清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再び、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道」を読んで  

 

改めて、再投稿

 

 74歳で現役を全て退き、40数年続けていたゴルフは時間が掛るため、テニスに転向しました。(その時点ではオフィシャル・ハンデイは7でした。)、テニスの経験はほとんどありませんが、自宅から歩いて数分のテニスクラブに入会し、午前中はテニス、午後は読書中心の気ままな日常を過ごしています。現役の友人たちもいる中、少し気が引けますが、私としては全く自由な気ままな日々を送ることにしました。

 同時に私なりに読み込もうと選び抜いた本で占められた私の書棚から、私なりに昭和の時代を再検討し、今の世相、更には今後の状況を私なりに考えて観ようとの想いで、はてなブログ「清宮書房」を始め出しました。偶々、テニス仲間が、かって出版社の編集に関わっており、テニスの休憩時間に私のブログを読みたいとのこと。加えて、投稿したブログの幾つかを抽出し、本として出版したいとのことになり、2014年4月、「書棚から顧みる昭和」の自費出版となった次第です。更には、友人達5人が発起人となり、千代田区内幸町のシーボニアメンズクラブで、立派な出版記念を開いて頂きました

 

 大きな地政学的変化に加え、なにふり構わぬ中国共産党習欣平独裁政権による強硬な「一帯一路」等々の推進。昨年から始まったロシアによるウクライナ侵略等々。由々しき自体に世界に遭遇しております。北朝鮮の動向も加わり、とりわけ日本は極めて容易ならぬ状況下に置かれています。

 

 このような状況下のためでしょうか、ここ数年前に投稿した弊・はてなブログ「清宮書房」へのアクセス数は69,000台となっております。下記投稿は2年前のものですが、投稿数100件ほどの中、注目記事の上位5位の中、一位になっております。

 

 また、文芸社より弊投稿の幾つかを抽出し、一冊の本にしたいとのお話を頂き、昨年の春に「メデイアの正義とは何か・・報道の自由と責任」が出版されました。ブログから抽出し

 

 このような経緯の中、再び文芸社より私の半世紀に亘る仕事人生、並びにその中でお世話になった方々、さらには私に大きな影響を紀与えた方々との出会いをブログから抽出し出版したいとの有り難いお話を頂きました。この7月までには全国出版の予定です。

 この度の膵臓癌で入院し、抗がん剤化学療法を続けますが、後数年は生きると思います。寿命まで、癌と戦って行く所存です。親友曰く「闘って行くことが我々の共通の使命だ。」私も納得です。

 

2023年3月10日

 

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再々投稿に際して

 

 今から数年前に投稿した、佐伯啓思著「アメリカニズムの終焉」を若干の補足を加え、今年1月25日に再投稿しました。本投稿が96件の中で注目記事の1位になってきております。私としては何か複雑な気持ちです。コロナ禍の自粛生活に加え、アフガン、更には今回の菅政権の政変(?)の影響でしょうか、弊ブログの数年前の投稿へのアクセスが急増し、この一ヶ月半で2,500件を超え、総数も64,000台半ばに入ろうとています。

 尚、色々と考えさせられ、2020年3月11日に投稿した、「加藤陽子著『天皇と軍隊の近代史』を読んで思うこと」が注目記事の5位に浮上してきました。

 

 加えて、下記の再々投稿が4位に返り咲いております。私としては嬉しく思う半面、何か複雑な気持ちもあります。長いブログですが、改めて開いて頂ければ幸いです。

 

 2022年2月20日

                        淸宮昌章

再・再投稿に際して

 

 元投稿は、民主党政権時に起きた東日本大震災の2011年3月11日、その7年後の2018年3月11日に投稿したものです。加えて、2019年5月に安倍前首相の「桜を見る会」がマスメデイアで取り上げられ、国会論議と称される、謂わば、マスメデイアによる「政治ショウ」の現象に私は嫌気を通り越し、強烈な怒りをも覚えておりました。そうした状況に鑑み、2020年12月14日に元投稿に若干の追加を加え、「再投稿にあたって」として再投稿した次第です。

 

 そして、今回も週刊誌のネタに基づく総務省幹部と東北新社、NTT等の食事接待を巡る国会論議。それを放映し続けるマスメデイアの現実。官僚と企業幹部との食事接待(?)そのものを是とするものではありませんが、私はマスメデイアに翻弄される政権の現状と共に平和ボケの日本の現状に危機感を持つのです。

 と共に、国会論議と称する映像に現れる国会議員の人数の多さ。今の日本の現状にあって、こんなに大勢の国会議員が、果たして必要なのか。加えて、政府・官僚に正義漢ぶって質問、問い詰める国会議委員の様相です。その質問者の品格の無さはどこから来るのでしょうか。果たして国会議員と称してはいるものの、その実態は所属する利益団体から派遣された者に過ぎないのではないのかと、私は考えてしまうのです。何故に彼らは国会議員に選ばれたのでしょうか。正に天に唾をすることになりますが、改めて、国会議委員の人数と、質そのものが正に問われる、真剣に問うべき現状に来ていると考えますが、如何でしょうか。

 

 私は何も現在の自・公政権を賛美しているのではありません。方や、立憲民主党をはじめ野党の思想・政策は何なのか。時の政権に、ただ反対するだけが野党の本質なのでしょうか。現在の野党は関係ないというかもしれませんが、民主党政権時には沖縄普天間基地等々の問題を含め、官僚も活用できず、協力体制も構築できず、冷厳の現実には対処できない。否、現実を見ることも識ることもせず、只、その政権が右往左往していた時代を私は想い起こすのです。

 

 加えて、正義の仮面を被った如きですが、実態は謂わば商業主義にどっぷり浸かったと言うかべきものがマスメデイアではないのか。自己規制がないマスメデイアはより深刻な問題を持っていると考えます。マスメデイアに創り出される世論と称するものは、戦前・戦中と同じく、日本をより深刻な状況に追い込むと私は考えております。そんな危惧感の中、本書を読み進めました。

 

 そして今年の3月5日、コロナに関し、一都三県の緊急事態宣言(自粛規制解除)が二週間延長するとの政府発表がされました。その延長は日本のみならず、世界の各国の現状を観れば私は当然のことと思います。只、今回の東京オリンピックは東北大震災の復興を掲げ出発したわけですが、今回のコロナウィールスのパンデミックにより東京オリンピックの様相は大きく変わりました。世界各国からの観客なき東京オリンピックは異様なもので、果たしてそれがオリンピックといえるでしょうか。方や、日本のみならず世界各国においてコロナウィールスがこの夏までに収束するとは誰も考えてもいないのではないでしょうか。

   

 日本のみならず世界の状況が激変したわけです。今後はより早く東京オリンピック中止を打ち出し、このコロナ禍の収束に官民一体となり、日本の復興に向けて全力を注ぐことが、先ずもって今の日本に必要なこと、と考えます。次のオリンピックは私も85歳となり、今回の東京オリンピックが人生最後かなと楽しみにしておりました。また、その中止は各方面に多大な影響を与えることは私なりに十分理解しております。その上で、マスメデイアに翻弄される世論と称するものに惑わされないことが、今は一番肝要なことです。

 

 そんな思いもあり、今回改めて再投稿する次第です。繰り返しになりますが、マスメディアの現状と、それに左右される世論と称される現象に揺れ動く時の政権に私は極めて危機感を抱いております。私なりの解釈も、あるいは誤解もあるかもしれませんが、以下、筒井清忠氏の「戦前日本のポピュリズム」を中心に、改めて、ポピュリズムとは何か私なりに紹介して参ります。

 

 20213月7日

                           淸宮昌章

再投稿にあたって 

 

  前首相主宰の「桜を見る会」を巡って、またも愚劣な政治ショウが始まった、との私の印象です。何時もながら国会審議と称する議会で、あたかも正義の仮面を被ったかの如き主張、質問を浴びせる野党議員御自身、更にはその議員が所属する野党はそれほど清廉潔白なのでしょうか。離散・集合を繰り返す野党の政党交付金残高の推移ひとつを見ても、野党各党は果たして清廉潔白と言えるでしょうか。強いては、頻繁な離散・集合現象は自らが選ばれた政党主体の選挙、そのことへの問題をも含むのではないでしょうか。

 

 加えて、野党各党はそれぞれが数%の支持率しかないのは、何故なのか。何故に若い層に自民党に比べても支持が少ないのか。ただただ、自民党政権を倒せばこと済むのか。野党各党の政策、あるいは思想・信念は何なのでしょうか。野党各党はそうした基本的課題・問題点を明示しているとは私は思えないのです。

 尚、少し脱線しますが、野党のひとつである共産党は戦後、「共産党」から「日本共産党」へと変転しているようですが、その綱領は何なのか、その綱領にどんな変化があるのか、ないのか。何故に、その委員長は20年間という長期間にわたり、その席を占めることができるのか。さらには中国共産党独裁政権の現実をどう見ているのか、私は知りたいところです。

 

 方や、国会審議もさることながら、より問題なのはマスメデイアにより作られる世論と称するものに翻弄される(政権の)現実です。知力よりは体力を重視するかの如き週刊誌、テレビ、新聞等の報道番組と称するマスメデイアの現状は極めて危険な状況に日本を陥れているのではないでしょうか。マスメデイアは何を目指しているのでしょうか。何を世論として形成したいのでしょうか。私には単に商業主義に毒された企業体そのものとしか思えないのです。本来であれば、朝日新聞、毎日新聞をはじめとして、報道機関(?)と称されるマスメデイアは戦前・戦中の自らの行動を深く反省し、その上に立ち、改めて報道とは何か、報道の在り方とは何なのか、最も真摯に考えるべき主体のはずではないでしょうか。残念ながら、今もってその兆しは私には見られません。むしろ戦前、戦中と同じように誤った世論作りをしているように私には見えるのです。今までも何度となく記しておりますが、そのマスメディアを掣肘する者はなく、最大の権力を持っているかの如き状態が今日の現実ではないでしょうか。若者が政治から離れていく、由々しき現実の一因に繫がっているようにも想います。

 

 極めて深刻な「香港の市民による抗議活動」を他人事のように報道している日本のメディア。果たして、その報道の在り方に問題はないのか。今までも何度となく記しておりますが、中華大国の復権と称するものに賭け、急速に軍事力をも高め、一帯一路を強引に進める共産党独裁政権の中国。ウイーグル、チベット等の少数民族等々への人権問題、思想・言論・宗教の統制、情報の異常な遮断等々、価値観を大きく異にする中国の現実は、今後も変わることはないでしょう。その国家主席習近平氏を来春早々に「国賓」として迎える、とのこと。「国賓」として迎えようとしたことは香港騒乱以前でることは承知しております。ただ、現在の状況にあって日本のメデイアはどう考えているのか、あるいはどう考えるべきなのか、その上で何を報道すべきなのか。

 その発症は人為的とも思えるコロナウィールスによるパンデミックにあって、「桜を見る会問題」を四六時報道しているメデイアの現状は、もはや平和ボケだけでは済まされる問題ではありません。如何でしょうか。

 

 1989年、第二次天安門事件後、欧米に先駆け経済制裁を解いた日本。その後も、江沢民主席、胡錦濤出席を「国賓」として招いたものの、中国の日本へのその後の対応は如何にあったでしょうか。更に遡れば、中国が旧ソ連と武力衝突まで行きかけた背景の中、米国次いで日本にも目を向け、結果的には1972年、日中国交正常化への道筋を経たものの、その後の中国との関係は一向に改善に進まないのは何故なのか。

 今回の習近平主席が「国賓」としての来日要請問題はアメリカのみならず、価値観を共有する世界諸国に対しどのような影響・結果をもたらすのか。加えて、一方的に中国の歴史認識を日本に押しつけるかの如き、今までの中国共産党独裁政権の現実に問題はないのか。戦後の日本の歩みをことごとく否定するかの現状に日本は甘んじ過ぎるのでないでしょうか。

