清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

再度・堀田江理「1941 決意なき開戦」を読んで

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再々投稿に当たって

  下記投稿は2016年の9月に投稿し、改めて一年前の2021年9月に、若干の補足をし、再投稿したものです。2015年3月に始めた弊ブログ「清宮書房」への投稿は105件となりますが、何故かここに来て、下記投稿・堀田江理「『1941 決意なき開戦』を読んで」が上位・注目記事の二位に返り咲いております。 

  加えて、渡辺浩平著「吉田満 戦艦大和 学徒兵の五十六年」が三位ですが、 コロナパンデミックに加え、ウクライナ・ロシア問題が生じた為でしょうか。我国に迫る危機感を持たれ、身近な問題として捉え始めたのかもしれません。尚、弊ブログへのアクセスも急増し、60,000件台になろうとしております。

 現在は私なりに、国際政治専門家の細谷雄一氏の「歴史認識とは何か」、「自主独立党は何か」、及び中国政治、東アジア国際関係の専門家の天児慧氏「中国のロジックと欧米思考」、並びに韓国哲学・思想・文化の専門家である小倉紀蔵氏「韓国の行動原理」を併読しているところです。専門家の凄さを感じながら読み進めておりますが、いずれ私なりの感想など記したいと思っております。

 文芸社からは、生きること考えること、神とは何かに関連し、「遠藤周作と森有正に関して私なりの想い」等を記されたら、とのお言葉を頂いておりますが、その件については、もう少し時間をかけて取り組んでみたいと思っております。

 

 尚、蛇足ですが、お陰様でこの4月の発刊した下記の弊著「メデイアの正義とは何か・・報道の自由と責任」(文芸社)は好評の様で、ほっとしております。ご笑覧頂ければ幸いです。

 2022年5月20日

                        清宮昌章

 

再度・堀田江理著「1941 決意なき開戦」を読んで

再投稿にあたって

 

 コロナ・パンデミックにあっても、中華大国の復権を掲げ、一帯一路を強引に進める共産党独裁政権の中国。方や、地政学的にも大きな変動がある中、平和、平和のみ唱える、謂わば「一国平和主義」は破綻しているのに関わらず、依然として平和ボケにある日本は、今では特異な国家、世界平和には責任を取らない国家として映るのではないでしょうか。

 

 方や、今回の自然発生とは思えぬコロナ・パンデミックも収束は一向に見られません。加えて、その現実・現状をも何か他人事のように報じ、政府・政権をただ批判するが如きメデイア。それに引きずられ、自ら考えることを停止した我々自身、その在り方も大きな問題です。何か全てが他人事で、自分自身の問題として捉えることを放棄した現象と、私は思えるのです。

 

 尚、元投稿は2016年9月のものです。掲題の本書は先日、再投稿した加藤陽子著「天皇と軍隊と近代史」との視点とは異なりますが、1941年前後の太平洋戦争・開戦の経緯について記された歴史的事象は、大きく変貌した日本を取り巻く現状を詳述しております。先行きが不透明なコロナ禍後の日本の現実を考える上でも参考になるのでは、と思い、今回は補筆もせず、そのまま再投稿致しました。

 

  2021年9月15日

                           淸宮昌章

 

はじめに

 

 テレビ等で報道される街の人の主語が「私」でなく、「国民」としてとか、「都民」としてと、話されることに私は違和感を持っていると記していました。偶々、1991年に逝去された山本七平の「戦争責任は何処に誰にあるか」に次のような指摘があり、この現象は今に始ったことではないのだな、と思ったところです。それは次の文章です。

 

 戦後のようにテレビ・ラジオが普及し新聞・週刊誌等があふれると、いわゆる新鮮な「庶民感覚」がなくなり、すべての人が定型的インテリ的発言をするようになる。さらに意見がマスコミの口まねであるだけでなく、マスコミが怒れば怒り、非難すれば非難し、美化すれば美化する、という形にさえなる。(同書30頁)

 

 現在のメデイアは山本七平の時期とは多少異なるとはいえ、この現実はほとんど変わらないのではないでしょうか。加えて、日本は「空気」が重要な決定をしてきた、戦艦大和の出撃も然りと述べています。ではこの「空気」という思考はどこから来たのか。そこには徳川体制は永久に続けるし、続けなければならない、この体制を変えるという発想はしてはならないという大前提があった。「空気」と「水を差す」という、二つのバランスをとって、日本は文化的秩序を維持してきたのである。ただ、現代ではそういう時代ではなくなっているのであり、この状態を今後どうしていったらいいのか、このことが、おそらくわれわれが抱えているいちばん大きな課題なのだ、と指摘しております。今なお、変わらない現実への山本七平の警告でしょうか。

 

 方や、塩野七生氏が6年前に「日本人へ 国家と歴史編」の中で次のことを指摘しています。

 

 問題を起こさないことだけを優先しての事なかれ主義が、今の日本人には信用されなくなっているのは事実であり、それに反発した一部の人々の想いが、感傷的で過激な国粋主義に走りそうなのも事実である。こうなってしまったのは、敗戦以来の半世紀というもの、厳とした歴史事実の基づいた冷静な歴史認識を明示することを怠ってきたツケだが、それも近現代の歴史の共同研究の輪を、少なくとも日米まで広げることで、頭を冷やす役に立つかもしれない。また中・長期的には、常任理事国入りに役立つかもしれないのである。(51,52頁)

 

 歴史認識問題とは「過去」に関わる問題である以上に、「現在」を生きる我々により直接に関わる問題なわけです。歴史認識問題については日韓、日中に限定したものですが、木村幹著「日韓歴史認識問題とは何か」、服部龍二著「日中歴史認識」等々、優れた著作があります。お読みになることお薦めします。

 

堀田江理著「1941 決意なき開戦」

 

 今回、取り上げた著者・堀田江理氏は東京生まれで、1994年にプリンストン大学歴史学部を卒業し、その後、英オックスフォード大学より国際関係博士号を取得し、そこでも教鞭もとられた若き学者です。尚、夫君は「廃墟の零年」を刊行されたイアン・ブルマ氏です。

 

 本書は英語版で刊行され、その後、改めて日本版に翻訳されました。著者によればアメリカではパール・ハーバーとはまさしく「だまし討ち」の代名詞的概念となっており、アメリカが望んでいないにもかかわらず、正義のため戦争を余儀なくされた、一大ターニングポイントだと思われている。しかし、現実アメリカに生活している中で感じられることは、その名が広く知られ、安易に使われる一方で、実際の真珠湾攻撃に関する知識といえば、はなはだ希薄であることは否めない。歴史に明るい人でさえも、ルーズベルトやチャーチルが、日本に攻撃を仕向けたというような共謀説や、ごく狭い戦術的視点からの論議に固執しがちで、ましてや真珠湾に至る日本の内政問題についてなどは、そのわかりにくさも手伝ってか、あまり語られることはない。そうした背景の中、日米開戦にまつわる一つの新しい見方を提供したい。アメリカの読者に向けて、「日本側から見た真珠湾」という切り口で書いた、と述べています。

 

 豊富な資料と共に、今まであまり取り上げられてこなかった書籍、加えて昭和天皇が不快に思われた、とされる近衛文麿のヒトラーに仮装した写真等々も取り入れられております。開戦に至る1941年を中心に非常に明快な文章で記述され、アメリカ人のみならず我々にとっても、極めて興味深い貴重な歴史研究書になっております。昨年の4月に取り上げたイアン・ブルマの「廃墟の零年」も大著ですが、合わせお読みになることをお薦め致します。

 

 本書はプロローグ「たった一日。なんというその違い!」から始まり、一章「戦争の噂」から16章「清水の舞台から」という構成です。今回も本書の全章を紹介するのではなく、このプロローグを中心に進め、私が深く印象に残ったことにつき、感想を交えながら記して行こうと思います。方や、全章を纏めることは難しく、またそれは著者にも失礼になるかと思っており、僭越ながら私のこの駄文をひとつの契機として、本書を読まれるのが一番と思っています。

 

そのプロローグ「たった一日。なんというその違い!」

 

 本書においてはこのプロローグは極めて重要な指摘のみならず、本書全体を解説し、何を目的とするかを示しております。長くはなりますが、以下、抜粋し、ご紹介致します。

 

その一 本書の目的

 

 本書の目的が、感情的な弁解でもなく、日本の真珠湾攻撃に至るまでの八ヶ月間を、わかりやすく述べることにあることが明らかになるはずだ。日本の振る舞いを、正当化するのとも違う。難攻不落の敵との勝ち得ぬ戦争が、日本の指導者たちによって、いったいどのように始められることになったかを理解したいのだ。もちろん、そのような無謀な選択がより強い意志と忍耐で、避けられるべきであったことは言わなければならないが、それはある一定の理解を得た後に来る、解釈の問題である。・・(中略)日本の運命を握っていた政策決定過程は、信じ難い煩雑さと矛盾に溢れかえっている。ほとんどの指導者は、帰属組織への忠誠心や個人的な事情から、表立った衝突を避ける傾向にあったことは間違いない。遠回りの発言をすることが、常習的に行われていた。特に軍関係の指導者の多くは、当然のことながら、まわりから弱腰と思われるのを何としてでも避けたいと願っていた。そのため、心の内にいかなる疑問を抱いていたとしても戦争回避を訴えることはしなかった。(22,23頁)

 

その二 当時の状況

 

 そして当時の社会の状況につき、1940年の秋、60歳の永井荷風の日記を紹介します。

 

 日本橋辺街頭の光景は今もひっそりとして何の活気もなく半年前の景色は夢の如くなり。六時前後群衆の混雑は依然として変わりなけれど、男女の服装地味と云うよりはぢぢむさくなりたり。女は化粧せず身じまひ怠り甚だしく粗暴になりたり。空暗くなるも灯火すくなければ街上は暗淡として家路を急ぐ男女、また電車に争ひ乗らんとする群衆、何とはなく避難民の群れを見るが如き思ひあらしむ。(10頁)

 

 真珠湾に攻撃機を送り出すに至るまでの日本は、政治的にも、経済的にも極度に不安定な状況が続いていた。国による統制が日に日に厳しくなるなか、人々の生活を無力感が支配していた。1937年半ばに始った中国との戦争には終わりが見えず、最初のうちこそ人々は、日本が迅速に決定的勝利を収められると信じて疑わなかったが、あたかもロシアに遠征するナポレオン軍のように、日本軍は大陸の奥へ奥へと引き入られ、荒くれの未知の地形での苦しい戦いを余儀なくされていた。それでも日本の主たるマスメデイアは、盲目的愛国心主義に染まった報道を続けたが、時がたつほど人々の心の中で、なぜいまだ中国との戦いにけりが付けられないのか、疑念が湧き起こり始めていた。そして宣戦布告が遅れたために、その後の日本は重い遺産を継承することとなった、と述べています。すなわち1941年12月8日を迎えたわけです。国際法上、戦術上の細かい話は日本の一般市民にとって二の次で、少なくとも表立った反応に限れば、奇襲攻撃の成功は、国民から歓喜の声と共に迎えられました。

 

その三 文化人、知識人の反応

 

 そして例外はあるとしても文化人、知識人とて真珠湾奇襲攻撃成功を冷静に受け止められるわけではなかった。当時59歳であった斎藤茂吉は「老成ノ紅血躍動」と日記に記し、36歳の伊藤整も「我々は白人の第一級者と戦う外、世界一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限りないいとおしさで自分に分って来た。・・(中略)、ハワイだけは我々も意外であり、米人も予想しなかったのであろう。・・(中略)立派なり。日本のやり方日露戦と同様にて素晴らしい」と日記に絶賛した。尚、日露戦争も正式な宣戦布告より二日前の1904年2月8日、ポートアーサーで、日本軍がロシア帝国軍の船に仕掛けた奇襲攻撃で始まり、そして日本はその戦争に勝ったのだ。と著者は記しています。

 

 日本の対中政策の大きな矛盾に苦しみ、批判していた当時31歳の中国学者の竹内好さえ、同人誌に次の文章を発表するわけです。

 

 歴史は作られた、世界は一夜にして変貌した。・・素直に云えば、我々は支那事変に対して、にわかに同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。・・わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証してゐる。国民のひとりとして、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が自日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。(中略)東亜に新しい秩序を布くといひ、民族を解放するといふことの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。(13頁)

 

 もとより少数であるが、正式に敵となった西洋の国々について、正しい知識を持つ人もおり、国力の差、資源の差は明白で日本は結局のところ大敗を喫するだろうとの予想を持っていたが、歓喜と熱狂の渦中では、非国民との告発は免れず、待ち受ける大きな困難については、考えずにいる方をとったのである。

 

その四 前史

 

 加えて著者は、日本の指導者が真珠湾奇襲攻撃に至るまでの道程で、直面した現実の、または想像上の束縛は、これより前の歴史にも根ざしている、と次のように指摘しています。

 

 一九世紀後半の開国持、世界はより広く、しばしば日本に敵意を持っているように思われた。鎖国政策の終焉、大政奉還、そして近代国家の設立と続く日本の一大変革期は、また同時に世界の勢力図が大きく塗り替えられる時期でもあった。中国、スペイン、そしてオスマントルコ帝国が崩壊する中、略奪的性格を持つ西洋帝国主義が日本に示した教訓は、「力」の重要さだった。国力を養うことで国が存続できるという信念が、日本近代国家に植えつけられた所以だった。時代の産物である新敵国主義、社会進化論、白人優越主義などは、さらに人種差別主義的世界観を日本にもたらした。・・(中略)ただ、そんな日本人にもできなかったことがあった。それは肌の色を変えることだった。(27頁)

 

その五 狂信とギャンブル

 

