清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

ズビグニュー・ブレジンスキー著「ブッシュが壊したアメリカ」を思い起こして・・【前編】

再投稿

 

 コロナ禍の緊急事態宣言下、9月29日の自民党総裁選挙。そして衆議院議員選挙と続く中、私は改めて5年前の2015年8月の投稿を読み返しました。手前味噌ですが、古さを感じなく、改めて再投稿する意味もあるかなと思った次第です。後編は同年9月14日です。極めて長い駄文ですが、改めて一読頂ければ幸いです。

 

 2021年9月21日 

 

はじめに

 

 日本政治が右傾化し、自由と民主主義が壊れていくかのような巷の声もあり、中野晃一著「右傾化する日本政治」(岩波新書)を一読しました。著者は1970年生まれの比較政治学、日本政治、政治思想を専門とする学者との紹介ですが、私は初めて氏の著書に触れます。本書の中で長谷川三千子氏を歴史修正主義と断定するわけですから、中野氏はその対局に立つのでしょう。

 

 中野氏の見解によれば日本政治は何も現安倍自公政権から大きく右傾化したわけではなく、過去30年ほどの長いタイムスパンで現出してきた、との見解です。残念ながら、私は本書を通じて氏の主張・観点には極めて違和感を持ちます。   

安倍首相に関して「本質的に中国や韓国でも変わりなく、新自由主義改革によって格差社会が広がった一方で、政治権力はますます世襲的政治家や財閥・閨閥に集中し、そこで夫々に国家主義を煽って人心掌握を図り、又ジャーナリズムや言論の自由のみならず、市民社会全体のさまざまな自由を厳しく弾圧する傾向が共通して見られる。安倍、習近平、朴槿惠ら北東アジアの世襲『ナショナリスト』たちが自国内で権力を集中し続けるために、敵愾心を向け合う相手を相互に必要としているといえる」(本書177頁) 加えて終章の最後に「道は険しく、時間は限られているが、負けられない闘いはすでに始まっている」と述べられております。とても私はついてはいけません。

   

  誠に僭越ですが、何故そのような、私には凝り固まったとも言える観点に立つのか、氏の背景、生活・環境がそのひとつの要因なのか、不安を覚えるところです。品格を欠いた他者批判、出版物も、又私のような門外漢も自由に発言、発表できるのが戦後の日本ではないでしょうか。日本の昭和の時代、平成の時代を日本の長い歴史から、何か切り離された特殊な危殆の時代と見ているように私は感じます。よいか悪いかは別ですが、時代は連綿と続き現代に至っているとの私の観点とは大きく異なっています。

 

 そんな感慨を一方に持ち、8年前に掲題の著書について記した駄文を改めて取り出しました。精彩を欠き、もはや影響力もないような現オバマ大統領を見ると、本書の指摘は今さらながら正鵠を得たものであったと私は思います。

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その1

 

 本書の原題はSECOND CHANCE:Three Presidents and the Crisis of American Superpower で、日本版の表題はすこし刺激的で、むしろ本書の内容を言い表してはいないように私は思います。本書の主題は言わば「自己戴冠」が行なわれた超大国アメリカの15年間に亘る三人の大統領、即ちジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンに関わる思考・施政への再検討であり、提言でした。

 

 政治意識のめざめの現象が地球上に広がり、更に其の勢いが増している現在、超大国になってしまったアメリカがこの15年間の中で、何を反省し、何を目指し、そして今後どう在るべきなのか。アメリカ大統領によるアメリカの責任とは何か。アメリカが世界に影響を与えると共にアメリカも世界から影響を受けるという、今までになかった観念をどのように国民に植え付けるか。自由と民主主義の実現に導くだけでなく、文化の多様性に対する敬意はどうか。不公正な格差を是正しなければならないという認識をどう持たせるか。そうしたことが正に問われているのだ、と著者は指摘しています。方や、その視点、指摘自体に人によりアメリカの独善として違和感を持つかも知れません。

 

 そうした思いは残るものの、著者は歴史的意義の高い課題に取り組んだ過去として、一度目は1776年に「自由の意味を定義し、自由の模索を始めたばかりの世界に提示した」こと。二度目は「20世紀の民主主義の守護者として全体主義と戦って見せた」ことを挙げています。

 

 冷戦の終焉後に第一回のチャンスを逃した中、2008年以降に訪れる第二のチャンスを逃してはならない。なぜなら第三のチャンスは永久に巡ってこない。次期アメリカ大統領が「理想に仕えるのをやめた大国は、其の力を失う」ということを理解すること。政治意識にめざめた人類の渇望と、アメリカ合衆国の力との一体感をつくりだすことができれば、まだアメリカにも可能性はのこっている。そして最終章・第六章「アメリカの次期大統領と最後のチャンス」と繋げていくわけです。

 

 著者はご存知のようにアメリカを代表する地政学の権威であり、カーター政権では国家安全保障問題担当補佐官を務め、影響力を持った学者でもあります。1989年に著した「大いなる失敗」のなかで20世紀における共産主義の誕生と其の終焉を従来の通説とは異なり、以下のようにソ連の崩壊を事前にとらえておりました。

 