 

 今日の現状と1972年日中国正常化以降の過去を省みて、来春早々と言われる習近平主席を「国賓」として迎えることの危険性と疑問を私は禁じ得ません。欧米をはじめとして世界各国が日本をどう見るでしょうか。日本は誤った方向に加担する国、との強い印象を世界に発信することに繋がるのではないでしょうか。今後の日本は極めて厳しい立場に追い込まれると私は考えます。

 

 下記、投稿は約二年半前(2018年3月11日)ですが、今回のコロナ禍にあって、若干の追加修正を加え、再投稿するものです。

 

 2020年12月24日

                            淸宮昌章

 

まえがき

 

 昨今の国会審議を見ていて、やりきれないと思うのは私だけでしょうか。本来,審議・討議すべき法案は何ら触れず、関連事項と称するものに莫大な時間を労し、時には審議も欠席放棄、そして時間だけ進んでいくこの現状は一体、いつから始ったのでしょうか。籠池夫婦の逮捕拘留にも繫がった森友学園問題、更には天下り斡旋問題で引責辞任し、不可解の言動を繰り返す文部科学省、前川喜平前次官が述べる加計学園の忖度問題等々、マスメデイア報道は実に嘆かわしいことではないでしょうか。奇しくも今回、私が掲題の筒井清忠氏が本書で取り上げておりますが、戦前の若槻礼次郎内閣時の怪文書から始った大阪松島遊郭移転問題、更には斉藤内閣時の帝人事件等を思い起こすわけです。

 

 現在も国会審議と称するものが行われております。野党の国会での行動は、ただただ時の政権を倒す為の、行き当たりばったりの行為であり、そこには理念・思想も政策もない、国会議員とは到底思えない品格を欠く烏合の衆の追求としか私には思えないのです。ただ残念なことはその国会議員を選んだのも、われわれ国民です。少なくとも5万人以上の支持者のもと、議員が選出されてきたわけです。他人に転嫁出来ないわれわれ自身の問題なのです。

 友人の大西章夫氏によれば、「政治家はマスコミと国民のレベルの反映であるから、天に唾をするようなものでしょうね。」とのこと。残念ですが、そうかもしれません。

 

 このコロナ禍にあっても、中華大国への復権を着々と進める中国。そして極めて危険な朝鮮半島の現状のみならず、地政学的にも大きく変動している中、国会では何を論議しているのか。と同時にマスメデイアは何を報道し、何を世論として形成したいのか。私はマスメデイアにより作られた世論と称するものに翻弄され、次々と内閣が倒れ、戦争に突入し、敗戦に至った戦前を思い起こすのです。われわれは何を反省しなければならないのか。何を考えなければならないのか。更に加えれば、戦後の日本は何か根本的なことが抜け落ちてしまった、と思うのですが、如何でしょうか。

 

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 佐伯啓思氏が「脱 戦後のすすめ 日本の悲劇」の中で次のように述べています。

 他国の憲法は近代憲法として不完全であるものの、その不完全性のゆえんは、国家の存立を前提とし、国家の存立を憲法の前提条件にしているからだ。いわばわざと不完全にしているのである。ただひとり日本国憲法だけが、近代憲法の原則を律儀に表現したために、国家の存立を前提としない、ということになった。平和主義の絶対性とはそういう意味である。厳格に理解されたいっさいの戦争放棄という、確かに考えられる限りのラデイカルさをもった日本国憲法の平和主義は、自らによって国を守る手立てをすべて放棄するという意味で、国家の存立を前提としないのである。恐るべきラデイカルさである。(脱 戦後のすすめ221頁)

 私は佐伯氏の指摘に何時もながら共感を覚えます。これが戦後の日本の大きな陥穽に繫がったのではないでしょうか。

 

 一昨年の10月13日になりますが、近衛文麿の生涯を描いた、筒井清忠著「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」を私は取り上げました。二・二六事件の謎を解き明かす、同氏著「陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点」、更には、若手研究者からなる、同氏編「昭和史講義」等も読み進めてみました。そして、昨年12月に掲題の筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」が発刊されたわけです。日本近現代史の泰斗の指摘に私は学ぶとともに、大いに感銘を覚えた次第です。今回も本書全体を紹介するのではありませんが、本書に沿って、私が改めて再認識した、更には深く共感したこと等を紹介したいと思います。本書と離れることも時にはありますが、ご容赦願います。

 

1 ポピュリズムとは何か

 

 ヨーロッパ政治史を専攻される水島治郎氏はポピュリズムの定義として、次のように述べています。

 

 大まかに分けると、第一の定義は、固定的な支持基盤を越え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル。第二の定義は、「人民」の立場から既成政党や政治エリートを批判する政治運動をポピュリズムと捉える定義である。即ち政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層(および社会の支配的な価値)を批判し、人民」に訴えてその主張の実現を目指す運動とされる。

 

 一方、筒井氏は掲題の本書「戦前日本のポピュリズム」の「まえがき」で、日本においてポピュリズムが問題にされ出したのは小泉純一郎首相の頃からであろう。その後、国内的には橋下徹現象から小池百合子東京都都知事の誕生。国際的には英国独立党、フランス国民政党、オーストリア自由党の台頭、更には英国のEU離脱決定、トランプ現象などであろう。しかし氏はそのような現象の指摘に、水島治郎氏とは関連はありませんが、何か違和感を持つ、と述べております。その違和感について、氏は次のように記しております。

 

 筆者の違和感というのは、ポピュリズムの定義は色々あるが、要するに大衆の人気に基づく政治ということであるから、それなら日本ではとうの昔、戦前にそれが行われていたということである。そこには「革新」ということを加えても事態にはあまり変わりはない。言い換えると、ほかでもない日米戦争に日本を進めていったのがポピュリズムなのに、この戦前のポピュリズムの問題がまったくと言っていいほど取り扱われていないということである。そして戦前の戦争への道の反省というようなことがしきりに言われるのだから、このことはそのうち誰かが書くだろうと思っていたが、とうとう一向に現れないまま今日に至った。(本書・戦前の日本のポピュリズム ⅱ頁)

 

 そのような視点の下、筒井氏は日本において初めてポピュリズム現象が始った1905年の日比谷焼き討ち事件を詳細に記すとともに、1901年日米戦争開始の36年、1925年普通平等選挙制成立からは16年の歴史を語って行きます。

 

2 日比谷焼き討ち事件

 

 吉野作造が「民衆が政治上に於いて一つの勢力として動くという傾向の流行するに至った初めは矢張り明治三十八年九月からと見なければならぬ」と述べているとのこと。いわゆる日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の締結に反対する国民大会が暴徒化した事件です。賠償金の支払いと樺太譲渡を巡る交渉が難航し、講話問題が大きな政治問題に発展したわけです。徳富蘇峰の「国民新聞」を除き、「東京朝日」を含め新聞各社がその講和条約反対の論陣を張り、世論を煽り、講和問題同志連合会の「国民大会」を企画し、大衆運動を起こしたわけです。その事件の逮捕者は約2000名、起訴者308名、警備側の負傷者約500名、群衆の死者17名、負傷者2000名から3000名ということです。いわば、当時の政治に強い関心を抱いた東京・都市の知的青年達を中心とした、現状変更の意欲が強いが社会的に満たされない、典型的な「革新青年」、「改革派」が興した事件であり、昭和に至るまで繰り返されるパターン、ポピュリズム的傾向が強いわけです。

 

 そしてその事件の考察にとり重要なことは、戦争中に新聞社が主催者として戦争祝捷会や提灯行列を開き、大衆を扇動し、時には死者まででる状況を作っていたのです。そして事件に至る迄には、「まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報じることで運動の気勢を高めただけでなく、運動そのものの組織にあたったのである。・・(中略)判明する限りのほとんどすべての集会には、新聞記者が発起人あるいは弁士の一員として参加しているのが実情である。・・(中略)新聞社もしくは新聞記者グループが中軸となり、そこに政党人、実業団体員、弁護士が加わって中核隊が構成されているのである。のちの護憲運動・普選運動も同様の形成方式になっており、その起源はこの日比谷焼き討ち事件に象徴されるポーツマス講和条約反対運動にあったと明確に指摘されうるのである.・・神聖な『皇居』を目標としつつ、集合と解散の身近な場所として日比谷公園を設定するという形が成立しつつあったのである.・・(中略)日本に最初に登場した大衆は天皇とナショナリズム(それも『英霊』的なものによって裏打ちされたもの)によって支えられたそれであったことが、明白に理解されると思われるからである。(同 本書、30~34頁)

 

3 劇場型政治の開始

 

 1925年普通平等選挙法が成立し、翌年に原敬に続く二人目の「平民宰相」である若槻内閣が成立します。憲政会は少数与党の為、苦しい政権運営が始ります。そこに三つの大きな疑惑事件、即ち「朝日新聞」が「松島遊郭にからむ奇怪文書の内容」「政界の大渦巻」「各政党員は全部」などの見出しで、この事件を大々的に報道した松島遊郭移転問題。加えて、担当した石田検事が怪死する陸軍機密費事件、松島遊郭、陸軍機密費事件はいずれも時の政権を倒す為の新聞報道等による、でっち上げとも言うべき事件でした。更に、大逆事件でもある朴烈怪写真事件も新聞メデイアが大きく報道します。時の政権が普通選挙を控え、政策的要素よりも大衆シンボル的要素が高まったことを政権は十分理解していなかったことにあります。即ち「劇場型政治」への無理解が大きな問題なのです。更に加えると、この一連の事件についての問題は、朴烈問題で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人が、以後これをたびたび駆使します。そして「劇場型政治」を意図的に展開することになり、次の田中義一内閣の統帥権干犯問題、更には天皇機関説問題へと繫がっていくわけです。

 

 その田中内閣の崩壊も張作霖爆破事件はその要因の一つにすぎません。宮中に近い貴族院と新聞世論がその背景にあったわけです。即ち、政党外の超越的存在・勢力とメデイア世論の結合という内閣打倒の枠組みがいったんできると、政党外の超越的存在・勢力が入れ替わり、それとメデイア世論の結合によって、政党政治の崩壊が起きやすくなったのです。そしてそれは再生され、「軍部」「官僚」「近衛文麿」などと形を変え政党政治の破壊に繫がっていったわけです。

 

 筒井氏は「当時、多くの知識人は、既成政党=ブルジュア政党への失望と批判ばかりを語り、同時に新興の第三極としての『無産政党』の発展に期待していたのだった。二大政党の意義と理念を語ることができなかった彼らは、『無産政党』が内訌を続けて国民多数の支持を得られず夢が破れると、今度は『軍部』や『近衛文麿』『新体制』などに期待することになる。勝負は、マスメディアの既成政党政治批判と天皇シンボル型ポピュリズムが結合しはじめたこの時期につきはじめていたとも言えよう」(110頁)と述べています。重要なことは、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆モクラシー状況=ポピュリズム的状況への洞察なしに、現代に活きる反省には結びつかない、との筒井氏の指摘です。そして以下のように記しております。

 

「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は、「劇場型政治」を忌避するばばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命をたどることになろう。(中略)一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアルな要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ、大衆デモクラシー状況=ポピュリズム的状況に対する明敏な洞察からネイテイヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和前期の政治を「劇場型政治」の視点から理解していくことの必要性が痛感される所以であり、繰り返すが、このことに無自覚な側は敗れていくし、また過去のこの時期にこれが起きたことに無自覚な側はまたしても敗れていくのであろう。(同 本書92頁)

 

 如何でしょうか。現在の森友学園問題、加計学園問題等においても、現政権はそのような視点・洞察とそれへの対応が重要と思うのです。戦前の実例を十分に検証・参考すべきと考えます。

