 著者の筒井清忠氏は1948年生まれ、京大文学部卒後、京大教授を経て現在は帝京大学教授で、日本近現代史・歴史社会学・日本文化論を専門とする学者です。

 

 本書は、「近衛文麿の悲劇とは何か」から始まり、「誕生と学習院」、「一高と教養主義」、「英米本位の平和主義を排す」、「パリ講和会議随員」、「貴族院議員としての活動」、「貴族院副議長・議長」、「訪米と近衛ファミリー」、「2・26事件前後」、「第一次近衛内閣と近衛型ポピュリズム現象」、「第二次・三次近衛内閣」、「太平洋戦争下の近衛」、「戦後の近衛」他の18章からなっています。丹念に資料を掘り起こし近衛文麿という人物を新たな視点で描いているとの印象を持ちます。

 

 近衛家は藤原鎌足を祖とし、後陽成天皇の血筋をも持ち、貴族院議長・公爵近衛篤麿が父という、近衛文麿は正に華冑界の逸材として当時のマスメディア、大衆にもてはやされていたわけです。

 

 後年になりますが、ご承知のように文麿の二女温子の子供(文麿の孫)である旧日本新党の元首相・細川護煕を当時の朝日新聞を始めとしたマスメディアと大衆が持ち上げ、そしていとも簡単に切り捨て忘れ去るという歴史です。加えて、今の天皇、皇太子他の現皇族に対するマスメディアによる報道の仕方。それに対する大衆の対応・反応も同じようなことで、我国における大衆の危うさは変わりないと思っています。それなりの経緯はあったにもせよ細川護煕が首相辞任後、政界を一切離れ、陶芸等の日常に人生を切り替えたのは祖父近衛文麿の前輪の轍を踏まないとの思いから来たのかもしれません。しかし最近の都知事選に見られる同氏の言動は何を物語っているのか、私には全く理解できません。人間の性というのは変わらないのでしょうか。

 

 本題に戻りますが、「誕生と学習院」の章で著者は近衛のふたつのトラウマとして、父篤麿の死後の周囲の人々の変貌と中学時代に実母の死の真相を知るという事実を上げます。それが近衛の終生の「孤独感」、「憂鬱感」の要因になったと記しています。別の角度からいえば人を信じること、確信が持てないという近衛のひとつの性格を現しているのかもしれません。人の性格はその人の経験、他人にはさほど重大には見えないような事態にも人は大きく影響を受けること、そうした具体的な事象を私も身近に遭遇いたしました。

   

 一方、近衛が学習院を経、一高における新渡戸稲造の教養主義という考え方の薫陶を受けたことはその後の人生を大きく変えたこと。又或る面ではふたつのトラウマと相俟って「人生の寂しさ」を覚える、見方を変えれば近衛という人間にひとつの彩を与えたのかもしれません。東大に入学の後、河上肇、米田庄太郎に憧れて京大に編入し、社会主義、共産主義思想に触れた事実も華冑界の逸材だからこそ、そうした行動がとれ、許されたのだろうと、著者は述べています。ただ、東大ではなく、京大で木戸幸一、原田熊雄といった「白川パーティ」に参画したことは、新渡戸稲造の教養主義と並んで近衛の後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。

 

 京大卒業後は西園寺公望との関係もあり内務省に入省。27歳で1.社会政策論の影響下にある国民生存権論、2.アジア主義的心情に立つ人種平等論、3.理想主義的正義人道論を要素とする「英米本位の平和主義を排す」の論文を発表します。現代とは異なるとはいえ、当時、北一輝が36歳で「国家改造案原理大綱」を発表するに対し、27歳でそれを発表するのはやはり秀才であったことに間違いはありません。そして西園寺公望の随行員としてパリ講和会議に参加したことは、更に近衛の新たな思想というか観点に展開を与えたのかもしれません。

 

 著者は明治以降日本のエリート社会では戦後に至るまで、長期に亘ってヨーロッパ崇拝が強かったことを考えると、アメリカへの好意的感覚を持っていることが近衛の特徴のひとつとしています。マスメディアもこの近衛の講和会議参加に続き、アメリカへの洋行問題を異常に思われるほど好意的に大きく取り上げ、結果的には彼自身ではなく長男文隆のアメリカ留学に繋がるわけです。その長男も近衛と同じようにマスメディにもてはやされ、そのことが後年、陸軍中尉昇進後、ソ連軍の捕虜となりスパイを強要され、そして長年の留置となり1956年イワノヴォ収容所における「悲劇の死」につながっていった、と記しています。

 

