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清宮書房

人生の大半を過ごしたとも言える昭和を自分なりに再検討し、今を見てみようとする試みです。

安全保障関連法案の施行について思うこと

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はじめに

 

 昨年9月に成立した安全保障関連法は先月27日施行されました。今回はその関連法案に関し3月16日から18日に亘り、日本経済新聞の経済教室「動き出す安保関連法」に三人の学者が興味深い見解を載せています。今回はその紙面他を改めて紹介するとともに、真に僭越ですが私の雑感・想いなどを加えてみたいと思います。

 

 その前に改めて感じることは、国会での法案審議です。いつものことですが、ほとんどその法案の中身への審議ではなく関連質疑と称して、常に異常な長時間を割くことです。その結果は私を含めてですが、国民に肝心の法案そのもののへの理解はさせず、その法案を通すか否かだけの国会審議の結果になるわけです。今回も政府のやり方に、野党は国会審議を軽視・無視するもの、民主主義の破壊だと称しますが、果してそれは政権側だけの問題でしょうか。私は日本に議会制民主主義が根付かない要因は何処にあるのか。むしろ根付くことができるのかといった疑問を感じております。それは国会、議員だけの責任ではなく報道機関というか、いわゆる報道するマスメデイアにもその責任があると考えています。

 

 最近ではインターネットといったものが出てきたとはいえ、その根にはテレビ・新聞報道があり、そうした報道番組と称するマスメデイアが国民の世論形成に大きな影響を与えて来ているわけです。従い、すべてのメディアではありませんが、メディアは政府あるいは国会議員等々を単に批判するだけではなく、そこに携わる方々はいたずらな、思いつきの正義でなく、報道はどうあるべきか、権力を掣肘するという真の意義は何処にあるのか。正義の本質は何なのか、自らが改めて反省・再検討をする必要があると考えています。現在においてもメディアは余りにも商業主義に犯されているように思います。私にはそれは一種の知的廃頽の表れと見えます。新聞に対する消費税の軽減を新聞社が主張するには、余りにも悲しい現実にあるのではないでしょうか。

 

その1 冷戦後の環境変化に対応 

            国際協調主義に転換     慶応大学教授・細谷雄一

 

 細谷雄一氏は国際関係論、国際政治史を専攻され、昨年には皆さんにも同氏著「歴史認識とは何か」を紹介いたしました。今回の氏の視点・観点を私なりに要約します。

 

 日本国内では異常なほどの情熱で批判された安保関連法も、実はほぼすべての主要国の政府が歓迎していることを知る必要がある。安保関連法の批判派の一部はそれを「戦争法」として本来の意図をねじ曲げて批判した。他方で当初の政府の説明も誤解を招くもので、安保関連法の成立で、あたかも政府が武力行使をしたがっているかのような誤解を与えた。

 

 この法律の多くの部分は、国際平和協力活動や、国際社会の平和と安定に関するものであり、それはすでに、冷戦後の四半世紀実施してきた自衛隊の活動でもあった。最も重要な変化は06年に自衛隊法を改正して、国際平和協力活動を従来の「付随的任務」から「本来任務」に格上げしたことである。しかし自衛隊が円滑に活動できる運用上の十分な法改正や新規立法をしていなかった。いわば自衛隊が危険な事態に遭遇しないという「幸運」があった。

 

 政府が国民に対して、安保関連法の本来の目的や意図、そして哲学を十分に伝えられなかったことが、国民の不安の源泉の一つであろう。肝要なことは、これまでの安全保障を巡る孤立主義的な哲学から、グローバル化の時代にふさわしい、より国際協調主義的な哲学に転換すること。なぜなら冷戦後の安全保障環境は二つの側面で大きな変化があること。一つは安全保障のグローバル化であり、1990年の湾岸危機とは異なり、朝鮮半島核危機、台湾海峡危機、米同時テロ、そして東シナ海南シナ海での中国の海洋活動の活発化等々、冷戦時代とは質的に大きく異なる脅威が、日本人の安全を脅かすようになったこと。二つは冷戦後の世界における重要な変化はパリ、ロンドン、イスタンブールがテロ攻撃を受けたとしてもそれを戦場とは言えず、「平時」と「戦時」の境界線が極めて不明瞭であり、さらにグレーゾーン領域の拡大が複雑に絡み合っていること。

 

 こうした自衛隊の活動領域の拡大と、国際社会での安全保障協力の拡大、そして軍事情報の共有にあわせて、それにふさわしい法改正と新規立法をしたことが、今回の安全保障関連法の本質的な意義と考える。

 加えて武器使用基準の明確が必要で、政府内でその作業が進められている。日本がより一層、国際社会の平和と安全に貢献できるからこそ、米国、オーストラリア、東南アジア諸国、インド、欧州連合は皆、安保関連法の成立を歓迎しているのだ。あくまでも平和的な手段で、ルールに基づいた国際秩序を強化することが、日本の安全保障政策の根幹的な目標であるべきだ。それは、安全関連法の施行後も変わることはない。

 

 私はこうした見解に共感するところです。

 

その2 非軍事重視の潮流に逆行

            抑止力強化、緊張を招く   成蹊大学教授・遠藤誠

 

 氏は国際政治、平和研究を専攻とされる学者です。同氏の論点を要約しますと、

 安保法制転換の最大の問題は、現実の紛争を直視せず、世界全体の安全保障に関する政策潮流と逆行している。日本は先進的な安全保障を推進する潜在力を持ちながら、軍事安全保障に焦点を置く方向に転換しようとしている。安全法制の審議過程では、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認が自己目的化し、その安保政策としての得失が冷静に議論されたとは思えない。平和構築でも日本の安全保障でも、安保政策の基本は、現行憲法に表現されている平和主義であるべきであり、それは過去の侵略戦争を反省し、同じ過ちを犯さないという周辺諸国への約束であり、戦後日本の安定や日本への信頼もこの憲法を基礎にしており、この実績を安易に捨て去るべきでない。

 

 中国との関係は困難が続くが、中国との間で軍拡競争を展開することは賢明でない。環境問題、感染症、食の安全等々日中、東アジア諸国共通の課題に関し、緊密な協力のネットワークを形成し中国を多国間協力の脇組みの中に取り込むことだ。そして、中国で市民社会を築き社会を変革していく政治勢力を支援し、国際協調の重要性と単独行動のマイナスを理解する人々が力を持てる環境を整えるアプローチこそ必要なのだ。

 

 理想論としてはそうなのでしょう。ただ、氏の見解は果して今の日本が置かれた、或いは世界の現実に正面から対峙しているのでしょうか。氏の見解は日本国内には通用するのかもしれませんが、東アジアだけでなく世界の識者に現実的に共感、賛同を得ているのでしょうか。私は極めて疑問に思います。中国について昨年出版された米国の中国政策にも深く関与した現米国務総省顧問のマイケル・ピルズベリー博士による「China 2049」には、騙し続けられてきた同博士の反省が衝撃的に綴られています。世界最大の経済力と軍事力を以ってしても中国の民主化市民社会への変革は現実できなかったわけです。況や日本においてそんな力量があるでしょうか。残念ですが、それが今の日本の現実ではないでしょうか。中国は何百年前とうか、紀元前といってもいいくらいの「中華民族の偉大な復興」を目指しているのであり、そこには市民社会とか市民の人権等々は一顧だにしていないのでは、ないでしょうか。習近平が失権したとしても、中国共産党独裁政権は倒れることは、この先何十年に亘りないと、私は考えます。ソ連崩壊とは別の次元である、と考えるべきではないでしょうか。

 

 別の観点から見たスティーブン・ローチ著「アメリカと中国 もたれ合う大国」を合わせ読まれることをお薦めいたします。

 

 その3 日米同盟の深化に有益  豪・韓・印との連携重要 

                    元米大統領補佐官 マイケル・グリーン

 同氏の要点は以下のとおりです。

 

 集団的自衛権の認識、武器輸出三原則の緩和、日米防衛協力のガイドラインの改定は、今の国際環境の現実を踏まえての日本の法律・政策の自然な推移だ。そもそも集団的自衛権の問題は、民主党政権下でも議論された経緯であり、このことを多くの人が忘れている。

 

 安倍首相は今回、内閣法制局による「アリバイ」を撤廃し、域内の安全保障に対する脅威に日米両国が共同で行動を起こせるようにした。この地域の新たな地政学的現実を踏まえれば、これは必要な措置である。北朝鮮がミサイルや核開発に躍起になり、中国が沖縄県尖閣諸島や、沖縄本島から南シナ海につながる「第一列島線」を事実上制圧しようとしている現在、日本はまさに最前線に位置する。日本に必要なのは、米国に巻き込まれない方策ではなく、日本列島と西太平洋の防衛に米国を巻き込むことだ。 日本のせいで中国との紛争に「巻き込まれる」可能性に米国の専門家が警鐘を鳴らしたのが、安倍政権の発足当時だったのは皮肉なことだ。中国政府は米国のこうした危機感に乗じて、日米同盟の分断を画策した。