 

4 マスメデイアの状況と変貌

 

 以上のように戦前に於いては、マスメデイア特に新聞の在り様が大衆世論と称するものに多大な影響を与えてきました。満州事変、五・一五事件等々、更には近衛内閣との関わりについて、筒井氏の見解を見ていきます。

 

 その1 満州事変と新聞の変貌

 

 1931年9月18日の満州事変の勃発前には、大正期以来の軍縮に加え、1931年6月ごろから更に陸軍軍政改革(軍縮)が進められます。当時は新聞の力が強く、軍は新聞が作る世論にも追い込まれていました。そこに満州事変が起こると同時にマスメデイアが大きく変貌します。「大阪毎日」が部数を拡張している中、朝日新聞の不買運動もひとつの要因でしょうが、事変後、「朝日」は満州事変支持へと大きく変えていきます。そしてその結果、各新聞社は満州事変報道を誇らしげに掲げ、世論をその方向に引っぱっていったのです。結果、軍は軍縮どころか肥大化していきます。事変が一段落した翌年春、荒木貞夫陸相は以下のような感謝を述べるわけです。

 

 今次満州事変・・各新聞社が満蒙の重大性を経とし、皇道の精神を緯とし、能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したることは、日露戦争以来、稀に見る壮観であってわが国の新聞、新聞人の芳勲偉功は特筆に値する。(新聞及新聞記者1932年三月号 146頁)

 

 その2 五・一五事件裁判等と新聞報道

 

 1933年の重要な事件は1月、ヒトラー首相就任、3月、国際連盟脱退、5月、滝川事件等々とありますが、国民の社会意識という点からはその前年に発生した五・一五事件の裁判が開かれ、その報道が新聞により大々的に行われたことです。加え、五・一五事件と相即の関係にある血盟団事件(井上準之助蔵相、団琢磨三井合名会社理事長の暗殺)の公判についての新聞各社の報道です。「大阪毎日」のその見出しは「血盟団の大公判開く 大事決行の信・・“胸深く宛らの奔流” 日召厳かに答え満廷静粛」となります。即ち犯罪者の陳述を傍聴人が"静粛"に聞かされたとされ、五・一五事件の前奏曲をかなでるものになります。そして、二つの事件が二編構成の音楽にたとえられ、血盟団事件は「同志十四名が昭和維新を目標に」と、報告者自身が被告らの言う「昭和維新」に同調的な姿勢が歴然と感じられる報道姿勢なのです。それは裁判の進行とともに昂進し、五・一五事件裁判と社会の分極化に繫がっていくのです。筒井氏は五・一五事件裁判のポイントであるポピュリズムの背景として、以下のように記しております。

 

 第一は普通選挙決定(1925年)、実施(1928年)によりポピュリズム化が開始されたが、政党の勝利で官僚に対する「政治有利」が確立したことが「政党専横」と見られ、批判の対象になった。そしてそれが官僚的なもの(軍人)の復権志向となり、それとマスメデイアとの結合傾向が見られはじめたこと。

 

 第二は大正後期以来の軍縮時代の軍人抑圧に対する不満・怨恨がロンドン海軍軍縮条約問題における「政党優位」とその期限切れの1936年危機の切迫が軍人の復権につながった。

 

 第三に大正後期以来の左翼による現在の支配体制への批判(不平等批判)がソ連の支援を受ける外来性の為、ナショナリズム志向が増大し生じた「大転換」の状況に、ナショナルな青年将校らの運動と、マスメデイアの同調的報道が適合し、肥大化していった。そして、その平等主義的「革新」志向は継続しつつ「天皇型」強化になっていった。

 

 その3 国際連盟脱退と新聞報道

 

 1933年の国際連盟脱退には、松岡洋右全権と並んで明治・大正・昭和三代に亘り外相となった内田康哉外相を挙げなければならない。内田外相はヴェルサイユ講和会議、ワシントン条約の際に尽力、西園寺らに高く評価され、満鉄総裁時には陸軍からも期待されていた人物です。中国・英国・米国の巧みな連携の中、米国での屈辱的扱いから、内田の内面に英米に対する大きな不信を植え付け、彼の中にアジア的のものを作っていった、としています。そして外交演説で満州国の独立はかの有名な文言「国を焦土にしても此主張(満州国の承認)を徹すことに於いて、一歩も譲らないと云う決心を持って居る」に繫がっていくのです。

 

 方や、松岡も「満蒙は日本の生命線」とのかの言動は、当時の国際社会の理解は得られないものの、関東軍幕僚の論理になっていったのです。そして、此までのいかなる公文書よりはるかに日本の立場を認めたリットン報告書を、新聞各紙は一斉に非難、全国の新聞132紙がリットン報告書受諾拒否共同宣言を出すに至るわけです。そして、2月7日の日比谷公会堂における対国際連盟緊急国民大会がNHKにより全国中継され、「国際連盟脱退、帝国全権をして即時撤退帰朝せしむべし」との宣言が採択されます。NHK全国中継の政治的影響力が発揮された最初の機会でありました。松岡の背後にはこの国民の「声」があったのです。そして、帰国した松岡全権は横浜駅から東京駅まで「全権列車」が特別編成され、群衆が歓呼で迎えたのです。

 

 太平洋戦争下、当時の政治・経済状況や身辺の生活をいきいきと記した記録「戦争日記」をも記された、海外経験の長い外交評論家・清沢烈は「輿論を懼るる政治家」が闊歩する現状の危険性を激しく指弾し、「欧米には老練のジャーナリストが多く、彼らは知力で勝負しており、優れた分析力を見せるのに、日本の新聞記者は若者ばかりで、ジャーナリズムは体力で勝負するものだと日本人は勘違いしていると嘆じた。また、欧米のジャーナリズムは厳密な統計など正確なデーターに基づいた報道を熱心に心掛けているのに、日本のジャーナリズムでは、不正確なものが平気で横行しており、ポピュリズムに足を取られやすい危険性の高いことも強く指摘している。」(戦前日本のポピュリズム209頁)と記しております。何かこの現象は現在でも当てはまることではないでしょうか。

 

 日比谷焼き討ち事件が日本のポピュリズムの起源となりますが、国際連盟脱退の時点では下から上まで大衆世論に覆い尽くされていた。すなわち外交問題における日本のポピュリズムが、明治と異なり昭和前期には、ある完成段階に達したことを告げたのが国際連盟脱退事件なのです。

 

その4 帝人事件と新聞報道とその責任

 

 帝人事件とは1927年の金融恐慌の煽りで倒産した鈴木商店の系列企業であった帝国人造錦糸(株)の株式を財界人グループの関係者が政府高官の口利きで、台湾銀行から不当に安く譲り受け、時の蔵相等や大蔵省幹部が謝礼として受け取ったとする事件です。本書ではその経緯と当時の新聞の報道につき、くわしく記しております。現在の森友学園問題等々にも参考になるのではと思い、長くなりますが以下、紹介いたします。

 

 事件の発端は1934年1月、「時事新報」の武藤山治がスクープ、関直彦が貴族院本会議で政府高官の仲介で帝人株が不当売却されたと追求し、事態が発展していきます。当時の大阪朝日は次のように報道します。

 

 暴露された株売買の裏面 驚くべき策謀と醜悪な犯罪事実 背任として最も悪質、検察当局の鋭いメス (中略)検察当局の鋭い解剖のメスが一度この問題に加えられるや、その裏面に驚くべき策動と醜悪な犯罪事実がひそんでいたことがことごとく暴露するに至った。しかもこの事件は帝人と台銀の関係を歴史的に回顧する時背任事件として最も悪質なるを思わしめるものがあり更に綱紀粛正を標榜する現内閣の大官がこれに関係を有する事実まで暴露されたことは最も遺憾であるといわれている。(同 本書213頁)

 

 その後も明確な証拠が提示されているわけではないが、報道は「背任罪の核心」「収賄罪は成立」等々の事実が読者に感じられる報道が続けられます。そして1937年10月5日まで265回の裁判が開廷され、同年12月16日、被告16名全員が無罪という空前の裁判結果となります。そのときの東京地方裁判所の全員無罪の判決の中で、事件そのものが「空中の楼閣」であることが明記され、「今日の無罪は証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである。この点は間違いのないように」と驚くべきことを裁判長が語ったのです。その判決に対し「大阪朝日」は「何か割り切れないで」始まり、自ら同調した検察を「司法ファッション」などと糾弾して、「斉藤内閣の総辞職」には全く無関係のごとく書き、その「社会的の損害は到底補うことは出来ないのである」としたのです。そして著者は次のように極めて重要な指摘をします。

 

 すなわち新聞は、当初検察に乗って財界・官界要人を激しく攻撃しておきながら、無罪となると今度は検察を糾弾、自ら内閣を倒したことには無関係を装い、損害に対する補償も無頓着のままやりすごしたのだった。新聞は政党攻撃を開始してから、田中義一内閣攻撃では天皇・貴族院による倒閣を支えた形になり、五・一五事件裁判では陸海軍とともに世論を扇動するなどしてきたが、今度は司法官僚の「社会改正」と組み、無罪の人たちを攻撃し内閣を倒したのだった。

 1934年に起きた事件の判決が三年後に無罪と出たとしても、内閣が倒れ、天皇機関説事件があり、二・二六時件などがあった後では、人々の記憶が大きく修正されるものではないだろう。こうして、この事件は政党・財界の腐敗を印象づけ、正義派官僚の存在をクローズアップさせた事件として記憶に残るものとなった。言い換えれば、政党の後退と官僚・軍部の擡頭の方向へのマスメデイアによるポピュリズムに大きくプラスした事件なのであった。(同 本書224頁)

 

5 近衛内閣の時代 日中戦争と日米戦争へ

 

 近衛文麿については本投稿の冒頭にも記したように、二年前の10月5日に、筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」を取り上げ、私なりの感想など詳述しております。それと重複はしますが、本書でも氏が述べられておりますので若干紹介致します。

 

 世論の圧倒的な賛辞の下、1937年6月に第一次近衛内閣が発足します。サプライズ人事として、大阪朝日新聞元記者、信濃毎日新聞元主幹であった風見章を内閣書記官長に就任させます。いわゆる時として人が陥り安いサプライズ人事です。そして風見章を昭和研究会に入会させます。いわゆる日本最初の本格的知識人ブレーンです。その昭和研究会は錚錚たるメンバーで、蝋山政道を中心に、三木清、東畑精一、笠信太郎、高橋亀吉、中山伊知郎、大河内一男、杉本栄一、風見章、矢部貞治、尾崎秀実、宗像誠也、清水幾太郎、林達夫、三枝博音他。そして後に稲葉秀三、勝間田精一、和田耕作他も参加していきます。このような当時の第一級の知識人をブレーンに持ちながら機能せず、日本は破局に向かっていったのです。何故なのでしょうか。このことは現在においても改めて研究しなければならない重要な点だと、私は思います。

 

 残念ながら、ポピュリズム的性格で成立し、教養主義者といわれた近衛にとって、戦争は最も取り扱いの難しい問題でありました。内閣発足の一月後、盧溝橋事件が起こります。そして風見章の発案による史上初めての、官邸において言論機関代表、貴衆両院代表、財界代表と協力要請の為、会合を30分おきに開きます。翌日の新聞各社は「挙国一致の結束なる 政府の方針遂行に協力・・」と対外強行政策姿勢の報道をしていきます。かの有名な「爾後国民政府を対手とせず」に繫がり、「トラウトマン」和平交渉は潰れていきました。著者は次のように記しています。

 

 議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。逆に言うと、議会と世論が弱ければ和平工作は成功していたかもしれないというのが実相なのであった。ここにポピュリズム的政治の危険性が明確に見て取れるといえよう。近衛内閣はポピュリズムによって成立し、ポピュリズムによって戦争を拡大し、泥沼に追い込まれたのであった。(同 本書266頁)