 日清戦争直後には明治天皇が勝利に際し、自惚れての慢心に注意せよ、との警告で「自ら驕り」「他を侮り」「友邦を失うが如きは断じて」受け付けない。全ての国民が勤勉に忠義を尽くし、国家の発展のために邁進しなければならない、と戒めていた。しかし1930年代までには、そのような謙虚な心がけが失われつつあり、西洋によって、不当に扱われてきたことに対する長いルーツを持つ怨念が、近代国民国家として成功したという自負と相まって、ある確信に拍車をかけた。それは、どんなに困難な国内外の危機でも、日本には強い意志さえあれば、乗り越えられるという狂信とも言える信念だった。しかし、何故に捨て鉢の戦争が1941年12月に、勇断として日本国民に歓迎されたことも、部分的には説明がついたとしても、日本の開戦理由にはならない。特に政策決定者たちの多くが、日本の最終的な勝利に懐疑的だったのだから。日本の開戦決定は結局のところ、巨大な国家的ギャンブルとして理解されるのが、最もわかりやすい。

 

 その判断の一つはヒットラーと戦火を交える中、西ヨーロッパ諸国の東南アジア植民地の守りが手薄になっている、という読み。一方、日米決戦がアジア・太平洋地域の覇権を賭けた地政学的に「避けられない」戦いであるという認識も、強迫観念に拍車をかけた。しかし、必ずしも日本の指導者のすべてが、太平洋での大衝突を歴史的必然と捉えていたわけではないが、誰ひとりとして、踏み込んで戦争回避を主張する者はいなかった。当時よく使われた「バスにのり遅れるな」という標語は、この戦機を逃せば、もう二度と日本が大国として世界に君臨するチャンスは巡ってこないだろうという切羽詰まった思いを簡潔に代弁している。

 

 更に、一か八かの開戦に傾く日本の戦略構想の中に、もうひとつの大きな歴史の皮肉があった。それは、その壮大で無謀なギャンブルは、そもそも開戦に反対していた連合艦隊司令官、賭博好きの山本五十六の存在なくしては、あり得なかったということだ。しかし、単純に戦争が「避けられなかった」からだと言うのは、あまりにも不十分である。ではいったい誰が、そして何が、日本に真珠湾を攻撃するように導いて行ったのだろう、とプロローグを結んでいます。

 

第一章「戦争の噂」から第十六章「清水の舞台」

 

 第一章から第16章と真珠湾奇襲攻撃に至る経緯経過を記して行くわけですが、従来あまり取り上げられなかった近衛文麿について資料を丹念に検証しながら著者は掘り下げて行きます。加えて、松岡洋右については近衛文麿と生い立ちについては大きく異なりますが、「タフな日本」「NOと言える日本」を望んだ点、加え、両者が固定観念にとらわれている点で、両者は非常に似ているとしております。もとよりこの両者だけが開戦に至らしめたわけではありませんが、いずれにもせよ開戦に至る要素を結果的に与えた、との重要な指摘です。以下、近衛の演じた負の役割を私なりに紹介して参ります。尚、近衛文麿については筒井清忠著「近衛文麿」を昨年10月にブログでも紹介致しましたが、今回、私としても認識を新たにしたところです。

 

 

 

近衛文麿の役割

 

 第一次近衛内閣は1937年、いかにも軽やかな足取りでスタートした。近衛は民選ではなく重臣の西園寺公望の推薦であったが、近衛に大命が降下されると、マスメデイアにもてはやされ、国民全体が、あたかも救世主が現れたかのように歓迎した。近衛と大きく異なる身分と育ちである松岡洋右も国際連盟脱退、三国同盟締結の帰国後の彼に対する奇しくも同じ現象がみられたのであった。「大政翼賛会」、「国家総動員法」、「東亜新秩序声明」、「昭和研究会」はては「隣組制度」も、また「蒋介石を対手とせず」の声明も近衛時代に行われた。そうした一連の近衛に対し著者は次のように記しています。長くなりますが近衛の性格を知る上で紹介致します。

 

 近衛が日本国内でいくらか知られるようになったのは、1919年パリ講話会議前夜、「英米本位の平和にもの申す」という前述の小論文が、英訳され紹介された時だった。そして1937年、日中戦争が勃発し、中国の主要都市や工業地帯、国民党の首都であった南京などを含む地域で、日本の攻撃が激化したのも、ドイツとイタリアとの同盟を追求したのも、また、今となってはいっさいの責任を負わせている松岡に、特に期待して外相として任命をしたのも近衛首相だった。紛れもない、言い逃れのできない経歴がまだあった。三国同盟の成立直後、近衛自身が公式の記者会見で「私はアメリカが、日本の真意を理解し、積極的に世界の新秩序建設に協力したほうが賢明ではないか、と考える。しかし、アメリカが日独伊の真意を故意に見誤り、三国に対して条約を敵対行為を表すものと考え,、さらに挑発行為を続けるならば、我々とって戦争以外の道は残されないであろう」と、松岡張りに強弁していた。だが不思議なことに本人は、このような言説や行為の数々が西側の自分に対する信頼を損ねてきたとは、思わなかったようだ。自分の地位は不可侵だという、特権意識のなせる業だろうか。ことルーズベルト政権の対近衛意識に関しては完全に勘違いをして、首脳会談開催がここまで難航するとは思っていなかった節は否めない。(250頁)

 

 残念ながら近衛には、ルーズベルトのような耐久力や、諸問題の優先順位を見抜く力が欠けていた。それに加え、自分の判断ミスや失敗も、周りに責任転嫁することが当たり前になっていた。そして見紛いようのない、やんごとなき社会的地位がそれを常に、少なくとも敗戦までは可能にしていた。加えて次のように指摘しています。

 

 気高い血筋も知性も、効果的リーダーシップの保証ではなかったことを、身をもって証明した。政策が決められる議論の場で、自分の意見をはっきりと述べず、自身の手を汚すことを極端に嫌い、事なかれ主義に走り、対立を避け続けた成れの果てが、外交交渉と開戦準備の期限付きの同時進行だった。最後には、日米首脳会談で何もかもがうまく行くという幻想にすがりつきながら、自覚なしに崖っぷちに国を誘導してきたが、ハッと正気に戻ると、その進行止める大仕事をまかされるのはまっぴらごめんとばかりに、すり抜けて逃げることになった。首相として、日本の危機が最高潮に高まった過去四年のうちの三年近く、政府を指導したが、その間、中国との戦争はますます泥沼化し、あり得ない英米戦争が、いたって合法的に、いくつもの会議を経た上で、最終的に天皇の承認を得た国策として、のし上がっていた。(277頁)

 

 大手新聞のマスメディア

 

 では当時の報道機関はどうであったのでしょうか。満州事変当時においても新聞はこぞって戦地に特派員を派遣し、劇的な見出しの下に、号外で戦況を報告することで発行部数を競い合い、売り上げ合戦をますます白熱化させていた。大手新聞はこの時点で、意識的に政治的に「自己検閲」という浅はかな道を選択した。その選択はその後10年間かけて、日本のメデイアを窮地に追い詰めていくことになったわけです。「軍部から正確な情報を得ていたであろうにもかかわらず、どの新聞も、満州事変の発端が実は関東軍が企てたもので、中国側に非がなかったという重大な事実をあえて報道しなかった。満州事変が偽の口実で、なし崩し的に決行されたということが、一般読者に知らされることはなかったのだ。それどころか新聞は、関東軍の主張を全面的に肯定する報道に終始し、爆破された線路の現場や、首謀の中国人の遺体の写真などを事変の確固たる証拠として、センセーショナルに報道した。(61頁) 

 

 そして日本の世論は強行論調のメデイアにたきつけられていったのである。

 

 帝国国策遂行要領の御前会議、そして開戦へ

 

 1941年1月11日、政府は「国家総動員法」を補足する形で、新聞などメデイアに対する規制を強化した。上述のように満州事変以降から大手新聞は国策に取り入り、露骨に愛国的熱狂を煽り立て、激しい売り上げ部数拡大をくり広げてきた。当初、軍人とは積極的に、互いを利用し合った。1941年にもなると、マスメデイアが軍部との「危険な関係」から身を引くのは到底不可能になっていた。そして会議らしいものは行われることなく近衛文麿の下、「帝国国策遂行要領」が御前会議で承認されるわけです。

 その近衛はスパイ・ゾルゲの逮捕に続き、近衛の側近であった尾崎秀実の逮捕のタイミングで近衛から東篠英機へと移ります。新首相は1941年10月から30日まで、9月6日の御前会議決定を再検討するべく連絡会議を招集するも、時既に遅く、東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相の反対もむなしく、論議は尽くされないまま帝国国策遂行要領は変わらず、開戦へと向かいます。即ち「空気」が変わることはなかったわけです。

 

著者はエピローグで次の重要な指摘をしております。

 

 ルーズベルトは演説でこう述べている。「日本の航空部隊が攻撃を開始した一時間後、日本の大使と彼の同僚が、国務長官に、最近のアメリカからのメッセージに対する正式な返答を持ってきた。その返答には、これ以上外交交渉を継続するのは無駄だという見解が述べられてはいたが、戦争や武力攻撃の示唆は、全く含まれていなかった」。つまりルーズベルトは、日本が外交を攻撃計画を包むマントとして、つまり騙しの道具として用いたことを力強く世論に訴えたのだった。

 真珠湾攻撃から三日後、ウエストポトマック公園の中で、最も立派で美しい日本桜四本が、切り倒された。日米間の、「最後の言葉」などない、永い友情のシンボルであるべきはずの桜の木が、米国民の激しい憎悪の対象になったのだ。アメリカが「リメンバー・パールハーバー」のキャッチフレーズのもとに団結し、対日戦争に本気で乗り出したことを反映する、象徴的な事件だった。(363頁)

 

 そして次の文章をもって終わりとしています。

 

 行き着くところ、開戦はすべて国民の責任だった。国民すべてが懺悔しなければならない、としたことは、ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するに等しいのだった。1941年当時大多数の国民の運命を決定する少数の日本人が、確かに存在していた。しかし彼らの開戦決定責任は、十分な検討もされないまま、(また後に続く、連合国による極東国際軍事裁判でも、その全容がつかみきれぬまま)、それはさらに一億の国民によって、薄められたのである。言うまでもなく、東久邇宮内閣の立役者で、無任所大臣として公の場に再浮上した近衛文麿にとって、「国民総懺悔」は、もちろんこの上ない好都合な概念であり、歴史観であった。(375頁)

 

おわりに

 本書についての私自身の解釈に、あるいは勝手な著者の引用に、いろいろとご批判があるでしょう。ただ、私は本書で開戦に至る当時の状況等々を改めて知り、A級戦犯とは何かを考えさせられました。A、B、C級とは単なるクラス分けの分類に過ぎないのに、あたかもA級が最大の重罪として流布され、A級戦犯に戦争責任のすべてを押しつけ、それでよしとしてきたこの現状に、私は極めて違和感を持っております。その上でも、今日の日本の現状から今後を考える上でも、本書は極めて貴重な歴史研究書であろう、と考えております。

 

 加えて、私が度々、お伝えする一国平和主義とも言うべき現状の日本は、極めて危険な状況をむしろ作り出すと考えております。戦争の悲惨さを伝えるばかりが能ではありません。共産党独裁政権の中国が次々と核心的利益と称し、中華大国の復活を賭けて邁進する現状は、あたかも1930年代の日本を見るようです。一方、今年の11月8日のアメリカ大統領の選挙結果でクリントンかトランプ、いずれかが大統領になろうとも、アメリカは内向きの政策をとっていくでしょう。それは今後の日本のあり方にも、すくなからずの影響をもたらすでしょう。即ち、そこには大きな地政学的変動も起きているわけです。従い、日本としては価値観を共有する国々との連携を従来以上に強めていかなければならないわけです。

 方や、そうした現実に対し、一部の識者、ジャーナリストがあたかも日本に言論統制が再び始ったかのように喧伝することに、強い嫌悪感を私は持ちます。そのような方に必要なことは、むしろ自ら過去を改めて調べ直し、そして反省し、己を研鑽することが最重要課題ではないでしょうか。マスメデイア等に登場する一部の識者、コメンテーター、さらにはジャーナリストと称する人々の、独りよがりの正義感、そしてあの傲岸さは私だけが感じることなのでしょうか。かってもそうであったように、マスメディアに見られるのは、そこに営利主義的行為が単に強まってきたに過ぎない、と映るのですが。如何でしょうか。我々が思い起こさなければならないのは、先の大戦時でも、戦後でも然り、自らは何らの責任を問うことも、負うこともしなかった報道機関と称する存在でした。

 

 更に、新たに杞憂する事象は最近の報道番組と称するテレビ画面に芸能人、何の芸能があるか私は分りませんが、頻繁に登場している現状です。そして彼らは当該放送局の意に沿うような発言で番組をリードし、世論と称する、その形成に大きな影響を与えていることです。彼らはいわば庶民の代表では決してないわけですが、庶民の代表的存在として登場してきたことです。専門家と称される人も、その論議において、彼ら芸能人のテレビ慣れには適わない現状で、その結果、無責任に作られた世論と称するものに時の政権が大きく影響を受けている現実です。結果は日本だけしか通用しない思考集団が出来上がるわけです。皆さん、如何思われるでしょうか。

 (注)本拙稿は2016年9月29日に投稿したのですが、今回の「おわり」に若干の補足追加他、加えております。

 

2017年9月29日

                        淸宮昌章

 

追補 新聞社等が造りだす世論

 

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 私は今迄も、自分でも執拗に思うほど何度も繰り返し、新聞を初めとするマスメデイアに主導された世論と称するものに、戦前、戦中、戦後を通じて政権が大きく影響されてきた、と記してきました。筒井清忠氏は日本において、初めてポピュリズム現象が登場したのは日露戦争の講和条約の締結に反対する国民大会が暴動化した、所謂日比谷焼き討ち事件であろう、としています。当時政権を取っていた桂内閣を批判する立場に変更した「東京朝日」が、東京の「万朝報」と大阪の「大阪朝日新聞」の新聞を含め、講和条約を批判する論陣を張ると共に、それらの新聞記者達が提灯行列に先立ち、その反対運動を先導していった、ことです。

 

 そして昭和の時代には、これも何度も触れて参りましたが、1926年の松島遊郭事件、同じく陸軍機密事件、朴烈怪写真事件、1934年の五・一五事件裁判、更には架空の帝人事件が新聞報道による世論形成の結果、時の政権を倒壊させ、政党政治を逆な方向、危険な方向に動かしていったのです。戦中、戦後のマスメデイの実体は上記の本書の紹介の中で述べてきた通りです。

