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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

「戦艦大和の最後」の吉田満を巡って・・その1

 

はじめに

 

 昨年(2014年)の年末のことですが、久しぶりに自宅の襖、障子張替えを本職に頼まざるを得ず、近所の表具屋さんに来てもらいました。今まで近所に住みながら初めてお会いする田所義行氏です。最近になり海底に沈んだ戦艦武蔵の映像が放映されておりましたが、同氏がその撃沈された戦艦武蔵の上等水兵として乗り込み、奇跡的に生還されたとお聞きし、非常に驚いた次第です。今年で90歳になられても現役を続けられています。尚、お子さん達にも戦争の話、戦地での話はされてこなかったとのことです。偶々、ここ数年で機会があり、某月刊誌からの依頼で同氏とのインタヴューが始まったとのことです。6頁に亘るそのインタヴュー記事のコピーも頂きました。同氏は陸軍の空挺部隊と共に「空の神兵」と謳われた初代海軍落下傘部隊の一人で、セレベス島メナド郊外のランゴンアン飛行場に降下した情況等も載せられていました。その後、上等水兵として戦艦武蔵に乗り組んだわけです。戦闘並びに撃沈された時の状況、又、始めて聞くことでしたが、レイテ沖海戦を前に戦艦武蔵は目立つ塗装に塗り直され、戦艦武蔵は戦艦大和の囮だったかもしれない、との感想も洩らされました。

 

 そんな奇遇があり、「鎮魂戦艦大和」他を著した吉田満に関する粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」を再読、そして2005年9月1日付けに記した私の読書感想でもある拙稿も、改めて顧みた次第です。吉田満については昨年自費出版した拙著「書棚から顧みる昭和」のまえがきにも触れておりますが、私の30代後半の時代に大きな影響を与えたカトリック信者(後にプロテスタントに改宗)でもありました。

 

 その拙稿の当時にも歴史問題が論議されておりましたが、今日の韓国及び中国から執拗に追求される歴史認識問題とは大分状況が異なっていることが分かります。10年という時代の経過があり、その拙稿にも幾分かの修正というか、補助説明が必要ですが私の想いには余り変化はありません。拙著では省いた吉田満と和田良一弁護士のこと、そして和田良一法律事務所の私との関わりも、今回は記してみたいと思います。

 

粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」(中公新書)に関連して

 

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1.和田良一弁護士との関わり

 

 10年前になりますが、何か心穏やかにならない中、1930年生まれの中央公論の元編集長・粕谷一希著「鎮魂 吉田満とその時代」に出会ました。それは吉田満の戦後の航跡を示す姿、更にはキリスト信者の心情を辿った千早こう一郎著「大和の最後、それから」を補足するかのようで、吉田満幼年時代、府立四中、東京高校、東大の学生時代、そして戦後の日本銀行員の時代を知り、改めて吉田満の現代性の重要性を見たところです。

 

 その本書6章「書簡のなかの自画像」のなかで記されているのですが、吉田満が東大法学部法律学科時代の親友である和田良一氏宛の手紙3通、葉書28通を和田良一弁護士がお持ちとのことです。そのいくつかの往復書簡が載せられています。そのうち学徒出陣が目前に迫る中での和田良一氏宛てのひとつを以下紹介します。

 

 昨日奥多摩に練成旅行をした。けふは夜行で帰郷する。たまたま入営の旅行にもなった。九月ごろかへる予定。

 この二箇月、僕は次のことをして行きたい。あの創作の完結、仏教思想研究の熟読、キリストへの接近、このさいごのものに就いて僕は近頃非常に惹かれてゐる。僕のこれ迄の生活は全く真実でなかったために、僕には仕事への希望というものがなく、虚無的であって、そのため、むしろ僕はほっとした気持ちだ。対人関係も一応解決した。すくなくともさう思へる。では又(同書149,150頁)

 