 

 情報活動、ミサイル防衛など両国は更なる融合を図り、豪州更にはインドをはじめ他の友好的な海洋民主国家との連携を図るべきだろう。目的は中国の封じ込めではなく、中国の期待を現実的なものに戻すこと。現状を変えようとして攻撃的な行動をとれば、地域大国が対抗して協力と結束を固めることを中国政府が理解すれば、より好ましい方向に軌道修正するだろう。その結束は究極的には抑止力として働く。

 

 私は共感し賛同を覚えます。一方、最近の共和党・大統領候補のトランプ氏が日本を含めた海外米軍基地の引き上げ等々の発言がアメリカ国民の相当程度の賛意を得る、そうしたアメリカ市民の感情・現実も我々は肝に銘じておく必要があるわけです。自らの国は自らが守るとの国民の意志は欠いてはならないのです。

 

おわりに

 

 続いて、日経新聞の3月27日の紙面「安全保障関連法29日の施行 防衛新時代 Interview 識者はこう見る」に驚くべき記事がでたわけです。

 

 それは中国を代表するという国際政治学者の精華大学教授の閻学通氏が次の

ように語った、とするものです。

 

「安全保障関連法による日米同盟の強化は戦争回避には不利に働く。米国は同盟強化によって日本やフィリピンに中国と対決する意思を固めさせた。米国の同盟国との代理戦争が起きる可能性はむしろ高くなった。だから中国は国防の強化をしている。(中略)中米間には核抑止が効くので直接戦争をすることはない。米国の同盟国は米国の同意がなければ戦争をしない。だから中国の外交政策の本筋は米国にある。日本やフィリピンとの戦争を回避するために中国が努力する必要はない。中日の国民感情が悪化した最大の要因は安倍政権の対中政策だ。安倍政権は安保法などの国内政策を実現するための中国との敵対関係を必要としている。」

 

 このインタビュー発言は本当に事実通り訳されているのでしょうか。もしそれが事実としたら、それは恫喝以外の何物でもりません。「China 2049 」でピルズベリー氏が述べた中国人民解放軍の「タカ派」と何ら変わらず、国際政治学者とは到底思えません。又、氏が挙げた事実もここ5,6年の中国の動きとは大きく異なるのではないでしょうか。

 中国との関係が急速に悪化したのは民主党政権時で、尖閣諸島近辺で日本の巡視船に中国漁民船を衝突させたのも2010年9月です。しっかりした歴史観を持たず、腰の定まらない民主党政権が慌てふためき、尖閣諸島の一部を日本人の個人所有から国有化に移行させたのも2012年9月です。その報復でしょうか、その時、レアアース輸出を大幅削減し、軍が管理する立ち入り禁止地区に侵入したとして日本の民間人4人を逮捕。更には中国全土で官製反日デモを起こさせたのも弱体した民主党政権時であり、安倍政権時代ではありません。方や、それに先立ち当時の民主党小沢一郎が100名ほどの国会議員を中国に引き連れ、一人一人が当時の胡錦涛国家主席と壇上で握手させるという、異様な光景がテレビ画像で流されました。あのような卑屈な外交をしたのも民主党政権の時代でした。

 

 皆さん、いかが思われますか。我々は改めて戦後日本の外交史を再検討し、その現実を認識する必要があるのではないでしょうか。侵略戦争という原罪を背負い、その贖罪意識から来る日本人の一連の思考・行動が日本自らを縛っているのかもしれません。細谷雄一著「歴史認識とは何か」、服部龍二著「外交ドキュメント 歴史認識」には中国、韓国に翻弄された日本の外交史が記されています。

 

2016年4月13日

                        清宮昌章

 

参考図書

 

マイケル・ピルズベリー「China 2049」(野中香方子訳 日経BP社

ステイーブン・ローチ「アメリカと中国 もたれ合う大国」(田村勝省訳 

                         日本経済新聞

原彬久「戦後政治の証言者達」(岩波書店

細谷雄一歴史認識とは何か」(新潮選書)

服部龍一「外交ドキュメント 歴史認識

長谷川三千子「正義の喪失」(PHP文庫)

山本七平「あたりまえの の研究」(ダイヤモンド社

選択 4,5月号

文藝春秋4月号

海外事情1,2,3、

日米安全保障条約と戦後政治外交

 

 原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【後編】

  

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第三章    保守政治家たちとその証言

 

 著者は情報開示と政治学について極めて重要な指摘を、下記のように記します。

 

 情報開示が進めば進むほど、政治学という学問も進歩していきます。政治家がどのように歴史を動かしていくか、そして政治がいかに歴史とかかわっているかといった問題、つまり政治家の意思決定とそれを取り巻く巨大な政治過程のダイナミックスに関する情報が政治学研究素材として活用されていけば、政治学がそれだけ発達するのは理の当然です。独裁国家に御用政治学はあっても。社会学が無きに等しいのは、民主主義と政治発展の不可分の関係を逆の方向から照射しているといえましょう。(73、74頁) そして、オーラル・ヒストリーに続いていきます。

 

 中村長芳と矢次一夫

             

 日本の政治が戦後の民主化が進むにつれて、少しずつ透明化されてきて、最高意思決定者の総理の「決定」過程に関する情報は、まだまだ不十分ではあるが一定レベルの情報開示のシステムが機能してきている、と記しています。その中で「宰相の舞台裏」として二人の人物、すなわち岸首相秘書官の中村長芳、及び岸信介の長年のフィクサーであった矢次一夫とのオーラル・ヒストリーを紹介していきます。

  戦後史70年のなかであれほどまでに大規模且つ継続的に政治と闘争が沸騰したことはあの「安保闘争」を措いてありません。あの「5.19採決」後の騒乱状態、ある意味では「革命前夜」の状況化にあって、秘書官中村長芳は政権側の最大の敵、院外大衆闘争の中心組織である総評の事務局長岩井章と、赤坂の料亭で夜な夜な会い、情報交換をしていたことです。著者は以下のように記しています。

 

  目の前の中村さんは、こうもいいます。例えば岩井は「自分は共産主義ではない。共産主義を制する第一人者は自分だ」という信念をもっていた。岩井と私は「この騒ぎは革命ではない」ということで一致していた。自衛隊を使うかどうかを考えていた頃だったしね」。

 これは極めて重要なポイントです。岩井が共産主義者であろうとなかろうと、内外の共産勢力から政治的な影響を受けていたこは間違いないでしょう。しかし問題は、この騒乱状況を「革命」と定義するかしないか、です。また、「革命」と定義しないまでも、岩井らが当時の状況を「革命」へともっていくのかどうか、これが政権の最大関心事であったのは、当然です。もし敵陣営が、とりわけ日本共産党とその周辺が本気で「革命」を志向するなら、国家権力を預かる政権側の対応は、まったく次元の異なるものになっていたでしょう。(87頁)

  方や、岸首相は、待ちに待った安保条約改定の「自然承認」をついに迎え,次期後継者の選考に入ります。いわゆる池田政権への移行です。そのとき大きな動きを示すのは岸信介の長年の黒幕でもあった矢吹一夫でした。著者は以下のように記していいます。

 

 それにしても、政治が「夜つくられる」ことは、矢次さんから聞くまでもなく、私も先刻承知しております。(中略)ただ、いまさらながら「夜つくられる」政治が政治のすべてではないことは、いうまでもありません。時代が進んで二一世紀に入った日本の政治も、岸政権の頃に比べれば、さすがに「白昼つくられる」政治、つまりと透明化した政治の部分が増えているのは事実です。とはいえ、政治のリアリティが依然として暗部をもち、その暗部が歴史をうごかしているという側面を、もし私たち看過するなら、私たちは事の本質の重大部分をみていないということになるでしょう。(98頁)

 

 警察官職務執行法日米安保の極東条項

 

 岸政権が「安保改定」に動き出したその頃は、社会党は未だ政党としての意思統一はされておりません。岸信介により懇請され外相になった藤山愛一郎の証言は下記の通りです。

 

  私がダレスに会いに行くまで、(社会党は)(条約)改正論でしたよ。僕は外務委員会でしっかりやってこいって、激励されたんです」「とくに私が(アメリカ)に発つ前に外務委員会で壮行の儀みたいなものを社会党がやってくれたことを覚えています。