 

 言論機関が時の政権、あるいは権力にもの申す、掣肘するとの正義観は本来的には何も問題はないのかもしれません。ただ、新聞報道の仕方、その主張する正義観は果たして正しいのか否かは、これまた別物なのです。一人よがりの独善的なものになっているか否か。その事は極めて重大な問題であり、課題なのです。

 

 私は日本の新聞社の在り様が、世界の民主主義国家といわれる中でも極めて異質なものではないだろうかと思っているのです。日本の新聞社の現状の際立った特徴は、その巨大な発行部数です。日本の主要三社である読売、朝日、毎日新聞の発行部数の合計だけでも約1800万部です。方や、3億3千万の人口を持つアメリカのウオリートストリート、ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト三社のそれは約264万部、66百万人の英国のタイムズの発行部数が約44万、67百万人のフランスのル・モンドは、ほぼ29万部という現実です。何故に日本の新聞社の発行部数が巨大なのでしょうか。この現状をもたらす要因は、その人口1億3千万人弱が、幼・乳児は別として、全て日本語を話し理解できることも、この現状を作り出す大きな要因かもしれません。ただ、この彼我の大きな違いは、別な、極めて由々しい事態を生み出す面をも持つに至った、と私は思うのです。

 

 GHQの占領政策である情報操作とも相まって、戦後も新聞は大きくその発行部数を増やし、その後、主要新聞社は新聞だけではなく、ラジオ、テレビ、スポーツ、果ては不動産業務等々と、その業態を広げ、企業としても巨大化をしていきました。従い、膨大な人々がその新聞等を読み、あるいは聞き、観る、更には参画するということがなければ、その新聞各社の経営は立ちゆかない体質になってしまったわけです。即ち、新聞各社は企業経営上、読者、観客を何としても引きつけなくては、ならなくなった体質になったのです。そこには正義とか、ことの真実ではなく、読者・観客を呼び込む必要性に新聞各社が追い込まれて行った、と言わざるを得ません。そして、結果的に日本では新聞社が強大な権力を持つに至ったのです。由々しきことはその権力を掣肘するものが新聞社内部のみならず、外部にもなくなってしまったのです。

 

 報道の自由は正にその通りでしょう、しかし言論報道の自由と共に、報道しない自由も新聞社が持ってしまったのです。従い、政治家のみならず、一般の人々もその新聞社等メデイアに、むしろ迎合するような現実が生まれ出てきたわけです。由々しき状態に日本がなってしまったと言わざるをえません。国会議員等もメデイアに載せてもらおうとする、国会内外のあの見苦しい、特に野党国会議員等による、あのパフォーマンス姿を現出する状況も生まれたのです。

 

 日本記者クラブと称される会見を含め、種々の記者会見における、記者等による独りよがりの、安上がりの、正義は我に在りとするかの如き姿。元を含め、新聞記者、論説委員と称する人々の、あの傲岸さはどこから来るのでしょう。巨大な権力を持った驕りから来る証左、そのものと考えます。私には歯止めの効かなくなった権力者そのものの姿、と写るのです。

 

 民主主義を掲げる各国の中で、このような膨大な新聞発行部数が在ることは、日本の特殊な実態と考えます。日本の報道機関、そのような名前はもはや無いかもしれませんが、民主主義という制度上にあって、歯止めの効かない巨大な権力、むしろ最大な権力構造かもしれません。日本の新聞社は極めて危険な存在と化したのではないでしょうか。この現状に誰が責任を取るのでしょうか。民主主義を危険に陥れる由々し現状に、日本は置かれていると思います。民主主義とは何か、我々は改めて考えなければならないのではないでしょうか。

 

 今、私のできる細やかな抵抗は、私の嫌いな新聞は取らない、その系統の報道番組と称するテレビ等は見ない、無視する以外ない、という実に悲しい現状です。

 

 皆さんは如何に思われますか。このような観点は私だけでしょうか。今、私は清沢洌「暗黒日記」(岩波文庫)を再読しております。

 

2018年9月29日

                        淸宮昌章

参考文献

 

 堀田江理「1941 決意なき開戦 現代日本の起源」(人文書院)

 イアン・ブルマ「廃墟の零年 1945」(三浦元博・軍事泰史訳 白水社)

 山本七平「戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部」(さくら舎)

 筒井清忠「陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点」(中公選書)

 塩野七生「日本人へ 国家と歴史篇」(文春新書)

 筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇(岩波現代文庫)

 同  「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)

  水島治郎「ポピュリズムとは何か」(中公新書)

 花山信勝「平和の発見 巣鴨の生と死の記録」(方丈堂出版)

 宮家邦彦「日本の敵 よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)

 木村幹「日韓歴史認識問題とは何か」(ミネルヴァ書房)

 服部龍二「日中歴史認識」(東京大学)

 佐伯啓思「西田幾多郎」(新潮新書)

 清沢洌「暗黒日記」(岩波文庫)

 他

 

塚本哲也著「我が家の昭和平成史を」を読み終わって

はじめに

 

 本書は毎日新聞のウイーン特派員、プラハ支局長、ボン支局長、論説委員等を経た後、防衛大教授さらには東洋英和女学院大学学長をも勤められた塚本哲也氏による、家族の平成昭和の記録です。一巻、二巻からなる長編記録ですが、その内容による力のなのでしょう、一気に読まれなくとも鮮明にその記憶が残り、日をおいて読み出しても何らの支障も感じません。心が洗われる著作です。読み終わったのが8月15日であることも、私の記憶に深く刻まれた本となりました。

  義父である国立ガンセンター長の塚本憲甫と年子夫人、並びに哲也氏の妻で、ウイーン派ピアニストのルリ子夫人との四重奏の生活記録です。その背景には冷戦下の東欧諸国、並びに激動の昭和・平成を語る、いわば歴史書でもあります。

 

  尚、本書を読み進めるなかで、時の権力・政権を掣肘する、あるいはもの申すと言わんばかりの、安上がりの、独りよがりの正義を振り回す知識人、それとジャーナリストと称する人達との比較が自然と沸き、ジャーナリストはかくあるべしとの感を深くします。また、本書に一貫として流れている塚本家の心の優しさ、それを支える宗教心(キリスト教)を強く感じます。本書を読んでいて、私は、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」に描かれている場面が彷彿されました。それは主人公コペル君(潤一君)へのお母さんの次の言葉です。

 

 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取り返しがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんが立派なことは・・そう、誰かがきっと知ってくれます。人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。(上掲書 248頁)

 

 塚本哲也氏は世界大恐慌の1929年生まれ、その70年後の1999年に脳出血を煩い、続いて2005年には最愛の妻ルリ子氏が逝去された後も、体の右側が不自由のため、左手のみでパソコンを操り、「メッテルニヒ・・危機と混迷を乗り切った保守政治家」他の大著二冊に続き、2016年5月に本書を刊行します。

 尚、ルリ子氏の告別式は東京四谷の聖イグナチオ教会で行われました。その教会で哲也氏夫妻の結婚式も行われております。私ごとになりますが、その聖イグナチオ教会は小中学校の時代に少なからずの縁があり、私の脳裏に鮮やかない記憶を残している教会でもあります。その告別式における「思い出は生きる力なり」とのデーケン神父の告別の辞に並び、その後の松本主任司祭の「立ち上がれなくともいいではないですか。悲しめるだけ悲しんでやって・・」との言葉に強く後押しをされた、と記されています。

 

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我が家の昭和平成史

 

 上にも述べたように、本書は塚本哲也氏家族の生活記録ですが、同時に戦中戦後のヨーロッパ及び日本にも関わる長編記録でもあります。一巻、二巻のA五版の二段書きで1048頁に亘る大作です。その副題には「がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏」と記されております。春、夏、秋、冬という中で、第一章・ルリ子との出会い、から始まり、第二十六章・晩年の孤独、という構成で、記録されていきます。

 今回も本書の概略を記すものではありません。ご批判もありますが、私が感銘を受けた、あるいは心に刻み込まれた点を、いくつか紹介してみたいと思います。

 

その1 第一巻・・春、夏、秋

 

 一巻の「はじめ」で塚本哲也氏は、東京の片隅に住む市民一家の昭和史、と謙遜されておりますが、氏の出会った方々は夫妻の親戚、友人、先輩は、そろいもそろって超一流の、昭和の歴史に記録される錚錚たる方々です。たとえば岸信介、丸山真男、中村隆英、江戸英雄、ヘルマン・ホイヴェル神父、若き時代の小澤征爾、粕谷一希、大賀典雄の方々であり、私は著作物で、あるいは新聞等で知るのみで、お会いしたことは全くありません。塚本氏を防衛大教授に推挙された、名著「摩擦と革命」を著わした佐瀬昌盛氏が直接お会いした、ただ一人の方でした。尚、私は佐瀬昌盛氏の講義を聞きたく、60数歳の時期に、拓殖大の、今は大学院になっておりますが当時の国際塾に通った次第です。塚本氏は確かに一市民であるとしても、私とは大きく異なる次元の高い方々の中で生活をされていたわけです。

 

 第一章の「ルリ子との出会い」から始まりますが、塚本氏は30歳過ぎの新聞記者の時代に、東西冷戦の最中のヨーロッパ、ウイーンへの留学を目指します。日本は安保騒動で揺れている時代でした。そしてウイーン帰りのピアニストのルリ子氏と警察回、首相番(当時は岸信介首相)の塚本氏は、ひょんな出会いから知り合い、木村姓から日本の放射線医学先駆者で、後の国立ガンセンター長の義父の塚本憲甫家の塚本姓になります。そして留学生試験に合格し、夫妻でウイーンに旅立ちます。アメリカによる占領を少なからず評価しながらも、ヨーロッパに行かれたことが、その後の氏の視点・観点に大きな影響を与えたのでしょう。東欧の社会主義国家の現実を体験し、外から日本を見られたことが、現実から遊離した、いわば観念的な日本の左派知識人、ジャーナリストとの大きな差であろう、と私は考えます。

 

 1969年の東大の安田講堂が全共闘の学生に占拠され、機動隊八千五百人が出動、封鎖を解除した、いわゆる安田講堂事件は丁度、塚本氏がプラハからボンに帰ってきた時です。東京から送って来る日本の新聞を見て、氏は次のような感想を記しています。

 

 これだけ多くの機動隊が出動したのは、それだけ学生の数が多かったのだろう。日本も落ち着いていないことを知った。しかし医学部から端を発したにしても、ベトナム反戦運動の全共闘支援団体も加わっていたようで、安田講堂を占拠する必要がどこにあるのか、とそのとき、疑問に思った。チエコ事件と比べてみると、規模も小さく、性格も違っていた。外国である大国ソ連による小国チエコの主権蹂躙という世界的なチエコ事件に対し、日本人同士の大学のことであった。新聞には機動隊の指揮官の一人として、同学の知人佐々淳行の名前があった。大変だなと思った。(246頁)

 

 鉄のカーテンの中の国々で、ハンガリー動乱、ポーランドの連帯、チエコ事件、さらには東ドイツ等におけるソ連共産主義・社会主義の圧制下の状況を記録していきます。そして事実を知ることの難しさを述べています。加えて、ヨーロッパ諸国からは東西ドイツの統一を望まれない中で、西ドイツの生き方・評価、さらには西ドイツのブラント首相の東方外交にも言及しています。極めて貴重な記述です。

 

 今回はそれとは別の視点になりますが、ここでは私は深い感動を覚えた第十章「父母の旅立ち」への想等を以下、記していきます。

 

 典型的な外柔内剛の塚本憲甫はがんに冒され、自らの死期が近いことを知ります。そして銀座教会の鵜飼勇牧師に洗礼を頼みます。洗礼式が終わった時、娘のカトリック信者であるルリ子氏に聖書の中のマタイ伝第五章「山上の垂訓」を読んでくれるよう頼みます。

 

 「幸いなるかな、心の貧しきもの、天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん。幸いなるかな、柔和なるもの、その人は地を嗣がん。幸いなるかな、心の清きもの、そのものは神を見ん・・」を読み進めますが、更に「光を高く掲げよと」の続きを静かな声で読むよう頼みます。そして病弱な母への「お袋さんを頼むよ」との言葉を娘ルリ子氏に残し、亡くなっていきます。

 

 塚本健甫の葬儀の一週間後、年子夫人の葬儀が銀座教会で行われます。二人の遺骨が花に囲まれ仲良く並んでおりました。今、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルで、「暮らしの手帖」の編集長大橋鎭子編集長が参列し、同誌のコラムに素晴らしい文章でその情景を綴っております。

 

 尚、上記の「心の貧しき人」の意味合いを、曾野綾子氏が書かれた文章を本書で紹介しております。ご参考までに以下記します。

 

 心の貧しいという表現は、日本語ではあまりいいことではなく、心が貧しいようではだめだと言われるくらいですから。しかし、これは翻訳がまずいというより、こう言うよりしょうがないのです。

 心の貧しい人というのは、「自分の貧しさを知る」という態度のことで、旧訳聖書では「アナウイム」というヘブライ語で知られている姿勢を反映したものです。「アナウイム」は「しいたげられているもの者」「苦しむ者」「柔和な者」「へりくだる者」「弱い者」など、さまざまに訳されているそうですが、つまり何も持っていない人のことです。才能も、教育もなく、親や親戚の引きも社会の保護もなく、健康でもないといった、何もかもない人、そういう人だけが幸いである。なぜならば、その人だけが本当に神に祈り、神に自分の運命をゆだねようという謙虚な気持ちになるからだというわけです。逆に言えば、私たちは不遜だということになるのです。(二巻 268頁)

 

その2 第二巻・・冬 一、 二

 

 その1に記された塚本憲甫は日本の放射線医学の一線に立っているのみならず、国連科学委員会主席代表でもあり、多くの国際会議に立ち会っていました。そうした体験から「国連総会や安保理事会は、もっと露骨なすさまじい大国同士のぶつかり合いであった。秘策を尽くし、舌鋒を鋭くしての激しい外交戦の場であった。憲甫は次第に愛国者になっていった。国際会議の場数を重ねるにつれて、『自分の国を思う心のない人は、真の愛国者に慣れない』と思うようになっていった。自らの国の立場、国益に立って国際的に協議を進めることが、真の国際主義だと確信するようになっていった。憲甫は愛国心という言葉をよく使うようになっていた。」(51、52頁)、と塚本氏は記しています。