 

 1940年7月16日、米内内閣が倒れ、第二次近衛内閣が発足します。綱領は何もなく、「綱領は大政翼賛、臣道実践という語に尽きる」との近衛演説のみで、大政翼賛会ができ、日米開戦、日本の敗戦に繫がっていったのです。尚、その間の経緯と近衛文麿の悲劇は筒井清忠著「近衛文麿」を是非、合わせ一読を頂ければ幸いです。

 

おわりにあたり

 

 新聞各社は近衛文麿が自決した際に、近衛の戦争責任を厳しく論じ、かって紙面で彼をあれほど褒めそやした人を、まるで新聞自らは何の責任もないかのごとく紙面でその死を報じます。日米開戦時から急速に発行部数を倍増した朝日新聞も自らの責任は問わず、否問う精神もなく、”まだ自殺者が足りない"が如きつぎのような紙面となります。二年前の前回の投稿で紹介致しましたが、新聞の在り様を観る上で、改めて以下紹介致します。

 

 降伏以後、最近までの公の行蔵は世人をして疑惑を深からしむるものがあった。逸早くマッカーサー総司令部を訪問したのも、その真意は果たして何であったか。・・(中略)公の戦争責任感は薄く、今後の公生活に対して未練があり、公人としての態度について、無頓着と思われたのである。・・(中略)近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない。・・(中略)降伏終戦以来、戦争中上層指導の地位のありしもの、一人進んで男らしく責任を背負って立つものがない。隣邦清朝の倒るるや一人の義子なしと嘆じられたが、降伏日本の状態は、これに勝るとも劣らないものがある。徳川の亡ぶる際も、まだ責任を解する人物があった。・・(中略)マックアーサー総司令部の発令に追い詰められて、わずかに自殺者を出している有様である。(筒井清忠「近衛文麿」294、295頁)

 

 2018年3月11日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

  同   「近衛文麿」(岩波現代文庫)

  同   「陸軍士官学校事件」(中公選書)

  筒井清忠編「昭和史講義 1 2 3」(筑摩新書)

  佐伯啓思「脱 戦後のすすめ」(中公新書クラレ)

  水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

  清沢烈著「山本義彦編"暗黒日記」(岩波文庫)

  服部龍二「佐藤栄作」(朝日選書)

  同   「広田弘毅」(中公新書)

   追加

  デイヴィッド・アイマー 近藤隆文訳「辺境中国」(白水社)

  阿南友亮「中国はなぜ軍拡を続けるのか」(新潮選書)

  中澤克二「習近平帝国の暗号2035」(日本経済社)

  清沢冽「暗黒日記」(岩波文庫)

  他  

                           以上

 

 

  

 

 

 

  

年末に思うこと

年末に思うこと

 

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 今年も残すところ一日となりました。今月の半ばにテニスのし過ぎでしょうか、右足の膝の内側が痛く、テニスはひかえています。接骨医の話では寒さの為、古傷によるとのこと。従い、時間にも余裕ができ、松本三之介氏著「近代日本の中国認識」(以文社)、及び佐伯啓思氏著「脱 戦後のすすめ」(中公新書ラクレ)を読み通しました。松本氏は丸山眞男に学ばれた、日本政治思想史の重鎮で、1926年生まれです。ご本人曰く最後の大作かもしれません。江戸期儒学から、三木清等による東亜協同体論に亘る日本人の中国との関わりを語る著作です。今年の6月に取り上げた、阿賀佐圭子氏著「柳原白蓮」にも登場する宮崎滔天孫文等との関わり、更には吉野作造石橋湛山三木清の論及は興味深いものでした。ただ、僭越至極な言い方で誠に恐縮ですが、市民講座の原稿を基にした為か、その中身は本題からは、やや離れているように私は感じました。方や、佐伯啓思氏著はいつもながら、その観点は現実そのものであり、深く共感を覚えます。

 

 尚、私は月刊誌の「選択」及び「海外事情」を購読しておりますが、上記、写真の著書はこの正月に読もうと思っています。普段は夫婦二人の日常ですが、正月4日間は息子たち家族がここ練馬に毎年帰郷するため、大賑わいとなります。どこまで読むことができるか分りませんが、上記の著書を含め、改めて、私なりの感想など、近いうちに載せたいと思っております。

 

 蛇足になりますが、今までに加筆及び一部修正を加えた再投稿を除き、2015年3月以降、42編の投稿をしております。私としては、人生の大半を過ごした昭和の時代を自分なりに再検討したく、このブログ「淸宮書房」を始めたのですが、膨大な資料を前にし、呆然としている現状です。尚、アクセス数の関係でしょうか、フェイスブック上では注目記事として以下、挙げられております。一位は変わりませんが二位以降は変動しております。

   

      1.再び・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで。(2016.9.29)

  2.佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて(2017.11.20)

  3.佐伯啓思著「反・民主主義論」他を読んで思うこと(2017.3.11)

  4.再び・三谷太一郎著「戦後民主主義をどう生きるか」並びに五百旗頭真中西寛

    編「高坂正尭と戦後日本」他を読んで思うこと(2016.19)

  5.佐伯啓思著「アメリカニズムの終焉」を読み終わって(2017.5.30)

 

 皆様、引き続きブログ「淸宮書房」を一覧頂ければ幸いです。よいお年をお迎え下さい。

  

  2017年12月31日

                         淸宮昌章

 

佐伯啓思「西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

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急遽入院と手術に際して

ここのところ体調も良く、先月11月4日に「コロナ禍にあって思うこと」を投稿しました。ただ、10月末の定期健康診断の結果、心電図に変化があり、綜合病院を紹介され、24日、再検査の結果、狭心症の疑いとのこと、25日、思いも掛けぬ初入院、そして心・カテーテルの手術、27日には無事退院したことは既にお知らせしております。その際、病院に上掲の本を持ち込み読もうとしたのですが、右手は固定、左手も点滴の為、自由がきかず、持ち込んだ本は一冊も読めませんでした。加えて、病院はコロナ予防対策で、大変な状況でした。諸先生、看護婦、スタッフの方々のご苦労は大変なもので、本を読むといった贅沢は全くできませんでした。後日、上掲の本などにつき、改めて、感想など記したいと思っています。

 

 持ち込んだスマホより3年ほど前に投稿した佐伯啓思『西田幾多郞・・無私の精神と日本人』、小林敏明『夏目漱石と西田幾太郎・・共鳴する明示の精神』を自分なりに、ちらちらと再読しました。漱石と西田の共通項を改めて考え、私なりには意義ある時間であったと思うところです。再投稿で恐縮しますが、改めて、本投稿をご覧頂ければ幸いです。

        2020年12月5日

                           淸宮昌章

 

佐伯啓思「西田幾多郎・・無私の思想と日本人」、小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎・・ 共鳴する明治の精神」を読んでみて

 

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はじめに

 

 一作年前になりますが、毎年開かれる同期のゼミナリステンの集いが、晩秋の京都で行われました。夕暮れ時でしたが、西田幾多郎の「哲学の道」を三々五々、散策致しました。佐伯氏はその「哲学の道」を掲題の本書で次にように記しております。

 

 人のいなくなった夕暮れ時などに来るとこのゆったりとした味わいは格別のものです。哲学の道から疎水を越えて奥へ入ると法然院のあたりにでますが、このあたりのほの暗い静寂は、一瞬、時間が脱落した異次元に引き込まれてしまったような心持ちになります。(8頁)

 

 そんな高尚な心持ちとは、ほど遠いのですが、前回取り上げた佐伯氏の「現代民主主義の病理」の中で触れた、佐伯啓思氏の「西田幾多郎」及び小林敏明氏の「夏目漱石と西田幾多郎」について、僭越ながら私なりに興味・共感を覚えた諸点を記して参ります。

 

 尚、ご存知のとおり、佐伯氏は1949年生まれ、東京大学で理論経済を専攻され、その後、社会思想史にも進まれた京大名誉教授です。方や、小林氏は1948年生まれ、名古屋大学文学部哲学科卒、現在はライプツイヒ大学東アジア研究所の日本学科教授です。

 

 佐伯氏は「日本という『価値』」の著書の中で、西田幾多郎について以下のように述べています。

 

(西田幾多郎を中心とするいわゆる)京都学派と戦争の関係については戦後様々なことが言われた。戦中にはむしろ自由主義的とされて右翼や陸軍からは批判され、戦後には戦争協力としてタブー視されることになった京都学派の試みについては、ここで詳論する余裕はない。また別の機会に譲りたいが、京都学派の試みとその挫折の意義を改めて検討する価値は十分にあるのではないだろうか。実際、私は、京都学派の「世界史の哲学」の試みは挫折したし、結局、失敗したものだと考える。しかし、では何が挫折したのか、どうして失敗だったのかは改めて論じる必要のあることがらなのではなかろうか。(本書300頁)

 

 一方、小林敏明氏は同じような観点から、掲題の本書の中で、西田幾多郞といえば、必ず禅が連想され、主著「善の研究」を「禅の研究」だと思っている人も少なくないようだ、としながらも次のように記しています。

 

 にもかかわらず、こういう「不可解」な西田の文章が今日依然として読まれ続けるのはなぜだろうか。私は、そこに既成の思索を破ったり、超えたりするような新たな思考の可能性があるかもしれないという予兆めいた期待が、読者の側にはたらくからだと考える。再び物理学に例を取っていうなら、日常の意識では歴然と区別される時間と空間も、時空連続体を考える物理学者にとってはそうでない。それはたんなる時間でも、空間でもないと同時に、その両方でもあるといわざるをえないXである。西田の思索が狙っているのは、何かそのような次元のものである。(211頁)

 

 私は両氏の一面相通ずる観点に惹かれ、とりとめのないものになりますが、両氏の著書を読み比べ、私なりに共感した、あるいは新たな認識を持ったことを、記してみようとおもいます。従い、今回も両氏の掲題の著書全体を紹介するものではありません。

 

1.小林敏明「夏目漱石と西田幾多郎」

 

 夏目漱石、西田幾多郞は同じ時代を共有しながら、互いによく似た体験をしている事実がある。漱石は世界第一次大戦後の1916年に死去。方や西田は1945年、第二次大戦終結直前の数ヶ月前に死去。ほぼ30年の開きがありますが、漱石は1867年、西田は1870年生まれの誕生で、ほぼそのまま明治日本の誕生と重なり、時代を共有し、しかも両者の家族関係も含め、似たような体験を持ったということは、彼らの思想内容にも相通じるものをもたらした、と氏は述べています。

 

家族関係と教育過程他

 

 夏目漱石については今年8月に投稿した、十川信介著「夏目漱石」の「出生と、めまぐるしい教育過程」の項で、その生い立ちを私なりに紹介していますが、江戸牛込馬場下横町(現喜久井長)の町方名主の父のもとに五男として生まれます。父の先妻には二人の姉がおり、夏目漱石は8人目の子供で、漱石は養子に出されたり、戻されたり決して安定というか、安住した生活を送ってはいません

 

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 尚、本題とは離れますが、先月11月の初め、吉祥寺の古本屋で、偶々、漱石の孫である漫画家且つ漫画評論家の夏目房之助著「漱石の孫」を見つけました。漱石が悩んだロンドンの下宿先を尋ねながら漱石を語るものですが、漱石の婦人鏡子並びにその長男純一、そしてその子供房之助の姿が写り出されております。夏目漱石家三代の歴史の一面を語るもので、夏目家のその後を知ることにもなり興味深く読んだ次第です。ご参考までにご一読をお薦め致します。

 