 ところが社会党は藤山外相が帰国して日米交渉が始まる頃には、あの統一綱領にある「解消」で意見が集約し、安保条約の存在を認めた上での「改定」には反対するという、いわば左派寄りの見解でとりあえずまとまるのです。しかし社会党がこのように「安保改定」への意思統一をしたからといって、それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと、必ずしもそうではありません。それが直ちに岸政権の「安保改定」作業に打撃を与えたかというと必ずしもそうではありません。「安保改定」の敵は、むしろ岸政権自身がつくってしまったのです。いわゆる警職法案問題が、それです。(107頁)

 

  すなわち安保改定の敵は岸政権自身が突如、国会に提出した「警察官職務執行法」の改正案であり、加えて自民党内の派閥間の凄まじい権力闘争でした。折も折、安保改定日米交渉の初日、新聞に政府のこの「もくろみ」が大々的に報じられ、「反安保」という外交問題よりも、「反警職法」という国民に身近な問題のほうが、社会党をはじめとする革新陣営としては岸政権を攻撃する材料としてはるかに「良質」なものになりました。

 加えて安保改定でも解消はされなかった「在日米軍は日本国の安全のためだけではなく、極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するという極東問題が浮上します。そして国会での藤山外相ほか政府答弁に乱れが生じ、国会は混乱を極めることとなります。この極東という文言は米軍の使用地域ではなく、目的地域なのですが。著者は次のようにのべています。

 

 「極東の範囲」自体、確かに長時間の国会審議に値するものであったとはいえません。岸さんはのちに「極東の範囲」を「愚論の範囲」と切り捨てました。一方、岸攻撃の先頭に立って、「安保改定」批判に執念を燃やした社会党飛鳥田一雄さんは、私の質問に答えて、この議論は「われわれ自身バカバカしいと思ったが、ポピュラリティというか大衆性はあった」と回想しています。「バカバカしい」議論であったが、「安保改定」に無関心な大衆を啓発するには格好のテーマーであった、と飛鳥田さんはいいたいのです。(117頁)

 

 バルカ ン政治家といわれた三木武夫

 

 第三章では保守政治家たちとの証言として藤山愛一郎、福田赳夫赤城宗徳他、更には外交官であった下田武三、東郷文彦他を取り上げていきます。そのなかで、岸信介が「世の中でいちばん嫌いな奴は三木だよ」と言わしめた三木武夫については極めて興味深く、以下紹介します。

 

 三木の岸信介の評として、岸は太平洋開戦のときの閣僚で、戦後に内閣を組織したことは他に誰もいなく、そのうち岸の権力主義的体質は地金がでるというものです。いわば岸信介の戦争責任を問題にしており、岸の戦前戦中の軍国主義を推進した岸の「権力主義的体質」に三木は警戒心を隠しません。

 とはいえ、三木自身も軍国体制に加担していたことは明らかで、一代議士として岸の間近にあって、岸と同じ方向を向いて仕事をしていたことも歴史の事実です。実際、岸商工相のもとで商工省委員を務め、その後、商工省は軍需省になりますが、三木が鈴木貫太郎内閣においては軍需参与官として活動し、本土決戦を目指した大日本政治会に入ったのです。

  方や、「議会の子」といわれる三木武夫ですが、近衛文麿を総裁とする体制翼賛会における選挙でも、鳩山一郎尾崎行雄ら体制批判の「非推薦候補」とは異なり、推薦を切望したものの、地元徳島における選挙区の事情から非推薦であったに過ぎないのです。そして最下位ながら三木は当選を果たしました。尚、三木は当時の官憲から「時局二順応」し「国策ヲ支持」をし「反政府的発言ナキ人物」と評されていたわけです。そして彼は辛うじて政治生命を繋ぎ、敗戦後は幾多の選挙を勝ち抜き、権力闘争の果て、ついに総理の座を射止めたわけです。

  ところで、岸が力を尽くした保守集結のプロセスに立ちはだかったのは、三木武夫松村謙三たちで、彼らは岸の進める保守一党体制の自由民主党の結成に真っ向から反対し、あらゆる方策を裏面で岸の行動に抵抗していくわけです。ことに安保改定の条項の中にある日本の事前協議における拒否権、極東の文言等々に、あらゆる方策で岸の進める安保改定に抵抗します。ただ、この三木の岸批判は、政策の次元で見る限り一定の合理性をもち、岸の政策形成に少なからぬ影響を与えたことはまちがいのないことです。しかし三木らの主張がいかに論理性を持っていたとしても、その主張を押し出す彼らの意図が権力闘争的様相を帯びていたことは自明でありました。著者はその状況を以下のように記しています。

 

 確かに三木武夫は、同じ政権与党ないにあって「野党まがい」の言動に終始していた感があります。もし日本があの時、西欧流の議会制民主主義の中にあったとすれば、三木は野党党首であってもおかしくありません。というのは「国権の最高機関」である国会でのあの自社対決すなわち体制対反体制の対決は、すくなくとも議会制民主主義の枠を超えるものでした。むしろ議会制における野党の役割は皮肉なことに与党内の反主流がこれを担っていたともいえるのです。(185頁) 

 その後自民党内の派閥領袖は、三木を含めて次々に首相になり、これを「擬似政権交代」と称したのは、いいえて妙である、と記しています。

 

 私が本稿の「はじめ」に言及した議会制民主主義については、著者は以下のように述べています。

 

 日本の国会が議会制民主主義の道を正しく踏んでいるかどうかとなると、必ずしも確たる答えは出てきません。法案の内容の本質は何なのか、そしてその法案が国家国民にとってどういう意味をもつのか、といった問題を論理を尽くして議論するというよりも、日本の場合は、法案を通すか通さざるかの二者択一の政争に終始する傾きをもっています。このことは、自民党社会党対決の「五五年体制」下では特に顕著でした。世界の「反共・親米・資本主義」陣営に与する自民党と、「反米・親中ソ・社会主義」陣営を支持する社会党との対立は、体制対反体制の性格をもっていました。それだけに、政治の要諦である「妥協」の論理は働かず、勢い法案の内容を議論するよりも、あの「二者択一」のために闘う、つまり国会運営のための行動戦術に矮小化されていくのです。(82頁)

 

 皆さん、いかが思われますか。今の自公政権と野党との国会の現状も依然として不毛の議論を重ねているだけで、ただ時間の経過を待つのみの国会討論ではないでしょうか。

 

 尚、本書の中には、中曽根康弘は触れられておりません。岸信介中選挙区制のなかで、派閥間闘争に苦闘したわけですが、服部龍二氏は著書「中曽根康弘」のなかで次のように興味深いことを記しております。それは中曽根の特徴的主張として、小選挙区制や派閥の衰退が政治家のスケールを小さくしただけでなく、国家の再建に不可欠な歴史や伝統に対する関心を低下させたこと。加えて中曽根時代には日本経済が全盛期を迎えていたとはいえ、体系的に世界政策を構築した日本の政治家は中曽根以外におらず、戦後外交の頂点と言っても過言ではない、と言わしめております。唐突の感で恐縮しますが、私は不祥事を頻繁に起こす現国会議員の質の問題には少なからぬ不安を感じており、そうしたこともひとつの要因かな、と服部龍二氏の指摘に共感を覚えた次第です。

 

第四章        社会主義者たちとその証言

 

 岡田春夫飛鳥田一雄 

 

 米ソ冷戦の国内版ともいうべき五五年体制の自民党社会党との妥協なき政治闘争、しかもそれが国家の命運にかかわる安全保障という問題の中にあって、安保七人衆といわれた岡田春夫飛鳥田一雄等の証言は極めて印象深いものです。

 

 岡田春夫によれば、共産党から送りこまれたフラクション(秘密分派)は社会党のみならず自民党、警視庁、更には自衛隊にも入り込み活動をしていたこと。

 方や、飛鳥田によれば議会民主主義は必要悪で、議会がそれなりに機能するためには大衆参加の直接民主主義もまた必要であること。したがって安保騒動のとき、デモ隊が国会に乱入するのを止めた共産党に怒るわけです。飛鳥田の態度には大衆を上から目線でみるある種のエリート意識は否定できないこと。しかし同時に「大衆の理解なしに政治は動かない」との強い信念もあったこと。だから大衆に分からせる方法をどうしたらよいか苦悩しながら、普通の論理ではなく、週刊誌の方式でやろう、となる。極東の範囲など「バカバカしい」ものだが、ポピュラリティがあり、大衆の頭に入っていった、と記しています。

  

  日中共同の敵 

 

 続いて、1959年3月、社会党第二次訪中団の浅沼稲次郎団長(社会党書記長)による、中国での「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」の挨拶です。著者は次のように記しています。

 