 

 第二十一章「うたかたの恋の娘」はハプスブルク帝国の末裔であるエリザベートの生涯です。その生涯は「私たちが日本で経験した戦争、敗戦の時、ヨーロッパはどうであったかを知る上で、非常に参考になるもので、書きながら常に日本と比較し同じ敗戦国として考えさせるものが多かった。当時、日本とヨーロッパは表裏であった。二十世紀がよく分かるのである。」(129頁)と記しております。続いて、印象深い次のことを記しております。

 

 ヨーロッパではロシアは後進国であり、日本にとってはあまりよく知らない、遠いヨーロッパの大国のひとつ以上のなにものでもなかった。知っているのはトルストイ、ドフトエスキーなどの作家の名前であった。ヨーロッパは理論と現実を、日本は理論だけをロシア革命から受け取った。これは大きな差であった。・・(中略)日本では、社会主義は関心や研究の段階でも、異端視、犯罪視されるようになった。その抑圧が、第二次大戦の敗戦後日本で、反動として知識階級に社会主義思想の信奉者を多くした理由ではないかと、私はヨーロッパで思っていた。

 日本におけるソ連についての情報は一方的で、思い過ごしや幻想が多く、それが情報の見通しを誤る原因となった。戦後あれだけ大きかった日本社会党が消えてしまった原因も、社会主義への幻想にあるだろう。一般庶民はそのような情報から遠く、思い過ごしや幻想の多い知識人よりもずっと健全であった。(135、136頁)

 

 更に、ヒトラーのポーランド攻撃から第二次世界大戦が始まるわけですが、当時のヨーロッパの英仏独伊の大国の身勝手さ、横暴ぶりをできるだけ忠実に記述しておきたいと考え、次のように述べていきます。

 

 彼ら大国首脳の言動を鑑みると、その冷酷非情さに驚く。多くの歴史書は小国の悲哀などほとんど書かないので、あえて噛みしめてみる必要があろうと思う。

 私はこの大国のエゴイズム、自己防衛の実態を検証し、正直のところ、そら恐ろしさを感じている。ヒトラーを増長させて、第二次大戦の悲劇をもたらしたのは、こうした大国の自己本位の態度でもあったといえよう。小国の無力さ、泣き寝入りする以外にない、悔しさ。私はいつまでも考え込んだ。そして忘れない。

 アジアでも、日本は戦前も戦中も何をしたか、また敗戦後、政治軍事小国になった日本は何をすべきか、それが他人事ではなく、頭から離れないようになった。(162頁)

 

 東欧圏崩壊

 

 昭和天皇の崩御の1989年は、年が明けてからもチェコの「ビロード革命」と言われた市民革命から、ルーマニア、ハンガリー、ポーランドの革命という、ソ連圏からの実質的離脱、いわゆる東欧圏の崩壊が始まります。そしてベルリンの壁が砕かれ、東西ドイツの統一という冷戦の終結に繫がっていくわけです。本書にはその背景に共産圏のポーランド出身で、共産党の内情をよく知っていた、しかもその国民の9割を占めるカトリック信者の信頼を集めるバチカンのヨハネ・パウロ二世が、東方外交を切り開き、ポーランド共産党の土台から敗北させ、東欧共産圏が全面的崩壊へと導いた命がけの活動を記しています。私は改めて認識したところです。

 

 尚、60年安保騒動の時には首相官邸詰めの政治部記者として、騒動のど真ん中で事態を経験した大学時代の友人は、早くからこの東欧の崩壊を予測し警告していたとのことです。その友人は「日米安保とは何だろう」と考え込み「安保を理解するためにはヨーロッパのNATOを研究しなければならない」と結論し、実際にオーストリア・ウイーン大学に文部省留学生として留学し、ボン特派員を兼ねた。それまで、戦後の日本の青年の多くが抱いていた社会主義への漠然たる期待感は西独の経験で、一挙に醒めた。そして「ハンガリー動乱、プラハの春、ポーランド連帯の成立、東欧の反乱には、十二年周期説があるとは、多くの人が語っていた。しかし、共産党支配のテクニックを知っている者には、崩壊現象が起こることは不可能に思えたのが普通である。」(248頁)、と記しています。続いて松本重治の塚本氏への、お褒め言葉が次のように記しております。

 

 情報源の培養こそ、ジャーナリストの基本条件である。ジャーナリストは、すぐれた情報をもつ人、はいってくる立場の人々との接触を心掛けなければならない。情報は空中を飛んでいるのではない。そして大切なことは情報よりも情報の解釈であり、その解釈を深めるのは、それぞれの人間の素養であり、経験である。

 予見性、先見性を発揮した人間は、それなりに尊重されなければならない。かってはジャーナリズムにもそうした雰囲気があったが、今日ではそれすらなくなりかけている。

 日本の新聞・雑誌には一部に依然として社会主義信仰、マルクス信仰があり、東欧、中国の事態で、突然社会主義に対する反体制支持に百八十度、転向して恥じないものがある。自らの来歴を誠実に辿るべきであろう。

 T君、それは毎日新聞外報部に長く勤務し「ガンと戦った昭和史」で講談社ノンフィクション賞をとり、いま防衛大学教授を務めている塚本哲也君である。(248、249頁)

 

 塚本氏は次のように述べています。

 

 暗い社会主義の実情を見て、私はこの目で民主主義、資本主義の優位と美点を知った。これは社会主義の現実を見なければ、分からないことだった。私は新聞記者で、現実を見なければ気がすまなかった。そういう意味でヨーロッパに行ってよかったと思っている。 

 日本では社会主義を理想化し、美化する知識人、社会党員が多かったが、これは日本特有の現象だ。フランスやイタリーにも左派はいたが、日本の左派はあまりにも非現実的だった。よくいえば、純粋で世間知らず、夢見がちの理想主義で、社会主義をあまりにも美化していた。ソ連・東欧圏の崩壊は、日本の知識人の幻想の崩壊であり、大きなショックだと思う。(306頁)

 

 皆さん如何でしょうか。その塚本氏が東西ドイツの統一、そしてイラクがクウエ―トに侵攻したニュースを聞いた時点で、これからは関係が複雑な中東が、中国とともに国際問題の焦点になりつづけると思ったのです。予見することは、将来の見通しが書けるということなのです。

 

 また、東洋英和女学院大学教授時代には、次のように指摘しております。

 

 私はヨーロッパにいるとき、高齢化社会の現実を見た。若い人が少なくなる少子化、高齢者が多くなる高齢化社会では、核家族化し活気がなくなる反面、社会人の相互援助の精神が必要であった。ヨーロッパではまあうまくいっているように思われた。それはキリスト教が基盤にあるからであった。

 日本は高齢化社会に入っているにもかかわらず、物心両面準備が遅れていた。あまり急ピッチで高齢化が進むので間に合わないのと、戦争中の反動で、戦後は間違った個人主義、いうなればエゴイズムがはびこり、相互扶助の精神が社会に欠けて行ったためである。(328頁)

 

 晩年の孤独

 

 哲也氏はカトリック教徒であるルリ子氏にも喜ばれるなか、聖イグナチオ教会で1988年にカトリックの洗礼を受けます。私は、ふと、「戦艦大和ノ最後」等を著わした吉田満が、カトリック教徒から奥さんのプロテスタントに改宗したことを思い起こしました。尚、吉田はカトリックとプロテスタントとの教義の上での懊悩と思われますが。

 そして哲也氏の最愛の妻ルリ子氏が1999年、脳出血で倒れ、続いて同氏も脳出血で倒れ、右半身が不自由となります。ルリ子氏はその病気の為、60年以上も弾いてきた自分の生命ともいうべきピアノが既に弾けなくなっています。そのお二人の厳しい、且つ愛情あふれる病院等でのリハビリ生活、そして集中治療室でのルリ子氏の最後の情景が語られていきます。涙なくして読み進めることはできませんでした。そのなかで、次のように心に残る二人の会話が綴られます。

 

 戦後、六十年になったんだね。あれからなあ。・・日本は豊かになったが、心は貧しくなった。我々は「衣食足って礼節を知る」と教わったけれど、実際はそうでなかったね」「その逆になってしまったわね」

 これは前からの二人の共通の思いであった。ただ、今になってみると、どうしてこんな歌や大正、昭和の話になったのか不思議である。老人の心の、不意の里帰りなのだろうか。(443頁)

 

おわりに

 

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 中国は何十年に亘り、共産党政権による国策として反日教育をしてきております。朝鮮半島国家も同様に時の政権維持のためでしょうか、反日教育を、これも何十年に亘り繰り返し行っています。従い、今日の情報化、交流化の時代といえども、そうした国々の人々の日本、及び日本人への感情が好転することは極めて難しいと私は考えております。かっての日本の敗戦のような大きな変化でも起こらない限り、その解消・解決は世紀を超えても難しいのではないでしょうか。必要なことは我々が中国及び半島国家に対し一喜一憂しないことです。軍事力を背景としない極めて難しい外交交渉ですが、冷静に長期的観点に立って対処していくことです。すぐ無視・破棄される条約などは結ぶことに急ぐ必要はありません。そして防衛力を高め、アジア諸国、オセアニア諸国は当然のことですが、価値観を共有する世界の諸国との連携を更に進めることが、今後の日本にもっとも重要であることです。日本一国では日本の安全も、平和も維持できない、この現実、状況を認識することです。残念ながら共産党独裁政権の中国は中華大国の復権をめざし、核心的利益と称しながら事を強引に進めているように思いますが、それは、かっての日本が戦前、戦中に辿った道を歩んでいるように私には見えます。

 ただ中国は日本と異なり、その地続きの国境はモンゴル、ロシア、北朝鮮、ヴェトナム、ラオス、ミャンマー、ブータン、ネパール、インド、タジキスタン、キルギス、カザフスタン等々の民族の異なる国々と接しております。極めて特異なことに加えて、漢族が大勢を占めておりますが、その中国国内には200万人という朝鮮族を含め、55とも言われる、恐らく日本の人口に近い一億数千万人を超える少数民族がおります。そして、その辺境中国は我々の伺い知れない共産党政権の統治があるようです。偶々、今年の2018年4月に発刊されたデイヴィッド・アイマー著「辺境中国」を私は興味深く、読み通しました。ある面で参考にもなりました。いずれにもせよ、価値観の異なる現共産党独裁政権の大国の今後の動向、その在り方は世界的にも、更に甚大な影響を及ぼすと考えます。そうした現実に日本は置かれているとの認識が必要であると、私は考えております。

 

 二年前になりますが、塚本氏は本書の「晩年の孤独」の章の最後に次のように記しています。長くなりますがそれを紹介し、今回のいらぬ、あまり意味を持たない私の拙稿を閉じます。

 

 今、時代は大きく動いて、アジアでも中国が南沙諸島に軍事基地を造り、周辺の国々に不安を与えて、米国との関係が悪化している。中国のアジア進出は、日本をはじめベトナム、フィリピン、オーストラリアなど多くの国に大きな不安を与えている。中国は南沙諸島付近に空母二隻を配置するなどしているが、私はこれらの動向に大きな不安を感じている。佐々淳行氏がいう国家としての危機管理体制の整備が、今こそ必要だろう。

 

 また、フランスのオランド大統領はフランス国土での「新しい戦争が始ったのだ」と宣言し、フランスとロシアは手を組み、イスラム国に対決している。かって一寸先は闇であると、日本の政治家がいったが、それは今も変わりない。

 誰でもそうであるように、私も平和を望む平和主義者だが、平和は声高に叫び、望むだけで保てるわけではない。日本でも集団的自衛権をめぐる論議が盛んだが、パリや中東での多くの犠牲者を見れば、日本では内向きの論議が多すぎて、これでは急速に変わってゆく国際的な情勢、論議にはついていけないだろうと、懸念している。

・・(中略) 私は中国の漁船四百隻が日本の近海で赤珊瑚を獲りに来たときに、その数と速さ、獲っていった珊瑚の量がすごいと思い、不安になったが、この中に中国海軍の関係者がいても見つけようもないと推測したりした。平和を望み、唱えるのは誰でもそうであるが、平和を守るのもどこの国もやっていることだ。

 1960年の安保改定の反対した多数のデにモ隊は後にすぐ、高度成長に乗り換え、うやむやになったりしたように、集団的自衛権に反対した人々は、パリやロシア機の大量殺人事件をどう見ているのだろうか。私は内向きの集団的自衛権よりも、これらから時代の大きな変化の中で、日本はこれから何をなすべきか、前向きのことを考えていたが、「日本の敵、よみがえる民族主義に備えよ」(文春新書)に出会った。宮崎邦彦氏という外務省政策研究所所長で、中国は今、かっての日本の満州事変のような方向に進んでいるのではないかという問題を含め数々のテーマーを提起し、私はこれからの日本が進むべき方向についての多くの示唆を受けた。(504、505頁)

 

2016年8月26日

                     淸宮昌章

追補

 

 本投稿は丁度二年前の今日、投稿したものです。フェイスブックの友達であるYoshiki Hirabayashi氏はお医者さんであり、ミュージシャンでもありますが、氏より本書、塚本哲也著「我が家の昭和平成史」を紹介して頂きました。二冊に亘る長編ですが、丁度二年前の8月15日に読み終わり、感動し、8月26日の拙稿となった次第です。尚、本拙稿で一箇所ですが、今年の8月15日に投稿した吉田満の、その改宗のことに触れております。また、塚本哲也氏は本書の自費発刊の日から、3ヶ月後の2016年10月22日、87歳の生涯を閉じられました。本書が最後の著作となったわけです。

 そのような一連のことが思いだされ、二年前の拙稿を改めて見直し、若干の修正をしました。加えて、「おわり」には、今年6月に目を通した英国のジャーナリストである、デイヴィッド・アイマー著「辺境中国」に私なりの感想等を交え、ここに再投稿をすることにしました。

 

2018年8月26日

 