 方や、西田は現石川県かほく市森で、西田得登の長男として生まれます。西田家は代々十村と呼ばれる富農で、身分的には夏目家の名主に似ているが庄屋などより身分が高い名家ということです。そして「この西田家の没落についても、われわれは新時代に順応できずに挫折していった旧家の姿を見て取ることができるが、夏目家の没落同様、やはりここでも投機とか投資といった新たな経済原理の犠牲者を確認することができるだろう。・・(中略)それにしても、なぜ総じて父親が超自我の起源になるのかといえば、おそらくそれは長期にわたる家父長制度の歴史が関係している。この制度の下では、全ての権威権限を体現した家長の行動や判断は、家族成員にとってはそのまま従うべき『模範』として機能してきた。当人たちの意志を無視して勝手に息子夫婦の離縁を決めた西田の父親、子供を物品のようにして里子や養子に出し入れした漱石の父親、これらの理不尽な行為がそのまま容認されたのも、彼らが家長だったからにほかならない。・・(中略)父親の欠落によって超自我の形成が弱い場合には、戒めや罰への怖れが少ないだけに自己制御が弱くなると述べたが、これは必ずしもマイナスの結果ばかりとはいえない。弱い自己抑制は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な『父親殺し』が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。」(20、28,30頁)、続いて、こうした観点から見ると、西田も漱石も若いときから人並み以上の反骨精神や独立心をもっていた人物であることがわかる、と氏は指摘しています。私としては何か分ったような気がしたところです。

 

 両者は、ほぼ同時期に東京帝国大学で学びますが、漱石は英文学本科卒、方や西田は文学哲学科専科卒です。専科はいわば聴講生というような扱いで、その身分差は大変なものだったとのことです。従い、両者は大学時代も直接的な交友はなかったようです。ただ、両者に共通することは「むしろ自由独立を求める反骨精神である。面白いのは、こうした漱石や西田に宿った新しい近代啓蒙の考え方が、消失していく江戸気質や武士道精神の言葉で表現されたという、歴史の皮肉というか妙である。」(42頁) 

 

 更に「漱石のイギリス文学や西田のドイツ哲学というように、彼らが知的方面において一級の西洋通であったことはよく知られているが、同時に彼らは身体的にも(ボート、テニス等の)西洋スポーツの最初の享受者であったということである。言いかえれば、それだけ心身両面において初めて西洋を身につけた世代だということである。そして、だからこそ抱えざるをえなかった彼らの固有の問題が生じた。それが西洋か東洋かという選択の問題にほかならない。今日の目からすれば、このような両極端化は余計なイデオロギーを生み出すだけで生産的ではないということができるかもしれない。だが、彼らの世代はそれは深刻な問題であった。」(108、109頁)

 

 この氏の生産的ではなかったとの指摘には異論があるかもしれません。

 

 加えて、漱石、西田の共通項を見ると、既に記したようにその没年は漱石が第一次大戦中の1916年。西田は1945年の第二次大戦終結直前で、二人の生涯は戦争に始り、戦争に終わった。そして、二人にとって最初の切実な戦争といえば日露戦争であったが、この戦争に対する二人の態度には大きな温度差、切実度の違いがあった。西田は二人の近親者を失っている。専門石川県専門学校の学友と旅順で戦死した西田の愛する弟憑次郎である。従い夏目、漱石共に我が子を失ったときの感情においては共鳴しあったが、日露戦争とりわけ戦死に関しては二人の大きな温度差があった、と指摘しています。

 

 両者の門下生

 

 更に、門弟との関係においても両者にはひとつの共通項があります。漱石に近づいてきた青年たち、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、安陪能成、久米正雄、芥川龍之介等々の漱石山房の集まりです。その関係は「父」を中心に形成された、いわば疑似家族共同体であり、小宮などは自分の家のように漱石家に出入りしております。門下生の一人である松岡譲は漱石の長女筆子と結婚という具体的な形で表われています。

 

 方や、西田においても、その門弟ともいうべき京都学派の哲学者たちの三木清、高坂正顕、高山岩男、上田操、金子武蔵等々において疑似家族共同体の様相を示しております。漱石同様、上田は西田の長女彌生、金子は六女梅子と結婚しております。

 

2.大東亜戦争と西田哲学

 

 その1.

 

 本投稿の「はじめ」にも触れましたが、佐伯氏はその著「西田幾多郞」の中でも、次のように述べております。長くなりますが重要と考えますので、以下紹介したします。

例の大東亜戦争イデオロギーと名指しされた「民族国家の世界史的使命」、という京都学派の思想が、いかに西田幾多郞の歴史哲学をよりどころとしているかはあきらかでしょう。ここで、「個性的な自己」といっているものを、歴史的世界における民族や国家に置き換えれば同じ論理がでてくるからです。民族はひとつの国家として独自の個性をもつには、歴史的使命をもつしかない。ここに「国体」というものの自覚がでてくるのです。それは、自己の底に世界を映し出し、世界において自己を生かすことで、その意味では、決して自民族中心主義でもなければ独善的ナショナリズムでもありません。歴史的使命をもつとは、世界の創造的要素となる、ということです。「民族がかく個性的となると云うことは、それが歴史的形成的であり、歴史的使命を担うと云うことでなければならない。国体とはかかる国家の「個性」であるということになるのです。

 

 しかしながら、こうした西田の歴史哲学は、あの苛烈で混沌とした力と力の対決の時代にはほとんど現実性をもちませんでした。あるいはその表層の言葉だけをすくいあげられて、日本の「世界的使命」だとか「歴史の創造的主体」だといった観念だけが独り歩きしました。その意味では、京都学派の試みは、明らかに失敗したのです。戦争イデオロギーとして失敗したのではありません。帝国主義的な力の対決という歴史的現実を変えることに失敗したのです。状況を変えることができなかったのです。

 

 西田がやろうとしたことは「日本的な思想」を内蔵した「日本」という個性をもって、世界の創造的力点としようということでした。しかしそれはまた、当時の歴

史的状況のなかで歴史に動かされながら作用する外ないものでした。すでに、戦争へ向けて駆動する歴史の威力に抗いすることはできなかったのです。何よりも、日本人自身が西田の意図をほぼ理解できなかったといわねばなりません。とはいえ、彼が「思想」というもろくもあやうい営みだけを頼りに悲惨な戦いを挑んだということだけは記憶されるべきでしょう。(198,199頁 上記西田幾多郞)

 

その2

 

 小林氏は掲題の本書の序章で次のように記しています。長くなりますが紹介します。

 

 漱石は、西洋においては開化が「自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいる」とすれば、日本の開化はあくまで「外発的」で、「新しい波が寄せる度に自分が某中で居候をして気兼ねをしている様な」ものだというが、この指摘は、こと「思想」と呼ばれるものに関するかぎり、明治維新の30年後だけでなく、150年たった今日の日本にも依然として当てはまる。たとえば、第二次大戦以後今日までの「思想」の変遷を振り返ってみるだけでも、マルクス主義、実存主義、現象学、構造主義、ポスト構造主義、分析哲学等々といった流行の波が押し寄せ、人々はそのつど狼狽しながら流行の輸入作業に余年がなかったものの、そのほとんどが実をむすぶこともなく、いたずらに瓦礫の山を築いただけであった。その結果今日の思想や政治意識の空洞化である。・・(中略)漱石も西田も早くから日本におけるこうした思想の危機を予想し、危惧していた。危惧の対象は主として消化されない思想や理念とその結末であるが、彼らの危惧はそういう日本側の表面的な受容だけに向けられてはいなかった。受容される当の西洋近代自体が抱える問題をもいち早く見抜いていたからである。まさに思想における内憂外患が彼らの置かれた立場であった.(10、11頁)

 

 その上で、西田は漱石のように距離を取って外からの戦争批判をおこなってすます、というわけにはいかなかった。西田及び京都学派の戦争問題とその経緯を以下のように述べていきます。

 

 1930年代に入って、軍部とりわけ関東軍や陸軍の独走に歯止めがかかわらず、満州から中国本土への侵略、加えて五・一五事件、二・二六事件等々が起こります。そして、1937年、反軍部の期待を背負った第一次近衛文麿内閣が成立します。近衛はご存知のように、河上肇に憧れ、一高から京大に移り、そして西田の教え子となり、そこに学習院時代の仲間も加わるわけです。従い、軍部とは直接関係をもたない近衛への期待、最後の望みも西田には大きかったのです。一方、陸軍の突出に平行するように、民間でも蓑田胸喜のような狂信的なイデオローグ(デマゴーグ)が三井甲之の主催する「原理日本」などが盛んに知識人狩りの論説を書き、その矛先は左翼のみならず美濃部達吉、滝川行辰、大内兵衛、津田左右吉、京都学派にも及びます。西田には右翼テロの噂も流されておりました。

 

 更に、門下生である最愛の三木清が近衛のブレーンともなるべく、1933年に発足した「昭和研究会」に近衛内閣発足と同時に加わります。そして、例の「国民政府を対手とせず」と宣言した近衛の「東亜協同体論」の構想造りに参加していきます。結果は「この最後の希望」だった近衛も結局は陸軍のマリオネットにされ、その昭和研究会は1940年には大政翼賛会へと解消され、実質的に総力戦下で軍政府の協力団体になっていったわけです。尚、三木清はその運動を利用して最後まで何とか別の道を画策しようとしたのですが、特高に捉えられ、敗戦の翌月、出獄を前にした1945年9月26日、48歳で獄死します。尚、すでに記したように、西田は終戦の1945年、75歳で死去します。尿毒症とのことです。

 

 西田のほうは早々に近衛を見限っていましたが、陸軍、海軍とも西田の名声及び京都学派を利用していきます。文芸誌「文学界」が「知的協力会議」と銘打って主宰した「近代の超克」の座談会や「中央公論」が企画した一連の座談会に京都学派が参加します。この一連の座談会は、当時の有名な文学者、学者、芸術家たちが一堂に会してアジア太平洋戦争を思想的に意味づけようと試みた集まりとして、戦後厳しい批判にさらされてきたわけです。

 

 陸軍、海軍からも西田の名声を利用しようという状況が生まれます。加えて、軍部とは違う民間で独自の政策構想を図る「国策研究会」に請われ、「世界新秩序の原理」を発表するに至ります。「西田としては健全な『科学、技術、経済の発達』であり、偏狭な国粋主義にとらわれず『自己に即しながら而も自己を越え』るような普遍的見地に立った世界政治であった。しかし、この『世界史的使命』は、東条はもちろん、アジアにおける日本の覇権をもくろむ軍部にはまったく理解されることがなかった。かくて西田もまた漱石と同じように、戦争の中で失意のまま死んでいかざるをえなかったのである。」(182頁)、と小林氏は記しています。

 

 今日なら「グローバル世界」と呼ばれる事態を西田は「世界史的世界」と呼んだ。そしてそのことは日本は明治という新時代の始まりと同時に自覚されていた。京都学派の「近代の超克」論議はこうした近代世界システムへの批判の試みではあったが、いかんせんその哲学者の空論気味の言説は、無力にも、戦争というシビアな現実に飲み込まれてしまった。第一次大戦の中で死んでいった漱石は、彼ら以上に、言説を無意味化してしまう戦争の非常な性格を感じ取っていたのかもしれない。(192頁)

 

 経済学者であると共に思想家、方や哲学者である両氏の指摘、観点を私がどれほど理解できたか、否か、は問われますがこのまま進めます。

 

3.「永遠の今」と無始無終の時間

 

 佐伯氏は本書「西田幾多郞」の中で、極めて分りやすく西田幾多郞の哲学を解説しております。氏が持ち続ける思想の展開でもあり、私にとっては共感すると共に極めて重要な指摘と思います。長くなりますが、以下、ご紹介し、本投稿を閉じたいと思います。

 