 社会党による「反安保改定」闘争において、その行方を左右する重大なエポックはいくつかありました。しかし、同党を震源とするこの「日中共同の敵」問題は、それがアメリカに衝撃を与え、自民党政権を大きく揺さぶり、そしてなによりもそれが折からの「反岸」・「反安保改定」を急進化させただけでなく、その後の社会党左傾化の基点になったという意味で、戦後史のなかで最も重い歴史的事件の一つではありました。(239頁)・・(中略)浅沼の「日中共同の敵」発言は、中国と社会党の「冷ややかな」関係を完全に変えてしまいました。中国にとっていまや社会党は、軍事同盟たる日米安保条約をともに廃棄にもっていく「盟友」になったのです。つまり日本社会党は「反安保改定」闘争において国際的孤立から脱するまたとない機会を与えられたというわけです。(241頁) 

  しかも重要なことは「日中共同の敵」発言は突然出てきたものではなく、それ相応の下地というか「助走段階」があります。それはかの「長崎国旗事件」であり、社会党平党員で元陸軍中野中学校出身の田崎末松ほかを活用するという、中国共産党政権の変わることのないしたたかさ、国益を求めてやまない中国外交のリアリズムを描いております。その田崎末松も、社会党も中国外交からその後は外されていくわけです。著者は以下のように記しています。 

 

 周恩来だけでなくて中国の外交は、何よりもまず徹底して現実主義です。彼らがよく唱える「原則」でさえ、現実を動かす一つの道具にすぎません。利用できるものは利用し、目的にとって不要になれば切り捨てる、これが中国外交の真髄です。(266頁)

 「ニクソン大統領訪中」準備のため周恩来と極秘裏に延べ17時間、渡り合ったキッシンジャーは「中国人は、冷血な権力政治の実行家であり、とても西側のインテリ層が想像しているようなロマンチックな人道主義者などいない」と言わしめています

 

 服部龍二氏が日韓、日中との歴史認識を中心とりあげた「日本外交ドキュメント 歴史認識」のなかでも、中国、韓国に翻弄された日本外交の姿、及び中国の現実を如実に描きだしております。合わせ読まれることをお勧めします。

 

 五五年体制崩壊から自社連立政権へ  

 

 第二次大戦終了から今日までの70年間は、1945年の大戦終了前後から90年ごろまでの米ソ冷戦時代と、その後に分かれます。ある面ではそれは歴史の自然な流れなのでしょうが、米ソ冷戦崩壊の数年後の1994年、水と火の関係にあった自民党日本社会党が「連立政権」を作るに至るわけです。

  そのきっかけになったのは、自民党内の派閥抗争から起きた宮澤喜一内閣の不信任案の可決から生じ、94年7月の解散・総選挙です。結果、自民党過半数割れを起こすと共に、野党第一党の社会党も致命的打撃を被り、政治の大乱が始まりました。その一連のなかで、暗躍したのが政治屋小沢一郎ですが、非自民党の細川内閣、羽田内閣と極めて短命な政権を経て、政権協議もないまま村山富市を首班とする自社連立政権が誕生します。結果は御存知のように日本社会党はその後、事実上その党史を閉じ、消滅していった現実です。

  政党が政策変更、しかもそれが大変更であればあるほど、党内合意を得てそれを国民に示さなければならない、と著者は指摘しています。村山首相は後で党が追認したとのことですが、衆議院本会議で社会党の「党是」とも言うべき根本政策を一気に打ち消したのです。著者は次のように記しております。

 

 彼が衆議院本会議で述べたその趣旨はこうです。第一に日米安保体制はアジア太平洋地域の平和・繁栄を促進するために「不可欠」であること、第二に自衛隊は「憲法の認めるもの」であること、第三に「日の丸」が日本国旗であり「君が代」が国歌であること、加えて翌日の参議院本会議では、第四に「非武装中立」は冷戦構造崩壊とともに「その政策的役割を終えた」こと。(293頁)

 

 そして、村山政権は村山談話を後世に残したわけです。その功罪はさらに今後の歴史が判断することになるのではないでしょうか。

 

おわりに

 

 その後、自社連立政権に続き、民主党政権がマスメディア他に持て囃され誕生しました。その民主党政権の場当たり的な政策は日本にとって極めて危険且つ不安定な状況を残し、現在の自公政権になります。

 その民主党が政権奪還のためと称し、維新の党と共に新たな政党を作るようです。ただ日本社会党のあの徹を踏まないこと。歴史から学ぶことが最も肝要なことで、「党是」を明確にし、その上で他党と協議に入ることです。自公政権に取って代わろうとするなら、真の国民政党として根本的に構想を練り直すことです。安易な妥協は最も危険と考えています。

 尚、この新しくする政党は、政党名を公募ないし世論の調査結果に基づき、党名を決めたかのごときですが、私は極めて違和感を持ちます。政党であれば、まず以って基本姿勢たる「党是」を決め、その上でその理念にふさわしい政党名を自ら決め、そこで政党たる是非を国民に問い、そして国民の賛同を得ることが政党のあるべき基本姿勢ではないでしょうか。もし名前すら党として決められず国民にいかがでしょうか、と伺うとしたら、本末転倒もはなはだしいと私は考えます。

 一方、昨今に見られる党名としては、消滅した「みんなの党」あるいは「生活の党」等々しかり、その党名からは党是があるのか、更には何を目指すのか極めて不明確な政党が多いと思います。いかにも場当たり的な、思いつきの正義を振り回ように、私は思います。それは果たして政党と呼べるのでしょうか。

 

 私は「はじめ」にも記しておリますが、議会制民主主義の育成には健全な、国民政党である野党の誕生は望んでおります。

 

2016年3月15日

                         清宮昌章

 

参考図書

 

原彬彬久「戦後政治の証言者たち」(岩波書店)、同「岸信介証言録」(中公新書)、同「岸信介」(岩波新書)、同「吉田茂」(岩波新書)、服部龍二「外交ドキュメント」(岩波新書)、同「中曽根康弘」(中公新書)、文芸春秋4月号、他

  

日米安全保障条約と戦後政治外交

 

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原彬久著「戦後政治の証言者たち」、服部龍二「外交ドキュメント 歴史認識」他を読み通して・・【前編】

 

はじめに  

 民主党と維新の党が自公政権の交代を図るべく双方解党し、新しい政党を作るとのこと。その意図は分かるとしても果してどんな成果を望むのでしょうか。更には共産党との選挙協力も分からないわけではありません。しかし消滅した社会党左派への先祖帰りを図る民社党、更には党の理念の分からない、政党交付金を得ることが最優先としか思えない生活の党とも連携を図るような新政党が果して国民政党として成立するとは、私はとても考えられません。  

 民主党に必要なことは労働貴族とも称すべき連合、更には特異な思想を抱き、現実から大きく乖離したような日教組から少し軸足を移し、広く国民政党として再出発することこそが必要に思います。そのためには日本だけしか通用しない視点・観点ではなく、より広い見識を持った有識者を加えたシンクタンクを作り、そこで先ず理念・思想を練りあげ、党としての在るべき政策・指針を構築することが先ずもって重要である。急ごしらえの政党は意味がないと私は勝手に考えております。官僚を軽視し、ただ思いつきの正義感ではとても政権は取れません。民主党は前回の失敗はどこにあったのか。その失敗から何を学ぶべきかが問われている、と思います。マスメディアと一部の知識人に踊らされ、官僚を余りにも軽視し、結果的には情報も知識も乏しくなり、実務が回らなくなったのが民主党政権の現実ではなかったでしょうか。自公政権とて、いつでも交代できる政党の出現を望んでいるやもしれません。

 一方、国会中継を観るにつけ、本題の法案等にはほとんど触れず関連事項の質疑に終始する国会の現状にあっては、わが国が議会制民主主義にたどり着くまでに、気が遠くなる長い長い期間が必要に思います。いかがでしょうか。  

 そんな日頃の思いの中、表題の両氏の著作を改めて読んだわけです。ご存知のように原彬久氏は戦後日本の政治外交史を専門とする方です。今までも同氏の「岸信介」、「吉田茂」、「岸信介証言録」等々紹介して参りました。心に残る文章で日本政治外交史を語る学者です。

  方や服部龍二氏も日本外交史・東アジア国際政治史の専門家です。同氏についても「日中国交正常化」、「広田弘毅」などの著作を紹介して参りました。今回は原彬久著「戦後政治の証言者たち」を中心に話を進めたいと思います。

  いつものことですが、今回も本書全体ではなく、私が感銘あるいは共感したところのみ、紹介して参ります。

 

原彬久著「戦後政治の証言者たち オーラル・ヒストリーを往く」

 