 近衛はその後もマスメディアによる大衆操作によって、もてはやされながら貴族院議員、貴族院副議長、議長をつとめます。2.26事件のとき拝辞し、そして1年3ヶ月後、西園寺の意向を受けた白川パーティの木戸、原田が近衛を説き伏せ、1937年6月1日、ついに大衆待望の第一次近衛内閣が誕生するわけです。「京大白川パーティはついに頂点に登りつめた」と記しています。

 

 その時に昭和研究会の野人・風見章を内閣書記官長に抜擢したこと。更に日本最初の本格的知識人ブレーンの昭和研究会を活用したこと。事実はさほどではなかったのかもしれませんが、それらが相俟って空前の人気の内閣を呼んだ要因と見ています。

 

 その昭和研究会は蠟山政道が中心となり三木清、東畑精一、笠信太郎、高橋亀吉、中山伊知郎、杉本栄一、大河内一男、矢部貞治、ゾルゲ事件の尾崎秀実、清水幾太郎、稲葉秀三、勝間田清一、和田耕作、三枝博音他錚々たる知識人が参画しておりました。又、風見章を内閣書記官にしたのは近衛独得の「サプライズ人事」で、大衆受けを狙う近衛の一面の軟さを見ると指摘しています。もてはやされる者が得てして陥り易い事象であり、如何にそうしたサプライズ人事が後で大きな悪影響を及ぼすかは、次元は大きく異なりますが私の現実の生活のなかでも数多く経験をしてきたところです。

 

 では、近衛人気がどのように形成されたのか、著者は以下のように興味深い分析をしています。

1.イメージの形成

 華冑界の新人という言葉が象徴するように昭和初期の大衆が好んだ「モダン性」と「復古性」を持っていたこと。モダン性は近衛の長身、ゴルフの腕前、社会主義的要     

素即ち思想を持った総理大臣であり、復古性は高貴な家柄・血筋、古美術を愛し、更にナショナリズム・アジア主義的な日本的・東洋的なものを持っている、と喧伝され農村部を中心とする保守層にも伝わったこと。

 

2.媒体

 ラジオ放送・レコードの活用、情報機関即ち始めて本格的な内閣情報部官制が敷かれ、内閣情報局のもと情報管理化を推進したこと。

 

3.受容層

 女性層に対し近衛家のモダン性がヴィジュアル化されたこと。文学に造詣が深く、河合栄治朗により復権した教養主義と相俟って菊池寛、坪内逍遥等々という当時のインテリ層から支持されたこと。さらに近衛の相撲好きに加え「キング」、「日の出」といった大衆雑誌に近衛が原稿を載せそれが大衆層に受け入れられたこと。

 

 こうして、最新のメディアを駆使しながら「モダン性」と「復古調」という相矛盾する時代の要請を統合的に活かし、女性,知識人、大衆とあらゆる層から受容されながら近衛文麿の人気が形成されて行った、と述べています。

 

 しかし結果的には国民大衆が待望した第一次近衛内閣成立の一ヶ月後に盧溝橋事件、大本営設置、「爾後国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明。続き、日中全面戦争、三国同盟、太平洋戦争という戦争の時代のなか、大衆に翻弄されるポピュリズム政治からの脱皮ということは近衛文麿には不可能な選択であること。その後の敗戦に続き戦犯逮捕指令。その出頭期限の朝に自死という悲劇の、正に戦争の時代とマスメディア・大衆に翻弄された54年間の一生であった、と記しております。

 

 続いて、華冑界の逸材であったからこそ元老・西園寺公望、原田熊雄、木戸幸一他華族達との強い繋がりがあるとされたこと。又、新渡戸稲造による教養主義者の「辞書」の中には「戦争」に対峙する発想はなく、その要因を著者は以下のように指摘しています。

 

 教養主義は既存の文化遺産の中から良質なものを取り出し、それを吸収することによって自分を高めていこうとするものであるから、よいものならどのようなものでもあっても取り入れていくというのがその本質なのである。それはマルクス主義であったり、国家主義であったりするであろう。教養主義は原理主義を拒むものであって、その本質から必然的に既存の文化遺産を折衷的に取り入れていくことになるのである。(300頁)

 

 その上で教養主義は折衷主義的な弱者の論理に陥り易く、時には「毒をもって毒を制する」という近衛流の発想をもたらし、軍部との対応のあり方、松岡洋右、東条英機他の登用に続き、彼らとの確執へと連なっていったと見ています。従って近衛には思想の転向、所謂マルクス主義者等の変節・転向といったものではなく、別の視点から見るべきであろうとの指摘です。加え、文化人であるが為の昭和研究会他当時の知識人との絆等々は従来の日本の政治家には全く見られない事象で、逆に言えばそうしたことが結果的に近衛には災いとなり「優柔不断」、「責任感の欠如」等々の後の批判に繋がる要因になったのかもしれません。