 「進歩」という観念の背後には、過去、現在、未来へと突き進む直線的な時間の意識がなければなりませんが、西洋で、この直線的な時間の観念を明瞭に生み出したものは、ユダヤ・キリスト教だといってよいでしょう。・・(中略)だからユダヤ・キリスト教の西洋では、人は、最後の審判に向けて、正しく生き、勤勉に生をまっとうするほかありません。禁欲が日常生活のなかにまで入り込ます。ところが,近代も進んでくれば、もはや誰も簡単には神など信じなくなりました。こうなると深い信仰心に代わって、軽い利己心が支配し、禁欲は強欲へと変わってゆく。しかし、ユダヤ・キリスト教が生み出した直線的な時間意識だけは残ってしまうのです。・・(中略)かくて無限の経済成長、自由の拡張、富と幸福の追求、世界のグローバル化といった今日の神話は、時間と世界を作った絶対神を前提とするユダヤ・キリスト教的な思考の世俗化といってよいでしょう。近代にはいって「神」は抜き取られ、この構造だけが残ってしまった。そして近代化とともに、われわれすべてがこの不気味な構造に投げ込まれたのです。(223から226頁)

 

 日本の思惟

 

 日本の思惟、とりわけ仏教的な思想にはこの世の創造も終末もないのです。われわれはどこからかやってきて、いずこかへ去って行く。そのことの繰り返しなのです。かくて西洋と同じ意味での歴史という観念もありません。日本では、歴史とは、そこに壮大な意味が埋め込まれた巨大な舞台というより、ゆく川の流れの如くに次々と時が去ってはまた来る、といった趣のものなのです。・・(中略)この無始無終の時間を表象するのに、われわれは、無限に延びる一直線ではなく、むしろひとつの瞬間を取り出しました。なぜなら、もしも、時間に始まりも終わりもなく、したがって、時間の流れの全体(それが歴史です)には特別な意味がないのだとすれば、大事なのは、今ここでの瞬間だけだからです。・・(中略)人はただ日々違った身体を持ってその都度生きるだけわけではなく、同じ身体を持って同じ脳を使って生きているのです。身体のなかに、記憶や習慣として過去が蓄積されています。こうして「今」のなかにすべての「過去」が入り込んでいるのです。又、同じように、人は常に未来を気にし、未来を予測しながらいきているものだとすれば「今」のなかに「未来も入っているのです。・・(中略)西田にとっては過去へ向かう記憶も、そして未来へ向かう意志とともに、まさに今ここでの「純粋経験」にほかならないのです。世界や時間の外にあって、万物の創造者としての「神」を持たない日本人にとっては、時間は「ただ今」の延々たる移行というほかはありません。人は、そのようなものとして「時」を感じるはずです。・・(中略)わが国の文化の特徴として「情的」なところがある。それは「知的」のものへと傾く西洋とも、また「行的」なものへと傾く中国とも違っている。老荘思想にも見られるが、「時」は無より来たりて無へ帰る、時は「絶対の自己限定「である。そこでは。常に、「無」が根底にあるので、「形」を持って今ここにあるものも、その背後に「無」が透かし見られる。・・(中略)「有の思想」である西洋に対して、日本の根底にあるのは「無の思想」だというのである。もしも、われわれの生活のなかにある一瞬一瞬を「永遠の無」に触れる「今」と感じることが日本人の時間的感覚に埋め込まれているとすれば、われわれは、もう少し「今」を大切にするのではないでしょうか。(中略)西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えました。そして「特殊性を失うということは文化というものが無くなるということである」といいます。文化がなくなることはその國の国民性がなくなることです。端的に言えば「日本」がなくなる、ということなのです。西田のこの言葉は無条件にグローバルで普遍的な価値や理念を追い求め、それをよしとする今日のわれわれの「脱日本化」にとってはあまりにも耳の痛いことではないでしょうか。(227から236頁)

 

 昨今の目に余る節操を欠くマスメデイア。更にはテレビに頻繁に出てくるジャーナリストと称される人たちの厚顔と私は思われるのですが、その有り様。加えて、佐伯氏が指摘する、過度なグローバリズムや経済競争や成長至上主義やモノの浪費という現状にあって、佐伯氏の指摘に私は深い共感を覚えるのです。

 

終わりに

 

 今回も単に著者の文章を私なりに勝手に解釈・引用し、本来の著者のお考え、あるいは訴えたいこととは離れているでしょう。でも読者とはそんなことなのかもしれない、とこれまた私は勝手に解釈しております。いずれにもせよ私にとって、読み比べの上で、とても参考になるものでした。

 

 本来であれば悲哀の哲学、すなわち「哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」という西田哲学の一端でも紹介できればいいのですが、いまだ私にはその力がなく、このような長々しいものになりました。いずれ近いうちに、その哲学を少しでも知りたいとは思っております。

 

 尚、次回の東京オリンピックには80歳になりますが、そこまでは元気でいようと思っております。蛇足ですが、仕事の関係で前回の東京、ロス、シドニーのオリンピック・スタジアム会場で観戦しておりましたので、次の東京オリンピックまでは元気でいようと思っているわけです。

 

2017年12月8日

                          淸宮昌章

 

参考図書

 

 小林敏明「夏目漱石と西田幾多郞 共鳴する明治の精神」(岩波新書)

 佐伯啓思「西田幾多郞 無私の思想と日本人」(新潮新書)

 同   「日本という『価値』」(NTT出版)

 同   「反・民主主義論(新潮新書)

 夏目房之助「漱石の孫』(実業の日本社)

 十川信介「夏目漱石』(岩波新書)

 他

 以上

 佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

佐伯啓思著「現代民主主義の病理」他を読んでみて

 

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はじめに

 

 佐伯啓思氏の著作については一昨年、「日本の愛国心」を初めて読み通した次第です。40年弱前になりますが、私がアメリカ駐在時代にお世話になり、その後もお付き合いを頂いている元バンカーの方に紹介され読み込みました。私にとっては社会思想史の一端を垣間見る、と共に、佐伯氏の論述に深い共感と感銘を覚えた次第です。そして、偶々、私の書棚に18年間も眠っていた、氏の「アメリカ二ズムの終焉」を取り出し読み通しました。続いて、「反・民主主義論」「さらば資本主義」「従属国家論」「反・幸福論」「正義の偽装」他を求め、読み通していったわけです。そして、私なりの理解に過ぎませんが、ブログ「淸宮書房」に「日本の愛国心」(2016.7.1)、「反・民主主義論他を読んで思うこと」(2017.3.11)、「アメリカニズムの終焉を読み終わって 上、下」(2017.5.24/30)をブログ「淸宮書房」に載せたわけです。掲題の著作を含め19冊になりますが、僭越ながら今を観ようとしている者にとって、佐伯氏の著作は目から鱗のような感慨を持った次第です。多く方が氏の著作を読まれれば、と思うところです。

 

佐伯啓思「現代民主主義の病理」

  

 本書の時代背景と趣旨

 

 本書の発刊は今から約20年前の1997年1月20日で、「アメリカ二ズムの終焉」のほぼ1年前になります。戦後50年を経過した1995年当時以降が、その背景となっております。その1995年は1月には村山政権時で阪神大震災、そして政府の初期行動の遅れ。オウム事件バブル崩壊住専問題、日米安保論争、破防法の適用等々、めまぐるしい出来事の連続でした。更にはTBSオウム事件を巡る国会招致、当該プロジューサーの懲戒解雇及びTBS社長の交代。そして、そこにおけるマスメデイア紛糾・論争が印象深い現象でした。更には住専問題に絡む官僚、特に大蔵省批判。加えて、何故か、東京都に青島幸男大阪府横山ノックという、タレント系の知事誕生という時期でもありました。

 

 そのような時代の背景の中、著者は戦後50年とは何であったのか。そこでは何が論議され、何が論議されなかったのか。あるいは何が失われてきたのか。民主主義とは何か、その危うさ。市民と国家とはどのような関係にあるのか。そこにおける知識人の役割とは何か。更には知識人とマスメデイアとの関係。我々は何を目指さなくてはならないのかを論じています。具体的には序・無魂無才の不幸から始り、Ⅰ・戦後50年、アメリカ化の50年、Ⅱ・西洋文明と日本の知識人、Ⅲ・デモクラシーは責任を取れるか、Ⅳ・サブカルチャー化する現代の日本、Ⅴ・市民社会の崩壊、終・信頼と民主主義、あとがき、から本書が構成されております。

 

 佐伯氏による洞察・観点は現在の諸々の事象を観る上で極めて重要であり、本書が発刊されてから20年を経過した現在でも、そこには何らの古さを感じません。今回、私が印象深く、共感したいくつかを挙げますと、丸山眞男の立ち位置の曖昧さ。すなわち「東大法学部という権威主義の牙城にあって、日本社会の権威主義批判を行うという姿勢。アカデミズムの研究者でありつつ、ジャーナリズムや市民運動に関与する姿勢。日本思想史の研究者でありつつ、西洋政治学の学識によって語る姿勢。日本にいながら西洋的近代の目で日本を対象化する姿勢。こうした『曖昧さ=二重性』こそ、丸山が発言し、影響力を発揮した条件であった。」(78頁)、と指摘していることです。加えて、連合国の戦争史観を代弁した如き東京裁判史観などと、呼ばれたりする考えの思想的基礎を作った、その後の後遺症。そして丸山が戦後知識人に残した課題。すなわち日本と西欧、近代とは何か、普遍性と国家意識といったテーマーに取り組むべきだと、述べているところです。象牙の塔におりながら自己特権化しつつ物言う、いわゆる進歩派知識人への批判も痛烈です。

 

 私には、昨今のテレビの報道番組に登場する専門家と称する大学人等は、ただテレビ等に出たいとしか思えないのです。そうした昨今の特殊な事象は、専門家かどうか分りませんが、いわゆる知識人のひとつの頽廃現象そのもの、と私は考えております。そうした諸々の点についても佐伯氏は言及しておりますので、是非とも本書をお読み頂きたいところです。

 

 今回も本書の全体を紹介するものではなく、マス・メデイア、ジャーナリズムに言及された諸点に絞り、取り上げて参ります。本書の背景となる戦後50年の粗筋を以下、記して参ります。

 

 戦後のひとつの粗筋

 

 47年のトルーマン・ドクトリン、48年のベルリン封鎖、49年の中華人民共和国の成立、NATOの結成、そして50年の朝鮮戦争という冷戦体制の形成の中、日本はほとんど事実上の選択の余地もなく、アメリカを中心とする西側の世界戦略のもとに1951年サンフランシスコ条約を結び、日米安全保障条約に至ります。すなわち、日本は戦後処理から日米安全保障条約に至る過程は、日本にとっては、当事者でありながら、その当事者の立場そのものを与件として自らに与えてゆく以外になかったことです。

 

 方や、「60年代の学生の主たる攻撃対象はベトナム戦争を遂行するアメリカに向けられ、結局、アメリカン・ジーンズを身につけ、コーラーを飲みながらアメリカ帝国主義を倒せと無意味な言葉を唱和することのちぐはぐに全く無頓着だったわけである。・・(中略)多くの日本人が、ベトナムに爆弾の雨を降らせ、世界の警察官を任ずるアメリカの所業を力ずくの思い上がりと非難しながら、どっぷりと日米安保体制のもとでの平和を享受していたのであり、はいて捨てるよう顔してアメリカ文化の軽薄差を難じながら、アメリカ的生活を享受し、アメリカ映画やドラマを楽しんでいたのである。」(17、18頁)、と記しています。

 

 そして、この装われた普遍主義というアメリカニズムのひとつの特徴を、もっとも真正直に、しかもほとんど何らの抵抗も咀嚼もなく全面的に受け入れたのが、戦後日本社会であり、とりわけ知識人たちであった。知識人たちは、経済学者や政治家という専門化の知的誠実さを口実として、ほとんどなんら疑うこともなく、その普遍主義を受け入れた。(51頁)