                     淸宮昌章

追補の追加

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 数日前になりますが、米国史上初の女性初の国務長官・マデレーン・オルブライト氏による「ファッシズム 警告の書」を読み終えました。1937年にチェコスロバキアのプラハで生まれユダヤ系カトリックの家系で、ナチスがチェコに侵攻した際は家族と共にロンドンに亡命。祖父母を始め、多くの親族がナチス強制収容所で殺害。その後、世界大戦後一族はチェコに戻るものの、共産党単独政権が樹立されると、家族は米国に亡命。二度の亡命を経、米国の国籍を取得する数奇の運命を経た方です。尚、エリカ・フランツ著「権威主義」他を読んだのですが本書「ファッシズム 警告の書」は民主主義の危機を説く、極めて重要な著作に出会った思いです。改めて自分なりに読み込んだ上で、私なりの感想など、後日に記したいと思っております。

 

 2021年11月6日

                       淸宮昌章

 

参考文献

 

 塚本哲也著「我が家の昭和平成史」(文芸春秋企画出版部)

 吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)

 佐瀬昌盛著「摩擦と革命」(文芸春秋)

 千早こう一郎著「大和の最期、それから 吉田満 戦後の航跡」(講談社)

 顔伯鈞著「暗黒・中国からの脱出」(安田峰俊編訳  文春新書)

  デイヴィッド・アイマー著「辺境中国」(近藤隆文訳 白水社)

 他

佐伯啓思著「日本の愛国心 序説的考察」等を読み通して

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佐伯啓思著「日本の愛国心 序説的考察」等を読み通して

 

再投稿に際して

 

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 東京経済大学・名誉教授の色川大吉氏が月刊誌、今年「選択6月号」の巻頭インタビューに【コロナ禍という公害の教訓】として、「今回のコロン禍によるパンデミックと地球温暖化は、根底でつながっているのではないか。コロナ禍が世界中の人々に強制的な行動変容をもたらしたおかげで、北京では青空が見える日数が増え、ベニスでは運河の水も澄んだ。コロナ禍と地球温暖化は一本につながっているようだ。ごく短期間に地球規模で人々の行動が変わるのは歴史上始めてのこと。人間の飽くなき欲望が、新たなウイルスを生む土壌なのかもしれない。少なくとも世界規模で弱者や貧者に多大な被害を及ぼしたという点で、公害と本質を同じくしているのは間違いない。この機に我々は生きることの意味や、何が正義か、何が豊かさかを考え直さなければならない。新しい価値観や思想を示さなければ、コロナ禍は何の教訓も残さないことになる」と記されております。

 

 色川大吉氏は学徒出陣を経て復員後、東大文学部を卒業後、東京経済大学教授として、一貫して民衆の視点に立ち、昭和史、自分史等々を発刊されております。私は氏の「昭和史世相篇」、「ある昭和史」、「昭和へのレクイエム」、「若者が主役だったころ」等々、大分読み込んでおります。「選択6月」の巻頭インタビューで、現在95歳になられるお姿を久し振りに拝見しました。色川氏とは直接の関連はありませんが、今から5年ほど前の下記の弊投稿を読み返し、若干の補足をし、再投稿もそれなりの意義があるかも、と思ったところです。長いブログですが、改めて一覧頂ければ幸いです。

 

 2021年6月7日

                         淸宮昌章

 

 

はじめに 

 

 舛添知事の辞任に関する一連のテレビを中心とした報道に皆さんはどう思われますか。私は、またも始まったという実に不快な思いを禁じ得ません。

 

 なにも舛添元知事を応援するということではありません。ただテレビに出てくる司会者、コメンテーター等々による、独りよがりの思いつきの正義といったものに私は強い嫌悪感を抱くわけです。情報がテレビから他の媒体に移行しているとはいえ、その元になっているのはテレビ等の報道によるものが多く、そうした報道に世論と称するものが大きく左右される、その現状に不快を感じるわけです。

 

 加えて、テレビ等に現れる皆さんの応答はどういうわけか、「都民として舛添知事の言動は許せない」となるわけです。何故、「私は許さない。反対です」とならないのでしょうか。そうした第三人称的表現はいつ頃から出てきたのでしょうか。なにか全てが第三者的表現になっており、そこにはあるべき個人が存在していないように私には思えるのです。

 

 いずれにもせよ、今回の一連の舛添辞任事件はテレビで名前を売り出し、そして正義とは全く別物である、テレビ等の商業主義に裏切られた、と私は考えます。舛添元知事の自信過剰のなせる仕業なのか、あるいはマスメデイアを軽んじた結果なのか。指導者たる者、あるいは目指す者、公私の区別は当然のことですが油断は禁物、責任をとらないマスメデイアは要注意なのです。

 

 今回の事件とは直接関係するわけではありませんが、大野裕之著「チャップリンとヒトラー」はメデイアについて、一つの参考になるように思います。本書は1889年4月16日生まれのチャップリンと、4日遅い同年の4月20日生まれであるヒトラーとの戦いを描いた映画「独裁者」の誕生に至る経緯を綴った研究書です。「独裁者」はチョビ髭の放浪者チャーリーが登場する最後の作品であるとともに、チャップリンが台詞を喋った最初の作品です。

 

 加えて、史上初めてそのキャラクター・イメージを全世界に行き渡らせたメデイアの王様チャップリンと、イメージを武器にメデイアを駆使して権力の座についたヒトラーとの対比を描いたものです。今日の我が国のメデイアを考える上でも極めて参考になると思います。本書の中で、いわゆる時の進歩的知識人といわれた高見順でさえ、戦前においては映画「独裁者」に対し、「天に唾するような結果」との酷評が戦後、百八十度変わってしまうことを嗤うのはたやすい。しかし、より注目すべきことはメデイアが作り出す世論と称するもの、時の流れ・リズムである、との大野氏の指摘があります。

 

古川隆久著「昭和史」への違和感

 

 古川隆久氏については、優れた著書「昭和天皇 理性の君主の孤独」を以前、御紹介致しました。今回は同氏が若い方々にも読んで頂きたいとの思いもあり、本書を著わしたようです。ただ、戦前・戦中・戦後を一冊の新書版で綴るのは、少し無理ではなかったかな、と僭越ながら私は感じております。

 

 著者は昭和史をみる観点として、一つは庶民の視点を重視したいこと。二つは国際関係を重視したいこと。三つは少数者の観点を忘れないようにしたい、記されております。そのような観点からもあるのでしょうか、主要参考文献には私がさほど目を向けてこなかった文献も数多く、改めて一読を感じました。著者は最後の章で「昭和天皇は、一生のうちに最高権力者と国民の象徴という、全く異なる立場を経験し、戦後は毀誉褒貶のはざまで苦しんだ。昭和という時代の複雑さを体現した一生だった。」(370頁)、本書を結んでいます。

 

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 かの高名なヴァイツゼツカー大統領の「荒れ野の40年」、「愛国心を考える」、「基本法と共に40年」等々の演説集を読んだ読んだ影響でしょうか、古川氏の今回の著書で私が違和感をもった箇所をあげます。第4章・民主化と復興の中で古川氏の次の指摘です。

 

 だから、東京裁判や戦犯裁判は、ドイツにおける戦犯裁判と同じく、史上空前の犠牲を出した大戦争、という不条理な愚行によって家族や友人を亡くし、営々と築いてきた生活を壊され、心身ともに傷ついた内外の人びとのまっとうな怒りに、人類社会が対応するために必要な手続きだったといわざるをえない。(古川隆 昭和史 244頁)

 

 私が何故に古川氏の指摘に違和感を持つのか、以下、私なりの感慨をご紹介したいと思います。

 

佐伯啓思著「日本の愛国心 序説的考察」への私感

 

 前回の2016年4月13日の拙稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」の最後に、「・・侵略戦争という原罪を背負い、その贖罪意識から来る一連の思考・行動が日本自らを縛っているのかもしれません」、と記しました。そのようなあやふやな私の感慨に本書は明快なひとつの回答を与えてくれました。尚、本書はニューヨーク駐在時代にお世話になった取引先銀行の支店長で、帰国後は副社長等々歴任された方で、30数年経った現在でもお付き合い頂いております。そして数ヶ月前に本書を紹介して頂いた次第です。

 

 佐伯氏はその序論に記しています。長くなりますがご紹介します。

 

 愛国心について書くことは難しい。ひとつの理由は、この主題がどうしてもある種の価値判断や態度選択を迫るところがあるからだ。愛国心という言葉を聞いて全く無関心というならともかく、多少とも関心をもつ者であれば、この言葉に対して全面的に価値中立的、あるいは感情中立的というわけには行かないであろう。

 

 どこか身の引き締まる思いをもつ者もいるだろうし、逆にほとんど反射的な嫌悪感に襲われる者もいるであろう。どちらにしても、これほど評価の分かれる観念はそれほど多くはない。愛国心を論じるということは、多少なりとも思想的に踏み絵を受け踏まされるようなところがあり、それゆえわざわざ、頼まれもしないのに自ら進んで踏み絵を踏もうなどというもの好きもあまりいない。・・(中略)愛国心を論じるにはもうひとつの困難がある。(中略)愛国心というのに対する今日のわれわれの態度が、奇妙にねじれ、いわば抑圧と暴発のはざまにあって不安定に揺れ動くものになっているからである。その理由は簡単である。今日の日本の愛国心の問題は「あの戦争」と切り離すことができないからだ。そもそも「あの戦争」を、大東亜戦争といったり、太平洋戦争といったり、あるいは十五年戦争といってみたり、アジア太平洋戦争と呼んだり、しかもその呼称そのものに党派制が生まれてくる、といういささか異常な事態を思い浮かべてみただけでもこのことは明かであろう。呼称が定まらないという異常さは、戦後日本のナショナリズムの問題の特異な性格へと直結してくる。(12頁~20頁)

 

 以下、私なりに要約しますと、この問題を複雑にしたのは、「あの戦争」をただ敗北の戦争であったとういだけでなく、道義的にも誤った戦争であり、日本は、ただ英米と戦って敗れたのみならず、アジア諸国への侵略戦争を仕掛けるという誤りによって大戦を引き起こしたのであり、それゆえ断罪されてしかるべきある、という価値が付加された。これが戦後日本の公式的な戦争解釈であり、戦後平和主義や民主主義の基底においていっさいの疑問を拒絶したのが戦後日本の思想空間であり、その思想空間にしっかりと胡座をかいたのが左翼であった。

 

 一方、保守派は「積極的な戦争解釈を打ち立てるというよりは、左翼的な「侵略戦争史観」の公式化に対する反発的なニュアンスが強く、「アジアの開放」という「意図」も無視しえないし、当時の列強による帝国主義的国際状況とアメリカの圧力を無視しえないという。

 だが、ここで奇妙なねじれができてしまっている。通常は反体制を自認する左翼が実はどっぷりと戦後体制の公式的価値観に浸かっており、通常は体制派とみなされる保守派が、戦後の体制的(公式的)価値を批判しているからである。

 

 上のような序論から本書は始まり、第一章「愛国心という難問」、そして、ナシナリズムや愛国心についての思想的で概念的な事項に関する第二章「愛国心と愛郷心とナショナリズム」、第三章「愛国心と近代国家の論理」等々と展開していきます。

 

 今回も、本書全体を解説するのではなく、私が共感、感銘を受けたところを紹介致します。従い、著者の言わんとすることとは異なり、私の単なる勘違い、誤解も多々あるかもしれませんが、ご容赦願います。

 

 その1 愛国心と二重価値

 

 第一章「愛国心という難問」で、著者が戦後日本は、価値観の上で「二重国家構造」となっていった。公式的には戦後は戦前の否定の上に成り立った。しかし非公式には誰もそれを額面通りには受け入れなかった。多くの人は、戦争についての無条件の反省をあたかも踏み絵を踏むかのようにいくぶん躊躇しつつも表明し、他方で「誤った戦前」と「自由と民主主義の正しい戦後」という公式的対比は、敗戦日本を国際社会に復帰させ、復興するための、なかばやむをえない手続きだと考えた。公式的には、自由・民主主義・平和主義という「普遍的価値」を唱え、非公式には「日本的なもの」への関心を保ち続けるわけという「二重価値」を作り出した。その公式的価値は保坂正康がいう「顕教」である一方、非公式な日本的なものは「密教」とも称すべきで、その「顕教」が力を持った、と著者は指摘しています。

 

 さらに、戦後の知識人の世界にあっては、「ナショナル・アイデンテイテイ」に関する思考や概念は極力回避されるといった偏った傾向が醸成されてきた。戦後日本の社会科学の大勢は、体制批判を行うという批判主義的ポーズを衣装として、実は最も「戦後体制」に寄り添ってきた。それは戦後の公式的言説の代弁者を引き受けてきた。丸山真男に呪縛されてきた。「愛国心はなくならない。ではそれを民主化すればよい」という議論において、戦後日本の愛国心という問題の決定的な論点が抜け落ちており、良かれ悪しかれ戦後日本の愛国心は、もっと屈折したもの、いわば心理の下層に鬱屈して捉えがたいある種の感情を含んでいる。そのことを直視することを戦後の知識人はタブーとしてきた、との著者の指摘です。

 

 その2 負い目とはなにか

 

 前回の拙稿「安全保障関連法案の施行について思うこと」において、私は「侵略戦争の原罪・贖罪意識」という表現をしました。対し、碩学の著者は「負い目」という心に刻むような表現をされております。改めて私は納得というか、共感を覚えたところです。

 

 佐伯氏は第四章「負い目をもつ日本の愛国心」で、8月15日を「終戦記念日」とするが、それはなんの記念日であろうか、と問うわけです。丸山真男のように、この日を境にして新生日本が立ち上げられたという、意味があるだろう。しかしそれはひとつの価値観であり、さらにいえば占領政策を行ったアメリカの価値観で或る。進歩的知識人が理想化した戦後民主主義と平和主義は、実はGHQによってもたらされたもので、そこには敗戦と占領という現実が横たわっていた。この現実から立ち現れる「傷つけられた誇り」に蓋をして、そのいっさいを忘れたかのように振る舞う戦後知識人の倒錯こそが、鬱屈したナショナリズムを生み出す。実際には戦後左翼知識人の多くは、戦争中は愛国主義者であった。