 第一章 オーラル・ヒストリー  

 著者はオーラル・ヒストリーの効用を次のように記しています。  

第一 話し手の「心の事実」も含めて「新しい事実」を発掘することができること。      第二 歴史を立体的に再構築する手段としての有用性をもっていること。

第三 私たちに「歴史の鼓動」を伝えることができること。いい換えれば、「歴史の臨 場感」ともいうべきものを生み出す有用な手段として、活用できること。  

  尚、本書は第一章;オーラル・ヒストリーの旅、第二章;岸信介とその証言、第三章;保守政治家たちとその証言、第四章;社会主義者たちとその証言、から成り立っています。第一章で著者は本書の目的を次のように述べております。本書の骨格を示すもので、以下紹介いたします。

 戦後日本の骨格そのものとなった日米安全体制をめぐって、日米関係と日本の国内政治がいかなるダイナミズムをみせたかを自分なりに明らかにしよう、というわけです。そのための具体的な研究ターゲットとしては、それまで誰も足を踏み入れたことのない、岸政権による安保改定の政策過程(ここでは、最高意思決定者およびその周辺の比較的狭い範囲における政策作成集団内での相互作用をいう)、および同過程を含むより包括的な政治過程(政策決定過程だけでなく、そこに影響力を行使する、より広範囲な政治過程をいう。野党政治家、各種利益集団の他に多くのアクターがここに参入する)をとり上げようと思っていました。  

 というのは、戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程には、ほかならぬこの戦後日本のあらゆる特質が詰め込まれているようにみえたからです。つまり、安保改定の政治過程に政治学的解明のメスを加えれば、戦後日本における政治外交の構造的特質がある程度浮かびあがるにちがいない、ということです。そして、幸運にもいまこのオーラル・ヒストリーを目の前にしますと、これこそ安保改定にかかわる資料獲得の方法としてある一定の効用をもつのではないか、と確信するようになったのです。(本書7、8頁)  

 さて、吉田とダレスの間でつくられた旧安保条約が戦後日本の根幹をなした、という事実は誰も否定できません。したがって米ソ冷戦のなか、岸信介が同条約の改定に手をかけたとき、それが国内外を大きく揺るがしたのは、ある意味では当然でした。  

 しかも最高意思決定者岸信介が先の戦争に関連して、戦後A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されていたということもあって(不起訴処分)、この安保改定は激しいイデオロギー対立と権力闘争の渦に巻き込まれてしまいます。つまり、安保改定によって条約の日米不平等性を改善して、より強固な日米関係を築こうとした保守の自民党と、岸信介が安保改定をするというなら、むしろこの際条約そのものを廃棄して戦後の日米体制を清算すべきと主張する左派中心の日本社会党との間で、戦後最大の政治抗争を惹起いていくのです。(15頁)  

 尚、共産党がこの政治的騒乱をどう位置づけていたのかを、院外大衆闘争の司令塔である安保改定阻止国民会議にオブザーバーとして参画していた、日本共産党中央委員会幹部会員である鈴木市蔵の証言として以下のとおりです。  

 第一にいわゆる安保闘争は戦後日本の政治闘争においては唯一の統一戦線であったこと、すなわち社会党共産党労働組合の三者が戦後日本の政治史において「一番画期的な役割をもった統一戦線」を形成したとうことです。つまり、「典型的な階級的政治戦線の統一」だったのです。ですから、岸退陣後「これ(安保闘争の勢い)を潰すということは、共産党としてできるわけがない」というのです。  

 第二にこの統一戦線を、すぐさま革命へともっていかなくとも、「日本の変革の道標」にしようとしたことです。すなわちあの政治的騒乱を「革命」とは捉えないまでも、「そういう位置づけをしてもおかしくない状況にあった」というのです。だからこそ共産党は、この闘争の「体制」を「発展させていきたい」と考えていたのですが、統一戦線のパートナーである社会党労働組合(総評)はこれに消極的であった、というわけです。(17頁)  

 そして、岸内閣退陣後の総選挙(1960年11月)は池田政権与党の自民党が勝ち、勝つべき条件をもっていた社会党が負け、新党の期待を背負った民社党が惨敗したという点からすれば、戦後日本70年の歴史における一つの分岐を画する重大な選挙であったと著者は記しております。それではあの安保改定の政治騒乱はその後の日本の政治・外交に何を残したのでしょうか。

 

第二章 岸信介その証言

 岸信介については原彬久著「岸信介証言録」(中公文庫)および「岸信介」(岩波新書)他の研究書で詳しく述べられております。従い本書で私が新に参考になった点のみ紹介いたします。岸信介A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンで3年有余の獄中生活を送ったわけですが(不起訴処分)、吉田茂と共に岸信介は戦後の日本政治を形成した、歴史に残るべき政治家と私は考えております。

 著者は本章の中で、岸信介の長男信和氏の妻であリ、政治家岸信介・人間岸信介を最も身近にみていた一人である岸仲子氏がいう、岸信介が「妖怪」であるかどうかはともかくとして、ある種の「政治的多面体」であることは確かなようです。国粋主義者でありながら自由主義者であり、自由主義者でありながら社会主義者でもあり、そして部下に「勝手気ままに」を許しながら、権力闘争には非情なまでに自我を押し通す、これが岸信介と言わしめています。加えて、以下のように記しています。

  それにしても岸さんは、人間にとってそして社会にとって自由がいかに大切であるかを、三年有余の獄中生活を通じて痛切に感じ取ったようです。「天皇を絶対と思いますか」という私の質問に、「それはありません」と彼は断言するのです。つまり、「天皇より自由が大事」というわけです。吉田茂ならば、「天皇は絶対である」というかもしれません。戦前軍部と結んで統制経済を主導したあの岸信介から、天皇よりも「自由」に価値を置くという言葉を聞くとは、意想外でした。政治家岸信介は、やはり難解です。政治家岸信介は、天性の「政治的人間」です。岸信介は、権力の論理と生理を完璧なまでに呑み込んだうえで、その権力を並外れた行動力で追いかける。「権力の非情と矛盾」を従容として受け入れる。岸信介は権力のニヒリストでもあります。(45、46頁)

 1955年に保守合同にいたるわけですが、岸信介がその保守合同に向った主たる理由は米ソ冷戦のなか、内外共産勢力に対抗できる「強力な保守」をつくって「独立の完成」を実現しようというわけです。この「独立の完成」とは、象徴的にいえば、占領下に作られた日本国憲法の改正で、日本が陸海空の「戦力」をもち、なおかつ集団的自衛権を行使可能にすることなどを含む、と著者は記しています。

 方や、天皇制を尊崇する吉田茂は戦前、戦後を通じ親英米にあるに対し、岸信介は「日米開戦」を支持し、対米戦争そのものを指導し、そしてその責任に容疑を掛けられ獄中の三年有余を送りました。獄中で彼は米人看守からさまざまな虐待を受けており、「反米」感情が根付いたのも現実です。それでも彼は「米ソ冷戦」に導かれるかのようにして、戦後政治の荒野に放たれ、そして「保守合同」を主導し、アメリカの期待に応えていったわけです。しかし、それをテコにしてアメリカ側に一方的に有利であった吉田茂の安保条約を改定にもっていくことは並み大抵でないことも重々承知しております。鳩山一郎内閣の時代の1955年の8月、岸信介鳩山内閣日本民主党幹事長として重光葵外相の訪米に同行し、ダレス国務長官との会談に参加します。その席上で何の相談もない中、重光外相が安保条約は非常に不平等であること、日本側としては条約を対等なものに直したいとダレスに発言します。しかしダレスの反応は「アメリカとの間に対等な安保条約を結ぶなど、日本にそんな力はない」と、木で鼻をくくるような無愛想な態度でその提案を一蹴された現実があるのです。

 保守合同が出来たとはいえ野党社会党に対峙するだけでなく、自由民主党の中にも凄まじい派閥間の権力闘争があり、安保改定のときも三木武夫松村謙三とは政策決定過程の各局面でことあるごとに岸と対立しました。政治家は相手に権力闘争を挑むとき、必ず「政策」あるいは「方策」の違いを理由にその権力闘争を正当化します。政策と権力が渾然一体となっているために、権力闘争の帰趨が政策の命運を、したがって歴史を左右することにもなるのです、と著者は記しています。

 戦後日本最大の政治抗争に塗り込められた安保改定の政治過程も1960年6月10日のハガチー事件、続き同年6月15日の東大生樺美智子の圧死により、アイゼンハワー大統領の訪日延期となります。そして岸政権は幕を下ろし、安保改定が成立します。