 

 冷戦体制が終わった現在、「とりわけわが国の、いわゆる日本経済改革論やグローバルリズム論は、私の解釈では、アメリカニズムの旗を振っているにすぎないように見える。しかし、これは新たな文明の実験と呼ぶにはあまりにも危険な実験であり、とりわけ、いわゆる華人経済圏とアメリカ経済に挟まれた日本にとってはそうであろう。アメリカ二ズムに抗いすることは、それがある種の普遍性と強固な近代性をもっているがゆえに困難な作業である。しかしわれわれのできることは、まず、戦後日本が、その圧倒的な影響下におかれていたアメリカニズムを相対化し、アメリカとアジアに挟まれた日本の宿命とは何かを論じることしかないであろう。文明としてのアメリカニズムに抗いするところから始める以外に、ナショナル・アイデンティティを発見する方法はないのである。」(53、54頁)、と続き、

 

 われわれは再び、西洋化という近代のプロジェクトを始めた、たとえば明治の知識人たちが、西洋化という近代のプロジェクトに着手しながらも、ためらいを隠さない。言うまでもなく、福沢という西洋流の自由主義者の根底には強いナショナリズムがあった。表面上は彼と対立した加藤弘之やまた、徳富蘇峰三宅雪嶺といった人は西洋的自由主義から日本主義へと回帰していった。こうしたためらいは陸羯南にも見られるだろう。西洋というものの圧倒的な文明の力を身をもって感じながらも、表面だけの西洋の受容が日本人のセルフ・アイデンティティを失わせることを危惧したのは言うまでもなく夏目漱石である。むろん漱石は決していわゆる日本主義者ではなかったにもかかわらずである。(72頁)、と記しています。

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  尚、氏は別途、「西田幾多郎」を著わしておりますが、今年の6月に小林敏明氏が「夏目漱石西田幾多郎」を発刊しております。合わせご覧頂ければと思います。後日、私なりに改めて取り上げたいと思っております。又、本書にしばしば登場するアメリカニズムついては、冒頭に記しているように、今年の5月24,30日に佐伯啓思著「アメリカニズ終焉を読み終わって」として私なりに、ご紹介致しております。

 

 日本のマスメディア・ジャーナリズムと世論

 

 その1

 

 本書のひとつの特徴は、表題が「現代民主主義の病理」ですが、「序・無魂無才の不幸」更には「あとがき」においても、マス・メデイアやジャーナリズムの危険性に言及していることです。私は常日頃、マスメディアは独りよがりの正義を唱え、世論と称するものを作り出し、その結果責任は戦中、戦後とも何ら負うことがない。現在のマスメデイアであるテレビ、新聞、週刊誌等々に見られる節度・節操を欠いた目に余るその傲岸さ。それは正義とはほど遠く、単なる商業主義に毒されたものにすぎない、と批判してきました。そうした一連の事象が国会討論等に見られる実に無意味な、無様な現状にも繫がってくるのではないでしょうか。

 

 佐伯氏はそうした事象をより鋭く、深く根源的に洞察され、論を進めていきます。今日においても正鵠を得たものと、私は共感し、と同時に考えさせられます。長くはなりますが民主主義とは何か、自由とは何か等々、その視点をも含め、以下、ご紹介して参ります。まず「序・無魂無才」において、次のように述べています。

 

 マス・メデイアやジャーナリズムが、官僚によって情報コントロールされているというのも正しくない。むしろ、これほど言論が明けっ広げの国はそれほどないとさえ言えるだろう。実際、わが国のマス・メデイアほど、絶えず、政府の政策やそのスタンスを批判し続けるメデイアというのもめずらしいものだ。政治家や官僚のスキャンダルともなれば、もっとも張り切るのは、マスメデイアなのである。・・(中略)つまり、わたしは現代日本の「不幸」はデモクラシーが成立していないのではなく、むしろ、そのデモクラシーがあまりにも規律を持たず、いわば無責任な言論の横溢をもたらしているところにある、と思われるのだ。デモクラシーの内部からデモクラシーが自壊しつつあると言ってよい。そして考えてみれば、現代日本に限らず、デモクラシーというものにつきものの病気なのである。自由が秩序によって牽制され、権利が義務によって牽制され、競争が平等によって牽制されるように、デモクラシーもある種の規律によって牽制されなければ、愚衆政治に堕して自壊するのである。そして、デモクラシーが暴力ではなく言論による政治を柱にするかぎり、言論における規律をどのように確保するかこそがデモクラシー社会の課題となるのであろう。

 

 ・・(中略)だから民意を「世論」という名で定立したり操作したりするマス・メデイアこそが、デモクラシーのカギを握ることになる。現代社会ではマス・メデイアこそが、民意の独占的管理者の位置にいるわけだ。したがって、マスメデイアを中心とした言論の様態こそがデモクラシーの死活を握っていることになる。そして、わたしの判断では、まさに、マス・メデイア、ジャーナリズムといった広い意味での言論知識層における言論の乱れ、時には無責任、あるいは確信の喪失こそが、現代日本の漂流の重要な原因ではないか、と考えたいのである。この言い方が少々強いとすれば、マス・メデイア、ジャーナリズムを含む知識人の言説こそが、漂流する現代日本の思考様式の象徴だと言ってもよい。(9、10頁)

 

 皆さん如何思われるでしょうか。佐伯氏はその序「無魂無才の不幸」の最後に次にように述べています。

 

 われわれは一人ひとりの背後には、日本の社会や文化がいやおうなく張り付いているのである。そして、他国の人々も、まずわれわれの中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだすものは、このわれわれの背後に張り付いている「日本」なのである。西洋人が日本人の中に見いだそうとするものは、決して「西洋のコピー」ではなく、この「日本人の精神」ではないだろうか.・・(中略)デモクラシーはひとつの意志決定方式にすぎない。それがうまく働くかどうかは、それを支える精神の働きや信念の体系が確固としているかどうかにかかっている。そして、この精神や信念は、容易に西洋から移入したり、模倣したりすることはできないのである。いや、むしろ、模倣しようとしたとたん「魂」を失ってしまうだろう。結果として「無魂無才」にまで至るというわけだ。とすれば、われわれに今、求められていることは、この「魂」の回復への試みということ以外にないだろう。デモクラシーを支える言論は、結局、「精神の形」そのものの表出でしかないからである。(12、13頁)

 

 僭越至極ですが 私は深く共感するところです。

 

 その2

 

サブカルチャー化する現代日本」の章で、TBSオウム事件に関連した報道に関して、次のように述べています。少し長くなりますが私には極めて重要な指摘ですので、そのまま以下紹介します。

 

 国家権力に対する報道の自由、国家権力に対抗して、自由で中立的な報道を擁護するところにジャーナリズムの良心があるという固定観念が行き渡っているのである。つまり、あらかじめジャーナリズムはデモクラシーの側にあるものと想定してしまい、ジャーナリズムに敵対する権力がデモクラシーを破壊するという論理である。もとよりこの論理が誤りだというのではないのだが、同時に考察すべきは、マス・ジャーナリズムが、あるいは官僚組織と化し、あるいは市場主義に侵され、また無意識の主観性を色濃く浸透させ、取材、報道という名のもとで暴力を行使し、ある種の情報操作を行うといったことに通じて、その内部から崩壊してゆくという危険性と常に隣り合わせだということなのである。そして、もし、マス・ジャーナリズムが現代のデモクラシーにとってきわめて重要な意味をもつとすれば、国家権力との闘争などよりも、はるかに、このことの方がデモクラシーにとって枢要な課題なのである。

 

 端的に言えば、多くのジャーナリストが、ジャーナリズムの良心や倫理を持ち出すとき、その意味は、国家権力や社会的圧力に屈するべきではない、報道の自立と公正を守るべきだと言われる。しかし、今や、マス・ジャーナリズムは権力や圧力からの被害者であるとうよりも、時には、それ自体が世論を動員して、権力を発動する機構ともなっているということなのである。とりわけ、デモクラシーを成り立たせる人民の意志が世論という形で表明されるときには、その世論形成、世論動員に対して重要なスタンスをもつマス・メデイアはもはやデモクラシーにおけるりっぱな権力装置となっているのである。ジャーナリストの良心ということでまず述べるべきことは、このような自覚にほかならないのであろう。・・(中略)日頃、何か起こればたちまちデモクラシーへの挑戦だ、デモクラシーの危機だといった論陣をはるマス・ジャーナリズムから、ほとんどこの手の議論が出てこなかったことは、私には奇妙に見えた。解釈として言えば、常に、権力を批判する点にその役割を求めてきたジャーナリズムの良心という固定観念から彼らが自由ではなかったということになる。権力批判は自己批判とならざるをえないからである。(145、146頁) 

 

・・(中略)彼らにとって、タブーとは、国家による干渉や放送法による規制といったものであり、誰も、タブーを彼ら自らが生み出しているなどとは考えようともしない。タブーは常に外部からやってくる。外部に権力がある、こうして、「世論」と彼ら自身を疑うことをタブーとしてしまうことによって、マス・メデイアは自己自身を特権化してしまう。ここにこそ、今日のマス・メデイアの大きな問題があるように思われるのだ。(156頁)

 

 私ごとになりますが、昨今のテレビの報道番組と称する中で、NHKの司会者のアナウンサーが、「これは私の意見ですが」という不思議な、ことわり的な発言に時折、接します。私は違和感を持つと同時に、NHKの組織に対する防衛なのか、との印象を持つところです。如何でしょうか。いずれにもせよ佐伯氏の上記指摘は今日でも、いや、今日こそ重要な視点ではないでしょうか。続いて、

 

一つは、われわれの得る情報や事実なるものが、常にメデイアの手によって差し出されているという認識は、それ自体、情報や事実を相対化するのに役立つはずだということである。簡単に言えば、われわれはメデイアから受け取るものはいったん疑うこと。

 

二つはマス・メデイアだけに限定されたものではなく、さまざまな分野の専門化や評論家という広い意味での知識層の弱体である。マス・ジャーナリズムと専門的研究者の連携ができていない。ジャーナリズム的評論の多くはある専門分野の都合のよいところだけを引っぱってきてあまりに図式的な結論を引き出す。この両者の間に、適切な論議の交換があるとは思われない。専門家はあまりにも彼らの専門にこだわり、ジャーナリズムもいわば業界を形成してしまい、その両者にゆるやかに往還するための信頼なり、理屈なり哲学的なものがほとんど存在しない。ある程度共通の議論の母体をもった知識層の生育がなければ、今

日のデモクラシーがますます混迷の度を深めることは明かだと思われる、と述べています。私は深く共感を覚えるところです。

 

 そして、氏は本書の「あとがき」で次のように記しております。

 

 現代の日本の閉塞感は、何か、われわれの言論や活動が抑圧され、きわめて窮屈なために生じているというよりも、むしろ、その逆に、あまりに、そこに規律や節度が失われてしまったために生じているように見える。あまりに解放されたために逆に生じる閉塞感と言おうか、あるいは、もう少し高尚な言い方をすれば、われわれの手にしている表現手段と表現内容の乖離と言おうか、そのようなことが生じている。(236頁)

 

おわりに

 

 冒頭に述べたように、本書は20年前に発刊されたものですが、佐伯氏はその後も現代日本への洞察と提言をされた著作を次々と出されております。私なりに戦後というか、今を観ていこうとする中で、氏の一連の著作は大きな刺激と共感、感銘を与えてくれております。昨今のマス・メデイアの私なりに憂うる現状を目の当たりにし、私は本書の一部を、何か急いで紹介した、との感は拭えません。加えて、私の理解不足、あるいは誤解もあるやかもしれません。改めて取り組んでいきたいと思っております。尚、ご参考にはなりませんが、昨年から今年にかけて、佐伯氏の著作について、私が感想を記した以下の投稿を、合わせ一覧頂ければ幸いです。