 

 とすればそこにはどうしても「負い目」があるはずで、それはまさに「日本人であるという意識を持って死んでいった者」への「負い目」以外の何ものでもない。あの戦争において、あたかも「犬死」であるように扱われた死者たちへの鎮魂はどうなるのか。戦後という、のっぺりした時空の中で、表面的には民主主義がにぎやかで騒々しい大衆政治を実現し、ありあまるほどの国民的資産を何に投資してよいかわからずに呆然としている今日の「日本人」を見たとき、この平和と繁栄を、戦前の「過ち」を改めたからというだけで礼賛できるのであろうか。それでわれわれは「死者」への責任を果たしたことになるのだろうか、と佐伯氏は鋭く突きつけています。

 

 私が以前にご紹介してきましたが、「死者の目になりかわって戦後を見てきた」吉田満についても本書は多くの頁をさいています。以下触れてみます。

 

 「戦艦大和ノ最後」に記された臼淵大尉の「敗レテ目覚メル。ソレ以外ニドウシテ日本ガスクワレルカ」という臼淵大尉の証言を引用し、続けて「臼淵が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。・・(中略)政府から金をもらって特権的な立場において優雅な大学教授をやりながら反政府的言辞を弄して平和や民主を唱える知識人を、いかにも良心的で「進歩的」として賛美するメデイア。「恐るべき俗化の時代」とはこのような欺瞞を醜悪とも薄汚くとも思わなくなった戦後の「進歩主義」的精神であった。三島はそこに耐え難い腐臭を嗅ぎ取ったわけである。(本書 221,222頁)

 

 その3 歴史観と愛国心を問う

 

 東京裁判を受け入れることの意味あいは何か。重要なのでその全文を以下紹介します。

 

 日本、ドイツ、イタリアは同盟国であったが、それを皆ひとくくりに世界制覇の意図をもったフアシズム、という一語でくくることができるのか。特に、ナチス・ドイツと日本の天皇制・軍国主義は同一視できるのか。ドイツの場合に決定的な問題のひとつは明確な意図をもったユダヤ人殲滅であったが、これに相当する意図的計画は日本にはなかった。

 

 あの戦争をフアシズムの世界支配から自由や民主主義を守る戦いとみなすのはあくまでアメリカの立場であり、それ自体が、また後述するようにひとつの歴史観を体現したものであった。日本はその種の歴史観は果たして共有しているのであろうか。

 

 軍国主義的な戦争指導者と、彼らの犠牲になった国民という分離は果たして可能なのか。むしろ、開戦にいたる経緯においては、マスメディアも含めて、国民の大半は積極的に戦争を支持もし、日本の「国力の増進」に喝采を送ったというべきではなかったか。

(本書 273,274頁)

 

 この三つの論点について、多くの者は決して納得できているわけではなく、ここに歴史観の二重構造ができた。公式的には東京裁判の判決だけではなく、ひとつの歴史観としての「東京裁判史観」まで受けいれたかのように見做した、との著者の指摘です。

 

 私が先にあげたドイツの敗戦40周年に際しての大統領ヴァイツゼッカーの国会演説との比較において、古川隆久氏が日本の「あの戦争」をドイツのそれと同一するかのような指摘に私は違和感を持つわけです。

 

 さらに著者は第六章「日本の歴史観と愛国心」へ論を進めます。学徒兵が戦地に携えた「万葉集」にも言及し、日本人の精神に流れるものを模索しながら、日本の歴史観、愛国心とはなにかを進めて行きます。

 

 

 その4 もうひとつの愛国心とは

 

 一般的には日本の近代史において、明治の国家建設は誇るべくものであったが、昭和に入り統帥権を盾にとった陸海軍の独善と暴走によって戦争が引き起こされた。すなわち、基本的に明治以降の日本の近代化は評価されるものの、昭和の時期、とりわけ満州事変以降の一時期は本来の近代化からの逸脱であった。これは司馬遼太郎、丸山真男にも共通する見方である。しかし、事態はそれほど容易なものではない。明治の近代化は肯定されるべきだが、問題は昭和の軍部独走にあった、という了解は妥当であろうか。歴史事実の検討ということではなく、論理の問題、日本の近代化というロジックに内在する思想の問題においてなのだ、と著者は指摘するわけです。続いて、以下のように論を展開致します。

 

 昭和の大戦へ向かう日本には、当時の政治指導者たちの無責任、軍部の専横、外交の失敗などといういかにももっともな解説ではとても了解できないある「流れ」があり、その「流れ」が、政治家も外交官も、軍人も、国民を丸ごと飲み込んでいったのではなかったのだろうか。歴史学がいかにそれを迷妄と呼ぼうと、そのような感じ方が「日本」の中にあることは歴然としている。このように考えたいのである。(310頁)

 

 さらに西田幾太郎の京都学派の問いかけ、哲学も歴史観は、戦後いっさいかえりみられることなく排斥され、あるいはきびしく封印された。だがその問いかけは本当に間違っていたのか。そして以下のように続きます。

 

 丸山真男は、西欧と比した場合の、日本の後進性を、まさにこの天皇像の中に見いだした。日本の天皇は、西欧の立憲君主とは異なり、国家の源泉であり、本来は私的で個人的なものであるはずの価値や信仰を天皇が独占し、それが国民全体の価値となった。その結果、日本では個人の私的領域が十分に自立できず、すべてが「お上の意思」にしたがうという全体主義国家へと移行していった、というわけである。(366,367頁)

 

 しかし、それはあくまで西欧近代国家を基準にしたものである。問題は何故に日本が矛盾を抱えた天皇制を国家の中心に据えなければならなかったか。明治維新が「革命」であると同時に「復古」でなければならなかったか。明治維新は西洋の衝撃のもとで日本を近代化するという大事業の機転となったのであり、その近代化は日本の歴史的伝統と、その伝統にまつわる本来の日本的精神への復古でもあったはず。日本が西欧型の近代国家建設に遅れをとったと批判しても意味はない。明治以降の日本の近代なるものが、いかにして西洋中心に拡張する世界の中で日本の独立を確保するか、という世界的状況への苦肉の回答だったということだけであろう。

 従い、明治以降の日本近代化の帰結としていえば「大東亜戦争」こそ、まさにその種の戦いであった。こういう理解は当然でてくるであろう。そしてこの宿命的な性格は、敗北の美学という哀調を持った悲劇的性格へと結びつけられていった。いかなる戦争にあっても生じる残虐、非人道、大量殺傷という普遍的な悲惨の中にあって、日本の「あの戦争」をすこしばかり特異なものにしている悲劇的な性格は、日本の近代化のプロセスとその帰結としての「日本的精神の敗北」という自意識にあるだろう。いわゆる特攻こそがその悲劇的性格の象徴であったと、著者は記しています。そして、「日本の愛国心」とは何かについて改めて検討するわけです。

 

 あの戦争については、アジア・太平洋戦争という「侵略戦争史観」と大東亜戦争という「解放と自衛の戦争史観」に二つが対立しあい、日本の「愛国心」へ向かう態度も常にこの対立に焦点を当てたもので、この二つの「史観は」永遠に和解し得ない。そして「愛国心」という概念はこの構図に対する評価を示す象徴的概念になっている、すなわち侵略戦争史観=反愛国派、大東亜戦争肯定論=愛国派という図式である。

 

 しかし、この時代に生きた者たちは、目の前の戦争が侵略戦争か解放戦争かなどと考えて戦争に臨んだわけではないし、戦争の意味を正義の観点から評価しようとしたわけでもない。彼らは、ただ苦難の中で、戦争というものを経験したのであり、その限りで、戦争の意味づけなどとは関係なく、程度の差はあれ「愛国心」を発揮しようとしたというほかはない。ここでは「愛国心」に良いも悪いもない。地獄のような戦場へは行きたくない、死にたくない、とんでもない戦争である、というのはしごく当然の感情であろう。だがそこに作動する、決して声高に叫ぶものではない、底辺の「愛国心」というものがその悲痛を支えようとするだろう。かくて二つの「史観」のもう一歩奥底には、戦時という経験の中で、出征する兵士たちの心情とある程度つながった「愛国心」のありようがあったであろう。しかも、戦争が悲惨なものとなればなるほど、「愛国心」も悲劇的な調子を帯びてくる。(387頁)

 

 万葉時代から見られるわれわれの奥底に沈殿している「日本の精神」や「日本の歴史認識」に遡ることが必要なのではなかろうか。その上で、この(表面上は)豊かで平和な時代だからこそ、あの日本の歴史の中でもっとも苦悩に満ちた時代の人々の生をある共感を持って想起したい。われわれの生きているこの時代の対極にあったような時代、日々死と直面していた時代にあって、人々を支えた「日本」というものの表像について想起したい。そうしたことにより、われわれは、ささやかながら「伝統」の正当な継承者になっていることができるのであろう、と著者は本書を結んでおります。如何思われるでしょうか。

 

 2016年7月1日

                        淸宮昌章

 

参考図書

 

 佐伯敬思「日本の精神」(中央公論社)

 大野裕之「チャップリンとヒトラー」(岩波書店)

 古川隆久「昭和史」(ちくま新書)

 同   「昭和天皇」(中公新書)

 永井清彦編訳「ヴァイツゼッカー大統領演説集」(岩波書店)

 吉田満「鎮魂戦艦大和」(講談社)

 同  「戦中派の死生観」(文芸春秋)

 同  「散華の世代から」(講談社)

 江藤淳「言語空間」(文芸春秋)

 司馬遼太郎「昭和という国家」(NHK出版)

 丸山真男「現代政治の思想と行動」(未来社)

 選択2016年5,6月号

 他

 

 

 

 

 

再・安全保障関連法案の施行について思うこと

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再投稿にあたって

 

 この拙稿は2年前のものですが、マスメデイアに関する私の雑感をも記しております。修正を加えず、そのまま再投稿致しました。故西部邁氏に私はやや抵抗感がありますが、日本について、氏が「メデイアは立法・行政・司法に続く第四権力でなく、世論を動かす第一権力であり、文明を腐敗させる元凶はデモクラシーにほかならない。」と喝破することに深く共感を覚えております。そして現在の日本は氏が言う、アポピュリズムに覆い尽くされ、ますます危機的状況に向かっているのではないでしょうか。そして国家の独立と自尊を問うことをせず、国を守ることを疎かにした「平和ボケ」のツケがきたのです。

 

 2018年4月13日

                         淸宮昌章

はじめに 

 

 昨年9月に成立した安全保障関連法は先月27日施行されました。今回はその関連法案に関し3月16日から18日に亘り、日本経済新聞の経済教室「動き出す安保関連法」に三人の学者が興味深い見解を載せています。今回はその紙面他を改めて紹介するとともに、真に僭越ですが私の雑感・想いなどを加えてみたいと思います。

 

 その前に改めて感じることは、国会での法案審議です。いつものことですが、ほとんどその法案の中身への審議ではなく関連質疑と称して、常に異常な長時間を割くことです。その結果は私を含めてですが、国民に肝心の法案そのもののへの理解はさせず、その法案を通すか否かだけの国会審議の結果になるわけです。今回も政府のやり方に、野党は国会審議を軽視・無視するもの、民主主義の破壊だと称しますが、果してそれは政権側だけの問題でしょうか。私は日本に議会制民主主義が根付かない要因は何処にあるのか。むしろ根付くことができるのかといった疑問を感じております。それは国会、議員だけの責任ではなく報道機関というか、いわゆる報道するマスメデイアにもその責任があると考えています。

 

 最近ではインターネットといったものが出てきたとはいえ、その根にはテレビ・新聞報道があり、そうした報道番組と称するマスメデイアが国民の世論形成に大きな影響を与えて来ているわけです。従い、すべてのメディアではありませんが、メディアは政府あるいは国会議員等々を単に批判するだけではなく、そこに携わる方々はいたずらな、思いつきの正義でなく、報道はどうあるべきか、権力を掣肘するという真の意義は何処にあるのか。正義の本質は何なのか、自らが改めて反省・再検討をする必要があると考えています。現在においてもメディアは余りにも商業主義に犯されているように思います。私にはそれは一種の知的廃頽の表れと見えます。新聞に対する消費税の軽減を新聞社が主張するには、余りにも悲しい現実にあるのではないでしょうか。

 

その1 冷戦後の環境変化に対応 

            国際協調主義に転換     慶応大学教授・細谷雄一

 

 細谷雄一氏は国際関係論、国際政治史を専攻され、昨年には皆さんにも同氏著「歴史認識とは何か」を紹介いたしました。今回の氏の視点・観点を私なりに要約します。

 

 日本国内では異常なほどの情熱で批判された安保関連法も、実はほぼすべての主要国の政府が歓迎していることを知る必要がある。安保関連法の批判派の一部はそれを「戦争法」として本来の意図をねじ曲げて批判した。他方で当初の政府の説明も誤解を招くもので、安保関連法の成立で、あたかも政府が武力行使をしたがっているかのような誤解を与えた。

 

 この法律の多くの部分は、国際平和協力活動や、国際社会の平和と安定に関するものであり、それはすでに、冷戦後の四半世紀実施してきた自衛隊の活動でもあった。最も重要な変化は06年に自衛隊法を改正して、国際平和協力活動を従来の「付随的任務」から「本来任務」に格上げしたことである。しかし自衛隊が円滑に活動できる運用上の十分な法改正や新規立法をしていなかった。いわば自衛隊が危険な事態に遭遇しないという「幸運」があった。

 

 政府が国民に対して、安保関連法の本来の目的や意図、そして哲学を十分に伝えられなかったことが、国民の不安の源泉の一つであろう。肝要なことは、これまでの安全保障を巡る孤立主義的な哲学から、グローバル化の時代にふさわしい、より国際協調主義的な哲学に転換すること。なぜなら冷戦後の安全保障環境は二つの側面で大きな変化があること。一つは安全保障のグローバル化であり、1990年の湾岸危機とは異なり、朝鮮半島核危機、台湾海峡危機、米同時テロ、そして東シナ海南シナ海での中国の海洋活動の活発化等々、冷戦時代とは質的に大きく異なる脅威が、日本人の安全を脅かすようになったこと。二つは冷戦後の世界における重要な変化はパリ、ロンドン、イスタンブールがテロ攻撃を受けたとしてもそれを戦場とは言えず、「平時」と「戦時」の境界線が極めて不明瞭であり、さらにグレーゾーン領域の拡大が複雑に絡み合っていること。