  しかし、「アメリカが憲法改正に期待し『強い日本』を望んだその本心は、日本ができるだけ自力で『対ソ防壁』を築いて、その分アメリカの負担をへらしつつアメリカへの依存を続けることにあったのです。つまりこの程度の『強い日本』が望ましいのです。日本の自衛力がある一定レベルを超えて『強すぎる日本』になれば、この対米依存は弱まり、したがって、少なくともアメリカの『国益』に従属する日本ではなくなります、これこそ、アメリカの悪夢だった、いやいまでも悪夢である、といえましょう。」(70頁)  

 共産党独裁政権の中国が急速に大国化を目指し、軍事力等々を強めるという大きな地政学的変化に直面している日本にとって、このアメリカの国益という問題は日本の国益と繋がるか、否かの問題でもあり、今以て極めて難しい課題でもあるわけです。

著者はこの章をつぎのような印象深い文章で閉じています。

 巣鴨プリズンにあって「反米」を募らされた岸信介は、米ソ冷戦の出現とともにアメリカに接近して「親米」化していきます。一方、戦後いち早く日米戦争の敵方岸信介を戦犯容疑者として収監したアメリカは、これまた米ソ冷戦の進捗とともに岸を抱き込んで利用していきます。

 日本が戦後数十年間、米ソ冷戦の時代文脈から脱しえなかったように、「戦後政治家」岸信介もまた、冷戦の時代文脈を抜きにして語ることはできません。岸がこの世を去ったのは、1987年8月でした、時すでに、米ソ冷戦崩壊の胎動が始まっていました。ソ連民主化」の指導者M・ゴルバチョフ共産党書記長)がワシントンを訪問してアメリカ国民から熱い歓迎を受けたのは、岸信介死去の四ヶ月後、すなわち87年12月です。

 それから二年後、地中海に浮かぶマルタ島でG・H・W・ブッシュ(米国大統領)とゴルバチョフソ連最高会議幹部会議長)は「冷戦終結」を高らかに宣言するのです。「戦後政治家」岸信介は冷戦から生まれ、そして冷戦とともに死す、ということでしょうか。(70、71頁)

 

保守政治家たちとその 証言、社会主義者達とその証言 他 【後編】に続く

 

 2016年3月5日                            

                                清宮昌章      

植民地時代から今日まで  エドウィン・S・ガウスタッド・・後編

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「アメリカの政教分離エドウィン・S・ガウスタッド 西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【後編】

 

第三章19世紀 静かなる法廷

 

 信教の自由を与えられた宗教団体はこの世紀に劇的な繁栄を迎えます。例えばメゾジスとバプティストの教会数は会衆派と監督教会派を加えた総数の7倍にも達すると共に、教会の「新たな姿」をあらわすキーワードのボランタリズムの発生があり、アメリカ聖書協会、アメリカ日曜学校連合、アメリカ文書協会等々の活躍につながっていったわけです。

 

 一方、19世紀全般にわたっては、合衆国最高裁はこの世紀後半、モルモン教が一夫多妻制を明確に廃止するに至り、ユタが始めて合衆国への参入が許されるに至る1890年の判決は別として、宗教問題については沈黙を守っていました。所謂表題の静かなる法廷です。しかし宗教のほうが黙っておらず、州レベルや地方レベルの裁判所では数々の論議・判決がでており、たとえば大統領選についても「神と宗教的大統領」に忠誠を誓うか、否かの論議などが発生します。ジェハァソンが例の修正条項から適切な言葉を引用して「こうして政府と宗教のあいだには分離の壁を立てるのである」と連邦憲法には何処にも見当たらないこの[分離の壁]が憲法の言葉以上に合衆国市民に親しまれた、とのその言葉の由来を示します。

 

 又、この世紀半ばの1840年から50年時代には、もっとも情熱をもって戦われた論争は奴隷制度であります。この苦渋に満ちた問題は家族や教会、そしてすべての教派(バプティスト、メゾジスと、長老派)、更には国家そのものをも分裂させる南北戦争に至たります。

 その結果、1868年に修正条項第14条が制定されましたが、それは教会と国家に関する、南北戦争とその直後の重要な意味合いをもっており、

 どの州も、合衆国市民の特権あるいは安寧を妨げる法をつくり、かつまた強制してはならない。またどの州の何人も生命、自由、財産を、正当な法的手続きなしで奪われることはない。また、法的領土内において何人も法の下での平等な保護を拒否されることはない。この修正条項は、おもにかって奴隷であった人々の市民的権利保護のために作成されたものだが、究極的にはその領域を超える意味合いを持つにいたった。修正第一条は合衆国議会がなしうること、なしえないことの領域自体を制限していることを思い起こすべきである。今回は、修正第14条が州のなしてよいこと、よくないことを示している。これらの言葉がこの後の時代の、信教の自由と政府のあたえる信教の恩恵について大きな影響力を持つことになる。(47頁)、と指摘しています。

 

第四章 20世紀とそれから 多忙な法廷

 

 そして、19世紀の静かなる法廷から20世紀には劇的な変化が起こり、多忙な法廷となります。その要因の第一は最高裁が1940年代に修正第一条の宗教条項を州に適用する手段として、前章に述べた修正第14条を使い始めるに至ったことです。

 

 第二は、アメリカ自由人権協会、アメリカ・ユダヤ人会議、アメリカ政教分離連合他多くの新しい組織が伝統的な宗教的慣習に公的な場で挑戦し、最高裁に法的手続きをとるようになったこと。

 

 第三は第一次大戦終焉までにアイルランドからのローマ・カトリック教徒や、東ヨーロッパからのユダヤ人、更にはイスラム教徒、仏教徒等の多くのプロテスタント以外の移民により、アメリカが従来のプロテスタントの宗教的単一色の国家から多元主義の国家に変遷したこと。

 

 第四は連邦政府の規模が拡大して産児制限等個人の領域まで介入せざるを得ない状況に変わったこと。

 

 第五にはアメリカは世界でもっとも訴訟好きな国家になったこと。

 

 そうして最高裁は連邦憲法の[信教の自由]と[自由の行使]と州法の狭間で悩みます。全員一致の判決はまれとなり、むしろ際どい賛否でそれぞれの訴訟に対処してきておりり、其の判決には必ずしも首尾一貫性があるとは言えず、むしろ其の時代の大衆の思いが反映していきます。

 

 たとえばベトナム戦争時の良心的兵役拒否の訴訟が良心の問題なのか否か。それともそれは宗教的・政治的背景のものであるのか否かの問題なのか。更には最も微妙な宗教的背景をも持つ産児制限と中絶の訴訟、国家と教会のかかわりとなるクリスマスの公的な場でのキリストの生誕の展示の訴訟、教会財産課税免除等々の訴訟と極めて多忙な法廷となるわけです。そして一般大衆が懸念を持っている教育の分野が大きな課題となったと本章を纏めています。

 

第五章、第六章 公定条項

 

 宗教と教育

 

 このふたつの章では、修正第一条の政府(連邦)が宗教を支援しても擁護してもならないという点で、最も悩ましい教育面での最高裁の判決をめぐる諸問題を取り上げています。

 

 西洋文明においては宗教と教育の関係は極めて密で、近代になってもヨーロッパのほとんどの国で、国家による教育と、制度としての組織化された宗教とのつながりは密であったわけです。アメリカでの公立教育の統括は連邦(国家)によるものではなく、地域の州でなされており、更に公立学校ではプロテスタント的要素が多く、そこに他宗派から訴訟が起こされる要因があります。  

 ただ、このすべての学校で、憲法から見て正しい仕方で宗教をどう扱うか(あるいは無視するか)は学校に関するすべての人にとって大きな問題となりえますが、アメリカの教育界の実験が西洋の激しい歴史的潮流に逆らっていることを考えれば、驚くことではない、とも記しています。

 

学校における問題

 

公立学校をめぐる訴訟実態は、以下の通りです。

 

1.なんらかのかたちでの宗教教育を行なうにあたって、それが学校敷地内(自由時間)あるいは敷地外(時間外)で行なわれる場合、教区学校と共同で行なわれる場合(共有時間)。

2.公立学校における実際の宗教的行為(祈り、聖書朗読、礼拝そのもの)。

3.本質的に学術的というより宗教的と考えられる科目を教えることに関する問題。

4.学校の建物や敷地内で、生徒が宗教的活動を実践する権利に関するものであり、最高裁判決はそれらの問題に全員一致の判決はほとんどなく、今もって揺れ動いている。

 

  一方、私立学校における訴訟は財政をめぐる法的問題が主であり、1.教科書と教材、2.給料、3.授業料免除、バウチャー制度、税額控除、4.教会に関した大学への補助に分類されるとしています。これまた最高裁判決は複雑さを深めており、「合衆国社会がその政治的・教育的・道徳的ジレンマの多くを解決するときには最高裁を超えたところを見据えなければならないことを示す、もうひとつの例にすぎないのかもしれないと」と第6章を結んでいます。