 

 一方、戦犯逮捕指令は総司令部・対敵情報部(CIC)調査分析課長E・H・ノーマンが近衛の性格を含め徹底的に弾劾した「覚書」によるものであること。その骨格を成すものは1945年2月14日の「近衛上奏文」、及び同年9月13日のマッカーサー会見に共通する近衛の「共産主義革命脅威論」にあったと筒井氏は指摘しています。近衛上奏文以来、彼は当時の保守派の中でも最大の「反共論者」となり、コミュニズムに近いノーマンが敵視し攻撃したのは近衛に対する「正解な理解」としています。

 

 尚、ノーマンはハーバード大学で都留重人と親友であること。都留は木戸幸一の実弟・和田小六の娘正子と結婚しており、同じ重臣の木戸に対するノーマンの「覚書」は近衛と異なり好意的表現に満ちており、その覚書は都留とノーマンの「合作」とも思われることを著者は否定していません。なおその後、ノーマンは1950年に召還され、カナダ国家警察の半年に亘る反共攻撃の審問を受け、更に1957年アメリカ上院小委員会でそれを蒸し返され自殺しております。政治的に人を裁くことの恐ろしさを指摘しているわけです。

 

 そして戦後、近衛は東久邇宮内閣に入閣はするのですが緒方竹虎を主軸とした「朝日新聞内閣」とも言われ、新聞各社は手のひらを返すように戦争責任者を求めるものとなり、近衛批判を呼び起こすものに変貌していきます。そのような状況下、12月16日午前6時、千代子夫人が近衛の寝室の明かりに気付いて部屋に入ると、もうこと切れており枕元の茶色の瓶が空になって置かれ、駆けつけた山本有三が「公爵、立派です」と泣きながら言った、とのことです。新聞各社はその死の報道とともに近衛の戦争責任を厳しく論じ、紙面でかって、あれほど誉めそやした人を朝日新聞社説でも次のように報道します。

 

 降伏以降最近までの公の行蔵は、世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマックアーサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったのか。(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度に無頓着と思われたのである。(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導者の地位にありしもの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義士なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡びる際も、まだ責任を解する人物があった。(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(中略)廃徳亡国の感いよいよ深きを覚える。(295頁)

 この社説に対し、「しかし責任を感じて自決した人間に対する文章が『まだ自殺者が足りない』といわんばかりの内容であるのに驚かされよう。それにこの戦争責任追及の論理自体は正しいとしても当時それは決して自分自身には適用されていないのである。」(296頁) 今日でも依然として通用すると思われる新聞・マスメディアのあり方を厳しく指摘しているわけです。

 

 近衛の死後、机の上にオスカー・ワイルドの「深き淵の底より」(英文)が置かれえおり、その中でアンダーラインが引かれていた。「人々は常に私のことを、あまりにも個人的過ぎると言った。・・私の破滅は、人生についてあまりにも個人主義的であったからではなくて、あまりにも個人主義的でなさすぎたことから起こったのだ。私は自分で身を滅ぼしたのだ(中略)世間が私に対してしたことは、恐ろしいことだったけれども、私が自分に対してしたことは、もっと恐ろしいことだった」(297頁)と紹介し、著者は次のように印象深い文章で本書を閉じています。

 

 近衛は「華冑界の新人」などといわれ個性的に見られたのだが、教養主義的政治家として多くのものを受け入れることに努め結局自分独自のものをほとんど出すことができず、「世間」に依拠するポピュリスト政治家となりそれにふさわしい仕打ちを受けたのである。しかし、「人格の修養」を第一義とする教養主義者らしく自分自身の問題としてそれを受け止め、死んでいったのだからである。・・(中略)教養主義とポピュリズムという問題が現代社会におけるリーダーの問題を考えるにあたって避けて通れない未決の問題としてわれわれの前になお立ちふさがっていることを、近代日本の生んだ有数の知識人政治家・近衛の華やかで淋しい生涯は告げているのである。(305頁)

 

2015年10月13日

                               清宮昌章

 

 

参考文書 

筒井清忠「近衛文麿」(岩波現代文庫)                

松本重治「近衛時代・・ジャーナリストの回想」(中公新書)

細谷雄一「歴史認識とは何か」(新潮選書)

大沼保昭「歴史認識とは何か」(聞き手江川紹子 中公新書)

池田信夫「戦後リベラルの終焉」(  PHP新書)

井上寿一「終戦後史 1945-1955」(講談社選書メチエ)