 

 こうした自衛隊の活動領域の拡大と、国際社会での安全保障協力の拡大、そして軍事情報の共有にあわせて、それにふさわしい法改正と新規立法をしたことが、今回の安全保障関連法の本質的な意義と考える。

 加えて武器使用基準の明確が必要で、政府内でその作業が進められている。日本がより一層、国際社会の平和と安全に貢献できるからこそ、米国、オーストラリア、東南アジア諸国、インド、欧州連合は皆、安保関連法の成立を歓迎しているのだ。あくまでも平和的な手段で、ルールに基づいた国際秩序を強化することが、日本の安全保障政策の根幹的な目標であるべきだ。それは、安全関連法の施行後も変わることはない。

 

 私はこうした見解に共感するところです。

 

その2 非軍事重視の潮流に逆行

            抑止力強化、緊張を招く   成蹊大学教授・遠藤誠

 

 氏は国際政治、平和研究を専攻とされる学者です。同氏の論点を要約しますと、

 安保法制転換の最大の問題は、現実の紛争を直視せず、世界全体の安全保障に関する政策潮流と逆行している。日本は先進的な安全保障を推進する潜在力を持ちながら、軍事安全保障に焦点を置く方向に転換しようとしている。安全法制の審議過程では、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認が自己目的化し、その安保政策としての得失が冷静に議論されたとは思えない。平和構築でも日本の安全保障でも、安保政策の基本は、現行憲法に表現されている平和主義であるべきであり、それは過去の侵略戦争を反省し、同じ過ちを犯さないという周辺諸国への約束であり、戦後日本の安定や日本への信頼もこの憲法を基礎にしており、この実績を安易に捨て去るべきでない。

 

 中国との関係は困難が続くが、中国との間で軍拡競争を展開することは賢明でない。環境問題、感染症、食の安全等々日中、東アジア諸国共通の課題に関し、緊密な協力のネットワークを形成し中国を多国間協力の脇組みの中に取り込むことだ。そして、中国で市民社会を築き社会を変革していく政治勢力を支援し、国際協調の重要性と単独行動のマイナスを理解する人々が力を持てる環境を整えるアプローチこそ必要なのだ。

 

 理想論としてはそうなのでしょう。ただ、氏の見解は果して今の日本が置かれた、或いは世界の現実に正面から対峙しているのでしょうか。氏の見解は日本国内には通用するのかもしれませんが、東アジアだけでなく世界の識者に現実的に共感、賛同を得ているのでしょうか。私は極めて疑問に思います。中国について昨年出版された米国の中国政策にも深く関与した現米国務総省顧問のマイケル・ピルズベリー博士による「China 2049」には、騙し続けられてきた同博士の反省が衝撃的に綴られています。世界最大の経済力と軍事力を以ってしても中国の民主化市民社会への変革は現実できなかったわけです。況や日本においてそんな力量があるでしょうか。残念ですが、それが今の日本の現実ではないでしょうか。中国は何百年前とうか、紀元前といってもいいくらいの「中華民族の偉大な復興」を目指しているのであり、そこには市民社会とか市民の人権等々は一顧だにしていないのでは、ないでしょうか。習近平が失権したとしても、中国共産党独裁政権は倒れることは、この先何十年に亘りないと、私は考えます。ソ連崩壊とは別の次元である、と考えるべきではないでしょうか。

 

 別の観点から見たスティーブン・ローチ著「アメリカと中国 もたれ合う大国」を合わせ読まれることをお薦めいたします。

 

 その3 日米同盟の深化に有益  豪・韓・印との連携重要 

                    元米大統領補佐官 マイケル・グリーン

 同氏の要点は以下のとおりです。

 

 集団的自衛権の認識、武器輸出三原則の緩和、日米防衛協力のガイドラインの改定は、今の国際環境の現実を踏まえての日本の法律・政策の自然な推移だ。そもそも集団的自衛権の問題は、民主党政権下でも議論された経緯であり、このことを多くの人が忘れている。

 

 安倍首相は今回、内閣法制局による「アリバイ」を撤廃し、域内の安全保障に対する脅威に日米両国が共同で行動を起こせるようにした。この地域の新たな地政学的現実を踏まえれば、これは必要な措置である。北朝鮮がミサイルや核開発に躍起になり、中国が沖縄県尖閣諸島や、沖縄本島から南シナ海につながる「第一列島線」を事実上制圧しようとしている現在、日本はまさに最前線に位置する。日本に必要なのは、米国に巻き込まれない方策ではなく、日本列島と西太平洋の防衛に米国を巻き込むことだ。 日本のせいで中国との紛争に「巻き込まれる」可能性に米国の専門家が警鐘を鳴らしたのが、安倍政権の発足当時だったのは皮肉なことだ。中国政府は米国のこうした危機感に乗じて、日米同盟の分断を画策した。

 

 情報活動、ミサイル防衛など両国は更なる融合を図り、豪州更にはインドをはじめ他の友好的な海洋民主国家との連携を図るべきだろう。目的は中国の封じ込めではなく、中国の期待を現実的なものに戻すこと。現状を変えようとして攻撃的な行動をとれば、地域大国が対抗して協力と結束を固めることを中国政府が理解すれば、より好ましい方向に軌道修正するだろう。その結束は究極的には抑止力として働く。

 

 私は共感し賛同を覚えます。一方、最近の共和党・大統領候補のトランプ氏が日本を含めた海外米軍基地の引き上げ等々の発言がアメリカ国民の相当程度の賛意を得る、そうしたアメリカ市民の感情・現実も我々は肝に銘じておく必要があるわけです。自らの国は自らが守るとの国民の意志は欠いてはならないのです。

 

おわりに

 

 続いて、日経新聞の3月27日の紙面「安全保障関連法29日の施行 防衛新時代 Interview 識者はこう見る」に驚くべき記事がでたわけです。

 

 それは中国を代表するという国際政治学者の精華大学教授の閻学通氏が次の

ように語った、とするものです。

 

「安全保障関連法による日米同盟の強化は戦争回避には不利に働く。米国は同盟強化によって日本やフィリピンに中国と対決する意思を固めさせた。米国の同盟国との代理戦争が起きる可能性はむしろ高くなった。だから中国は国防の強化をしている。(中略)中米間には核抑止が効くので直接戦争をすることはない。米国の同盟国は米国の同意がなければ戦争をしない。だから中国の外交政策の本筋は米国にある。日本やフィリピンとの戦争を回避するために中国が努力する必要はない。中日の国民感情が悪化した最大の要因は安倍政権の対中政策だ。安倍政権は安保法などの国内政策を実現するための中国との敵対関係を必要としている。」

 

 このインタビュー発言は本当に事実通り訳されているのでしょうか。もしそれが事実としたら、それは恫喝以外の何物でもりません。「China 2049 」でピルズベリー氏が述べた中国人民解放軍の「タカ派」と何ら変わらず、国際政治学者とは到底思えません。又、氏が挙げた事実もここ5,6年の中国の動きとは大きく異なるのではないでしょうか。

 中国との関係が急速に悪化したのは民主党政権時で、尖閣諸島近辺で日本の巡視船に中国漁民船を衝突させたのも2010年9月です。しっかりした歴史観を持たず、腰の定まらない民主党政権が慌てふためき、尖閣諸島の一部を日本人の個人所有から国有化に移行させたのも2012年9月です。その報復でしょうか、その時、レアアース輸出を大幅削減し、軍が管理する立ち入り禁止地区に侵入したとして日本の民間人4人を逮捕。更には中国全土で官製反日デモを起こさせたのも弱体した民主党政権時であり、安倍政権時代ではありません。方や、それに先立ち当時の民主党小沢一郎が100名ほどの国会議員を中国に引き連れ、一人一人が当時の胡錦涛国家主席と壇上で握手させるという、異様な光景がテレビ画像で流されました。あのような卑屈な外交をしたのも民主党政権の時代でした。

 

 皆さん、いかが思われますか。我々は改めて戦後日本の外交史を再検討し、その現実を認識する必要があるのではないでしょうか。侵略戦争という原罪を背負い、その贖罪意識から来る日本人の一連の思考・行動が日本自らを縛っているのかもしれません。細谷雄一著「歴史認識とは何か」、服部龍二著「外交ドキュメント 歴史認識」には中国、韓国に翻弄された日本の外交史が記されています。

 

2016年4月13日

                        清宮昌章

 

参考図書

 

マイケル・ピルズベリー「China 2049」(野中香方子訳 日経BP社)

ステイーブン・ローチ「アメリカと中国 もたれ合う大国」(田村勝省訳 

                         日本経済新聞

原彬久「戦後政治の証言者達」(岩波書店

細谷雄一歴史認識とは何か」(新潮選書)

服部龍一「外交ドキュメント 歴史認識

長谷川三千子「正義の喪失」(PHP文庫)

山本七平「あたりまえの の研究」(ダイヤモンド社

選択 4,5月号

文藝春秋4月号

海外事情1,2,3、

再び・日米安全保障条約と戦後政治外交

 

 原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【後編】

 

第三章    保守政治家たちとその証言

 

 著者は情報開示と政治学について極めて重要な指摘を、下記のように記します。

 

 情報開示が進めば進むほど、政治学という学問も進歩していきます。政治家がどのように歴史を動かしていくか、そして政治がいかに歴史とかかわっているかといった問題、つまり政治家の意思決定とそれを取り巻く巨大な政治過程のダイナミックスに関する情報が政治学研究素材として活用されていけば、政治学がそれだけ発達するのは理の当然です。独裁国家に御用政治学はあっても。社会学が無きに等しいのは、民主主義と政治発展の不可分の関係を逆の方向から照射しているといえましょう。(73、74頁) そして、オーラル・ヒストリーに続いていきます。

 

 中村長芳と矢次一夫

             

 日本の政治が戦後の民主化が進むにつれて、少しずつ透明化されてきて、最高意思決定者の総理の「決定」過程に関する情報は、まだまだ不十分ではあるが一定レベルの情報開示のシステムが機能してきている、と記しています。その中で「宰相の舞台裏」として二人の人物、すなわち岸首相秘書官の中村長芳、及び岸信介の長年のフィクサーであった矢次一夫とのオーラル・ヒストリーを紹介していきます。

  戦後史70年のなかであれほどまでに大規模且つ継続的に政治と闘争が沸騰したことはあの「安保闘争」を措いてありません。あの「5.19採決」後の騒乱状態、ある意味では「革命前夜」の状況化にあって、秘書官中村長芳は政権側の最大の敵、院外大衆闘争の中心組織である総評の事務局長岩井章と、赤坂の料亭で夜な夜な会い、情報交換をしていたことです。著者は以下のように記しています。

 

  目の前の中村さんは、こうもいいます。例えば岩井は「自分は共産主義ではない。共産主義を制する第一人者は自分だ」という信念をもっていた。岩井と私は「この騒ぎは革命ではない」ということで一致していた。自衛隊を使うかどうかを考えていた頃だったしね」。

 これは極めて重要なポイントです。岩井が共産主義者であろうとなかろうと、内外の共産勢力から政治的な影響を受けていたこは間違いないでしょう。しかし問題は、この騒乱状況を「革命」と定義するかしないか、です。また、「革命」と定義しないまでも、岩井らが当時の状況を「革命」へともっていくのかどうか、これが政権の最大関心事であったのは、当然です。もし敵陣営が、とりわけ日本共産党とその周辺が本気で「革命」を志向するなら、国家権力を預かる政権側の対応は、まったく次元の異なるものになっていたでしょう。(87頁)

  方や、岸首相は、待ちに待った安保条約改定の「自然承認」をついに迎え,次期後継者の選考に入ります。いわゆる池田政権への移行です。そのとき大きな動きを示すのは岸信介の長年の黒幕でもあった矢吹一夫でした。著者は以下のように記していいます。

 

 それにしても、政治が「夜つくられる」ことは、矢次さんから聞くまでもなく、私も先刻承知しております。(中略)ただ、いまさらながら「夜つくられる」政治が政治のすべてではないことは、いうまでもありません。時代が進んで二一世紀に入った日本の政治も、岸政権の頃に比べれば、さすがに「白昼つくられる」政治、つまりと透明化した政治の部分が増えているのは事実です。とはいえ、政治のリアリティが依然として暗部をもち、その暗部が歴史をうごかしているという側面を、もし私たち看過するなら、私たちは事の本質の重大部分をみていないということになるでしょう。(98頁)

 

 警察官職務執行法日米安保の極東条項

 

 岸政権が「安保改定」に動き出したその頃は、社会党は未だ政党としての意思統一はされておりません。岸信介により懇請され外相になった藤山愛一郎の証言は下記の通りです。

 

  私がダレスに会いに行くまで、(社会党は)(条約)改正論でしたよ。僕は外務委員会でしっかりやってこいって、激励されたんです」「とくに私が(アメリカ)に発つ前に外務委員会で壮行の儀みたいなものを社会党がやってくれたことを覚えています。

 ところが社会党は藤山外相が帰国して日米交渉が始まる頃には、あの統一綱領にある「解消」で意見が集約し、安保条約の存在を認めた上での「改定」には反対するという、いわば左派寄りの見解でとりあえずまとまるのです。しかし社会党がこのように「安保改定」への意思統一をしたからといって、それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと、必ずしもそうではありません。それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと必ずしもそうではありません。「安保改定」の敵は、むしろ岸政権自身がつくってしまったのです。いわゆる警職法案問題が、それです。(107頁)

 

  すなわち安保改定の敵は岸政権自身が突如、国会に提出した「警察官職務執行法」の改正案であり、加えて自民党内の派閥間の凄まじい権力闘争でした。折も折、安保改定日米交渉の初日、新聞に政府のこの「もくろみ」が大々的に報じられ、「反安保」という外交問題よりも、「反警職法」という国民に身近な問題のほうが、社会党をはじめとする革新陣営としては岸政権を攻撃する材料としてはるかに「良質」なものになりました。