 私の30代後半の時代に吉田満著「鎮魂戦艦大和」に巡りあい、次々と吉田満の著作を読み込んで行きました。その後も私の人生というか、ものの見方に大きな影響を与えた吉田満と和田良一弁護士が親友であったことを知ったわけです。全くの偶然ですが、その和田良一氏は私が岡谷鋼機(株)の人事総務本部時代、会社の顧問弁護士であり、私とも多少の面識もある労働法・労使関係の大家でした。現在は亡くなられ、息子さんが和田法律事務所を継がれています。尚、良一氏の弟子である法律事務所の弁護士先生方には大変勉強させられ、そのうち宇田川昌敏弁護士とは今でも賀状・暑中見舞い等のやり取りをしています。

 

 商社の労働争議史上では、最長のストライキと言われた岡谷鋼機労働組合の本部副書記長時代の経験。その後、いろいろと部門も変わり、今度は全く立場が変わった人事総務本部時代での労使関係正常化への苦闘時代もありました。最後は岡谷鋼機(株)としても大きな課題の一つであった子会社の(株)山崎商工(現 オカヤマート株式会社)の再建に離籍出向したわけです。その社長時代に不良債権の処理、3割の人員整理等々を含めた会社再建(奇しくも山崎商工の顧問弁護士が上にあげた宇田川弁護士でした)、その後は神戸にある義兄の建築会社の経営顧問として懸案の裁判事件の解決に携わってまいりました。労使交渉を含めた私の基盤を作ってくれたのが和田良一法律事務所であったわけです。加えて、その後のいくつかの企業等の再建業務に際し、私が和田法律事務所との関わりを持ったことを相手側の弁護士事務所等が知ることで、大きな力というか影響力を及ぼした次第です。

 

2.本書の意味合い

 

 尚、本書「鎮魂 吉田満とその時代」は2005年に出版されましたが、21年間の中断も経たとのことです。粕谷一希氏としては、戦後60年を前にして、どうしても戦中派の吉田満の想いを繋いでいこうと考えたのだと思います。その序章で、吉田満の「一部の評論家や歴史家がいうように、あの戦争で死んでいった者は犬死にだったのだろうか?」とあげ、以下の文章を載せています。

 

(中略)敗戦直後の風潮のなかでは、占領政策に歩調を合わせて、愚劣な戦争→犬死にとう罵声や風刺で満ちていたためである。徴兵忌避が美徳や勲章のように語られた。戦争の惨禍があまりに徹底していたために、飢餓と混乱のなかで、怨嗟と悔恨のなかで、日本人は我を忘れ、自信を喪失し、敗者の矜持を工夫する余裕がなかった。・・(中略)この敗戦という事態を直視することを怖れ、当時の支配層自体、終戦という言葉を慣用した。この敗戦と終戦という微妙なニュアンスの使いわけによって日本人は負けたという事実認識の真理的負担を回避しようといていたのである。勝っても負けても、戦争が終わったという単純な安堵感はある。そして安堵感は開放感につながる。・・(中略)多くの死傷者を抱え、家や財産を失った大多数の日本人あるいは膨大な職業軍人とその家族を中心に、戦争に参加した人々の立場を考えると、そうした開放感や笑いは違和感を拡大させるものであった。それぞれの開放感は抑制して、死者への鎮魂を共同して儀式として営むべきであった。おそらくこの敗戦への対応の態度のなかに、日本の進歩勢力は早くも日本人としての多数派を獲得する可能性を閉ざしてしまったのである。(同書21,21頁)

 

 粕谷氏は本書で靖国参拝のことにも敷衍し、祖国のために死ぬという人類普遍の美徳の意味を確認するためにも、広い視野、国際的な視野でこの問題に対しなければならない。吉田満の視点はある解決の示唆を含んでいるように思うと述べています。戦後は手のひらを返すように、中国との関係もありますが、マスコミが先頭に立って戦争責任を東條他A級戦犯に押し付け、済ましている現状に私は苦々しさを感じています。尚、第五章・栄光と汚辱のなかで、開戦の詔書が出た日の夕刊・朝日新聞の社説全文が記載されております。当時の世論が知識人を含め、どうであったか知る上で参考になります。

 

 現在の中国及び韓国による歴史認識問題に苛立ちを覚えていますが、わが国において安泰な生活を送りながら、いたずらな正義を振り回す一部の知識人、それに乗るマスメデイアに、現在のどうしようもない歴史認識問題を生み出すひとつの要因があると思っています。

 

 2015年5月18日

                        清宮昌章