 

 ただ、いずれにもせよ、外から自由を与えられたかの我国の現状と、自由を求め大陸に移住したといわれるアメリカの生い立ち。今日においても自由とは何か。信教(宗教)の自由とは何かを追い続け、公的場での祈りや聖書の朗読、ダーウィンの進化論の教材、宗教系の私学への教材の補助等に関するアメリカの各州の訴訟。連邦裁判所においてもそうした訴訟受けざるを得ない彼我の状況の違いを改めて知らされます。

 

第七章 自由行使条項 信教の自由

 

 少数派の宗教

 

  信教の自由行使条項は政府が宗教を不利に陥れたり、抑制してはならないことを言明してますが、この条項から最も阻害される人々は少数の宗教グループであった、としています。

 19世紀後半に起きたモルモン教そのひとつですが、20世紀にはエホバの証人・ものみの搭(現在では信者は世界で400万人以上)による文書販売・寄付金の収集。国旗への忠誠問題、そのほか正統派ユダヤ教の日曜日に関する法律問題、アーミッシュの公立学校の通学問題、敬虔主義ユダヤ教への学習援助問題、サンテリアの動物犠牲の儀式の是非。アメリカインデアンの伝統的儀礼による礼拝の制限等々最高裁の判決は時には表現の自由等と信教の自由との狭間で否決・賛成と揺れ動いており、そこで何が問われてきたのか示しております。

  

 最近はイスラム教徒も増加し、しかも各国で起こる激しさを一段と増すテロ事件の中で、アメリカ国家はますます宗教・人種が複雑さを加えている中で、最高裁は今後もまちがいなく、信教の自由行使を定義し保護する線引きを求められることだろうと、この章を終えています。

 

 以上、本書を通じて言えることは、あまり宗教に関わりのない、あるいは関わらなくても過ごし過ごしてきた、わが国の現実と異なることです。国家と州と教会の相克が政治文化の中に深く根を下ろしているアメリカの生い立ち、ある面では現在においても宗教国家とも言うべきアメリカの一面を理解する上で参考になるのではと思い、今回本書を取り上げた次第です。

 経済格差の拡大、その結果もあるのでしょうか宗教間争い・国際テロ、加えて領土問題等々、大きく変動する21世紀世界にあって、平和を唱えるだけでは平和にはならない現実を真摯に受け止め、わが国の地政学的現状をも踏まえ、その在り方はどうあるべきなのか、個人としても自らの問題として考えることが極めて重要な時代に入ったと思っています。

 

 2016年1月21 日

 

                            清宮昌章

植民地時代から今日まで エドウィン・S・ガウスタッド著 大西直樹訳(みすず書房)を顧みて・・【前編】

はじめに

 

 昨年9月、中国に関するある意味では衝撃的な二つの著書が発刊されました。ひとつは習近平の生い立ちと、凄まじい共産党内部の権力闘争の報告書でもある中澤克二著「習近平の権力闘争」です。もうひとつは中国の国家戦略の根底にある意図を見抜くことが出来ず、だまされ続けられてきた、とする中国専門家の、しかも歴代のアメリカ政府の対中政策に深くかかわってきたマイケル・ピルズベリー博士著「China2049」です。お読みになった方も多いと思います。中国が大国への復権・復活をどのような戦略のもとに行動しているのかを知る上で、両書の信憑性は問われるかもしれませんが時宜を得た出版と思います。

 政治体制のみならず、その歴史観も価値観も大きく異にする中国がその経済力と軍事力を背景に数世紀前の大国の復活を図る現実に鑑み、わが国は価値観を共有する諸国と更なる連携を計り、わが国のあり方・立ち位置を正に真摯に考え、行動に移していくべき時代に入ったと思っています。第二次大戦後、良しにつけ悪しきにつけ、唯一と言っても過言でなく、世界を牽引してきたアメリカが今後どのような立ち位置になるのか、あるいは立ち位置をとるのかも極めて重要な現実です。各国の個人のみならず、その国家間に事体において経済格差が拡大している現状にあって、21世紀世界はまさに混乱・混迷の時代に入ったと考えます。

 

 今年2月にアメリカ大統領予備選が行われますが、共和党候補者のひとりで、不動産王でもあるドナルド・トランプ氏がイスラム教徒のアメリカ入国を禁ずる、との発言が論議を呼んでいるようです。その現象は彼の政策よりもむしろその性格の正直さが中間層の人気を呼んでいるようにも思えます。その中間層の苛立ちもアメリカ社会の混迷の現実なのでしょう。そうした現実・現実に鑑み、2007年に日本で翻訳出版された掲題の著書「アメリカの政教分離」を今回、改めて書棚から取り出し、再読した次第です。全章に亘る解説ではありません。各章ごとに私が強く印象を受けた箇所を、またまた長く恐縮ですが御紹介いたしますので、ご容赦願います。

 

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アメリカの政教分離

 

 現在においてもアメリカの硬貨には「IN GOD WE TRUST」と刻印されているわけですが、宗教が日常の生活にも色濃く反映しているアメリカの生い立ち・成り立ち、更には今後を考える上で本書は大いに参考になると思います。本書の原題はPROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LANDで、自由とは何を意味するかを考えさせるものです。日本版「アメリカの政教分離」のタイトルはあくまで訳者が日本人向けに、本書の中身を表す為に表題としたものです。本書はアメリカの植民地時代から今日に至る憲法の修正第一条[信教の自由条項]および[公定条項]に関わる最高裁の判決文の歴史、その推移が描かれております。「訳者あとがき」を含めても150頁ですが、その内容はきわめて充実しており、改めてアメリカの生い立ちと現在を知る上で、私は参考になりました。

 

 著者エドウィン・S・ガウスタッド氏はカリフォルニア大学の歴史学・宗教学を専門とする碩学と言われている方です。尚、訳者の大西直樹氏は国際基督教大学でアメリカ文化を専門とする教授で、「訳者あとがき」のなかで、以下の通り記しています。

 

 ところで、日本語での政教分離という言葉と、その英語表記Separation of  Church and Stateという言葉の意味するところのギャップはきわめて大きい。日本語がもっている意味合い、そして大多数の日本人がこの言葉で思い描いているのは、政治と宗教が混交してはならないという理解である。つまり、それを逆に英語で表記すると、Separation of Religion and Politicsとなるだろう。ところが、アメリカにおけるこの英語のもともとの意味合いは、連邦国家と教会の分離であり、政治と宗教の混交が直接問題とされているのではない。(中略)・・州ごとに信教の自由を認め、州によって公定宗教をもつことをも認められた。又公定宗教をもたない州もありえた。このように、二重構造をもつ国家であるという特色のうえに、政教分離という概念ができあがったことを理解しておくことがまず肝要であろう。(148頁) 

 

更に「訳者あとがき」の冒頭では次のように記しています。

 

 合衆国憲法は1787年に制定された、現行の成文憲法としては世界最古の憲法であり、修正条項を加えたり廃止したりしながらも、この国家の骨格を220年にわたってつくってきたのである。これほど長い生命を保ってきた理由は、最高裁判事の憲法解釈が、社会的変動にある種の柔軟性をもって対応してきたためである。当然ながら、アメリカ合衆国も世界も刻々と激動しているのであるから、最高裁の判断は時代を追って揺れうごく。九人が一致した判断をくだす場合も、五対四、というきわどい僅差での分裂を含む判断もある。その判断のあり方に、この国の憲法の柔軟性と、国家そのものの変容が見てとれる。ことに、政教分離にかかわる問題にどのように答えてきたのかの判断にそれが如実に現れている。よくいわれるように、アメリカが信教の自由のために形成されたとするなら、この自由の追求と政教分離の関係はつねに緊張関係のなかで推移し、最高裁判事もこの関係のありかたに英知をかたむけてきた。(147頁)

 

 わが国を取り巻く世界の現実を無視したかのような、わが国のマスメデイアが喧伝する昨今の硬直化した憲法問題論議をあわせ考えると、彼我の違いを私は感じています。

 

 尚、本書は第1章「植民地 アメリカのなかのヨーロッパ」から始まり、第8章「エピローグ 最高裁とこれからの道」という構成です。アメリカの最高裁の位置づけについて、あまり詳しく知らない我々には第8章から読んだ方が、本書を理解できるように思います。

 

アメリカの最高裁判所

 

8章の冒頭で次のように述べています。

 