 加えて安保改定でも解消はされなかった「在日米軍は日本国の安全のためだけではなく、極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するという極東問題が浮上します。そして国会での藤山外相ほか政府答弁に乱れが生じ、国会は混乱を極めることとなります。この極東という文言は米軍の使用地域ではなく、目的地域なのですが。著者は次のようにのべています。

 

 「極東の範囲」自体、確かに長時間の国会審議に値するものであったとはいえません。岸さんはのちに「極東の範囲」を「愚論の範囲」と切り捨てました。一方、岸攻撃の先頭に立って、「安保改定」批判に執念を燃やした社会党飛鳥田一雄さんは、私の質問に答えて、この議論は「われわれ自身バカバカしいと思ったが、ポピュラリティというか大衆性はあった」と回想しています。「バカバカしい」議論であったが、「安保改定」に無関心な大衆を啓発するには格好のテーマーであった、と飛鳥田さんはいいたいのです。(117頁)

 

 バルカ ン政治家といわれた三木武夫

 

 第三章では保守政治家たちとの証言として藤山愛一郎、福田赳夫赤城宗徳他、更には外交官であった下田武三、東郷文彦他を取り上げていきます。そのなかで、岸信介が「世の中でいちばん嫌いな奴は三木だよ」と言わしめた三木武夫については極めて興味深く、以下紹介します。

 

 三木の岸信介の評として、岸は太平洋開戦のときの閣僚で、戦後に内閣を組織したことは他に誰もいなく、そのうち岸の権力主義的体質は地金がでるというものです。いわば岸信介の戦争責任を問題にしており、岸の戦前戦中の軍国主義を推進した岸の「権力主義的体質」に三木は警戒心を隠しません。

 とはいえ、三木自身も軍国体制に加担していたことは明らかで、一代議士として岸の間近にあって、岸と同じ方向を向いて仕事をしていたことも歴史の事実です。実際、岸商工相のもとで商工省委員を務め、その後、商工省は軍需省になりますが、三木が鈴木貫太郎内閣においては軍需参与官として活動し、本土決戦を目指した大日本政治会に入ったのです。

  方や、「議会の子」といわれる三木武夫ですが、近衛文麿を総裁とする体制翼賛会における選挙でも、鳩山一郎尾崎行雄ら体制批判の「非推薦候補」とは異なり、推薦を切望したものの、地元徳島における選挙区の事情から非推薦であったに過ぎないのです。そして最下位ながら三木は当選を果たしました。尚、三木は当時の官憲から「時局二順応」し「国策ヲ支持」をし「反政府的発言ナキ人物」と評されていたわけです。そして彼は辛うじて政治生命を繋ぎ、敗戦後は幾多の選挙を勝ち抜き、権力闘争の果て、ついに総理の座を射止めたわけです。

  ところで、岸が力を尽くした保守集結のプロセスに立ちはだかったのは、三木武夫松村謙三たちで、彼らは岸の進める保守一党体制の自由民主党の結成に真っ向から反対し、あらゆる方策を裏面で岸の行動に抵抗していくわけです。ことに安保改定の条項の中にある日本の事前協議における拒否権、極東の文言等々に、あらゆる方策で岸の進める安保改定に抵抗します。ただ、この三木の岸批判は、政策の次元で見る限り一定の合理性をもち、岸の政策形成に少なからぬ影響を与えたことはまちがいのないことです。しかし三木らの主張がいかに論理性を持っていたとしても、その主張を押し出す彼らの意図が権力闘争的様相を帯びていたことは自明でありました。著者はその状況を以下のように記しています。

 

 確かに三木武夫は、同じ政権与党ないにあって「野党まがい」の言動に終始していた感があります。もし日本があの時、西欧流の議会制民主主義の中にあったとすれば、三木は野党党首であってもおかしくありません。というのは「国権の最高機関」である国会でのあの自社対決すなわち体制対反体制の対決は、すくなくとも議会制民主主義の枠を超えるものでした。むしろ議会制における野党の役割は皮肉なことに与党内の反主流がこれを担っていたともいえるのです。(185頁) 

 その後自民党内の派閥領袖は、三木を含めて次々に首相になり、これを「擬似政権交代」と称したのは、いいえて妙である、と記しています。

 

 私が本稿の「はじめ」に言及した議会制民主主義については、著者は以下のように述べています。

 

 日本の国会が議会制民主主義の道を正しく踏んでいるかどうかとなると、必ずしも確たる答えは出てきません。法案の内容の本質は何なのか、そしてその法案が国家国民にとってどういう意味をもつのか、といった問題を論理を尽くして議論するというよりも、日本の場合は、法案を通すか通さざるかの二者択一の政争に終始する傾きをもっています。このことは、自民党社会党対決の「五五年体制」下では特に顕著でした。世界の「反共・親米・資本主義」陣営に与する自民党と、「反米・親中ソ・社会主義」陣営を支持する社会党との対立は、体制対反体制の性格をもっていました。それだけに、政治の要諦である「妥協」の論理は働かず、勢い法案の内容を議論するよりも、あの「二者択一」のために闘う、つまり国会運営のための行動戦術に矮小化されていくのです。(82頁)

 

 皆さん、いかが思われますか。今の自公政権と野党との国会の現状も依然として不毛の議論を重ねているだけで、ただ時間の経過を待つのみの国会討論ではないでしょうか。

 

 尚、本書の中には、中曽根康弘は触れられておりません。岸信介中選挙区制のなかで、派閥間闘争に苦闘したわけですが、服部龍二氏は著書「中曽根康弘」のなかで次のように興味深いことを記しております。それは中曽根の特徴的主張として、小選挙区制や派閥の衰退が政治家のスケールを小さくしただけでなく、国家の再建に不可欠な歴史や伝統に対する関心を低下させたこと。加えて中曽根時代には日本経済が全盛期を迎えていたとはいえ、体系的に世界政策を構築した日本の政治家は中曽根以外におらず、戦後外交の頂点と言っても過言ではない、と言わしめております。唐突の感で恐縮しますが、私は不祥事を頻繁に起こす現国会議員の質の問題には少なからぬ不安を感じており、そうしたこともひとつの要因かな、と服部龍二氏の指摘に共感を覚えた次第です。

 

第四章        社会主義者たちとその証言

 

 岡田春夫飛鳥田一雄 

 

 米ソ冷戦の国内版ともいうべき五五年体制の自民党社会党との妥協なき政治闘争、しかもそれが国家の命運にかかわる安全保障という問題の中にあって、安保七人衆といわれた岡田春夫飛鳥田一雄等の証言は極めて印象深いものです。

 

 岡田春夫によれば、共産党から送りこまれたフラクション(秘密分派)は社会党のみならず自民党、警視庁、更には自衛隊にも入り込み活動をしていたこと。

 方や、飛鳥田によれば議会民主主義は必要悪で、議会がそれなりに機能するためには大衆参加の直接民主主義もまた必要であること。したがって安保騒動のとき、デモ隊が国会に乱入するのを止めた共産党に怒るわけです。飛鳥田の態度には大衆を上から目線でみるある種のエリート意識は否定できないこと。しかし同時に「大衆の理解なしに政治は動かない」との強い信念もあったこと。だから大衆に分からせる方法をどうしたらよいか苦悩しながら、普通の論理ではなく、週刊誌の方式でやろう、となる。極東の範囲など「バカバカしい」ものだが、ポピュラリティがあり、大衆の頭に入っていった、と記しています。

  

  日中共同の敵 

 

 続いて、1959年3月、社会党第二次訪中団の浅沼稲次郎団長(社会党書記長)による、中国での「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」の挨拶です。著者は次のように記しています。

 

 社会党による「反安保改定」闘争において、その行方を左右する重大なエポックはいくつかありました。しかし、同党を震源とするこの「日中共同の敵」問題は、それがアメリカに衝撃を与え、自民党政権を大きく揺さぶり、そしてなによりもそれが折からの「反岸」・「反安保改定」を急進化させただけでなく、その後の社会党左傾化の基点になったという意味で、戦後史のなかで最も重い歴史的事件の一つではありました。(239頁)・・(中略)浅沼の「日中共同の敵」発言は、中国と社会党の「冷ややかな」関係を完全に変えてしまいました。中国にとっていまや社会党は、軍事同盟たる日米安保条約をともに廃棄にもっていく「盟友」になったのです。つまり日本社会党は「反安保改定」闘争において国際的孤立から脱するまたとない機会を与えられたというわけです。(241頁) 

  しかも重要なことは「日中共同の敵」発言は突然出てきたものではなく、それ相応の下地というか「助走段階」があります。それはかの「長崎国旗事件」であり、社会党平党員で元陸軍中野中学校出身の田崎末松ほかを活用するという、中国共産党政権の変わることのないしたたかさ、国益を求めてやまない中国外交のリアリズムを描いております。その田崎末松も、社会党も中国外交からその後は外されていくわけです。著者は以下のように記しています。 

 

 周恩来だけでなくて中国の外交は、何よりもまず徹底して現実主義です。彼らがよく唱える「原則」でさえ、現実を動かす一つの道具にすぎません。利用できるものは利用し、目的にとって不要になれば切り捨てる、これが中国外交の真髄です。(266頁)

 「ニクソン大統領訪中」準備のため周恩来と極秘裏に延べ17時間、渡り合ったキッシンジャーは「中国人は、冷血な権力政治の実行家であり、とても西側のインテリ層が想像しているようなロマンチックな人道主義者などいない」と言わしめています

 

 服部龍二氏が日韓、日中との歴史認識を中心とりあげた「日本外交ドキュメント 歴史認識」のなかでも、中国、韓国に翻弄された日本外交の姿、及び中国の現実を如実に描きだしております。合わせ読まれることをお勧めします。

 

 五五年体制崩壊から自社連立政権へ  

 

 第二次大戦終了から今日までの70年間は、1945年の大戦終了前後から90年ごろまでの米ソ冷戦時代と、その後に分かれます。ある面ではそれは歴史の自然な流れなのでしょうが、米ソ冷戦崩壊の数年後の1994年、水と火の関係にあった自民党日本社会党が「連立政権」を作るに至るわけです。

  そのきっかけになったのは、自民党内の派閥抗争から起きた宮澤喜一内閣の不信任案の可決から生じ、94年7月の解散・総選挙です。結果、自民党過半数割れを起こすと共に、野党第一党社会党も致命的打撃を被り、政治の大乱が始まりました。その一連のなかで、暗躍したのが政治屋小沢一郎ですが、非自民党の細川内閣、羽田内閣と極めて短命な政権を経て、政権協議もないまま村山富市を首班とする自社連立政権が誕生します。結果は御存知のように日本社会党はその後、事実上その党史を閉じ、消滅していった現実です。

  政党が政策変更、しかもそれが大変更であればあるほど、党内合意を得てそれを国民に示さなければならない、と著者は指摘しています。村山首相は後で党が追認したとのことですが、衆議院本会議で社会党の「党是」とも言うべき根本政策を一気に打ち消したのです。著者は次のように記しております。

 

 彼が衆議院本会議で述べたその趣旨はこうです。第一に日米安保体制はアジア太平洋地域の平和・繁栄を促進するために「不可欠」であること、第二に自衛隊は「憲法の認めるもの」であること、第三に「日の丸」が日本国旗であり「君が代」が国歌であること、加えて翌日の参議院本会議では、第四に「非武装中立」は冷戦構造崩壊とともに「その政策的役割を終えた」こと。(293頁)

 

 そして、村山政権は村山談話を後世に残したわけです。その功罪はさらに今後の歴史が判断することになるのではないでしょうか。

 

おわりに

 

 その後、自社連立政権に続き、民主党政権がマスメディア他に持て囃され誕生しました。その民主党政権の場当たり的な政策は日本にとって極めて危険且つ不安定な状況を残し、現在の自公政権になります。

 その民主党が政権奪還のためと称し、維新の党と共に新たな政党を作るようです。ただ日本社会党のあの徹を踏まないこと。歴史から学ぶことが最も肝要なことで、「党是」を明確にし、その上で他党と協議に入ることです。自公政権に取って代わろうとするなら、真の国民政党として根本的に構想を練り直すことです。安易な妥協は最も危険と考えています。

 尚、この新しくする政党は、政党名を公募ないし世論の調査結果に基づき、党名を決めたかのごときですが、私は極めて違和感を持ちます。政党であれば、まず以って基本姿勢たる「党是」を決め、その上でその理念にふさわしい政党名を自ら決め、そこで政党たる是非を国民に問い、そして国民の賛同を得ることが政党のあるべき基本姿勢ではないでしょうか。もし名前すら党として決められず国民にいかがでしょうか、と伺うとしたら、本末転倒もはなはだしいと私は考えます。

 一方、昨今に見られる党名としては、消滅した「みんなの党」あるいは「生活の党」等々しかり、その党名からは党是があるのか、更には何を目指すのか極めて不明確な政党が多いと思います。いかにも場当たり的な、思いつきの正義を振り回ように、私は思います。それは果たして政党と呼べるのでしょうか。

 

 私は「はじめ」にも記しておリますが、議会制民主主義の育成には健全な、国民政党である野党の誕生は望んでおります。それは果たして可能でしょうか。

 

 2016年3月15日

                         清宮昌章

 

 服部龍二氏が昨年12月に「佐藤栄作」(朝日新聞)を発刊されました。氏は戦後で総理らしい総理として、佐藤栄作の他に吉田茂、実兄の岸信介中曽根康弘を挙げております。ここに来てやっと佐藤栄作が見直しされ始めてきたとの思いを強くします。歴史的評価までには時間がかかるのでしょう。現在を考え、観る時に必ず参考になると思います。

  2018年3月15日

                         淸宮昌章

参考図書

 

原彬久「戦後政治の証言者たち」(岩波書店

同   「岸信介」(岩波新書

同   「吉田茂」(同)

同氏編 「岸信介証言録」(中公文庫)

服部龍二「外交ドキュメント歴史認識」(岩波新書

同「中曽根康弘」(中公新書

北岡伸一【日本政治史】(有斐閣

平成28年文芸春秋4月号