 

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/5

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/archive/2017/3

http://kiyomiya-masaaki.hatenablog.com/entry/2016/07/01/093614

 

 

 2017年11月20日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯啓思「現代民主主義の病理」(日本放送出版)

 同   「日本という価値」(NTT出版

 同   「西田幾多郎」(新潮新書)

 小林敏明「夏目漱石西田幾多郎」(岩波新書)

 他

 

 

 再・昭和天皇について思う【前編】

 はじめに

  高齢になられた現天皇陛下並びに皇后陛下の御活動に国民が感謝し、そしてその賛意の空気なかで、生前退位がされる運びのようです。方や、私は今後の象徴としての天皇家のご活動はどのような状況になられるのか、一抹の不安を覚えています。現天皇並びに皇后陛下は皇太子時代から昭和天皇の、正に贖罪の道を歩んでこられたとの心象を私は思っておりますので、後を引き継がれる新天皇陛下並びに新皇后陛下はどのようなお姿になるのでしょうか、との想いです。もっとも天皇皇后陛下が国民の前に御一緒にお出になられたのは、この戦後70年間しかなく、むしろこの70年間が例外であって、私のそのような想いは杞憂なのかもしれません。  

 

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 弊著「書棚から顧みる昭和」の中でも、「昭和天皇について思う」の一章を設け、私なりの感想を記してきました。又、私の書棚にも昭和天皇との表題がある本は文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」、保坂正康著「昭和天皇、敗戦からの戦い」、古川隆久著「昭和天皇」、青木冨美子著「昭和天皇とワシントンを結んだ男」、加藤陽子著「昭和天皇と戦争の世紀」、伊藤之雄著「昭和天皇伝」等々あり、それなりに目を通して参りました。加えて、昨年9月9日に「昭和天皇実録」が公開され、更に昭和天皇に関する数多くの著作等が現われ、従来にまして昭和天皇に関する研究が深まるものと思われます。尚、最近発刊された原武史著「昭和天皇実録を読む」のなかでは、「木戸幸一日記」等の一次資料と今回の「昭和天皇実録」との違いを示しております。昭和天皇の退位問題、更にはカトリックへの接近等を含め、興味深い指摘があり、私には新たな思いが加わったところです。

 

 そんな状況に引きずられたのかもしれませんが、改めて私なりに昭和天皇への思いも記しておこう、と思ったわけです。加えて、この半年間にブログ「清宮書房」でも広田弘毅近衛文麿を取り上げてきたことも関連しますが、天皇制もしくは昭和天皇の戦争責任等々を私なりにもう少し考えておきたい、私なりに心の整理もしたいと考えました。そして今年の8月15日、戦没者慰霊の際の天皇のお言葉が出る一日前の14日、安倍首相が戦後70年談話を発表したのは、そうせざるを得ない状況、いわば官邸側の政治的配慮が必要であったのでしょう。天皇は象徴のみならず、原武史氏も付言しているように、今以て日本の政治に大きな影響を及ぼしている現実があるわけです。尚、本題との関係からは蛇足の感は否めませんが、保坂正康氏の新刊書「昭和史のかたち」は氏独特の幾何学的発想をもって昭和の姿を示そうとしております。新たな観点であり、なるほどと思ったところです。

  ただ、本書の中では、言論人,マスメデイアの過去、現在のあり方には全くといっていいほど言及されていないことにある種の奇異を感じます。加えて、安倍首相を歴史修正主義者と断定されること。さらには「戦後70年目の節目に無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている。それほどこの70年は脆くはないぞとの思いや、そう簡単に崩してはならないとの動きも徐々に顕在化してきて、やがてうねりを生むような感もする。この時代のその精神を大切にしたい。」(本書186頁)、と本書を閉じています。真に僭越になりますが、私はそうした指摘には強い違和感を持っています。

                   

 今から5年ほど前になりますが、昭和天皇に関し私なりの駄文を某読書会に発表いたしました。対象は1921年生まれの山本七平、1935年の中村政則、1954年の吉田祐氏です。それぞれの思考或いは思想と言えるかもしれませんが、相反するよにも思われる三氏の著書について、私なりに感想を交え紹介したものです。改めてその駄文を見直し、この5年間で何が起こり変わったのか、あるいは変わらないのか、時の推移の中、若干の修正を加えてみました。

 

1 章 中村正則「戦後史」と吉田祐「昭和天皇終戦史」

 

その1

  中村政則は今年8月5日に逝去されましたが、日本近現代史を専攻する学者です。その「戦後史」のなかで、占領と新憲法、その過程での東京裁判等々を含め、戦後の流れの60年間を淡々と述べ、60年間とは何だったのかを問います。分岐点のひとつ目は1950年代前半の講和論争とサンフランシスコ講和条約日米安保条約の締結。二つ目は高度成長とベトナム戦争の時代。三つ目はオイルショック沖縄返還ニクソン・ドクトリン、日中国交回復、第一回・主要先進国首脳会談の参加といった1960年代。そして四つ目は1989年11月のベルリンの壁の崩壊、それに続く91年のソ連邦の消滅を上げています。

 私にとって、改めて戦後60年間の流れを整理する上で、その「戦後史」は大いに参考になった著書でした。そして今年、戦後70年が種々論議を呼んでいるわけですが、ではこの10年間はいったい何だったのであろうかを考える上で、読み直しの必要性を感じたわけです。

 

 尚、本書の中で戦後が未だ終わらないとする中村政則の考え方の背景には、「マッカーサー天皇の政治共生が始まった。しかし昭和天皇が退位もせず、また自らの戦争責任について何も語らずに終わったことは戦後日本史、特に日本人の精神史にはかりしれないマイナスの影響を与えたと私は考える。なかでも日本人の戦争責任意識を希薄化させただけでなく、指導者の政治責任、道義的責任の取り方にけじめがなくなった。」(同書31頁)、という氏の思いがあります。そうした考え方の根底には昭和天皇のアジア軽視と共に天皇の贖罪意識の欠如に、氏のひとつの思いが在るように私は感じています。では昭和天皇自身はどういう存在であったのか。果たして戦争責任を取れる政治状況であったのか。或いは取れる環境、いや可能性があったのか。更には天皇自身の自己規定はどうであったのか等々、については本書では述べられてはいません。むしろ敢えて述べずにしたのかもしれません。

 

その2

  一方、吉田裕氏は本書「昭和天皇終戦史」の中で、敗戦の年から10年近く後に生まれ、天皇の存在そのものをほとんど意識することなしに、幼年期、青年期を過ごしてきた。従い、その後に生まれた若者とも異なり、いわば天皇の存在と最も遠いところで自己形成をとげた世代であると述べています。その意味で本書は、いわば純粋戦後派世代が書いた昭和天皇論なのでしょう。

 

 では何故に吉田氏がこの書を著すことになったのかについては、日本の占領期の日米関係を研究している過程で、東京裁判を従来の東京裁判論とは別の観点から見る必要を感じていたこと。その途上で、1990年11月7日、8日の「昭和天皇独白録」に遭遇し、改めて天皇にまつわる戦後史を調べることに繋がっていったように思います。

 

 その「独白録」は敗戦直後の1946年3月から4月に亘ります。宮内大臣・松平康民、宗秩寮総裁・松平康昌、宮内省御用掛・寺崎英成、内記部長・稲田周一、侍従長・木下道雄という5人の側近達の前で昭和天皇が戦争の時代を回顧し語った内容です。その信憑性も問題としなければなりませんが、その全文を発表した文藝春秋の編集者が下記の一節をもぐりこませているとのことです。

 

 「『独白論』は『天皇無罪論』を補強するため天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられる。あるいは逆に、昭和天皇みずからが昭和を回想し後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される。他から強いられたとは思えない率直なお話しぶりから、そのお気持ちが伺える。・・(中略)いずれにもせよ、この『独白録』がいかなる目的のもとに作成されたものであるかは、昭和史研究家の分析を待たなければなるまい。」(同書5頁)、とその時代の背景を改めて吉田氏は言及しているわけです。この「独白論」は宮中グループが天皇の戦争責任を如何にして回避させるべきか他、寺崎英成を含め興味深い事象をも記されております。そのことは原武史著「昭和天皇実録を読む」と符合し、改めて印象に残りました。

 

 尚、吉田氏による近衛文麿の人物像は服部龍二山本七平他の諸氏から見た人物像とは異なり、当時の保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚を持っていた人物として評価していること。更には、戦後の展開、皇室と天皇個人のあり方をも視野に入れる優れた人物として見ていることはに私に意外感を持ちました。尚、その近衛文麿にしても戦争責任については太平洋戦争のみで、アジアに対する戦争責任の問題については無自覚であった事実が、戦犯として逮捕され、挫折の自殺に繋がったとも氏は指摘しています。

 又、寺崎英成についても、アメリカ人の妻を持ち日米の平和の架け橋になろうとした知米派の外交官であり、且つ気骨のある自由主義者として柳田邦男が描いた人物とは別の、闇に包まれた、ある意味ではスパイとして活躍した人物として描いています。更には頭山満の団体・玄洋社の影響を受けた国粋主義者の一面をも本書では記されています。如何に寺崎英成をも描いた「マリコ」といった小説が、城山三郎の「落日燃ゆ」と同じように、私自身の、ものの見方に影響を与えていたことに改めて気づかされたところです。本当のこと、真実は未だ不明といったところなのでしょう。本書では天皇立憲君主の自己規定とは全く矛盾する要素を含む、さまざまな天皇の言動が記載され、しかも天皇自身が相当な情報通であることも述べております。本書の結の章で、

 

 さらに、天皇の戦争責任の問題が封印され、マスコミや学校教育のレベルで事実上タブー視されたことは、この国の戦争責任論の展開を極めて窮屈なものにした。本来、戦争責任論とは、政策決定者の当事者であった権力者の責任を追及するという次元だけにとどまらない、裾野の広がりをもった議論である。其れは、戦争の最大の犠牲者であった民衆にも、戦争協力や加害実行の責任を問い直すものだし、侵略戦争天皇制に一貫して反対したという点からいえば戦争責任とは最も遠い位置にあるコミュニストとその党=日本共産党に対しても、なぜ、より有効な反戦闘争を組織することができなかったのかという点で、戦時下における自己の思想と運動に関する真摯な自己点検を強いられるものである。また、右翼に関しても、それが戦後、思想運動として生き残ろうとするかぎり、敗戦の原因や天皇制のあり方についての本質的な議論が必要だったはずだ。(同書239頁)、と断じています。真に私達は安易に戦後を生きてきたと言えるのかもしれません。

 

以下、本論である山本七平裕仁天皇の昭和史」【後編】に続きます。

 

 2015年11月16日

                          清宮昌章

 以上は二年前の投稿ですが今回の再投稿に際し、時の経過もあり、若干の加筆と修正をしております。本論は何らの変更もしておりません。

 2017年11月1日

                         淸宮昌章

 

参考図書

 中村政則「戦後史」(岩波新書)、吉田祐「昭和天皇終戦史」(岩波新書

原武史昭和天皇実録を読む」(岩波新書)、保坂正康「昭和史のかたち」(岩波新書)、文春新書編集部編「昭和天皇の履歴書」 (文春新書)、古川隆久「昭和天皇」 (中公新書)、保坂正康「昭和天皇 敗戦からの戦い」 (毎日新聞)、伊藤之雄昭和天皇伝」(文藝春秋)、青木冨美子「昭和天皇とワシントンを結んだ男」 (新潮社)、木佐芳男「戦争責任とは何か」 (中公新書)、加藤陽子昭和天皇と戦争の世紀」 (講談社)、豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見」 (岩波現代文庫)、保坂正康「東條英機天皇の時代」(ちくま文庫)、他