 一般に最高裁判所はかなり安定した機関だと受止められてきた。つまり、二年ごと、あるいは四年ごとに大量の新顔をうみだす選挙はない。ホワイトハウスあるいは議会の政治的統制が変化したとき、総辞職が要求されるわけではない。最高裁の判事はそれぞれ生涯の任命(深刻な不正行為を除いて)を受け、ほとんどの判事が65歳とか70歳の定年の目安をこえて奉職する。さらに、つねに成功しているわけではないが、最高裁は政府の立法府や行政府によくみられるような熱っぽい党派的行動を避けるように努めている。たとえば、合衆国大統領の年頭教書が読まれるとき、最高裁判事は正式な法衣を身につけ、特別な位置の席につく。議員たちが大統領の演説に拍手し声援をおくって中断させるのとはちがい、判事たちは大統領の演説のあいだじゅう冷静な態度を保つ。ところが、彼らの前に差し出された訴訟の審議となると、判事たちは冷静でも、まとまってもいない。彼らは対立する側の弁護士にむかって、時には鋭い質問を投げかけ、それぞれの気質のままにしばしば相手の発言を妨げる。一般人はこの部分の成りゆきをみることが許されている。ところがこの「公開法廷」が終わると、判事のあいだでの討論と調整は閉じられたドアの後ろで成され、報道人も一般大衆も出席できない。こうしてたいていは数ヶ月のちになって、意見が提出され、反対意見が記され、判決が宣言されるまで、最高裁の行動を一般大衆が目にする機会はやってこない。全国に向けて(ニューヨーク・タイムズのような)新聞がその結果を報告し、ある新聞はかなり詳細に報告をおこなう。数週間内には、図書館、ロースクール、政府文書保管庫に新刊の「合衆国最高裁判決判例集が」配布される。(139頁) 

 

 方や、奴隷解放運動の象徴的存在でもあるフィラデルフィアの[自由の鐘]は旧約聖書レビ記の聖句、[すべての国と、そのすべての住民に自由を述べ伝えよ]から来たものである。おびただしい数のアメリカ人が信教の自由こそすべての自由の基本、完全で豊かな自由のための根本的要素とみなし、この自由の保護と保全こそ 最高裁判所の特殊な責任であったこと。加えて、「黒衣の裁判官と大理石の法廷とが日常の生活からかけ離れていると感じるかもしれないが、実際はそれほど遠いところにあるのではないことを心していただきたい。われわれとしては宗教的・法的制度をよく知る必要があり、その力と同時に限界について敏感でなければならない。こと宗教となると熱心になる人びとは多い。また政治がからむと情熱的になる人も多い。民主主義とは、それを支える市民が如何に情報を分け合い、重要問題について如何に分別を持って討論し、将来のわれわれすべてのための枠組をどのように形成しるていけるかという能力にかかっている。」(4頁)と、信教の自由と民主主義の本質について極めて重要な指摘を著者が本書の序章で記しています。

 

 引き続き、本書について私なりに思うこと、感じたことなども触れながら紹介して参ります。

 

第一章 植民地 アメリカのなかのヨーロッパ

 

 アメリカの実験の真髄

 

 アメリカの宗教史を専門とする成城大の平井慶太氏によればアメリカ入植の意図は必ずしもピュウリタンが宗教的自由のみを求めていったものではなく、スパイス、金、銀更にはインドへの道を求めるといった経済的繁栄を目指したものであるとの見解をされています。

 

 本書ではピュウリタンを含めイギリス国教会、バプチスト、メゾジスト、クエカー、モルモン教、はては数々の新興宗教が信教の自由を求め13州で、あるいは各地でそれぞれの想いで立ち上げ宣教をしていったとしています。いずれにもせよ、北アメリカでヨーロッパによる植民地建設が始まったのは17世紀で、その頃のヨーロッパではプロテスタント宗教改革がいまだ100年を経過しておらず、渡来したばかりの入植者には、宗教的混乱の生々しい、痛々しい記憶が鮮明に残っていたわけです。

 

 従い、多くの入植者の親の世代はプロテスタント宗教改革に積極的に関わるか、あるいはその反対勢力のカトリックの改革運動に加わってヨーロッパをカトリックのもとにとどめ、捉えておこうと努め、互いに宗教観が精鋭化して、そこに更に忠誠心も加わり、血なぐまさい迫害や残酷な戦争を経験し、植民地であるアメリカでも魔女裁判、絞首刑等々といった迫害の経験を持ちながら、イギリス型の信教の自由がヨーロッパ型の単一国家教会形態にとって代わっていったわけです。そしてこの章の最後で次のように記します。

 

 18世紀の最後の四半世紀にはアメリカ革命のよって、こうした個々の植民地の暫定的な動きすべてが、模範とすべきモデルと目されるようになった。革命そのものが、明確に市民と信教の自由の達成に懸けていた。そして、植民地の多くの人々の目には、すべての中でもっとも切実な自由である魂の自由が保障されなければ、政治的自由といっても意味のないことがみえていた。しかも政治的暴君が王座にある限り、信教の自由は安定しない。あるいは、ジェイムス・マディソンが言うように、「旧世界では、宗教的対立を消すために世俗の武器による空しい努力によって、激流となるほど血が流された。・・・時がついにその本当の治療法を明らかにした。」のである。その治療法とは、新しき独立した国家における完全な信教の自由である。これこそが、「アメリカの実験」の心髄であったし、現在においてもそうありつづけているのである。(18頁)

 

 

第二章   新しき国家 アメリカの実験

 

 アメリカの独立とは何を意味したのか

 

 アメリカ革命から二世紀以上が経過してみると、この独立戦争が政治的自由だけでなく、信教の自由のためにも戦われたのだと信ずるのはむずかしい。植民地の住民は大英帝国の政治的専制君主に対する対抗を宣言したが、しかしその意味でどんな勝利があっても、もしアメリカ人が良心の自由を完全に享受できなければ、勝利はむなしかったことだろう。イギリスは歴史的に見ると、本国においても海外においても、その政治的意図と宗教的意図を並行してすべての臣民に押し付けていたが、1760年代と70年代、アメリカ人の多くは本国からの独立が達成されたならば、決してそうはさせない、と決心していた。(21頁)

 

 そしてこのアメリカ側の決意が最初に現れているのは、イギリス国教会の主教が植民地内に定住することへの拒絶であり、主教と彼らの宮廷を支えるために(イギリスでのように)税金を徴収されることの拒否に表われている、と述べています。我々にはなじみある印紙税法反対に端を発したボストンの紅茶事件もそのひとつ実例でありましょう。強力な海軍と陸軍を持った当時の世界の大国であるイギリスに、常設の陸軍も海軍も持たないアメリカが1776年の独立戦争に向かわせたのは市民的・宗教的自由を求める情熱的な献身がすべてであった分けです。 

 

 こうした背景の中で「1787年、合衆国憲法が13州のうち9州が批准に十分な賛成票を得て成立した。・・ただし宗教的少数者の多くは強力な中央政府が彼らの自由にとって何を意味するのか、あからさまに心配していた。」(33頁)    

 その憲法において宗教に言及しているのは第6条のたった一語、合衆国のどの役職、あるいは公職につくときも、資格として宗教審査を課さない、という否定的文脈においてのみで、他の基本的自由と並んで宗教には完全な自由を与えておらず、その後、諸州で論議がされ1791年に連邦議会は宗教の公定化、あるいは宗教活動の自由を禁ずる、いかなる法律も制定してはならないという修正条項を加え、この修正条項がその後200年以上にわたって最高裁やその他の法廷を支配することになった。その意味合いを理解しておくことが肝要であると、著者は指摘しています。

 

 すなわち議会は宗教を公定化する、いかなる法律も制定してはならないという公定条項と国家政府に、ひとの宗教的献身あるいは信仰を、妨害したり抑圧することは何も出来ない自由行使条項という、信教の自由には二重の保障を与えているわけです。そして今日に至るまで「法廷と教会、一般市民がこのふたつの条項と何度も格闘し、全員の一致あるいは議論の余地なしのひとつの解釈に至ること(すくなくとも最近何十年のあいだは)きわめてまれなのである。」(35頁)と、この章を纏めています。

 

以下【後編】に続く

 

2016年1月12日

                                                                                            清宮昌章 

  参考文献

 エドウィン・S・ガウスタッド「アメリカの政教分離」(大西直樹訳 みすず書房

マイケル・ピルズベリー「China 2049」(野中香方子訳 日経BP社)

中澤克二「習近平の権力闘争」(日本経済新聞出版社

平井慶太「アメリカの歴史と社会」(武蔵大ゼミ講義録)

工藤庸子「宗教VS・国家」(講談社現代文庫)

中村雄二郎「宗教とは何か」(岩波現代文庫

末松文美士「日本宗教史」(岩波新書

サミュエル・ハンチントン分断されるアメリカ」(集英社)他