 共産主義の下で起こった事象は、歴史の悲劇以外の何物でもなかった。それは現状の不正を正そうとする性急な理想主義に端を発し、よりよい人間的な社会をめざしたのだが、結果的には大量の抑圧を生みだすものになった。共産主義は理性の力を信じ、完全な社会を建設しようとした。高いモラルによって動かされる社会をつくるために、人間へのもっとも大きな愛と、抑制への怒りを結集したのである。それによって最高の頭脳、最良の理想主義的精神を持った人々の心をとらえた。にもかかわらず共産主義は、今世紀はもちろん他の世紀にも類を見ないほどの、大きな害悪を生んだのである。其の上、共産主義の誤りは社会問題を完全に理詰めで解決しようとしたことだった。(中略)人間の理性を信じすぎたこと、激しい権力争いのために時の権力者が自らの一時的判断を絶対視してしまう傾向があったこと、不道徳への怒りがしばしば政敵への独善的な憎悪に変わってしまったこと、とくにレーニン主義がマルクス主義の中に、ロシアの後進的な専制主義を持ち込んだこと。(大いなる失敗 306頁)

 

 その後、1993年に「アウト・オブ・コントロール」を著しました。今の世界の混乱をも既に見通していたかのように思います。私とってはそれらの著作を通し、大きな影響というか、考えさせられた学者であり政治家でもあります。尚、本書は私にとっては同氏の三つ目の著書です。

 

その2

 

 本書も一貫した冷徹な地政学的見地から書かれております。各章のあらましをご紹介したく、長くなり恐縮ですがご容赦願います。

 

 第一章・「超大国アメリカを率いた三人の大統領」で、ソ連が崩壊し、冷戦が終焉したため、国際的承認をいっさい受けていないにもかかわらず、グローバル・リーダー、即ち世界の指導者としてアメリカが振舞い始めたこと。即ち、この「自己戴冠」というこの現象は1876年に、ヴィクトリア女王が英国議会から「インド大帝」の称号を与えられた史実。更には、ナポレオンの自己戴冠の史実を彷彿させる、と述べています。

 一方、世界最強国の座に就いた後、アメリカ外交は自国領土の安全確保に加え、三つの使命を背負ったと述べています。

 

1・世界の勢力関係を構築、管理運用し、より強調的なグローバル・システムができる                
下地を造ること。

2・紛争の封じ込め、沈静化、テロ行為と大量破壊兵器拡散の阻止。

3・格差社会の急速な広がりに対し、より効果的な取り組みを行なうこと。

 

 そして第二章・「アメリカを誤らせたグローバリゼーションとネオコン主義」と続き、先代ブッシュ、クリントン、ブッシュの施政への各章に進んでいきます。冷戦後の短期間、アメリカ政府は「新世界秩序」なるスローガンを掲げ、世界情勢と新たなチャンスについて語ったのですが、其の概念も曖昧のまま、それを浸透させる前に大統領選に負け、互いに相容れない歴史観と未来像を持つ、ふたつの概念、即ちグローバリゼーションと新保守主義(ネオコン)が出てきた。このグローバリゼーションは最終的に安定均衡を生み出すため、多数に対する利益の再配分を通じて、少数の受けた不利益は相殺される、という能天気なまでに楽観的ものだと指摘しております。

 

 一方、ネオコン主義は馬鹿正直なまでの一途さ、悲観的な見方、善悪二元論的な雰囲気を特徴とするもので、ブッシュ大統領の時代に大きく花咲いたこと。又、このネオコン主義に図らずも社会における高い位置を与えたのは、各々の著者の意図とは大きく異なっていますが、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1992年)、及びハンチントンの「文明の衝突」(1996年)であったとの指摘です。結果的にはイスラム原理主義との全面衝突の果てに、民主主義が広まって「歴史の終わり」を告げるという認識はネオコン派からしてみると、ポスト冷戦時代の靄をすっきりと射し貫く一条の光となってしまった。著者は以下のように述べています。

 

 共産主義が打倒されたあと、西側先進国の市民たちは新しい目標をいったい何処においたのだろうか、(中略)西側先進国を席巻する「快楽追及の相対主義」。方や、突如として貧困へ突き落とされた旧ソ連圏と政治的にめざめた発展途上国の「食うや食わずの絶対主義」。このふたつの対立がいつまでも続けば、世界の分断が深刻化するのは明らかだった。このような事態を食い止め、適切に対処するためには、世界におけるアメリカの役割を定義する際、もっと高いレベルの道徳観を導入する必要があった。道徳が低いままでは、いくらアメリカが世界のリーダーを主張しようとも、その正当性が認められる見込みなどなかった。道徳を政治に持ち込み、政策の指針として利用したいなら、人道主義の観点から行動を起こさなければならない。人権問題を世界の最優先事項に引き上げ、政治意識にめざめた大衆の切望に応えなければならない。また、道徳的信条に基づく賢明な政治は、リーダーシップを発揮する際、善悪二分論を強調するのではなく、コンセンサスの形成を重視しなければならない。逆にいうと、道徳的信条に基づかない政治は、民衆扇動家の暗躍を許し、突然の危機や新たな脅威を引き起こすのだ。(52頁)

 

 以下【後編】に続く

 

  2015年8月31日

                              清宮昌章

 

参考文献

 

ブレジンスキー「大いなる失敗」(伊藤憲一訳 飛鳥新社)

同      「アウト・オブ・コントロール」(鈴木主税訳 草思社)

サミュエル・ハンチントン「文明の衝突」(鈴木主税 集英社)

フランシス・フクヤマ「歴史の終わり 上下」(渡部昇一訳 三笠書房)

中野晃一「右傾化する日本政治」(岩波新書)

田中均「日本外交の挑戦」(角川新書)

井上卓弥「満州難民」(幻冬舎)

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